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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ストラスブールとメッスの包囲、沿岸防衛
321/534

ノワスヴィルの戦い/仏バゼーヌ軍包囲突破に失敗す

 マランクール(サン=プリヴァの北北東3.8キロ)在の独攻囲軍本営では9月1日の午前6時30分頃より、西側遠方から砲声が聞こえ出しました。本営の参謀長グスタフ・フォン・スティール少将以下秀英の参謀幕僚たちは「両皇太子の軍(独第三軍とマース軍)もマクマオンと戦い始めた」と噂し合い、「この(メッスでのバゼーヌ軍との)戦いも西方の戦いと連動したものに違いない」と決めつける者も多かったのです。

 午前7時45分には、独第一軍司令官フォン・シュタインメッツ歩兵大将より「メクレンブルク=シュヴェリーン大公の軍前衛が正午にもフランシス=ニエ川の線まで達する」との正式な報告も入ります。

 攻囲軍司令官、親王フリードリヒ・カール騎兵大将は、その他昨夜来の報告を受けた後、本営の留守を預かる幕僚の一人に対し「四方に耳をそばだて、遠来の砲声を聞き逃すな」と命じると午前8時前、幕僚を引き連れて本営を飛び出し昨日と同じフェーヴ(サン=プリヴァの東6キロ)北のオリモン山へ向かいました。砲声を聞くように命じられた士官が後刻報告するに、マランクール(セダンから直線で96キロ)付近では午前9時30分まで砲声が聞こえていた、とのことでした。


 カール王子はオリモンへの途上、東からも激しい砲声を聞き、メッス包囲網の北辺を預かる北独第10軍団本営からの報告も届いたことで、モーゼル東岸の戦いもまた熾烈となったことを知ります。

 王子は道中ブロンヴォー(サン=プリヴァの東北東3.8キロ)に着くとこの日最初の軍命令を発し、それによれば「第3軍団は1個師団を抽出し、これに出せる限りの軍団砲兵を付してメジエール(サン=プリヴァの東北東9.4キロ)まで派遣せよ。この師団は攻囲軍司令官の直接指揮下に置かれる」とのことでした。

 この命令を受けた普第3軍団長、コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将は察し良くこの任務にカール王子の大親友フォン・シュテュルプナーゲル中将率いる普第5師団を充て、早速メジエールに向け出立させました。C・アルヴェンスレーヴェン将軍は残った第6師団をサン=プリヴァの東郊外、フェルム・マレンゴまで進め待機に入りました。


 カール王子がオリモン山に到着すると、モーゼル東岸の独軍を統括するフォン・マントイフェル騎兵大将からの電文(午前7時30分発信)が届けられます。これにより王子はマントイフェル将軍が遥かに優勢な敵と対戦している状況を知るのです。この状況は正に今カール王子の眼下に広がる戦場の光景でも確認することが出来、王子は「マントイフェルには更なる増援が必要」と痛感、モーゼル西岸北部を担任する第10軍団本営へ伝令を送り「貴軍団陣地線に必要不可欠な兵員のみを留め、軍団の総力を挙げモーゼル東岸に至り、貴軍団の裁量で臨機に参戦せよ」と命じるのでした。

 命令は速やかに第10軍団長、フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将の下に届けられ、それまでは対岸の戦況をイライラと眺めているしかなかった切れ者の将軍は、昨日の緊急対応と同じ命令を発して第19、20両師団中、即時出陣可能な部隊を直接モーゼル川2ヶ所の渡河軍舟橋へ急行させたのです。フォークツ=レッツ将軍は更に、普第5師団の前衛がマランジュ近郊まで進んだことを知るや、マルス=ラ=トゥールで共に戦ったステュルプナーゲル将軍に「後は任せた」とばかり前哨線で警戒任務に就いていた部隊以外の部隊まで根こそぎ渡河軍舟橋へ向かわせました。

