ノワスヴィルの戦い/セルヴィニーとファイイの攻防
「モントワ争奪戦」が行われた夕刻。普第2師団の戦区で朝から昼まで交わされていた仏第2軍団の戦闘も再開されます。
普第4旅団に属し、この日(8月31日)午前中に配下の第1大隊が第2師団戦区の前哨線で戦った第45「オストプロイセン第8」連隊長、アルトゥール・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ミュッチェファル大佐は午後4時過ぎ、仏軍がモントワに向けて攻撃前進を開始し、更に自軍前面に展開する敵の一部がモントワに向けて前進し始めたことを知り、「再びコロンベイを占領しモントワへ前進中の敵を右翼(南)側から攻撃する」ことに決します。
大佐は第6と第10中隊を第一線に、第1と第11中隊を第二線としてコロンベイの領主館とその付属家屋を攻撃させましたが、この周辺を攻撃し奪取していたフェルディナン・オーギュスト・ラパセ准将は当時より優将と称えられていただけあって、その防備は短時間で巧妙かつ重厚に施してあり、しかも攻撃する普軍(約1個大隊)より強大な兵力(2個大隊前後)を展開していたため、普軍の攻撃はたちまち停滞し頓挫してしまうのです。
それどころか、ラパセ准将は自身の旅団歩兵の一部と、応援に駆け付けていたクレランボー少将の第3軍団騎兵師団から竜騎兵2個中隊を借り受け、騎兵を下馬させ歩兵として隊列を組ませるやコワンシー(コロンベイの東1.7キロ)を狙って東進させるのでした。
准将はこれだけでなく、普軍の目立つ拠点となっていたオービニー城館(コロンベイの南東1キロ)に対し砲撃を要請するのです。砲撃は直ちに実行に移され、城館の普軍が身を守るのに必死となったことを確認すると、准将は旅団の残り全力を率いオービニーを襲うのでした。
ラパセ准将
仏軍の東進を予測していたミュッチェファル大佐は、午後に入って間もなく右翼側(北)の散兵線をコワンシー郊外まで延伸していましたが、連隊は長い前線に薄く展開しており、コワンシーが危険となったためこの右翼側から片面包囲を受ける可能性が増してしまいます。大佐は全部隊に後退を命じ、普第45連隊はマルシリー(コロンベイの東南東2.9キロ)まで一気に後退します。これにより重要拠点であったオービニー城館はラパセ准将が楽々と占領し、直ちに強固な防御工事が成されたのでした。
ラパセ准将旅団はコロンベイとオービニーを後背拠点に、主力をコワンシーからモントワ間へ進めました。しかし、マルシリーに対する攻撃は必死で防戦する普第45連隊主力によって撃退されたのです。
午後7時頃となって戦場が夕闇に沈み始めると、このコワンシー~マルシリー方面の戦いも終息を迎えます。
師団の片割れ(普第3旅団)が北部で苦戦中の普第4旅団はこの夕べ、マルシリー~アル=ラクネイー~メルシー=ル=オーの前線を確保して、その後方ラクネイーとヴィレ=ラクネイー(ラクネイーの東1キロ)間には、W・ヴォイナ少将の第28旅団主力が戦闘態勢で控えるのでした。因みにW・ヴォイナ将軍は普第2師団長、グスタフ・カール・ルートヴィヒ・レオポルト・フォン・プリッツェルヴィッツ少将から要請され、麾下の軽砲第2中隊を擲弾兵第4連隊F大隊が守備するフロンティニーへ送り出しています。
ノワスヴィル部落は午後6時過ぎ、仏第3軍団のクランシャン准将旅団が完全に占領し、普第1軍団砲兵の猛砲撃により1時間以上に渡って動きを封じられていた仏第4軍団も、普軍砲兵が後退したことによりポワックス~セルヴィニーの普第1旅団陣地帯への攻撃前進を再開することが可能となりました。
ルイ・ルネ・ポール・ドゥ・ラドミロー中将率いる仏第4軍団は、左翼(南東側)にフランソア・グルニエ少将率いる軍団第2師団、右翼(北西側)にエルネスト・ルイ・オクターヴ・クルト・ドゥ・シッセ少将率いる軍団第1師団、第二線としてシャルル・フェルディナン・ラトリル『ロロンセ伯爵』少将率いる軍団第3師団が続行しました。
