9月4日・パリの政変
仏シャロン軍の全面降伏とナポレオン3世の捕虜という第二帝政最大にして最後の「大事件」について、その確報がパリに流れたのは9月3日、深夜のことでした。
これ以前、9月1日のセダン会戦当日夕刻、パリには「セダンにて一大会戦が行われ、マクマオン将軍がヴィノワ将軍の援軍もあり勝利を得た」との報道が流れます。これを追うように流れた第二報は、「メッスでもバゼーヌ将軍が独軍包囲網を破り、敗走するカール王子軍を追撃中」とのパリ市民が狂喜乱舞する内容だったのでした。
現在ではこの報道は「普参謀本部が流したデマ」だと信じる向きもありますが、確証はありません。しかし、一度朗報が流れた後に「それは間違いで凶報だった」とするやり方(挙げて落とす)は、現在にも通じる心理戦の戦術で、いかにも普軍の怜悧な秀英参謀が考えそうなことでもあります。
8月一杯、来る日も来る日も暗い報道ばかりが続いたパリでは、この「良い」ニュースは大々的に広がりますが、同時に真逆の内容も「噂」や「見聞」として広がり始めました。
曰く「セダンで激戦の末仏軍が敗退、そのほとんどが捕虜となった」、曰く「膨大な数の仏軍兵士が続々と仏白国境を越えて逃亡中」等々、それはベルギーや英国発の外電報道であったり、国境付近から送信された電報であったり、シャンパーニュから急ぎパリに入った旅行者の伝聞だったりするのです。
パリ市民だけでなく摂政政府も事実確認に右往左往しますが、最初に「セダンの運命」を報せたのは仏第13軍団長のヴィノワ将軍と言われており、9月2日午前11時着信のパリカオ首相兼陸軍大臣宛電信では「シャルルヴィル=メジエールに集合中の我が軍団はこれを中止。先鋒師団は再起のためランへ引き返す」とあり、更に首相を絶句させる文言が続き、「セダンとの連絡は途絶え、脱出に成功した将兵が我に合流、マクマオン将軍負傷とのこと」とありました。
そして首相の下にはこれを追うように、普参謀本部が代わって打電したヴィンファン将軍の「シャロン軍敗北・皇帝は捕虜」との電信が届くのでした。
3日夕方ともなると、市内の噂もほとんどが暗い内容に変わっており、海外報道でも「仏軍セダンで大敗」の見出しが踊ります。パリ市内も「やはり」という空気に満たされ、熱くなった市民の一部は街に出て誰彼と無く掴まえては噂を確かめ合い、これは市内各区で自然発生したデモへと発展して行くのです。
下院では「噂は本当か?」「真実を話せ!」との野次が響く中、パリカオ首相が沈鬱な表情で報告しました。
「形勢不利であることは認める。だが、シャロン軍はメッスのライン軍と合流するため戦っていることに違いない」
そして、言わずもがなのことを付け加えるのです。
「本官はある報告を受けているが、今はそれを諸君に伝える訳には行かない」
すぐさま共和派のジュール・ファーヴルが「質問!」と声を上げ、
「あなたは皇帝と連絡が取れているのか」
実はファーヴルは「皇帝が捕虜となった」との驚愕の噂を聞き及んでいたのです。
ファーヴルの質問は核心を突きました。パリカオ首相は言い淀んだ挙げ句、「ノン」とだけ答えたのです。
議場は静まり返ります。一瞬の後、ファーヴル議員の声が響き渡りました。
「わかりました、もう結構です。政府は既に無いものと考えます」
途端に議場は沸き返り、共和派や穏健自由主義派の少数議員と帝政を支持していたボナパルト派や保守派の間で激しい言葉の応酬が巻き起こり、最早収拾が付けられなくなったシュネーデル議長は「これにて閉会!」と叫ぶのでした。
この夜、摂政のウジェニー皇后も「間違いようのない凶報」を聞いて泣き叫びました。
これは内相のアンリ・シュヴローから一通の電文の形で伝えられたものでした。
「軍は敗北し、諸兵の前にて自害も叶わず朕は独軍の捕虜となる。これは、将兵を救うため致し方なし ナポレオンより」
皇后は喚きながら電文を破り、シュヴローの問い掛けにも耳を貸さずソファに顔を埋めるのでした。
