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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリへ!
329/534

パリの地勢と防御(後)

 仏帝政政府は7月中旬の危機発生以来、パリに独軍の襲来を許した場合の対策を開始し、既存の分派堡塁や砲台・小堡の整備と補強に努め、更にその死角となる部分に砲台、小堡を新設するなどの作業を開始します。

 しかし、8月に入ると頼みの野戦軍から敗報相次ぎ、オリヴィエ政権が倒れるという政変もあったお蔭で防衛計画の実施は大きく遅れ、一部は中止に追い込まれました。

 この緊急時にウジェニー摂政政府は急ぎパリ防衛の計画を練り直し、市民や周辺住民の徴募(国民衛兵や護国軍、義勇兵部隊など)と並行して首都防衛を計画・実施する中央組織を立ち上げます。これがパリ防衛委員会で、この委員長がパリ「防衛総督」に任命されたジュール・トロシュ将軍、後の国防政府首班でした。


 トロシュ将軍ら委員会は、「速やかに首都の安全を計るため」パリを囲むティエールの城壁では、独軍による正攻法(対壕と並行濠を掘り進めて城壁に迫る攻撃)に対する防御を後回しとして、ポン=ドゥ=ジュールの稜堡(パリ最南西端・城壁のセーヌ川による開口部分の稜堡)とバンブ分派堡塁の後方となる稜角付近に設けただけで他区域の対策工事を中止させ、その資材と工夫・工兵を全て既存16個の分派堡塁の補強とその周辺に関連設備を設置する工事へ振り向けるのでした。

 この緊急工事は幸いにも順調に進んで9月上旬には終了し、トロシュ将軍らは平行して更なる防備強化に進みます。


 この「トロシュ委員会」(9月4日の「革命」以降はトロシュ「大統領」主催の「国防委員会」となります)は以下の通りに防御工事と兵力展開を行いました。


◯パリ北東~東部正面


 サン=ドニ東方の小河川を一部閉塞して氾濫地域を設け、各分派堡塁の空堀にも水を満たしました。サン=ドニのドゥ・ラ・ブリッシュ堡塁付近では、その北2キロのヴィルタヌーズや東北東3キロ、当時は風車場のあったスタンに土塁や散兵壕を築き、これを交通濠で連絡させ、氾濫地区の中に前哨線を設けたのです。

 ドゥ・レスト(東部)堡塁の東側では、サン=ルシアン(サン=ドニの東2.3キロ)、ラ・クールヌーヴ(同東3キロ)2つの部落を防衛拠点として鹿砦や阻塞物多数を設置し、家屋や隔壁を補強して銃座などを設け、ラ・クールヌーヴ部落の郊外には2ヶ所の肩墻を設けました。また、これらの防御施設は連絡壕で結ばれ、この壕はドゥ・レスト堡塁南方のクレーヴカールの小部落(同南東2.4キロ)に達し、ここからオーベルビリエ部落、更にドーベルビリエ堡塁を経由しウルク運河縁までに至りました。

 このウルク運河南岸では、ボンディとノアジー=ル=セックの両停車場(ロニー堡塁の北東方面)に防御施設を設け、ノアジーの部落周辺にも防御工事を行うのです。


 ウルク運河の南側からマルヌ川に至るパリ東方高地は、既に相互連絡と補完が可能な諸堡塁が完備されていたため、トロシュ委員会が行ったのはロマンビル堡塁からノジャン堡塁に至るまでの間の連絡壕を完成させて補強し、堡塁や小堡間に数ヶ所肩墻を設置するだけでした。更にセーヌ=マルヌ合流点の南側、シャラントン堡塁付近ではメゾン=アルフォール部落の南郊に砲台を設け、堡塁に近付く敵を掃射出来るようにする工事が進められました。


 一方、パリ市内北東部では18区・モンマルトルの丘に強力な砲台を構築し、ここには市内に存在した最大口径の要塞砲を設置してサン=ドニから東部の諸堡塁を攻撃する敵を砲撃する準備をしました。


挿絵(By みてみん)

 モンマルトルの大砲


◯パリ南部正面


 パリ南部城壁外セーヌ左(西)岸では、重点防御区域となっていたオート・ブリュイエール丘陵とビルジュイフ部落周辺で防御工事が急がれ、同部落の西1キロ付近の尾根上にオート・ブリュイエール小堡が完成し、稜堡を持つ築堤や散兵壕が造られました。ビルジュイフ部落はディブリー、ビセートル両堡塁と連絡壕で結ばれ、この壕はビエーブル河畔まで延びていました。

