独第三軍のパリ進撃
ヴィノワ将軍率いる仏第13軍団主力(ブランシャール将軍師団と軍団予備砲兵)が、フォン・ホフマン将軍率いる普第12師団の追撃をかわし、ラン*に向かい雨中の行軍を続けていた時を同じくして。
独第三軍とマース軍はセダン近郊から西へ動き始めていました。
☆独第三軍・9月3日夕方の位置
○普第5軍団
フリーズ(ムーズ南岸・シャルルヴィル=メジエールの南南東8キロ)付近
○ヴュルテンベルク王国(以下W)師団
ギニクール(=シュル=ヴォンス。同南南西10.3キロ)付近
○バイエルン王国(以下B)第2軍団
マルミー(バール川西岸。ヴォンドゥレスの東4.2キロ)
○普騎兵第2師団
ポワ=テロン(シャルルヴィル=メジエールの南南西14キロ)
○普第11師団
ジュニビル周辺(ランスの北東30キロ)
○普騎兵第5師団
ベルニクール周辺(ジュニビルの西方。同北東24キロ)
○普騎兵第6師団
アティニー(同北東46キロ)
○普第12師団
ランス方面へ移動中(ショーモン=ポルシアン~ルテル間)
○普騎兵第4師団
セダン付近での捕虜の監視と護送隊の送り出し任務・本営はヴリーニュ=オー=ボワ(セダン城の西北西7.7キロ)
○軍本営 ドンシュリー(セダン城の西5.4キロ)
※第11軍団とB第1軍団はセダンで戦場整理・要塞警備・捕虜の監視と護送任務に従事
☆ マース軍・9月3日夕刻の位置
○普近衛軍団(近衛第3旅団を除く)
カリニャン(セダン城の南東17.5キロ)付近
※近衛第3旅団(以下「近3旅」)はドゥジー(セダン城の東南東7.5キロ)からエテン(同南東74キロ)に向けて捕虜の護送中(9月16日に軍団へ復帰)
○第12「ザクセン王国(以下S)」軍団
セダン東近郊・シェール川とムーズ川の間(ドゥジー~ムーゾン~カリニャンの内側)
○第4軍団
ロクール(=エ=フラバ。セダン城の南11キロ)
○軍本営 ムーゾン(同南東14キロ)
独大本営は9月4日にヴォンドゥレスからルテルに移動し、9月5日の夕刻、第三軍が確保したランス*(後述します)に至ります。ヴィルヘルム1世とモルトケ参謀総長はこの地でパリへの進撃を統制しようとしました。
大本営が両軍に要請したパリへの行軍計画は4日までに大本営の手に渡りました。
この計画を眺めると、マース軍は9月12日にラン~フィム(ランの南方でランスの西北西26.3キロ)の線に到達予定でしたが、第三軍の方はその左翼(南)側で急進撃を企てており、10日には既にドルマン(ランスの南西35キロ)~セザンヌ(ランスの南南西63キロ)の線にまで前進しようとしています。
これでは12日の時点でその左(南)翼がセーヌ河畔にまで達する第三軍とマース軍との間隔は大きく開いてしまいますが、第三軍の右翼に連ねようとしてこれ以上マース軍の行軍を早めることは、捕虜や負傷者の後送による後方連絡線の混雑状況や、兵站物資の補給状況などからして不可能に近く、また、マース軍はヴルト戦(8月6日)からボーモン戦(8月30日)まで会戦の間隔が開いていた第三軍と違い、独仏ザール沿岸国境の戦闘からメッス近郊の激戦(8月16日から18日)を経て1ヶ月に及ぶ断続した戦闘と行軍を経験しており、将兵は勝利の美酒に酔って意気軒昂ではあるものの疲弊度は激しく、少なくとも数日間は休養を与えたいところでした。
これらを考慮し、独大本営はそれまでの「第三軍を先行させマース軍を続行させる」計画を変更して、9月7日、以降の行軍方針を定めます。
この新たな計画では、アルベルト・ザクセン王太子率いるマース軍は、直接パリの北方へ向かうこととなり、このため左翼(南)行軍列はマルヌ川の造る河岸段丘上を行くこととして、第三軍との境界をマルヌの谷を通る街道(現国道D3号線とそれに続く諸国道)以北に定め、騎兵を活用して前方及び右翼(北)側を探って必要ならば更に右翼北側へ進むことも可能、とします。
