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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ストラスブールとメッスの包囲、沿岸防衛
322/534

ノワスヴィルの戦い(終)/仏軍は先手を取ったものの……

 1870年8月31日から9月1日にかけて、メッス要塞都市の東近郊で発生した普仏両軍の衝突は、仏軍が「ノワスヴィル=セルヴィニーの戦い」、独軍は「ノワスヴィルの戦い」と呼称しました。また、一部書籍・絵画では「サント=バルブの戦い」としています。


 この戦いに参加した普仏両軍の将兵は、普軍側が8月31日会戦初期に戦闘要員約4万2千名、9月1日午後には7万6千名程度、仏軍の総兵力は不明とされますが、8月22日時点での「バゼーヌ軍」は将兵総計13万7千強(護国軍や義勇軍を除きます)とされており、会戦に先立ち第2軍団の第3師団(ラヴォークペ少将指揮)と各軍団の前哨兵(歩兵10個大隊に騎兵8個中隊)がメッス要塞とその外堡や散兵壕に残留しているので、これを除外すれば会戦当日の兵員数はおよそ12万名と言ったところでしょう。


※「ノワスヴィルの戦い」における普仏両軍の戦力詳細(全て概算)


☆普軍


◯会戦当初兵力(8月31日午前)

*第1軍団、予備第3師団、歩兵第28旅団、騎兵第3師団等

 歩兵36,000、砲138門、騎兵4,800騎

◯8月31日夕刻の増援数

*北独第25「ヘッセン大公国」師団

 歩兵8,540、砲34門、騎兵1,150騎

◯9月1日午前の増援数

※但しほぼ同時に騎兵第3師団(2,500騎前後)はプイイへ向かったため減員

*北独第18師団、第9軍団砲兵隊、第10軍団主力

 歩兵24,500、砲120門、騎兵1,350騎


☆仏軍(8月22日の兵力概算)


*第2軍団 16,000名(ラヴォークペ師団・ラパセ旅団含む) 

*第3軍団 41,000名

*第4軍団 29,687名

*第6軍団 28,200名

*近衛軍団 18,650名

*騎兵集団 2,204名

*その他 1,987名(砲兵予備・工兵等)



 ノワスヴィル(とセルヴィニー)の戦いにおける普軍の死傷者は士官128名、下士官兵2,850名(馬匹は273頭)でした。詳細は以下の通りです。


☆第1軍団

 ○本営 馬匹3頭損失

 ○第1師団

  戦死/士官12名・下士官兵325名・馬匹38頭

  負傷/士官40名・下士官兵780名・馬匹53頭

  行方不明/下士官兵70名・馬匹2頭

 ○第2師団

  戦死/士官8名・下士官兵220名・馬匹20頭

  負傷/士官25(内軍医1)名・下士官兵579名・馬匹12頭

  行方不明/士官2名・下士官兵161名

 ○軍団砲兵隊

  戦死/士官2名・下士官兵9名・馬匹36頭

  負傷/士官2名・下士官兵58名・馬匹71頭

  行方不明/馬匹1頭

☆第7軍団

 ○第28旅団

  戦死/下士官兵3名

  負傷/士官2名・下士官兵22名

☆第9軍団

 ○第18師団

  戦死/士官2名・下士官兵38名

  負傷/士官6名・下士官兵150名・馬匹8頭

 ○第25「H」師団

  負傷/下士官兵3名

☆予備第3師団

 ○混成歩兵旅団

  戦死/士官2名・下士官兵28名

  負傷/士官9名・下士官兵173名・馬匹2頭

 ○後備第3師団

  戦死/士官5名・下士官兵22名

  負傷/士官10(内軍医1)名・下士官兵174名・馬匹1頭

  行方不明/下士官兵11名・馬匹2頭

 ○予備砲兵隊

  戦死/馬匹5頭

  負傷/下士官兵11名・馬匹5頭

☆騎兵第3師団

  戦死/士官1名・下士官兵1名・馬匹2頭

  負傷/下士官兵11名・馬匹9頭

  行方不明/下士官兵1名・馬匹3頭


☆総計

  戦死/士官32名・下士官兵646名・馬匹103頭

  負傷/士官94(内軍医2)名・下士官兵1,961名・馬匹162頭

  行方不明/士官2名・下士官兵243名・馬匹8頭

 ※行方不明は捕虜を含みます。


 特に損害の大きかった部隊は、やはりノワスヴィルで戦った擲弾兵第1連隊、第43連隊、第44連隊などでした。


挿絵(By みてみん)

