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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ストラスブールとメッスの包囲、沿岸防衛
306/534

ストラスブール攻囲戦(前)/本格攻囲の開始

 挿絵(By みてみん)

 平和な時代のストラスブール市街


 ストラスブール要塞に対する攻囲軍の攻撃準備は、8月18日から本格的に始動します。


 オベルアウスベルジャンとゾウフェルヴァイヤースハイムには同日、工兵廠の設置用地が確保されました。

 また、ファンデンハイム(大聖堂の北北西10キロ)の鉄道停車場には普大本営直轄の第3野戦鉄道隊(技師長・シモン鉄道技官/中隊長・ビューガー中尉)が進出し、同日からコブレンツ、ヴィーゼル、マグデブルクなどから送り出された攻城資材の荷卸しを開始しています。

 衛星市街シルティカイム北部のホエンハイム東郊外では、16日に運河へ架けられた橋がこの日に取り外されて、翌19日、更に南(要塞に近い)のビシュハイム東郊外に移設されました。

 このシルティカイム周辺では、兵站物資を貯蔵する常設倉庫の建設も18日に本格化しています。


 普予備騎兵第2連隊は18日、ラインを渡河してアルザスに入った補助糧食縦列を、糧食貯蔵地区に指定されたランペルトハイム(ムンドルスハイムの北西1.5キロ)まで護送する任務を受け、一部が出発しています。

 普第4野戦電信隊(隊長・フリードハイム中尉)による攻囲軍の本営と各師団や旅団本営間を結ぶ野戦電信の架設作業も始まり、各本営間の諸街道には騎馬伝令のための逸騎哨(騎馬の休憩と交換所)が設けられました。

 また、ライン東岸にあるケール支隊と、西岸の攻囲軍本隊との物流・連絡は、ストラスブール要塞のライン下流(北)側、アウエンハイム(ケールの北4キロ)付近と、同上流マルレン(同南5.5キロ)にある従来の渡船場で確保しました。

 攻囲軍本営は更にカッペル(=グラーフェンハウゼン。同南31キロ)付近とライナウ(同北東13キロ)付近にも新たに渡船場を設け、ライン川へ舟橋を設けるための場所の選定をも命じるのでした。


 この18日の夜、Ba擲弾兵第2連隊はケーニヒスホーヘンに侵入し、市街南西のユーデンキルヒホーフ墓地の並びに前哨を置きます。

 この地域は同連隊の第3中隊が守備に就き、翌19日の朝、仏軍は市街に対して偵察隊による突撃を何度か行い、要塞の重砲もケーニヒスホーヘン市街を砲撃して数ヶ所で火災を発生させますが、Ba擲弾兵はこれに耐え、後退することはありませんでした。


 この19日に攻囲軍は、要塞北西地域において塹壕の掘削を始めますが、これを望見した仏軍は、要塞砲が直射出来ないよう死角を作るためジグザグに要塞まで掘り進めて接近する「対壕作戦」と考え、要塞重砲が手を出せる作業初期に作業を妨害するため砲撃を開始しました。この砲撃の照準は極めて正確で、掘削作業はたちまち危険となって断続的となり、やがて中止に追い込まれます。

 ヴェルダー将軍は、「要塞の守備隊が外に撃って出てもこれを撃退出来ることは既に実証済みであり、攻囲軍の兵力は1週間以内に倍加するので塹壕設置は拙速に行う必要なし」、と断じ工事は完全に中止となったのでした。


 一方、ライン川を挟んで要塞を臨むバーデン領のケールでは、8月17日から3個の砲台を構築する工事が始まっており、1個(ケール第5号砲台)は7月22日に爆破した国際鉄道のライン川鉄橋とそれを制する堡塁の東側高台に、2個(ケール第2,3号砲台)はケール停車場の北側に位置していました。

 この工事は地域住民を動員して急速に進められ、8月19日の夜に一応の完成を見ます。既にラシュタット要塞からは命令によって要塞砲の12ポンド施条砲8門と24ポンド施条砲8門が到着しており、直ちに砲台へ設置されたのです。

 するとBa師団「ケール支隊」を率いるBa第6連隊第1大隊長のクラウス中佐は、攻囲軍本営に送った連絡士官との会話から、「ヴェルダー攻囲軍司令官はケール支隊の速やかな参戦を望んでいる」との印象を受けて「深読み」し、19日早朝、独断でストラスブール要塞東端の城塞に対し砲撃を命じました。

 ラシュタット要塞からやって来た16門の重砲を操るBa要塞砲兵は、勇んで砲撃を繰り返しますが、正午に至って攻囲軍本営から伝令が到着してヴェルダー将軍の命令を伝え、これは「直ちに砲撃を中止せよ」とのことだったのです。