フリードリヒ普皇太子率いる第三軍は、パリの南方へ向かい、このため右翼(北)側をマルヌ谷の街道上に置き、行軍列をその左翼(南)側に展開させつつセーヌとマルヌ両河川の間を西進することとなりました。
両軍の兵站部門は今後、軍が更に西進することで後方連絡線の護衛が手薄となる事が必至なため、大本営ではW師団を一時ランスに留め置いて兵站線と後方警備に充てることに決します。
既に後方連絡線上では各地で義勇兵が暴れており、また地方住民たちも義勇兵を助け、アルザス北部とロレーヌ地方の占領地には不穏な空気が満ちていたのです。
とはいえ、パリの攻囲には出来る限りの兵力を集中しなくてはならないため、独大本営は「W師団も比較的短時間で任務を他に譲り、敵の首都へ向かわねばならない」、として9月8日、メッス攻囲軍司令官フリードリヒ・カール王子に対し、「近頃来着したメクレンブルク=シュヴェリーン大公率いる独第13軍団を包囲任務から外し、モーゼル川一帯とその西部(ロレーヌ、シャンパーニュ、アルデンヌ地方)の占領地警備に充てよ」と命じるのでした。
この命令により、大公軍団の1個師団がシャロン(=アン=シャンパーニュ)とランスまで前進することとなり、この師団が到着次第、W師団はパリの包囲網へ加わることとなります。また、独第13軍団の残り1個師団はモーゼル流域警備の手始めに普軍の攻城砲部隊と協力し、後方連絡線上の障害となっているトゥール要塞を攻略することとなりました。
同時に大本営は、2個軍団を率いてセダンで会戦の残務整理をしているB軍のフォン・デア・タン大将に対し、「出来る限り早急に任務を完了させ、普第11軍団はルテル~ランス経由で、B第1軍団はアティニー~エペルネー(ランスの南24キロ)経由で、それぞれパリ方面へ前進させよ」と命じるのでした。
※注
ここまでの「ランス」とはシャンパーニュ地方のReimsです。同じ日本語表記の「ランス」は他にもパ=ドゥ=カレー地方の中心都市アラスの北にLensがあり、間違えぬよう注意が必要です。
同じく、「ラン」とはピカルディ地方のLaonですが、日本語では同じ表記のLent(リヨンの北東方)やLain(ブルゴーニュ地方)などがあり、こちらも間違えやすい地名です。
☆ 独第三軍の行軍
◇9月4日
4日朝の時点でフリードリヒ皇太子の軍中、最も前進していたのはフォン・ゴルドン中将の普第11師団となりました。この直ぐ右翼(西)には普騎兵第5師団がおり、両師団はこの日、予定を早めてランスに向け前進することとなります。
ランスには既述通り斥候報告でなお多数の仏軍が存在するとされており、騎兵師団は前夜からこのシャンパーニュ西縁の大都市へ多数の斥候を放ちますが、彼ら斥候の報告では「敵は市内よりすっかり退却している」とのことで、報告を受けた普第6軍団長、フォン・テューンプリング大将は第11師団に対し、予定より1日早い4日中のランス入城を命じました。これを追った騎兵第5師団の前衛、普騎兵第13旅団は、ポマクル(ランスの北東12キロ)を経て前進しランス近郊に至りました。
第11師団騎兵、竜騎兵第8「シュレジェン第2」連隊の本営付士官、フォン・ブリュスコウ少尉はこの早朝、斥候数騎を率いてランスに向かい、午前中独軍一番乗りで市内へ侵入しました。ところが、血気盛んな市民から銃撃を受け、一時は包囲されますが血路を開いて脱出しました。
竜騎兵が撤退した後、今度は騎兵第13旅団の先鋒、驃騎兵第11「ヴェストファーレン第2」連隊の第1中隊長フォン・フェールスト騎兵大尉が中隊を率いて堂々入城し、市庁舎を占拠すると市長から「降伏開城」の文書を受け取ります。これに続き第11師団の前衛部隊も市内へ入りますが、街角では続々入城する普軍兵士に対し方々で狙撃が行われ、これら義勇兵や居残った護国軍兵士(中には一般市民も)は怒った兵士たちにより直ちに制圧されました。
