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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリへ!
326/534

マース軍とフォン・デア・タン「軍」のパリ進撃

独マース軍のパリ進撃

※Web地図等と併せご覧ください。


挿絵(By みてみん)

 正式には「フリードリヒ・アウグスト・アルベルト・アントン・フェルディナント・ヨーゼフ・カール・マリア・バプティスト・ネポムク・ヴィルヘルム・クサヴァー・ゲオルグ・フィデリス・フォン・ザクセン」というザクセン王家伝統の長い名前を持つザクセン王国王太子、セダン会戦当時42歳と「脂の乗った年頃」のアルベルト・フォン・ザクセン歩兵大将率いる独「マース」(ムーズ川の独語読み)軍(史料によっては「独第四軍」とも)は、セダン会戦後の9月3日、前衛部分がマルミ(セダン城の南西13キロ)~ストンヌ(同南17キロ)近郊に進みますが、既述の理由(捕虜の護送、補給状況など)で前進は捗らず、結局4日となってもヴォンドゥレス(セダン城の南西15.5キロ)~ル・シェーヌ(ヴォンドゥレスの南10.3キロ)の線(バール川)を越えられませんでした。


 セダン会戦の混乱でアルベルト王子の三歳年下、公私共に「ライバル視」される普フリードリヒ皇太子率いる独第三軍はマース軍の「先」に出て、このため独大本営の出したパリへの進撃命令でも「先」に西進を始めたため、アルベルト王子としても少々焦燥を覚えたものと思います。しかし、兵站物資や欠員の補充、兵員の疲弊度を考えても無茶は出来ず、王子はムーゾン在の本営で押し寄せる各種情報を整理し対処する命令を出しつつ我慢の時を過ごしました。


 そんな3日の午前中。一つの情報がアルベルト王子の目に止まります。

「モンメディ要塞は護国軍部隊が守備しているのみ」

 王子はここで、「シェール川沿いに取り残されたベルギー国境にも近い交通の要衝モンメディ(ムーゾンの東南東23キロ)を今のうちに攻略しても良いのではないか」と考えるのでした。


 この時点(9月3日)でモンメディに一番近かったのは、カリニャン(ムーゾンの北東7キロ)周辺に宿営していた普近衛軍団で、先の報告も近衛軍団の斥候が届けたものでした。

 アルベルト王子は3日午後、普近衛軍団長アウグスト・フォン・ヴュルテンベルク親王騎兵大将に対し、「明日中にモンメディ要塞を攻撃し可能ならば占領せよ」と無茶とも思える命令を出すのです。しかも命令には続きがあり、「この攻撃のために翌日(5日)のパリ進撃初日の行程を遅延・変更してはならない」と更なる困難な「縛り」を付け加えたのでした。


挿絵(By みてみん)

 モンメディ周辺


 この普仏戦争まで、普王国とは決して良い関係ではなかったヴュルテンベルク王家の歴とした親王(現国王の甥)であるものの、十代から普軍に奉職しヴィルヘルム1世国王からの信頼も熱いアウグスト親王は午後6時、アルベルト王子の命令を受領し、この任務を軍団砲兵部長の公爵クラフト・カール・アウグスト・エドュワルド・フリードリヒ・フォン・プリンツ・ツー・ホーヘンローエ=インゲルフェンゲン少将に託しました。

 ホーヘンローエ将軍は近衛第2旅団、近衛槍騎兵第1連隊の2個中隊、同第3連隊、近衛第1師団砲兵(重砲第1,2、軽砲第1,2中隊)、軍団砲兵(重砲第3,4、軽砲第3,4、騎砲第2,3中隊)、近衛工兵第1中隊、野戦軽架橋縦列という強力な支隊を引き連れると日付の変わる午前12時、宿営地を発しました。

 ホーヘンローエ支隊は午前6時にトネル(モンメディの北3.8キロ)に達し、将軍は先にモンメディへ偵察に送った士官斥候の報告から、「要塞は北西から南を経て東面にかけては登攀不可能な起立した岸壁上にあるものの、北から北東方向にかけては高地が繋がっており、この方面より接近すれば攻略も可能」と判断します。