 しかし、この頃にはストラスブール城塞の要塞砲はケールに対し対抗射撃を行っており、これはケールの砲台が砲撃を中止した後にも続けられ、砲台だけでなくケール市街地にも絶えず重砲榴弾が降り注ぎました。


挿絵(By みてみん)

 ケールの爆破された鉄道橋


 城塞からの砲撃は午後5時に至って中止されましたが、ヴェルダー将軍は「防御設備のない民間市街地に対する砲撃という愚挙(当時でも国際法に抵触します)」に対して抗議の使者を要塞へ送ります。

 対する防衛司令官ウーリッシ将軍の回答は以下のように簡素で明快でした。

「ケールは要塞ではないものの、(戦前より)その周囲に2個の堡塁(独呼称のケール第1と第4号砲台)を備えており、戦争の被害を甘受すべき土地と考えるものである。増してや今回、同所から我が城塞に対し砲撃が行われたのであるから(対抗砲撃を受けるのは)当然と考えるが如何か」


 この「事件」を皮切りに、19日から23日に渡って独仏斥候同士の小規模な衝突や少時の砲撃が繰り返されます。しかし要塞からの部隊出動はなく、大きな戦闘は発生せず、攻囲軍側は着々と攻囲の準備を進めたのでした。


 8月23日までには普軍各地から要塞砲兵26個中隊(最終的に32個中隊となります)が到着し、Ba師団の架橋工兵と併せ14個中隊に膨れ上がった工兵と共に、要塞西方及び北方でブリュシュ川の北からローベルゾ地区に至るまでの各地に分かれて宿営しました。

 同じく膨大な数の輜重車輌と徴発品からなる補助糧食縦列はランペルトハイム周辺に集合します。

 待望の攻城砲と工兵廠の諸材料は8月24日までに付属物資と共にファンデンハイム近郊の臨時停車場まで続々と鉄道で搬送され、第3鉄道隊が順次荷卸しをし、一時その周辺に留め置かれていました。


 この頃、10日の大本営による攻囲軍発足命令の人事異動は戦時においての様々な困難によって遅れ、攻囲の「主役」となる砲兵本部と工兵本部要員は、現場部隊よりかなり遅れて到着します。

 その現場部隊(要塞砲兵や要塞工兵)にしても部隊駐屯地より移動の際、急遽の出征のため武器工具装備の準備が間に合わずに出立した部隊も数多くあり、多大な困難を抱えつつストラスブールを目指しました。

 攻囲軍本営では、一方ではこうした部隊の受け入れと装備品の送付に力を入れ、一方では油断せずに要塞を監視し威嚇すると言った状態で業務に忙殺されていました。

 ヴェルダー将軍は、可及的速やかに全ての馬匹・車輌・機材・工具・補助人員などが前線に充当されるよう、本営幕僚に発破を掛け続けるのでした。


 こうした苦難の下、8月21日から24日にかけて、2個の普「後備」師団が包囲線後方に到着するのです。


 予備第1師団の中核となる「後備」第1師団は、正にリューベックやヴィスマル等メクレンブルク=シュヴェリーン沿岸を防衛するため集合中のところ、8月10日に大本営から転進命令を受け、師団長のウード・フォン・トレスコウ少将は配下に対し、急ぎ準備を命じました。

 同14日、師団は用意された大編成の列車数十編成によりバーデン大公国のカールスルーエに向けて出発し、列車はハンブルク~パーダーボルン(ドルトムント東)~ヴェツラー(フランクフルト北)~ダルムシュタット(ヘッセン大公国首都)を経て、17日正午から順次カールスルーエに到着しました。この後師団はラシュタット(カールスルーエから南西へ22キロ)へ行軍し、ヴェルダー将軍の命によりプリッタードルフ(ラシュタットの北西4.5キロ)西のライン川に架かる橋(「渡船橋」として現存)を渡ってアルザスに入りました。

 師団は21から20日に掛けて要塞包囲線北部後方に到着します。その後備第1旅団はレクステット、ゾウフェルヴァイヤースハイム、ファンデンハイム、ランペルトハイムに分散して宿営し、後備第2旅団はディングスハイム(ミットアウスベルジャンの北西2.5キロ)周辺からサヴェルヌ街道(現国道D41号線)沿いの諸部落に宿営しました。


