表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ストラスブールとメッスの包囲、沿岸防衛
319/534

ノワスヴィルの戦い/31日の夜間戦闘

 8月31日の戦闘は午後8時過ぎ、殆どの前線上で停止しますが、この日の戦闘はこれで終了とはなりませんでした。


 セルヴィニーの激闘を制した普第1師団諸中隊は、午後9時少し前に北方ファイイ方面より響き渡った仏軍の号音ラッパで「ファイイの戦闘も終了した」と一安心しました。

 ところがこの頃、部落西側から「黒衣の集団」が漆黒の闇の中をセルヴィニーに向け密かに接近して来たのです。

 これは仏第3軍団長のルブーフ大将が命じた「静粛突撃隊」で、第4軍団のシッセ師団と第3軍団のメトマン師団の野営中間地点を抜け、最前線を越えて来た第3軍団エマール師団の前衛たちでした。その背後からは師団本隊が着剣したシャスポー銃を握りしめ、全員静粛厳守でサント=バルブ高地西麓を登って来たのでした。


挿絵(By みてみん)

 エマール


 エマール師団前衛は部落西に突出した墓地周辺を警戒していた普第41連隊第11中隊の不意を突き、中隊は抵抗を試みたものの短時間で撃破されポワックス方向へ退却してしまいました。

 直後にセルヴィニー部落は西側から無言で押し寄せるエマール師団兵に襲撃されます。深い夜陰の中、同士討ちを避けるためにも敵味方共に発砲は出来ず、部落内では銃剣と徒手格闘のみで壮絶な白兵戦が繰り広げられたのでした。

 普軍側は数倍の敵に対し防戦一方となり、こちらも短時間で部落外へ脱出する者が続出しました。僅か十数分でセルヴィニーは仏軍に席巻され、普軍守備隊は命辛々部落から脱出するしかありませんでした。

 この時、ラウターバッハ中尉が指揮する普第41連隊の第10中隊は、部落南側に広がるブドウ園内の隔壁に防御工事を施した後に休息を取っていましたが、仏軍はブドウ園まで踏み込まなかったためにこの中隊を発見せず、異変に気付いたラウターバッハ中隊長は、機転を利かせて部下に静粛を命じ、兵士たちはブドウ園の深い闇に引き籠もり潜んだのでした。


 闇の中、無音で行われたセルヴィニーの奪取は、奇跡的に一発の銃声も発生せず、近郊で戦いの疲れを癒していた普軍諸隊では数十分間に渡りこの「事件」に気付く者はいなかったのです。

 しかし午後9時30分を回ると、セルヴィニーから脱出した将兵が部落周辺の普軍野営に助けを求め始め、ようやく普軍上層部も異変に気付くのでした。


 短時間で重要拠点を失った事を知った普第1旅団長、男爵ヴィルヘルム・カール・フリードリヒ・フォン・ガイル少将は怒り心頭となり、麾下諸隊に対して「直ちにセルヴィニーを奪還せよ」と厳命しました。これに真っ先に応じたのは軍団砲列の護衛に就いていた第41連隊F大隊長のグスタフ・ハインリッヒ・ルートヴィヒ・フォン・オルスツェウスキー少佐で、手近にいた同連隊第9中隊を直率するとセルヴィニーの東側入り口から部落へ突入、更にセルヴィニー教会まで突進し仏軍と衝突しました。


挿絵(By みてみん)

 ガイル


 セルヴィニー守備に責任のあった擲弾兵第1連隊第2大隊長フォン・エルポンス少佐も、部落から撤退した部下を急ぎ集合させると逆襲に転じます。このうち第5中隊は部落中央を貫く通りを進み、第7,8中隊は南へ回り込むと第41連隊兵に続いて部落内へ突進しました。

 普第2旅団長、男爵ルドルフ・ゴットフェルト・ヴィルヘルム・ルイス・カール・エルンスト・フォン・ファルケンシュタイン少将も異変に気付くと、セルヴィニー北東郊外で野営中の擲弾兵第3連隊第2大隊を部落へ急行させます。この大隊からは第6,8中隊が先行し部落北方から突撃を敢行しました。

 第41連隊長の男爵グスタフ・アドルフ・オスカー・ヴィルヘルム・フォン・メアーシャイト=ヒュレッセム中佐は、墓地周辺から後退していた麾下の第11中隊を擲弾兵第3連隊兵に続いて部落へ送り込み、同連隊の第6中隊は予備として部落北部に張り付きます。