 ビエーブル川はティエールの城壁付近で閉塞され、川の谷は水が溢れてジャンティイ周辺は氾濫区域となります。

 トロシュ委員会は、この川の西側にある3つの分派堡塁(モンルージュ、バンブ、ディッシー)を俯瞰する南方の高地を護るため、アントニー(モンルージュ堡塁の南5.5キロ)やル・プレシ(=ロバンソン。バンブ堡塁の南南西3.8キロ)の高地に防御施設を造ろうと森林を伐採し堡塁や砲台の工事を始めましたが、そのどれもが独軍の襲来までに間に合わず、工事は中途で放棄されてしまいました。

 ただし、3つの分派堡塁を相互連絡する交通壕や周辺部落の防備強化工事は完成し、連絡壕はセーヌ河畔まで到達して周辺部落と堡塁との連絡も容易となりました。また、ディッシー堡塁の北西面前にあるセーヌの川中島ビランクール島の小部落にも拠点を設け防護工事を行い、更にセーブル部落との中間にも散兵壕や鹿砦を多数設置しています。


○パリ西部~北西部正面


 独立した要塞と言ってもよいモン=ヴァレーリアン堡塁から北東に延びるコロンブ半島でも、新規に堡塁や砲台を設置する計画がありました。しかし、これも独軍の前進が工事の進捗よりも早く、その多くが工期半ばで中止の憂き目を見ます(但し、ジャンヌヴィリエ、コロンブ、ラ=ガレンヌ=コロンブでは小堡や砲台の築造が独軍の攻囲に至っても続けられました)。このため、トロシュ委員会は、サン=クルーからモン=ヴァレーリアンを経てサン=ドニへ至るパリ北西郊外の防衛最前線を、ブローニュ半島とコロンブ半島の間を流れるセーヌ河畔とするのです。このため、コロンブ半島内のクルブボア、アニエール(=シュル=セーヌ)、ビルヌーブ=ラ=ガレンヌ(コロンブ半島の先端部、セーヌ対岸はサン=ドニ)には多少の防御が施されるものの、これは相互に連絡されず、セーヌ渡河点保護の「独立橋頭堡」に過ぎないものとなりました。

 このセーヌ川自体を独軍に利用させないため、ビルヌーブ=ラ=ガレンヌ付近のセーヌ湾曲部では水中に柵を設けて水運を制限し、この柵の上流では鉄製の艀を沈めて川を一部閉塞しました(後述)。


○その他関連工事


 トロシュ委員会は各分派堡塁に電線を増設して、堡塁の周囲を夜間も照らすアーク探照灯(1858年に実用化。戦争前年にはグラム式発電機が発明され欧米では急速に電化が始まっています)を設置し、堡塁の斜堤の効果的な部分を選んで地雷を埋めました。

 また、分派堡塁だけでなく市内の各軍事拠点にも電信線が敷かれて拠点間の通信連絡が楽になります。

 また、「特別監視哨」を以下の12ヶ所に設置し、市内及び周辺監視の拠点としました。


※パリの特別監視哨


1.モンマルトル(丘の上)

2.トロカデロ(16区・交差点付近の建物の上)

3.パンテオン聖堂(5区・建物の屋上)

4.マイヨー門(シテ島の北西5.6キロ)

5.パッシー(16区)

6.ヴァンセンヌ

7.ビルジュイフ

8.ロマンビル堡塁

9.ビセートル堡塁

10.ド・モン=ヴァレーリアン堡塁

11.ノジャン堡塁

12.モンルージュ堡塁


挿絵(By みてみん)

 ロマンビル堡塁の取付き道路


 いよいよ独軍がパリに接近する(9月8日以降)と、委員会はパリ近郊のセーヌとマルヌの諸橋梁を一部残して全て爆破するよう命じました。

 この命令により通行可能として残されたのは僅か5ヶ所の鉄道橋、即ちアニエール鉄橋(コロンブ半島中部。シテ島の北西7.2キロ)、ブゾン鉄橋(同北西12.5キロ)、シャトゥ鉄橋(ブゾン鉄橋の南西4.4キロ)、サルトルービル鉄橋(同北西5キロ)、ル・ペック鉄橋(同西6.8キロ)に、シャラントン、ヌイイ=シュル=セーヌ(ブローニュ半島中部。シテ島の北西7キロ)、サン=ドニそれぞれ近郊の街道橋梁だけでした。