ヌイイから先行してカラント渓谷の遮蔽を頼り、ノワスヴィルの北郊外まで至った仏第3軍団のジャン・ルイ・メトマン少将(軍団第3)師団は、セルヴィニーの陣地帯を南から攻めることとなります。
これら仏軍第一線3個師団の強力な散兵群は普第1軍団の砲列に接近して猛銃撃を浴びせました。仏軍に至近より攻撃された普軍砲兵の内、前方展開していた普第1師団砲兵の4個中隊は襲い来る仏軍に対し榴散弾を発射してその足を止めますが、猛烈な銃撃を浴び続けるので損害も増え、仏軍が榴散弾で足止めされた隙に友軍歩兵の散兵線後方まで辛うじて退却するのでした。
残りの軍団砲兵6個中隊は冷静に対処して砲撃を続けていましたが、次第に両翼からの銃撃が激しくなり、夕闇も迫ったために午後7時、普第1軍団砲兵部長のベルクマン将軍は総退却を命じ、諸砲兵中隊は各々歩兵の本陣地後方まで後退すると急ぎ再展開するのでした。
普野戦砲兵第1連隊の展開(午後7時)
普軍砲兵が後退したことによる砲撃の一時中断は、仏軍によるセルヴィニー攻撃の機会を生みます。
攻撃は部落南部へ向かっていたメトマン師団の第1旅団(ドゥ・ポチエ准将指揮)が口火を切り、東を除く三方からほぼ一斉に始まりました。
普軍砲兵線の左翼(南)援護部隊だった第41「オストプロイセン第5」連隊第9,12中隊は、セルヴィニー南部のカラント渓谷北斜面にいましたが倍する敵に襲撃されて敗退し、部落南部に陣を構えていた擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊の第6,8中隊に合流しました。この直後、普第1旅団長フォン・ガイル将軍はこの第6,8中隊に対し逆襲を命じ、両中隊は攻め上がって来る仏軍に対し猛烈な逆襲白兵戦を仕掛け、これを谷の線まで後退させましたが、ポチエ准将も負けじと予備を投入して再度前進、不利となった普軍2個中隊はちょうど部落を抜けて後退中の普軍砲兵列に合流し部落の南東まで引き上げるのでした。
この普軍砲列左翼援護として、ノワスヴィルの攻防戦最中、普第2旅団の本陣地から前進していた第43「オストプロイセン第6」連隊の半個大隊(第2,3中隊)も、砲兵と共にセルヴィニー南東部へ下がっています。また、部落の南側、カラント渓谷の北縁では、第43連隊の第1,4中隊がヴィルヘルム・フォン・ケーバー大尉の指揮により強力な散兵線を維持していました。
こうしてセルヴィニー南部には普軍歩兵の1個大隊半が鹿砦や散兵壕に頼って集合し、迫り来る仏軍を必死で防ぎました。このため仏メトマン師団は南部から部落に取り付くことが出来ず、南側の谷の線で一時停滞するのでした。
このメトマン師団の攻撃に続き、セルヴィニー西部には仏第4軍団シッセ師団の第1旅団(旅団長だったフィリップ・ブライエ准将は8月16日、マルス=ラ=トゥールの北部で戦死しています。以降指揮官不詳)が攻撃を開始し、突撃に次ぐ突撃によって部落北西郊外の墓地を奪取しました。この時、旅団配下の猟兵第20大隊は既に所々で火災が始まったセルヴィニー部落の外縁に取り付くことに成功し、幾度も部落内への侵入を図りました。しかしセルヴィニー防衛の主力、パウル・ハンス・アントン・ヨセフ・レオポルト・フォン・エルポンス少佐が指揮する擲弾兵第1連隊第2大隊が頑強に抵抗し、また、部落南部から第41連隊第10中隊が駆け付けて戦線を強化したため、攻撃は全て撃退されたのです。
仏シッセ師団の第2旅団(ドゥ・ゴルトバーグ准将指揮)及びヴィレ・ロルムを経て前進するグルニエ師団も、ポワックスとブゾンヴィル街道を挟んだファイイ西の散兵壕を攻撃しますが、このファイイ~ポワックスの普軍防衛線には第41連隊の4個(第1,3,4,6)中隊がファイイ及びポワックス部落に展開し、同連隊第5中隊がポワックス北のブゾンヴィル街道沿いに突出する散兵壕に籠もって猛烈な銃撃を仏軍に浴びせ、ここでも仏軍は停留するしかなくなるのです。
