ソーの戦い/ル・プレシ・ピケとシャティヨン小堡塁の攻防~パリ南面包囲の開始
ル・プレシ・ピケの西と南に独軍が進出した頃。既にその東側、ソー周辺にはB第2軍団主力が進出していました。
B第5旅団(B第3師団)は9月19日午前8時、アントニーを越えて北上しシャトネー(=マラブリ。ソー公園の西側)の南東側へ進みます。前衛となったB猟兵第8大隊はアントニーからヴェルサイユ街道(現国道D986号線)までの間に展開していた仏軍前哨を掃討しつつシャトネーに達しました。B第5旅団の後にはB第4師団(B第7、8旅団)が続き、軍団砲兵と共にアントニーからヴェルサイユ街道のクロワ・ドゥ・ベルニー交差点までに進みます。
B猟兵と共にシャトネーに到着したB第2軍団長フォン・ハルトマン将軍は「パリ南面の諸堡塁を俯瞰するヴェリエールの森やムードンの森高地を速やかに占領するため」、午前9時、B第7旅団はフォントネー=オー=ローズ(ソーの北北西1.7キロ)を、B第5旅団はソーをそれぞれ占領し、仏軍前線付近まで北上するよう命じるのでした。
命令を受けた後、直ちに進軍したB第5旅団の先鋒、B第6連隊の第3大隊は、仏軍が去ったため全く抵抗を受けることなくソーの部落を占領します。
他方、B第7旅団の前衛となったB第5連隊第1大隊と軽騎兵1個中隊は敵を捜索しつつ前進し、ライ=レ=ローズ(ソーの東3.3キロ)では仏兵を見なかったものの、フォントネー=オー=ローズ前面で仏第14軍団第3師団(ドゥ・モーション少将)前衛と遭遇し一時戦闘状態となりました。すると東側から榴弾砲撃が始まり、大隊は戦闘を切り上げ遮蔽物に籠ります。これは東側4キロ付近にあるオート・ブリュイエール小堡塁の要塞重砲砲撃でした。この時、フレンヌ(ソーの南東3.4キロ)に到着したB槍騎兵旅団もこの厄介な小堡から榴弾攻撃を受けています。
オート・ブリュイエールの堡塁
B第5旅団本隊はシャトネーからソーへ進む途中で、西側ル・プレシ方面から銃砲火を浴びせられました。旅団はこれに反応し、追従していた師団砲兵でB砲兵第4連隊の4ポンド砲第4中隊と6ポンド砲第7中隊がシャトネー西郊に砲列を敷き、直ちにル・プレシ方面の敵へ砲撃を開始しました。しばらく後には、この砲列に軍団砲兵隊(B砲兵第2連隊)より6ポンド砲第7中隊が加わり、B第6連隊第1大隊は、1個中隊を砲兵援護に残すと、友軍が確保するマラブリより敵の側面を攻撃するよう命令されるのでした。
B軍のフォン・ハルトマン大将は、午前9時45分に戦線西部(プティ・ビセートル方面)で戦うB第6旅団長フーゴ・フォン・ディール大佐からの報告(午前8時頃)を受けます。これを運んだ伝令が遅れたのは、マラブリから東へ抜けるヴェルサイユ街道が仏軍の激しい銃砲火に晒されていたため、イニー~ヴェリエール(=ル=ビュイッソン)へ大きく迂回してシャトネーへ向かったためでした。
この報告でハルトマン将軍は「ディール支隊は目標のプティ・ビセートルを押さえたものの砲兵と東からの援軍を求めている」と理解し、軍団の主攻方向を一時北から西へ変更する事に決し、直ちにアントニーで控える軍団砲兵より6ポンド砲第5と第6中隊を抽出するとヴェリエール経由でプティ・ビセートルへ向かわせ、同時にB第5旅団には、シャトネーから西へ向かって敵を排除しつつB第6旅団との連絡を図るよう命じ、B第7旅団には軍団の右翼側警戒のためにブール=ラ=レーヌ(ソーの東北東2キロ)まで進んで拠点を確保せよと命じるのでした。
この命令でB第7旅団はソー市街からロンジュモー街道(現国道D920号線)脇のブール=ラ=レーヌまでに展開し、同時に2個中隊をライ=レ=ローズへ送り拠点とします。軍団予備となっていたB第8旅団は、軍団砲兵主力と共にシャトネー付近まで進みました。
