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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリへ!
330/534

独軍のパリ包囲開始(前)

 独軍がパリを目指して進撃中、仏国内部の状況は大した労なく(おしゃべりな仏国内報道や案外正確な外国報道が主な情報源となります)普参謀本部に入って来ました。政変後のパリが急速に「要塞化」していることやロワール川方面で一個野戦軍が編成されつつあることは9月中旬時点で独大本営が承知していたことで、大本営ではパリ攻略の作戦をどうするのかと言う議論も高まって来ました。


 普参謀総長モルトケ歩兵大将はセダン会戦後の数日間、仏の政変を見極めた後、「セダンの後始末を終えた後にパリに対する総攻撃を仕掛け、一気に敵首都を攻略すること」を構想します。この時モルトケはベルリン在の陸軍大臣ローンに対し「9月下旬にはパリに対する総攻撃を開始したい」と予告し、事前・援護砲撃のため攻城・要塞重砲の輸送を手配していました。

 ところが、パリの防備はその兵員こそ訓練未了の国民衛兵や護国軍*に頼るところが大きかったとはいえ、乗り越えることが困難なティエールの城壁や16個に及ぶ分派堡塁の存在は無視出来ず、強引に攻め込んでも犠牲に対する効果が薄いことでは大本営(政府)・参謀本部(軍部)共々意見の一致を見ています。しかも、この攻撃が明らかな失敗ともなれば、これまでの独軍圧勝という「空気」は一変し、戦争の行く末に影響を及ぼす可能性すら浮上してしまいます。


 そこで独大本営では、ひとまずパリを厳重な包囲下に置き、その後の処置決定を「先送り」することとしました。

 同時に大本営は、9月中旬におけるパリ包囲に宛てることが可能な兵力(戦闘員約15万名・野砲620門)のみでは、セダンからやって来る「フォン・デア・タン軍」を併せても包囲とその解囲を狙うであろう仏の「ロワール新野戦軍」両方に対するには不十分であると考え、兵力の増大を計ることを決しました。


 とは言っても、既に戦略予備と化していたバルト・北海沿岸の防衛兵力もほぼ全てが前線に招集済みで、旧ラントヴェーアの後備軍部隊にしても、占領地で暴れ始めた仏「義勇軍」対策や大量の捕虜を迎い入れた独本土警備のために兵力を割かねばならない現実がある以上、直ちにパリへ向かうことが出来る「新」兵力は皆無に等しいものとなります。

 こうして、パリ包囲の「成功」はひとえに、メッス、ストラスブール両要塞の攻略戦をいかに早く終わらせ、その戦力をいかに早くパリまで呼び寄せるかに掛かって来るのでした。


 そして包囲下に置いた後にパリをどう攻略するか、その作戦自体についても、モルトケら参謀本部にとって頭の痛い問題が多々ありました。


 包囲後に都市や要塞を陥落させるには、イソップ童話「北風と太陽」の例え(強引とも言える正面攻撃の「北風」、時間を掛けてじっくりと待つ「太陽」)のような二つの作戦が考えられます。

 「北風」は正攻法による接近からの強襲に至る方法と、要塞攻城砲を使用する連続砲撃による方法があり、「太陽」は正しく「兵糧責め」、隙間無く固めた包囲網で城内の飢餓を待つ方法でした。

 このどちらも実施には利点・欠点があり、「北風」作戦については決着は比較的短期間で済みますが巨砲とそれが消費する膨大な弾薬、攻城資材の運搬に手間が掛かり、また攻撃による人員の損耗も覚悟せねばなりません。

 また、「太陽」作戦は直接の戦闘による人員・資材の損耗こそ比較的少数で済むものの、長期に渡る兵站物資の流通維持が大問題で、更に長期間の包囲により損なわれる人員の健康管理問題や、敵に時間を与えるため解囲の危険も高まります。


