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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリへ!
328/534

パリの地勢と防御(前)

 パリ(1871年)


挿絵(By みてみん)


 フランスを代表する河川、セーヌ川は多くの支流を加えつつ仏北部を蛇行しながら流れます。その支流はウール川、エーヌ川を支流に持つオワーズ川、最長のマルヌ川、ロワン川、ヨンヌ川、オーブ川とどれも仏北部の主要河川で、パリはこの蛇行する河川中流域の広い谷間にありました。

 セーヌは川舟の通行に適した静かな流れで、流域には建設資材となる石材の産出地が多く存在し、肥沃な土地は農業に最適で、パリのあるイル=ド=フランス地域は大国の中心地に相応しい豊かな土地でした。

 また、パリの南110キロにあるロワール地方の中心都市オルレアンには、仏を代表するもう一つの大河ロワール川が流れ、この川は中仏と仏西部を結んでおり、ロワールの流域はオルレアンを介して首都パリと結ばれていたのでした。


 セーヌ川はパリで大きく2回蛇行し、その一つは比較的大きな弧を描いてシテ島を頂点にパリ市街を二分し、もう一つはその南西側で鋭角に曲がるとその内側にブローニュの森を包み、サン=ドニ付近でもう一度円弧を描いて南西へ流れて行きます。

 このブローニュの森を迂回する形で湾曲する「半島状」部分(ブローニュ=ビヤンクールからヌイイ=シュル=セーヌまでの部分)をここでは「ブローニュ半島」と呼びましょう。

 また、このブローニュ半島の北~西側の大湾曲部の「半島状」部分(ジャンヌビリエからサン・クルーまでの部分)を、その中心にある街の名を取って「コロンブ半島」と呼ぶこととします。


 このブローニュ半島は河畔を除きほぼ平坦な土地ですが、コロンブ半島は最高点が標高150m以上ある丘陵地となっており、この高地からはパリ市街を見通すことが可能でした。

 ブローニュ半島の東を流れるセーヌの谷底は標高35m内外で、両岸は高台となっており、その高低差はおよそ50mありました。その東側の高地は市内に向かってなだらかに下っています。


 パリを防御する側にとって、このセーヌ川は大変都合のよい障害でした。


 もし、東側からパリの南面を目指し進む軍(正に普仏戦争での独第三軍)があるとすれば、兵站物資の補給は案外細いマルヌ川両岸のいくつかの街道を経て行わなければなりません。マルヌ川を越えると森林地帯の多い高地が広がり、軍の行軍に適した街道は限られます。その先、セーヌを渡河する場合も橋梁は少なく、マルヌ合流点(シテ島南東6キロのシャラントン付近)より上流(南)では当時、東方から通じる街道と鉄道のセーヌ橋梁は数本に限られていました。

 本街道と鉄道は殆どがマルヌ合流点よりセーヌ下流(北)から渡河する形になっており、その下流側(北から西)も前述の二つの「半島」により防御し易い地形となっています。

 また、セーヌはマルヌ川と合流した後には幅が170m内外、水深は3から5mと深く、各所に取水口と浄化施設が作られており、市内では飲料水に事欠くことはほとんどありませんでした。

 セーヌ支流のマルヌ川もまたパリ東郊では幅75m内外、水深は2m以上、しかも大きく蛇行して湾曲部が多くあり、防御側が阻止線を設えるにはお誂え向き、この方面では東からの本街道と鉄道線が集中して橋梁もまとまってあったため、短時間で橋を破壊することが可能であり、攻撃側が難渋すること明らかだったのです。

 パリ市街北側には東西に横切るウルク運河と南北縦に走るサン=ドニ運河が幅12m、水深2mで流れており、両運河とその東側に多く流れる小河川も散兵線や氾濫地域を作る際に防御側が利用する存在でした。

 また、パリ南方より流れるビエーブル川はジャンティイ(シテ島の南4.3キロ)付近で市内へ入り(現在は暗渠となっています)ますが、この川の流域も民家は少なく、氾濫地域として有効でした。