ウジェニー皇后(1870年頃)
パリカオ首相からの要請を受け、下院議長のシュネーデルは3日の午後9時に再び下院を召集します。続々と集まる議員たちはみな緊張し、誰もが最悪の事態を予感し覚悟していました。
日付が変わった4日日曜日、午前1時。パリカオ首相は「シャロン軍は敗退し皇帝が捕虜となった」と簡単に告げます。怒号が響く中、首相は「しかし我らの気力は衰えず、パリは現在も独軍を跳ね返す能力がある。全国から予備軍が集合し、新設の一軍団(ヴィノワ将軍の第13軍団)はまもなくパリの隔壁下に到着予定で、他に一軍団(第14軍団)がロワール河畔で編成中である」と言い切ります。これはそのままパリ市内へ伝達され、市民も「セダンの悪夢」が「夢」ではなかったことを知るのでした。
ナポレオン3世が捕虜となったことにより、ルイ皇子は2日に遡って名目上の「摂政皇太子」(実権はパリにいた皇后のまま)となります。
下院では政府と保守派から挙国一致のために「行政委員会と国防委員会」の設置が提議され、国防委員会は「仏国土より独軍を追い出すことが最重要任務である」とされます。
対してジュール・ファーヴルら共和派議員を中心とした28名からは「皇帝廃位」の動議が提出され、再び左派と右派の怒鳴り合いが始まります。シュネーデル議長は再び「議会は本日正午まで休会!」と宣言、下院議会は僅か20分で終了するのでした。
この4日午前。晴天のパリは「何事か」が起きるのを、固唾を飲んで待っている、といった状況でした。怒れる市民の暴動も、大規模なデモも、「革命だ、バリケードへ!」の声も響きません。「マクマオンが負け皇帝が独軍に捕らえられた」という驚愕のニュースはじわじわと市民の心に染み渡っている最中のごとく、でした。
この頃、ウジェニー皇后はテュイルリー宮殿でパリ市の防衛司令官ルイ・ジュール・トロシュ将軍と会見していました。
トロシュは民衆にも人気のある将軍で、皇后や摂政政府にとって最後の「切り札」だったのです。
しかしトロシュ将軍は、政権の安泰と皇后の保護に対し「保証出来ません」と拒絶し、席を立ってしまうのです。
テュイルリー宮殿
この後、皇后は「最後の」閣議を開きました。この場では政府をロワール河畔のどこかへ移すことや議会の代表者による委員会と摂政政府とによる挙国一致内閣の樹立が画策されますが、その最中コンコルド広場(宮殿に隣接しています)で怒声が上がり、広場に次々と民衆が押し寄せるのを見た大臣たちは「ここを襲うかも知れない」と言い始め、「メリネを呼べ!」の声で皇宮警察長官メリネ少将が呼ばれます。
皇后はメリネに「宮殿を守ることが出来ますか」と尋ねますが、メリネはトロシュと同じく冷たく言い放つのです。
「それは無理でしょう。私の部下は民衆への銃撃を拒否するはずです」
既に首都の軍隊と将官たちは帝政を見限っていたのでした。
この直後、「皇帝廃位と摂政廃止」が議会で宣言される前に、その権限を議会へ委譲する(即ち「無血革命」とする)よう皇后に勧めようと議会再開前の下院代表たちが宮殿を訪れます。
皇后は即座に「そんなことはしない」と抵抗しますが、昼過ぎにはコンコルド広場とブルボン宮(下院議場)周辺での騒ぎはますます大きくなり(最終的には20万人の市民が押し寄せたため、さすがに広い広場や宮殿周辺からも人々が溢れ出た、と伝えられます)、恐怖に慄いた閣僚や、ウジェニー皇后の友人となっていた各国大使らも馳せ参じて「一刻の猶予もなりません。直ちに逃亡を」と口々に勧めたため、強気な皇后も遂に折れ、「マリー・アントワネットの二の舞」となる前に脱出することを決意するのでした。
ウジェニー皇后に亡命を決心させた「恐るべき」パリ市民は、この日も午前11時頃よりデモを開始し、それはたちまち昨日の規模を越えました。それは「静かな」デモで、沿道では暴力行為も破壊行為も見られません。そして軍隊や警察も行く手を阻もうとはせず、それどころか警察官や軍隊は何処かへ消え失せてしまったのです。デモはやがて下院と宮殿の至近にあるコンコルド広場へと進んで行きました。