 ハノーファーの北東地方で警戒任務に就いていたフォン・ロエン中将率いる後備近衛師団は、10日の攻囲軍配属命令後、順次出立準備を進め、8月16日に各宿営地の停車場で列車に乗せられ、カールスルーエに向かいました。しかし先発隊の列車がカールスルーエに到着した時にはまだ、攻囲軍本営からの前進命令が届いていません。そのため、各輸送列車は将兵を乗せたまま独断でラシュタットへ進み、ここで師団将兵を下車させます。程なく命令が届き、同師団は後備第1師団に続いてプリッタードルフの橋梁を渡り、23から24日に掛けて予備第1師団の右翼(西)、フルティクハイム(ディングスハイムの西南西6キロ)とハントシュハイム(フルティクハイムの南西1.5キロ)周辺、パリへの街道(現国道D228号線)沿いの諸部落に宿営するのでした。


 これによって8月24日よりのストラスブールの包囲線分担は、大まかに要塞南方のイル川東岸からオーバーシャエッフォルスハイム付近までの部分をBa師団、その北西イッテンハイム付近からアウスベルジャン高地西麓後方までを後備近衛師団、その東側から要塞北正面とライン川岸(ローベルゾ地区)までが予備第1師団の任担となりました。


 この包囲線の完成以前、ムンドルスハイムの攻囲軍本営ではヴェルダー将軍が要塞に対し本格的な攻撃を開始する命令を発し、この攻撃方法を巡って本営幕僚の間で激しい議論となっていました。


 攻囲「指導」のため、独第三軍本営から派遣されていた軍工兵部長のシュルツ少将らは「攻撃当初から正攻法で事に当たるべき(対壕や坑道を掘り進めて要塞に近付き、堡塁を占領して隔壁を爆破または崩壊させる等の古典的攻城法)」を主張し、若いフォン・レシュツィンスキー攻囲軍参謀長らは「まず市街地を砲撃して要塞の士気を挫くべき」として真っ向から対立するのです。


 それまでに集まった諜報を含む情報では、「ストラスブール市民と守備兵の士気はかなり低い」とのことであり、レシュツィンスキーらはこの点から「逃げ場のない絶望的な砲撃を受ければ、敵は比較的短期間で屈する」と信じたのでした。

 更に要塞内から逃げ出した難民の供述では「要塞市内の義勇兵部隊は既に解散し、護国軍部隊も士気は地に落ちており、仏軍正規兵は5,000人を超えない規模で軍紀も弛緩している」とのことでした。

 「これまでは小口径野砲による小規模な砲撃だったため、要塞市内は例外を除いて大した損害を受けてはおらず、もし砲兵を可能な限り前進させて家屋が密集する地区に焼夷弾の集中砲撃を加えれば、守備隊でも士気の落ちている兵士たちは萎縮して勤務を放棄し、市民も防衛司令官に対して開城を迫るに違いない」

 レシュツィンスキーらはこう主張して譲らなかったのです。


 ヴェルダー将軍もまた、大局的な見地に立って判断を迫られていました。


 この時(8月20日頃)は既にメッスの攻囲が始まっており、普皇太子の第三軍は首都パリへ進もうかと言う情勢です。ストラスブールがいくら重要な要塞であっても戦争全体からすれば第二線の戦いであり、ヴェルダー将軍が掌握する4万の歩兵は、要塞の包囲等ではなく野戦における決戦に使用した方が遙かに有益であることは間違いの無いところでした。

 要塞の仏軍は既に19日、無防備のケール市街地を砲撃しており、レシュツィンスキーの主張する市街地への砲撃も国際法規上「行って構わない行動」と捉えて構わない様にも思えます(何しろ敵の司令官が、「防備施設に隣接する市街が砲撃されるのは仕方がない」と言っているのです)。

 とは言え、後々に問題となっては困る(事実ヴェルダー将軍は仏では現代でも「悪漢」扱いです)ので、ヴェルダー将軍は大本営に対し、「ストラスブールの陥落を早期に実現するため、市街地を砲撃するのは可か否か」と問うのでした。この回答は21日に届き、それによれば「市街地の砲撃は差し支えなし」とのことでした。


 こうしてヴェルダー将軍は「市街地を砲撃して敵の士気を挫く」方針に傾きかけますが、これに黙っていなかったのが第三軍工兵部長シュルツ少将でした。

 シュルツ将軍は、「ストラスブール要塞の抵抗力について、現在攻囲軍本営が得ているものは、噂や諜報から間接的に得られた推察ばかりでしかなく、実際には真の力は分からない。独側の野砲は対壕も作らない状況で比較的少数が前進して砲撃を開始する(防御遮蔽が少ない状況を言っているのでしょう)のであるから、要塞の重砲が本格的に反撃すれば無視出来ない犠牲が生じ、そればかりでなく計画を最初から練り直さねばならない状況に陥る可能性も高く、却って(当初から対壕等を掘り進めるより)時間を消費してしまうだろう」と反論したのです。

