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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ストラスブールとメッスの包囲、沿岸防衛
315/534

ノワスヴィルの戦い/仏軍再度の北進予兆

 仏ライン軍総司令官、アシル・バゼーヌ大将は8月26日の午後3時、早朝から開始した総軍の「北方突破」を中止し、モーゼル川東岸へ渡河していた第4と第6軍団を同川西岸にある元の宿・野営地まで戻し、第2軍団をモーゼル東岸のメッス南部に振り向けました。

 この日午後早くにグリモン城館で開催された高級将官会議では、「以降独軍の包囲陣に対し、絶えず斥候を送り破壊工作などを行って、その包囲網に騒擾を与える」との決議があり、またバゼーヌ将軍は「メッス南部(市街地から6~7キロ付近)のペルトルからサン=ティボ農場にかけて普軍の突出した拠点が設けられつつあるので、これを奪還せよ」とモーゼル東岸にある第3軍団と第2軍団に命じました。


 しかし、これらの行動は全く以て実行されることはありませんでした。


 前述メッス南部の普軍突出部(先述通り普第28旅団が陣を構えています)に対して仏軍前線部隊は、目立つ防御工事や部隊の行軍列に対し時折重砲から榴弾を発射するだけ、多少大胆な行動と言えば普軍前哨付近の農家を襲って糧秣を徴発したり、夜間に斥候部隊を普軍前哨線付近に忍び込ませたりする位で、普軍にはほとんど影響がありませんでした。

 反面、このメッス南部地域で仏軍は粛々と防御工事を続けており、セイユ川をクール分派堡塁の西側で閉塞し、メッス停車場(当時の駅は現在メッス市のメインステーションとなる「メッス=ヴィレ」駅の南西500m付近にありました)東側にある要塞外郭南の突出角面堡「ルドゥテ・ドゥ・パットゥ」(現・サブロン地区の北側にありました。角面堡は現存しませんが現駅南の街区に名残が見えます)の周辺を水没地帯に変えました。


 バゼーヌ将軍始めライン軍の首脳陣がこの時何を考えていたかは、戦後の敗戦責任を問う諮問会議で明かされていますが、それは誰もが自身に責任が及ばぬよう証言を重ねた結果のものですから信用ならず、また、この時メッスに閉じこめられていた将兵が戦後に出版した手記の類も同類で、真実は闇の中と言ったところです。グリモンの会議でもバゼーヌが籠城を主張した、しなかった、黙認した等々様々な記録があり、本当の所は分かりません。ここでは利害関係が交錯して様々な説が主張されている仏側記録ではなく、案外バゼーヌ側主張に立つ独側の記録に沿ってバゼーヌ(ライン)軍が北方突破に至る過程を見て行きます。


 バゼーヌ大将が何を考えていたにせよ、27日から30日に至る仏軍の動きは、独軍から見れば「北方突破」の予兆でした。


 バゼーヌ将軍は28日、全軍に命令を出し、「軍は常に3日間の口糧を用意」するため「軍団主計官は要塞糧食庫からラード、カンパン、燕麦(製粉してオートミールなどを作ります)を受領しこれに備えよ」としました。また、本営の主計部長には食用として生きた牛・豚・鶏の購入を命じています。

 工兵・メッス要塞司令官に対しては、26日にモーゼル川へ架けた2本の舟橋を修理・補強し更にもう1本の舟橋を架橋するよう、また、橋に至る通路とサン=ジュリアン分派堡塁に上る坂の修繕も命じます。


挿絵(By みてみん)

メッス要塞から見た仏軍野営地の光景


 翌29日。バゼーヌ大将はティオンビル要塞司令官のヴルニエ将軍から27日に発信された電信を手渡されます。


「報告によれば、現在第1軍団はデュクロ将軍が指揮を執り、本日(27日)軍の左翼にあってストゥネに、第7軍団はドゥエー将軍が指揮して軍右翼にありムーズ沿岸に到達した。砲声の合図で一斉に行軍する手筈と聞く」「ル・ヴァール大佐(要塞の副司令格か)によればバゼーヌ大将は23日にシャロン軍の前進につき情報を得ていると言うが真偽不明(のため、これを送付する)」


 もちろんメッスに対するマクマオン将軍からの情報は20日以降絶えてなく、バゼーヌ将軍はこの電信によってシャロン軍が、27日にストゥネとその南側でムーズ川を渡ろうとしていたことを知るのです。