 こうして午前11時、第5師団がメジエールに到着しカール王子の直率となった頃には、第19師団はアルガンシー(マルロワの北2.5キロ)のモーゼル東岸橋頭堡付近で集合を完了し、第20師団と軍団砲兵隊はアンティリーの南側丘陵地帯まで進み出ていたのです。


 カール王子はオリモン山での観察結果、仏軍がほぼ全ての野戦軍をモーゼル東岸へ押し出したことを確信すると、午前9時15分、アル=シュル=モセルの第一軍傘下普第7軍団長のフォン・ツァストロウ歩兵大将に宛て電信を送り、「第一軍司令官の命令と矛盾しない限りにおいて、貴官は貴軍団のほぼ全力を率いてモーゼルを渡り、メッス東方地域に到達せよ」と命令しました。王子は「アルとその周辺地域は現時点においては1個旅団程度で守備可能」と見なし、「必要な場合には、その北方を護る第8軍団の予備を投入すればよい」と考えていました。実際、ツァストロウ将軍が東へ動いた後に、普第8軍団長フォン・ゲーベン歩兵大将は命じられるまでもなく後方予備部隊を少々南側へ移動させ、第7軍団と交代するべく用意させています。

 同時にカール王子は東岸の予備第3師団に対し、「貴師団の前面の敵は行動が不発につき、第10軍団の先鋒旅団と任務を交代し、準備が出来次第、全力を挙げてサント=バルブに進む」よう書面で命令するのでした。

 しかし、この命令を携えた士官がオルジーに到着する以前、予備第3師団長フォン・クンマー中将は混成歩兵旅団を直率し、徹夜で行軍後マルロワ~ファイイの森西縁の前線後方で待機していた第18師団と共に攻撃前進を開始していたのです。


挿絵(By みてみん)

 クンマー

 一方、仏第6軍団第1師団、ティクシエ少将の砲兵隊(ライット4ポンド砲3個中隊・18門)は濃霧を無視して黎明より約1時間に渡りファイイに対する砲撃を行いました。

 この砲撃終了後の午前8時30分、ティクシエ将軍はおよそ1個連隊を部落周辺に布陣する普軍に向かって前進させますが、この攻撃は「覇気」が無く、短時間の銃撃戦後に仏軍部隊は後退してしまいました。

 ティクシエ師団は午前9時30分にも先ほどより戦力を増した攻撃を行いますが、普擲弾兵第1連隊F大隊を中心とするファイイ守備隊による激しい銃撃と、部落北方の高地斜面に散兵線を敷いていた同連隊第9中隊が敢行した突撃により仏軍はまたしても退却するのです。この時、ティクシエ師団はファイイの南郊外に攻撃重心を置いて部落の突破を図りましたが、ここには後備第5旅団のザムター大隊が構えており、大隊長ヒュルゼマン少佐の陣頭指揮宜しく押し寄せる仏軍戦列歩兵を退けるのです。しかしこの戦闘で少佐は瀕死の重傷を負い後送されてしまいました(間もなく死亡)。


 この仏第6軍団左翼(西)でも早朝、数個連隊が散兵を前にして一斉に前進を図りました。


 この強力な攻撃前進は、ファイイに対するティクシエ師団の第1回攻撃と同時に行われます。

 仏第6軍団長のカンロベル大将は、バゼーヌ大将の「南側のルブーフ大将の軍勢(仏第3と第2軍団)が東へ進むまで待て」という訓令を無視し、自ら麾下部隊に攻撃的機動を行わせたのでした。


 カンロベル将軍は夜間シユ付近まで前進し砲列を敷いていた軍団砲兵4個中隊に命じて、ルピニー部落に集中砲火を浴びせました。砲撃の直後に強大な歩兵の前進が開始され、たちまちルピニー部落は包囲の危機に陥ります。この部落を守っていた普第81「ヘッセン=ナッサウ第1」連隊第2大隊は、包囲される前に部落を脱して本隊のいるシャルリ(=オラドゥール)まで退却しますが、ルピニー部落には思ったほど多くの敵が入らなかったことが分かると引き返し、逆襲の白兵戦後ルピニーを奪還するのでした。


