ストラスブール攻囲戦(前)/大聖堂燃ゆ
☆ 8月24日朝から25日朝まで
8月23日の夜間において仏軍ストラスブール要塞防衛軍は、独攻囲軍が初めて行った本格的市街地砲撃の対処に追われたのか、攻囲軍による要塞外郭への接近に対し反撃らしい反撃を試みませんでした。
しかし夜が明け24日の早朝となると、仏軍は目が覚めたかのように要塞障壁や外堡から独の前哨部隊に対し、シャスポー小銃や固定大口径銃による射撃を開始したのです。
同時に要塞砲兵たちも独砲台が構築されつつあるシルティカイムから北西方向に対し砲撃を開始しました。
クローネンブルクの東、貨物停車場南側の家屋群ヴォルシュタットに前哨線を敷く普フュージリア第34連隊第7中隊に対しては、早朝より要塞から突出している第44眼鏡堡より盛んに狙撃が行われ、午前11時過ぎには仏の正規兵、戦列歩兵第87連隊の一部がこの眼鏡堡後方から出撃に及び、独フュージリア前哨兵は「多勢に無勢」とばかりに最前線の散兵壕を脱し、中隊共々クローネンブルクの本陣地へと撤退します。出撃した仏軍は、クローネンブルクの入り口に陣取った普第34連隊第2大隊から猛射撃を浴びると、早々堡塁後方へ撤退して行きました。
しかし、この後も仏軍はクローネンブルクに対して執拗に銃砲撃を続けたため、攻囲軍は急遽増援をその後方、オベルアウスベルジャンに用意するのでした。
この戦闘により普第34連隊第7中隊は30名が負傷し、逃げ遅れた数名の負傷者は仏軍に拉致され捕虜となっています。
他方、シルティカイム方面に対して仏軍は規模の大きい斥候隊を送りますが、嫌がらせ程度の銃撃を行っては撤退を繰り返すだけに留めました。
仏軍の要塞砲兵はこの日、攻囲軍後方地域に対し殆ど砲撃を行わず、ただ、普近衛要塞砲兵連隊第1中隊が第7号砲台(サン・テレーヌ墓地の北西)の築造作業を完了して帰途に就いた時、仏要塞から狙い澄ましたかのような砲撃が開始され、行軍列中で炸裂した榴散弾が数名の負傷者を生んだのでした。
これとは対照的に、攻囲軍ヴェルダー将軍と要塞防衛軍ウーリッシ将軍との間で因縁となっているライン東岸ケールの諸砲台では、この日(24日)仏軍との激しい砲戦が行われます。
Ba軍のケール攻城諸砲台(ケール第2,3,5,6号)はヴェルダー将軍の命令に従い、午後2時まで途切れることなく城塞地区を中心に砲撃を行い、城塞では消し止められない火災が発生しています。逆にケールでは、仏軍が市街東方を流れるキンツィヒ川や南を流れるシュター川流域に架かる橋を目標に、午後3時に至るまで猛砲撃を続けたため、徴発した馬匹がこれに驚いて全く働かなくなり、諸砲台は一時弾薬砲弾不足に陥ったのでした。
砲撃を受けるケール
この砲撃は夕刻、お互いに自然休止となりますが、独攻囲軍が同日午後8時に全砲台による砲撃を再開することで再び激しい応酬となります。
24日から25日にかけての夜間もまた雨が止まず、暗闇の中、砲火と火災だけが不気味に低い雨雲を紅く染めていました。
Ba野戦砲兵の6個中隊はこの夜、要塞の南側に対して初めて本格的な砲撃を加え、エックボルスハイム付近とオベルアウスベルジャン付近にあった残り2個中隊も要塞西地区に対し砲撃を行います。
ケールの諸砲台は、要塞東地区の城塞とシュポレン島から盛んに撃ちかける仏軍の臼砲に対して榴弾砲撃を集中し、これらを沈黙させた後、今度は焼夷弾に換えて市街地を砲撃するのでした。
ケールの砲台
独要塞砲兵が23日夜にシルティカイムからケーニヒスホーヘンにかけて築造した諸砲台は、夕刻には準備のなった第6から第13号砲台が午後8時に砲撃を開始し、以降第1と第4号が午後10時、第2,3,5号が翌25日午前3時から、と準備完了と共に続々夜間砲撃へ参加し、その一部は夜明けから夕方まで断続的に砲撃を続けました。