この「静かに待つ」態度を示す十数万人の市民に注目される中、下院は午後1時過ぎにようやく再開に漕ぎ着けます。
会議冒頭、パリカオ首相は「テュイルリー宮におられる皇后陛下は退位を決心され、身の安全を確保する以外武力に訴えることはせず、国民の決定を尊重するだろう」と語り、「既に皇后陛下は宮殿より出発の準備をなされている」とするのです。
次いで発言を求めたのは、この政変の主役に躍り出たジュール・ファーヴルでした。
彼は「下院の権限により直ちに皇帝廃位を宣言しよう」と声高に訴え、賛同した左翼側議員や日和見の中間派(王党派など)の一部も賛成の声を上げます。
これに対しパリカオ首相は「急激に政権交代をするのは無理がある」として当座は摂政政府に権限を残すよう要求、そこへ王党派のティエールが先の政府案である二つの委員会と摂政政府との「挙国一致内閣案」を支持する発言をし、正に「三つ巴」となった下院は紛糾し始め、議長のシュネーデルが再び休会を宣言した直後、セーヌ対岸(右岸)のコンコルド広場にいたはずの群衆が議会場に侵入し始めたのです。
この群衆の先頭に立ち、制服を着用して一部は武装し一部は手ぶらで乱入した集団は、パリの国民衛兵でした。
フランスの国民衛兵とは、護国軍や義勇兵部隊ともまた違う民兵組織で、元を正せばフランス革命時に国王の軍の代わりとして国民から徴募された民兵でした。
時の政権によりその存在意義は変わりますが、第二帝政末期では「革命」の温床として恐れられ、8月初旬までのエミール・オリヴィエ政権では25から30歳までの既婚男性による編成が計画されますが、パリカオ政権に変わった後の8月12日、ウジェニー摂政政府は「穏健な思想を持つ成年男子」による60個大隊をパリに編成し、治安と市内警備に充てていました。
この日、パリの各区から自然召集の形で集まった彼ら国民衛兵は、民衆のデモに合流するとコンコルド広場に集合し、民衆の「圧力」に押される形で先頭に立つと、1個大隊が先導する形で広場を横切り、護国軍のパリ守備隊により警備されていたはずのブルボン宮に侵入しました。ところが、セーヌ左岸にいたはずの守備隊は既に撤退した後で、国民衛兵と群衆がコンコルド橋を渡り切ると宮殿の中庭に残っていた守備兵の多くは「平和的」に撤収するか群衆に加わり、国民衛兵部隊は護国軍に代わり下院を取り巻きました。
群衆は次第に大胆となり、錬鉄の格子柵を潜り抜けた群衆と国民衛兵により議場を護る衛士たちは襲われて武装解除されるのでした。
後に包囲下でパリ市長となる共和派下院議員のジュール・フェリーは、後日「パリ市民は48年の革命と違い暴力的でなく、ナポレオン3世は既に倒れたと得心して、まるでお祭り騒ぎだった」と回想しています。
国民衛兵と民衆はこうして「帝政を廃せ!」「共和国万歳!」等と叫びながら議会に乱入して議員たちを取り巻き、下院による「帝政を終わらせる」ための議決を求めました。
しかし忘れてならないのは、下院議員は7月中旬、あの普王国との戦争を決議した時、10名を除く議員が「皇帝万歳」と叫んで熱狂的に参戦に賛成票を入れ、また、議長を含めその大多数が右翼で皇帝の支持層、ボナパルト派なのです。当然ながら皇帝廃位においそれとは賛成する筈もなく、議会はたちまち怒号飛び交う舌戦の場となります。
ここで議長はまたもや議会閉会を宣言しますが、これは群衆の怒号によって遮られ、解決策を探す群衆に「元の宰相ならばこの混乱を収拾出来るはず」と目を付けられた王党派の重鎮アドルフ・ティエールは、多くの市民や銃を持った国民衛兵から「動議を!」と迫られ、「帝政政府に代わる臨時政府の成立宣言」をすべきという「動議」を提案します。
