ノワスヴィルの戦い/仏軍ノワスヴィル、モントワを奪還す
サント=バルブに至るブゾンヴィル街道(現国道D3号線)に跨がって構築された肩墻(ヴィレ・ロルムの西南西700m付近・街道上)に展開する仏軍15門の12ポンド重砲と、この右翼側(南)に展開していた仏第4軍団の砲列、そしてサン=ジュリアン分派堡塁の重砲は8月31日の午後4時、一斉に普第1師団の待ち構えるファイイ~セルヴィニー~ノワスヴィルの第一線陣地帯、そしてサント=バルブ方面第二線本陣地に対する猛砲撃を開始しました。
この砲撃開始とほぼ同じ頃。普第1師団の前線に向け散兵列を前衛に仏軍戦列歩兵の攻撃前進が始まります。
仏第4軍団はこの攻撃左翼(北)を担当して普軍右翼のポワックスとセルヴィニーの普軍陣地帯を狙い、攻撃右翼(南)は前・仏ライン軍参謀長のエドモン・ルブーフ大将率いる仏第3軍団(と仏第2軍団の一部)が担当して前進を開始したのです。
この仏第3軍団最左翼となったのはジャン・ルイ・メトマン少将率いる軍団第3師団で、ヌイイの低地北縁を前進し、その右翼(南)となる低地南ではジャン・バプティスト・アレクサンドル・モントードン少将率いる軍団第1師団が並進、ノワスヴィル~ビール工場の陣地帯を目指すのでした。
第2軍団の第2師団で、マルス=ラ=トゥールの戦いで負傷したアンリ・ジュール・バタイユ少将に代わってジャック・アレクサンドル・ジュール・ファヴァー=バストゥル准将が率いる師団は一時的に第3軍団傘下となってモントードン師団に続いて前進し、第一線後方中央にはエドゥアール・アルフォンス・ アントニー・エマール少将率いる軍団第4師団が予備として待機するのです。
仏第3軍団諸砲兵中隊は、メ部落南のヴァリエール川を挟んで砲列を敷き、準備砲撃と援護射撃を行いました。
ファヴァー=バストゥル
「攻撃は明日だろう」と読んで多少気も緩んでいた普第1軍団本営では、仏軍が信じられない時間(夕刻迫る午後4時)に突如攻撃を開始した事に当惑しますが、普第1軍団長男爵エドウィン・フォン・マントイフェル大将は直ちに「遙かに優勢な仏軍といえどもひるまずに応戦せよ」と命じます。
これに先立って第1軍団本営では「仏軍が攻撃を開始した場合、第1旅団が構えるファイイ~ポワックス~セルヴィニー~ノワスヴィル~ビール工場の最前線で戦うのか、サント=バルブの第二線まで後退して戦うのか」で意見の相違がありました。
普第1旅団が構える陣地帯は、仏軍がサント=バルブ高地に侵入し、その尾根上に展開するのを妨げる絶好の位置ではありますが、その周囲は谷や森林に囲まれ、仏軍は簡単にこの陣地帯を迂回するか三面包囲することが可能でした。
サント=バルブは背面(東)に高地の最上部を控えた高台上にあり、敵を迎え撃つには絶好な場所でしたが、セルヴィニーやノワスヴィルから普軍が撤退すれば、仏軍はここから北方へ転進してファイイの森を越え、予備第3師団の左翼(東)をすり抜けてサンリー=レ=ヴィジーからヴィジー(サント=バルブの北4.8キロ)へと北進してしまう恐れがありました。
普第1軍団本営では、「切れ者」の参謀長、エルンスト・エンゲルベルト・オスカー・ヴィルヘルム・フォン・デア・ブルク中佐が「第1旅団の陣地を守り抜く」ことが仏軍のメッス包囲網突破を防ぐ最善策と訴えており、マントイフェル将軍もこれに同意し、普第1軍団は最前線を譲らないことで仏軍と対決することに決したのです。
フォン・デア・ブルク
この「不退転の決意」で臨む普軍陣地帯に、員数で遙かに勝る仏軍が襲い掛かります。
普第1師団長ゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将と第1軍団砲兵隊長のユンゲ大佐は、部下たちが炊事中に仏軍の攻撃を受けてしまいますが、即応が可能だった隊から次々に応戦を開始させました。