 ホーヘンローエ将軍は部隊を三分して、その一つにトネルの南西に広がっていた森林地帯を越えさせて要塞の西面に布陣させると、もう一つをモンメディ部落の北へ進めて要塞北面の高地に布陣させ、残った歩兵1個大隊と騎兵3個中隊を東側へ送り、要塞の三方を包囲する形とします。

 この時、西には軽砲と騎砲、北には重砲の各中隊が砲列を敷き、これら普近衛の砲兵中隊は午前9時30分、要塞に対し一斉に砲撃を開始しました。一時間後の午前10時30分になると、西側の軽砲と騎砲兵諸中隊が前進し始め、最終的には要塞から1.5キロとなる北側の一軒農家まで進み砲撃を加えます。


挿絵(By みてみん)

モンメディ部落と要塞


 要塞の砲兵はトネルの南高地に布陣する重砲砲列に対してのみ応射し、他には砲撃を行いませんでした。

 要塞内で火災が発生するのを確認したホーヘンローエ将軍は午前11時に砲撃を中止させ、トネルの村長を要塞に送って開城を勧告させます。

 これは接近した普軍軍使に対し要塞から激しい銃撃が加えられ、要塞からは「例え軍使であってもこれを射殺する」との声が挙がったための処置です。

 しかし、刻限を過ぎても村長は要塞から戻らず、ホーヘンローエ将軍は再び砲撃を命じましたが、再開約一時間後、再び砲撃中止を命じました。これは以前もトゥールやベルダンで呟かれた「野砲ではこれ以上の損害を与えることが出来ない」という「常識的」判断によるもので、午後も日が傾き始めたことでホーヘンローエ将軍は要塞攻略を断念し、支隊は隊列を組むと、ムーゾンに向けて去って行ったのでした。

 この日の夜ムーゾンに至ったホーヘンローエ将軍は、下士官兵2名の戦死、同2名の負傷、馬匹6頭の損失、各種榴弾3,812発の消費を報告しています。


挿絵(By みてみん)

9月の砲撃被災後のモンメディ


◇9月5日


 5日。グスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン大将の第4軍団はヴォンドゥレスに達し、ゲオルグ・ザクセン王子の第12「S」軍団はラ・ブサス(セダン城の南16キロ)に、近衛軍団とアルベルト王太子の本営はムーゾンにありました。


 マース軍麾下となったばかりの騎兵第6師団はこの日、シャトー=ポルシアン(ルテルの西北西9キロ)に達しますが、ランへの進撃を命じられていたメクレンブルク=シュヴェリーン親王ヴィルヘルム中将は、驃騎兵第16「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン」連隊の一部を斥候隊としてラン方面へ送りました。

 この斥候隊はエップ(ランの東8キロ)付近で仏軍歩兵と邂逅しますが大事に至る前に撤退、シャトー=ポルシアンへ引き上げた斥候隊は「ラン付近にかなりの兵力(仏第13軍団のドゥ・モーユイ師団)が野営中」と報告しています。 


◇9月6日


 騎兵第6師団はこの日本隊をシャトー=ポルシアンに留めて休息させますが、早朝、槍騎兵第15「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン」連隊の強力な斥候隊をラン方面へ送り出します。この斥候隊は「ランに敵の大兵力が集中」と報告し、続いて「敵は鉄道を利用し西へ向けて退却中」と報じて来ました。

 斥候隊からは1個小隊が市内へ侵入し、これに対してラン市の守備隊は城門を閉ざし普軍槍騎兵を「袋の鼠」としますが、槍騎兵小隊は猛烈な銃撃を冒して脱出を試み、3名の負傷者を残しただけで逃走に成功しています。彼らは「ラン市内の防御は護国軍部隊が行っており、要塞には重カノン砲20門が存在」という貴重な報告をするのです。


挿絵(By みてみん)

 ランの要塞


 この日、第4軍団は西へ進んでポワ=テロン(シャルルヴィル=メジエールの南南西14キロ)に、S軍団はル・シェーヌに、近衛軍団とアルベルト王子の本営は共にヴォンドゥレスとその周辺にそれぞれ前進しました。