 モーゼル河畔の戦死者埋葬地


 ノワスヴィルの戦いにおける仏軍の死傷者は士官145名、下士官兵3,397名(それぞれ146名、3,401名とする資料もあります)。詳細は以下の通りです。


☆第2軍団

  戦死/下士官兵8名

  負傷/士官4名・下士官兵96名

  行方不明/下士官兵22名

☆第3軍団

  戦死/士官20名・下士官兵164名

  負傷/士官67名・下士官兵1,448名

  行方不明/士官2名・下士官兵442名

☆第4軍団

  戦死/士官6名・下士官兵71名

  負傷/士官25名・下士官兵610名

  行方不明/士官1名・下士官兵186名

☆第6軍団

  戦死/士官3名・下士官兵42名

  負傷/士官16名・下士官兵223名

  行方不明/士官1名・下士官兵103名

☆近衛軍団

  負傷/下士官兵2名


☆総計

  戦死/士官29名・下士官兵285名

  負傷/士官112名・下士官兵2,379名

  行方不明/士官4名・下士官兵733名

 ※行方不明は捕虜を含みます。


 仏軍負傷者には4名の将官もいて、少将ジャン=バプティスト・アレクサンドル・モントードン師団長は1日、モントワ付近での指揮中に榴弾の破片を浴びて負傷し、第4軍団参謀長のオーギュスト・アドルフ・オスモン准将は31日、同じく砲弾の破片により、同軍団の砲兵部長ラファイユ准将も1日に砲撃で負傷しています。

 ルブーフ大将の「片腕」で第3軍団参謀長のクロード・ジュール・イシドロ・マネーク准将は1日、前線での采配中に砲撃を受け重傷を負ってしまいます。後送された准将は同日サン=ジュリアンで死亡、付近の墓地に埋葬されました。ひょっとしたらルブーフ将軍によるノワスヴィル放棄の決定は、このマネーク准将の負傷が原因の一つかも知れません。


挿絵(By みてみん)

 マネーク


 普軍はこの戦争前期(7月19日から9月4日・第二帝政期)において、初戦の「ザールブリュッケンの戦い」以外のほぼ全ての会戦で「先制攻撃」を行って主導権を握り、正に「見敵必戦」を絵に描いたような戦いを繰り広げていました。

 ところが、この「ノワスヴィルの戦い」において初めて仏軍が先手を取って普軍の防衛線へ攻撃を仕掛け、数倍の敵に襲われた普軍の前線では珍しいことに潰走する兵士の姿も見られたのです。仏軍は一部の普軍前哨線において包囲網を突破し、バゼーヌ大将の作戦は成功するかに見えました。


 バゼーヌ将軍がメッス包囲網から脱出する機動を見せたのはこれが2回目(1回目は8月26日)ですが、前回と違い今回はこれを断行する気概を見せ、仏軍はほぼ初めての攻勢を気迫溢れる突撃によって遂行しようとしました。


 8月26日午後の「グリモン館会議」で一旦はメッス籠城を可としたバゼーヌでしたが、それは冷え冷えとした関係に陥っていた部下諸将たちの意見(砲弾不足などにより野戦に打って出るよりは籠城した方が長く敵を拘束出来る)に押されたからで、内実は「一か八か野戦に打って出て包囲を突破し友軍の待つシャンパーニュ=アルデンヌ地方へ進む」方に誘惑を感じていたのではないかと思われます。

 8月29日となって、マクマオン将軍の「シャロン軍」が東進中、との報告を受けたバゼーヌ将軍は、再び「一か八か」に賭けようと考えを翻したのでした。将軍の脳裏には「マクマオンと邂逅し互いに肩を抱き合って再会を喜ぶ姿」や「憎たらしい若造カールの軍をライン軍が振り切り、シャロン軍と協力して普皇太子やザクセン王太子の軍を挟み撃ちにする光景」が浮かんでいたのかも知れません。しかしそれは独公式戦史があざ笑うかのように記す通り全く「不可能で空想に過ぎない」のです。


挿絵(By みてみん)

 突撃する普軍


 とはいえ、マクマオンが東進するとすれば、それは包囲側のカール王子にとって心理的に強力な圧力となります。実際カール王子は普大本営の命令で2個軍団を西へ差し向けた際に「モーゼル東岸は一旦包囲を解いても可」とされますが少ない兵力ながらも包囲を止めることはせず、重点となったモーゼル西岸では考えられる限りを尽くして包囲網の維持を図りました。その後、2個軍団が復帰した後も予備兵力を東へ送るのは最小限度(第28旅団だけでした)として西側と北側(ティオンビルは未だ陥落せず、こちらからマクマオン軍が現れる可能性も捨てられないカール王子でした)に目を向け続け、緊張を持続させていました。