野戦砲兵たちも深夜、激しい火災で浮かびあがるストラスブール市街に対し、無差別に焼夷弾の雨を降らせ続けたのでした。
この猛砲撃により、市内では多くの建造物が炎に包まれ、貴重な歴史遺物や絵画、美術品を保管していたストラスブール図書館や美術館、そして新教会の聖堂も貴重品共々全焼してしまいました。ケールから「狙われた」城塞では武器庫が焼失し、多数の車輌、武器、資材装具が灰燼に帰したのでした。
炎上する市街(エミール・シュヴァイツァー画)
短時間で大損害を受けた要塞市街では、仏の要塞砲兵が怒りに燃えていましたが、その反撃はほとんど「手探り」の状態で行われており、ケールや一部の野砲陣地以外、あてずっぽうに大よその方角へ対抗射撃を送るのみでした。これは雨天が助ける暗闇の夜間に砲撃が行われ、至近で燃える建造物の火焔で目が眩んだ仏砲兵たちは測距もままならず、包囲下で敵砲の情報(砲の種類や口径、射程など)も全く無いのでは、独砲兵に殆ど損害を与えることが出来なかったのは当たり前と言える状況だったのです。
但し、エックボルスハイム郊外に砲列を敷いていたBa野戦砲兵重砲第4中隊だけは何故か盛んに応射され、本物の雨ばかりでなく泥を跳ね上げる榴弾の雨にも耐えながらの砲戦となりました。
☆ 8月25日朝から26日朝まで
明けて25日早朝、仏軍は前夜の復讐とばかりにケーニヒスホーヘンに対し激しい攻勢を仕掛けます。
この衛星市街にはこの朝、Ba第4連隊の2個大隊が展開しており、前哨と本隊とに分かれて配置に着いていました。
この市街北にある第1号「カノン砲」砲台は、黎明午前4時から砲撃を再興しますが、これに対し要塞は猛烈な応射を行い、稜堡からはケーニヒスホーヘン東端の前哨陣地に対し激しい小銃と大口径固定銃の射撃が浴びせられました。これは塹壕の土堤を削り崩してしまうほど凄まじいもので、堪え切れなくなったBa第4連隊第7中隊の前哨は任地のサン=ガル墓地から市街西部の本陣地へと後退します。
午前9時頃、要塞から歩兵が出撃し、樹木が茂り高台となった要地サン=ガル墓地が奪還されました。更に仏軍はここへ軽野砲2門を引き入れ、部落北に並ぶ3つの独砲台を狙ったのでした。
Ba第4連隊長のバイヤー大佐は、予備となってカルトハウゼ(サン=ガル墓地の西1.5キロ付近。ブリュシュ運河の北にあった家屋群)に待機していた第6中隊に、反撃して仏軍を要塞へ追い返すよう命じます。
中隊は午前10時15分、ブリュシュ運河に沿って南からケーニヒスホーヘンへ接近し、ユーデンキルヒホーフ墓地まで進出していた仏軍前哨から銃撃を浴びたものの、この墓地に突撃して仏散兵を駆逐しました。直後に中隊は犠牲を厭わない真っ向からの全力突撃をサン=ガル墓地に対し敢行し、少なくない犠牲の上で仏軍を追い落とし墓地を再占領しました。しかし仏軍は要塞から猛烈な銃撃を加えたため、中隊は一旦墓地から退却し、遮蔽された安全地帯で様子を伺うこととします。
この後Ba部隊は、斥候を墓地が見える位置に置いて監視を続け、夕闇が迫る中で銃撃が疎らとなると、墓地に半個小隊を送り前哨を復活させたのでした。
この日午前中、仏軍は活発に行動し、要塞重砲は昨晩焼け落ちた市街地に対する仕返しのつもりか、要塞に接近している独攻囲軍前哨線を激しく叩きました。
これに続いてエックボルスハイムやシルティカイムなどの宿営にも榴弾が落ち始め、シルティカイムでは一時宿営から全員が避難する羽目となったのです。
因縁の争いとなったケール「対」城塞の砲戦は、この日も激しく延々と続きました。