 特にパリという特殊な都市の包囲には、更なる問題を含みます。


 文化水準や環境が当時(もちろん今も)世界最高レベルだったパリは200万市民を抱え、これが包囲されれば市民生活は徐々に低水準へと下げられ、その不満と苦痛は次第に現政権への不満と怒りへ向かうこと必至です。市民にこうした「厭戦気分」が蔓延すれば降伏も時間の問題となるでしょう。既に独軍来襲に怯えた富裕層は首都から脱出し、パリに残った市民や軍部の一部でも「国防政府」に対する不安が囁かれていました。

 しかし、完全な「士気の崩壊」に至るまでは「独憎し」の市民感情が不満に勝り、民衆の「やる気」が殺がれる前に居残った軍による国民衛兵の訓練が完結すれば、同じく進行するだろう地方国民の「軍隊化」で百万規模の軍が現れることにつながり、いくら百戦錬磨の独軍でも「人の壁や海」を前に苦戦は必至となるでしょう。

 パリには火薬工場や銃器製造所も存在し、「新兵器」ミトライユーズ砲の製造さえ行っており、実際の包囲中でも工場稼働は続きました。敵に時間を与えることはこの場合、独軍にとって非常な危険を伴うのでした。


 では、時短を計り「北風」で行くか、と言っても大変な問題が待ち構えていました。


 パリ攻撃の「北風」は異論少なく「砲撃作戦」となるでしょう。正攻法では相手が大き過ぎ「太陽」と同じく時間が掛かるからで、後の時代の戦略爆撃と同じ効果を狙って、情け容赦なく大都市を砲撃することで市民の「厭戦」を引き出し、早期に降伏させるのがこの場合最上の手となります。

 しかし、砲撃を行うためには独本土とパリ郊外を結ぶ鉄道路線を考慮に入れなくてはなりません。


 モルトケは戦前研究で仏本国の鉄道路線もしっかり調査済みでした。しかし、実際にお目に掛かった鉄道は普参謀本部の想像以上に脆弱であり、独の基準からすれば不満連発の代物だったのです。


 既述ですが仏の鉄道は国営が少数で、多くが「私鉄」でした。路線は相互の連絡を考慮せずに敷設されていたため乗り換えが多くあり、また運用方法も普王国基準に到底及ばないものだったのです。幸いにも線路敷設技術や機関車、車両は世界最高水準でしたが戦争により大々的に破壊され、普軍鉄道隊の活動でも復旧は遅れに遅れていました。

 しかもロレーヌからパリに至る独軍支配下に置いた唯一の路線(ナンシー~パリ線)は途中トゥール要塞によって遮断されて不通となっており、トゥールを急ぎ攻略したとしても、その先、ナンテュイユ=シュル=マルヌ(モーの東25キロ)付近のマルヌ蛇行地域で鉄道は橋梁、トンネル共に徹底的に破壊し尽くされており、この復旧は大変な労力と時間を要するものだったのです。


 普王国内ではローン大臣ら陸軍省の尽力により9月中旬には300門の対パリ用攻城砲が運送準備を終えていましたが、これを陸路で輸送した場合、初回運送の弾薬は1門に付き500発となっていたため、300門の重砲と15万発の各種砲弾、そして推進火薬ともなると、単純計算でも四輪の馬車4,500輛と1万頭の馬匹を仏国内で徴用しなくてはならなくなりました。

 しかもこれら攻城砲輸送の間にも兵站や糧食の輸送を途切れることなく続けなくてはならず、鉄道開通後も暫くは包囲軍用の兵站、糧食、武器弾薬輸送が優先されることは確実でした。


 このように、普王国からパリ郊外への攻城砲・攻城資材輸送は困難を極めるものでした。

 それでも独大本営はナンシー~パリ線の完全復旧が先決として復旧工事を急がせると同時に、9月8日、既述通りトゥール要塞を「本気」で落としに掛かるよう命じたのです(後述します)。


挿絵(By みてみん)

