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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ストラスブールとメッスの包囲、沿岸防衛
313/534

メッス包囲戦(前)/バゼーヌ軍包囲突破を謀る

 

 メッスは一大要塞で、攻城砲や攻囲軍を用意出来たとしても攻略に数ヶ月を要することは誰の目にも明らかでした。

 また、直前の会戦で無謀な突撃による過大な流血を見たカール王子は、自ら攻撃せずに「ひたすら敵の出撃を待つ」作戦に出ます。普軍将兵はこの「待ち」の態勢を整えるため包囲網構築に奔走しますが、先述通りこの8~9月の悪天候は普仏等しく将兵を悩ませ続けました。

 長雨は盛夏とは思えぬ寒気を伴って兵士の体調を狂わせ、先述の様に少ない食料の足しにとワイン用のブドウを食べた兵士たちは、熟し切らない青いままの実を食べ続けたため腹痛と下痢に襲われるのです。


 徴発続きのメッス周辺部落では、包囲線の内外で対照的な光景が見られます。

 仏軍支配地域では上官の目を盗んで(または黙認で)「個人的な徴発」即ち泥棒が横行し、住民たちは自分たちの食料が強奪され、畑が荒らされるのを見て怒りに震えていました。

 普軍支配地でも徴発や強制苦役が相次ぎますが、この頃の普軍将兵は住民に対して大抵が慇懃に、無礼を働かぬよう士官の監視下で規律正しく行動し、折から収穫期となったブドウの摘み取りは普軍保護の下、普仏どちらからも妨害されずに行われ、手隙の兵士が手伝う光景すら見られるのでした。


 このように8月中の包囲初期において普仏両軍は本格的衝突を生じなかったとはいえ、両軍斥候は積極的な偵察行動を続行して包囲線各所で小戦闘が発生しています。


 特にモーゼル西岸には両軍の主力が控えていたこともあり、偵察活動は活発でした。

 メッス要塞の分派堡塁も警戒を怠らず、仏軍守備隊は普軍の動きを見つけるなり銃砲火を放ち、普軍の偵察行や包囲網構築作業を妨害しました。

 普第6旅団長のルートヴィヒ・エーベルハルト・フォン・デア・デッケン大佐は8月25日、巡察のため部下が陣地線を構築中のプラップヴィル高地上・サン=モーリス農場付近を騎行中に銃撃を受け、足首に負傷します。大佐は療養中に少将へ昇進しますが様態が悪化(破傷風と思われます)し、71年3月14日ハイデルベルクの陸軍病院で死去しました。


 先述通り攻囲軍司令官カール王子は諸情報を吟味して「仏軍がメッス要塞を出て解囲を謀る可能性が高い」と考えており、攻囲軍は幾度か緊急集合令を受けています。

 8月23日黎明時、要塞北部の仏第3軍団は、歩兵3個大隊・騎兵2個中隊・砲兵1個中隊の支隊を編成してサン=ジュリアン分派堡塁より東へ出撃し、普第1師団の前哨線に近付きますが、なぜか戦闘に至る前に要塞へ引き上げてしまいます。

 また、普予備第3師団主陣地後方にはティオンビル要塞から派出されたと思われる仏軍斥候が幾度も現れ、普軍斥候隊に目撃されると戦闘に至る前に逃走しています。


挿絵(By みてみん)

近衛驃騎兵連隊制服姿のカール王子


☆ ティオンビル要塞


 ティオンビルはメッスからモーゼルを下ること27キロにある大要塞で、8月中旬には3,500名の守備隊、その実約6割の人員が訓練不足の護国軍部隊という状況にありながら209門の各種大砲を擁し、8月15日にはグナイゼナウ(Jr.)少将率いる普第31旅団の奇襲を退けました。

 その後普軍側は少数の騎兵を監視任務に置くだけで、大きな包囲行動を起こしませんでした。

 しかしメッスの包囲が始まると、その北面に当たるモーゼル下流に敵の拠点を放置しておく訳にはいかなくなります。


 普大本営は8月20日頃、何かと仏に同情的なベルギーに睨みを利かせていたケルン市の防衛指揮官、ルートヴィヒ・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ボートマー少将を師団長格の中将に昇格させ、ザールブルク(トリールの南南西17キロ)にライン州の後備部隊による支隊*を準備させます。これに第一軍の後方兵站部隊だった正規部隊・第65「ライン第5」連隊を加え、ティオンビル要塞に対応することに決定しました。