挿絵(By みてみん)

ルドルフ・フォン・ファルケンシュタイン


 これら普軍逆襲部隊はほぼ同時に鬨声をあげて西を除く三方から部落へ突撃し、これと呼応して南部ブドウ園に潜んでいた第41連隊第10中隊も部落に侵入、仏軍を驚かせたのでした。


 結果、仏エマール師団は混乱に陥って損害を被り、部落を捨てて西側高地斜面へ退却するのです。それまで仏軍が確保していた西郊外の墓地からも仏兵が消え、早速普第41連隊第11中隊が再占領するのでした。

 普軍諸中隊は仏軍を排除した後、そのまま朝まで守備隊として部落内に留まり、この「混成守備隊」は現場で最先任士官となったフォン・オルスツェウスキー少佐が率いることとなりました。時計の針は午後10時を過ぎようとしていました。


 普軍の迅速な対応でセルヴィニーの奪取に失敗したエマール将軍はこの後、師団をサント=バルブ高原西縁に留めてセルヴィニーの普軍と対峙し、夜間に小部隊を派遣してセルヴィニーを「眠らせない」ようにしますが、朝まではそれ以上戦闘らしい戦闘は起こりませんでした。


 普第3旅団長のアルベルト・アレクサンドル・ギデオン・ヘルムート・フォン・メメルティ少将は、麾下がモントワ(=フランヴィル)で敗退した後、ルトンフェ近郊で待機していましたが、北部ファイイ方面で戦闘が継続していることを知ると「ノワスヴィルを攻撃し普第1師団を間接援助しよう」と決心するのでした。


 将軍は急ぎ動かせる部下を二線に集合させ、その第一線は擲弾兵第4連隊の7個(第1,3~8)中隊、第二線は第44連隊の2個(第1,2)中隊とモントワ攻撃で損耗した同連隊第5中隊にF大隊の集積中隊(同連隊第9,11,12中隊の残兵)一部でした。

 普第3旅団のノワスヴィル攻撃隊は、再び左翼(南)側の安全を普竜騎兵第1連隊に託すと、第2師団砲兵2個中隊を先に送り出し西へ進みます。この砲兵行軍列にはサント=バルブに到着したばかりの第11軍団予備砲兵・軽砲第2中隊が参加しますが、結局砲兵たちは漆黒の闇夜のため目標を確認することが出来ず、同士討ちを避けるためにもノワスヴィル砲撃を諦めたのでした。


 午後8時15分、普第3旅団の攻撃隊は太鼓の連打に勇気付けられノワスヴィルへ向かいますが、敵の位置はただシャスポーの輝く発砲炎でのみ確認されるだけで、仏軍の陣容は確認出来ませんでした。この漆黒の闇の中、擲弾兵第4連隊の右翼端となっていた第3,4中隊は、ビール工場に接近して一気に奪取しようと急進しますが、これに勘付いた仏軍から猛銃撃を浴びてしまい、損害が出たために攻撃は頓挫してしまいます。

 連隊の残りはザールルイ街道(現国道D954号線)を越えてノワスヴィルに向かい、第2大隊は暗闇に沈む部落へ突撃を敢行すると、部落の仏軍守備隊は思いの外少なかったため、たちまち圧倒した普軍大隊は僅かの時間で仏軍を部落から駆逐することに成功するのでした。


 旅団クラスの仏軍がいたはずの部落はこの時、セルヴィニーで突発した攻防戦を援助するため大部分が北進しており、そのために抵抗が少なかったものと思われます。しかし部落の北部に広がっていたブドウ園を確保しようとしていた擲弾兵第4連隊の第1中隊は、未だ強力な仏軍が居残っていたために激しい銃撃を浴び、攻撃を諦めた中隊はザールルイ街道方向へと退却、ビール工場攻撃に失敗した第1大隊の2個中隊も街道沿いに進んで第1中隊と合流しました。


 同連隊の第2大隊がノワスヴィル部落を占領すると、第二線となっていた第44連隊の諸隊はザールルイ街道の南側で予備として待機を始めます。ところが一息吐く暇もなくメメルティ将軍の下にモントワと対峙するフランヴィルの守備隊から伝令が到着し、それによれば「フランヴィル部落は確保されているものの、その南部に仏軍が進出してサン=タニャン(フランヴィルの南南東1キロ)まで達している」との事だったのです。