仏軍はこの日、野砲1個中隊をシュポレン島へ進め、Ba砲台とケール市街を近距離から狙います。この砲戦によりケールの鉄道停車場は炎上し、夕刻までにケール市街もその西側半分が灰燼に帰したのでした。
砲撃で被災し屋根の落ちたケール停車場
しかし、午後に入ると対ケールとの砲戦以外仏軍の動きは鈍化し、要塞重砲も砲撃の間隔が開き始め、やがては止んでしまいます。
午後5時。要塞から僧服の一団がシルティカイムの攻囲軍前哨線にやって来ると「市街地の庇護について話したい」と懇願しました。
前線の指揮官が対応すると、彼らは大聖堂(ストラスブール・ノートルダム・カテドラル)の司祭たちで、「ウーリッシ司令官の許可を得て」要塞の外へ出たと語りますが、「市街地や住民の安泰を願う」だけで「開城等を話し合う一切の権限は持っていない」と話すのです。指揮官は直ちにこの旨をムンドルスハイムの攻囲軍本営に打電しますが、ヴェルダー将軍は言下のもとに、交渉権のない者の願いは聞き入れられない、と回答、司祭らは肩を落として要塞都市へ帰って行ったのでした。
攻囲軍はこの「自然休戦」の間を利用して、要塞工兵たちは各砲台への連絡路を掘削し、前哨たちは工兵の援助を得て必死で最前線の散兵壕をもっと深く、もっと長く、もっと遮蔽の土盛を積上げるのでした。夜に入ると砲台や前哨は銃砲弾薬の補給を受け、再び「戦う夜」を迎えることとなります。
普軍の攻城砲台
攻囲軍の砲撃は午後11時に開始され、これは攻囲戦前期の砲戦中最大規模となりました。
要塞南部ではBa南支隊を中心とする野戦砲兵7個中隊(重軽砲42門)がマイナウ(オストヴァルドの東北東3.5キロ付近にあった邸宅。現在も庭園が残ります)ワーグホイザー、オストヴァルドに砲列を敷いて参戦、その西側では後備近衛師団砲兵14門(2個中隊と3分の1)がエックボルスハイムの東方に進出して砲撃に参加します。
北方では予備第1師団砲兵2個中隊(12門)がローベルゾ地区から砲撃を行いました。
これら野砲68門の他、ケールと攻囲軍北西側の各攻城砲台からも引き続き激しい砲撃が続きました。
要塞からは当初激しい応射がありましたが、これも時間の経過と共に尻つぼみとなり、日付が変わる頃ともなると、すっかり対抗砲撃は止んでしまいます。これは独攻囲軍の砲撃による直接の影響ではありません。攻囲軍はこの夜、要塞諸設備を無視して市街地を重点目標にしており、焼夷弾ばかりを使用して猛砲撃を繰り返していたからでした。
消火救援活動に従事しているのか、要塞堡塁からの歩兵による反撃もまたありませんでした。この機会を捉えた普後備近衛第1連隊第5,6中隊の前哨兵は、仏兵に遭遇することなく火焔でシルエットとなった要塞の南西側斜堤下に達するのです。
この夜発生したストラスブール市街の火災は、市の消防隊や市民、護国軍兵士ら必死の消火活動にも関わらず猛威を振って全市を覆い、26日午前までに仏軍属の製粉所を全焼させ、当時人工建造物世界一の高さ(142m)を誇った大聖堂の木造部分(木組みの梁など)を焼いて、尖塔頂上に命中した一弾はそこにあった鉄の十字架を曲げ、市内停車場と城塞の内部建物は大方焼け落ちてしまったのでした。
砲撃を受ける大聖堂
☆ 8月26日朝から28日朝まで
26日に日付が変った頃、炎に焙られる大聖堂などを観察して砲撃効果を認めたヴェルダー将軍は、午前2時に「後命あるまで砲撃を一切中止せよ」と命じます。これは昨日夕刻の司祭たちによる嘆願を聞いたヴェルダー将軍が、「市街地を焼かれた市民たちは、この砲撃休止中にウーリッシ将軍に圧力を掛け、開城を求めるに違いない」と踏んだ深謀でした。
この命令は少し遅れて午前4時に効力を発し、砲撃が止んだのを確認した将軍は再びウーリッシ将軍に宛て、降伏勧告文を托した使者を送ったのでした。