 更にシュルツ将軍は本営工兵部首席副官のワーグナー大尉に命じて「正攻法による要塞攻略の計画」を立案させ、これを持って22日の朝、ヴェルダー将軍に対し直談判に至ったのでした。


 この頃、「ケール砲撃事件」に関する独仏間の書簡による応酬も続いており、21日にヴェルダー将軍は再びウーリッシ将軍に対し「過日の砲撃行為は国際法上適法とは言えない」と断言し「今後攻囲軍は倍以上に膨れ上がる」ことや「メッスでも同様の攻囲が行われている」などと脅して「攻囲が長期に及べば貴市街も損害を免れない」ので「速やかな降伏開城を要求する」と説いたのでした。

 対するウーリッシ将軍の回答は単に「断固開城は拒絶する」であり、ただその末尾に「幼児、老人、婦女子の市街退去を認められたし」とするのでした。


 この時、普参謀本部よりモルトケ参謀総長の書簡がヴェルダー将軍に届き、そこには「攻囲軍の任務は可及的速やかに要塞を攻略することにある」とあったのです。ヴェルダー将軍は自身感じていた「攻囲作戦の速やかな完遂による攻囲軍兵力の主戦線参加」を実現するためにも、要塞を早期に屈服させることを迫られたのでした。


 こうしてヴェルダー将軍はシュルツ将軍の「正攻法作戦」を棚に上げ、腹を括りました。

 ヴェルダー将軍は先のウーリッシ将軍の「開城拒絶」と「老若婦女子の解放」に対し「幼老婦女の市街退去は却って要塞の抵抗を高める」として拒絶し「事ここに至ってはやむを得ない」として22日午前、ウーリッシ将軍に対して「近々市街に対する砲撃を開始する」と通告するのでした。


 この決定により、参謀長派の意見が通ったこととなりますが、ヴェルダー将軍はシュルツ将軍の「面子」も考え、市街砲撃は攻城(要塞)砲兵を主に使用することとなるので、当初野戦砲兵による夜間砲撃と平行し、ワーグナー大尉の作成したシュルツ将軍の攻囲計画に沿って、要塞砲兵の砲台建設を急ぎ行うことに決するのでした。


 この日(22日)には攻囲軍工兵部長に任命されたフォン・メルテンス少将がムンドルスハイムに着任し、23日午前、本営にて攻囲軍の高級士官会議が行われた結果、ヴェルダー将軍は最終的に「ストラスブール市街の砲撃」を決定します。将軍は渋い顔を隠さないシュルツ将軍にも配慮して「もし砲撃が効果なき場合、直ちに正攻法に移行する」として「正攻法の準備も同時に行うよう」命じるのでした。


 砲撃は会議直後、23日の夕刻から開始されることとされ、このための詳細な命令と規定が急ぎ作成されて諸隊に通告されるのです。


 これによる各部隊の行動は次の通りでした。


 ○Ba師団と予備第1師団の野戦砲兵部隊は、対抗砲撃を受けた場合の陣地転換も考えて複数の出来得る限りに遮蔽された砲兵陣地を構え、ケール支隊の砲台からの援護射撃の下、ストラスブール要塞と「同市街」に対して砲撃を開始する。これは特に夜間に行うこと。

 ○ブリュシュ川北岸からローベルゾ間の要塞西と北3地区(Ba軍北支隊左翼、普第34連隊、普第30連隊の各戦区)では、前記野戦砲兵を援護するため前哨の任に就く大隊を要塞に接近させ、直ちに介入出来る増援を準備した少数の散兵群を最前線に送って塹壕を掘り、又は遮蔽物を確保して要塞からの銃火に備えること。

 ○戦闘の間、前哨各大隊は左右両翼の大隊と相互援助を行い、その境界を敵に抜かれぬため、両翼間に適宜予備部隊を配置すること。

 ○前哨大隊の交代は翌朝を初めとして以降24時間毎に順序立てて行うこと。

 ○攻撃背面となる南方正面では、特別に敵の注意を引きつけるため「特別な動作」を行って敵を分散させること。

 ○これら歩兵の援護を受けて夜間に13個の砲台を構築し、ここに24ポンド施条砲26門、50ポンド臼砲4門、25ポンド臼砲24門の計54門の重砲を設置する。

 ○これら砲台は、攻撃が正攻法に移行した場合にも使用可能とするため、全て要塞北西方向に構築すること。

 ○砲台最外翼となるケーニヒスホーヘン付近とシルティカイム両側郊外に設ける6個の縦射砲台(カノン砲など砲弾が直進する重砲を備えた砲台)は、砲の設置後直ちに砲撃を行い、ケールの砲台と協力して特にブリュシュ川から要塞東端の城塞に至る西~北方面全ての要塞隔壁を掃射して防御施設を破壊し、平行して正攻法による攻撃準備を行う。