普軍はなおもポワックスの東に2個(第41連隊の第7,8)中隊を予備として確保しており、この先の仏軍逆襲に備えていました。
エルポンス
このように、ファイイ~セルヴィニーの防衛は普軍による巧みな防衛線構築と守備兵の頑強な抵抗により一時持久戦の様相を見せます。
しかし仏軍は諦めずに次々と後方予備を繰り出したため、薄い前線となっていた普軍防衛線は次第に疲弊し始めました。このため、普第1師団長ベントハイム将軍は急ぎ残った第2旅団主力による一大逆襲を企て、仏軍の前線に掛かる猛烈な「圧力」を減じようと図るのです。
普第2旅団残部は擲弾兵第3連隊長エアハルト・ヴィルヘルム・エグベルト・フォン・レーガト大佐が直率し、これをセルヴィニー部落とポワックス部落にいた守備隊が援護しました。
レーガト支隊右翼は猟兵第1大隊第3,4中隊が占めてポワックスの南に向かい、その左翼(南)には擲弾兵第3連隊F(第3)大隊が進んでセルヴィニー北部郊外へ、第41連隊第7,8中隊もポワックス郊外からF大隊に加わりました。
レーガト支隊の左翼は擲弾兵第3連隊第5,7中隊が任され、セルヴィニー部落北縁沿いに進んで部落北部を守っていた第41連隊第11中隊を吸収します。
しかし、支隊最左翼に指定され、セルヴィニー部落南方郊外へ突進する予定だった第43連隊F大隊は夜陰のために目標を見逃し、「迷子」となってセルヴィニー東郊外に現れるのでした。
レーガト支隊は部落の守備兵からの援護射撃を頼みとして、鼓笛の勇壮な吹奏と鬨声を一斉に上げるや敵前線へ突撃します。
結果は圧倒的で、仏軍は不意を突かれて全面的に後退し、セルヴィニー墓地を確保した以外、普軍前線を突破出来ずに終わりました。
第41連隊第11中隊はこの墓地と周辺の散兵壕を占拠して墓地に籠もった仏軍部隊を封じたのでした。
午後8時を越えて日は全く暮れ、銃砲声は絶えて無くなりました。
フォン・マントイフェル将軍は第1軍団幕僚と共にノワスヴィル北東高地で指揮を執っていましたが、この静寂を以て「虎の子」の諸砲兵に対し、ヴレミ~サント=バルブの野営地までの後退を命じます。
逆襲を行った諸中隊に対しても後退を命じ、第2旅団を中心とする諸隊はポワックス~セルヴィニーの東郊外へ退きました。
擲弾兵第1連隊第2大隊はそのままセルヴィニーに残留し、部落西郊外のブドウ園では第41連隊第10中隊が畑地の隔壁に防御工事を成しつつありました。
「迷子」となっていた第43連隊F大隊はそのままセルヴィニーに入城し、大隊前哨は部落北西で警戒任務に就きました。
最後まで総予備として後方待機していた第43連隊の第2大隊もセルヴィニー東郊外まで前進し野営に入るのでした。
遡ること午後5時。
モーゼル東河畔オルジーで待機していた普「予備」第3師団の主力、「後備」第3師団は、「サント=バルブへ前進せよ」とのマントイフェル将軍の命令によりファイイの森まで進み、午後5時30分、激しい攻防の続くファイイの北2キロ付近から後備第5旅団、後備第6旅団の順序でサント=バルブに向け出発しました。
後備第5旅団には当初第11軍団予備砲兵(全てクルップ4ポンド野砲装備)の第2中隊も付されていましたが行軍途中、予備第3師団同僚の正規兵部隊「混成旅団」前哨が死守するルピニー(マルロワの南東2キロ)に止まり、南のシユ方面に「充満」している仏第6軍団に対面しました。するとマントイフェル将軍もこれを追認し、第11軍団予備砲兵残りの2個中隊もルピニーへ前進させ、これら3個砲兵中隊(18門)はファイイ~セルヴィニーへ前進中の仏第4軍団行軍列に向けて側面から砲撃を繰り返すのでした。