一方、B第5旅団のB第7連隊(2個大隊のみ)はマラブリへ先行したB第6連隊(第1大隊のみ)を追って西へ進み、この行軍を知ったB4ポンド砲第4中隊も、砲撃には不利だったシャトネー西郊外の低地砲列を離れ、敵に接近するため追従するのです。
これら3個大隊と砲兵の行軍縦列がマラブリに達した時、直ぐ北方のル・プレシ城園に籠もる仏マルシェ第15連隊から猛銃砲火が浴びせられました。しかし同行したB第3師団長ヴィルヘルム・ヴァルター・フォン・ヴァルターシュテッテン中将は戦線の状況を直接観察した後、「師団はマラブリ~パブ・ブラン間に戦線を構築した後、ル・プレシ・ピケの敵に対し一斉攻撃に掛かれ」と命令するのです。同時に将軍は、ビラクブレーで待機する普軍(既に午後ヴェルサイユへ向かうことが決した諸隊を除く)に対し援護を要請するのです。
この命令に接したB軍諸砲兵は先に行動を開始し、B第7連隊兵に援護される4ポンド砲第4中隊はル・プレシ城園に面したマラブリ北郊に砲を敷き、護衛の歩兵はル・プレシの風車場(プレシ・ムーラン。マラブリの北東800m付近にありました)に続く道路(現ムーラン・フィデル通り)の排水溝に陣取って散兵線を敷きました。
パブ・ブラン付近では砲撃を続けていた4ポンド砲第3中隊が軽騎兵第5連隊第3,4中隊の援護下、ル・プレシ城園から750mまで接近して砲を敷き直し、6ポンド第5中隊はその南側に回って砲を敷きました。
この移動の際、B槍騎兵旅団から増援に送られていた軽騎兵第5連隊の第1,2中隊は、バイエルン王国の王太弟で、第5連隊の名誉連隊長(連隊の称号)となっていたオットー親王*が率い、ル・プレシ・ピケの西郊にいた仏軍散兵を襲撃して部落へ追い払っています。
同時にシャトネーの西に砲列を設けていたB第3師団砲兵の6ポンド砲第7中隊は、その内の2門がル・プレシ・ピケの仏軍に対し照準が上手く合い、効果的な援護射撃を行いました。
この時、午前中の激戦で砲撃を続けたB6ポンド砲第8中隊は砲弾を撃ち尽くして後退し、シャトネーに進んだ6ポンド砲第6中隊は適当な砲撃陣地を見つけられずに待機を続けました。軍団砲兵の6ポンド砲第7中隊は独りシャトネーの西郊で砲撃を続行していました。
最前線で仏軍陣地を直射し続ける4ポンド砲第4中隊の後方では、B第5旅団の3個大隊がヴァリエールの森に集合後前進を開始し、この内B第6連隊第1大隊は正午頃激しい白兵戦の後、ル・プレシ風車場を占領します。この時、元よりこの地で攻撃を行っていたディール大佐のB第6旅団諸大隊は、各隊が入り組んだ状態でル・プレシ・ピケ南方の荒野に展開していました。
B第15連隊長のフリードリヒ・フォン・トロイベルク大佐はB第6連隊第1大隊が仏軍左翼(東側)の一角を奪取するのを見ると、この混交したB第6旅団の一部(B第15連隊第1大隊とB第14連隊第2中隊)を率い、シャスポー銃の猛烈な乱射の中、ル・プレシ城園南西端から250mにまで接近します。この動きに同調したB第14連隊の第2大隊も一気に前進し、城園の西側隔壁に取り付きました。この間、軽騎兵第5連隊の第1,2中隊はB軍戦線の後背となるムードンの森方面を警戒しています。
このB第6旅団の攻撃はおよそ30分間に渡って続き、猛烈な銃撃戦に疲弊した仏軍が僅かに銃撃を弱めるのを感じ取ったB軍諸中隊長らは自然と一斉に突撃を命じ、これを知ったB第6連隊第1大隊も、前線にあったB第7連隊長エドムンド・ヒュフラー大佐の一声で突撃を敢行し、B軍諸兵は付近のシャトー・ルージュ(風車場の北200m)とアシェット(現アンリ・セリエ公園内)2つの城館に飛び込むとこれを占領しました。この両城館に続く森林(現アンリ・セリエ公園)は、北のシャティヨン小堡南にある電信所のある高地下まで続いており、これでB軍はシャティヨン小堡周辺に籠もる仏マルシェ第26連隊の防御陣にも脅威を与えることになりました。