 ○要塞内市街地には残り7個の臼砲砲台(高い放物線を描く炸裂弾を放つ巨砲による砲台)によって砲撃を行い、これは特にケーニヒスホーヘンとシルティカイムの間に築造すること。


 各連隊区の前哨部隊の前進は23日夕刻、命令通り実行されます。この日は一日雨天で、夕暮れは早く、前哨に指定された歩兵たちは初めて進出する敵地に暗闇と泥濘の中、文字通り手探りで進みます。予定された前哨地点をやや外れてしまう場面も各所で見られることとなりましたが、後述の通り、この晩の攻囲軍の戦闘行動は概ね順調に進行しました。


 ケーニヒスホーヘンを占拠していたBa擲弾兵第2連隊F大隊の1個中隊後方からは同日午後8時30分、同連隊第1大隊が鉄道に沿って展開し、その散兵小隊はサヴェルヌへ向かう街道の南まで戦線を拡張すると、同行した工兵の協力により要塞斜堤から百数十mの近距離に塹壕を掘り、待機しました。同連隊は更に鉄道と街道の交差点へ1個中隊を展開させ、数個分隊をケーニヒスホーヘン東端へ送り、ヴァイセンツルム門を監視させるのでした。

 このケーニヒスホーヘン西に陣取ったBa擲弾兵第2連隊F大隊の2個中隊は、前哨部隊直協要員となって待機し、同連隊第4中隊は更にその後方エックボルスハイム付近に展開、Ba重砲第4中隊もここに砲列を敷いていました。

 Ba擲弾兵第1連隊の2個大隊は24日払暁、前哨と交代するため前進しますが、仏軍からの妨害は一切なく、この連隊の前哨陣地は以降数日間、要塞を直前としつつも実に平穏だったのです。


 包囲線北部を担当する普第34連隊第1大隊は、Ba部隊と同様にクローネンブルク、シルティカイム両衛星市街地間に前進し、その散兵線はクローネンブルク東端からサン・テレーヌ墓地の北西端まで延びていました。この夜(23日)、要塞からはたった2発の銃弾が発射されただけで、この大隊の前哨任務は午前3時、支障なく第2大隊に引き継がれました。

 普第30連隊の前哨線は第34連隊の左翼(東)に接して東に延び、1個中隊がサン・テレーヌ墓地東端に配置され、他2個中隊はその東側でシルティカイム南端の前哨陣地を守備し、1個中隊はその東側アル川(ヴァッケン島西側を要塞西端まで流れるイル支流)河畔の1軒農家を接収して陣を構えました。

 ローベルゾ地区ではライン=マルヌ運河に進んだ同連隊2個中隊が従前の位置を固守しました。

 彼らもこの23日夜には要塞からただ数発の銃弾を受けただけでした。

 「旧」後備第1師団はこれら「混成歩兵旅団」の後方で、必要に応じて前線へ増援を送るため歩兵1個大隊半(6個中隊)と砲兵1個中隊をホエンハイムに常駐させました。


 攻囲軍の野戦砲兵は折からの降雨という悪条件の中、命令通り23日午後8時から11時の間に砲撃を開始します。


 Ba砲兵の5個中隊は、ランゴルサイムとイルキルシュに宿営地を置く歩兵諸隊に護衛されランゴルサイムとオストヴァルド、そしてワーグホイザー(大聖堂の南3.5キロ)に砲列を敷き、要塞南部と市街地に対し砲撃を行います。この内、ムルホフ(大聖堂の南西3.8キロ付近)まで前進していた重砲第1中隊は、度々要塞から銃砲火を浴びましたが、他の砲兵中隊は殆ど妨害を受けることなく砲撃を続行出来たのです。

 包囲線北方では、予備第1師団に属する野戦砲兵2個中隊が後備歩兵2個中隊の護衛の下、オランジュリー島の北東、ライン=マルヌ運河の北に砲列を敷いて砲撃を開始しますが、こちらも要塞からは数発の銃撃を受けただけでした。

 ライン東岸ケールの陣地では、既に22日、ラシュタット要塞から到着したばかりの重野砲を装備するBa要塞砲兵大隊第1中隊が、「試し撃ち」とばかりに目前の川中島、シュポレン島に見える仏税関と周辺の建物を狙って砲撃しますが、仏軍は一番南方となる第3号砲台、ケール市街の東を流れるキンツィヒ川に架かる諸橋梁、そしてケール市街自体に少時間対抗砲撃を行うだけでした。

