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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリへ!
324/534

仏第13軍団の脱出行(後)

挿絵(By みてみん)

 8月26日・ルテルの宿で寛ぐ仏軍兵士


 仏第13軍団を追う普騎兵第5、同第6師団の後方では、9月2日正午以降、普第6軍団も戦闘態勢を完了して、万が一ヴィノワ将軍が南進した場合、これを速やかに補足・攻撃出来るよう備えていました。


 普第6軍団長、ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・カール・クルト・フリードリヒ・フォン・テューンプリング騎兵大将はこの2日午前11時15分頃、敵がシャルルヴィル=メジエールから南西方面へ行軍中との第一報を手にすると、オットー・ヴィルヘルム・レオポルト・カール・グスタフ・フォン・ホフマン中将が采配する普第12師団に対し、「師団全体でルテルの防御態勢を整え、南進する仏軍を迎え撃て」との主旨の命令を発します。軍団砲兵隊の騎砲兵2個中隊に対しては、ホフマン師団を援護するためルテルへ急行するよう命令が下りますが、当のホフマン将軍は既に独断で後方待機の師団残余部隊のほぼ全てをルテルに呼び寄せており、この命令書を携えた伝令は、ホフマン将軍がルテル進撃の追認を請う具申書を持たせた伝令と行き違いになってしまいます。

 ホフマン師団の同僚、ヘルムート・フォン・ゴルドン中将率いる普第11師団は、これとほぼ同時進行でアルデンヌ運河とエーヌ川との合流点・セミュイ(ヴージエの北10.5キロ)から西進し、昨夕までホフマン将軍のいたアマーニュとソッスイユ(アマーニュの東3.5キロ)まで進みました。


 フォン・ホフマン将軍は同日午前11時、ルテルで騎兵第5師団からの「警報」を受領し、敵の軍団がシャルルヴィル=メジエールから南進していること、これを騎兵第6師団が追尾してロノワ(=シュル=ヴォンス)に向かっていること等の情報を得ます。

 ホフマン師団長はまず、「敵と我らの間には友軍騎兵2個師団がおり、一時はこれを彼らに任せ、まずは夜間行軍で疲弊している部下に飯を食わせよう」と考えます。ところが、師団がまだ食事中の午後1時30分、アマーニュに到着した驃騎兵第11連隊から、「敵はソルス・オー・トゥルネルからノヴィー(=シュヴリエール。ルテルの北東6.5キロ)方向へ前進している」との連絡が届き、同時に先の軍団長の命令も到着しました。

 ホフマン将軍は第63連隊の2個中隊をルテル市街とエーヌ川に架かる橋に残留させると、急ぎ前遣隊主力にルテルの北郊外でノヴィーへの街道(現国道D951号線)に沿って陣地を構えさせ、ノヴィーへ士官斥候を派遣しました。しかし、行動派の将軍は待機に耐えられなくなったのか自らもノヴィーまで騎行し、この地から仏軍の行軍列がコルニー=ラ=ヴィル(現コルニー=ラ=クル。ノヴィーの北北西2.5キロ)より北を通り、更にノヴィオン=ポルシアンとプロヴィジー(ノヴィオン=ポルシアンの南1.3キロ)に向かっていることを知ったのです。


 将軍は直ちに師団騎兵の竜騎兵第15連隊本隊(3個中隊)に対し「ベルトンクール(ルテルの北北東3.7キロ)まで前進せよ」と命じ、以降この地から仏行軍へ斥候を派出させる準備をさせました。しかしこの時点でホフマン将軍は、「仏軍の行軍列は友軍騎兵との接触後西へ転じてノヴィオン=ポルシアンへ向かったものであるから、既にルテルへ進むことを断念しており、ルテルを回避してアンオモン(ルテルの北西6.7キロ)からエーヌ河畔のシャトー=ポルシアン(同西北西9キロ)へ向かう街道(現国道D3号線)沿いに進むつもりなのではないか」と予想しました。そこで将軍はルテル周辺の師団諸隊をモンコメ(ルテルの北西32.5キロ)への街道(現国道D946号線)へ進ませ、敵の南方及び西方への退路を絶つ作戦に乗り出すのでした。