普軍兵士たち(歩兵、後備歩兵、近衛歩兵など)


○ 普参謀本部のパリ包囲「初手」


 9月15日朝。モルトケ大将は在シャトー=ティエリ(モーの東40キロ)の大本営へ、独第三軍参謀長のレオンハルト・フォン・ブルーメンタール中将とマース軍参謀長のルートヴィヒ・フォン・シュロトハイム少将を招聘し高級参謀会議を開催しました。これは今後のパリ包囲をどう進めるかの検討会議で、結果、モルトケは同日午前11時、パリ包囲に関する最初の大本営令を発するのです。


 モルトケは包囲作戦の大目的として「パリと外部との連絡を遮断」することと「パリへの物流を止め、外部からの救援を阻止すること」を上げています。そして「パリの要塞砲射程外に包囲網を構築し、その輪をなるべく短縮すること」を命じました。


 マース軍の三個(近衛、普第4、第12「ザクセン」)軍団は各軍団騎兵部隊を先頭としてパリの北部正面に進み、19日にはセーヌ、マルヌ両川の右岸(この場合北側)の包囲を完成するため右翼前衛をアルジャントゥイユ(サン=ドニの西8.3キロ。セーヌ河畔)まで進めてこれを占領・固守せよと命じます。その配下の普騎兵第5、同第6師団は更に西進し、18日にポアシー(サン=クルー城の北西16.3キロ)付近でセーヌを渡河してベルサイユ方面へ進み、南からパリに接近する独第三軍と連絡を図り、その第三軍主力(普第5、6、バイエルン第2軍団)はパリから敵が出撃しないことを確認しつつセーヌ、マルヌ両川の左岸(この場合南側)を北西へ進んでパリの南面包囲を完成し、更に「フォン・デア・タン軍」(普第11、バイエルン第1軍団)がセダンから到着した暁には包囲網を更に厚くして左翼側(北西)マース軍の包囲線右翼との連絡を密とすることを命じています。


 第三軍の騎兵には、マース軍の騎兵部隊と連絡を取るため北西方向へ先行し、また、遙か南のロワール沿岸地方の状況を偵察する任務を与えました。

 更にモルトケは第三軍に対し、仏軍が万が一ロワールから北上してパリの解囲を謀る場合、軍主力により1~2日分の行軍距離(およそ30~40キロ)を南下してこれを迎撃し、包囲網を維持しつつこれに接近させず撃破することを要求しました。

 包囲線は継続的な土木工事でこれを強化し、その位置は目的通りティエールの城壁に出来る限り近付くこととされます。

 また、パリに通じる鉄道線路と電信線はこれを切断させますが、近い将来独軍が使用するため簡単に復旧を計れるように軽易な破壊に留めるよう命じ、マース・第三軍間の連絡を密とするため、マルヌとセーヌに幾本かの橋を架けることを命じています。

 マース軍に対しては、パリへの飲用水を減少させるためウルク運河を決壊するよう命じ、更に北方の包囲線を強固とするため、その南側に氾濫地帯を設けるよう命じました。


 この最後の措置については既に、第三軍司令官のフリードリヒ皇太子がパリへの行軍中、マルヌとその支流に対し所々で決壊させ水流を減少させていました。しかしパリ市内では飲用水の確保が十分に成されており、これは後に全く効果が無かったことが判明するのです。


○ 独第三軍の包囲初動計画


 この大本営の命令を受けたフリードリヒ皇太子の第三軍本営は翌16日、クロミエ(モーの南東22キロ)から麾下に対し命令を発します。


 騎兵第2師団に対しては17日、ビルヌーブ=サン=ジョルジュ(シテ島の南南東15.7キロ)、ジュヴィジー(=シュロルジュ。同南18.2キロ、現オルリー空港の南)リゾランジス(その南南東5.3キロ)等でセーヌを渡河し、18日にはサクレー(ベルサイユ宮殿の南南東9キロ)に至りパリの南部を監視、更に前衛はシュブルーズ(同南南西12.2キロ)まで進んでマース軍との連絡を計るよう命じます。