この砲撃は大きな効果を生み、仏軍の進撃を妨害しますが、やがて第2中隊は原命令に従ってサント=バルブに向け出発しました。また、ルピニーに残った2個(第1,3)中隊は、後備歩兵1個中隊と予備竜騎兵第1連隊第1中隊を護衛として配されて砲撃を続行し、混成旅団の陣地に向けて榴弾を発射し続けていた仏軍の砲兵たちを「黙らせ」て目標がなくなると、グリモンの森付近で待機する仏軍砲兵をも目標にして砲撃を続行しました。
後備歩兵2個旅団の方は午後6時30分から7時に掛けて続々とサント=バルブの本陣地線に到着します。
一方、モーゼルを渡河して午後2時30分にアンティリーへ到着していたヘッセン(北独第25)師団は、先述のマントイフェル将軍の「命令」(それ以前にカール王子より「マントイフェル将軍の隷下となる」よう命令されています)により、後備歩兵の去ったオルジー方面に向かって進みました。
この内、第50「H第2」旅団はファイイの森北縁、シャルリ部落の北東郊外で待機に入り、その前衛となるヘッセン(H)第3「親衛」連隊を森の南西端(シャルリ部落の東郊外)まで前進させて布陣させました。
師団の残り(第49「H第1」旅団主幹)はシャルリからマルロワに掛けての北方第二線陣地に展開し、H騎兵旅団はその右翼(西)、H砲兵3個(重砲第2、軽砲第1,3)中隊は左翼(東)、H重砲第1中隊とH軽砲第2中隊はアンティリー街道(現国道D2号線)の西に造られた肩墻に、それぞれ配置されました。なお、ルピニーで砲撃中の普軍砲兵を援護するため、Hライター騎兵2個中隊が原隊を離れ、ルピニーへ向かっています。
後備第3師団と入れ替わったH師団が対決するはずの仏第6軍団は、渡河の混乱で展開が遅れ、ようやく午後6時に至って北進準備が整いました。その第一線右翼(東)はベニニュ・プロスパー・ミシェル・ティクシエ少将の軍団第1師団、左翼(西)はラ・フォン・ドゥ・ヴィリエ少将の軍団第3師団で、仏軍前哨線となるヴァニーとシユの部落を守備する「パルチザン」中隊(既述の前哨・斥候部隊)の南西には第二線としてマリエ・オーギュスト・ロラン・ル=ヴァッソール・ソルヴァル少将の軍団第4師団がアンティリー街道沿いに展開しました。
ところが、軍団長のフランシス・マルセラン・セルテーヌ・ドゥ・カンロベル大将が前進を命じる前に、バゼーヌ大将から命令が届き、それによれば「第6軍団は右90度転回してファイイへ向け前進しこれを占領、第4軍団のポワックス~セルヴィニー占領を援助せよ」とのことだったのです。
バゼーヌ将軍はノワスヴィルの占領後、一向に進まないその北部における前進に苛立ち、この命令を発したものと思われます。しかし、既にバゼーヌの指揮振りに疑問を感じていたカンロベル大将は、敵(H師団と混成旅団)面前で横腹を晒す転回など危険極まりないと考えたものか、右翼がファイイの森に面していたティクシエ師団「のみ」にファイイ攻撃を命じ、他の2個師団は「現位置で待機せよ」と命じてしまうのでした。
カンロベル
以降、北部の戦線(マルロワ~シャルリ)ではこの31日に目立った戦闘は行われませんでした。ただ午後8時に至ってシユ付近に砲列を敷いた仏軍砲兵の1個中隊が突然ルピニーを砲撃し、規模不詳の歩兵部隊が部落に突撃を敢行しますが、部落を守備する普第81「ヘッセン=ナッサウ第1」連隊第2大隊は冷静に対処し、猛銃撃を加えることでこれを撃退、砲撃も止むのでした。
ファイイ攻撃を命じられたティクシエ師団の前衛は、ファイイ部落直前で普擲弾兵第1連隊のF大隊と邂逅し、一時は「にらみ合い」となります。
ファイイ防衛を命じられていたF大隊長のフリードリヒ・フォン・クロウスキー少佐は、第11中隊を部落内に、第10中隊を部落北郊外の高地尾根にそれぞれ配置して第一線とし、部落後方(東郊外)の墓地に第9中隊、部落南縁とブゾンヴィル街道との間に設えた散兵壕には第12中隊を置いて第二線としていました。