※「ボートマー」支隊(8月22日)


○後備歩兵第28「ライン第2」連隊

・「ジークブルク」大隊

・「ブリュール」大隊

○後備歩兵第68「ライン第6」連隊

・「ノイス」大隊

・「ドイツ」(Deutz。ケルン市ライン東岸地区)大隊

○予備驃騎兵第4連隊

○第7軍団・予備重砲第1中隊


 8月22日、第一軍兵站部隊と共にコルニーにいた第65連隊第1とフュージリア(以下F)大隊はティオンビル要塞を監視すべく北東へ行軍を開始し、24日にカネ川(ティオンビルの東を流れるモーゼル支流)河畔に達するとF大隊はケダンジュ(=シュル=カネ。ティオンビルの東南東13.5キロ)に、第1大隊はコエニヒスマッカー(独名ケーニヒスマッカー。モーゼル河畔カネ川合流点。同東北東9キロ)にそれぞれ移動して前哨をティオンビル方面へ出しました。シエルク=レ=バン(コエニヒスマッカーの北東8キロ)に駐在する第一軍の兵站部隊(後備第69「ライン第7」連隊主幹)は、予備驃騎兵第6連隊の第1中隊から2個小隊を割いて、それぞれ1個小隊(40騎程度)を各大隊に対する支援として送り出します。


 同じ頃、カール王子もモーゼル西岸においてティオンビル方面を警戒させるため、第9軍団に命じて前哨部隊を前進させました。


 8月24日、命令を受けた第25「ヘッセン大公国」師団の2個猟兵大隊は、ヘッセン(H)・ライター騎兵第2連隊から1個中隊を同行させるとオルヌ川下流方面(北東モーゼル河畔)へ前進します。

 H猟兵支隊はこの日、アゴンダンジュ(メッスの北15キロ)からロンバ(アゴンダンジュの西5.5キロ)まで前哨警戒線を敷き、翌25日、ティオンビル要塞を偵察するため斥候隊を派遣します。

 偵察斥候隊はオルヌ川を越えモーゼル西岸を北上、ウッカンジュ(ティオンビルの南6キロ)を過ぎてティオンビル要塞都市南西郊外のテルヴィルから要塞に近付きますが、ここで仏軍守備隊に発見され、短時間の銃撃戦により守備隊を要塞内へ撃退した後帰路に就きました。


 H猟兵たちより大胆にティオンビル方面を偵察したのは、名門貴族の一員であるカール・ヴィルヘルム・ハインリッヒ・フォン・クライスト大尉(後に騎兵大将)が率いる普驃騎兵第10「マグデブルク」連隊の第1中隊でした。

 大尉の中隊はフォン・ラインバーベン将軍の騎兵第5師団所属で、8月12日、本隊から離れナンシーに「独軍一番乗り」を果たした後、騎兵第4師団の市内入城を見届けます(14日)。その後同僚にロレーヌの中心都市を任せた後、更に西方マルヌ河畔のミュセ(=シュル=マルヌ。ナンシーの西南西83キロ)まで偵察を行うと反転北上し、「グラヴロット会戦」直後連隊に帰還しました。

 この長距離斥候能力(明晰な頭脳と大胆不敵な行動力が必要です)だけでなく、騎兵旅団や歩兵師団の本営で幕僚を歴任し参謀経験もあるフォン・クライスト大尉は帰還直後、ティオンビル北部の偵察を命じられたのです。

 大尉は中隊を引き連れ、この25日ティオンビル要塞の北方地方を偵察し、ルクセンブルク国境まで達するとカンファン(ティオンビルの北北西10キロ)付近でティオンビル~ルクセンブルク鉄道を破壊し運行を遮断するのでした。


挿絵(By みてみん)

普驃騎兵第10「マグデブルク」連隊の中尉


 カール王子はまた、モーゼル東岸でも「ボートマー支隊」支援に兵力を抽出させます。


 王子は予備第3師団の予備驃騎兵第3連隊と予備重騎兵第2連隊、それに後備歩兵第59「ポーゼン第4」連隊の「オストロヴォ」大隊を予備騎兵第3旅団長カール・テオドール・フォン・ストランツ少将に預け、一部をモーゼル西岸に渡河させてティオンビル目指しモーゼル両岸を北上させたのです。