 既述通りフォン・ラインバーベン中将の騎兵第5師団はこの日からマース軍所属となり、ランスを出てヌフシャテル=シュル=エーヌ(ランスの北26キロ)へ北上しています。


◇9月7日


 7日夕刻までに、第4軍団はシニー=ラベイ(ノヴィオン=ポルシアンの北11キロ)に、S軍団はエコールダル(ルテルの東16.6キロ)に、近衛軍団はポワ=テロン、軍本営はロノワ(=シュル=ヴォンス。ルテルの北東20.5キロ)にそれぞれ前進し、騎兵第5師団はヌフシャテルで休息日(8日まで)となりました。


 騎兵第6師団はこの日、サン=カンタン=ル=プティ(ランの東33キロ。付近の都市、サン=カンタンとは違いますので注意が必要です)へ進むと、槍騎兵第15連隊長グスタフ・ヘルマン・フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐を軍使として要塞都市に送り込み、大佐はラン市と要塞の防衛司令官シャルル=ルイ・テルミン・ダーメ少将に開城を迫りました。テルミン将軍は「熟考したい」として猶予を申し出ますが、大佐は「18時間後に再び訪れるが、そこで降伏・開城しなければ市と要塞は焼かれるであろう」と警告し要塞を後にします。帰って来た大佐は「市内の様子からして、市民の多くは降伏を望んでいる」とヴィルヘルム親王に報告したのです。


 ランの防衛司令官テルミン将軍は苦悩します。つい2日前、ランとその近辺にはヴィノワ将軍の2個師団がいましたが、「新」政府の命令でパリへと去ってしまいました。残された部隊には正規軍兵士は僅か100名程度で、残り2,000名は護国軍兵士でした。協力的な市民もそう多くはなく、ラン市内には既に厭戦気分が漂っていたのです。


挿絵(By みてみん)

 テルミン


◇9月8日


 この日、本隊がサン=カンタン=ル=プティに留まった騎兵第6師団は、前衛として騎兵第15旅団に騎砲兵1個中隊を付してアティー(=ス=ラオン。ランの東郊外1キロ)まで進ませ、ここから再度軍使をラン要塞へ送って降伏を勧告します。テルミン司令官が答えるには「パリに去就を問い合わせるのでもう24時間待って欲しい」とのことでした。親王ヴィルヘルム中将はこれを承諾しますが、その間に、この日シャトー=ポルシアンに至った第4軍団へ増援を要請、G・アルヴェンスレーヴェン将軍は麾下の猟兵第4「マグデブルク」大隊を馬車に乗せてエップへ進出させ、同じく第4軍団砲兵隊から騎砲兵第2中隊を抽出し、急ぎサン=カンタン=ル=プティへ送るのでした。


 8日、近衛軍団はスリー(ルテルの北8.3キロ)へ、S軍団はルテルへ、軍本営はノヴィオン=ポルシアン(ルテルの北北東11キロ)へ到着しています。


◇9月9日


 早朝、サン=カンタン=ル=プティを発した騎兵第6師団本隊は、午前11時にエップに至ります。

 普軍騎兵師団を前にしたラン市の防衛司令官テルミン将軍は、開城を決断して普軍に通告したため、ヴィルヘルム親王は猟兵第4大隊と共に行進してランへ入城しました。

 その後、同大隊第4中隊はランの衛星部落ヴォー(ラン大聖堂の北東700m付近)で警戒任務に就き、騎兵第14旅団は市街地脇に集合、騎兵第15旅団は要塞の各出入口を見張りました。市場に入った猟兵第4大隊の第2,3中隊は市街の城門に散ってこれを守備し、同第1中隊は要塞の各出入口で仏軍衛兵と交代、堂々要塞内へ行進すると、要塞の中庭には約2,000名の護国軍兵士と、正規軍の戦列歩兵第55連隊の半個中隊が武器を地面に置いて待っていました。