普第11師団本隊は午後3時、ランスに入り占領を宣します。
この前日3日。仏政府(名目上は帝政内閣)からランスやランなど独軍進撃路上に当たる各市・街道沿いの部落等住民に対し「檄文」が発行され、これは街角に次々貼り出されており、この「敵を憎め、武器を取れ」等と煽る「壁新聞」は主要都市ばかりでなく周辺住民にも影響し、難民とならず住居に残った愛国心に燃える住民たちは皆、敵愾心剥き出しで独軍兵士を睨んでいたのでした。
ランス近郊のラヴァンヌ(ランスの北東12キロ)では、通過する第11師団の前衛に対し武装した農民と若干の護国軍兵士が銃撃戦を挑み、普軍はこれに対し砲撃を加え四散させるしかなかったのです。
第11師団と騎兵第13旅団がランスに入城する頃、騎兵第5師団の本隊(騎兵第11と12旅団)はバザンクール(ランスの北東16キロ)に進み、普第12師団本隊は午前11時、シャトー=ポルシアン南方に集合を終えると、午後はヴァルムリヴィル(バザンクールの東。ランスの北東17.3キロ)まで前進しました。
この師団でノヴィオン=ポルシアン周辺に集合していた諸隊は同じくシュイップ河畔のウトレジヴィル(ヴァルムリヴィルの南東4キロ)へ前進し、第12師団は本日4日中に予定されたシュイップ河畔到達を夕方までに達成するのです。
同じく4日、W師団はノヴィ(=シュヴリエール。ルテルの北東6.5キロ)に、第5軍団はソルス=モンクラン(同北東12キロ)とノヴィオン=ポルシアンに、騎兵第2師団はアティニーに、B第2軍団はシャルボニュ(アティニーの北北東2.8キロ)に、皇太子の本営はアティニーに、それぞれ進み宿営しました。
メクレンブルクの「プリンツ・シュナップス」、ヴィルヘルム親王率いる騎兵第6師団はこの4日、正式にマース軍アルベルト=ザクセン王太子麾下となり、アティニーから大本営の命令(ランへの進撃)に従って西進し、ホフマン将軍と入れ替わる形でシャトー=ポルシアンに入り宿営しています。
◇9月5日
5日。第6軍団と騎兵第5師団は全部隊がランスとその近郊に集合を終えます。ここでランスへ前進中の大本営から命令が届き、フォン・ラインバーベン中将の騎兵第5師団は再びマース軍に編入されることとなりました。このため騎兵師団はランスから出て、エーヌ河畔のヌフシャテル=シュル=エーヌ(ランスの北26キロ)で待機しています。
W師団はバザンクールに至り、第5軍団はジュニビルへ、騎兵第2師団はウトレジヴィルへ、B第2軍団はマショー(ジュニビルの東。ランスの東北東35.6キロ)へそれぞれ到着し、軍本営はヴァルムリヴィルまで進みました。
◇9月6~7日
6日は一日久し振りの一斉休養日となり、第三軍は全部隊が現在地で休みました。この日、皇太子と軍本営は休憩中の第6軍団将兵から歓呼で迎えられ、大本営から一日遅れでランスへ入城します。
翌7日。第三軍は前進を再開し、先頭を行く第6軍団はヴィル=アン=タルドゥノワ(ランスの西南西18.7キロ)へ進み、第5軍団はシルリー(ランスの南東9.4キロ)へ、騎兵第2師団は東側にシャロン大演習場を控えるムールムロン(=ル=グラン。同南東24.5キロ)へ、B第2軍団は大演習場の北東角シュイップへそれぞれ進みました。
W師団はランスへ入城します。以降この地に駐屯し、大本営の命令に従ってシャンパーニュ地方の後方連絡線と占領地警備にあたりました。
この日第11師団は兵士1名の行方不明(落伍か脱走又は捕虜)を報告しています。
◇9月8~9日
第三軍は8日から9日の行軍により順次左翼(南東)側へ集合し、マルヌの谷を右翼北側とし、その南へ展開して西へ進む(即ち右90度転向の)準備に入りました。