この動議は取り巻く群衆からは喝采を浴びますが、議長が「閉会」を宣言した後だったため(と言うより、ボナパルト派の抵抗で)、動議は採決に至りませんでした。
こうして議会が政変の「産みの苦しみ」を味わっている頃、コンコルド広場や宮殿の周囲を取り巻く大群衆は次第に焦れ始めて怒号を上げ、遂に流血の革命が始まるのも時間の問題となります。
それは議会内へも伝染し不穏な空気を察したファーヴルは、せっかくこちらに「風が吹き始めた(=無血革命による共和制への移行)」のに「大嵐(=流血の革命と極左の台頭)」を招いては全てが台無しになると焦り、苦し紛れに群衆と国民衛兵たちに対し「共和制の宣言はパリ市役所(オテル・ドゥ・ヴィル)で行うべきではないか?」と意外な提案をするのです。
確かに過去、1792年、1830年、1848年と3回の革命による政権交代宣言は全て国会ではなく市庁舎で行われています。この提案は群衆に大いに受け、「市役所だ!市庁舎へ行け!」の叫び声が挙がると、人々は雪崩を打って議場を後にし、群衆に半ば連行される形でシテ島の向かい側、セーヌ右岸の市庁舎(ブルボン宮からは道程で3キロ強)へ向かったのはファーヴルやピカール、ガンベタ、シモン、フェリーと言ったパリ市選出の共和派議員たちでした。
この議員たちは群衆に押されるまま市庁舎に入り、ファーヴルらは2階の「王の謁見場」で革命を宣言しました。その場で共和派による共和国成立を既成事実とするため、共和派の舌鋒、レオン・ガンベタはテラスに出ると、市庁舎前のパルヴィス(前庭)を埋め尽くす群衆に向け、閣僚予定者(当時投獄されていた急進共和派のジャーナリスト、アンリ・ロシュフォールを除き9名全てがパリ選出の穏健共和派下院議員)の名前を読み上げ、その誰もが大歓声で受け入れられると「新政府は国民(=パリ市民)に承認された」として、高らかに共和国成立を宣言しました。
後に第二次世界大戦での仏敗北(1940年)まで続く第三共和政は、こうしてパリ選出の穏健な共和主義者の下院議員が主導することで始まるのです。
パリ市庁舎で共和国成立を宣言するガンベタ
しかし、「革命」は臨時政府が成立しただけでは終了しません。政権奪取に成功したファーヴルらが至急考えなくてはならないことは、今なお進行中の戦争をどうするのか、と言う事と、首班を誰にするか、そして一時蚊帳の外に置くこととなった下院(くどいようですがその大多数は帝政を支えたボナパルト派です)の取扱いでした。
一番目の「戦争を続けるか、止めるか」の答えは既に出ています。ファーヴルたちが立ち上げた新政府は「国防政府」と呼ばれるのです。
穏健共和派を政権に押し上げた群衆、誇り高きパリ市民は「一度も勝てなかったナポレオン3世」を見限った訳で、新政府には「独への勝利」を望み、その殆どが独との継戦を望んでいました。1ヶ月半前には開戦動議に反対した共和派ですが、今や彼らもポピュリズムの波に乗ってしまった訳で、表立って反戦を訴える訳にはいかなかったのです。
その結果二番目の問題、首班を誰にするか、も答えは出ました。
通常ならば革命で政権を倒した「新」政権は、その首班に革命主導者を選ぶでしょう。この場合、ジュール・ファーヴルや「目立つ」レオン・ガンベタがそれに当たりますが、今は戦時、その首班は「軍人」であることが当時は自然と言えました。独軍はパリを目指し急進して来るはずです。そこで彼ら穏健共和派はある男へ政権の長となることを依頼するのです。
それがトロシュ将軍、民衆に支持される首都パリ防衛に責任を持つ陸軍中将でした。
トロシュは第三共和政初代大統領職を受諾するよう要請された時、穏健派共和党に対し「断固として教会、国民、その財産を守り抜く気はあるのか」と尋ね、彼らから「ウイ」の答えを得ると、「国防政府」の大統領職を受けたのでした。
トロシュ大統領
最後の「立法府」である下院の対処は難題でした。
午後5時、市役所からファーヴルらは下院へ引き返します。その後ろからは例の国民衛兵と市民たちが意気揚々と続きました。