 第5軍団に対しては、18日、ビルヌーブ=サン=ジョルジュ付近でセーヌを渡河、その日はパレゾー(ビルジュイフの南西12キロ)まで前進し、19日にはベルサイユを占領、前哨をコロンブ半島の根元(ムードン~マルメゾンの森方面に掛けて)に進めるよう命じるのでした。


 同じくバイエルン王国(以下B)第2軍団に対しては17日、コロベイユ(=エソンヌ。シテ島の南南東28.5キロ)付近でセーヌを渡河し、18日にはロンジュモー(ビルジュイフの南南西12キロ)、19日にはシャトネー(=マラブリ。同西南西6.7キロ)へ到達して前哨を第5軍団の右(南東)翼に連ねてムードン~ライ=レ=ローズ(ビエーブル河畔。ビルジュイフの南西2キロ)に展開するよう命じました。


 普第6軍団には18日に第5軍団の後を追ってビルヌーブ=サン=ジョルジュへ到達し、19日にマルヌとセーヌの間(クレテイユの南)に一個旅団を残置させて本隊はセーヌを渡河、ビルジュイフの南方まで進んで前哨をB第2軍団の右(東)翼に連ねライ=レ=ローズからセーヌ左岸河畔まで展開するよう命じます。同時に同軍団に対してはショアジー=ル=ロア(セーヌ左岸。ビルジュイフの南東5キロ)からジュヴィジーの間に架橋も命じました。


 ヴュルテンベルク王国(以下W)師団に対しては、大本営の護衛という任務を優先しつつ、出来れば二個旅団を抽出してポントー=コンボー(モーの南西26.5キロ)付近まで前進して布陣、前哨をオルムッソン(=シュル=マルヌ。クレテイユの東5.7キロ、マルヌ「巾着部」の先端対岸)~シャンピニー(=シュル=マルヌ。同北東4.5キロ)~ノアジー=ル=グラン(バンセンヌの東8.4キロ)まで進出させるよう命じました。


 一方、普騎兵第4師団には大本営の命じた「ロワール川方面の偵察」を命じ、師団はフォンテーヌブロー(シテ島の南南東56キロ)~ピティヴィエ(同南76キロ)を経てオルレアンを目指しました。また、騎兵師団との連絡を絶やさぬためにB第2軍団に支隊の抽出を命じ、この部隊はアルパジョン(ビルジュイフの南南西24キロ)まで進んで待機となります。

 なお、アルパジョンの部隊は後日ファン・デア・タン大将のB第1軍団と任務を交代することとされ、第三軍本営は「フォン・デア・タン軍」の戦線参加について、B第1軍団はモンテリ(アルパジョンの北5.8キロ)、普第11軍団はボアシー=サン=レジ(クレテイユの南東5.5キロ。マルヌ「巾着部」南)に「9月22日に到着せよ」と命じたのです。


○ マース軍の包囲初動計画


 アルベルト・ザクセン王太子歩兵大将率いるマース軍本営は第三軍に一日遅れて17日、パリ北面の包囲に付き麾下に命令を下します。


 ザクセン王国(以下S)軍である北独第12軍団に対しては18日、クレイエ=スイイ(モーの西14キロ)まで進み、19日には前哨をマルヌ河畔のシェル(クレイエの南西10.2キロ)~スブラン(同西11キロ)の線より西に進出させるよう命じ、更にマルヌ川に架橋した後に第三軍右翼と連絡するよう命じます。


 普近衛軍団に対しては、18日ミトリー=モリー(クレイエの北西6.5キロ)へ、19日にはロアシー(=アン=フランス。現・シャルル・ドゴール空港西端部分)へそれぞれ進み、前哨はオーネー=ス=ボワ(ロアシーの南7キロ)~ル・ブラン=メニル(オーネーの西2.4キロ)~アルヌヴィル(サン=ドニの北東6.8キロ。現ル・ブールジェ空港北)まで進むよう命じました。