8日には第6軍団がマルヌの谷にあるドルマン、第5軍団はマルヌ谷入り口にあたるエペルネーへ進み、B第2軍団はシャロンへ入城、騎兵第2師団はヴェルテュ(エペルネーの南15.5キロ)へ至ります。
9日。第6軍団がこの先西へ転向する行軍「軸」となるためドルマンに留まり休息する中、第5軍団はオルベ=ラベイ(ドルマンの南南東14.5キロ)へ、B第2軍団はヴェルテュへ、騎兵第2師団はシャンポベール(オルベの南東側。エペルネーの南南西22.3キロ)へそれぞれ進みました。 この日第9師団は斥候に出た竜騎兵1名の行方不明を報告しています。
軍本営は9日、ランスを発ってマルヌ南河畔のブルソー(エペルネーの西8.2キロ)に進みました。
◇9月10日
10日、軍は行軍を西へ転向させる最後の調整に入ります。第6軍団はそのままドルマンに留まり、第5軍団もオルベに留まって行軍の疲れを癒しました。軍の左(南)翼となるB第2軍団はセザンヌまで進み、騎兵第2師団は軍の前衛として遙か西へ進み、ヴィエル=メゾン(セザンヌの北西31キロ)に達しました。
この日、翌日から軍の右(北)翼としてマルヌの長い谷を進む第6軍団は前衛支隊を作り、翌日の目標地、シャトー=ティエリ(ドルマンの西17.5キロ)へ先行させています。この前衛からは斥候に出た竜騎兵第8「シュレジエン第2」連隊の下士官1名が負傷しています。
◇9月11~12日
西向きに転向した第三軍のパリへの進撃は、この11日より本格的に始動します。
11日に第6軍団はマルヌ谷を進んでシャトー=ティエリに、第5軍団はマルヌ川の支流プティ・モラン川を臨むモンミライユ(シャトー=ティエリの南南東22キロ)に至りました。
B第2軍団と騎兵第2師団は休息日となり、それぞれセザンヌとヴィエル=メゾンに留まります。
12日には第5軍団がプティ・モラン渓谷北岸上のモー街道(現国道D933号線)を西へ進んでヴィエル=メゾン(モンミライユからは西へ11キロ)へ、第6軍団がマルヌ川南岸のノージャン=ラルト(シャトー=ティエリの南西11キロ)まで進みました。
昨日は休息日となったB第2軍団はモンソー=レ=プロバン(モンミライユの南南西21キロ)へ、騎兵第2師団はルベ(同西22.4キロ)に至りました。
12日、軍本営は軍が快調に西へ進み出したため後を追い、第5軍団のいるモンミライユに進出しています。
◇9月13日
この日、第6軍団はマルヌ川が大きく湾曲する部分を行軍してラ・フェルテ=スー=ジュアール(モンミライユの西北西31キロ)に達し、第5軍団はヴィルヌーブ=シュル=ベロ(ヴィエル=メゾンの南西5.5キロ)付近でプティ・モラン川を渡ると南下し、マルヌ支流のグラン・モラン川沿いのラ・フェルテ=ゴシェ(モンミライユの西南西19.5キロ)に進みました。これはヴィエル=メゾンからプティ・モラン川沿いに西へ進むと、行軍1~2日でマルヌ川の谷へ出てしまい、第6軍団の行軍路に入り込んでしまうため、これを避けるための転進です。
B第2軍団はそのまま軍の最左翼を西進し、ジュイ=ル=シャテル(モンソー=レ=プロバンの西23キロ)へ、軍の先頭を行く騎兵第2師団 はグラン・モラン流域の交通の要所クロミエ(シャトー=ティエリの南西35キロ)へ進出しました。
騎兵第2師団はこのクロミエで西方マルヌ川方面偵察のためクレシー=ラ=シャペル(クロミエの西北西13.5キロ)へ驃騎兵第5「ポンメルン」連隊の半数(2個中隊)を送り出します。ここからマルヌ河畔の要衝モー(クロミエの北西22キロ)へ向かった斥候隊は街道上で仏正規軍の猟騎兵隊に遭遇し、戦闘の結果敗れた普斥候隊は負傷した2名の騎兵を残し(捕虜となります)、急ぎ撤退しました。
この日、軍本営はモンミライユに留まります(14日まで)。
◇9月14日