 さて、パリ市内の地形は比較的平坦ですが、前述のセーヌ川沿いの標高35mを最低として、市内最高点はモンマルトルの丘(パリ18区、サクレ・クール寺院を中心とする丘陵地域。シテ島の北3.8キロ)の標高130mとなり、他にブローニュ半島のパリ市街側、森の東側(パッシー地区)も高台となっていました。


 パリ市街は1860年の行政区画改正で20の「区」に分けられ、これはセーヌの川中島シテ島を中心に、その北西セーヌ右岸を1区とし、ここから時計回りに渦を描いて(エスカルゴ、即ちカタツムリと呼ばれます)内から外へと順に行政区番号が振られ、最終20区はシテ島の北東3キロ付近のペール=ラシューズ墓地周辺となりました。


 この市街をぐるり取り囲むのは「ティエールの城壁*」です。


挿絵(By みてみん)

 ティエールの城壁


 ティエールの城壁とは、1830年革命で成立したルイ=フィリップ王政下で首相を務めたルイ・アドルフ・ティエール(以前も何度か記述した70年当時も有力な下院議員その人です)の提案によって、「大砲からパリを護る(=敵の砲列をシテ島周辺の市中心から射程外とする)ため」と称し(裏の理由としては非常時に市街を外部から封鎖・隔離し易くするため)41年から44年にかけて造られました。


挿絵(By みてみん)

 ティエール


 この壁は「軍事道路」(ルー・ミリテール)と呼ばれた現在のブルヴァール・デ・マレショー(「元帥通り」。第一帝政期の元帥の名を連ねるパリの環状通りの総称)のすぐ外側に建設され、全長は33キロ・囲われる部分の総面積はおよそ80平方キロ、第一次大戦終了時まで存在しましたが、近代戦では無用の長物と化しており(既に普仏戦争でもクルップ攻城砲の長射程により陳腐化が囁かれていました)、大戦終了後10年を掛けて撤去され、現在ではほんの一部が史跡的に残っているだけです。


 ※仏語ではアンサント・ドゥ・ティエールと言います。直訳すれば「ティエールの妊娠」になってしまうのですが、「妊娠」を「慈しんで包み込む(=護る)こと」と解すればなるほど、と。



 城壁とその付属施設は市民から「フォルティフ 」(フォルティフィカシォン「堡塁」の略です)と呼ばれ、稜堡94ヶ所、一般城門17ヶ所、専用(通用)城門8ヶ所、河川及び運河のための門5ヶ所、鉄道の出入り口8ヶ所が付けられていました。稜堡や後述する分派堡塁の連絡と補給には城壁内側を走る「軍事道路」と、これに沿って敷設されていた「プティト・サンチュール」(69年に全線開通)と呼ばれるパリ環状鉄道線(現在は廃線)が使用されます。


 城壁自体は「軍事道路」から外に向かって順に、6m高の胸壁、10m高・3.5m厚の内壁、幅40mの空堀、長く角度の緩い傾斜を持つ外壁、そして最外部に最長部分で250mほどの斜堤、という組み合わせで造られていました。


挿絵(By みてみん)

 ティエールの城壁(内壁と空濠)