 この時パリに通じる諸街道には、分派堡塁に通じる補給路以外全ての路面に鹿砦、落とし穴、防馬柵、鉄菱、鉄条網などの軍事阻塞物を設け、それが設置出来ない場所には単純なバリケード等が築かれ、出来る限り独軍の接近を遅らせる手立てが講じられたのです。


○大砲と砲兵


 トロシュ委員会はパリの砲兵力強化のため海軍に対し予備の重砲の拠出を求め、これに応えた海軍は200門を越える重砲をパリに輸送しました。

 また、堡塁や城壁の上に設置する正攻法阻止用の火砲多数を各地の砲兵工廠から鉄道輸送させ、既に分派堡塁や市内の武器庫に貯蔵していた城壁稜角上に設置する火砲類は、プティト・サンチュール(環状鉄道)で設置拠点まで運搬されます。

 このトロシュ委員会の努力と熱狂する市民たちの尽力で市内の防備は急速に整い、9月16日にパリ市には攻城重砲と要塞砲が合計して2,627門設置され、大砲については十分と言える数が揃ったのです。

 この大砲はティエールの城壁と市内砲台に805門、各分派堡塁や小堡、独立砲台に1,389門が設置され、残りの400門余りが予備として即座に設置出来るように準備されました。また、これら大砲の運搬には専用の馬匹460頭が用意されていました。


 大砲の弾薬についてトロシュ委員会は、各分派堡塁の大砲1門につき500発、城壁の大砲1門につき200発を政府に要求します。要求による火薬類の総重量は3,000トンに上りましたが、帝政政府から引き継いだ国防政府もこれを真剣に手配し、最終的にはパリ市内に火薬製造工場を新設させることで「ノルマ」を完遂するのでした。


○セーヌ川「艦隊」


 セーヌ川には河川艦隊も用意されます。

 これは海軍が地中海から分解して運んだ装甲砲台(モニター艦)5隻、軍用汽走艇6隻、河川艇1隻、大砲積載艇9隻からなるもので、最初はストラスブール付近のライン川用に発注・準備されていたあの艦隊を転用したものでした。

 パリのセーヌ河川艦隊の主任務は堤防、舟橋、セーヌ川とティエールの城壁との交点守備とされ、軍の移動と補給にも応えました。

 艦隊はシテ島を境に二分され、その一つはジャヴェル(シテ島の西5.3キロ)河岸に、いま一つはベルシー(シテ島の南東3.3キロ)河岸を碇泊地としていました。


○防衛兵力


 トロシュ委員会は、パリ防衛に必要な兵力を167,500名と算出し、この内8万名は城壁の防衛に、4万名を分派堡塁と小堡・砲台に、7,500名を砲兵に、4万名を野戦兵力としました。


 陸軍の実戦兵力としては、シャルルヴィル=メジエールから帰還した仏第13軍団とパリに集合・編成中の新設仏第14軍団があり、軍団の員数はそれぞれ2万5千名となります。この他、壊滅したシャロン軍から逸れたり、セダンから脱出に成功したりした諸兵は各マルシェ連隊に分散配属され、特にセダンの「罠」からいち早く離脱したズアーブ兵3個連隊の残兵(ザクセン軍団や普近衛軍団相手にジヴォンヌ渓谷東方高地で戦った者たちです)は集められ1個のズアーブ=マルシェ連隊が編成されました。当初は千名を越える程度だったこの「混成」ズアーブ連隊は、後に志願兵を加え2千名規模となります。

 更に海軍より、北海で使いようのなくなった海軍歩兵に海軍砲兵と余剰の水兵を合わせた1万2千名が提供され、これは「海軍師団」として第二艦隊司令長官の海軍中将、男爵カミーユ・アダルベル・マリエ・クレマン・ドゥ・ラ・ロンシエール・ル・ヌリー提督が率いることとなりました。この海軍「陸戦」師団はパリ防衛軍中精鋭かつ最も信頼のおける部隊と思われていました。

 その他、3千名のパリ駐在憲兵隊、パリ常駐の要所や軍施設の警備兵、5千名の税関官吏、森林管理官に警察官等「政府管轄下で訓練され武器を携行した者」全てを加えるとすれば、訓練された戦闘可能な兵力としては7万5千から8万名を数えるのです。