 これを見たヴィルヘルム親王は、正規軍の下士官兵を捕虜として後送させ、士官と護国軍兵士については「釈放後は本戦争中、独各国に敵対する行動を一切取らない」との誓約書に署名させて解放させたのです(護国軍兵士が約束を守るか疑問もありますが、セダン会戦で大量の捕虜を得た直後ということと、騎兵師団は軍先鋒としてパリへ急ぐ必要もあり、護送する手間を考えれば仕方がなかったものと思われます)。


 ところが、ヴィルヘルム親王とテルミン将軍が見送るなか、仏軍最後の兵士が要塞から外へ出た瞬間、轟音と共に二回連続して巨大な爆発が発生したのです。


 爆発の結果は悲惨で、要塞の中庭と周辺施設は完全に吹き飛び、要塞に隣接した市街地の一部も被害甚大となります。

 要塞内と近辺にいた普仏将兵は多くが死傷し、その数、仏軍が士官11名と下士官兵230名の死亡、士官10名と下士官兵150名の負傷を記録(独側記録では死傷300名としています)、普軍は士官3名と下士官兵39名が死亡(その多くが猟兵でほとんどが即死でした)、士官12名と下士官兵60名、それに従軍牧師が負傷しました。負傷者には師団長の公爵ヴィルヘルム・ツー・メクレンブルク親王*と公の直ぐ側にいた参謀フォン・シェーンフェルス少佐も含まれていました。また、槍騎兵第3連隊長の伯爵フォン・デア・グリューベン大佐も頭部に軽傷を負っています(市民の死傷は不明ですが普仏将兵より多かったものと想像されます)。

 ヴィルヘルム親王は痛みに耐えつつ「これは敵の裏切り行為」として市街地を焼き払うよう命じました。ここにG・H・フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐が間に立ち、親王を宥めて後送させると、一時的に市街の名士10名を「普軍の安全を確保する人質」と称して拘束し、愛すべき師団長が負傷したことでいきり立っていた将兵を落ち着かせて街の破壊を留めるのでした。とはいえ、仏側はこの時、普軍の残虐行為(護国軍兵士や義勇兵、市民に対する虐待・虐殺)があったことを主張しています。


挿絵(By みてみん)

 ラン 1870.9.9


 後にこの爆発の原因は、要塞の砲兵隊所属で銃火器の管理係だったアンリオが火薬庫に放火し自爆した結果と判明しました。爆発した爆薬は2.6トンだったと言います。

 爆発の時、未だ中庭にいて重傷を負った防衛司令官のテルミン将軍も爆破に関与したのではないか、と疑われますが、詳細な尋問を受ける前に死亡したため嫌疑は永久に不明となってしまいます。

 普軍が破壊された要塞内部を捜索した結果、各種大砲25門、小銃200丁、そして誘爆せず残った大量の弾薬が発見されました。


※「プリンツ・シュナップス」は一命を取り留め、独軍のパリ包囲中に戦列へ復帰します。後に騎兵大将へ昇進し、戦後第22師団長にもなりました。こうして大公家の「黒い羊」はメクレンブルクの名に恥じぬ名誉を得ますが、ランで受けた怪我の後遺症は思わしくなく、公務に耐えられぬとして75年に依願退役、79年、後遺症治癒のため手術を受けますが、その最中に死亡してしまいました。享年52歳。


挿絵(By みてみん)

ヴィルヘルム・メクレンブルク親王


 この日、マース軍はパリへの進撃を本格化させ、第4軍団は軍右(北)翼としてモンコメ(ランの北東31.7キロ)へ、S軍団は軍左(南)翼としてシャトー=ポルシアンへ、近衛軍団はその中央でセヴィニー(=ワレップ。ルテルの北西23キロ)へそれぞれ進みました。この前方にランを陥落させた騎兵第6師団(右翼側)とヌフシャテルからボーリュー(ランスの北西26.4キロ)へ進んだ騎兵第5師団(左翼側)がいます。