 ホフマン将軍は、仏行軍観察中の騎兵第13旅団からやって来た伝令の報告(仏軍が西へ進んでいるとの主旨)により自身の判断が正しいと確信し、今後の作戦を騎兵第13旅団長カール・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・ヘルマン・フォン・レーデルン少将に通告すると共に、旅団にも急ぎ敵を追って欲しいと要請します。

 これと同時に将軍は、ベルトンクールの竜騎兵第15連隊に対し、「仏軍行軍列の左翼(南から東)側に張り付き、これを監視しつつ普騎兵第13旅団との連絡を絶やすな」と命じました。

 北上した竜騎兵たちは間もなくして仏軍を発見し、歩兵と砲兵がコルニー=ラ=ヴィルからその北にあるノートルダムの林(ボワ・ノートルダーム。コルニー=マシェロメニルの南1.5キロ付近に現存します)に掛けて布陣しているのを確認します。連隊は夕刻、仏軍を監視する斥候を残しノヴィー付近に待機しました。


 この頃、ルテルでは普第12師団の残余部隊が続々と到着し、西進命令を受けた前遣隊主力は午後4時、シャトー=ポルシアンとアンオモンの中間点で街道が交差するエクリー(ルテルの北西6.8キロ)を目標に出立しました。

 この2日日中は曇天で驟雨が降る生憎な天気でしたが、午後も夕暮れ時となると天候は急激に悪化し、激しい風雨がこの地方を襲います。ホフマン師団の行軍もこの悪天候を突いて行われ、師団前衛は日没時にエクリーに到着しました。


 この頃、ルテルの後方サン=ランベール(=エ=モン=ドゥ=ジュ。アティニーの北東3.2キロ)に最後まで予備として待機していた普第23連隊第1とフュージリア(以下F)大隊に師団砲兵の重砲第5中隊、同じくサント=ヴォブール(アティニーの南南東2キロ)にいた第6軍団砲兵隊から応援に駆け付けた騎砲兵2個中隊が強行軍(雨の中2から3時間で道程20キロ前後を走破したことになります)でルテルの北郊外に到着しています。

 この後、騎砲兵両中隊は休む間もなくエクリーへ向かい、師団の残余もルテルで予備となった部隊を除き、アンオモンやシャトー=ポルシアン目指して出立して行きました。


☆ 9月2日午後8時前後における普第12師団諸隊の位置

○アンオモン付近

・第23「オーバーシュレジエン第2」連隊のF大隊

・竜騎兵第15「シュレジエン第3」連隊第1中隊の半分

○エクリー

・第23連隊の第2大隊

・第62「オーバーシュレジエン第3」連隊の第2、F大隊

・第63「オーバーシュレジエン第4」連隊の8個(第1,2,3,5~8,12)中隊

・野戦砲兵第6「シュレジエン」連隊/軽砲第6中隊

・同重砲第6中隊

・同騎砲兵第1,2中隊(軍団砲兵)

・第6軍団野戦工兵第3中隊

○シャトー=ポルシアン

・第22「オーバーシュレジエン第1」連隊の5個(第1,9~12)中隊

・第63連隊の第4中隊

・竜騎兵第15連隊第1中隊の1個小隊

○ルテル

・第22連隊の7個(第2,3,4,5~8)中隊

・第23連隊の第1大隊

・第63連隊の第11中隊

・竜騎兵第15連隊第1中隊の1個小隊

・野戦砲兵第6「シュレジエン」連隊/軽砲第5中隊

・同重砲第5中隊

○ノヴィー

・竜騎兵第15連隊第2,3,4中隊

○それ以外

・第63連隊の第9中隊

 アティニーに守備隊として残留(この2日深夜アティニーを発ち、9月3日早朝エクリーで本隊に合流)