 しかし、実際に独野戦軍と即戦闘可能(=「プロ」相手にしっかり戦うと信頼出来る)兵力はその三分の一、2万5千から3万に過ぎなかったと言われています。


 この「実戦」戦力の他は7月16日に帝政政府が勅令として徴兵した一般市民からなる護国軍部隊で、9月1日以降は各地からパリに召集され、独軍襲来までに集合した数は11万5千名を数えました。しかしその内容はお寒い限りで、訓練もままならない「正規軍の徴兵から漏れた」一般人たちは、独軍のエリート参謀たちが見たとすれば、「制服を着ただけの烏合の衆」とあざ笑うだろう存在だったのです。


 最初にパリ近郊のセーヌ沿岸から徴兵された護国兵1万5千は、野戦部隊としてシャロン演習場に進んだものの、マクマオン将軍により「軍紀に欠け訓練未了」としてトロシュ将軍が連れてパリに帰され、首都でもその用途は単純な防衛設備構築作業やパリ郊外堡塁・小堡での警備に過ぎず、それも独軍迫る9月12日、一部兵士が「堡塁の位置は大変に危険」と騒ぎ出して勤務を拒否する事態に陥るのでした。


挿絵(By みてみん)

 セーヌ県の護国軍兵士


 それでもトロシュの委員会は首都防衛のため、出来うる限りの兵力を集めようと腐心し、部隊の増設を急ぐのでした。

 この中心となったのは、「70年革命」を成功させた陰の主役、「国民衛兵」部隊でした。

 ナポレオン3世たち帝政の首脳はこの国民衛兵を「革命の温床」と恐れますが、「大革命」以来の伝統を国民の手前廃することも出来ず、60個大隊の4万名を上限とし、兵員は25~30歳までに限定・選抜して革命勢力が入り込まぬよう努め、士官は全て政府の任命者となっていました。

 8月中旬、政情不安となったパリで摂政皇后ウジェニーとパリカオ首相ら取り巻きはこの基準を「25~35歳以下の兵役に耐えられる男子」の内「徴兵に合格したものの軍及び護国軍に登録のならなかった者」は「戦争中いつでも召集される」と「引き下げ」ます(因みに18~25歳の男子は即、正規軍と護国軍部隊の徴兵対象です)。

 革命を経てトロシュ首班の国防政府となった9月6日、政府は「1個大隊の定員1,500名」とした新たな国民衛兵66個大隊の編成を命令しました。これにより、25~35歳までの兵役に耐えられると見なされた男子は全員兵役名簿に登録され、新規の護国軍並びに国民衛兵部隊や既存護国軍部隊の補充に当てられ、「護国軍と国民衛兵に参加することは国民の義務である」と対象者全員に通知するよう地方政府に通達が出されます。

 これによってパリの国民衛兵は急速に増強され、9月14日にはトロシュ将軍の前に130個大隊の国民衛兵が並ぶのでした。

 しかし、前述通りこれも多少は使い物となるのが最初に編成された60個大隊のみで、新規の部隊は未だ軍紀など存在せず軍事教練も初歩から行わなければならなかったのです。

 一部の護国軍部隊を含め、国民衛兵の携行武器としては、シャスポー小銃が現れるまでの主要小銃で前装式小銃のミニエー銃などを後装式に改造した67年型タバティエール小銃が手渡されました。


 この他にもパリの市民の中には「厳格な軍紀は嫌いだがパリ市は護りたい」とする徴兵からこぼれ落ちた多くの者がおり、トロシュの委員会は義勇兵部隊を編成しこれを受け入れようと考えます。しかし、この部隊が参加を募ると大人気を博し、政府が掌握可能な員数を直ぐに超えてしまったため、徴募は短期間で打ち切られました。

 この「義勇兵」たちには制服も武器も支給されませんでしたが、彼らは私有の様々な武器で武装し、自由気ままに振る舞って自身に都合の良い場所で勤務に就こうとして政府を悩ませることとなります。

 この「ボランティア」たちの正確な人数は全く分かりませんが、独公式戦史では「1万5千から1万8千」としています。また、軍事参加を希望する婦女子も多くいたようで、これは「セーヌ婦女軍」として10個大隊の編成が計画されて実施に移されますが、さすがにこれは「時代が早く」、一部の編成が進んだだけで女子の戦争参加は本格化しませんでしたが、これは半年後の「血生臭い出来事」で女性も戦力とされる下地となったのです。