この日は第5軍団、B第2軍団、騎兵第2師団が休養日に充て、第6軍団のみがモー(パリ/シテ島*からは東北東へ41キロ)へ向かいます。この街には仏正規軍や護国軍、義勇兵が存在せず、住民の抵抗も殆どありませんでしたが、それでも前衛となっていた第11師団は兵士1名の負傷を報告しています。
また、騎兵第2師団から前日、前哨としてモールセルフ(クロミエの西南西12.5キロ)に向かっていた驃騎兵第4「シュレジエン第1」連隊の第1中隊はこの日、モールセルフ部落とベコアゾーの停車場(当時、モールセルフの南西1キロ付近にありました。現存しません)から銃撃を受けます。
周辺住民を尋問したところ、義勇兵の2個中隊が停車場を守備している、とのことで、中隊長の伯爵ルートヴィヒ・ヘルマン・アレクサンダー・フォン・ヴァルテンスレーベン騎兵大尉は部下を下馬させると騎兵銃を手に停車場を襲撃、仏の義勇兵たちは暫く防戦に努めますが、やがて付近の雑木林に逃走しました。翌15日、連隊から捜索隊が出て周辺の森林を「虱潰し」に捜査すると、多くの義勇兵が手を挙げて投降し捕縛されたのです。
一方この14日、メクレンブルク=シュヴェリーン大公率いる独第13軍団から、第17師団が後方警備のためランス近郊へ進み、任務を交代したW師団は行軍を開始、夕刻までにドルマンまで進んでいます。
※以降「パリ」からの距離は、パリ中心の1区、セーヌ川中島シテ島にあるノートルダム寺院からの方向・距離とします。
◇9月15日
この日、第6軍団はモーに駐留して休養日とします。一日休んで英気を養った他軍団は、第5軍団がクレシー(=ラ=シャペル。モーの南11キロ)へ、B第2軍団がロゼ(=アン=ブリ。ジュイ=ル=シャテルの西13キロ)へ、騎兵第2師団本隊はトゥルナン(=アン=ブリ。パリ/シテ島の東南東33キロ)へそれぞれ前進しました。
騎兵師団の前衛、驃騎兵第4連隊はブリ=コント=ロベール(トゥルナンの西南西12.5キロ)まで進出し、皇太子の軍本営から直接セーヌ川下流のコルベイユ(=エソンヌ。セーヌ左/西岸。シテ島の南南東28.5キロ)からショアジー=ル=ロア(同。シテ島の南南東11キロ)までの間を偵察するよう命じられた連隊はこの日、同方面へ士官斥候を多数派出しました。
この偵察の結果、コルベイユやヴィルヌーブ=サン=ジョルジュ(セーヌ右/東岸。コルベイユの北13.5キロ)、ショアジーにあったセーヌの橋梁は全て破壊されて落とされており、周辺の道路という道路には至る所鹿砦が設けられ、又は街路樹が倒され丸太が転がされ、封鎖されていることが確認されます。
普軍の驃騎兵斥候たちはセーヌ左(西)岸から銃撃を受けますが、ある斥候隊はセーヌとマルヌの合流点に近いクレテイユ(シテ島の南東10.5キロ)部落の南で10名の仏兵を捕虜にする手柄を上げ、尋問の結果この兵士たちはシャラントン(=ル=ポン。パリ12区。シテ島の南東6キロ)の南、マルヌ川を挟んだ土地にあるシャラントン分派堡塁(史跡として現存ます)に所属する要塞守備兵と判明しました。
フォン・ステークマン=シュタイン騎兵大尉が指揮する騎兵中隊はドラヴェイユ(セーヌ右/東岸。コルベイユの北北西9.5キロ)でセーヌを渡河して来た護国軍部隊と遭遇し、これを蹴散らして部落を占領しますが、護国軍が渡河に利用したセーヌの浅瀬を利用し、逆に左(西)岸へ渡ろうとした大尉の中隊は、ジュヴィジー=シュロルジュ(セーヌ左/西岸。ドラヴェイユの西北西3キロ)に構える仏軍部隊により猛銃火を浴び、渡河を断念するのです。
この15日。W師団はシャトー・ティエリに至り、軍本営はクロミエに前進します。
この日、パリ郊外の衛星市街へ肉薄した普軍騎兵は、士官1名の負傷、下士官兵14名の行方不明(殆どが捕虜と思われます)を報告しました。
◇9月16日
先鋒がパリを臨む位置に達した第三軍は、この日、敵首都の包囲に必要な前進拠点を確保します。
○ 第6軍団