 メメルティ将軍はこの報告に動揺しました。フランヴィルの南側には第2師団で同僚の第4旅団が展開していたはずでしたが、敵がサン=タニャンに進出しているとすれば、第4旅団はその南か東へ駆逐されてしまったのかも知れないのです。これは独軍戦線に大きな穴が開いた証拠なのかも知れません。メメルティ将軍は直ちに「この穴を抜けた仏軍がザールルイ街道に進出するのを防ぐ」ことが最善と考え、「グラの小部落(サント=バルブの南1キロ)まで旅団を後退させる」ことに決したのでした。


挿絵(By みてみん)

メメルティ


 メメルティ将軍の「実質後退」命令は直ちに麾下第3旅団諸隊に伝えられます。これはせっかくノワスヴィルを奪還したばかりの擲弾兵第4連隊第2大隊にも伝達され、大隊は仏軍から妨害されることなく部落を撤収、グラを目指して行軍し始めました。

 ところがこの「後退」中、北方ファイイ~セルヴィニーに掛けての仏軍攻撃が終息し、攻撃していた仏軍各隊が「後退した」との報告がメメルティ将軍へ伝えられるのです。将軍は後退中の擲弾兵第2大隊に対し「直ぐにノワスヴィルへ戻って部落を確保せよ」と命じました。


 第2大隊長のフォン・コンリング少佐は闇の中、交錯しないよう大きく開いた間隔で行軍中だった各中隊に「回れ右」を命じ、再びノワスヴィルと「今度こそ奪取しよう」と決意したビール工場へ向かいます。

 しかし、部落は既にセルヴィニー攻撃の支援から戻ったクランシャン准将の仏旅団が再占領しており、ビール工場共々普軍の逆襲を予期して警戒中のところに普コンリング大隊が現れたため、仏兵たちは間髪入れず殆ど闇に沈んだ東側尾根に向け猛烈な銃撃を加えます。

 闇の中で状況が全く見えないコンリング少佐はノワスヴィル攻撃を諦めるしか有りませんでした。少佐は犠牲が出る前に部隊をまとめると、本隊と合流するためグラへ踵を返すのです。


 ビール工場の南東1.7キロのフランヴィルでは、普第44連隊の第4,10中隊がフォン・ルコヴィッツ大尉の指揮によりモントワから加えられる仏軍の攻撃を度々拒絶していました。しかし、ここにもメメルティ将軍の「後退」命令が届き、大尉は日付が変わろうかという深夜に2個中隊を率い、密かに部落を後にしてグラへ向かいました。

 この後間もなくフランヴィルには仏ファヴァー=バストゥル師団の前哨部隊が侵入し、部落は仏軍の手に落ちます。

 フランヴィルを徹した2個中隊は一時、部落の東郊外200m前後の場所で隊列を整えますが、ここで伝令が到着し、「第44連隊はクールセル=シュル=ニエ(この地点から真南へ6キロ)へ向かった」との情報を伝達するのです。この情報の出所は不明で、全くの誤報でしたがルコヴィッツ大尉はこれを信じ、午後11時30分頃、大尉の2個中隊は南東へ行軍を開始するのでした。

 この「ルコヴィッツ隊」の行軍中、闇の中から次々に味方が現れ、行軍列に加わります。彼らは同僚擲弾兵第4連隊の第2中隊にルコヴィッツ隊と同じ第44連隊の第5,9,11,12中隊残存兵の集団で、モントワの攻防からノワスヴィル奪還の際に位置を見失い、闇夜のため「迷子」となっていた兵士たちだったのです。


 この頃、メメルティ将軍の普第3旅団主力はザールルイ街道とサント=バルブ~コリニー(マルシリーの東2キロ)への縦街道(現国道D67号線)との交差点であるプティ・マレの小部落(最初の目標グラの南東1キロ付近)周辺に集合していました。

 午後11時には南南西1.2キロ付近のルトンフェを守っていた第44連隊の第2大隊も合流を命じられ、この内第1,2中隊はグラの南方ザールルイ街道を塞ぐ形で前哨となったのです。

 日付が変わった深夜半、第44連隊の第6,7中隊は密かにフランヴィルに接近し再占領を試みますが、既に仏軍がしっかり守っているのを発見すると両中隊は部落北東500m付近に散兵壕を掘り、敵を監視し始めました。