その普第1旅団の右翼(北)端はファイイ部落にあり、ここでは擲弾兵第1「オストプロイセン第1」連隊のフュージリア(F)大隊が部落守備と周辺の散兵線に就き、その南に沿うブゾンヴィル街道を挟んだ南側のポワックスには、第41連隊第1大隊が展開し、街道北脇に突出する散兵壕には第1中隊が籠もっていました。
同連隊の第2大隊はポワックスの東郊外にあって第二線となり、擲弾兵第1連隊の第2大隊はセルヴィニーの陣地を固めます。
このセルヴィニー本陣地からは、部落北西郊外にあって強固な拠点となる墓地に第7中隊の1個小隊が、部落の西郊外北側にある部落からは死角となる危険な谷底には第7中隊が、それぞれ派出され陣を構えていました。
同じくセルヴィニー部落北郊外の西(先の谷端)には第41「オストプロイセン第5」連隊F大隊から第11中隊が前進して展開し、同じく第10中隊は部落南縁にあるブドウ園内に展開します。F大隊残りの両翼(第9,12)中隊は、セルヴィニーの南西側に砲列を敷いた砲兵諸中隊の護衛として展開しました。
そして擲弾兵第1連隊の第1大隊(普軍で一番若い大隊番号を誇る名門)は師団の最左翼(南)としてノワスヴィルとビール工場の守備位置にあります。
この方面最左翼で重要拠点となるビール工場は仏軍の攻撃当初、第4中隊の1個小隊だけが守備していましたが、やがてここは仏軍攻撃の重心となり始めたため、間もなく第3中隊の1個小隊が増援に駆け付け、更にルトンフェ近郊まで前進していた普第2師団第3旅団から、擲弾兵第4連隊の第2中隊が先行して到着し防御戦に加わったのです。
第二線となりサント=バルブ~ヴレミ周辺に待機していた普第2旅団からは、朝の緊急集合令直後、擲弾兵第3連隊の第1(第2,3中隊は後方残留)と第2大隊が前進し、第2大隊はセルヴィニーの東郊外へ、第1,4中隊はノワスヴィル北郊外の谷底まで進み出ました。
その後仏軍の前進が確実となった午後に、猟兵第1大隊の2個(第1,2)中隊をヴレミ部落に残し、残りの第2旅団諸中隊もセルヴィニー本陣地の東700m付近の小谷まで前進を命じられ、この地で各半個大隊(2個中隊)に分かれ2列に配置されました。
☆午後4時時点の普第2旅団
○擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊第1大隊
・第1,4中隊/ノワスヴィル北の谷
・第2中隊/サント=バルブに残留
・第3中隊/グラテニー(サント=バルブの南東2.7キロ)で糧食集積場警護
○擲弾兵第3連隊第2大隊/セルヴィニー部落東郊外
○猟兵第1「オストプロイセン」大隊
・第1,2中隊/ヴレミ守備
・第3,4中隊/ファイイの南東、街道の南側(第2旅団本隊最右翼)
○擲弾兵第3連隊F大隊/猟兵第1大隊第3,4中隊の左翼隣(第2旅団本隊第一線右翼)
○第43「オストプロイセン第6」連隊F大隊/擲弾兵第3連隊F大隊の左翼隣(第2旅団本隊第一線左翼)
○第43連隊第1大隊/擲弾兵第3連隊F大隊の後方(第2旅団本隊第二線右翼)
○第43連隊第2大隊/第43連隊F大隊の後方(第2旅団本隊第二線左翼)
マントイフェル将軍は仏軍主力がサント=バルブ高地へ向け攻撃前進することが確実となると、オルジー付近で待機していた予備第3師団の主力、「後備」第3師団に対し「サント=バルブまで移動せよ」と命令し、その後方、アンティリーまで進んで待機中のヘッセン(北独第25)師団にも「後備師団の移動後にオルジー周辺まで前進せよ」と命じます。
しかし、後備第3師団こそ一時的にマントイフェル将軍の指揮下にありましたが、ヘッセン師団は第9軍団のフォン・マンシュタイン歩兵大将配下であり、年功序列ではマントイフェル将軍が上としてもこれは完全な越権行為と言えます。しかもヘッセン大公国(ダルムシュタット政府)「軍」は4年前の普墺戦争時、正にマントイフェル将軍と直接干戈を交えており、師団長のヘッセン公太子ルートヴィヒ公子が即座に命令に従ったものか記録にはないものの、気になるところです。