 このルピニーとファイイとの間にはこの時、普第18師団の将兵が進み出て参戦します。


 8月14日の「コロンベイの戦い」で今回の戦場南部、メルシー=ル=オーとグリジーで戦っていた同師団中、既述通り第35旅団が払暁来マルロワとシャルリの陣地を支援し、第36旅団はファイイの森西縁に沿って展開することで第50(H第2)旅団と交代しました。

 この第36旅団に属する普第85「ホルシュタイン」連隊第1、2大隊は、シャルリ~パウイイ(シャルリの東北東1.7キロにある小部落)間となるファイイの森南縁に展開し、同旅団の「片割れ」で「マルス=ラ=トゥールの戦い」において大損害を受け、再建されたばかりの擲弾兵第11「シュレジエン第2」連隊は第18師団砲兵隊の軽砲第2中隊を従え、ファイイの森西方にある窪地(シャルリの東500m付近)で待機しました。同連隊の第2大隊は更にシャルリ部落へと進出し、第81連隊を援助します。その後第18師団長のフォン・ヴランゲル中将はこの大隊に命じて、仏軍から猛撃を受ける最前線のルピニーへと向かわせたのでした。


 仏第6軍団長カンロベル大将が画策した「ファイイ(東)とルピニー(北)同時攻撃」を見たヴランゲル将軍は、このファイイとルピニー間のサント=バルブ高原西縁を占領している仏軍が僅かに独軍前線側へ突出していることに着目します。将軍はこの仏軍先鋒部隊に対し「その正面を抑えて右側面より片面包囲攻撃を掛ければ仏軍前線は崩壊する」と考え、この作戦を第36旅団長のフェルディナント・アドルフ・エデュアルト・フォン・ベロー少将に実行するよう命じました。


 ベロー将軍はこの時戦線に展開していた自旅団4個大隊を素早く区処し、攻撃左翼(東)を第85連隊第2大隊に、敵正面へ北側より攻撃する中央を同連隊第1大隊に、同じく正面を抑える攻撃右翼(西)を擲弾兵第11連隊第1大隊に割り振り、同連隊F大隊を予備として後置しました。この攻撃を援護するため師団砲兵の重砲第1中隊がファイイの森縁より前進し、既にシャルリとファイイの森西縁との間に砲列を敷いていた同僚の軽砲第2中隊に接続し砲を並べたのです。

 攻撃はこの砲兵たちの砲撃で始まりました。ティールマン少佐が率いる左翼の第85連隊第2大隊はまずファイイに向けて南進し、ファイイを守る擲弾兵第1連隊F大隊と接触して連携すると、ファイイ北の高地尾根へ突進してそこにいた仏軍散兵を駆逐しました。同時に正面では並進する中央・右翼の2個大隊がシユの部落北縁を流れる小河川マルロワ川の北岸に到達し、付近の仏軍と激しい銃撃戦を展開しました。


 この歩兵に続行した師団砲兵隊の重砲第2中隊と、攻撃に合わせるようクンマー将軍が前線へ急がせた第11軍団予備軽砲第3中隊もマルロワ川付近まで到着し、普軍の猛攻を受けて浮き足立ち後退を始めた仏軍を砲撃し始めます。この砲撃はかなりの成果を挙げ、この方面での仏軍攻勢を挫折させるのです。砲列の傍らには擲弾兵第11連隊F大隊とサント=バルブから駆け付けた予備槍騎兵第5連隊が進み、砲兵をしっかりと援護するのでした。

 予備第3師団に属する他の砲兵中隊(第5軍団予備砲兵3個と第11軍団予備軽砲第1中隊)はマルロワ~シャルリ間に造営されていた3つの肩墻に配されて主としてシユ付近の仏第6軍団砲兵を砲撃し、また南方より前進を図る新たな仏軍歩兵縦隊を狙ったのです。


 こうして仏第6軍団右翼(西)は普第36旅団を中核とする攻撃によってファイイ~シャルリ間の高地から一掃されてしまいました。しかし、同軍団左翼(東)は依然ルピニーの南から西に掛けて展開し、その散兵線を死守していました。