 独攻囲軍司令官・カール王子はフェーヴ近郊オリモン山で戦闘経過を観察し続け、仏軍が圧倒的優位な兵力でマントイフェル将軍の軍団と戦うのを注視して31日を過ごします。

 王子は仏軍がメッスの攻囲を破り、北又は北東へ突破を謀っていると信じますが、この31日午後4時に始まった本格戦闘は夜に入っても続いていたものの、一日では決着を見ず、翌朝に戦闘が再開されるだろうと予測しました。


 未だファイイ~セルヴィニーの戦線で戦闘が続く午後7時30分。カール王子は「マントイフェル将軍は増援を切望しており、増援をモーゼル東岸へ送り込むことは急務」として、北独第9軍団長フォン・マンシュタイン歩兵大将に宛てて書簡を認め、文中に不利なモーゼル東岸の戦況を記すと「ヘッセン大公国師団の指揮権を一旦マントイフェル将軍に渡し、ロンクールで待機する軍団の残りを直率して今夜中にマランジュ~オーコンクールを経てモーゼル東岸へ渡河しサント=バルブに至る」よう命令し、「明日黎明時にサント=バルブでフォン・マントイフェル将軍に会してその指揮下に入る」よう命じたのです。

 王子は同時にマントイフェル将軍宛に電信を発してこの処置を伝えた後、モーゼル東岸の戦闘が完全に静まる夜半に至ってマランクールの攻囲軍本営に帰還します。その途中、王子と幕僚たちはロンクールからモーゼル川の渡河橋頭堡へ向かう第9軍団の行軍とすれ違い、総司令官と知った将兵から歓声を浴びたのでした。


 モーゼル東岸では午後10時にフォン・マントイフェル将軍がサント=バルブの本営に帰着し、カール王子と「命令系統上の上官」に過ぎなくなっていたフォン・シュタインメッツ将軍に対して報告電文を送信しました。将軍もカール王子と同じく翌黎明時の攻撃再開を予測し、部下に対しては、「油断せぬよう仏軍と対峙し、翌黎明時には再び戦闘準備万端でいること」を訓令しました。


 8月31日夜半におけるフォン・マントイフェル将軍令下の諸団隊の位置は次の通りとなります。


 予備第3師団の正規部隊、「混成歩兵旅団」は朝より陣営を変えず、第19「ポーゼン第2」連隊がマルロワ付近、第81「ヘッセン=ナッサウ第1」連隊第1、F大隊がシャルリ付近の本陣地帯にあります。

 また、前哨として同連隊の第2大隊がルピニーにあり、仏第6軍団の前哨「パルチザン」諸中隊が潜むヴァニーやシユの部落を注視していました。

 この正規兵部隊の後方では、予備師団砲兵の5個中隊が夜間に入ったため前線から後退して野営しています。

 更にアンティリーの南方には、北独第25「H」師団が前進して展開し、第49「H第1」旅団はアンティリー南西方の高地際で野営し、第50「H第2」旅団はシャルリ東方ファイイの森西端に、その前哨となるH第3連隊はシャルリの南方ファイイの森南西端で警戒任務に就くと、その両翼で普軍との連絡(右翼は混成歩兵旅団、左翼はファイイ付近の後備部隊)を維持しました。


 普第1師団はノワスヴィルを奪われた他は朝からの陣営をほぼ保ち、第1旅団は第一線、第2旅団は第二線という布陣もほぼ一緒で、ここに「予備」第3師団より「後備」第3師団が前進して戦線に加わっています。


 擲弾兵第1「オストプロイセン第1」連隊のF大隊、ヴェストプロイセン後備歩兵連隊2個大隊、ニーダーシュレジェン後備歩兵連隊からの半個大隊はファイイ部落とその周辺に、第41「オストプロイセン第5」連隊第1、2大隊主力はポワックス部落に、擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊のF大隊、ニーダーシュレジェン後備歩兵連隊からの半個大隊、竜騎兵第1「リッタウエン」連隊の第2中隊はポワックスの東郊外で、それぞれ野営しました。

 またセルヴィニー部落内と隣接する散兵壕には擲弾兵第1連隊の第2大隊、第41連隊の第9,12中隊、擲弾兵第3連隊の第6,8中隊が配置に就き、第41連隊の第10中隊は部落南郊外のブドウ園に、同連隊第11中隊は部落の北西墓地で、それぞれ前哨となりました。擲弾兵第3連隊の第5,7中隊とニーダーシュレジェン後備歩兵連隊の1個大隊は部落東郊外で野営し待機します。同じく擲弾兵第1連隊の第1大隊はノワスヴィルの仏軍と対峙するため、カラント渓谷の南縁でノワスヴィルの北東側に展開しています。