 部隊はその前哨線をクンイグ(独名クンツィヒ。ティオンビルの東5.3キロ)~ユッツの森(同南東3キロ。現存せず)~イランジュ(同南3.4キロ)~川を越えて西岸のベタンジュ城館(同南西4キロ付近。現存)までに敷きました。主力は東岸のイランジュ付近と西岸のフロランジュ(同南西5.3キロ)付近に待機します。

 この後方では、万が一の独第二軍北上に備え、一時取り外されていたリシュモン(同南8.5キロ)付近のオルヌ川橋梁は架け直され、逆にアルデンヌ鉄道のティオンビル~メッス間はティオンビル要塞南のガシオン地区で再び破壊されました。

 仏軍守備隊も護国軍兵による少数の巡察隊を発して普軍前哨に銃撃を浴びせますが、雑なヒット・エンド・ランに徹する仏軍に対し損害はほとんどありませんでした。

 なお、部隊の北上により一時無防備となっていたウッカンジュには西側からH猟兵支隊が1個中隊を派遣し、「ストランツ支隊」後方の安全を保証するのでした。


 H猟兵や「ストランツ」支隊の前進で味方を得た第65連隊の2個大隊は、8月28日に前哨線を撤去して前進し、ビービッヘ川(カネ川と並行し、更に4キロ前後ティオンビル側を流れるモーゼル支流)の線まで進み、F大隊前衛は一気にオート・ユッツ(ティオンビルの南東郊外2キロ付近)まで、第1大隊の前衛はバッス=アム(同北東6キロ。ビービッヘとモーゼル合流点)に進みました。

 同時に第一軍兵站部隊のシエルク=レ=バン駐在部隊は第65連隊の去ったコエニヒスマッカーに前進し30日、付近のモーゼル川に人道橋を架けた後、命令を受けて兵站集結地コルニーへ前進して行きました。

 この頃ケルン要塞から本隊に合流すべく行軍して来た第65連隊の第2大隊は、第1大隊のいるバッス=アムに到着し、余裕の出来た第1大隊はモーゼルを渡河、エエッタンジュ=グランド(ティオンビルの北6キロ)まで進んで陣地を構築し始めます。


 結局、8月はこの30日に至るまでティオンビル要塞守備隊と普軍の本格的戦闘は発生しませんでした。


☆ 仏バゼーヌ軍の前線突破計画


 メッスに封じ込められたアシル・バゼーヌ大将は、グラヴロット会戦後に急ぎ収集したメッス周辺の偵察情報から、「敵の兵力が著しく減少した」と判断し、「今や突破の機会」と考えて8月23日、ナポレオン3世皇帝に向け、「計画された敵戦線突破を実行し、敵本軍との全面衝突を避けるため、行軍路はアルデンヌ鉄道沿いの北部国境方面としたい」との主旨の電信を発しました。


 バゼーヌ大将は本営幕僚と突破計画を練り、24日、正式に全軍のメッス脱出が決定されます。

 この計画に因れば、26日早朝に主力は渡河して仏第3軍団の待つモーゼル東岸に集合し、独軍をモーゼル河畔に誘引した後に戦闘、味方有利に進行すればモーゼル下流ティオンビル方向へ向かい包囲網を突破する、というものでした。

 戦後の諮問会議においてバゼーヌは「シャロン軍の前進を知ったのは29日になってからであり、自分の突破計画はそれ以前に計画されていたので、マクマオンの前進に促された訳ではない」と主張し、「熱意なく成り行き任せに軍を指導した」との追求に反論しています。

 ここで、何故バゼーヌが「敵の兵力が著しく減少した」と判断したのか理由を考えると、モルトケの戦略による「第二軍の分割」(マース軍の編成)で2個(普近衛とザクセン)軍団が去ったことと、カール王子による命令で包囲がやや北に偏ったことにより、バゼーヌは独軍の全体像を見誤ったのではないか、と考えられます。


 バゼーヌ大将の命令は25日夜に発令され、メッス要塞司令官はモーゼル西岸にいる部隊の渡河に備え、シャンビエール島に2本の架橋を命じられました。


 この命令により、唯一モーゼル東岸に進んでいたルブーフ大将の仏第3軍団は26日早朝、ザールルイ街道(現国道D954号線)とメ(メッスの東北東4.7キロ)東郊外森林との中間付近に集合しますが、西岸の部隊はモーゼル渡河に想定外の時間が掛かり、ようやく正午頃になって東岸へ進出しました。