しかし、要塞からは既に払暁時、猛烈な砲撃が開始されており、また回答期限となっても返答はなく砲撃も収まらなかったため、ヴェルダー将軍は正午から午後1時に掛けて「砲撃再開」の命令を発したのでした。ウーリッシ将軍の回答は夕刻に届きますが、そこには一言「拒絶する」とあったのです。
ここに至って、ムンドルスハイムの攻囲軍本営では「このまま砲撃を続けてもウーリッシ将軍は開城しないだろう」との意見が囁かれ始めます。この砲撃戦が始まった直後に着任したばかりの攻城砲兵司令官フォン・デッカー少将もヴェルダー将軍に対し、「攻城砲の砲弾・弾薬は特殊なために随時補給を受けられるとは限らず、もしこのまま砲撃戦がエスカレートして、消費量が現在より増加すれば、現在の備蓄は直ぐに底を突き、正攻法を行う場合にも大いに不足するはず」と「予言」するのでした。
この日中、ヴェルダー将軍は熟考の上に決断し、「只今より攻囲を正攻法に移行し、第1平行壕が掘削される(要塞と平行して掘削される作業壕で、対壕作戦の初手です)までは弾薬消費を現在の半数(ここまでは砲1門につき1日100発でした)に抑え、昼間は要塞堡塁と要塞砲兵に対してのみ砲撃を行い、夜間はその他施設や市街地に対し砲撃する」と命じるのでした。しかし将軍は、「前方に出した前哨線はこれを維持し、敵の要塞堡塁の修繕作業を妨害して、同時に今まで通り砲撃による市民の『揺さぶり』をも続行せよ」とも命じたのでした。
この方針に基づいて午後から砲撃が再開されます。
命令通り昼間は要塞施設に対し効果のある攻城(要塞)砲台のみが砲撃を行い、夜間になってから野戦砲兵が参加しました。これら野戦砲兵は要塞の南部と南西方、そして北東部ローベルゾ地区に砲を敷き、要塞から狙い撃ちされぬよう時折陣地を転換しつつ砲撃を繰り返したのでした。
※26日夜間から27日朝における攻囲軍野戦砲兵の位置
○Ba軍砲兵4個中隊
ワーグホイザーとオストヴァルド付近
○後備近衛師団砲兵3個中隊
エックボルスハイムの東陣地
○予備第1師団砲兵2個中隊
ローベルゾ地区
※27日夜間から28日朝における攻囲軍野戦砲兵の位置
○Ba軍砲兵4個中隊
マイナウ、ワーグホイザーとオストヴァルド付近
○後備近衛師団砲兵2個中隊
ランゴルサイムからブリュシュ川間
○予備第1師団砲兵2個中隊
ローベルゾ地区
普軍の要塞砲兵
この間、ケールでは唯一野砲を装備していたBa要塞砲兵第1中隊も砲列を敷いて攻城砲台の要塞砲共々夜間砲撃に参加していました。
これら野戦砲兵は、攻囲軍が要塞防壁突破を目的とした「攻城正攻法」に転換したことで28日以降、「後命あるまで砲撃を中止せよ」との命令に従い砲撃を中止しています。
攻城の重要拠点となる要塞北西側では、夜間砲撃期間中に開始された塹壕線と前哨のための掩蔽壕、そして通行のための連絡路の開設工事が急ピッチで行われました。
要塞から度々砲撃を受けていたシルティカイムでは、その北部ホエンハイムからローベルゾ地区へのイル川渡し場まで連絡路が開設され、要塞砲の有効射程から離れた安全な連絡路として逸騎哨も設け、ライン東岸のケールに至る貴重な交通路となりました。
こちらも度々争奪の場となる要塞西のケーニヒスホーヘンでは、前後に重複する塹壕線を数条構築し、前哨の数を倍加させました。
予備第1師団はこの際二つに分割され、その第一線はサン・テレーヌ墓地西の第7号砲台横に展開し、その両翼となる連隊は前哨の他、前哨増援隊(前哨が襲撃された場合直ちに駆け付ける)、第1戦闘予備隊(前哨が襲撃されると直ちに戦闘待機に入り、戦線が突破されそうになると参戦する)を設置すると、アウスベルジャン高地の三部落とシルティカイムからホエンハイムに至る間に宿営地を設け待機しました。