5年前までは国王の側に傅かえ、お気に入りとなって影響力を発揮、その過激な極右思考(左翼化する議会に対する武力弾圧を幾度も唱えます)や左翼議員と決闘したことから、本当は「軍隊嫌い」の宰相ビスマルクから嫌われ、彼をして「狂気の伍長」といわしめた強面のマントイフェル将軍ですが、この時は緊急時とは言えさすがに「まずい」と思ったのか、この命令を直ちにカール王子の攻囲軍本営に報告します。
伝令に預けた王子宛の書簡には「明日には(仏軍の突破を防ぐため)第25師団をサント=バルブに進めさせざるを得ない状況にあります」と言い訳めいた記述があり、更に「他にも増援部隊の派遣を希望します」とありました。
男爵マントイフェル騎兵大将
この状況はモーゼル西岸フェーヴ近郊のオリモン山上にいたカール王子にも「丸見え」でした。
王子は西日に照らされた仏軍の大集団が普第1師団に襲いかかる様を目の当たりにしていたのです。
かつてマントイフェル将軍に同調し、国王に対し議会への「クーデター」を訴えたこともあったカール王子は、マントイフェル将軍と「同じ答え」を出していました。
モーゼル東岸からの「嘆願書」が届く以前、カール王子は「第25師団の指揮権をマントイフェル将軍へ委任」することと、「第9軍団の残余部隊(第18師団と軍団砲兵)は明朝アンティリー付近まで前進せよ」とマンシュタイン将軍に命じていたのです(後述)。
前線ではこの時、普第1軍団の諸砲兵が仏軍と猛烈な砲撃戦を交わしていました。
野戦砲兵第1連隊第2大隊長のグレーゴロヴィウス中佐は、第1軍団砲兵隊の軽砲第3中隊を真っ先にセルヴィニー陣地南西側へ進め、同第1大隊長代理のプライニッツァー大尉は第1師団砲兵の重砲2個中隊を直率するとサント=バルブから疾駆してポワックスとセルヴィニーとの中間まで進出、これら3個砲兵中隊は普軍の最前線から僅か450mしか離れていない場所に砲列を敷き、迫り来る仏軍に対して砲撃を開始しました。
ほぼ同時に軍団砲兵所属の騎砲兵第3中隊もプライニッツァー隊の右翼(北)へ進むとブゾンヴィル街道脇に展開し砲撃に加わり、その後軍団傘下の砲兵たちは競って前進して、短時間でサント=バルブ高地西端尾根付近は普軍砲兵で充満するのでした。
これら10個中隊の砲兵たちは第1軍団砲兵部長エミール・リヒャルト・フォン・ベルクマン少将の指揮下で統一され、最終的にファイイ南側の渓谷南縁(ブゾンヴィル街道北脇)からセルヴィニー南西郊外まで、普軍本陣地より前方700m付近の、ほとんど前哨線に沿って展開するのでした。
☆午後5時前後における普第1軍団麾下砲兵(野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊)の展開
※左翼(南)から右翼(北)へ
○セルヴィニー部落西端から南西へ300m付近
・軽砲第3中隊(軍団砲兵)
・重砲第4中隊(軍団砲兵)
○セルヴィニー部落西端から西へ400m付近
・軽砲第2中隊(第1師団砲兵)
・重砲第1中隊(第1師団砲兵)
○セルヴィニー部落西端から北西へ400m付近(墓地の北西脇)
・重砲第3中隊(軍団砲兵)
○その北西100m付近
・軽砲第4中隊(軍団砲兵)
○その北西100m、サント=バルブ街道の南100m付近
・重砲第2中隊(第1師団砲兵)
・軽砲第1中隊(第1師団砲兵)
○その北東200m、サント=バルブ街道南縁
・騎砲兵第3中隊(軍団砲兵)
○その北100m、サント=バルブ街道北縁
・騎砲兵第2中隊(軍団砲兵)
ベルクマン(第1軍団砲兵部長)
普軍としては仏軍が優秀なシャスポー銃を持つ大軍で攻め上がって来る以上、これを制するには優位にある砲兵力に頼らねばなりません。強力な仏軍の「矢面」に立った砲兵を直接護衛するため、前述通り第41連隊の第9,12中隊が展開しますが、仏軍がほぼ1個軍団に及ぶのを見ると、更に擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊から第6と第8中隊がセルヴィニー東郊から前進して護衛の散兵線に加わったのでした。