挿絵(By みてみん)

 普第41連隊


 第1師団の残部主力となる擲弾兵第3連隊の第1,2,4中隊、第43「オストプロイセン第6」連隊の全て、猟兵第1「オストプロイセン」大隊の第3,4中隊、第1軍団野戦工兵第2,3中隊と師団砲兵隊(重砲第1,2、軽砲第1,2中隊)はサント=バルブ部落とその周辺で、第1軍団砲兵隊(重砲第5,6、軽砲第5,6、騎砲兵第2,3中隊)と後備歩兵第6旅団(ポーゼン後備歩兵第1、第2連隊)、予備竜騎兵第1、予備重騎兵第2の騎兵2個連隊はサント=バルブとヴレミの間で、それぞれ野営・待機となりました。ヴレミ部落は猟兵第1大隊の第1,2中隊が、輜重や兵站物資が集積されていたグラテニーには擲弾兵第3連隊の第3中隊が、それぞれ警備任務に就いています。


 この普第1師団の本隊左翼(南)には普第2師団から増援にやって来た普第3旅団がいました。

 この旅団には第2師団や予備師団の砲兵3個中隊と、普竜騎兵第1連隊の3個(第1,3,4)中隊が付され、行動を共にしています。

 この旅団本隊から離れていたのは、約2個大隊半の兵力で、擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊のF大隊は当初から前進せずに戦場の遙か南のフロンティニーへ残留し、クールセル=シュル=ニエに向かって「間違えて」行軍中だったのは前述「ルコヴィッツ隊」の約4個中隊、更に第44「オストプロイセン第7」連隊の第6,7中隊は仏軍が奪還したフランヴィルに接して監視中でした。つまりはメメルティ旅団長がこの夜プティ・マレ周辺で掌握していた歩兵はほぼ半減の3個大隊半となります。

 歩兵の第3旅団左翼、ルトンフェ~グラテニー間には普騎兵第3師団が集合し野営していました。


挿絵(By みてみん)

プリッツェルヴィッツ普第2師団長


 この戦場からかなり離れた位置に普第2師団の第4旅団がいました。旅団の前哨線はマルシリーを右翼端として南西側に延び、アル=ラクネイーを経てメルシー=ル=オーが左翼端となります。

 前哨線には第45「オストプロイセン第8」連隊が展開し、擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊は師団砲兵2個中隊と共にラクネイー付近で野営、その南方クールセル=シュル=ニエには第7軍団からの「助人」W・ヴォイナ将軍の第28旅団本隊がいて、驃騎兵1個中隊と砲兵1個中隊と共に戦闘待機に入っていました。

 W・ヴォイナ将軍はこの夕べ、フォン・シュタインメッツ第一軍司令官より「そのまま現位置に留まり、第2師団長の隷下として活動せよ」との訓令を受けています。そしてここには例の「間違えた」方向に行軍中の第3旅団諸隊が夜半過ぎに到着するのでした。


 この第4旅団右翼外となるピュシュの北東、メゾン・イソレの一軒家(現国道D603とD67号線交差点南西角にあった農家。現存しません)付近には普竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊が展開し、ザールブリュッケン街道(現国道D603号線)を監視中で、左翼側のフロンティニーには前述の擲弾兵第4連隊F大隊に第7軍団の砲兵1個中隊と第77「ハノーファー第2」連隊の歩兵1個中隊が配備され、第2師団戦区の左翼(西)側を見張っていました。

 この地域より西側は普仏共に兵力が薄く展開する地域となり、第28旅団の前哨部隊に普騎兵第3師団から残置された2個中隊が、第7軍団に属しモーゼル東岸に展開する第14師団本隊の陣地帯までの広い地域を監視しています。


 フォン・シュタインメッツ将軍の第一軍本営には31日の午前中、麾下となったばかりの北独第13軍団を率いるメクレンブルク=シュヴェリーン大公から電信が届き、これは「軍団前衛は明9月1日、ニエ川の線に到着する」との報告でした。シュタインメッツ将軍はカール王子とマントイフェル将軍に宛て直ちに転送し、シュタインメッツ将軍はメッス東の戦況を憂い、「大公の軍団は可能な限り早期に戦場へ到達することを希望する」と返信したのでした。