当時のシャティヨン小堡塁
B軍砲兵は歩兵の前進中、その目標をル・プレシ城園の隔壁に変更し、盛んに砲撃を繰り返して城園南側の隔壁の一部を破壊することに成功しました。これに同行していたB第2軍団工兵が突進して取り付き、隔壁の「穴」を拡大するのです。
突破口を穿つことに成功したB軍諸隊は、戦線中央にいたB第7連隊とB第15連隊の中隊を中心に隔壁へ殺到し、一部は道路を塞ぐ鹿砦やバリケードを破壊し乗り越えて遂に城園内へ入るのでした。
この時B軍左翼側の部隊は、城園の南西端に殺到したものの突破口を発見出来ず、これら諸隊はル・プレシ・ピケ部落の西側へ転じ、こちらで浮き足立つ仏軍を掃討しつつ部落内へ突入するのでした。
こうしてマルシェ第15連隊を中心とするル・プレシ・ピケの仏軍拠点は陥落し、仏軍の生き残りは急ぎシャティヨン小堡へと撤退して行きました。直後にシャティヨン小堡や「電信所高地」の仏軍砲兵が猛烈な榴弾砲撃を開始し、ル・プレシ・ピケのB軍に情け容赦なく砲弾が降り注ぎますが、B軍はこの砲火をものともせずに前進を強行、B第14連隊第2大隊と第2中隊の将兵はル・プレシ・ピケ部落北方の樹林と農園が続く高地斜面を登り始め、B第15連隊の2個中隊はその右翼(東)側を進み、反対側の左翼ではリッター(騎士)の称号を持つフォン・リュスル大尉率いる4ポンド砲第3中隊が、軽騎兵第5連隊第3,4中隊の護衛を受けつつポルテ・ドゥ・シャティオン(クラマールの南にあった一軒農家。ル・プレシの北北西1.2キロ付近。現アントワーヌ・ベクレール病院の敷地内)へ接近しました。
リュスル大尉はシャティヨン小堡(1,200m離れています)からの銃砲撃を受けつつも、反撃の榴弾砲撃を繰り返しつつポルテ・ドゥ・シャティオンまで前進し、小堡西側のコミュナル墓地に隠れて砲撃を繰り返していたミトライユーズ砲中隊を発見すると砲戦を挑み、見事にミトライユーズ砲中隊を後退させたのです。
しかし、この最初の戦闘ではリュスル中隊側にも被害が続出し、午後1時15分、このB4ポンド砲中隊は一時800m程度南へ後退することになります。しかし、再び歩兵の攻撃前進が始まるとリュスル隊は引き返し、効果的な援護砲撃を繰り返すのでした。
この歩兵攻撃は当初仏軍の反撃に遭遇して一部がル・プレシ・ピケへと押し戻されますが、フォン・イムホッフ大尉が手近の兵を率いて前進すると、大尉の隊はシャティヨン小堡の目前まで迫ることに成功し、遮蔽物の陰から銃撃戦を行うことが出来たのです。
しかし、イムホッフ隊に付き添って前進し援護射撃を続けたリュスル大尉の4ポンド砲中隊では、その1個小隊(砲1門)の砲員が全員倒れ、砲手長一人で砲撃を繰り返し、その他の小隊も砲員の多くが死傷するという苦戦となり、フォン・リュスル大尉も銃砲弾を浴びて致命の重傷を負い、間もなく戦死を遂げてしまうのでした。
イムホッフ大尉率いる中隊規模の混成集団以外は、B第3師団長のフォン・ヴァルター中将が集合を命じ、ル・プレシ・ピケ周辺で抑えた仏軍陣地に入ってこれに更なる防御を施し始めました。
シャティヨン小堡を目指すバイエルン砲兵と騎兵
この時、仏第14軍団では。
ル・プレシ・ピケがB軍に占領され、シャティヨン小堡付近から猛烈な砲撃が行われた頃、午前中に普第5軍団とB第6旅団から「こてんぱん」に叩かれてしまいムードンの森南縁から退却したコーサード少将が、麾下師団にパリ市内への撤退を命じていました。
全く戦意を失ったかに見えるコーサード師団の「相方」、デューグ少将師団は既にモンルージュ分派堡塁に向け撤退中でしたが、途中で我に返ったのかデューグ少将は麾下部隊を止め、師団はフォントネー=オー=ローズ付近で踏み留まり周辺に再展開するのでした。