・第62連隊の第1大隊

 ヴィトリー=ル=フランソワ(シャロン=アン=シャンパーニュの南南東30キロ)に守備隊(占領軍)として駐屯

・第63連隊の第10中隊

 リュネヴィル(ナンシーの東南東25キロ)守備隊の任を解かれ行軍中(この2日中に大本営のあるヴォンドゥレスに到着)


 精力的なホフマン将軍はこの師団前衛に参加してエクリーへ向かいますが、この途中、追い駆けて来た伝令により午後3時発信の軍団命令を受領しました。これによると、テューンプリング将軍はホフマン将軍のルエル前進を追認し、「事後の行動は貴官の専断に一任する」との、いわゆる「カルテブランシェ」(白紙委任)を与えたのです。

 これで俄然張り切るホフマン師団長でしたが、この頃、仏軍のヴィノワ将軍はブランシャール師団をノヴィオン=ポルシアンとコルニー=ラ=ヴィル付近に野営させており、斥候の報告でもこの先セランクール(エクリーの北西9.8キロ)やワシニー(同北北西11キロ)に仏軍は存在せず、ホフマン将軍は「今日はここまで」として翌3日、改めて北上し仏軍を捕捉する手配をするのでした。

 この命令により、アンオモンとエクリーの部隊は翌朝午前7時にノヴィオン=ポルシアン方向へ前進し、シャトー=ポルシアンの部隊はエーヌ川に架かる橋を爆破した後、エクリーまで戻るよう手配されます。将軍はここまでの処置を報告書にまとめ、伝令に託してテューンプリング将軍へ送り出し、その写しを後続する第11師団や騎兵第5師団に宛てて送付するのでした。


 その4時間ほど前の午後4時。普第6軍団長テューンプリング将軍は、シャルルヴィル=メジエールを発した仏軍がソルス=オー=トゥルネル付近で南進を止め、西へ転向したとの報告を受けます。

 将軍は直ちに第11師団に対し、「テュニー=トリュニー(ルテルの南東5キロ)からルテルに掛けて布陣せよ」と命じ、軍団砲兵隊(残4個中隊)には「アンブリー=フルーリー(同東南東9キロ)まで前進、待機せよ」と命じるのでした。これら軍団諸隊は2日午後10時前後に目的地へ到着しています。


挿絵(By みてみん)

テューンプリング騎兵大将


 一方、仏軍のヴィノワ将軍は宵の口、ノヴィオン=ポルシアンの本営においてホフマン将軍の部隊がエクリー並びにアンオモンまで進んだのを斥候騎兵の報告で受けるや否や、夜間行軍により包囲の危険を脱し、未だ普軍が到着していない遙か西のショーモン=ポルシアン(ノヴィオン=ポルシアンの西北西13.8キロ)を第一目標に、更にその北西ロゾワ=シュル=セール(モンコメの東8キロ)付近まで一気に進んでランへの街道(現国道D946号線)へ到達しようと決断しました。

 将軍は疲弊し始めていた部下を叱咤激励し、直ちに行軍準備に取り掛からせると、ブランシャール少将師団は日付が変わった午前2時、野営から密かに出立しました。この時仏軍は、普軍の監視を惑わすため野営の灯火を消さずに残し、真の闇夜で激しい雨が降りしぶく中、西方へと消えて行ったのでした。


 闇夜で豪雨の3日早朝、ブランシャール師団は深い泥濘に沈む街道を苦労しながら進みます。行軍は予定より大幅に遅れ、時に停止を余儀なくされますが独軍に妨害されることはなく、すっかり夜の明けた午前7時30分、師団本隊はショーモン=ポルシアンに到着しました。ヴィノワ将軍はブランシャール将軍に休止を命じ、師団長が街の南側にある丘陵に警戒線を敷かせると、強行軍に疲弊した兵士たちは2時間ほど身体を休めることが出来たのです。