この砲兵援護にはポワックス北方で突出した散兵線にいた第41連隊第1中隊も加わり、特に街道沿いの騎砲兵を護衛し、後にはその東方に竜騎兵第1連隊の第2中隊が進み出て砲兵援護に加わったのでした。
この普軍60門のクルップ製野砲の威力は変わらず絶大で、途切れなく爆発する榴弾は仏軍砲兵を沈黙させ歩兵の足を止めるのです。ただ、ヴァリエール川が造る谷の遮蔽を進んでいたモントードンとメトマン両師団の前衛散兵集団は砲撃を回避することが出来ただけでなく、ノワスヴィルと普軍砲列に対し着実に接近し、ヌイイ南の渓谷へ進んだメトマン師団の前衛は普軍砲列左翼(南)に向けシャスポー銃を撃ちまくり、死角となって直射出来ないでいた普軍砲兵を悩ませるのでした。
ラクネイーからルトンフェ付近まで前進し、普第1師団に対する仏大軍の接近を目撃した普第3旅団長ヘルムート・フォン・メメルティ少将は、砲撃を避けてヴァリエールの谷を遡る仏軍に対応するため、午後5時、旅団を率いてルトンフェを発しザールブリュッケン街道(現国道D603号線)の北をモントワ(=フランヴィル)に向けて続く高地尾根(その末端北側がビール工場です)を西へ進みます。
狭い尾根を進む旅団は一部が三線に分けられ、第一線は縦列横隊(中隊単位)に、他は半個大隊で行軍しました。
☆午後5時における普第3旅団(普第2師団)の行軍陣形
※左翼(南)から右翼(北)へ
○最左翼(南)/尾根南側、ザールブリュッケン街道上
*竜騎兵第1「リッタウエン」連隊(横隊)
・第1中隊
・第2中隊
・第4中隊
○中央左翼第一線
*第44「オストプロイセン第7」連隊F大隊
・第12中隊(ヴァリエール川の渓谷内)
・第11中隊
・第10中隊
・第9中隊
○中央左翼第二線
*第44連隊第1大隊
・半個大隊2個
○中央左翼第三線
*第44連隊第2大隊
・密集行軍列
○中央右翼第一線
*第2師団重砲兵
・重砲第5中隊
・重砲第6中隊
○中央右翼第二線
*擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊第1大隊
・第4中隊
・第3中隊
・第1中隊
○中央右翼第三線
*擲弾兵第4連隊第2大隊
・半個大隊2個
※前述通り第4連隊第2中隊はビール工場へ先行し、同連隊F大隊はクールセル=シュル=ニエの左翼防衛のためフロンティニーにいます。
この行軍途中で第44連隊第10中隊は尾根を降りて南側のフランヴィルへ向かい、後に第4中隊も同地へ向かいました。
行軍列の右翼先頭となっていた両重砲中隊は擲弾兵第4連隊第1,3中隊の援護でモントワ部落の北東尾根上に砲列を敷き、西のラ=プレンシェット(モントワの西1キロ)付近に砲列を敷く仏軍砲兵や、モントワへ入りつつある仏軍歩兵に対し激しい榴弾砲撃を開始します。
この後、旅団はモントワを前に仏軍散兵と銃撃戦を繰り広げますが、ノワスヴィルが危機に陥ると第4連隊の第2大隊は分かれ増援としてノワスヴィルへ進むのでした。
モントワへ進んで普第3旅団と対決したのはモントードン師団の第1旅団(師団長直率?)でした。彼らは普第1師団の左翼を狙って進む師団先頭にいましたが、モントワの東尾根に普軍部隊が出現したため南側へ転進したのです。この旅団に続き、第二線となっていたファヴァー=バストゥル師団もモントワ方面へ前進しました。
モントードン師団の残り、ジュスタン・クランシャン准将旅団(第2旅団)はそのままノワスヴィルとビール工場へ向かい、その前面で銃撃戦を開始し、メトマン師団は激しい砲撃を避けるため、ヌイイ付近のカラント渓谷で遮蔽物の陰に一時待避しセルヴィニー攻撃の機会を待ちます。それ以外の仏軍(主に第4軍団諸隊)は全て普第1軍団の砲列による砲撃で活動停止状態にありました。
クランシャン
午後5時15分、集団となった仏軍前衛散兵群は同じく密集した縦列で続く本隊を従え、ノワスヴィル~ビール工場を包囲する態勢で急速に前進を開始します。
ビール工場の普軍は、正面からの突撃をなんとか撃退しますが、数倍する仏軍により両側面を抜かれてたちまち包囲の危機に陥ります。工場南に隣接する数軒の農家は素早い機動を見せた仏軍散兵によってあっという間に占領され、ここを拠点に仏軍はビール工場への波状突撃を敢行するのでした。