14日にマルヌ流域の重要都市モーを占領した軍団は、市街周辺に主力を駐留させ治安を確保した後、前衛支隊を編成します。第23旅団、竜騎兵第15連隊の2個(第2,3中隊)、野戦砲兵第6連隊・重砲第6中隊、軍団工兵第3中隊からなる支隊は更に三分され、ラニー(=シュル=マルヌ。マルヌ南岸。モーの南西15.5キロ)、モンテヴラン(同じくマルヌ南岸。モーの南西13.5キロ)、シェシー(同じくマルヌ南岸。モーの南西12.3キロ。現在ディズニーランドリゾート・パリがあります)を前哨拠点とし宿営しました。
このマルヌ川とマルヌ北岸に沿ったウルク運河(マルヌ支流ウルク川からパリ市内へ続く幹線運河)では、パリに近い橋梁は鉄道、街道関わらず全て仏軍により落とされており、テューンプリング軍団長はモー到着直後の14日、トリユポール(モーの東5キロ)のマルヌ川に舟橋を架けさせ、落ちた街道橋梁の復旧工事を命じています。その後将軍はラニーとモーの南東郊外にも臨時の渡河堤(人工の浅瀬)を造らせました。
○第5軍団
軍団はこの日、本営と第9師団、軍団砲兵をトゥルナン(=アン=ブリ)に、第10師団をフォントネ=トレシニー(トゥルナンの東南東8.3キロ)に進めました。
更に第6軍団同様前衛支隊を編成し、第17旅団、竜騎兵第4連隊、野戦砲兵第5連隊・重砲第1,2中隊、軍団工兵1個中隊に野戦軽架橋縦列からなる支隊は二分され、オゾアール=ラ=フェリエール(トゥルナンの西北西7.2キロ)とシェブリ(=コシニー。同西8キロ)に前哨として宿営します。
この日、シャンピニー(=シュル=マルヌ。マルヌ東岸。シテ島の東南東12.5キロ)まで偵察に出た前衛斥候は「敵影を見ず」と報告しています。ヴィルヌーブ=サン=ジョルジュの落ちたセーヌ橋梁脇に架橋する準備のため、軍団の本格的な架橋縦列は夕刻、トゥルナンに到着しています。
○B第2軍団
軍の最左翼に進出した軍団はこの日、モワシー=クラマイエル(トゥルナンの南西17.5キロ)まで前進します。軍団は前哨をリュザン(モワシー=クラマイエルの西3キロ)とサン=ジェルマン=レ=コルベイユ(コルベイユ=エソンヌのセーヌ対岸。モワシー=クラマイエルの西7.5キロ)に置きました。
同軍団所属のB槍騎兵旅団は積極的にセーヌ右(東)岸を偵察しますが、至る所で義勇兵主体の民兵から銃撃され、この「ボランティア」たちはB軍騎兵が反撃に出ると直ぐに近くの森林へ逃げ込むのでした。
軍団は17日早朝までにサン=ジェルマン=レ=コルベイユ付近の爆破されたセーヌ橋梁の脇に軍舟橋を架橋(架橋続きで不足していた資材はこの数日間で本国より届きました)しています。
この架橋作業援護のため、前衛からB歩兵第6連隊第1大隊と同第14連隊第2大隊が放置されていたセーヌの河舟を使って渡河し、独軍としては最初にセーヌ左(西)岸に橋頭堡を作っています。
前述通りパリ南部では多くの義勇兵たちが出没して、隙あらば、とB軍斥候を襲いました。特に単騎で動く斥候や伝令は必ずと言って良いほどに狙われ、逆に強力な部隊に遭遇すればたちまち散って逃走し、近所の部落や森林に逃げ込み、銃を隠して服を着替え、何食わぬ顔で住民のふりをするという非常に厄介な「レジスタンス」でした。
既に13日にも義勇兵から妨害を受けていた軍団の前衛、B槍騎兵旅団はこの日も各地で抵抗に遭遇していました。特に、セーヌ流域の有力都市ムラン(モワシー=クラマイエルの南南東11キロ)を偵察するために出撃した、フォン・ランゲンマンター中佐率いるB槍騎兵第1連隊の強力な斥候隊は、ルベル(ムランの北北東3キロ)の東郊外で大規模な義勇兵部隊から攻撃を受け、中佐は率いていた騎砲2門に命じ、義勇兵や武器を取った住民が立て籠もる付近の有名なヴォー=ル=ヴィコント城(ルイ14世の大蔵卿フーケの城でヴェルサイユ宮殿のヒントともなったとされるバロック様式の傑作です)の庭園(ヴェルサイユの庭園を造ったル・ノートル作の傑作を……)を砲撃させました。