 ケールでは翌23日夜にも第2,3,5号3個の要塞砲砲台が午後11時から砲撃に加入しますが、砲撃中に対岸のローベルゾ地区から予備第1師団所属のブロンベルク後備大隊2個中隊が応援に訪れ、この兵員を加えてこの夜ケール市街南方に第6号砲台を一晩で構築し、残った8門の要塞砲を備え付けて翌朝午前7時から砲撃可能とするのです。

挿絵(By みてみん)

 ケールの攻城砲台


 このケールで砲撃可能の要塞砲が増えた頃、ライン西岸の独野砲は順次この晩の砲撃を終了しました。

 この最初の夜間砲撃で、攻囲軍砲兵は殆ど被害を受けませんでしたが、ストラスブール市内では数ヶ所で火災が発生し、要塞のニコラウス兵営、ユーデン門とフィッシャー門(要塞北方、スピタルガルテン島南端の南東側にあった要塞門)間の水門は独軍の榴弾で大破し、要塞兵器廠の屋根も穴だらけとなったのでした。


 23日の夜には野砲の砲撃と同時に、攻城砲用の砲台築造も開始されます。

 

 この13個の砲台構築作業は、砲台1つに付き2個要塞砲兵中隊が主作業に就き、要塞と野戦の各工兵、そして補助員として若干の歩兵が作業に従事しますが、彼らは非常な困難を強いられることとなります。

 まずは夜間、乏しく限られた明かりの下での作業であり、しかも前述通り生憎の雨天で土地は泥濘、周囲は全くの暗闇、折からの要塞砲撃で砲撃音が響いているとは言え、静粛も求められました。

 ファンデンハイムに卸された工兵機材の大部分は未だ整理もされず野積みされたままで、利用不可能でした。また、各砲台の位置は単に概算の位置が標柱で示されているに過ぎず、夜間の作業では正確な測量も出来ずに土木作業を続けなくてはなりませんでした。


 それでも要塞砲兵たちは要塞からの妨害も同時に困難な夜間に乗じて作業を強行し、前哨歩兵各隊が警戒する中、粛々と作業を続けました。

 その甲斐あって北部イル川と国際鉄道線の間、北部包囲線左翼(東)側に造られる8つの砲台は払暁時(24日早朝)に完成を見ます。要塞砲兵たちは急ぎ砲撃準備に取りかかりましたが、朝となって見れば第6、第9、第10号の各砲台はその位置が要塞隔壁から遠過ぎ、些か砲撃には不適であったことが判明してしまいます。

 右翼(西)側5個の砲台の内、4個も朝に至ってほぼ完成しますが、泥濘の中の作業で砲床を固めることが出来ず、未だ攻城砲を設置する状況には至りませんでした。

 クローネンブルク北東郊外の貨物停車場近くに造成予定だった第5号砲台に至っては、建造材料が現場に到着せず、この時点となっても手付かずのままだったのです。


挿絵(By みてみん)

 要塞西包囲線の攻城砲台


挿絵(By みてみん)

 要塞北包囲線の攻城砲台


1870年8月24日 ストラスブール攻囲軍戦闘序列


☆バーデン大公国(Ba)師団は前節参照のこと


☆普後備近衛師団 

 師団長 男爵レオポルト・アウグスト・ゴットハルト・ヨーブスト・フォン・ロエン中将


挿絵(By みてみん)

 ロエン


 参謀 ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト大尉


◯ 後備近衛第1旅団 ゲルツ・フォン・ガウディ大佐

*後備近衛歩兵第1連隊 (フォン・プレーヴェ大佐)

・ケーニヒスベルク後備大隊(フォン・アルニム少佐)

・ステッテン後備大隊(ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト少佐)

・グラウデンツ後備大隊(フォン・ラウフ少佐)

*後備近衛歩兵第2連隊 (フォン・グラヴェルト大佐)

・ベルリン後備大隊(フォン・バウムバッハ少佐)

・マグデブルク後備大隊(フォン・クッツコヴスキー少佐)

・コトブス後備大隊(フォン・リルニストリューム少佐)

◯ 後備近衛第2旅団 フォン・ロエール大佐

*後備近衛擲弾兵第1連隊 (フォン・ラウフハウプト中佐 ~9/11)

      (親王シェーンブルク=ヴァルデンブルク中佐 9/12~)

・ゲルリッツ後備大隊(男爵フォン・シュタインニッカー少佐)