この激しく凄惨な白兵戦で、増援に駆け付けたばかりの擲弾兵第4連隊第2中隊長ブリュッカー大尉は重傷を負って捕虜となってしまい、生き残り辛うじて捕虜とならずに済んだ守備兵たちはノワスヴィルへ逃走するしかありませんでした。
ビール工場を占領され、部落北郊外の渓谷でも仏軍の進出を許したノワスヴィル守備隊(第1連隊第1大隊)は東を除く三方から激しい銃撃を受け続けます。やがてビール工場を占領して東へ進んだ仏軍散兵はノワスヴィルの南東郊外にも銃撃拠点を設け、部落は完全包囲の危機に陥りました。
守備隊を率いる第1大隊長カール・フォン・ヴィンスコウスキー中佐は、事前に第1旅団長フォン・ガイル少将から「優勢な敵に攻撃された場合は、北方の渓谷へ退却しセルヴィニーの友軍と連絡する」よう訓令を受けていました。しかし戦闘開始後、ガイル将軍から伝令が届き、「間もなくルトンフェ方面から増援が到着する」との連絡を受け、中佐は増援を待ち部落を死守しようと覚悟を固めます。ところが仏軍の動きは普軍の想像以上に早く、地形の起伏や雑木林にブドウ園と遮蔽物が多いこの方面では、砲撃も効果が薄かったため、仏軍はあっという間に部落の南北郊外を抜き、南ではビール工場が失落、北郊外のブドウ園では第1中隊が痛め付けられて東へ退却してしまうのです。
激しい銃撃戦で死傷者も増え、予備兵は全て散兵線へ送られ、包囲の危険がますます高まっても期待された増援はなかなか到着しません。午後5時30分。遂にヴィンスコウスキー中佐は守備隊に対し総退却を命じました。
ヴィンスコウスキー
部隊は散兵線より一斉に後退し、大隊のほぼ半数は部落北郊外カラント川支流が造る渓谷南岸の崖上に、残りはその谷底に急ぎ二重の防御陣地を設えたのでした。
戦闘開始とほぼ同時に普第1師団左翼の増援として送り込まれた擲弾兵第3連隊の第1,4中隊は、ヌイイの東まで進み出た仏メトマン師団右翼前衛との間でおよそ1時間に渡り銃撃戦を展開しますが、ここで左翼側のノワスヴィル方面からも激しい銃撃を受け始め、側面に回り込まれ片面包囲の危険性が高まったため退却せざるを得なくなります。彼らはやむを得ずにザールブリュッケン街道に向けて急速に退却し、ノワスヴィルの東750mの街道沿いに新たな散兵線を築いたのです。
ビール工場で中隊長を失った後、退却したノワスヴィルからも撤退する羽目となった擲弾兵第4連隊の第2中隊残兵は、部落の東郊外へ脱出後間もなく、こちらに前進して来る味方と出会いました。これは同連隊の第2大隊で、彼らも街道を渡る際にビール工場から激しい銃撃を受け、無視出来ない損害を受けていました。この時、ビール工場方面から再び激しい銃撃戦の音が聞こえ出し、第2中隊は彼らの同僚、同連隊第1大隊の残3個中隊がビール工場の仏兵と戦い始めたことを知るのでした。
しかし、第2大隊は仏軍がまだ確実に掌握していないノワスヴィルに入ったものの、ここで大隊長のイーノ・フォン・コンリング少佐は「友軍が部落を撤退したのは高等司令部からの命令に因るものだった」という「とんでもない嘘」を聞かされ、これを信じた少佐は部隊に「回れ右」を命じて部落から離れてしまうのでした。
こうしてノワスヴィルは市街戦に陥ることなく午後6時、仏軍の手に奪還されたのでした。
普第44連隊がモントワ部落へ向かった時。ピュシュに至っていた普騎兵第3師団も北上を開始し、このうち騎兵第6旅団はフランヴィル北東郊外まで進み来ました。
騎砲兵第1中隊はここからモントワ付近に前進する仏兵を狙い、効果抜群の砲撃を繰り返します。
この少し前、普第3旅団に従っていたミュラー少佐率いる重砲2個(第5,6)中隊もヴァリエール渓谷の南崖上に砲列を敷いてモントワ方面を砲撃し、仏軍の足止めを図っています。