 更に近衛軍団の右(北)翼側を行く普第4軍団に対しては、18日にダムマルタン(=アン=ゴエル。モーの北西18キロ)へ、19日にはサン=ブリス(=ス=フォレ。サン=ドニの北7キロ)へ至るよう、その前哨は左翼(北東)のサルセル(サン=ブリスの東南東1.8キロ)から右翼(南西)のドゥイユ=ラ=バール(サン=ドニの北北西5キロ)へ進めるよう命じました。

 また、前衛支隊(歩兵一個旅団と砲兵2個中隊)をセーヌ河畔のアルジャントゥイユ(サン=ドニの西8.3キロ)へ進ませ、軍団に派遣されていた普近衛騎兵第2(槍騎兵)旅団には更に西へ進ませてセーヌ対岸のコロンブ半島を監視させ、サン=ジェルマン=アン=レー付近でセーヌを渡河して先行する騎兵第5、6師団と連絡を通すよう命じたのでした。


○ 普騎兵第5と同第6師団の機動(9月17~20日)


 その普騎兵第5師団は17日早朝、ダマルタン(=アン=ゴエル)周辺からル・メニル=オブリー(サン=ドニの北13.2キロ)へ向かい出立します。

 軍の先頭を行く行軍援護のためその左(南)翼には普騎兵第13旅団が進みますが、旅団はゴネス(サン=ドニの北東8.7キロ)の南方からサン=ドニに掛けての部落に仏の守備隊が構えていることを発見し、仏軍散兵線に近付いた斥候たちは激しい銃撃を浴び、慌てて遮蔽物へ駆け込んだのです。

 中でも驃騎兵第10「マグデブルク」連隊はル・ブールジェ(サン=ドニの東4.8キロ)近郊まで進み、仏軍歩兵が西側のスタン(同北東3キロ)やピエールフィット(=シュル=セーヌ。同北3.5キロ)から散兵・連絡壕を伝って北上するのを望見します。同日午後、旅団は斥候を集合させル・メニル=オブリーで師団に合流しました。


 普騎兵第6師団は同じ17日、前日に到達したオアーズ河畔のボーモン=シュル=オアーズ(サン=ドニの北22.6キロ)で休息日を過ごします。

 この地には夕刻、第4軍団の架橋諸部隊(工兵中隊、野戦軽架橋縦列、架橋縦列半部)が先行して到着しました。

 パリ北部近郊のオアーズとセーヌ河畔では仏軍により全ての常設橋が爆破されており、彼らはアルベルト王子直接の命令で明日早朝からポントアーズ(サン=ドニの北西23キロ。ボーモンの南西17キロ)付近で架橋作業を行うこととされており、この軍橋を使って普騎兵第5と同第6師団はオワーズを渡河してセーヌ川へ向かい、架橋部隊は騎兵が渡り終えた後に橋を撤収して今度はポアシー(ベルサイユの北北西14.5キロ)付近のセーヌ川に架橋しようと言うのでした。


挿絵(By みてみん)

 爆破されるセーヌ橋梁(アニエール=シュル=セーヌ)


 18日の正午、普騎兵両師団はポントアーズのオワーズ川対岸に進み、騎兵第6師団は完成したばかりの軍橋を渡り始めます。この日夕刻には騎兵第6師団はシャントルー(=レ=ヴィーニュ。ポントアーズの南南西9.5キロ)に進み、ポントアーズの架橋資材が届くまで斥候を出しつつ待機に入りました。