 フォン・クンマー将軍はこの陣地帯を攻撃し仏軍を要塞に押し戻そうと決心し、午前10時30分前後、混成歩兵旅団諸中隊に攻撃前進を命じます。これと同期する形でフォン・ヴランゲル将軍も第35旅団に命じ、予備として後置していたフュージリア第36「マグデブルク」連隊をシャルリの東郊経由でルピニーまで前進させたのでした。


 この前進中、戦線最右翼(西・モーゼル沿岸)にあってマルロワからモーゼル川を横目に進んだ第19「ポーゼン第2」連隊第12中隊は、その一部が対岸から銃撃を受け何も遮るものがない河岸段丘上のため進撃を阻止されてしまいます。同連隊第2大隊の両翼(第5,8)中隊もティオンヴィル街道(現国道D1号線)の東側を南進中シユから猛銃砲火を浴び、同じく前進を断念してルピニーの西郊外で街道との中間付近に散兵線を敷くのでした。

 その東方での普軍南進はもう少し上手く行き、ルピニー守備隊だった第81連隊第2大隊の両翼中隊はシユ近郊まで迫り、同連隊第12中隊はシャルリより突進し、ルピニー南方にポツンと存在する雑木林を占拠することが出来たのです。

 擲弾兵第11連隊第2大隊長フォン・クライン中佐は同連隊第7,8中隊を直率すると第81連隊兵と協力しルピニー周辺で銃撃を行っていた仏軍を押し返し、そのままルピニーの東郊外に散兵線を敷きました。ほぼ同時刻にフュージリア(F)第36連隊もルピニー付近に到着し、前衛となっていた第3大隊(普軍のフュージリア連隊は大隊全てが「フュージリア大隊」と呼称されるので三番目の大隊は「第3」大隊です)は部落南郊外に展開して防御を強化し、更にその両翼(第9,12)中隊はシユに向かって前進しました。同連隊他の2個大隊はルピニー部落とその北郊外とに配置されました。


 このようにシユ北方のマルロワ川北岸方面からも仏軍は次第に撤退し、遂に全ての部隊がマルロワ川を越えて南へ退却するのでした。

 ファイイに面していたティクシエ師団は午前11時30分、部落に対する最後の突撃を敢行し、今回は普軍の右翼(北)に重心を置いた攻撃を仕掛けました。しかし、既にファイイの北部高地には普第36旅団が展開しており、高地上から猛銃撃を浴びた仏軍は短時間で踵を返したのです。

 戦況が有利となった普軍側は速やかな逆襲に転じ、第85連隊第2大隊にヴェストファーレン後備歩兵連隊長ハンス・フリードリヒ・フォン・ブランデンシュタイン大佐が率いる諸中隊によって退却する仏軍は猛追を受け、ティクシエ師団は総崩れとなって前線を放棄し、ヴィレ・ロルムまで後退したのでした。


挿絵(By みてみん)

砲撃を受ける仏軍砲兵隊


 ここで視点をセルヴィニー~ノワスヴィルの戦線に転じます。


 セルヴィニーの南に展開する普軍砲列は午前9時以来ノワスヴィルを目標に榴弾砲撃を継続し、それにより部落は猛火に包まれ、ビール工場は無数の砲弾により蜂の巣状に穴が穿たれ、屋根が崩れ落ちる寸前となっていました。

 この近郊に砲列を敷き、強力な普軍砲列と対決していた仏第2、3、4軍団の諸砲兵中隊は次々に撃破されて後退し、バゼーヌ将軍とラドミロー将軍は予備部隊を投入し前線を支えようとしますが、砲撃によりことごとく妨害され増援の配備は失敗する運命にありました。