強力な敵部隊出現を聞いた軍団長フォン・ハルトマン歩兵大将は直ちに応援を命じ、B猟兵第8大隊が現地に駆け付けます。これを知った仏義勇兵は逃走を開始し、ムラン市街を抜けてセーヌを渡河し、南へ去ったのです。
この後、ヴォー=ル=ヴィコント城で若干の捕虜を得たランゲンマンター中佐はムラン市街を占領しますが、この地にはパリの犯罪人を収監するムラン監獄の看守を命じられた護国軍の小部隊が居るだけで抵抗はなく、この護国兵たちは「囚人監視以外の目的で武器を使用しない」との誓約書に署名すると、武装解除されずに監獄へ帰って行ったのでした。
この日、B槍騎兵第1連隊は下士官兵2名の負傷、1名の行方不明を報告し、B槍騎兵第2連隊は兵士1名の戦死(これがパリ攻囲における独軍戦死者の第1号となります)を報告するのです。
バイエルン槍騎兵第2連隊の兵士
○騎兵第2師団
本隊はこの日、前日前衛の驃騎兵第4連隊が占領したブリ=コント=ロベール(トゥルナンの西南西12.5キロ)に達します。
セーヌ左(西)岸の鉄道破壊を命じられた騎兵第5旅団は更に西進し、ヴィルヌーブ=サン=ジョルジュでセーヌ河畔に達すると右(東)岸に沿ってヴィニュー=シュル=セーヌまで北上しました。騎兵たちが警戒する中砲列を敷いた騎砲兵第1中隊は対岸のアティス=モンス付近を走る幹線鉄道とオルジュ鉄道橋(現存します)を砲撃し、これを破壊しました。ところが、これはまるで「蜂の巣」を突いたようなもので、オルジュには幹線鉄道の北と南から盛大な煙とけたたましい汽笛を響かせた機関車に繋がれた列車が到着、列車には歩兵が満載されており窓からシャスポーを突き出し、普軍砲列と騎兵に対して凄まじい銃撃を浴びせるのでした。
これを知った師団長伯爵ヴィルヘルム・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ中将は「目的は達成した」として撤退を命じ、騎兵第5旅団は損害僅かで後退するのでした。
一方、驃騎兵第4連隊は昨日に引き続きパリ郊外まで斥候を派遣しましたが、リメイユ(=ブレバンヌ。ブリ=コント=ロベールの北西10.5キロ)を偵察後にクレテイユに向かった1個中隊は、カルフール・ポンパドゥール(クレテイユの南西2.5キロ付近の街道交差点)で仏軍騎兵隊と衝突し、これをメゾン=アルフォール(クレテイユの北西、シャラントン分派堡塁の直ぐ南)方面へ駆逐した後、更にマルヌ=セーヌの合流点を窺いますが、付近には歩兵部隊用の防御施設が多数構築されていたため、中隊は前進を諦めて引き上げたのです。
ヴィルヘルム・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ
○その他
この日、W師団もマルヌ谷を辿って、ラ・フェルテ=スー=ジュアールに到着し、モーの第6軍団後方に付ける形となりました。
セダン地区に残っていた普騎兵第4師団の前衛となった騎兵第10旅団も軍左翼(南)側に進出して来ました。
この旅団は騎砲兵1個中隊を引き連れ、セダンからランス、エペルネー、セザンヌと進んで来たもので、この16日、ナンジ(ムランの東26キロ)に至ります。
旅団は前哨をムラン方面へ出し、この地郊外でB第2軍団の槍騎兵旅団と連絡を通しています。また、斥候は南方に散ってドヌマリー(=ドンティイ。ナンジの南東12キロ)を経てセーヌ川を越えヨンヌ川流域にまで足を延ばしますが、この地域でも義勇兵や武装住民が多数出没しており、怒れるパリ近郊の住民たちは、独軍と見るや見境なく銃撃を加え、独軍騎兵の反撃を受ける前に素早く逃げ去るのでした。
この16日。皇太子と軍本営はクロミエに入城しました。独第三軍のパリ南部包囲はこの翌日を以て本格始動するのです。