 この「パリ要塞都市」の外側には、メッスなどの大規模要塞と同じく、分派堡塁や砲台・小堡が構築され、敵が無闇に城壁へ接近出来ないようにしてありました。


 1870年当時、パリの周囲には16ヶ所の分派堡塁がありました。


『要塞番号.名称/所在地区

 「ティエールの城壁」までの直線距離/シテ島からの方向と距離

 ※形状』


○北部

1.ドゥ・ラ・ブリッシュ堡塁/サン=ドニ

5.1キロ/北9.3キロ

※南側を鉄道堤に托した王冠堡塁

2.ドゥ・ラ・ドゥーブル・クロンヌ(二重王冠)堡塁/サン=ドニ

 5キロ/北10.1キロ

 ※南側をサン=ドニ市街北側に流れる小河川ルミヨン川に托した王冠堡塁

○北東部

3.ドゥ・レスト(東部)堡塁/サン=ドニ

 3.5キロ/北8.8キロ

 ※市街地東方にある本格方形稜堡

4.ドーベルビリエ堡塁/オーベルビリエ

 1.8キロ/北北東7.6キロ

 ※地階を備える本格五角台形稜堡。二つの独立砲台(A、B)を隷下とする。

○東部

5.ロマンビル堡塁/レ・リラ

 1.7キロ/北東6.5キロ

 ※三日月堡と中堤壁堡を補助施設として持つ方形稜堡。

6.ノアジー堡塁/ロマンビル

 3キロ/東北東8キロ

 ※三日月堡を持つ方形稜堡。

7.ロニー堡塁/ロニー=スー=ボワ

 4.7キロ/東北東9.3キロ

 ※三日月堡を持つ方形稜堡。二つの独立小堡塁(C、D)を隷下とする。

○南東部

8.ノジャン堡塁/フォントネー=スー=ボワ

 5.1キロ/東9.7キロ

 ※三日月堡を持つ方形稜堡。独立小堡塁(E)を隷下とする。

9.ヌフ・ヴァンセンヌ堡塁/ヴァンセンヌ城東

 2キロ/東6.7キロ

 ※規模の大きい方形稜堡。

10.シャラントン堡塁/メゾン=アルフォール

 3.2キロ/南東7.5キロ

 ※本格星形(五角)稜堡。二つの独立小堡塁(F、G)を隷下とする。

○南部

11.ディブリー堡塁/イブリー=シュル=セーヌ南

 2.5キロ/南南東6.3キロ

 ※本格星形(五角)稜堡。

12.ビセートル堡塁/ル・クレムラン=ビセートル南

 1.4キロ/南5.3キロ

 ※本格星形(五角)稜堡。

13.モンルージュ堡塁/アルクイユ西

 1.6キロ/南南西5.5キロ

 ※本格方形稜堡。

14.バンブ堡塁/マラコフ南

 2キロ/南西6.4キロ

 ※本格方形稜堡。

15.ディッシー堡塁/イッシー=レ=ムリノー南

 2キロ/西南西7.2キロ

 ※本格星形(五角)稜堡。

○西部

16.ドゥ・モン=ヴァレーリアン堡塁(城塞)/シュレーヌ西

 4.3キロ/西北西10.3キロ

 ※独立した本格星形要塞


 同じく、パリの周囲には分派堡塁の附属として、また、分派堡塁が構築出来なかった場所に補完として、以下の砲台や小堡塁がありました。


○北部

・クルト築堤(サン=ドニ東郊「二重王冠」堡塁の東からドゥ・レスト堡塁まで続く障壁)

・モンフォール築堤(ドゥ・レスト堡塁の南からサン=ドニ運河へ続く障壁)

・ヴェルテュ砲台(オーベルビリエ西郊外・サン=ドニ運河東縁)

・ラ=フレーシュ小堡(オーベルビリエ南郊外・サン=ドニ運河東縁)

・ルヴレ砲台(オーベルビリエ堡塁に附属/A)

○北東部

・パンタン砲台(ドーベルビリエ堡塁に附属/B。パンタンの北郊外、ウールク運河北縁)

○東部

・モントルイユ小堡(ロニー堡塁に附属/C。ノアジー=ル=セック郊外、パンタン砲台の東、ウールク運河北縁)

・ボワシエール小堡(ロニー堡塁に附属/D。ノアジー堡塁南東方、ロニー=スー=ボワの西)

・フォントネー=スー=ボワ小堡(ノジャン堡塁に附属/E。堡塁の北西方)

・フザンドリー小堡(ヴァンセンヌの森内。シャラントン堡塁の附属/F)

・グラヴェル小堡(ヴァンセンヌの森内。シャラントン堡塁の附属/G)

○南部

・サケー風車場(ビルジュイフ)小堡(ビトリ西)

・オート=ブリュイエール小堡(ビルジュイフ。ビセートル堡塁の前哨堡)

・バニュー小堡/未完(バニュー南)

・ドゥ=ラ=トゥール風車場(シャティヨン)小堡/工事中(クラマール東)

・ノートルダム・ドゥ・クラマール小堡/未完(クラマール北)

・ムードン小堡/未完(ムードン西)