 しかし、ロゾワ=シュル=セールに至る街道(現国道D8号線)は完全に浸水しており、とても通行出来る状態ではありません。ヴィノワ将軍は一旦南へ向かいセランクールへ至り、そこから北へ延びる街道(現国道D946号線)を進むことに決めました。

 午前9時30分にブランシャール師団は、少時後に本隊を追い掛ける手筈で後衛を残すとショーモン=ポルシアンを発ちますが、行軍列がセランクールとの中間点ロニー・レ・ショーモン(ショーモン=ポルシアンの南西2.3キロ)に至った頃、後方から砲声が轟き、ヴィノワ将軍は独軍がショーモン=ポルシアンにやって来たことを知るのです。


 時間を遡り、この半日ほど前のこと。

 独第三軍司令官、騎兵大将フリードリヒ普皇太子は「ある決断」を迫られていました。

 皇太子はボーモン~セダン会戦の最中から「数多くの仏兵」がランス市街にいるとの複数の斥候報告を受けていました。ランスは東からパリへ至る行軍路の中でも最初に確保せねばならない重要な街です。

 この「ランスに多数の仏軍」という報告を信じた皇太子は9月2日夕刻、軍命令の中で「第6軍団と騎兵第5師団、(マース軍に編入される前の)騎兵第6師団は速やかにランスへ向かう」よう訓令するのです。


 2日夜に皇太子の命令を受領した第5、第6の両騎兵師団は「直ちに」ブランシャール師団追撃を中止し、進軍方向を南に転じました。


 騎兵第6師団は3日払暁、槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊の斥候隊がショーモン=ポルシアンを目指す仏行軍列の後尾をワシニー付近で襲撃し、行軍列を混乱させるとこれを最後に全部隊が南向して、師団は3日中にアティニーまで進みました。

 騎兵第5師団はランスに向かう第6軍団の右翼(西)側を進むこととなり、3日夕、ベルニクール(ルテルの南西13キロ)、ヌフリーズ(同南南西11.8キロ)そしてタニヨン(同南西9.5キロ)に進みます。

 この3日、ランスを見張る独軍監視哨からは「市内にはおよそ8千名の仏兵がいる。その多くは護国軍」との報告が上がっていましたが、軍命令は変更することがありませんでした。


 一方、皇太子の命令を2日深夜に受けたテューンプリング将軍も「仏軍が未だ出没するシャンパーニュ西部を確保するためにもランスを占領するのは急務」と同意、命令に従い3日午前8時、両歩兵師団に対し「ランスへ進撃するため、まずはジュニビル(ルテルの南12.4キロ。騎兵第5師団のいるヌフリーズの東)とビニクール(ジュニビルの東3キロ)へ向かえ」と命じ、特に第12師団に対しては「昨日ルテル方面へ行軍していた敵の師団を追撃するのは、敵の進路がもし本日の命令(ランス方向の南へ進む)に合致しなければこれを中止せよ」としたのです。


 この命令を受けた第11師団は、第12師団と共に戦う騎砲兵中隊を除く軍団砲兵隊を引き連れ、3日中にジュニビルまで進み、前衛をオッソンス(ジュニビルの南西6.7キロ)へ派出しました。

 ところが、同じ命令を受けた第12師団のホフマン将軍は、既に部下をノヴィオン=ポルシアンに向けて進発させた後でもあり、その成果が判明するまでこのまま「北進」を続行しようと決断したのです。


 この日早朝、仏行軍を見張っていた竜騎兵第15連隊は斥候報告から「敵は未明に北西方向へ出発した」ことを知り、急ぎノヴィオン=ポルシアンに向かいます。この報告を携え師団本営に向かった竜騎兵の伝令はエクリーに到着しましたが、既にホフマン将軍は師団本隊と共に北進した後で、この重大な報告は師団長の手に渡ることはありませんでした。


挿絵(By みてみん)