 近衛軍団とS軍団の各騎兵師団はこの日より、所属軍団のおよそ7、8キロ前方を前衛として進むようになりました。

 アルベルト王子の本営はセランクール(ルテルの北西16.5キロ)に進みました。


◇9月10日


 10日、第4軍団はリエス=ノートル=ダム(ランの東北東14キロ)に、S軍団はヌフシャテル=シュル=エーヌに、近衛軍団はシッソンヌ(ランの東19.3キロ)に、軍本営はマルシェ(ランの東14キロ)にそれぞれ前進し、騎兵第5師団はエーヌ支流のヴェル河畔にあるブレーヌ(ソアソンの東南東16キロ)まで進出します。

 この騎兵師団はエーヌ河畔のソアソン(ランの南西30キロ)に斥候を出しますが、この要塞は堅く守られ、守備隊も充実していることが分かりました。

 本営に被害の出た騎兵第6師団はこの日一日ランで混乱を収拾しますが、こちらもランの北西21.5キロにあるオアーズ川の要衝ラ・フェール要塞へ偵察を出し、この要塞も確実に防御が整えられていることを知りました。


◇9月11~12日


 11日、軍本営はマルシェから動かず騎兵第5師団もブレーヌで休息しました。

 騎兵第6師団は「因縁のラン」から出立してクシー=ル=シャトー(=オフリック。ソアソンの北15.3キロ)に至り、第4軍団はランに入城、S軍団はコルミシー(ランスの北北西16.4キロ)に、近衛軍団はクラオンヌ(ランの南東18キロ)まで進みました。

 なお、長らく仏白国境地帯のロンギュヨン方面で偵察活動を行っていた驃騎兵第3「ブランデンブルク/ツィーテン」連隊は11日、本隊の騎兵第6師団に復帰しています。


 12日は第4、S、近衛の各軍団と騎兵第6師団が休息日とし、前日に休息を取った軍本営はコルブニー(クラオンヌの北東3.7キロ)、騎兵第5師団はミュレ(=エ=クルット。ソアソンの南南東13キロ)に至りました。


◇9月13日


 13日に第4軍団はヴァイイ(=シュル=エーヌ。ソアソンの東北東14.5キロ)、S軍団はフィム(ランスの西北西26キロ)、近衛軍団はブレーヌにそれぞれ進みます。

 軍の行軍1日分前方に進んでいた騎兵両師団は、騎兵第5師団がソアソンの南西に広がるレッツの森中央にあるヴィレ=コトレ(ソアソンの南西22キロ)へ、騎兵第6師団がヴィック=シュル=エーヌ(ソアソンの西15キロ)まで進出しました。

 軍本営はエーヌ河畔のスピール(ランの南17.5キロ)に進みます。


◇9月14日


 第4軍団はこの日、軍本営から命令を受けてソアソンを攻撃します。

 ソアソン市はエーヌ川の造った広い谷中にあり、南北には街を見下ろす高地もあるため、アルベルト王子が「高地に砲列を敷けば他の要塞都市より砲撃が容易だろう(正にセダンと同じ状況です)」と考えた結果の命令でした。


 トゥール要塞で無駄な犠牲を出した経験があり、端からソアソン砲撃に乗り気ではなかったG・アルヴェンスレーヴェン軍団長は、ビリー(=シュル=エーヌ。ソアソンの南東5キロ)付近の高地に第7師団砲兵(4個中隊)のみを先行させて要塞と砲撃戦を行わせ、砲撃後少時で、例の「野砲では要塞自体に損害を与えられない」との結果が明らかとなると砲撃を中止させます。この後将軍は、市の防衛司令官に宛てて開城勧告を行い、「ノン」の一言が返って来ると、視察に訪れていたアルベルト王子に黙ってこれを差し出すのです。王子も弟ゲオルグ王子がベルダンで同じような経験をした事を知っており、直ちに第4軍団の行軍再開を命じるのでした。


 この後、第4軍団はミュレ(=エ=クルット)に進み、S軍団はフェール=アン=タルドゥノワ(ソアソンの南東24.6キロ)へ、近衛軍団はウルシー=ル=シャトー(ソアソンの南20キロ)にそれぞれ前進しました。