 バゼーヌ将軍は30日早朝、「諸隊は定められた口糧を受け取り、出発準備をせよ」と命令、同時に真偽を確かめようとティオンビルに向け伝令を送り出しました。相変わらず即断出来ない将軍は、この伝令が持ち帰る情報で今後を決めようと言うのです。

 ところが、伝令が帰る前にティオンビル要塞から第二の電文が到着しました。これは前日(29日)に要塞のヴルニエ司令官が受領し転送したもので、発信者はマクマオン大将となっていました。


「宛・ライン軍バゼーヌ将軍 19日に貴官の発した電報をランスにて受領。本官はシャロン軍をモンメディ方面へ行軍させ、明後日(21日)エーヌ川(サント=ムヌー付近アルゴンヌの森から北西へ流れコンピエーニュでオワーズ川と合流する)まで到達し、その後状況によって行動を起こして貴官を救援しようと考えている。 マクマオン」


 これで慎重なバゼーヌ将軍もマクマオン将軍がシャロン軍を東進させていることを「ようやく確信」するのでした。


 これらの情報から将軍は、シャロン軍が8月27日「以降」も行軍を「東へ継続」していると想定し、シャロン軍がバゼーヌ軍と合流する地点はメッスからさほど離れた場所ではないだろう、と想像したのです。

 そして「メッス要塞で待っていてはその間にある独カール王子の軍に割って入られて邪魔をされる」と考えたバゼーヌ将軍は、26日に「未遂」に終わったモーゼル東岸における北進突破を再度試み、ティオンビル要塞付近で今一度モーゼルを渡河し、(多分要塞の庇護下で南と東を固めて)シャロン軍を待とう、と決心するのでした。


 この作戦に関する命令を作製する必要はありませんでした。何故ならば将軍は26日に実施しようとした作戦を「そっくり・そのまま」再現しようとしたので、26日の命令を「日付を変えて」再交付し、追加の命令を添えればよかったからでした。


 モーゼル西岸にいた諸隊(第4軍団、第6軍団、近衛軍団、予備砲兵隊)は31日午前6時を以てモーゼル川の中州シャンビエール島に架けられた3本の軍舟橋(と常設橋)を渡って東岸のサン=ジュリアン分派堡塁周辺に集中することになり、渡河の順番は、第4、第6、近衛と予備砲兵、最後にシャンビエール島で警戒中の騎兵集団となりました。

 その後の行動に付き、バゼーヌ将軍は以下の通り(既に26日に)命令しています。


○既にモーゼル東岸・メッス北部にいる仏第3軍団


 早朝に行動を開始し、1個師団をメッス要塞南側のクール分派堡塁からグリジー(分派堡の東1.5キロ)前面に配置して警戒させる。残り3個師団と騎兵師団、砲兵の全てはノワスヴィルに対面して配置し、その右翼(南部)はザールルイ街道(現国道D954号線)まで延伸する。左翼(北部)端はメ~ヌイイ間の高地にあるメ森林とする。騎兵師団は軍団右翼外(南部)を捜索し敵の攻撃を察知すること。


○同じく東岸南部にいる仏第2軍団

 ※第3(ラヴォークペ伯爵少将)師団は要塞守備で残留し、歩兵師団は2個のみとなっています。


 第3軍団の後方で第二線となる。右翼(南部)はベルクロワ家屋群(ノワスヴィルの南西2.5キロ付近。「コロンベイの戦い」参照。現存しません)に、左翼(北部)はヴァントゥ(同西3キロ)北部の高地上までとする。騎兵師団は軍団右翼外(南東)を捜索し敵の攻撃を察知すること。


○仏第4軍団


 第2(フランソワ・グルニエ少将)師団をメッス要塞に後置し、渡河はシャンビエール島3本の舟橋全て(※26日の命令では南側の舟橋となっていました)を使用して遅くとも午前6時には渡り始めること。渡河後、グリモンの森前方(東)1.8キロ付近まで前進してサント=バルブへの街道(ブゾンヴィル街道。現国道D3号線)と直交する形となり、右翼(南側)はメ森林で第3軍団と連絡、左翼(北部)はグリモンの森北東1キロ付近の高地まで延伸する。騎兵師団は軍団前線の正面へ進出し前方警戒線を作る。