残るモーション少将師団はこの日午前中、シャティヨン小堡に進出したマルシェ第26連隊を中心にアントニーから北上するB第2軍団主力に対し銃砲撃を加えていましたが、「誤解から生じた命令」(独軍の解釈)によって有利なバニュー南方の高地から早々撤退してしまいました。
この動きによってB第7旅団は、全く妨害されずにソー市街からブール=ラ=レーヌまで戦闘展開する事が出来たのです。
一方、デュクロ将軍はル・プレシ・ピケの喪失を知ると、パリ南西方高地最後の拠点となったフォントネー=オー=ローズと、シャティヨン小堡と電信所を中心とするドゥ・ラ・トゥール風車場高地(風車場自体は小堡の直ぐ後方にありました)も包囲の危険が高まったと見て、午後1時30分頃「暫時拠点から分派堡塁群へ撤退せよ」と命じました(デュクロ将軍は撤退するつもりなどなく、撤退はトロシュ将軍が命じて渋々それに従った、との説もあります)。
この撤退は最前線の歩兵部隊(マルシェ第15連隊)から始まり、仏軍砲兵は撤退援護のため暫くはシャティヨン小堡付近から退かずに午後2時過ぎまで砲撃の手を緩めず、その後段階的に陣地を去って行きました。
シャティヨン小堡の面前に張り付いていたB軍のイムホッフ大尉は、仏軍の撤退をいち早く知り、周辺のB軍将兵を率いると午後3時、銃砲撃の途絶えたシャティヨン小堡を襲撃します。しかし既に仏軍は撤退した後で、イムホッフ大尉は重砲8門、野砲1門、隊旗2旒、そして大量の装備品や糧食を鹵獲しました。兵士らは小堡の塁壁上に登ると、パリへ撤退する仏軍に対し背後から銃火を浴びせたのでした。
なお、仏軍が残した大砲は火門に大釘を差して使用不能とした2門以外、即使用可能な状態でした。馬匹が足りなかった仏軍は重砲を運ぶことを諦め、また急ぎ撤退したため破壊も十分に行えなかったのです。
イムホッフ大尉が放った斥候は、シャティヨン小堡周辺の農家を捜索し敵が潜んでいないことを確認すると、クラマールとシャティヨン両部落内にも侵入し、既にこの地からも仏軍が去ったことを報告するのでした。
シャティヨン小堡が陥落し、ひとまず戦闘が終了したことを知ったB第3師団長ヴァルター将軍は、シャトネーとソーの守備に当たっていたB猟兵第8大隊とB第6連隊第3大隊に後述の命令を与え、B第6旅団と砲兵5個中隊でシャティヨン小堡とドゥ・ラ・トゥール風車場の南方高地を守備させました。
この時、B猟兵第3大隊の2個中隊とB第14連隊第2大隊は、工兵の援助を受けてシャティヨン小堡内を整理し防備を固めます。B猟兵第3大隊の1個中隊はシャティヨン部落へ派遣され、この街で多数の弾薬運搬車両と少量の糧食が打ち捨てられているのを発見しました。
シャトネー守備にあったB猟兵第8大隊は砲兵1個中隊と共にトゥール・ドゥ・アングレスの一軒農家(シャティヨン小堡の北西側、墓地の隅にありました)に進み、クラマールへ前哨を送りました。
同じくB第6連隊第3大隊は軽騎兵第5連隊と砲兵1個中隊を引き連れてポルテ・ドゥ・シャティヨンに進み、未だ何が潜んでいるか分からない広大なムードンの森方面を警戒するのでした(実際、この時には未だ森林中のムードン城には仏軍守備隊が頑張っていました)。
B第5旅団の残りはル・プレシ・ピケやマラブリ周辺で野営となりました。
B第7旅団(B第4師団所属)はブール=ラ=レーヌに集合し、仏デューグ師団が去った後にフォントネー=オー=ローズにも守備隊を送り、同師団残りのB第8旅団は軍団砲兵隊主力と共にシャトネーで戦闘態勢を解かずに待機、宿営となりました。
またフォン・ハルトマン将軍のB第2軍団本営もシャトネーで宿営し、B槍騎兵旅団はフレンヌ周辺で野営するのでした。
フォントネー=オー=ローズの市街