下院は「少数派」の穏健共和派が消えたことなどお構いなしに「次」をどうするかの議論を再興しています。そこへファーヴルらが乗り込み、国民衛兵たちを背後にしたファーヴルは「臨時の国防政府が先程市庁舎で樹立した」と告げたのです。
これはボナパルト派多数の議員たちをいたく刺激し、彼らは一斉に立ち上がると抗議の声を張り上げるのでした。
しかし、王党派の長老、ティエールは違いました。彼は発言を求め静粛を求めると、「今や祖国の危機に対して犠牲を覚悟し団結すべきであり、下院は一旦威厳を以て解散すべきである」と訴えるのでした。議論は続きますが、結局、帝政は「死に体」であることを認めざるを得なくなった「多数派」のボナパルト派は解散動議に反対することは出来ず、午後6時、下院は解散を宣言、ここに第二帝政は終わりを遂げたのでした。
仏国防政府内閣(70年9月)
この政権交代劇が急テンポで進められていた頃。ウジェニー皇后は見捨てられた形でテュイルリー宮殿(庭園とルーブル美術館部分のみ現存)に取り残されていました。
この時、彼女の傍に控えていたのは侍女のルブルトンだけと言う何とも掌が返ったような仕打ちであり、ウジェニーは侍女と共に大至急手荷物をまとめ、宝石や貴金属などを旅行鞄に詰め込むと、日が暮れ闇に沈んだ宮殿からひっそりと脱出行を開始します。
既に宮殿の門は群衆に抑えられていたため、ウジェニーたちはセーヌ河畔に沿って延びる「ルーブルの回廊」を抜けて現・美術館のサン=ジェルマン=オセロワ教会に面した出口から表へ出ます。この時、ウジェニーの宮殿脱出を助けたのは友人のオーストリア=ハンガリー帝国駐仏大使リヒャルト・クレメンス・フォン・メッテルニヒ=ヴィンネブルク侯爵とイタリア王国駐仏大使コンスタンティーノ・ニグラ伯爵であったと言います。
この教会前の通りも群衆が徘徊していましたが、ニグラ大使が急ぎ辻馬車を調達し、何百万フランもする貴金属の入った荷物を放り込んで飛び乗った「前」皇后とその侍女は、これも友人でアメリカ人歯科医トーマス・ヴィルトベルガー・エヴァンスの邸宅へ向かい、ここで一晩匿ってもらった二人は翌5日、夜の明ける前に邸宅を出て馬車でパリを脱出、ノルマンディーの港町ドーヴィル(パリの西北西175キロ)へ辿り着いたウジェニーは、船に乗って英国へ向かったのでした。
最初、皇后は生まれ故郷のスペインへ向かおうと考えますが、その道程は長く危険であり、結局諦めて、友人であるエリザベス女王に庇護を求めようと、行き先を英国としたのです。
ニグラ
メッテルニヒ大使夫妻
一方、2日間だけ名目上の「摂政皇太子」となっていたルイ皇太子は、セダン会戦直前に父皇帝の命令でセダンを去り、9月4日、3名の側近を連れて国境を越えベルギーへ脱出します。同月6日に海峡を越えて英国はドーバー(言わずと知れた英仏海峡の街。ロンドンの東南東108キロ)へ上陸し、8日、30年前に父も滞在したヘースティングス(ドーバーの南西60キロ)のマリンホテルで母皇后と涙の再会を果たしたのでした。
ルイ・ナポレオン皇太子(1870年)
殆ど無血で達成された1870年9月4日の革命(皇帝の紋章が剥がされるなど多少の破壊行為が見られただけでした)により政権を掌握した仏共和党は早速「足固め」に取りかかります。
新政府は最初に仏国民に向け、共和国成立と「独との戦争が政府第一の任務」と表明、内務大臣に就任したガンベタは地方政府に対し、「我ら共和党政権は挙国一致の『国防政府』であり、侵入外国軍に対しては戦闘を継続しこれを勝利に至るまで貫徹するものである」と宣言、帝政任命の各県知事ら地方政府高官を解任し、共和派の地方名士や弁護士、軍人を新たな知事や官吏に登用、その彼らに対し「貴官第一の任務は我ら中央政府と共に祖国の危機を救うことであり、熱意と誠意を以ていかなる犠牲をも厭わず戦おうとする国民と共闘せよ」と檄を飛ばしました。