 なお、ここまで騎兵第6師団に同行していた猟兵第4「マグデブルク」大隊(ラン要塞の爆発で大きな損害を受けた部隊です)の2個中隊はポントアーズ市街に残留し、他の2個中隊は師団と共に行軍を続け、トリール(=シュル=セーヌ。ポントアーズの南西10.5キロ)とキャリエール(=ス=ポアシー。トリールの南南東4.5キロ)まで進むと、トリールの中隊はセーヌ沿岸をサン=ドニ西のアルジャントゥイユへ向かう鉄道とそれに沿って敷設された電信線を破壊しています。


 19日、普槍騎兵第3「ブランデンブルク第1」連隊から発した斥候隊の一つは、トリール付近のセーヌ川で渡船を徴発しマース軍麾下としては初めて対岸に渡り、第三軍の騎兵を求めて南下します。

 騎兵第5師団はポントアーズ付近でオワーズ渡河を終え、直ちに工兵が撤去した架橋資材と共にトリールへ向かいました。

 第4軍団の架橋部隊はこの夜トリールでセーヌに架橋し、翌20日には両騎兵師団ともセーヌ渡河を終えますがマース軍本営から遠く離れたため、この日から後命があるまで第三軍の隷下となりました。


挿絵(By みてみん)

 普軍槍騎兵


○ 9月18~19日のマース軍


 先行した騎兵たちがオワーズ、セーヌ両川を越えてパリ北西部に進む頃、マース軍本隊も無事に計画通りの地域に到達しています。


 18日。グサンビル(サン=ドニの北東13.5キロ。現シャルル・ドゴール空港の北西端付近)に到着した第4軍団先鋒の驃騎兵第12「チューリンゲン」連隊は更に南西サン=ドニ方面の偵察へ進み、この要塞都市北方の丘陵地帯(モンマニー~ピエールフィット付近)に仏軍がいることを確認しました。同じく近衛槍騎兵旅団の斥候はル・ブールジェとドランシー(ル・ブールジェの南東2キロ)から銃撃を浴びたと報告しています。


 このマース軍前衛が遭遇した状況及びサン=スプレ(モーの北西10.2キロ)まで前進した軍本営に到着した諸情報から、「仏軍は強大な兵力でサン=ドニ前面地域を守備し、同地区はパリ北面防御の中核となっている」と判断しました。

 そこでアルベルト王子は第4軍団に対し、包囲網構築の際に邪魔となるサン=ドニ周辺部の敵を今日中にサン=ドニ市内と堡塁内部へ駆逐するよう命令を下すのです。

 同じく近衛軍団は第4軍団を援護するべくゴネス付近で戦闘態勢を取り、出来れば前衛部隊をル・ブールジェまで前進させるよう、第12「S」軍団はマルヌ川とウルク運河の中間に一個師団を残してその他部隊をスブランへ押し出し、万が一の場合はオーネー=ス=ボワを経てル・ブールジェ方面から参戦せよ、と命じるのでした。


 モー在の独大本営は、マース軍本営から18日に行う作戦機動の報告を受けるとこれを承認し、更に19日早朝マース軍に対し、S軍団で後方待機となった一個師団も前線に向かうよう命令しました。

 17日にモーに到着し18日には二個旅団でポントー=コンボーへ進むよう命令されていたW師団には、前進するS軍団後衛師団の代わりにマース軍の後方に振り向けるため、ラニー(=シュル=マルヌ。モーの南西15.4キロ)を経てシェル(ラニーの西9キロ)へ進むよう命令を変更し、既にポントー=コンボーへ向かってしまった(シェルとは反対の南西方向)場合はグルネー(=シュル=マルヌ。ポントーの北7.3キロ。対岸はシェル)でマルヌを渡河する準備をせよと詳細に命じるのでした。


 19日朝、ヴィルヘルム1世国王はモルトケ始め参謀本部の面々を引き連れてモーを発すると近衛軍団の待つゴネスに向かい騎行し、昼頃に到着し観戦を始めました。


 第4軍団は19日午前7時30分、第7師団がロアシー(=アン=フランス)、第8師団と近衛槍騎兵旅団がそれぞれル・ティレー(ゴネスの北東2.7キロ)、ブクヴァル(ゴネスの北北西4.5キロ)に到着します。