 普軍の竜騎兵


 同じ頃、エクリーから進発した師団主力を直率するホフマン将軍は、先発させた竜騎兵斥候より、「敵はスリー(アンオモンの北東3.8キロ)からル・ムーラン・ドゥ・スリー(スリーの南南西900m)付近にあり」との報告を受け、また、斥候が捕縛した落後兵の尋問からも仏軍が西へ進み始めたことを確認します。

 しかしこの朝も時折豪雨が襲う悪天候が続いており、竜騎兵斥候たちも敵を発見するのは困難で、大雨は街道や荒野に残る敵の行軍跡を所々流し去ってしまい、情報を得るにはもっぱら付近の住民を捕まえては尋問するしかありませんでした。実際にはこの頃、ヴィノワ将軍は既にショーモン=ポルシアンで部下を休ませつつ今後の処置を考えていたのです。


 これら情報からホフマン将軍は前衛行軍列を、スリーを経てノヴィオン=ポルシアンへ急がせ、後続する歩兵と砲兵はアンオモンからスリーにかけての高地に進むよう命じられました。

 午前9時30分、ホフマン将軍は師団前衛と共にノヴィオン=ポルシアンに到着します。この間、普軍は仏兵に遭遇せず、先着して街を占領していた竜騎兵第15連隊本隊と、街に残って捕虜となった落後兵たちから、「ヴィノワ将軍は約1万の兵力を持つ仏第13軍団の第3師団を率い、午前6時までにその後衛も街を去った」と聞き及ぶのでした。

 しかもホフマン将軍はこの地で、普軍の両騎兵師団が既に敵の追跡を止めたとの情報も得たのです。これで皇太子の命令は「全軍ランスへ進め」との主旨だったことが判明しました。

 しかし、捕虜の言葉や斥候たちの報告から察するに、ホフマン将軍がヴィノワ将軍に追い付く可能性はゼロではありません。そこでホフマン将軍は竜騎兵第15連隊に対し、「(引き連れて来た軍団の)騎砲兵2個中隊と共に敵を急追せよ」と命じ、残余の歩兵部隊にも竜騎兵の後を追って敵に迫るよう命じ、急ぎ出発させます。

 午前11時、早朝ルテルから進発した部隊もノヴィオン=ポルシアンに到着しますが、ホフマン将軍は先発した部隊からの最新報告を得るまで「しばらくこの地に留まるよう」命じるのでした。


 ヴィノワ将軍を追う竜騎兵第15連隊の先頭には、師団参謀(当時普軍師団には中尉から中佐クラスの参謀1名が付されていました)のケスラー少佐が同行しました。竜騎兵とケスラー参謀はまず、ワシニーに向かう街道上(現国道D8号線)にはっきりとした行軍跡を認め、追跡隊はこの街道をメスモン、ワシリーと進み、その先シニー=ラベイ(ノヴィオン=ポルシアンの北11キロ)からの街道(現国道D2号線)との合流点ジヴロン(ノヴィオン=ポルシアンの北西11キロ)で西に向かう新しい行軍跡を発見し、また落後兵数名も捕虜としました。このジヴロンでは騎砲兵第1中隊の行軍列前方に逃走する仏兵の一群が現れ、大胆にも砲兵たちは車両を走らせてこの歩兵の集団を襲い、数名を捕虜とする珍しい手柄を挙げています。


 ケスラー少佐が直率する竜騎兵の先鋒隊は、正午頃ショーモン=ポルシアン郊外に到着しました。すると市街地郊外には未だ仏軍が陣取り、猛烈な射撃を受けた少佐たちは一旦下がって本隊に知らせました。追従していた騎砲兵中隊は竜騎兵に援護され、ジヴロン部落の西側を流れるプランシェット川東岸の高地上に砲列を敷きます。騎砲兵は12門でショーモン=ポルシアンの市街地と、その先ロニー・レ・ショーモンに続く切り通しの街道上に発見した仏軍行軍列を砲撃しました。仏軍には砲兵も見られましたが全て隊列を作って逃走し、一切反撃はなかったのです。