また、外務大臣に就任したファーヴルは6日、各国の駐仏大使に書簡を送付し、「我らは独に対し1センチの国土も割くことなく、要塞の積石ひとつ与えるものではない」(=即ち戦争継続の強い意志)と表明しました。これを知ったパリ市民はこれに加え「また、国庫の1ルーブルをも与えはしない」と唱え、同時に発表された「戦争は我ら斃れし後に止まん」の標語は全国に流布され強力な反独スローガンとなったのでした。
このように少数の下院議員(およそ30名)しか存在しない共和党が圧倒的多数のボナパルト党(議員数は共和党の10倍)を沈黙させることに成功したのは奇異と思えるかも知れませんが、この時代までは、「パリを征する者はフランスを征す」であり、帝政に辟易していた200万パリ市民の「波」に乗ったファーヴルたちは、正にポピュリズムの「バスに乗り遅れなかった」人たちなのでした。
地方では首都ほどの熱狂は起きませんでしたが、一部では混乱も見られ、ボルドーやニースなどではデモ隊が暴れ、トゥールーズやリヨンでは明らかに極左・過激派寄りの連中が地方政府を牛耳るのです。
しかし内務大臣のガンベタが、ナポレオン3世の帝政政府が任命した県知事ら地方政府高官を解任しても、地方のボナパルト派は「半分は諦め」の気分で革命を受け入れ、穏健共和派に反感を持っていた連中も、挙国一致の掛け声には賛同し、対独という点では協調したのでした。
国防政府は既にパリに向け動き出している独軍に対し、野戦で阻止する兵力を展開するのは時間的にも不可能と判断し、急ぎパリの防衛力強化に資材人材を集中投入することとします。これは熱狂した市民の協力を得て、パリは急速に防衛都市へと変貌して行くのでした。
一方で国防政府は、「パリ危うし」の声を背景に仏への同情を得るため、王党派の重鎮で元首相、ヨーロッパ各国(王家)にも顔の知れたルイ・アドルフ・ティエールに対し、「欧州各国を歴訪して仏の立場と仏への支持を懇願して貰えないか」と要請します。ティエールはこれを受け、9月12日にロンドンへ渡り、以降サンクトペテルブルク(ロシア)、ウィーン(オーストリア=ハンガリー)を訪問し、各国元首や首脳と会談するのでした。
同時に、パリの包囲が確実視されるようになると、首都が包囲されても外交や地方内政を統括するため、政府代表としてユダヤ人にして48年の革命時に王党派から穏健共和派に鞍替えした新・司法大臣アドルフ・クレミュー、軍代表として新・海軍長官のレオン・マルティン・フリション中将を中仏の中心都市トゥール(Tours。パリの南西200キロ。ナンシー西の要塞都市Toulとは違います)に送り出しました。
しかし、政権を担う共和党穏健派は元々戦争には反対であり、ポピュリズムの手前、表では勇ましいことを言うものの、裏面では密かに「終戦工作」を展開し始めました。
現実を直視すれば、200万市民と10万の軍隊をパリに籠城させれば、数ヶ月後には飢餓が訪れて悲惨な状況となり、また戦争が長引けば長引くほど国力は衰退し、戦争終結後の国力は三流国に転落する可能性が大きくなるのです。
この政権発足時の閣僚で徹底抗戦に燃えていたのはガンベタ位なもので、他の全員は戦争継続など国の自殺行為と正確に判断していたのです。
「そもそも戦争を始めたのはナポレオン3世で、新政府の主要人物はみな戦争に反対したのだ。新政府に戦争を継続する理由は存在しない」そう考えたジュール・ファーヴルは「パリで仏独が戦う前、新政権主導で戦闘を始める前なら独側も和平交渉に乗る可能性が高い」と考え始めるのです。
9月9日。ファーヴル外務大臣は表向き表敬を装い、駐仏英国大使のリヨン卿(初代ライアンズ子爵リチャード・ビッカートン・ペメル・ライアンズ)と会談します。そして「和平を探るため、ビスマルク伯と密かに会見したいのですが」と仲介を依頼するのでした。
リヨン(ライアンズ)卿