また、これとは別に第41連隊の第1中隊が部落南郊外に展開していましたが、この場所は見通しの良い場所で遮蔽物もなかったため、仏軍の攻撃が始まると榴弾砲撃を避けるため部落南のブドウ園を越え、ブゾンヴィル街道に沿ったポワックスの北まで後退しました。
午後7時30分、ヴィレ=ロルムにいたティクシエ師団からようやく歩兵数個大隊がファイイへ前進を開始します。
ヴァルデン大尉が指揮していた普擲弾兵第1連隊の第12中隊は、左翼側(南)を通過して部落の片面包囲を図る仏軍の突撃に遭遇し、必死で抵抗を試みますが兵力差があり過ぎ、短時間で大尉を始め士官が全て戦死するという壮絶な結果に陥ります。生き残った兵たちは一部が部落へ、一部がヴレミ方面へと退却するのでした。
ファイイの北高地尾根に陣を敷く同連隊第10中隊は、正面及び右翼(北)側ファイイの森南縁方向から敵を迎えて苦戦に陥り、この前哨陣地から後退するしかなくなります。 この中隊が下がった先は同僚第9中隊の籠もる東郊外の墓地で、両中隊はここで頑強に抵抗し仏軍の足を止めることに成功しました。
この墓地を襲撃していた仏軍前衛の後方、ファイイ部落では独り第11中隊が三方を数倍する仏軍に囲まれて猛銃撃を浴び続けており、これに対し中隊長のフォン・ゲルスドルフ大尉は「一歩も下がるな」と部下を叱咤しつつ猛然と銃撃を返しますが、遂に敵弾に倒れ戦死を遂げてしまいます。大尉に代わったのは数少ない無傷の士官フリードリヒ・ヴィルヘルム・オスカー・フォン・アウエル少尉でしたが、少壮の少尉と中隊は頑丈な家屋に籠もって仏軍の突撃を撃退し続け、結果、部落は普軍の手に有り続けたのでした。
ファイイ~セルヴィニーへの猛烈な攻撃を観察していたベントハイム普第1師団長は、サント=バルブ北部に達したばかりの後備第3師団の指揮権をマントイフェル将軍から委任され、直ちにヴレミの南方でブゾンヴィル街道に沿って師団を集合させました。
すると午後8時過ぎ、ヴレミにファイイ郊外で撃破された普擲弾兵第1連隊第12中隊の残存兵たちが現れ、「ファイイが陥落した」との憶測を伝えたのです。
後備第3師団長の男爵エルンスト・ヴィルヘルム・モーリッツ・オットー・シュラー・フォン・ゼンデン少将はまず、1個大隊をポンタ=ムッソンに送って2個大隊のみとなっていたニーダーシュレジェン後備歩兵連隊に対し「ファイイを奪還せよ」と命じました。しかし直後にセルヴィニーにおいて仏軍の攻撃が再興した(後述します)ため、ゼンデン将軍はセルヴィニー守備隊への援助と自部隊左翼に仏軍が回り込まぬ用心として1個大隊をセルヴィニーへ、半個大隊をポワックスへ送り出し、後備第5旅団の残りを直率すると2キロ西のファイイへ突進しました。
シュラー・フォン・ゼンデン
ゼンデン将軍率いるヴェストプロイセン州の後備歩兵2個大隊とニーダーシュレジェンの後備歩兵半個大隊がファイイ部落東縁に到着すると、部落は銃撃戦の真最中でしたが未だ普軍の手にありました。
文字通り満身創痍となり全滅も覚悟していたファイイ部落の普擲弾兵たちは大喜びで後備兵を迎え入れ、二倍する増援を受けた普軍守備隊の猛反撃に攻める仏軍は次々撃破されて後退し、間もなくゼンデン将軍は部落南部の散兵線を占拠していた仏兵も追い払ってファイイを完全に確保するのでした。
31日夕刻における仏軍のファイイ占領失敗と、ほぼ連動していたポワックス~セルヴィニーに対する仏第4軍団の攻撃失敗の主因として、独軍公式戦史は、カンロベル仏第6軍団長が「右90度転向せよ」とのバゼーヌ将軍の命令に対し「到底無理」として一時実行を渋り全力で事に当たらなかったため、としています。
カンロベル将軍はファイイ占領に失敗した事を知るとティクシエ師団本隊をファイイ部落の直ぐ西側まで進めて普軍と対峙させ、待機していた2個師団をようやく命令通り右転回させてティクシエ師団の後方へ進めるのでした。
攻撃する普軍後備歩兵