○西部

・ポスティヨン小堡/未完(セーブル南)

・セーブル小堡/未完(セーブル東)

・モンルトゥー小堡/未完(サン・クルー)

・プティ=ナンテール砲台/未完(ナンテール)

○北西部

・シャルルブール砲台/工事中(ラ・ガレンヌ=コロンブ)

・コロンブ砲台/工事中(コロンブ)

・ジェンヌビリエ小堡/工事中(アニエール=シュル=セーヌ)

・ビルヌーブ砲台/未完(ビルヌーブ=ラ=ガレンヌ)

○西部

・サン=トゥアン砲台/未完(サン=トゥアン)


※防御施設の仏語

Digue  ディーグ 築堤

Batterie バトリー 砲台

Redoute ルドゥテ 独立堡塁

Forteresse フォルトレッス 城塞

Courtine クルティーヌ 中堤壁

Lunette リュネット 三日月堡塁


 この堡塁があるパリ郊外は当時、全国から首都へ向かう街道と鉄道が四方から延び、沿線沿道には小部落が点在し、その中間地帯には民家は少なく田園か荒野になっていました。

 ただし、北西側のサン=ジェルマン=アン=レー(シテ島の西北西19.5キロ)付近のセーヌ下流域からサン=ドニまでの間には例外的に民家が多くある部落が点在しています。また、サン=ジェルマン=アン=レーの対岸を先端とするコロンブ半島北側にあるセーヌ「三番目の大湾曲部」が作り出す半島は、その中央部に掛けて地形が隆起し緩斜面となり、フランコンヴィル(サン=ドニの北西10.7キロ)の南側で急激に高くなって標高170mとなる山となりますが、このサン=ドニからコロンブ半島を俯瞰する部分に仏政府は防御施設を造ることが出来ませんでした。


 サン=ドニ市は西をセーヌ、南をウルク運河に託し、その間に築堤と堡塁で固めたパリ北部の防衛都市でした。

 ここには市街北西側で鉄道と街道を制するドゥ・ラ・ブリッシュ王冠堡塁、市街北部に睨みを利かせるドゥ・ラ・ドゥーブル・クロンヌ「二重王冠」堡塁、市街南東部にあるドゥ・レスト「東部」堡塁と、堡塁と堡塁、堡塁と運河それぞれの間を埋めるクルト、モンフォール二つの築堤がありました。

 モンフォールの「壁」の終点であるサン=ドニ運河東縁には、ほぼ等間隔でヴェルテュ砲台、ラ=フレーシュ小堡などがあり、サン=ドニに迫る敵から運河の線を防御しました。これらの拠点は散兵壕や土塁などを設けて相互連絡されています。


挿絵(By みてみん)

 ドゥ・レスト堡塁


 サン=ドニの南、運河の東側にはオーベルビリエの街があり、この東郊外に造られたのが本格的稜堡のドーベルビリエ分派堡塁です。これはサン=ドニの堡塁群を補完するために置かれたもので、付近にルヴレ、パンタン二つの独立砲台を備えていました。ドーベルビリエ分派堡はサン=ドニより10mほど高い位置にあり、サン=ドニ市街の北を要塞砲の射程に収めましたが、ドゥ・レスト堡塁周辺は地形の陰となって制することは出来ませんでした。


 ウルク運河とマルヌ川までのパリ東郊外は大部分が丘陵地帯となっており、最西端の尾根はそのまま市内へ続いていました。

この高地は二つの渓谷で東、中央、西に三分割され、西側はロマンビルからモントルイユに掛けての高原となり、ティエールの城壁に接近しています。

 この西丘陵は北端付近でサン=ドニ方面を、中央丘陵は南端付近でマルヌの湾曲部を制することが出来る戦略要地で、西丘陵北端付近にある方形稜堡のロマンビル堡塁始め、その東1.8キロにあり中央丘陵の北端を抑えるノアジー堡塁、その南東2.5キロで中央丘陵の要となるロニー堡塁、更に中央丘陵南端でマルヌ湾曲部を俯瞰するノジャン堡塁と四つの堡塁が弧を描く形で並び、アヴロン山(現・コトー・ダヴロン公園部分)を最高点とする東側の丘陵を牽制していました。