 そしてこの間、モーゼル東岸は包囲の範囲に比して呆れるほど少数の兵力で維持していたのです。


 バゼーヌ将軍が直接西へ向かわず、一度東へ打って出て北進するという作戦に出たのは、このモーゼル東岸にある敵兵力展開の薄さに起因するのではないかとも考えられます。この作戦の意図について戦後、バゼーヌ将軍はこう語ります。


「第3、4、6の3個軍団により包囲を突破しベトランヴィル(サント=バルブの北8.6キロ)からケダンジュ(=シュル=カネ。同北北東16.8キロ)へと進み、同時に第2と近衛軍団により真っ直ぐマルロワへ進んで包囲網を突破、ティオンビルへ進もうと考えた。必要ならばモーゼル西岸でも(一部)軍を進めようと考えていた」

「モーゼル西岸のみを北進すれば独軍によりモーゼル渓谷で東西両側から挟撃されてしまい、その先オルヌ川の渓谷も蛇行し深い渓谷もあり渡河は困難を極めるため避けたかった」

「初めに軍をサント=バルブ(北東)へ向けたのは、敵をして仏軍が北進するのか、または独軍の主要連絡線を遮断する目的なのか長らく迷わせて混乱させ時間稼ぎを図るためであり、これによってモーゼル西岸の敵を少数にさせて、一つはシャロン軍の来援を容易にし、今一つはティオンビル付近で我が軍を遮ろうと考えるだろう独軍が十分な兵力を先に展開出来ないようにするためだった」

(アシル・バゼーヌ著「ライン軍」他の書籍から独公式戦史が抜粋したものより)


 またバゼーヌは1873年に開かれた軍法会議の席上「何故東側へ打って出たのか」との主旨の諮問に対し、「独軍の不意を突くため、26日と同じ北東へ突破を図り、仏軍側でも26日の攻撃で突破方向(東と北)の地理に通じていたため、これを再利用しようと考えた」と回答しています。


挿絵(By みてみん)

 仏軍猟兵


 戦後、バゼーヌ将軍は自身に降りかかる嫌疑(敗戦責任)に対し必死で防戦に努めたため、一部矛盾を抱える答弁をしたとも言われますが、一見無謀にも見える今回のライン軍突破の「方向」についてだけは独軍側も「一理はある」とするのです。

 その理由や結果について後に独参謀本部戦史課はこう書き記します。


「もしバゼーヌがモーゼル西岸より軍を西若しくは北西へ進めていたとすれば、仏軍はたちまち普攻囲軍の包囲陣地に衝突し頑強な抵抗に遭遇したであろう。しかもその後方には予備となった軍団(第2と第3)がおり、これは当時バゼーヌもその存在を知っていた。例えこの方向への進撃が成功したとしても、パリに向け進撃している筈の両皇太子の軍(第三軍とマース軍)に必ず遭遇するとバゼーヌは考えたはずだ。当時これらの軍は北上転進し、メッスの真西にはいなかったが、その事実をバゼーヌは知らなかった。また、仏軍がこの方向(北西のブリエ方面)へ進めば、まずは大軍の渡河が困難なオルヌ川に行き当たってしまうこととなる」

「これに反してメッス東方の地方は当初より行軍は楽で、この時攻囲軍はこの地方に重きを置かず、しかも兵站連絡線に沿って後方部隊を展開し、広い範囲に兵力を分散していたので包囲突破の可能性は西岸よりはあった」


 とは言うものの、普参謀本部は続けて「それは失敗する運命だった」と決めつけます。


「しかしマントイフェル将軍に属する軍団が仏行軍の側面及び背面を攻撃することもまた容易であり、そうなれば仏軍北進はたちまち困難となっただろう。このように仏軍の形勢は不利だったがそれでもなおこの地方を抜け、ティオンビル付近でモーゼル川を越えることが出来たとしても、その後ルクセンブルク~ベルギー国境沿いを進むことは仏軍に取って一層危険に陥ることとなったであろう」