 やがてジヴロン南郊外に普第63連隊第1大隊が到着し、その先鋒はまずアドン(ジヴロンの南西2.2キロ)に向かって進み、その後ショーモン=ポルシアンと南側高地を迂回する形で部落の西郊外にあるシャテニーの小部落(市街の西800m付近)まで進みました。これは先に竜騎兵斥候が「シャテニーに敵2個大隊と砲6門あり」(ブランシャール師団の後衛です)と報告したためでしたが、彼らがシャテニーに至った時には既に遅く、敵の野営跡だけが残っていたのです。

 普第63連隊の後続2個大隊と第23連隊主力も3日午後、ショーモン=ポルシアン郊外へ到着しましたが、既に街から仏軍の姿は消えていたのでした。


 ここまで普第12師団の前衛諸隊は、昨晩より続く大雨の中、泥濘の街道を30キロ近く踏破しています。前衛を追ってショーモン=ポルシアンに到着したホフマン将軍は、それまでの報告を受けた後、「仏軍が急速に退却する中、敵地深くこれを追うには大規模な騎兵の協力を要する」として、「2個騎兵師団が去った今、これ以上敵を追うことは出来ない」と、遂に追跡を断念するのです。


 ホフマン将軍は3日午後早く、各地に進出した部隊に対し、「ショーモン=ポルシアンとノヴィオン=ポルシアンのどちらか近い方に集合し、一時宿営せよ」と命じました。

 最も先に進んだ斥候からは「敵は続々とランの方向へ撤退中」との報告が上がって来ました。


 ホフマン師団が「南進」命令受領後も未だ敵を追っている、との報告を聞いたテューンプリング将軍は、第6軍団本営の一参謀をホフマン将軍の下へ送り出します。ホフマン将軍の後を追った参謀は3日午後4時、ショーモン=ポルシアンで将軍と出会い、「既に南進命令が出た以上これに従って下さい」と懇願すると「いかなる理由があろうとも南以外に進んではいけません」と念を押し、その理由として「皇太子殿下は軍団長(テューンプリング将軍)に対し、9月5日までに軍団全部をランス付近に集合させよ、と命じております」とするのでした。ホフマン将軍は参謀をねぎらうと、命令は承知したとし、「ショーモン=ポルシアンからワシニー間に集合する諸隊は明日4日午前11時、シャトー=ポルシアンの南方に集合、その先シュイップ川(シャロン演習場の北東角シュイップ付近を源流にランスの北、ギニクール付近でエーヌに注ぐ支流。この命令ではバザンクール付近を示しています)に向かって行軍せよ。ノヴィオン=ポルシアンとその周辺に集合した諸隊はタニヨンを経由して南進し、同じくシュイップ川の線を目指し行軍せよ」と命じたのでした。


 こうしてホフマン将軍のヴィノワ軍団追撃戦は終了しました。結局この追撃において、ホフマン将軍の戦果は捕虜とした落後兵42名だけに終わったのです。


 一方のヴィノワ将軍とブランシャール少将師団は、ホフマン師団の追撃中止に文字通り救われる形となりました。


 際どいタイミングでショーモン=ポルシアンの南西へ「脱出」した仏軍は、街道沿いに流れるサン=フェルジュー川東岸の高地尾根、そして付近の森林が遮蔽となって普騎砲兵の正確な砲撃を免れ、3日正午過ぎにセランクール(ショーモン=ポルシアンの南南西5.3キロ)に到着しました。仏軍は少休止後、今度はモンコメへの本街道(現国道D946号線)上をフレーイクール(セランクールの北北西6.8キロ)経由でモンコメを目指し進みます。