 アルベルト王子と本営もアルシー=サント=レスティテュー(ソアソンの南東17.8キロ)へ進み、騎兵第5師団は休息日としてヴィレ=コトレに留まります。

 騎兵第6師団はその先、クレピ=アン=ヴァロワ(ヴィレ=コトレの西15キロ)まで進み、その斥候はオワーズ川の東側にある要塞都市、サンリス(クレピ=アン=ヴァロワの西22キロ)は「義勇兵部隊が守備している」との報告を上げるのでした。


◇9月15日


 15日には、第4軍団がヴィレ=コトレ、S軍団がモンティエ(シャトー=ティエリの北西9.7キロ)、近衛軍団がレッツの森南、ウルク河畔のラ・フェルテ=ミロン(ヴィレ=コトレの南8.8キロ)まで進みます。

 昨日、長躯行軍の疲れを癒した騎兵第5師団は、ナンテュイユ=ル=オードゥワン(モーの西北西20.7キロ)へ前進しました。

 軍の先鋒となった騎兵第6師団は、サンリスを監視していた前哨から「敵義勇兵部隊は要塞を捨てて撤退した」との急報を受けて直ちに前進し、サンリス要塞を占領しました。停車場では破壊されずに放置されていた機関車3輌を鹵獲します。

 更に師団はコンピエーニュやクレルモン、ボーベ(それぞれパリ/シテ島から北北東へ71キロ・北へ58キロ・北北西へ67キロにある主要都市)からパリへ向かう鉄道線が集中するクレイユ(サンリスの北西9.5キロ)へ部隊を送り、妨害を受けずにオワーズ川を渡り西岸に走る線路を爆破しました。

 この日、軍本営はヌイイ=サン=フロン(シャトー=ティエリの北北西17キロ)にありました。


◇9月16日


 16日、第4軍団はナンテュイユ=ル=オードゥワン、S軍団はマルヌとウルクの合流点付近、リジ=シュル=ウルク(モーの北東12.8キロ)、近衛軍団がアシー=アン=ミュルティアン(モーの北北東17キロ)へ進み、マルヌ川の南を進んで来た普皇太子の独第三軍と一線上に並びます。

 S軍団はこの日、川の合流点付近で住民によって破壊された橋梁を修繕し使用可能としました。

 騎兵第6師団は更に西へ進み、ボーモン=シュル=オワーズ(サンリスの西南西23キロ)で遂にオワーズ川の線に達しました。師団所属の驃騎兵第3連隊は斥候隊をパリ郊外へ送り、この斥候隊はサン=ブリス(=ス=フォレ。ボーモン=シュル=オワーズの南南東16.7キロ)とエクアン(サン=ブリスの北東2.6キロ)付近で仏軍の首都防衛前哨線に突き当たって少時銃撃戦の後に退避しました。

 この驃騎兵たちはモンマニー(サン=ブリスの南3.4キロ)付近とピエールフィット(=シュル=セーヌ。モンマニーの東1.5キロ)~サン=ドニ(シテ島の北9.2キロ。最近ではテロ事件で有名に)間に仏軍の野営陣地を発見し報告しています。


 騎兵第5師団はダムマルタン(=アン=ゴエル。モーの北西18キロ)に進みますが、この部落を含めた周辺には人っ子一人見つからず、住民も仏軍も西へ後退してしまった様子でした。

 師団の斥候はアルヌヴィル(サン=ドニの北東6.8キロ)やル・ブラン=メニル(同東7.8キロ)付近に仏軍の大騎兵部隊が野営しているのを発見しました。

 軍本営はこの日クルイ=シュル=ウルク(モーの北東20.5キロ)に達します。


○独大本営


 独大本営は9月14日、ランスから出立するW師団と共に移動を開始し、この日はシャトー・ティエリに至ります。翌15日午後には第6軍団が宿営するモーに入城し、ヴィルヘルム国王とモルトケ率いる参謀本部は以降、しばらくはこの地で総軍の指揮を執ることとします。


○フォン・デア・タン「軍」


 B第1軍団長、男爵ルートヴィヒ・フォン・デア・タン歩兵大将が臨時で率いることとなったセダン残留の諸部隊は、予想もしなかった大量の捕虜を捌きつつ、一刻も早く同僚の後を追おうと努めていました。