 独参謀本部戦史課は尚も、この時バゼーヌが行うべきだった作戦例を得意げに説きます。


「この時メッス南方の状況は、仏軍に取って北方より困難の度合いが遥かに小さかった。この場合、仏軍が採るべきはセイユ川両岸に軍を展開して、ソルニュ、ノムニー、シュミノそれぞれへ向かう街道(ソルニュへは現国道D955号線、ノムニーへは同じくD913号線、シュミノへはD5号線)に沿って広い正面を取って進むことだった。このうち、左側支隊(D955号線を行く部隊)をクールセル=シュル=ニエ(兵站基地がありました)へ、右側支隊を要塞砲兵の援護下(本要塞にクール分派堡塁やサン=プリヴァ堡塁など)にフレスカティ(メッス大聖堂の南西6キロ)付近まで進め、アル=シュル=モセルやジュイ=オー=アルシュに対面すれば、普軍の第7、第8両軍団がモーゼルを渡河する際に大いに障害となっただろう。この時、メッス要塞からライン軍主力が一気果敢に三街道を突き進めば、当時攻囲軍は南部前哨に大した兵力を置かずにいたため、仏軍は困難な戦闘を経ずして確実に包囲網の突破を完了したはずだ」

「ただ、当時の仏将軍たちはいかなる場合においても輜重を携えて行軍することを欲していたため、足の遅い輜重を引き連れては時を経ずして独軍に追い付かれ、その背面や側面を攻撃されたのではないかと思われる。しかし、それがあったにせよ、一時的にバゼーヌ大将はその正面(南)に敵影を見ることが無く、妨害されることもなく南下が出来た筈だ。当時これを止めようとその正面に立ちはだかる事が出来たのは、ストラスブール攻囲軍の一部のみだったからである。そうなればバゼーヌ将軍は独軍の守備寡弱な大連絡線(サルグミーヌ~ポンタ=ムッソン及びナンシー)を遮断し、その輸送途上の物資を略奪することも可能だった筈で、バゼーヌ将軍は多大の困難(補給や弾薬、糧食の不足)を抱えてはいてもその軍の大部分を率いて南方に脱することを考査してもよかったのではないかと考える」(1870-71年独仏戦史・筆者意訳)


挿絵(By みてみん)

 仏軍の散兵線


 確かにバゼーヌ軍(=ライン軍)が一目散にロレーヌを縦断してナンシーを抜け、エピナル(ヴォージュ山脈南端付近)まで逃げてしまうことを想像すれば、この先普軍にとって非常に厄介な状況(カール王子軍の南進、ストラスブール攻囲やパリ攻囲の延期など)が発生し、戦争はまた違う展開となった事でしょう。

 ところがバゼーヌ将軍は「安全な」南ではなく、危険が多いと思われるティオンビル方面へ強引に進もうとしました。これは「シャロン軍が救援に来る」と言う情報が将軍の背を強く「後押し」し、「パリの陰」が影響(シャロン軍と合流しなければ処断されるのでは、という心理的圧力)したのではないかと思われます。

 事実、バゼーヌを被告とする軍法会議で証言台に立ったライン軍本営幕僚だったジュール・ルイ・ルヴァル大佐(後に共和国の陸軍大臣となります)は次のような証言をして「北進」の正当性を訴えています。

「8月24日に大将は、どの方向に解囲を図ればよいものか、との質問を投げかけました。本官は躊躇なく、必ず北方に向けて前進すべきと答えました。何故なら、すでに大将が発した全軍命令には北に向けて行軍すべきとあり、シャロン軍もまた(東へ)行軍中との報告もあったからです」


挿絵(By みてみん)

 ルヴァル


 仏ライン軍をそのまま西行又は北上させず、モーゼル東岸に集合させようとしたバゼーヌ大将の命令について、戦後、大将を非難する人間はこれを激しく糾弾しました。批判は戦略や戦術ばかりでなく、その行動力にも及びます。これについては独参謀本部も同調し、包囲されて危機に陥っている仏軍としては、「僅かな時間稼ぎも重大で、時間を失うことは延々30キロ余りも包囲陣地を設けていた普軍に大いなる利益(防衛態勢を整える時間)を与えた」と、渡河に手間取り夜間戦闘を断行しなかったバゼーヌの指揮振りを切り捨てます。


 バゼーヌ将軍は渡河の遅れに対し何ら効果的な手段も講じず、その後中途半端な時間(午後4時)に攻撃を開始し、それも後方予備がまだ渡河中に行いました。

 事前にモーゼルの渡河点に更なる架橋を行い、何故か避けていた市街地での渡河も併用して行うよう計画していれば渡河は更に速まったものと思われます。

 また、第2、第3軍団を小出しに使う(第一線に2個師団半)のではなく、要塞に残った1個師団を除く6個師団全てを前線展開させ、渡河の順番も遅く後方待機とした予備砲兵団を真っ先に渡河させ前方展開していれば、31日夕から夜間の戦闘もまた違ったものとなっていたのではないかと思われるのです。