この19日正午過ぎのパリ市内は、野戦軍敗退の証拠(多くの兵士たちが「ティエールの城壁」の一般門から集団を作って街に入り、一部は秩序が乱れて恐慌状態を露わにしていました)を市民たちが目撃し、人々は街に出て右往左往し、パリは大混乱と風説が飛び交う不穏な状況に陥ります。
トロシュ将軍は秩序回復のため仏第13軍団のブランシャール少将師団をヴァンセンヌからパリ市内へ呼び入れ、師団は秩序だった行軍を見せ付けて街を抜けると、セーヌ川からビエーブル川までのティエールの城壁で国民衛兵に代わって守備に付き、市民を安心させるのでした。
この時、「敵がいる・いない」に関わらずパリ南面の各分派堡塁とオート・ブリュイエール小堡は、その南面の独軍占領地に向けて砲撃を繰り返し、住民に「戦う姿勢」を示すことでトロシュ将軍ら国防政府は何とか市内の秩序を回復するのでした。
この19日に発生したパリ南面シャティヨン周辺の戦いを、独軍は「ソーの戦い」仏軍は「第一期シャティヨンの戦い」と呼称しますが、一般には「プティ・ビセートル及びシャティヨン(小堡塁)の戦い」と呼ばれます。
仏軍の損害は、士官4名・下士官兵94名が戦死、士官28名・下士官兵535名が負傷、行方不明は62名となっていますが、実際にB第2軍団はこの19日の捕虜を300名余りと報告しており、行方不明(捕虜)の数に齟齬があります。
独軍の損害は、B第2軍団が士官7名・下士官兵65名の戦死、士官6名・下士官兵166名の負傷、行方不明は下士官兵21名(馬匹の損害は51頭)、普第5軍団は士官1名・下士官兵52名が戦死、士官5名・下士官兵118名が負傷、行方不明は下士官兵2名(馬匹の損害は49頭)、騎兵第2師団(驃騎兵第1連隊第2中隊)の損害を併せた合計として、士官8名・下士官兵117名が戦死、士官11名・下士官兵285名が負傷、行方不明は下士官兵23名(馬匹の損害は104頭)と記録されています。
☆ 19日独第三軍の行軍
プティ・ビセートルとシャティヨン小堡でパリ攻囲における独仏最初の大規模な衝突が発生していた頃、独第三軍の他の部隊は着実に包囲網を完成させました。
○ 普騎兵第2師団
19日早朝、この日の軍命令を実行するため師団はサクレー(ビエーブルの南西4.1キロ)から騎兵第4旅団をロテル・デュ(同西南西14.1キロ)へ送り、旅団は驃騎兵第1「親衛第1」連隊から第2中隊を選び、中隊はビラクブレーを経由して普第5軍団と連絡を図ります(既述)。同時に旅団はセーヌ川に沿って下流域へ斥候を放ちました。
斥候隊のひとつ、驃騎兵第1連隊の第1中隊はヴェルサイユ、モントルイユ(ヴェルサイユ宮殿の東北東2.3キロ)、ヴィル・ダブレー(同北東5.5キロ)の各部落入り口付近で少数の国民衛兵部隊と遭遇し、彼らを駆逐するか武装解除を行い放逐しました。
セーブルの街(同東北東7キロ)では驃騎兵第5「ポンメルン/侯爵ブリュッヒャー・フォン・ワールシュタット」連隊の斥候隊が武装した民衆から銃撃を浴びせられますが、直ぐに同連隊の第4中隊が駆け付け、武装住民を排除し鎮圧しています。
これら斥候隊は、午後には全て無事に帰隊して、サクレー付近で野営を続ける師団に合流しました。
○ 普第5軍団
正午頃にプティ・ビセートルとビラクブレーからヴェルサイユに向かったキルヒバッハ将軍の軍団は、まずは全軍の縦列をジュイ(=アン=ジョザ。ビラクブレーの南西3キロ)へ向けます。当初予定されたロテル・デュ(ビエーブルの西南西14.1キロ)経由の街道(現国道D36~906号線)は、斥候の報告により諸処で路面が破壊され、鹿砦などの障害物で塞がれていることが判明したからでした。