○仏第6軍団


 渡河はシャンビエール島の舟橋全て(※26日の命令では北側の舟橋となっていました)を使用し、大体午前7時15分頃には渡り始めること。渡河後、グリモンの森北部からヴィレ=ロルム(ノワスヴィルの北西2.6キロ)の後方(西側)まで進み、右翼(東側)は第4軍団左翼の高地と連絡し、前線は左翼(西側)へ屈曲してその端をマルロワへの街道(現国道D2号線)左にある標高216(m)高地(モーゼル河岸。サン=ジュリアン分派堡塁の北北西1.5キロ)とする。騎兵師団は軍団前線の正面へ進出し前方警戒線を作る。


○近衛軍団と予備砲兵隊、集成騎兵集団


 渡河は第4、第6軍団が渡り終えた後、シャンビエール島両方の舟橋を使用して近衛軍団は午前8時30分、予備砲兵隊は午前9時15分、集成騎兵集団は午前10時に渡河を開始する。渡河後、サン=ジュリアン分派堡塁とグリモンの森の間に集合する。右翼(南部)は第2軍団の左翼付近まで、左翼(北部)はシャティヨン(分派堡塁の北西600m付近にあった家屋群。現存しません)の西側付近とする。


○諸軍団砲兵と工兵

 それぞれ軍団の後尾に付き行軍し、第二線後方で待機する。

○輜重他

 全てシャンビエール島へ集めて待機。

○軍本営

 サン=ジュリアンの部落に置く。

○橋梁通過

 各橋梁には諸軍団通過の間、本営の参謀1名を配置する。各軍団と各師団の参謀1名は、自部隊通過の間現場に臨んで部隊の通過を(支障なく行われるよう)監視すること。

○残留部隊

 第2と第6軍団は元の守備地域に歩兵と騎兵それぞれ1個連隊を残留させ、第4軍団は歩兵のみ1個連隊を同じく残留、第3軍団はモンティニー(=レ=メッス)に歩兵1個大隊を残留とする。これらの部隊は陽動として行動(いかにも大軍が居残っているような欺瞞行動か)し、騎兵は周辺の偵察活動を行う。


挿絵(By みてみん)

メッス東部の戦い(コロンベイの戦いにおける普第13師団)


☆ ノワスヴィルの戦場


 これから普仏両軍が衝突する戦場は、ほぼ8月14日に両軍が衝突した「コロンベイの戦い」の戦場と同一です。


 メッス要塞都市から東と北へ続く諸街道は、放射状に延びて分岐しつつティオンビル、ザールルイ、ブレ=モセル、ザールブリュッケンへと続くもので、その途中に起伏の多い高原、いわゆる「メッス高原」を通過していました。


 メッス高原での最高標高地点はサント=バルブ北東1.5キロ付近にある高地で、標高320m前後です。この北側アヴァンシー付近から西側モーゼル河畔まで続く台地は、シャルリ(=オラドゥール)付近から流れる小河川シューズ川とアヴァンシーから流れてファイイの北からシユに掛けて渓谷を造るマルロワ川に挟まれていました。台地の西端となるルピニー(マルロワの南東2キロ)付近を中心に、北はマルロワ、南はヌイイまでがメッス要塞北の要衝サン=ジュリアン分派堡塁にある要塞重砲の有効射程圏内(およそ3.2キロ)となります。このため、モーゼル東岸に展開する独攻囲軍の北部を担当する予備第3師団の本陣地は、ティオンビルへの街道(現国道D1号線)とアンティリー(シャルリの北2.5キロ)への街道(現国道D2号線)を閉鎖しつつ、サン=ジュリアン分派堡塁重砲を意識して射程ぎりぎりのマルロワからシャルリ=オラドゥールへ続いていました。

 このマルロワとシャルリの両部落は周辺より高台にあり、この地方に点在する他の部落と同じく、数十戸ほどの家屋は「ロレーヌ風」に設えたレンガと石造りのしっかりした建物で、これらは銃撃拠点として即利用可能です。マルロワの西はモーゼル川があり、シャルリの東には高地上に深いファイイの森があって、これは両拠点の天然側面防御となります。しかしこの陣地線は仏軍が北進した場合には有効でも、東進した場合、ファイイの森とその南側の高地尾根が邪魔となって、仏軍を北から制することが可能となるのは、ただその南側の前哨拠点ルピニーの小部落だけとなるのでした。