8月27日。
仏軍要塞重砲は、固定大口径銃とシャスポー銃が独前哨からの銃撃を抑えている間にクローネンブルクに対し激しい砲撃を繰り返しますが、仏歩兵の出撃はありませんでした。それ以外の地区では前数日間と比して、まずまず平穏な一日となり夕刻まで至ります。
この日中唯一の騒動は要塞の南方で発生しました。
午後になって、Ba南支隊の前哨線にストラスブール市街地から脱出した市民1,000名余りが集合して投降、これらの難民はケール南のマルレンと更に南のアルテンハイム二ヶ所の渡船場に分かれてバーデン領に送られるのでした。
同日、予備第1師団の後備歩兵1個大隊は、ローベルゾの前哨任務に就いた際、ヴァッケン島へ斥候を送り込みます。
斥候の報告では、「ヴァッケン島をくまなく捜索したものの、既に敵兵は撤退した後で、島の南部において数名の敵斥候が出没しているのみ」とのことでした。
28日、後備近衛師団は、予備第1師団の右翼(西)側に連絡して宿営、前哨任務に就き、予備第1師団はパリへの国際鉄道とライン川との間に全て集合し宿営していました。
ストラスブールの仏消防隊
☆ ストラスブール要塞南部郊外
要塞南部に接する地帯は、攻囲開始前からウーリッシ将軍の命令により氾濫水没地域に指定され、河川から水が引き入れられた結果、Ba師団到着時には既に多くの低地が水没していました。特にイル川からポリゴン(オストヴァルドの東5キロ付近一帯。現・ストラスブール=ヌーオフ飛行場)の東側、ライン河畔に至る土地は殆ど水没して行軍は不可能となっていました。この地域では水面上にある土手道や高台にも鹿柴や水壕を掘って通行を妨害してあり、攻囲軍側もなかなか兵員を送り込めずにいたのです(もっとも、要塞からの出撃もまた困難を極めますが)。
8月26日にBa南支隊はランゴルサイムとイルキルシュ(どちらも高台にあって水没していません)から水没地帯を強行偵察するため部隊を東へ進め、要塞の南を取り巻く国際鉄道線の堤に陣取る仏軍の哨兵に対し威嚇を込めた数発の銃弾を発射しました。するとこの哨兵は要塞内へ逃走し、これで全く邪魔されることの無くなった偵察部隊は更に障害物も無く水面上に突き出していた土手道を東に進んで、午前中にマイナウ邸宅とノイドルフの部落(オストヴァルドの北東5キロ)を占領しました。以降Ba南支隊はこの地に前哨を置いて、要塞とライン川に向け斥候を放ち続けます。仏軍も斥候を放ちますが、彼らは少時Ba軍前哨の前に留まると、害することなく要塞に引き上げることを繰り返すだけでした。
☆ アルザス州南部の情勢
バ=ラン(上アルザス)地方南部とヴォージュ山脈方面を警戒するBa諸隊は、28日まで数件の「事件」を除き、まずは平穏な毎日を過ごしていました。
8月25日。「ヌフ=ブリザック要塞から仏軍が出撃し、ボオフツハイム(大聖堂の南28キロ)の東、リノー(独名ライナウ。ボオフツハイムの南東2.5キロ)の渡船場に向かった」との急報がムンドルスハイムの攻囲軍本営に伝えられ、ゲルトヴィラー、ベンフェルド、ボオフツハイムにそれぞれ常駐する前哨警戒隊は同日夕刻、Ba南支隊から増援を受けて強化され厳戒態勢に入りました。
しかし、25日午後に小規模な、26日に大規模な偵察隊を放った結果、「そのような事実はない」ことが判明します。この26日、エバースハイム(セレスタの北北東6キロ)に仏軍の哨兵を発見したBa偵察隊はこれをセレスタに追い返しました。偵察隊は更にセレスタ要塞を観察し、その東側のミュッテルソルツからヴィッティスハイム、そしてライン河畔まで進んで要塞以外に仏軍が存在しないことを確認した後帰還しています。