先頭を行く第10師団(第19、20旅団)は午後3時にヴェルサイユ市街に到着し、何ら妨害を受けずに部落を抜け、その北方ロカンクール(ヴェルサイユ宮殿の北3.7キロ)周辺で宿営に入りました。その前哨は左翼(北側)がブージバル(同北6.6キロ)で北に湾曲するセーヌ川に達し、右翼は第9師団と連絡します。
その第9師団(この時は第17旅団中心)は第10師団の南側に進むと、マルヌ(=ラ=コケット。ヴェルサイユ宮殿の北北東4.1キロ)~ヴィル=ダヴレー(マルヌからは東南東へ2.6キロ)~セーブルに布陣し、師団主力はヴェルサイユ宮殿の東門前に野営しました。
B軍支援のためビラクブレー~ムードンの森に残っていた第18旅団は、ル・プレシ・ピケが陥落した頃合いで後をB軍に任せて戦場を離脱し、午後6時頃ヴェルサイユに到着します。また、ビルヌーブ=サン=ジョルジュに架かっていた軍団舟橋は、この地を任地とする普第6軍団の架橋が完成し、野戦部隊の渡河が完了したため外すことが可能となり、第5軍団の架橋縦列は19日昼頃に舟橋を撤収すると、午後8時にヴェルサイユへ至りました。
舟橋を渡る独軍
○ 普第6軍団
この日、テューンプリング将軍の軍団は、ソーの西側で戦うB第2軍団の東側へ進み、セーヌ川を挟んで展開しました。
第24旅団は竜騎兵第8「シュレジエン第2」連隊の2個中隊、師団の砲兵1個中隊を付されてリメイユ(=ブレバンヌ。クレテイユの南南東5.3キロ)周辺に駐留し、前哨はシャラントン分派堡塁やヴァンセンヌ方面監視のためにマルヌ「巾着部」の南からセーヌ河畔に掛けて展開しました。この前哨部隊はこの日、サン=モール=デ=フォセ(巾着部口部分。クレテイユの北北東2.2キロ)周辺に残っている仏軍前哨と小競り合いを起こしています。
セーヌを渡河して左岸に渡った第23旅団は、軍団より普猟兵第6「シュレジエン第2」大隊、竜騎兵第8連隊の残り2個中隊、師団の砲兵2個中隊を加えられて強力な支隊となり、包囲線を作るため午後4時にショアジー(=ル=ロア。セーヌ左岸、クレテイユの南西5.2キロ)~シュビイ(=ラリュ。ショアジーの西北西4キロ)目指して北上しました。
支隊右翼(東)となった猟兵大隊はショアジーへ進み、前哨として第4中隊をビトリ(=シュル=セーヌ。ショアジーの北北西3.5キロ)への街道(現国道D274号線)へ派出します。中隊は街道筋に居残っていた仏軍前哨を駆逐し、部落北郊外の街道に沿って走る鉄道堤脇にあった工場を占領して、普軍の前進に気付いてビトリ方面から来襲した仏軍を撃退しました。ほぼ同じ頃、猟兵大隊他の2個中隊はビトリ部落の北端まで進み出ましたが、ディブリー分派堡塁周辺に駐留する強力な仏軍部隊の存在は侮れず、夜を前にショアジーまで撤退しています。
同じく支隊中央を行く普第62「オーバーシュレジエン第3」連隊F大隊はティエイ(ショアジーの西1.5キロ)に入り、その第9,11中隊は部落北方で無警戒のまま炊事中だった仏軍前哨部隊を襲撃し、慌てて敗走する敵を追いサケー風車場(ビトリの西南西1キロ付近。現存しません)の面前まで進みましたが、ビルジュイフからビトリへと延びる仏軍防衛線に展開する歩兵と砲兵から猛銃砲火を浴びたため追撃を諦め引き返しました。
支隊左翼を進んだ普第22「オーバーシュレジエン第1」連隊はシュビイを占領し、この銃撃音を聞くと第1大隊を前進させますが、直ぐに旅団長のヴィリアム・ハウゼル・フォン・ギュンデル大佐からこれ以上の戦闘拡大を避けるよう命じられ、部落北郊外に留まりました。