 フォン・デア・タン将軍はまず、セダン会戦中に捕虜とした2万1千名の仏軍将兵を会戦翌日の9月2日からポンタ=ムッソンまで護送させ、続いて9月5日から会戦後に投降した8万3千名の護送に取り掛かります。

 このセダン開城により捕虜となった8万3千名の仏軍将兵は、9月2日午後から4日夕刻に掛けてセダンの西、ムーズ川の「大湾曲部」内部(いわゆるイジュ半島)に護送されます。独軍はここに一大野営を設けて臨時の捕虜「収容所」(広さはおよそ4.5平方キロメートル)としたのでした。この時、B第1軍団は「半島」の基部(グレール~ヴィレット)を封鎖して捕虜の動向に目を光らせ、普第11軍団はムーズの湾曲部に沿って北から川を監視するのでした。

 このイジュ「半島」から毎日5個の護送隊が出立し、独大本営の秀英たちが練った計画に従い東へ向かいます。護送隊は歩兵2個中隊に騎兵約半個中隊(2個小隊60~100騎前後)の護送兵で編成され、捕虜の構成・員数と護送の終点はその都度大本営派遣の参謀より指示されました。


 捕虜となった皇帝ナポレオン3世は9月3日、普ヴィルヘルム国王の侍従武官長レオポルト・ヘルマン・フォン・ボイエン中将と共にセダンを出発し、独本国のカッセル(ハノーファーの南120キロ)の西郊外、ヴィルヘルムスヘーエへ向かい、以降、指示があるまでこの城館(現世界遺産のシュロス・ヴィルヘルムスヘーエ)に滞在することとなりました。

 負傷したマクマオン大将は、傷が癒えるまで仏白国境に近いプル=オー=ボワ(セダン城の東10キロ)の館で静養することが認められます。


挿絵(By みてみん)

 ボイエン


挿絵(By みてみん)

 シュロス・ヴィルヘルムスヘーエ(1860年)


 予想よりかなり多かった捕虜を少しでも減らすため、仏軍士官に対しては、例の「本戦争中、独各国に敵対する行動を一切取らない」との宣誓をすれば独本国に護送せず釈放することが認められました。

 これは仏軍に対しかなり甘いように思われますが、未だ貴族と軍人の騎士道精神が光り輝く「紳士としての名誉が死よりも勝る」19世紀、この宣誓をして守らなければ味方からも蔑まれ「村八分」となるため、守らない士官などいるはずもありません。しかし同時に、国が存亡を賭けて戦っている最中に何もせず蟄居せねばならないため、これもまた「国を見捨てた」と後ろ指を指されかねない行為でもありました。後の時代と同じく、この時代も捕虜は敵の兵力と資源を割くことに繋がるため、軍人としては力の限り戦った後であれば捕虜も立派な行為と思われていたのです。

 それでも釈放を希望し宣誓した士官はおよそ150名おり、彼らは直ちに釈放され、ある者は故郷への長い旅路につき、ある者は国境を越えベルギーに去って行くのでした。


 宣誓せず残った士官は9月10日、鉄道によってポンタ=ムッソン経由でまずはコブレンツ(フランクフルト=アム=マインの西北西82.5キロ)へ送られることになります。

 この時、護送の手間を省くため、捕虜士官と独軍との間で紳士協定が結ばれます。これは、「ポンタ=ムッソンに至るまで脱走しない」と宣誓すれば紳士たる仏軍士官らしく監視を付けず独りで移動してもよい、というもので、多くの士官が「軟禁前の最後の自由」を選んで宣誓しました。