騎兵師団の片割れ、騎兵第7旅団はフランヴィルの東から更に北上し、ザールルイ街道(現国道D954号線)まで前進して普第1師団との連絡を取りましたが、ただでさえ目立つ騎兵集団はノワスヴィルへ進んだ仏軍のシャスポー銃射程内に「いつの間にか」踏み込んでしまい、長距離からの一斉狙撃を受けた槍騎兵第5連隊は連隊長ポーテン少佐を失ってしまうのです。
モントワに向かった第44連隊は、第一線にあったF大隊の各中隊を高地南側の谷底へ下ろし、続いて第二線の第1大隊も尾根から降りました。第三線の第2大隊もこれに距離を隔てて続行し、連隊は南側から谷間の死角を利用してモントワ部落の直ぐ南へ達しようとします。
先にモントワへ入った仏軍前衛は、それでも谷地を進む普軍に対して銃撃を浴びせ続けますが、その数は未だ大した数でなく、普第44連隊長のヴィルヘルム・テオドール・カール・ヨブスト・フォン・ベッキング大佐は「(敵本隊が到着する前に)急進して仏兵を追い払い、その西側に布陣したミトライユーズ砲兵2個中隊も撃退しよう」と決心するのです。
大佐は第一線と第二線(Fと第1)大隊を攻撃に使用することとして、第3中隊に対し「部落を正面(東)から攻撃せよ」と命じ、第12中隊には「フランヴィルからやって来る第10中隊の1個小隊と共に部落南方を迂回しラ=プランシェットへ続く尾根上に展開せよ(モントワの西側になります)」と命じました。更に第9中隊に第3中隊の援護を、第11中隊に第12中隊の援護を命じ、残り第1,2中隊を予備として南東側谷底に留め置くのでした。
ベッキング大佐の攻撃は部隊の展開次第に開始され、第3中隊は命令通りモントワに正面から突入して部落内で仏軍と接近戦となり、その南では第12中隊が第10中隊の一部と第11中隊と共に猛銃砲火を冒してモントワ南西側の高地尾根へ突撃を敢行しました。
ところが、対する仏軍はこの攻撃に対し鮮やかとも言える猛逆襲を行うのです。
モントードン師団の第1旅団主力は、後続するファヴァー=バストゥル師団からの援護射撃を背に、果敢に部落とその南側の高地を襲い、ここを一気に通過して普軍の第3中隊と第12中隊の中間を突進しました。このため、普第44連隊の諸中隊は一瞬で仏軍の「大波」に呑まれてしまい、大損害を受けつつモントワ部落と南西尾根から退却する羽目になったのです。連隊の残兵は一部がヴァリエール川の谷へ、一部が尾根を下りフランヴィルへ逃走しました。ただ、モントワ北のブドウ園まで進んでいた第9中隊のみ仏軍の「大波」から外れており、その後損害を出しつつも冷静沈着な退却行をすることが出来たのです。
無念のベッキング大佐は痛め付けられた諸中隊を予備の第1,2中隊に収容させ、第2大隊所属の第5中隊をヴァリエール渓谷の崖上で後衛として配置させました。第3旅団長のフォン・メメルティ少将はこの悲惨な様子をルトンフェ付近から観戦していましたが、直ちにモントワ東方で待機していた第2大隊をルトンフェまで下げるよう命じ、旅団の重砲兵2個中隊も同地へ後退させました。
この第44連隊の退却はフォン・マッソー中佐が指揮する竜騎兵第1連隊が援護し、仏軍の残兵狩りを防いだのです。
ベッキング
モントワを奪い返した仏軍は、その勢いのまま尾根上をルトンフェ方面へ進撃します。しかし、フランヴィル方面へ退いた第44連隊の一部と、ビール工場の仏軍と戦っていた擲弾兵第4連隊第1大隊の3個中隊が統一射撃を行い、たちまち前衛に損害が出た仏軍は進撃を中止しました。
戦いは以降フランヴィルの西郊外を前線として持久銃撃戦へと変化するのでした。この銃撃戦には再び前進した重砲2個と騎砲兵1個中隊が参戦、砲撃を繰り返しましたが、午後7時過ぎ、メメルティ将軍は戦闘を中止させて第3旅団のほぼ全体をルトンフェ付近のザールルイ街道沿いに集合させ、その際に騎砲兵中隊も重砲兵の隣を離れて騎兵師団の野営へ引き上げたのでした。
この時、第44連隊は死傷者と行方不明者続出で見る影も無くなっており、F大隊は僅か1個中隊にまとめられ、第3中隊は小隊にも満たなくなったため、残兵は第1大隊の諸中隊に振り分けられたのです。
仏軍戦列歩兵の攻撃