  8月31日夜半におけるアシル・バゼーヌ将軍令下の仏「ライン軍」諸団隊の位置は次の通りとなります。


 第3軍団の第2師団(アルマンド・アレクサンドル・ドゥ・カスタニー少将)はクール分派堡塁の東側に展開し、軍の最右翼(南端)となりました。

 この師団の前哨はラ=グランジュ=オー=ボワ付近にあり、その左翼(北東)側で第2軍団に隷属していたラパセ准将旅団と連絡を保ちます。

 この旅団はコロンベイ、オービニー城館、コワンシーの三拠点を確保して普第4旅団前衛(第45連隊)と対峙していました。

 ラパセ旅団の後方、コロンベイとボルニー間にはドゥ・ヴァラブレーグ少将率いる第2軍団の騎兵師団が野営し、旅団の左翼側でザールブリュッケン街道の両脇には第2軍団の第3師団(ジャック・アレクサンドル・ジュール・ファヴァー=バストゥル准将)が展開して、右翼前哨はサン=タニャン、同じく左翼がフランヴィルまで進み、仏軍部隊で最も東側に進んでいました。

 第2軍団の第1師団(シャルル・ニコラ・バージ少将)は予備としてベルクロア交差点付近に待機しますが、夜になると第3軍団第1師団(ジャン・バプティスト・アレクサンドル・モントードン少将)の第2旅団(クランシャン准将)が死守するノワスヴィル部落へ戦列歩兵第32連隊を増援として送り出しました。


挿絵(By みてみん)

モントードン


 モントードン師団の第1旅団はモントワ部落に入り、第3軍団第3師団(ジャン・ルイ・メトマン少将)と第4師団(エドゥアール・エマール少将)はセルヴィニーの南西~西郊外でオルスツェウスキー少佐率いる普軍守備隊と対峙します。

 エマール師団の左翼(北)には第4軍団第1師団(エルネスト・ルイ・オクターヴ・クルト・ドゥ・シッセ少将)が連絡を保ち、ヌイイ東郊外でセルヴィニーの北西側に展開しました。

 同軍団の第2師団(フランソア・グルニエ少将)はその北、ポワックスから街道を挟んでファイイの南西郊外に位置し、同第3師団(シャルル・フェルディナン・ラトリル『ロロンセ伯爵』少将)はシッセ、グルニエ両師団に接した後(西)方、ヌイイ付近に予備として待機しました。


 カンロベル大将率いる第6軍団第1師団(ベニニュ・プロスパー・ミシェル・ティクシエ少将)はグルニエ師団右翼と連絡してファイイの西~北西方でシュラー・フォン・ゼンデン将軍の普軍守備隊と対峙し、その後方では同軍団第3(ラ・フォン・ドゥ・ヴィリエ少将)、第4(マリエ・オーギュスト・ロラン・ル=ヴァッソール・ソルヴァル少将)両師団がヴィレ・ロルム周辺に主力を待機させ、ヴァニー、シユを経てマルロワの南でモーゼル河畔に至るまでに前哨を展開しています。

 仏近衛軍団は夜間、カンロベル軍団が東方ファイイ方面へ動いたため、それまで野営待機していたサン=ジュリアン分派堡塁周辺からブゾンヴィル街道(現国道D3号線)の両側へ進みます。近衛第1師団(エデュアルド・ジャン・エティエンヌ・デリュー少将)はメ部落北東のロロンセ師団後方、近衛第2師団(ジョセフ・アレクサンドル・ピカール少将)はグリモン館の東(グリモンの森南側)で待機に入りました。

 近衛第2師団右翼(南)後方には集成騎兵集団と軍の予備砲兵隊が渡河を終えた後に野営しています。


 8月31日の深夜。仏バゼーヌ軍の前哨線はシユ~ヴィレ・ロルム~ファイイ西~セルヴィニー西~ノワスヴィル~ビール工場~モントワ~フランヴィル~サン=タニャン~コアンシー~オービニー~ラ=グランジュ=オー=ボワにあり、この線は31日早朝の普軍前哨線と比して戦線中央のみ後退しただけとなり、バゼーヌ将軍の意図する「北進包囲網突破」とは違う形となりました。バゼーヌ将軍にとって結局この日は普軍の防衛線を脅かしただけとなり、本格的突破戦闘は翌1日(奇しくもセダン会戦と同時進行)に行われることとなるのです。


挿絵(By みてみん)

仏軍戦列歩兵の伍長(Caporal)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