 この稜堡間を埋めるように小堡が存在し、モントルイユ、ボワシエール、フォントネー=スー=ボワの小堡は高原の斜面にあって人口が比較的多いパリ東郊の部落により遮られる分派堡塁の射界を補っていたのです。これら堡塁も相互が連絡濠で結ばれていました。


挿絵(By みてみん)

 ノアジー堡塁遠景


 このパリ東郊外で有名なのは、ブルボン朝時代に「お狩場」だったヴァンセンヌの森で、ナポレオン1世時代以降は軍の演習場だったところ、ナポレオン3世が市民のための公園とした場所でした。森の北部、ヴァンセンヌ部落の南にはヴァンセンヌ城があり、長い間王城だったこの城館は18世紀後半には陶器工場となり、やがて刑務所となって革命に至り軍が接収して使用し、それは現在に続きます(現・仏軍国防史編纂本部)。

 この城館の東にあるのがヌフ・ヴァンセンヌ堡塁で、方形の大きな堡塁は周辺防衛の中心となり、森の南東側にフザンドリー、グラヴェル二つの小堡を従えていました。

 二つの小堡は森の南東端、マルヌの河岸段丘崖縁にあり、稜壁で連絡させた強力な「双子堡塁」でした。この場所からマルヌ川の巾着状となった湾曲部「口」に架かる「ジョアンヴィル橋」とその東側の街道筋を見下ろし牽制していたのです。


挿絵(By みてみん)

 ヌフ・ヴァンセンヌ堡塁平面図


 シャラントン堡塁はこのヴァンセンヌの森南側、マルヌとセーヌ合流点(クレテイユ部落の周辺地域)を護るために造られた、立派な掘割を持つ星形堡塁でした。

 この分派堡塁の北にはマルヌ川に架かる「シャラントン橋」があり、これは南方へ向かう常設の橋としてはパリ東郊有数のものでした。他にもこの地域にはパリ~リヨン鉄道、ムラン(シテ島の南南東42キロ)への街道(現・国道D6号線とN6号線)とプロバン(シテ島の東南東77キロ)への街道(現・国道D19号線からD619号線)分岐点を抑えており、セーヌ右(東)岸を北上、またはマルヌ川をセーヌへ向かう「敵」にとっては最大の障害でした。

 この堡塁の南東5キロ付近(現・当時はないクレテイユ人造湖の東側)はモン=メリーと呼ばれる丘陵で、例のマルヌ「巾着部」とクレテイユ地域を俯瞰する場所でした。


 クレテイユの西、セーヌ川を渡った左岸縁イブリーとビトリ部落からビエーブル川までの地域には、ビルジュイフ部落(セーヌ=マルヌ合流点の南西4.5キロ)の西にオート・ブリュイエール丘陵があり、最高地点は標高123mでその西側はビエーブル川の造る渓谷になっていました。この地域には本格星形(五角)稜堡の分派堡塁ディブリー堡塁とビセートル堡塁がありました。

 ディブリー堡塁はオート・ブリュイエール丘陵の東斜面突角部分(標高60m)にあり、セーヌ右岸のシャラントン堡塁と向かい合う形でセーヌ=マルヌ合流点を見下ろし、周辺地域を制圧していました。

 ビセートル堡塁は丘陵の北端付近にあって標高は116m、ビエーブル沿岸とティエールの城壁を見下ろしていました。

 しかし、この二つの分派堡塁はオート・ブリュイエール丘陵自体からは俯瞰されており、この防御の無い高地を奪われてしまうと「セダン」と同じ運命となってしまう危険性があったのです。


 ビエーブル川の西、「セーブルの谷」(シテ島の西南西10.5キロのセーブル付近セーヌ河岸からその西7キロのベルサイユへ続く谷)までの地域は、ビエーブル川西岸からセーブル谷に向かって緩斜面となる高地で、最高地点はベリジー=ビラクブレー(セーブルの南4.7キロ)周辺、ムードンの森付近にありました。この付近の高地(平均標高は180m)はムードン(セーブルの南東2.4キロ)の南に延びる谷で二分され、西のムードンの森と東のクラマール(セーブルの南東4.8キロ)の西森に分かれます。