 軍団長のグスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン歩兵大将は黎明時、左翼隣を行く近衛軍団本営に対し、軍団左翼側面に掛かる仏軍の圧力を減じるためスタン方面で敵を牽制して欲しいと要望していました。

 第4軍団本隊は、サルセルからグロレー(サン=ドニの北5.6キロ)へ進む第15旅団と、スタン部落に面して監視を続ける竜騎兵第7「ヴェストファーレン」連隊、そして先の要望に応えた近衛軍団の攻撃(後述)とによって側面を護られ、サン=ブリス(=ス=フォレ)を越えて前進しました。

 アルベルト王子は、早朝よりアルヌヴィル(ゴネスの西2キロ)西側の高地に登って第4軍団と近衛軍団の行軍を観察し、麾下が昨日の命令通り行動していることを確信して満足するのでした。


 午前11時30分、G・アルヴェンスレーヴェン将軍は第15旅団(第31「チューリンゲン第1」、第71「チューリンゲン第3」連隊)をモンマニー、ヴィルタヌーズ、ピエールフィットのサン=ドニ北郊各部落へ突進させ、部落に籠もった仏軍守備兵を追い出しに掛かりました。その先頭を行く両連隊のフュージリア(以下、F)大隊は、部落の仏軍と短時間銃撃戦を交わすと突撃を敢行し、戦慣れしていない仏護国軍兵士たちを中心とした守備隊は戦闘僅かで持ち場を放棄し、サン=ドニ北の護り「二重王冠堡塁」目指して撤退します。

 両F大隊は直ちに各部落を占領しますが、短時間の後、味方がいなくなったことを確認したサン=ドニの分派堡塁の要塞砲が火を噴き、この後の包囲戦中両軍で延々と繰り返される榴弾砲撃の端緒となったのでした。


 第4軍団でサン=ブリスからアルジャントゥイユを目指した第16旅団と近衛槍騎兵旅団は、ドゥイユ=ラ=バールの南郊外(モンマニーの西側)で仏軍のサン=ドニ防衛前哨線にぶつかり、少時銃撃戦を交わした後、これを避けて北へ迂回しました。

 この後第16旅団は軍命令通りアルジャントゥイユに達した後に(軍団本隊より西へ突出していたためか)少々北へ退いて留まり、近衛槍騎兵旅団はコルメイユ=ザン=パリジ(アルジャントゥイユの北西4.4キロ)へ進み、軍団の「未知なる背後」(北西側)を警戒するのです。


 近衛軍団はこの日午前中にゴネス~トランブレ(=アン=フランス。ゴネスの東8キロ。現・シャルル・ドゴール空港南)間に集合を終えると、近衛歩兵第1師団が前衛となってゴネス西側のアルヌヴィル、ガルジュ(=レ=ゴネス)、デュニーの各部落を占領しました。

 G・アルヴェンスレーヴェン将軍が要望した「スタンでの牽制」はこのフォン・パーペ少将の部隊が行い、将軍は近衛猟兵大隊の一個中隊でスタンを攻撃させ、中隊は短時間で部落の仏軍を追い出すとこれを占領したのです。

 午後になると、「敵の強大な歩兵縦列がオーネー=ス=ボワ方向に前進中」との斥候報告により軍の背後を護るため近衛両歩兵師団は南下し、モレ川(現ル・ブールジェ空港の東側を流れる小河川)まで至りますがオーネー方面には実際仏軍の微弱な部隊しか存在せず、この護国軍兵士たちも普軍エリート部隊の登場を見た途端、南西方向へと撤退してしまうのでした。

 また、ル・ブールジェとその南側を偵察した騎兵斥候は、「ル・ブールジェは陣地と化して仏軍守備隊がおり、ドランシーにも同様の防御設備と守備隊がいる」と報告しています。