 ノワスヴィル攻撃の指揮を執る普第1師団長フォン・ベントハイム中将はこの様子を観察し、午前10時過ぎ、頃合いとばかりにヴァリエール渓谷上流沿岸に集合を終えていた後備歩兵第6旅団を更にノワスヴィル近郊に向け前進させます。同時にザールルイ街道に跨がって展開していた普第3旅団に対しても「後備歩兵の前進を南方から支援する」よう命令しました。因みにベントハイム将軍はこの時、マントイフェル将軍の命令により「ノワスヴィル攻撃を統一あるものとするため」攻撃に関わる全ての部隊に対する命令権を一時的に得ています。

 フォン・マントイフェル将軍は第28旅団もこの際、ノワスヴィル攻撃に加えようと考えましたが、既述通り南部に潜む脅威に対抗するためそのまま留め置くよう心を変えたのでした。


挿絵(By みてみん)

 ベントハイム


 午前10時30分、フォン・ゼンデン少将が直率する後備第6旅団はヴァリエール渓谷両岸で行動を起こし、その右翼(北)渓谷北斜面には旅団の側面援護としてポーゼン後備歩兵第2連隊のノイトミハイル大隊が進み、残り3個大隊は谷底と南側斜面を西へ進みました。しかしゼンデン将軍の部隊はノワスヴィルに面する高地縁を登る際、ヌイイ北東に広がるブドウ園から猛射撃を浴び、この高地線から先への前進が阻止されてしまいました。後備第6旅団長男爵カール・リューイン・レオポルト・フォン・ウント・ツー・ギザ大佐は、ノイトミハイル大隊への増援として渓谷北側斜面に同じ連隊所属のコステン大隊を送り、北西側の仏軍と対決させました。増援を得て援護射撃を得られたノイトミハイル大隊長ラインハルト・フリードリヒ・フォン・バッチコ大尉は、仏軍が銃撃拠点としたブドウ園へ大隊を突撃させ、その石壁で囲われた一角を奪取することに成功しました。散兵線の一部が破られたことを知ったブドウ園の仏軍は、大事に至る前にヌイイへ後退します。ポーゼン後備歩兵第2連隊所属の両大隊はこれを追ってヌイイに迫ったのでした。


 旅団残りのポーゼン後備歩兵第1連隊2個大隊は、ヌイイ方面からの銃撃が弱まると攻撃を再開し、この左翼(南東)側には擲弾兵第1連隊第1大隊が並進しました。更にその左に、軍団砲兵の護衛となっていた擲弾兵第3連隊第1大隊(第2中隊欠)が続きます。これら攻撃第一線は最前線に進んだ最上級士官、フォン・ゼンデン将軍が統括指揮を執りました。

 攻撃隊の最後方には第43連隊が予備として続行しましたが、この内第1大隊は行軍を離れてザールルイ街道方向(南)へ迂回し、ノワスヴィルには南東方向から接近することとなります。

 一方「ゼンデン支隊」の左翼(南)では、フォン・メメルティ将軍の第3旅団諸隊が「憎き」ビール工場に迫っていました。

 この攻撃隊はフランヴィル西方での展開のまま、右翼から中央に掛けては擲弾兵第4連隊の7個中隊が、左翼側は第44連隊の3個中隊がそれぞれ縦列横隊で前進しました。



挿絵(By みてみん)

 普軍後備兵の突撃


 ところが、再び壮絶な攻防が始まると思われたノワスヴィルとビール工場では……。


 ルブーフ大将は午前9時45分、バゼーヌ将軍に宛て伝令を送り、それに因れば、「ファヴァー=バストゥル師団は本官の命令に反して1時間前に退却し、このため第3軍団の右翼(南)側が敵に晒されてしまった。敵は正面及び側面から銃撃を行い、攻撃隊を繰り出して我が軍団を包囲しようとしている。本官は全力を尽くしてこの敵を退け陣地を固守したが、今や退却せざるを得なくなっている」とのことだったのです。