 このビラクブレー高地は前述通り、北と東に向かって階段状に斜面を形成しており、この地域には階段状地形を利用した3つの分派堡塁がありました。

 その一番東側、ビエーブル川の西岸台地上にあるのがモンルージュ堡塁で、これは本格的な方形稜堡となってビエーブル対岸のオート・ブリュイエール丘陵西斜面を要塞砲射程内に収め、付近北側1キロのモンルージュ、同南南西1.5キロのバニュー、そして南2.5キロのブール=ラ=レーヌの諸部落を制する位置にありましたが、逆にオート・ブリュイエール丘陵尾根上や西側2.4キロのシャティヨン付近の高地からは俯瞰される危険がありました。

 二番目のバンブ堡塁もモンルージュ堡塁を一回り小さくしたような本格方形稜堡です。これは直ぐ南側のシャティヨン部落や北側のマラコフ、バンブを牽制し、東2.3キロにあるモンルージュ堡塁と西1.7キロにあるディッシー堡塁を繋ぐ役割を果たしていましたが、この堡塁も南側2.3キロにあるフォントネー(=オー=ローズ)部落西にあるクラマールの高地東突端部分から完全に俯瞰され、ここに砲列を敷かれると危険となる欠陥がありました。

 クラマールの北、セーヌの湾曲部突端を俯瞰し、ブローニュ半島南部とパリ市街南西部の守護となるディッシー堡塁は本格的な星形(五角)稜堡で、ムードン、セーブル二つの谷入口を要塞砲射程に収め、ここからセーヌ渡河又は西のベルサイユ宮殿へ進もうとする「敵」を牽制する役割を担っていました。しかし、この立派な分派堡塁にしても南側クラマールの高地から見下ろされる形となります。

 これら三つの堡塁は互いに地下道や散兵壕で連絡され、仏軍は更に土塁や鹿砦線を設けて突破を防ぐのでした。


挿絵(By みてみん)

 モンルージュ堡塁(戦闘の後)


 パリの西郊外、セーブル谷からコロンブ半島に掛けては、パリ市街より50から140mほど標高の高い丘陵が数多くあり、その尾根の多くはベルサイユ宮殿の北4キロ付近、ロカンクール部落周辺に延びています。ロカンクールの北西側はマルリー=ル=ロワの深い森林高地ですが、ここはパリ市街を見通すものの、当時の大砲の射程ではここに砲列を敷くことが出来たとしても市街には全く届かない場所でした。

 パリの防衛と攻撃に関係するのは、この高地より南東側の地域で、セーブル谷の北側に聳えるサン=クルー高地はパリ東郊外のヴァンセンヌと対称的な土地で、市街地を俯瞰することが出来、ヴァンセンヌにヴァンセンヌ城と公園があるのと同じくナポレオン1世のお気に入りだったサン=クルー城と広大な公園がありました。

 このサン=クルー高地の北にはボークレソンの高地とマルメゾンの森が、またその西はラ・セル=サン=クルーの高地が、それぞれセーヌの流れを湾曲させる「壁」となってありました。

 サン=クルーからコロンブ半島の付け根周辺では、ボークレソンの高地東端のギャルシュ(セーブルの北北西3キロ。標高は約170m)南郊外とサン=クルー公園の一部以外、深い森となっています。

 一方、その北のコロンブ半島に続く丘陵は、対岸のブローニュの森を臨む辺りで目立つ山となります。これがヴァレーリアン山で標高は161m、その頂上にはドゥ・モン=ヴァレーリアン堡塁がありました。

 この堡塁は分派堡塁ながら独立した要塞と同等の堅城で見事な星形五角形稜堡となっており、南はセーブル谷北縁から北はコロンブ半島と対岸のブローニュ半島を見通すパリ西側防衛の中心でした。この堡塁の死角となる麓は、パリのティエールの城壁から大砲で狙うことが出来ました。


挿絵(By みてみん)

 ティエールの城壁(一般城門)


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