 ルトンフェ付近からモントワ=フランヴィル、ヴァントゥを経てサン=ジュリアンの南でモーゼルに注ぐヴァリエール川の支流で、サント=バルブ付近を水源としセルヴィニー(=レ=サント=バルブ)~ノワスヴィルと流れてヌイイの西でヴァリエール川と合流するカラント川は、深い渓谷を造って「メッス高原」を南北に分断しています。

 普軍はこの渓谷の南を「ボルニー高地」、北側を「サント=バルブ高地」と呼んでおり、「コロンベイの戦い」と同じくこの項でもそれに習って呼ぶことにします。


挿絵(By みてみん)

コロンベイ戦ヴァリエール渓谷でのベントハイム普第1師団長


 カラント渓谷の北側・サント=バルブ高地には森林が多く、その間に広がる階段状の丘陵地帯に麦やワイン用のブドウ園が点在するのどかな田園風景が見られました。南側・ボルニー高地も小林と穀物やジャガイモ畑が交互にひろがり、防衛適地の小部落が点在していました。

 普第1師団はこの地域に包囲網を築いており、ザールルイ街道(現国道D3号線)とブレ=モセル街道(現国道D954号線)、そしてザールブリュッケン街道(現国道D603号線)を遮断しています。特にザールルイ街道南のポワックスからセルヴィニーには重厚な主陣地線が敷かれ、仏軍の北東方面への突破に備えていました。しかし、この陣地の場所は西方1キロ先にヌイイへ続く谷を控え、その西側メ部落の北には高地もあって決して平坦ではなく、この陣地線から3キロ以上西を見通すことは不可能でした。従ってこの陣地付近からの砲撃は観測が困難となり効果が疑問視され、砲兵の展開はこの陣地線の前後正面数百メートルの幅と、かなり狭い地域に限られることとなったのです。

 しかも砲兵陣地を歩兵散兵線の後方に設置した場合、仏軍がポワックス又はセルヴィニーに接近すると、その地形から部落が邪魔となって敵を直射出来なくなるという欠点もありました。


 このポワックス~セルヴィニー間はメッスから東側サント=バルブ方面へ進出する場合に必ず通らねばならず、普第1師団の陣地線はかなり強固に設えられますが、その陣地側面は高地の斜面となってブドウ畑が広がり、ブドウは収穫前で葉も茂り視界を遮っていたのです。

 特に普第1師団の陣地右翼(北)はサント=バルブ高地の南縁の谷に接しており、ここはポワックスから死角となって簡単に侵入を許す可能性がありました。しかもこの部分は普予備第3師団陣地線左翼からも死角となり、前述通り敵を側撃することが出来ませんでした。


 更にこの普軍の弱点部分は普第1師団の南側にもあります。

 ノワスヴィル部落は、この地に野戦病院があったため当初陣地は存在しません(これもジュネーブ条約にある約束事です)でしたが、26日の「仏軍北進未遂」で部落が一時仏軍に占領され、この部落の重要性が浮き彫りとなったため、野戦病院移設後の27日に普第1師団が進出して陣地を設置します。これによりノワスヴィル部落とその南のビール工場は普軍前線の突出部となりますが、仏軍が再度北進を謀る31日になっても未だ防御工事は半ばとなって陣地の強固さは中途半端な状態だったのです。


 ノワスヴィルの部落はサント=バルブ方面(東)に向かってなだらかに傾斜する斜面にあって、その北西角には立派な庭園のある邸宅がありました。この邸宅は部落の境界壁の外に突き出していて西側には目立つ壁がありました。普軍はここを拠点としてその前方(西)200m付近に散兵線を作ります。部落西側には鹿砦線を築き、これはセルヴィニー側(北)にある谷へ折れ曲がる形でも作られ、また南側ビール工場との連絡道路沿いにも作られました。

 このビール工場は高地の尾根西端にあって周囲には建物はおろか木立もなく、西側からは数キロ先からでも目立つ石造りの建物となっていました。このため、普軍にとってはノワスヴィルとセルヴィニーの陣地南側の重要な側面防御拠点となり、いざ戦闘となった場合、仏軍砲兵格好の目標となるだろうと予測されたのです。


 ビール工場の南側はロヴァリエール(ノワスヴィルの南西1.5キロ)へ突き出た尾根があり、その南側は急斜面となって下り、北ヴァリエール川の流れるモンティニの部落となります。