 こうして9月末にはパリの防衛兵力は30万人に達しますが、このほとんどが歩兵で、騎兵と砲兵の数はそう多くありませんでした。


 騎兵は第13軍団と第14軍団に「紙の上で」1個師団ずつがありましたが、政変直後の9月上旬、この内数個連隊はルヨー准将が率いてロアール川流域へ出発し、残りはクリエイションドゥ・ギュスターヴ・コスト・ドゥ・シャンプロン少将が率いる集成騎兵師団に統合されました。

 この他に雑多な騎兵を集成したセダンから脱出した元・仏第5軍団騎兵師団のフランソワ・ジュリアン・レイモン・ドゥ・ピエール・ドゥ・ベルニ准将率いる騎兵旅団があり、これはマルシェ槍騎兵第1連隊、マルシェ胸甲騎兵第2連隊、それにパリに残留していた近衛騎兵部隊(儀典用の部隊1個中隊や宮殿護衛など)をまとめた混成マルシェ騎兵連隊からなっていました。また、これら騎兵部隊にはパリの乗馬憲兵隊、アルジェリア=シュパヒ騎兵若干、共和政府の親衛隊(ガルド・レピュブリケーヌ。政府省庁や要人の警護や儀礼を行う部隊)が後に加わっています。

 また、護国軍や義勇兵部隊にも若干の騎兵がいましたが、この内義勇兵乗馬部隊のフランシェチ騎兵中隊は勇猛を売り物としていました。

 これら雑多な部隊を含め、パリ在の騎兵は総数5千騎と伝わっています。


 9月初旬にパリ周辺における堡塁や砲台で勤務する要塞砲兵以外の(移動可能な)野戦砲兵部隊は、第13と第14の両軍団に配属された砲兵中隊だけでした。この砲兵諸中隊に関しても独軍の攻撃以前(9月16日まで)に編成は終了しておらず、包囲戦中に編成が完了する中隊もありました。トロシュ委員会は続々と参集した兵員の中から砲兵経験者や水兵(大概の水兵は艦載砲を扱うことが出来ます)を選抜して有り余る備蓄大砲を宛がい、多くの新設砲兵中隊を編成します。

 護国軍や国民衛兵部隊でも数多くの砲兵中隊が編成され、戦後、デュクロ将軍は、「包囲戦の最終段階で野戦砲兵は124個中隊あり、その内16個中隊は水兵により、15個中隊は護国軍(や国民衛兵)により編成されていた」と回想しています。


 その他専門職として必須の後方任務部隊や技術兵部隊としては、輜重兵が8個中隊、工兵は6個中隊、架橋兵2個中隊、工作兵4個中隊がありましたが、その員数は防衛対象や任務に比して大変少ないと言わざるを得ない状況でした。


○宿舎と糧食


 30万を数える兵員と多くの馬匹を抱えることとなったパリでは、最も重要な問題として宿営と糧食問題がありました。

 これについてはパリ市民も大いに協力し、様々な形の「ボランティア協会」が設立されて将兵たちの要求に応えました。

 包囲当初はティエールの城壁近辺の空き地や東部郊外の丘陵地域、そしてマルヌ川の「巾着部」にあるサン=モール(=デ=フォセ。ヴァンセンヌ城の南東5.5キロ)周辺の一大野営地には数多くの兵舎を設置し、傷病兵のために多くの病院施設を設けました。

 軍隊への糧食事情も急ぎ整備され、長期に渡る糧食供給を滞りなく行うための準備を行い、また、200万に近いパリ市民のためにも45日間の食料を備蓄し(後知恵承知で言えば大変甘い予測でしたが)、トロシュ委員会はこれで大概の場合も耐久出来るだろう、と考えたのでした。この時(9月19日時点)、パリ市が備蓄した食用家畜は牛3万頭、豚6千頭、羊18万頭と言いますから、それでも大変な作業だったと認めてあげなくてはトロシュ将軍たちが可哀想になります(当然この20万頭を越える家畜にも膨大な量のエサが必要だった訳ですから)。


○首都防衛軍の構成


 9月4日以降、パリ防衛の「総責任者」は帝政時代の「パリ防衛総督」で国防政府代表(この「国防政府」の「首長」を「大統領」と呼ぶのは個人的にも「?」なので、以降「首班」か「代表」と呼び変えます)トロシュ将軍がそのまま座ります。