午後3時30分になると、ビルジュイフ周辺に駐留していた仏第13軍団第2師団(ドゥ・モーユイ少将)が動き出し、その前衛がオート・ブリュイエールの高地からラ=ソセイユの一軒農家(シュビイの北東1キロの街道脇にありました。現在はビジネスホテルが建っています)とシュビイに向かって来ます。仏軍左翼(東)部隊は普軍前線から離れた位置に止まりますが、右翼(西)部隊はシュビイ部落から数百mにまで接近して遮蔽に隠れ、部落を守備する普第22連隊F大隊はこれに対し銃撃を浴びせました。この時、旅団に同行していた軽砲第6中隊は同連隊第2大隊が布陣する部落東の交差点(部落の東南東900m)付近にあった工場横に急ぎ砲列を敷き、重砲第5中隊はラ=ベル=エピンヌ(シュビイの南南東2キロ。現ショッピングセンター付近)の東で砲列を敷きました。軽砲中隊の急射撃はラ=ソセイユ農家まで進んだ仏軍を撤退させ、重砲と共にビルジュイフを砲撃して部落周辺に展開していた仏軍砲兵列の重砲1門を破壊、部落の家屋数軒に火災を発生させました。
この後普第23旅団は仏軍を押し戻すため一斉前進を開始し、進み出ていた仏軍部隊はことごとくがオート・ブリュイエール小堡を基点とする防衛線内へ引き返したのでした。
夕刻になると普第23旅団はショアジー~ティエイ~シュビイの線で包囲を開始するための防御施設工事を開始し、軍団工兵はショアジーへ進むと、この地のセーヌ川で渡船を始めました。
この日、第11師団は第23旅団の直ぐ南側、現在のオルリー空港北辺周辺で野営するのです。
遮蔽の陰で戦う仏軍戦列歩兵
○ ヴュルテンベルク王国(W)師団
師団はこの日、大本営命令によって正午頃マルヌー(クレテイユの東北東11.4キロ。池のある庭園南側)からグルネー(=シュル=マルヌ。同北東12キロ。マルヌ河畔)に至り、この地でマルヌ川に架橋し、同時に対岸にいる第12「S」軍団と連絡を通します。
しかし状況は流動的で、この頃(19日午後)にはマース軍の戦線は比較的平穏となっていたため、W師団はその第1旅団を西側普第6軍団の援助に回すこととなり、オルムッソン(=シュル=マルヌ。巾着部南東。クレテイユの東6.6キロ)~ノアジー=ル=グラン(同北東9.8キロ)間の部落を占領すると前哨をジョアンヴィル(=ル=ポン。巾着部口東)の東郊外へ進ませ、西端が落ちていて通行不能のマルヌ橋梁を偵察させました。
この日、W第2旅団は予備となってマルヌーに留まり、W第3旅団はモーからラニー(=シュル=マルヌ。モーの南西15.5キロ)へ進み宿営しました。
○ 普騎兵第10旅団(普騎兵第4師団)
旅団は捕虜から得た情報により、仏軍の強力な義勇兵部隊がオルレアンに通じる街道(現国道D410号線)沿いのミリ=ラ=フォレに駐屯していることを知り(既述)、これを避けるために大きく西へ迂回することとして、前日の宿営地ペルトから西へ進んでブティニ(=シュル=エソンヌ。ムランの南西23.5キロ)からエソンヌ川に沿ってジロンヴィル(=シュル=エソンヌ。ブティニの南7.2キロ)へ向かいました。しかし、行軍中に斥候から「ミリ=ラ=フォレの敵はマルゼルブ(ミリの南12.6キロ)へ撤退した」との報告が入り、この日の行軍は無駄な迂回となってしまったのでした。
○ 独第三軍本営、独大本営
普王国フリードリヒ皇太子は独第三軍本営を率い、第21旅団と一緒にセーヌを渡河すると、クロワ・ドゥ・ベルニー交差点とアントニーの間に到達し、この地でB第2軍団の戦いを観戦しました。シャティヨン小堡が陥落するのを見届けた皇太子は、パレゾー(アントニーの南南西6.5キロ)へ向かい、この日はここで宿営しました。
普国王ヴィルヘルム1世は普近衛軍団戦区のゴネスでマース軍の包囲陣完成を見届けた後、フェリエール(=ザン=ブリ。モーの南西20キロ)にあるパリ・ロチルド家(ロスチャイルド一族)の始祖ジャコブ・マイエール・ドゥ・ロチルド男爵が1859年に建てた美しい城館に入り、同日、大本営もモーからこの城へ移されました。
こうして9月19日夜には独軍6個(近衛、第4、第12、第5、第6、B第2)軍団と3個騎兵(第2、5、6)師団により、総延長およそ80キロに及ぶ包囲網の原形が完成します。