 この時の布陣は、北東向きの仏第3軍団を先頭に、その後方にフロッサール中将の仏第2軍団、その左翼(北)にラドミロー中将の仏第4軍団、その左翼にカンロベル大将の仏第6軍団と連なり、第6軍団はモーゼル川を左に見て真北に向きました。また、仏近衛軍団と砲兵予備隊はモーゼル西岸に留まり、騎兵集団のいるシャンビエール島に各軍団の輜重が集合するよう命令が下りました。


 この全軍前進を援護するため、仏第3軍団の前哨には普軍前哨に向けて銃撃を行うことが命じられ実行に移されます。


 これは西岸諸隊が渡河を終える正午まで盛んに続けられましたが、所々では午後に至るまで延長され、一時はかなり激しい銃撃戦となりました。

 これにより、包囲網でも薄い部分となる普第2師団の前哨では危険な部分が現れ、ラ=グランジュ=オー=ボワとコロンベイ付近の前哨は拠点と塹壕を捨て、数百メートル後退する羽目となります。普第1師団のノワスヴィル守備隊(1個中隊)は仏第3軍団の真正面となり、孤立する危険が見えたため、2キロ北のセルヴィニーまで後退するよう命じられて退き、仏軍は空かさずノワスヴィルを奪還するのでした。

 普予備第3師団の前哨でも激しい銃撃戦となり、普軍前哨に数倍する仏軍部隊がサン=ジュリアン分派堡塁北東のグラモンの森に集合し、午前10時には森縁から前進を始めましたが突撃には至らず、対峙した普軍の前哨線が退くことはありませんでした。


 この仏軍の初動は、各所に設けられていた普軍の監視哨から早々に発見されます。

 監視哨の指揮官たちは続々と報告を上げ、カール王子は早期に仏軍の北上を悟りました。しかし、王子が何か手を打つ前には、各軍団長が事前の軍命令に定められた方針に沿った「独断」を発揮していました。


 フォークツ=レッツ大将の普第10軍団は、思い切り良く主力歩兵10個大隊を一斉にモーゼル河畔まで前進させ、これに軍団砲兵隊が続きました。集合した部隊は完成したばかりのアルガンシーの軍橋を渡り、東岸の橋頭堡周辺(予備第3師団本隊の直ぐ北側)に素早く展開します。

 その後方(西)ではマンシュタイン大将麾下第9軍団のH師団がオーコンクールの軍橋橋頭堡目指して前進を開始し、第18師団もマランジュ(=シルヴァンジュ)まで進み出ました。

 予備扱いのコンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将率いる普第3軍団は緊急集合を発令し、サン=プリヴァとアマンヴィエ周辺に、西岸包囲網の「要」である普第2軍団はシャテル渓谷とノロワに、それぞれ集合を始め、両軍団とも何時でも北進出来るよう準備を始めるのでした。


 一方、仏バゼーヌ軍はモーゼル西岸にいた部隊の渡河が遅れ、昼頃にようやく東岸での戦闘準備が整ったため「奇襲要素」を失って攻撃に移行出来ずにいました。カール王子としては、この集合した敵がメッス要塞とその分派堡塁の庇護から抜け出す時が逆に「戦機」となるのです。

 そのため王子は今後の作戦として「第二軍と騎兵第1師団で飛び出した仏軍を攻撃し、第一軍と騎兵第3師団はそのままメッス包囲を維持する」との方針を押し進める決心をします。その核心部分は、「第二軍は仏軍の先回りをしてティオンビルの南、モーゼル川東岸で待ちかまえて決戦する」というものでした。


 午後1時30分、カール王子は既に動き出した4個軍団の行動を追認すると、騎兵第1師団に対し「直ちにアマンヴィエまで前進し後命に備えよ」と命令、第8軍団には「第31旅団を割いてアマンヴィエへ向かえ」と命じました。この第31旅団の任務は北進ではなく、第2軍団の北進で、その前哨線が「空」となってしまうための交代要員でした。

 カール王子は命令を下した直後、自らも前線で指揮を執るため、本営をドンクールから急ぎマランジュへ前進させるのでした。


☆ グリモン館会議


 バゼーヌ大将は午後2時、計画通りに進行出来ない「解囲攻撃」と今後の行動を協議するため、首脳陣をサン=ジュリアン分派堡塁の直下にあるグリモン館(農園主の館。サン=ジュリアン分派堡塁の東下400mにありますが、現在は廃墟となっている様子です)に集合させます。