 参謀長にはシュミッツ少将が就任し、この下に幕僚・参謀士官が17名所属して参謀本部となりました。

 パリ砲兵長官はギヨー少将が就任し、副長官としてセーヌ川の左右両岸に1名ずつの高級砲兵士官が配属されます。

 防衛施設の維持・建設に責任を持つパリ工兵長官には男爵フランソワ=アンリ=エルネ・ド・シャボー=ラテュール少将が任命され、准将3名が補佐に就きました。

 護国軍部隊の総指揮官には砲兵技術士官で施条砲弾を改良したことで知られるフランソワ・タミシエが暫定で就任します(10月にジャック・レオン・クレマン・トマ少将が交代しますが、この将軍は48年の革命時、労働者弾圧の指揮を執ったことがあり、71年3月18日、パリコミューンの蜂起で殺害される過酷な運命にありました)。


 ティエールの城壁は9個の防衛区に分割され、この各防衛区に司令官と砲兵司令、工兵司令が置かれ、更に防衛区は二つに分割されてそれぞれに副司令が置かれます。この防衛区の内6区はセーヌ右(東)岸、3区はセーヌ左(西)岸にありました。

 各区域では国民衛兵部隊を城壁に配備し、その残数を第一の予備として城壁近隣に常駐させ、同じく護国軍部隊を第二予備部隊とし、正規軍部隊は「戦略予備」として後置しました。

 その員数は重要度に応じて大きな幅があり、国民衛兵で最大は「ベルビル防衛区」(19区。シテ島の北東3.6キロ周辺)の55個大隊、最小は「パッシー防衛区」(16区)の16個大隊でした。

 護国軍部隊は宿営地の名を取ってエリゼ(8区。シテ島の北西3キロ)、パレ=ロワイヤル(1区。シテ島の北西1.5キロ)、コンセルヴァトワール=デ=アール(3区。現・フランス国立工芸院。シテ島の北1.5キロ)、リュクサンブール(6区。シテ島の南西1.2キロ)の4「集団」に分かれ、いざという時にそれぞれの担当区へ急行しました。


 16個の分派堡塁とその隷属施設は担当区及び独立堡塁に区分けされ、これにも司令官1名ずつを配置しました。


※パリ外周の分派堡塁防衛区分

・第1区

 サン=ドニ(3個分派堡塁)、ドーベルビリエ

・第2区

 ロマンビル、ノアジー、ロニー

・第3区

 ディブリー、ビセートル、モンルージュ

・第4区

 ヌフ=ヴァンセンヌ、ノジャン、シャラントン

・ドゥ・モン=ヴァレーリアン(独立区)

・ディッシー(独立区)

・バンブ(独立区)


 パリ防衛の最前線となる分派堡塁には、パリ防衛軍最良と唱われた海軍師団が分散配置されます。

 彼ら海兵はロマンビル、ノアジー、ロニー、ディブリー、ビセートル、モンルージュの6堡塁(=第2、3区)に配備され、ドゥ・モン=ヴァレーリアンとノジャンにも分遣隊が入りました。

 その他の堡塁には主としてセーヌ川流域の護国軍部隊が守備に就きます。


 海外報道により独軍のパリ接近が報じられる中、それはパリでも東方住民からの通報や当世流行の気球による偵察、騎兵斥候の報告などで確認され、トロシュ将軍は9月11日、到着したばかりのヴィノワ将軍率いる第13軍団に対し、防衛施設の建設が大きく遅れていたセーブル谷からサン=トゥアン(サン=ドニの南南西3.2キロ)に至るパリの西~北北西外周部分の守備を命じ、15日には編成がほぼ完了した新設・第14軍団をイブリー(=シュル=セーヌ)からムードン(シテ島の南西9.3キロ)に至るパリの南面に配置させ、第13軍団を西部から独軍迫る東面のヴァンセンヌとパリ東方高地に移動させました。


挿絵(By みてみん)

 ティエールの城壁上からサン=トゥアンを見る


 9月16日。トロシュ将軍は独軍占領地からの脱走に成功し数日前にパリに帰還したデュクロ中将を従えてパリ南面の防衛体制を視察します。

 この場でトロシュ、デュクロ両将軍は防御工事が間に合わないことを痛感し、特にディブリーからディッシーまでの5個分派堡塁を俯瞰することが出来る南部の高地を「戦わずして放棄するのは愚策」と考えます。

 17日早朝。トロシュ将軍は南面諸分派堡塁周辺で警備に就いていたピエール・イッポリート・プブリウス・ルノー中将の第14軍団を更に南下させ、クラマールからバニューまでの高地上へ前進させるのでした。


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