また、セダンからパリへ向かった「フォン・デア・タン軍」は19日にはあと数日で包囲網に参加出来る距離にまで接近していました。
※「フォン・デア・タン軍」の行軍
〇普第11軍団
17日 フィム(ランスの西北西26キロ)
18日 ドルマン(同南西35キロ)
19日 シャトー=ティエリ(ドルマンの西17.5キロ)
〇B第1軍団
17日 オルベ=ラベイ(ドルマンの南南東14.5キロ)
18日 ヴィエル=メゾン(シャトー=ティエリの南16.8キロ)
19日 クロミエ(モーの南東22キロ)
〇普騎兵第8旅団(普騎兵第4師団)
17日 モンミライユ(シャトー=ティエリの南南東22キロ)
18日 サン=レミ(=ラ=ヴァンヌ。クロミエの東11.2キロ)
19日 ラ・クロワ=アン=ブリ(同南24.5キロ)
〇普騎兵第9旅団(普騎兵第4師団)
17日 ル・ブレイユ(ドルマンの南11キロ)
18日 ヴィレ=レ=マイエ(モンミライユの西南西12.2キロ)
19日 ジュイ=ル=シャテル(クロミエの南16.8キロ)
※バイエルン王国オットー王太弟
オットー1世
正式な名前は、オットー・ヴィルヘルム・ルイトポルト・アーダルベルト・ヴァルデマー・フォン・ヴィッテルスバッハ。
ミュンヘン聖母教会で大司教が執り行うミサに狩猟服を着て乱入し大司教の前に跪いて許しを請う……朝、起きがけに窓から通りがかりの農民を狙撃するのが日課だった……等々、兄王に劣らぬ「ぶっ飛んだ」親王、と伝えられますが、実際は廷臣たちから「狂王」と忌み嫌われた兄と同じく、重臣たちと叔父ルイトポルトや従兄ルートヴィヒに散々操られ、「狂気」も追い詰められた結果だったのではないかと疑われる可哀想な方だった、と言う方が真実に近いのではないかと思われます。
普王国やザクセン王国にメクレンブルク=シュヴェリーン大公国やヘッセン大公国など、王族が軍を率いて活躍する国や、ロイス家やザルム=ザルム家など王子や世継ぎが戦死する大貴族など、この戦争で血と汗を流し領主としての義務を果たす貴族家が多い中、王国軍は奮戦するものの、そこで王族が全く目立っていないことを重臣らが憂慮した挙句に背中を押されたものか、オットー王子は9月上旬にミュンヘンからやって来て従軍しました。当時22歳で大佐の階級(1866年から)を持っています。
しかしこの戦争後、王子は不眠と鬱を発症して人見知りが激しくなり、兄と同じく王室医師の管理下に置かれることとなりました。
後に兄ルートヴィヒ2世の廃位(1886年6月。直後に謎の水死)によりバイエルン王(オットー1世)となりますが、その時には既に精神を病んで世捨て人同然となっており、治世当初から摂政である叔父と従兄が政治を司り、その在位中自ら国を導くことはなく、ミュンヘン郊外の離宮、フュルステンリート宮殿に幽閉されていました。しまいには兄と同じく「精神を病んでいる」ことを理由に、改正された憲法に則って摂政だった従兄のルートヴィヒ(3世)により、第一次世界大戦の直前に王位を奪われてしまいます(1913年)。第一次大戦最中の1916年10月、腸閉塞により死去。享年68。兄と同じく生涯結婚しませんでした。
オットー1世が幽閉されていた頃のフュルステンリート宮殿
悲劇のオットー王子は、戦場に立つことを拒んだ兄と同じく軍隊は嫌いだったのではないかと想像されます。普仏戦争に従軍したことで完全な狂気に陥ったと考えられますが、繊細な王子は見たくもない悲惨な戦場の有様を目の当たりにしたことで、彼の「限界」を超えてしまったのではないでしょうか。
このル・プレシ・ピケ前面での活躍も全くのプロパガンダで、騎兵の指揮を執ったのは形ばかりだったものと想像されます。
シュヴォーレゼー騎兵の制服を着たオットー王子