攻囲軍からの増援は26日夕刻に包囲線まで帰り、以降ボオフツハイム、ベンフェルド、ゲルトヴィラーには併せてBa歩兵6個中隊とBa竜騎兵第3連隊(1個中隊欠)の前哨警戒隊が残されるのでした。
ブリュシュ川上流域を警戒する前哨部隊(Ba竜騎兵第1「親衛」連隊第2,4中隊)は、シルメック(大聖堂の西南西41キロ)を宿営地としてヴォージュ山脈各地に対し巡察斥候隊を送り続けていました。これは、北西側はラオン=シュル=プレンヌ(シルメックの西北西10キロ)、南西側をサン=ブレーズ(=ラ=ロッシ。シルメックの南南西9.3キロ)とする広範囲で、武器を所持する地方住民を捕まえては武装解除を繰り返しています。しかし彼らBa騎兵は幾ら住民の武装解除を続けても、ブドウ畑の陰や木々が生い茂る山地斜面から毎日のように銃撃を受けるのでした。
8月27日、長らくシルメックに駐在したBa騎兵は、普後備近衛歩兵の1個大隊と普予備驃騎兵第2連隊の1個中隊により交代し、彼らはユルマット(シルメックの東北東9.5キロ)とムツィグ(バールの北14.5キロ)まで下がって宿営し、ヴォージュ山脈東麓に対し警戒しました。
この頃、「仏軍は正規軍残兵と護国軍や義勇軍を併せて集合し、この集団はヴォージュ山脈から攻囲軍宿営地を襲うつもりである」との噂が民衆の間に広まっていました。
噂とはいえ無視出来ない攻囲軍は、度々待機部隊に緊急集合を掛けてヴォージュ山脈を警戒させますが、全て「空振り」に終わっています。それでも地方の情勢が不穏なままであるため、攻囲軍は宿営地後方地域にも絶えず巡視斥候を送り続け、それは夜間も変わることなく攻囲の最中絶えず実行されたのです。
☆ 仏ストラスブール防衛軍
ウーリッシ将軍は8月26日、パリに居るはずの陸軍大臣と、ベルフォール要塞に居ると思われていた仏第7軍団のフェリクス・ドゥエー将軍(既述通り既にアルデンヌ南部のヴージエにいました)に対し、電信にて以下の報告を送っています(不思議なことにこの時点までは、ストラスブールと外部との電信線は独攻囲軍に切断されず残っていました)。
「ストラスブールでは本日まで6日間に渡って敵の砲撃を受けている。ために市街地と要塞は火災と破壊により被害が甚だしい。市内の住民は多数が家を失い食料の欠乏に瀕している。大聖堂は損傷が大きく、城塞は焼け落ちた。敵は要塞への接近工事を開始し、我が形勢は圧倒的に不利で、市民・兵士の士気は低下しつつある」
8月27日、ウーリッシ将軍はストラスブール市長と市会議員数名の訪問を受けます。
砲撃が始まった当初、既に市長たちは砲撃の中止を求めて将軍に「独軍と交渉する」よう嘆願していましたが、将軍はこれを拒否していました。市長は「既に市民は限界を迎えている」として将軍に対し、「敵の市街地に対する砲撃を中止させるよう方策を練って欲しい」と懇願したのです。市内では中心地のグーテンベルク広場(大聖堂の西200m)に市民が集まり、「防衛総督は開城を拒否するな」と叫んでいました。
しかしこれらの「圧力」にもウーリッシ将軍は屈せず、市長たちには丁重にお引き取り頂き、市民たちには解散を命じるのでした。
この後、頑固に独攻囲軍と対決するウーリッシ将軍の姿に、次第に市民たちは腹を括り始め、防衛司令官への抗議の声は一旦収まります。既に動員された者以外も、武器が扱える者は老人や少年であっても護国軍部隊に入隊して要塞を警護し、又は義勇兵となって市内の警戒任務に就くのでした。
砲撃下のストラスブール
※ 「ストラスブール攻囲戦(前)」はこれで終了します。8月27日以降の「正攻法」による攻城戦を記述する「ストラスブール攻囲戦(後)」の前に、「セダン会戦」までに発生し、まだ記述していない戦闘と、占領地や戦場後背地の状況、そして後方連絡線の状況を記すこととします。