 夜陰は混乱を招き、更に砲兵は使い物とならない場合が多く発生しますが、元よりそれは分かり切った事であり、敵もまた同じ混乱に陥る可能性が高いことを思えば、例え渡河点での灯火で動きが敵に筒抜けてしまっても、そのリスクは夜間混乱に紛れて前線を一気に大集団で駆け抜ける機会に比すれば、大したものではなかったはずなのです。


 8月31日の午後、二回目の「グリモン館会議」でバゼーヌ大将が諸将に示した「決意」は断固としたもので、その主攻撃の方向をサント=バルブ高原と指定し、この地域を制圧した後ティオンビル方面へ向かうとした命令も(効果が有か無かは別として)、それまでの仏軍にはない明快な命令で、困難を承知の上で北進するのであれば当を得たものと言えました。

 ケダンジュに向かう街道はどれも狭く、特に深いファイイの森を直進するルートは大軍の行軍は無理な林道だった事を思えば、これを避けて比較的北進が楽な街道(ベトランヴィルへ向かう現国道D67号線)の発起点であるサント=バルブを攻略した後に大行軍列に北向転進させようと考えたことは間違いではありません。バゼーヌ将軍が一見、迂回して普第1軍団と衝突したように見えるこの行動もこうした理由があってのことでした。

 ただし、南側にも多少は戦力を、と考えてカスタニー少将師団をクール分派堡塁付近に残置させたのは「頂けない」行動で、もしこの師団戦力がモントワ~セルヴィニーの前線近くにあれば、31日の夜襲で一旦は確保したセルヴィニーも確実に落とすことが出来ていたかも知れないのです。


 31日に「不完全」な状態で終わった戦いは1日に再興されますが、既にバゼーヌ大将の脳裏には「失敗」の二文字が浮かんでいたのかも知れません。何故ならば当日早朝に発した命令には「もし計画が失敗に終わった際には」というネガティヴな命令が入っていたからで、これから死闘を演じようとしている軍に対し「もしもの場合は」などという命令を最初から示してしまえば、その「忍耐の限界」もおのずと低くなってしまうのではないか、と思われるのです。そしてこの「マイナスのベクトル」は、ルブーフ大将をしてクランシャン准将旅団を始めとする将兵たちに対し、限界が近かったとは言え「安易に」ノワスヴィルとビール工場からの撤退を命じさせたのでした。


 いずれにせよ「ノワスヴィルの戦い」は、双方の下級指揮官たちが多少の失敗や錯誤を起こした以外、両軍共に司令官の原命令を理解して目的を達成するため全力を尽くした戦いであることは間違いありません。


 中でも普第1師団が数倍の仏軍に対して行った防御戦闘は、バゼーヌ大将の計画を大きく狂わせ、包囲突破を失敗させた主因となりました。この時も、遙か西で同時進行していた大会戦と同じく、普軍の砲兵はその存在を遺憾なく発揮して仏兵の戦意を挫いたのでした。

 また、各レベルにおける独断専行はここでも概ね成功要因となり、独側の戦術レベルにおける各級指揮官の能力は、仏軍の同等レベル指揮官より優れている、と言いたい誘惑にも駆られます。

 普軍が攻撃前に行う「準備砲撃」はこの戦いでも威力を発揮しました。事前砲撃はこの先普軍の「ドクトリン」(定石)となります。


挿絵(By みてみん)

 クルップ製野砲


 セダン要塞の陥落・シャロン軍の壊滅・そして皇帝の運命が決したこの9月1日。バゼーヌ大将によるライン軍の「メッス脱出」も失敗に帰し、この先バゼーヌ将軍は二度と全軍を挙げての包囲突破を図ることなく運命に甘んじて行くことになります。


 独参謀本部は「ノワスヴィルの戦い」を評して次のように誇らかに断じます。


「この戦いの結末は、仏軍司令官の意志の弱さに起因するものではない。独軍の敵に対する処置が効果を発揮したのである。特にフォン・マントイフェル将軍の指揮下にあった諸将兵の勇敢な抵抗に因るところが大きい」

(1870-71年独仏戦史・筆者意訳)



挿絵(By みてみん)

前線の普軍歩兵(クリスチャン・シェル画)


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