 S軍団はこの日、近衛軍団の左(南)翼に連なるためクレイエ=スイイからボンディ(ゴネスの南9.4キロ)に向けて前進し、第23「S第1」師団は前衛となってシェル~スブランの間に展開すると付近の諸部落を占領し、軍団の主力も順次シェル近郊まで進出して集合しました。

 S軍の騎兵斥候はボンディ付近で仏軍野戦部隊と遭遇して待避し、前哨となってボンディ部落を占領した擲弾兵第100「S親衛」連隊のある小隊は数倍する仏軍の逆襲に遭い、部落から退却するのでした。


 19日午後になると、第4軍団の諸隊は軍命令にあった前進拠点の占領を全て完了し、この際に大した抵抗を受けなかったことが諸隊に伝わると、近衛、Sの両軍団も命令された拠点占領に本腰を入れました。


 この結果、19日夜におけるマース軍の位置は以下の通りとなります。


*S軍団

・前哨線

 シェルの西、マルヌ河畔~ル・ランシー(シェルの西北西5.2キロ)~ボンディの東、ウルク運河

・第23「S第1」、第24「S第2」師団

 シェル~スブラン間

・騎兵第12「S」師団

 ル・パン(シェルの北東5キロ)

・軍団砲兵隊

 クレイエ=スイイ

・軍団本営

 クレイエ=スイイ


*近衛軍団

・前哨線

 モレ川左(西)岸、オーネー=ス=ボワの北~ポンイブロン(現ル・ブールジェ空港内)~デュニー(現ル・ブールジェ空港西)~スタン

・近衛第1師団

 ゴネス~スタン間

・近衛第2師団

 ビルパント(スブランの北2.2キロ)~オーネー=ス=ボア~ル・ブラン=メニル(オーネーの西2.4キロ)間

・近衛騎兵師団(近衛騎兵第2旅団欠)

 ミトリー=モリー(スブランの北東7.7キロ)、トランブレ=アン=フランス

・軍団砲兵隊

 グサンビル

・軍団本営

 ロアシー=アン=フランス


*第4軍団

・前哨線

 オー・ロア水車場(ピエールフィット付近)~モンマニー~アンジャン=レ=バン(モンマニーの西2.6キロ)

・第13旅団

 サルセル

・第15旅団

 グロレー(モンマニーの北1.7キロ)

・第16旅団

 モンモランシー(モンマニーの北西2.5キロ)、ドゥイユ=ラ=バール

・第14旅団、軍団砲兵隊

 サン=ブリス=ス=フォレ

・近衛騎兵第2「槍騎兵」旅団

 コルメイユ=ザン=パリジ

・軍団本営

 サン=ブリス=ス=フォレ


 マース軍本営はこの19日、近衛軍団前線の後方トランブレ=アン=フランスにあり、本営警備には格好の近衛シュッツェン大隊が護衛にあたりました。


 こうしてパリ北面では9月19日の夜に包囲網の原型が形成され、この日を以てパリの包囲が開始されたのです。


挿絵(By みてみん)

 部落へ接近する普歩兵


※ 拙作で仏国の「護国軍」(La Garde nationale mobile/ガルド・ナシオナル・モビール)と呼ぶ部隊は、正規軍を補佐するものとして第二帝政下の1868年2月1日に編成されており、これは独のラントヴェーア(郷土軍)に近い存在で、直訳すれば「機動国民衛兵」となります。

 古い日本の文献では「近い名前」の大革命時代に遡る歴史を持つ「国民衛兵」(La Garde nationale)を「護国軍」、拙作で言うところの「護国軍」を「遊動護国軍」としているものも見かけますが、これでは混乱する可能性があり、拙作では、より義勇民兵に近い「国民衛兵」との混同を避けるため今後もガルド・ナシオナル・モビールを「護国軍」と称します。

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