 ここから南側が普第2師団の防衛任地で、14日の「コロンベイの戦い」の主戦場でした。


 この方面はボルニー高原西側の広い台地で、コロンベイ(ノワスヴィルの南南西3.3キロ)~アル=ラクネイー、メルシー=ル=オーまでの間に雑木林と畑地がタペストリー状に広がり、そこに数軒から30軒ほどの部落が点在していました。

 先述通り第2師団の兵力ではここから普騎兵第3師団の任地(右翼端はペルトル)までを防衛するのは困難だったため、師団は前哨には鹿砦や肩墻などの防御施設を作らず、第一線のみに軽い防御陣地を作り、簡易な防御を施したアル=ラクネイー部落とラクネイー部落(クールセル=シュル=ニエの北1.5キロ)、そしてコロンベイ~メルシー=ル=オー間に敷いた散兵線を主陣地としていました。


 仏軍はこのメッス要塞北~東に3つの分派堡塁を有し、特に北のサン=ジュリアンと南東のクールは強力な拠点で、ここに存在する要塞重砲は周辺3キロ以内を制して、仏軍北進の際に強力な後援となり得ます。普軍側は敵歩兵や野砲だけでなく、この重砲弾にも気を付けて戦うこととなるはずでした。


挿絵(By みてみん)

普軍の砲兵


☆ 8月31日 メッス要塞東側・モーゼル東岸の独攻囲軍配置


○普予備第3師団

*混成歩兵旅団

・第19「ポーゼン第2」連隊 マルロワ

・第81「ヘッセン=ナッサウ第1」連隊 シャルリとルピニー

*後備第5旅団

(ヴェストプロイセン後備混成歩兵、ニーダーシュレジエン後備混成歩兵連隊)

*後備第6旅団

(ブランデンブルク後備混成歩兵第1、ブランデンブルク後備混成第2歩兵連隊)

・予備竜騎兵第1連隊

・予備重騎兵第2連隊(1個中隊欠)

 以上、オルジー周辺に展開


*砲兵

・第11軍団混成砲兵大隊(予備軽砲第1,2,3中隊) オルジー

・第5軍団予備砲兵重砲第1中隊 マルロワ

・同 重砲第2中隊 シャルリ

・同 軽砲第1中隊 前記中隊の中間(アンティリー街道の東側)


○普第1師団

*第1旅団(擲弾兵第1「オストプロイセン第1」、歩兵第41「オストプロイセン第5」連隊)

 ファイイ~ノワスヴィル~ビール工場

*師団砲兵(野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊・重砲第1,2、軽砲第1,2中隊)

 ポワックス東郊外

*第2旅団(擲弾兵第3「オストプロイセン第2」、歩兵第43「オストプロイセン第6」連隊)

*軍団砲兵(野戦砲兵第1連隊・重砲第3,4、軽砲第3,4、騎砲兵第2,3中隊)

 以上、ヴレミ~サント=バルブ

*竜騎兵第1「リッタウエン」・第10「オストプロイセン」連隊 モントワ(=フランヴィル)の南北郊外前哨線


○普第2師団

*前衛 第45「オストプロイセン第8」連隊 コロンベイ~ラ=グランジュ=オー=ボワ

・第1大隊(前哨陣地に配置)

・第2大隊(第1大隊と交代のため準備中)

・フュージリア(F)大隊(アル=ラクネイーへ移動中)

*左翼側衛 擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊F大隊(フロンティニーへ移動中)

*本隊 クールセル=シュル=ニエからラクネイーの本陣地へ移動中

・第3旅団(擲弾兵第4、歩兵第44「オストプロイセン第7」連隊)

・擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊


◯騎兵第3師団

*騎兵第6旅団(胸甲騎兵第8「ライン」、槍騎兵第7「ライン」連隊)

 セイユ川西岸前哨線に展開

*騎兵第7旅団(槍騎兵第5「ヴェストファーレン」、槍騎兵第14「ハノーファー第2」連隊)

 ペルトル付近前哨線に展開


◯第28旅団(第53「ヴェストファーレン第5」、第77「ハノーファー第2」連隊)

・驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊第1中隊

・野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊重砲第3、軽砲第2中隊

(以上第7軍団傘下)

 プイイとその北前哨線


ノワスヴィルの戦い直前のモーゼル東岸両軍布陣


挿絵(By みてみん)


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