 実際(独側の記録において)は、ファヴァー=バストゥル師団は午前9時にフランヴィルとコワンシー(こちらは本来ラパセ旅団の守備)から駆逐されましたが、前述通り反撃に転じ、猛烈な銃砲撃で食い止められたことでルブーフ将軍が「退却命令」を発し、普軍の追撃を受ける前に再度撤退した、とされます。しかもこの時、ノワスヴィル同様その南側のモントワ部落もモントードン師団が死守しており、その西と南側にはバージ、カスタニーの両師団がしっかり本陣地に就いたため、別段軍団の側面が「敵に晒されて」いた訳ではありません。これが事実とすればルブーフ大将は、「前線撤退の責任を不運なファヴァー=バストゥル准将に全て被せようとしている」ように見えます。

 いずれにしてもルブーフ将軍はこの報告をバゼーヌ将軍に宛てて送った後、ノワスヴィルとビール工場から部下を一斉に後退させたのでした。


 銃撃が途絶え、仏軍が明らかに散兵線から消えたことを悟った普軍攻撃諸隊は午前10時30分前後にノワスヴィルとビール工場へ突進し、午前11時、ほとんど抵抗もなく部落と工場は普軍の手に落ちました。歩兵の後方には砲兵が密接して前進し、これら砲兵諸中隊は臨機に砲列を敷くと退却するルブーフ将軍麾下部隊を砲撃しました。

 ノワスヴィルの再占領を知ったマントイフェル将軍は「今度こそノワスヴィルは奪還されぬよう防備を固めなくてはならない」と決意して、フォン・ゼンデン少将をこの地における司令官に任命し防衛準備に取り掛からせたのでした。


 正しく包囲突破の機会が失われて行くのを目の当たりにして焦ったバゼーヌ将軍は、サン=ジュリアン周辺で待機する集成騎兵集団と近衛軍団を使って、セルヴィニーを抜きサント=バルブに至る最後の突破戦闘を仕掛けようと準備を始めました。

 しかし、第2と第3軍団が明らかな後退運動を始めてしまったため、その北側で攻撃機動を行う余裕など消し飛んでしまいます。


 動揺は仏軍左翼(北)にも広がります。

 仏第4軍団はポワックスとセルヴィニーに対面して普軍からの猛銃砲火に耐えながらひたすら仏軍右翼の前進を待ちましたが、忍耐も虚しくバゼーヌ将軍からの総退却命令が届き、ラドミロー将軍は麾下部隊を一斉にサン=ジュリアン分派堡塁に向けて後退させるのです。

 これに続き仏第6軍団もシユの東西に延びる散兵線からグリモンまで退却するよう命令されました。


 正午に至ると仏全軍がメッス本要塞の要塞砲庇護下まで退却すべく後退しており、これを見たマントイフェル将軍も「無闇に追って要塞重砲の射程圏に入ってしまい無駄な損害を受けるのは愚の骨頂」として歩兵の追撃を中止させ、ただ砲兵の遠距離砲撃のみを仏軍退却行軍列に対し行ったのでした。このため、「総崩れ」となった割に仏軍の後退はメッス要塞重砲の援護射撃の下、冷静に実行されました。敵である独軍の公式戦史でも「その退却は秩序が保たれ整然と行われた」と記録されています。

 カール王子は正午頃、戦闘が次第に収まって行くのを自らも確認しますが、未だ10万余りの仏軍がモーゼル東岸へ集中している状況に変わりはない、として麾下部隊の全てに対し「油断せず現在位置を防衛せよ」と命じ、万が一再び仏軍が突破を謀る場合に備えるよう本営幕僚に命じました。

 王子は、サント=バルブの高原に第10軍団が進み出たことで「マントイフェル将軍には十分な戦力が備わった」としますが、その左翼(南)には戦力が少なく、仏軍がこちらに矛先を向けた場合に対処することが先決と考えます。

 午後1時、攻囲軍本営は今後の各軍団の配置について次の軍命令を発します。


「第7軍団は本日中に参戦することを想定してメッス東方メルシー=ル=オーまで前進せよ。第8軍団は3個旅団により従来の第7軍団の陣地を守備し、1個旅団をジュシー~シャテル(=サン=ジェルマン)間に展開せよ。第8軍団の従来陣地(シャテル~ソルニー)は第3軍団の第6師団がこれに代わって守備せよ。万一の場合に備え、第2軍団はその1個師団をアマンヴィエ付近まで前進させて待機せよ」