 「前」仏第1軍団長のオーギュスト・アレクサンドル・デュクロ中将もその一人で、将軍は単独行でポンタ=ムッソン行きの列車に乗り、無事にポンタ=ムッソンに着いた将軍は、市街の停車場で到着の申告をしました。ところが、ポンタ=ムッソンは捕虜護送の一大中継地と化しており、また、兵站物資の集積中継地でもあるため、現地の後方部隊や官憲は猫の手も借りたい大忙しの状態、捕虜の仏軍士官を見張る者など直ぐには現れません。大人しく停車場のベンチに腰を降ろし、迎えの護送士官を待つ同僚を横目にデュクロ将軍は、「宣誓はポンタ=ムッソンまでとなっており、現に到着の申告も済んでいるため」紳士協定の宣誓義務はこれで果たした、と判断、密かに停車場を離れ脱走した将軍は、真西へ270キロ離れたパリに向け敵の占領地を行く冒険の旅に出て行ったのでした。


挿絵(By みてみん)

 デュクロ


 一方、フォン・デア・タン将軍には更なる問題が降り掛かって来ます。

 麾下将兵は会戦に引き続く様々な業務、例えば捕虜の護送、戦場の整理、戦利品の収集と分類など膨大な業務に奔走して疲弊していたため健康状態が悪化しており、その上でセダン周辺では遺体の不十分な処理や糧食の衛生管理の不備等を原因とする赤痢が発生、遂には恐ろしいチフスの流行も始まったのです。B第1軍団に限って見ても、9月1日から10月15日までの1ヶ月半でチフス患者が千名を超えたのでした。

 このため、将軍麾下となっていた普騎兵第4師団から騎兵第9旅団を抽出し、員数不足に悩む捕虜の護送隊に充てるのでした。


 9月7日。在ランスの大本営から既述の前進命令を受けたフォン・デア・タン将軍は、騎兵第10旅団を先発させてパリ方面へ向かわせ、追って騎兵第4師団を出立させたのです。

 9月11日になると、ようやく第11とB第1軍団もセダンを離れることが可能となり、騎兵第4師団の後を追いました。

 なお、大本営の命令にあったシャルルヴィル=メジエールとその要塞の占領は、同地の仏軍司令官との間で捕虜となった場合の取り扱いについて合意に至らず、断念されるのです。


 9月15日、第11軍団はエペルネー(ランスの南24キロ)へ到着し、B第1軍団はランスに入城しました。16日には騎兵第10旅団がナンジに到着(既述)し、騎兵師団の残り2個(第8、9)旅団は同日オルベ=ラベイ(ドルマンの南南東14.5キロ)とシャティオン=シュル=マルヌ(同東北東9キロ)へ到達しています。


 こうして第三軍の「後衛」となったフォン・デア・タン「軍」もパリへの道を辿り始めましたが、これは完全に「見切り発車」で、なお後方に捕虜の護送や残務整理で残された部隊がありました。


 騎兵第4師団の騎兵第9旅団は、本営と槍騎兵第6連隊の1個中隊以外全てが捕虜の護送任務に従事してパリへの行軍に加わることが出来ませんでした。

 B第1軍団でも11個中隊が護送任務から帰ることが出来ずに本隊から離れ、Bシュヴォーレゼー騎兵第6連隊はロレーヌ総督府に転出しました。

 普第11軍団は最後の護送隊に多くの人員を割かれ、セダン市街と要塞守備隊として第94「チューリンゲン第5」連隊の第1大隊を後に残し、歩兵13個大隊と半個大隊、騎兵5個中隊と半個中隊(1個師団に近い欠員となります)だけでセダンを発っています。

 しかし各軍団と騎兵師団はこの間、戦闘と疾病により減員していた部隊のため本国(普とB)から補充兵を迎え入れており、ほぼ定数を充足していました。


 本隊から離れていた諸隊は9月下旬までにほぼ原隊へ復帰し、パリの包囲に参加していますが、それでもまだ多くの部隊が後方連絡線上に取り残されます。これは捕虜の受け渡し予定地に任務を引き継ぐ部隊が現れず、仕方なしに独本国の奥深くまで進んでしまった中隊や、任務を終えて帰還の途中、義勇兵が暴れる地域で兵站線警備のために拘束されてしまった中隊などがあったためでした。これら気の毒な部隊も10月末までにその全てがパリ郊外に到着するのでした。


挿絵(By みてみん)

 イジュの仏軍捕虜キャンプ


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