 この将官会議にはジャラス参謀長以下本営の幕僚と近衛、第2、第3、第4、第6の各軍団長、メッス要塞指揮官、軍砲兵部長が勢揃いしました。


 この席上、砲兵部長のソレイユ少将は長広舌で訴えたのです。


「我が軍に残された野砲弾は一会戦には間に合うでしょうが、それ以上は賄えません。もし突破が成功したとしても、その後我が軍は砲撃力を失い、従って反撃力のないまま独軍の中間(メッスとシャロンの間)に位置することとなりましょう。我がライン軍が今成すべき重要な任務は突破ではなくメッス周辺に留まることです。なぜならば、我が軍がメッスに留まることでパリに向かっている敵の後方連絡を脅かし、また敵の退却運動を妨害することも可能となるからです。また、万が一政府が講和協議に入るとなった場合でも、メッスを保持していること、仏軍が独軍の後方にあることは講和に有利に働くのは確実でしょう」


 要塞砲や小銃の弾薬は未だ多く残っていたものの、野砲の弾薬はこの変革期の戦争において、それまでの常識以上に大量消費していたため、「メッス近郊三会戦」を見届けていたソレイユ将軍も焦りを覚えていたことでしょう(これは仏軍に限ったことではなく、普軍側も野砲弾の消費拡大に危機感を覚えていました)。

 いずれにしても、このソレイユの忌憚ない意見具申は、居並ぶ将官たちにある種の感銘を与えたと言います。


 フロッサール、ラドミロー、ブルバキの三中将軍団長は口を揃えてソレイユに同意し、カンロベル大将も「弾薬欠乏は問題」と攻撃続行に反対します。

 元陸軍大臣で前参謀総長のルブーフ大将も「諸官に同意する」とし、「軍を保全することは国家のため最大の功績となろう」(後の世の艦隊保全主義と同様の考え方)と述べました。この時、ルブーフ将軍は「糧食の現状はどうしたものだろうか」と問い掛けますが、これに関しては何故か「うやむや」にされ討議されることがありませんでした。

 メッス要塞指揮官(兼・軍工兵部長)のコッフィニエール・ドゥ・ノルティエック少将は今朝方の出撃に際しても強硬な反対意見を述べていて、この会議においても切々と要塞の状況を語ります。

「メッス要塞は各所が補強工事途中であって防御は完全ではなく、正攻法の攻城においては2週間持てば吉と言った所でしょう。野戦軍は要塞庇護下に留まるべきです」


 バゼーヌ大将はこの会議において黙して語らなかった、と言います(諸説ありで、積極的に籠城を語ったとの資料もあります)。どちらにせよ、会議終了後の午後4時、軍を従前の位置まで戻すよう命令が下りました。

これにより諸軍団は再びモーゼルを渡河しますが、フロッサール将軍の第2軍団のみは仏第3軍団と並んで東岸地区の防衛のため、セイユ川西岸の要塞南部地区へ進みました。


 この日(26日)夕刻、バゼーヌ大将はパリの陸軍省に宛てて次の電文を発しています。


「我がライン軍は未だメッス付近にあります。砲弾はただ1回の会戦を行うだけの数量しかありません。この状況から本官は敵の厚い包囲を破って突破することを不可としました。本官はこのところ僅かなりともパリからの情報に接しておりません。また、人民の動向も知りません。これら情報を送って頂きたく切に願います。もし内国部から攻撃運動を起こし敵からの解囲を図って頂けるのであれば、本官は(要塞外に出て)大いに戦うでありましょう」

 

 この電文は仏陸軍省(大臣は首相のパリカオ伯爵が兼務しています)に受領され、「シャロン軍」のマクマオン将軍の「質問」(メッスを出たはずのバゼーヌ軍は何処に?)への回答として翌27日、ル・シェーヌ在のマクマオン将軍に以下の電文を送付します。

「8月25日において、バゼーヌ大将率いるライン軍はメッスにあり」


 この電文は「シャロン軍」指揮官マクマオン将軍の「心」を折ってしまうのでした(「8月28日(前)シャロン軍の迷走」を参照のこと)。


挿絵(By みてみん)

 1870年のサン=ジュリアン堡塁


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