 しかし、相手となる仏軍は既に戦意を喪失しつつありました。

 バゼーヌ大将は1日午後となると、自身が描いていたライン軍の包囲網突破が完全に失敗したことを悟ります。これにより将軍は全部隊に対し元の駐屯位置まで引き返すよう命じるのでした。

 この命令で、仏第2、第3軍団以外の諸部隊は全てモーゼル西岸へ帰ることとなりますが、既に正午過ぎにはシャンビエール島の軍舟橋を渡る部隊もあり、諸部隊は整然と渡河を続けて日没までには昨日の駐屯陣地まで帰還したのでした。


 状況がこのように「元へ戻った」ため、独攻囲軍側も先の命令を取り消し、元の部署へ帰るよう命令が変更されました。ただ、第7軍団はそのままモーゼル東岸のメッス南部に残留することとされ、サント=バルブの東方には第13軍団も到着し始めたため、モーゼル東岸の部隊は従前より強力(第1、第7、第13の諸軍団、予備第3、騎兵第3の両師団)になるのです。

 フォン・マントイフェル将軍は戦闘が完全に終了した午後2時過ぎ、フォン・メメルティ将軍の第3旅団をクールセル=シュル=ニエの第2師団本陣地へ帰還させ、同旅団が進んでいたノワスヴィルの南部には一時、H師団の第49旅団を代わりに配置しました。この旅団を含めた第9軍団がモーゼル西岸へ帰還する期日はカール王子により翌2日とされます。

 また、第10軍団は午後に入ると移動を開始し、日没までに元の陣地線へ復帰しました。

 カール王子が一時直轄とした第5師団もメジエールを発し、サン=プリヴァまで帰って行きました。同じくアマンヴィエに進んでいた第2軍団の1個師団もオブエ近郊まで戻るよう命令されるのでした。


 この日(1日)、ザールルイ街道とザールブリュッケン街道とに分かれて西進して来た新参の北独第13軍団は、後備第2師団がフランシス=ニエ川河畔のポンティニー(サント=バルブの東8.5キロ)へ、第17師団がクールセル=ショシー(サント=バルブの南東9.3キロ)付近に、それぞれ集合しました。

 戦闘に間に合うよう先行していた各師団の前衛支隊(後備師団から歩兵5個大隊と騎兵1個中隊、第17師団から歩兵1個連隊と騎兵1個連隊)は本隊の遥か先に進んで、午後1時30分に後備師団前衛はプティ・マレへ、第17師団前衛はメゾン・イソレへそれぞれ到着しました。フランヴィル付近にいたW・ヴォイナ将軍の第28旅団もこれでお役御免となり、マントイフェル将軍の許可を受けて夕刻、親部隊第7軍団の待つプイイに向けて帰還の途についたのです。


 第一軍司令官フォン・シュタインメッツ歩兵大将は同日早朝、戦闘が再開されると同時に幕僚を引き連れ、ジュイ=オー=アルシュ(アル=シュル=モセルの南1.9キロ)の本営を発してクールセル=シュル=ニエへやって来ました。ここでフォン・プリッツェルヴィッツ第2師団長から戦況報告を受け、この地で戦闘経過を見続けました。

 仏軍がメッス要塞庇護下へ撤退し始めた正午頃、シュタインメッツ将軍はカール王子の命令でモーゼルを渡河して来たフォン・ツァストロウ将軍の第7軍団本隊を「これ以上東進する必要はなくなった」としてセイユ河畔で停止させ、プイイの周辺に宿営地を設けさせました。

 シュタインメッツ将軍はこの夜メッス南面の状況を掌握し易くするため、本営をジュイ=オー=アルシュからクールセル=シュル=ニエへ移動させるのです。


挿絵(By みてみん)

普後備歩兵第6旅団のノワスヴィル攻撃


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