 戦後にヴィノワ将軍が残した回想によれば、その行軍中、沿道の住民は挙って援助の手を差し伸べ、糧食や飲水(時にはアルコールも)をふんだんに受けた行軍列は、却って緊張が緩んで軍紀が弛緩した、と言います。この時、行軍の先頭と最後尾を行く2つの正規戦列歩兵連隊(ピエール=ヴィクトル・ギレム准将旅団の第35、42両連隊。他の2個連隊は補充兵や後方警備からなるマルシェ連隊です)は模範的行動をとって規律を守り、これを見たマルシェ兵たちも自らを恥じて襟を正すのです。ヴィノワ将軍は複数の士官を先行させ、馬車や荷車多数を沿道から徴発させると、慣れない雨中の強行軍で疲弊した多くの落後兵と傷病兵を乗せ、少ない行方不明者を出しただけで行軍を進めたのでした。


 9月4日。ブランシャール師団はマルル(ランの北北東22.2キロ)に到達しました。

 ヴィノワ将軍はこのマルルの街で、それまでは手に入れることが出来なかった情報多数に接することが出来、仏第13軍団残りの2個師団に関してもこの地で情報を得るのです。

 それによると、アンソニー・アシル・デクゼア=デュメルク少将率いる軍団第1師団はソアソン(ランの南西30キロ)に、ルイ・エルネスト・ドゥ・モーユイ少将率いる軍団第2師団はランに、それぞれ宿営している、とのことでした。 また、セダンにおける仏シャロン軍の運命とナポレオン3世皇帝が捕虜となったこと、新たに設けられた諸軍団がパリとロワール川流域に集中配備されたことなど、将軍はこの数日に起きた大きな変転を知るのです。


 同日の午後5時20分、将軍はパリより将軍に宛てた電信を受け取りました。


「パリにて革命が発生。貴官は軍団を掌握しこれを率いて直ちにパリへ帰還し、政府の命を受けよ」


 ヴィノワ将軍は直ちにブランシャール将軍に対し、師団と共に翌5日ランに進むよう命じると、自らランに先行して同日深夜モーユイ少将と会見し第2師団の現況を確認するのでした。

 翌5日、モーユイ師団はラン停車場から鉄道でパリに向け出立しました。2個師団が集中することで市街地が混乱するのを避けるため、一旦クレシー=シュル=セール(ランの北14.5キロ)まで行軍した後にランへ進んだブランシャール師団は、翌6日から8日に掛けてテルニエ(ランの西北西26.2キロ)経由でパリへ鉄道輸送されます。ソアソン在のデクゼア=デュメルク師団も程なく命令を受け、鉄道でパリに向かいました。


 こうして仏第13軍団は「セダンの悪夢」から逃れ、数百名の落伍者を出しただけで9月9日、首都パリに再集合します。


 既に一度引退し元老院議員として余生を送っていた「老将」ジョセフ・ヴィノワ将軍は、セダンとメッスに多くの将星を「奪われ」て高級指揮官不足に陥っていた仏軍でも目立つ手腕、「鮮やかに独軍を撒いて首都に帰還した」として、今後パリで有数の将軍となる運命にあるのでした。


☆仏第13軍団第3師団と軍団砲兵隊


*第3師団 ジョルジュ・ウジェーヌ・ブランシャール少将

〇第1旅団 男爵ベルナール・ドゥ・シュスビエル准将

・マルシェ第13連隊 モラン中佐

・マルシェ第14連隊 ヴァンティ中佐

・猟兵2個中隊(猟兵第1及び第2大隊の補充中隊) 

〇第2旅団 ピエール=ヴィクトル・ギレム准将

・戦列歩兵第35連隊 マリウーズ大佐

・戦列歩兵第42連隊 アヴリル・ドゥ・ランクロ大佐

〇師団砲兵隊 マグドレーヌ少佐

・砲兵第9連隊第3中隊(ミトライユーズ砲x6)

・砲兵第13連隊第3,4中隊(ライット4ポンド砲x12)

〇工兵第3連隊対壕第15中隊


*第13軍団予備砲兵隊 アンネー大佐

・砲兵第14連隊第3,4中隊(ライット4ポンド砲x12)

・砲兵第6連隊第3,4中隊(ライット12ポンド砲x12)

・砲兵第12連隊第3,4中隊(ライット12ポンド砲x12)


挿絵(By みてみん)

 仏軍の退却行


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