・ブレスラウ後備大隊(フォン・アルベルト少佐)

・ポズナン=リッサ後備大隊(フォン・ミュンヒハウゼン中佐)

*後備近衛擲弾兵第2連隊 (フォン・ベッセル中佐)

・ハム後備大隊(フォン・ヴィスマン少佐)

・コブレンツ後備大隊(フォン・ヴィッツレーベン少佐)

・デュッセルドルフ後備大隊(フォン・エーレルン少佐)

◯ 予備驃騎兵第2連隊 伯爵ツー・ドーナ少佐

◯ 混成砲兵大隊 フォン・シュヴァイツァー少佐

・近衛軍団予備重砲第1中隊(ダイバー大尉)

・近衛軍団予備重砲第2中隊(フォン・デア・クネゼベック大尉)

・近衛軍団予備軽砲中隊(ヴィッテ大尉)

※以下、師団に従属

*バーデン大公国衛生隊(カッペラー騎兵大尉)

*バーデン大公国野戦架橋縦列・附属器具縦列


☆普予備第1師団 

 師団長 ハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ少将


挿絵(By みてみん)

ウード・フォン・トレスコウ


 参謀 フォン・シュルツェンドルフ大尉


◯ 混成歩兵旅団 フェルディナント・ハインリヒ・ロベルト・フォン・ボズヴェル少将

*第30「ライン第4」連隊 (ナハティガル中佐)

・第1大隊(グリュンドラー中佐 ~9/10)

     (クレッカー大尉 9/11~)

・第2大隊(フォン・ベルケフェルト少佐)

・フュージリア大隊(シュミット少佐)

*フュージリア第34「ポンメルン」連隊 (ヴァーレルト大佐)

・第1大隊(伯爵フォン・ヘルツベルク少佐)

・第2大隊(男爵フォン・デア・オスケン=ザッケン中佐)

・第3大隊(フォン・ヴェステルンハーゲン中佐)

◯ 後備第1旅団 男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フォン・ブッデンブローク大佐

*ポンメルン後備混成歩兵第1「第14/第21」連隊 (フォン・ティッツヴィッツ大佐)

・グネーゼン後備大隊(グルッペ少佐)

・シュナイデミュール後備大隊(フォン・ヴァイスフン少佐)

・コーニッツ後備大隊(カウシュ大尉)

*ポンメルン後備混成歩兵第2「第21/第54」連隊 (フォン・オストロウスキー大佐)

・イノヴラツラウ後備大隊(フォン・シャナン大尉)

・ブロンベルク後備大隊(フォン・ペテリー少佐)

・ドイツェ=クローネ後備大隊(フォン・パヴェルス少佐)

◯ 後備第2旅団 フォン・アフェアン休職少将

*ポンメルン後備混成歩兵第3「第26/第61」連隊 (フォン・ベルガー大佐)

・シュテンダール後備大隊(レッペルト少佐)

・ブルグ後備大隊(フォン・シュッツ中佐)

・ノイシュタット後備大隊(男爵ツァンマー大尉)

*ポンメルン後備混成歩兵第4「第61/第66」連隊 (フォン・ゲリッケ大佐)

・ハルバーシュタット後備大隊(ウターヴェッデ大尉)

・ノイハルデンスレーベン後備大隊(フォン・ヴェルテルンハーゲン大尉)

・スタルガルト後備大隊(フォン・ボヤン少佐)

◯ 予備騎兵第1旅団 クルーグ・フォン・ニッダ少将

・予備槍騎兵第2連隊(フォン・ブレドウ休職大佐)

・予備竜騎兵第2連隊(フォン・ヴァルター少佐)

◯ 混成砲兵第1大隊 (ヴァイゲルト少佐)

・第2軍団予備軽砲第1中隊(ランゲマック大尉)

・第9軍団予備軽砲第1中隊(フォン・ブラウンシュヴァイク大尉)

・第9軍団予備軽砲第2中隊(ヴァインベルガー大尉Ⅰ)

◯ 混成砲兵第2大隊 (ウルリヒ少佐)

・第1軍団予備重砲第1中隊(ウルリヒ大尉)

・第3軍団予備軽砲第1中隊(リーメル大尉)

・第3軍団予備軽砲第2中隊(フィッシェル大尉)


☆混成要塞砲兵連隊 マイスナー大佐


*第1大隊 エックハルト少佐

・要塞砲兵第10連隊第1中隊(アインベック大尉)

・要塞砲兵第7連隊第2中隊(トリュシュタット大尉)

・要塞砲兵第7連隊第3中隊(ヒューガー大尉)

・要塞砲兵第7連隊第6中隊(ディーテリヒス大尉)

・要塞砲兵第7連隊第16中隊(グロドコヴスキー大尉)

*第2大隊 リェッティーガー少佐

・要塞砲兵第6連隊第1中隊(カイザー中尉)

・要塞砲兵第6連隊第2中隊(フォン・ギロンクール大尉)

・要塞砲兵第6連隊第4中隊(フォン・メホウ大尉)

・要塞砲兵第6連隊第6中隊(フォン・シュランム大尉)

・要塞砲兵第6連隊第16中隊(ハッセ大尉)

*第3大隊 バウシュ少佐

・要塞砲兵第10連隊第2中隊(ストライヒ大尉)

・要塞砲兵第6連隊第5中隊(フォン・デア・ロハウ大尉)

・要塞砲兵第6連隊第7中隊(フォン・ベルゲ=ヘルレンドルフ大尉)

・要塞砲兵第6連隊第13中隊(シュテファン大尉)

・要塞砲兵第6連隊第15中隊(ホッペ大尉)

*第4大隊 フッケ少佐

・近衛要塞砲兵連隊第9中隊(フォン・イーレンフェルト中尉)

・近衛要塞砲兵連隊第13中隊(フォン・エールハルト大尉)

・要塞砲兵第5連隊第5中隊(メッツケ大尉Ⅱ)

・要塞砲兵第5連隊第13中隊(ヴィンクラー中尉)

*第5大隊 クラインシュミット少佐

・要塞砲兵第4連隊第5中隊(ストリューマー大尉)

・要塞砲兵第4連隊第6中隊(フォン・ジッハルト大尉)

・要塞砲兵第4連隊第7中隊(ピーラー中尉)

・要塞砲兵第4連隊第8中隊(シュヴェーダー大尉)

・要塞砲兵第4連隊第15中隊(ヴァイスヴァンゲ中尉)

*第6大隊 ハイン少佐

・近衛要塞砲兵連隊第1中隊(モギロヴスキー中尉)

・近衛要塞砲兵連隊第2中隊(フォン・ボデヴィルス大尉)

・近衛要塞砲兵連隊第3中隊(フォン・ゼーバッハ中尉)

・近衛要塞砲兵連隊第4中隊(ブルーメ大尉)

・近衛要塞砲兵連隊第5中隊(ヴァインベルガー大尉Ⅱ)

*第7大隊 フォン・バルトトルッフ大佐

・ヴュルテンベルク王国要塞砲兵大隊第1中隊(コープ大尉)

・ヴュルテンベルク王国要塞砲兵大隊第4中隊(イムレ大尉)

*第8大隊 男爵フォン・ノイベック中佐

・バイエルン王国野砲兵第3連隊第2中隊(ファールムバッファー大尉)

・バイエルン王国野砲兵第3連隊第3中隊(シュルチェ大尉)


☆混成工兵連隊 クロッツ大佐


*混成工兵第1大隊 シュルツ少佐

・第1軍団要塞工兵第1中隊(アンドレイ大尉)

・第5軍団要塞工兵第2中隊(フォン・クレーデン大尉)

・第5軍団要塞工兵第3中隊(ヴェストフェ大尉)

・第6軍団要塞工兵第1中隊(レデブール大尉)

・第6軍団要塞工兵第3中隊(フォン・モルシュタイン大尉)

*混成工兵第2大隊 フォン・クイッツォウ少佐

・第7軍団要塞工兵第1中隊(フォン・オイトマン大尉)

・第8軍団要塞工兵第1中隊(ブラウメ大尉)

・第8軍団要塞工兵第2中隊(フォン・アスター大尉)

・第10軍団要塞工兵第1中隊(ペルツ大尉)

・第10軍団要塞工兵第2中隊(メンツェル大尉)

*混成工兵第3大隊 ヴェッツ少佐

・第2軍団要塞工兵第1中隊(リューゼ大尉)

・第11軍団要塞工兵第1中隊(カムラー大尉)

・バーデン大公国要塞工兵中隊(コッホ大尉)

・バーデン大公国架橋兵中隊(リヒテンアワー大尉)


☆バーデン大公国兵站縦列 エングラー少佐

*砲兵弾薬縦列3個(第1,2,3)

*歩兵弾薬縦列2個(第1,2)

*架橋縦列


☆バーデン大公国輜重兵大隊 フォン・セリウス少佐

*馬廠

*野戦製パン縦列

*糧食縦列3個(第1,2,3)

*補助糧食縦列3個(第1,2,3)

*野戦病院5個(第1,2,3,4,5)

*輜重援護隊


☆攻城廠 ホフマン少佐

 副官2名


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