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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ストラスブールとメッスの包囲、沿岸防衛
305/534

ストラスブール攻囲戦(前)/本格攻囲前の小競り合い

 普大本営が命じた「ストラスブール攻囲軍」発足により、後備近衛師団と、「予備」第1師団の主体となる「後備」第1「ポンメルン」師団は、それまでの任地だったハノーファーとメクレンブルク=シュヴェリーンからストラスブールへ移動を開始します。

 しかし、攻囲軍の3分の2近くを占めるこれら後備部隊が包囲線にやって来るまで1週間は掛かるので、バーデン大公国(Ba)師団は、攻囲軍司令官フォン・ヴェルダー中将の承認の上で「包囲網の締め付け」を続けるのでした。


 攻囲軍参謀長に「昇格」したフォン・レシュツィンスキー中佐の発案からなるこの作戦は、以下の内容からなっていました。


 ○要塞の北方において、イル川東方のライン=マルヌ運河からシルティカイム南端に至るまで包囲線を前進させる

 ○ブリュマト街道(現国道D263号線)とサヴェルヌ街道(同D41号線)の間を制圧するため、要塞斜堤から2.5キロ程度の位置に4個の堡塁を設ける

 ○イル川の湾曲部の内側(現ジェリグ湖となっている位置)の西、オストヴァルド(ストラスブール大聖堂の南南西5.2キロ。以下ストラスブールを略します)の北に強力な砲台を設ける

 ○特にストラスブールとヌフ=ブリザック(ノイ=ブライザハ。大聖堂の南65キロにある要塞都市。世界遺産として現存)の連絡を遮断する

 ○エルスタン(大聖堂の南南西19キロ)付近においてイル川堤防を切り河水を氾濫させ、下流であるストラスブール周辺で氾濫水没地帯を作らせないようにする


 しかし、この作戦の内「エルスタンでの堤防決壊」は人手不足と周辺地域の「不穏な空気」(後述)により着手することが出来ず、「オストヴァルド北方の砲台建設」も工兵たちが調べたところ「地形によって予想外の難工事となる」ことが判明し中止されてしまいました。

 対照的に「4個の堡塁構築」は順調で、15日には測量を終えて予定地に標柱を立てることが出来たのです。


 また、この日(15日)夕刻には、Ba師団各部隊もストラスブール要塞へ更に接近するため前進を開始しました。


 要塞の南方と西方では、Ba師団は支障なく新たな包囲線に就くことが出来ます。

 ミットアウスベルジャン(大聖堂の北西5.5キロ)付近から先発した部隊はこの日午後、「仏軍は郊外の貨物停車場にある目立つ円形の建物付近にあり」との報告を送りました。しかし夕刻、本隊が停車場に接近したところ、仏軍は既に円形建物周辺から撤退した後で貨物停車場はBa師団の手に落ちます。

 この日夜更け、Ba砲兵隊中最も要塞近くまで進んだ重砲第4中隊は、初めてストラスブール市街に向けて威嚇の意味を込め数発の焼夷弾を発射しました。これに要塞砲が応じて少時対抗射撃を行いましたが、双方ほとんど被害はありませんでした。


 要塞の北方でもBa師団は妨害を受けずに新たな包囲線まで前進します。


 Ba擲弾兵第2連隊F大隊は15日シルティカイム市街地を無血で占領し、部落南郊外の家屋列後方に急遽前哨線を設け、ここに2個中隊を置きます。大隊の残り半数は広い市街地に散って警戒任務に就きました。

 更に市街地の部隊は防御作業を開始し、目立つ家屋を接収すると銃座を設けて遮蔽物を重ね置き、街道筋にはバリケードを築いて新たな陣地間の連絡路を開きました。

 同連隊第2大隊はローベルゾ地区を経由してイル川東方のライン=マルヌ運河まで進みます。運河畔に前哨線を築いた大隊はこの後方に野営しました。


 ここまでは仏軍から一発の銃砲弾も受けなかったBa師団部隊でしたが、16日払暁時、仏軍は初めてローベルゾ地区でのBa師団の前進を知り、防衛司令官ウーリッシ将軍はBa軍の接近を防ぐため「北方戦区」に敵の接近を妨害するよう命じました。

 仏軍はシルティカイムに偵察隊を送り、この小部隊はBa擲弾兵と少時銃撃戦を交えましたが直ぐに撤退しました。

 一方のローベルゾ方面では仏軍はもう少し執拗に攻撃を繰り返し、度々運河を越えると湿地と小林が続くこの土地を突進するのです。

 しかし突進の度に銃撃を浴びて撃退され、最後にはBa兵の一人が敵を追って運河に入り、銃火の中を泳ぎ切って対岸に繋いであった渡船を奪ってしまうと、運河を渡っての攻撃は中止されたのでした。


 これら運河や河川の架橋は、既述通り14日エンゲリッシャー・ホフ付近のイル川に架けた仮橋に続き、16日にホエンハイム(シルティカイムの北に続く部落)付近の運河にも架けられ、この2つの橋は数日かけて周辺から徴発した材料によりしっかりとした橋として完成され、工兵の軽架橋縦列は仮設資材を回収して再び他の場所に架橋することが出来るようになりました。


 要塞南方では8月16日、オストヴァルドに進出宿営していたBa第3連隊第2大隊が早朝、第8中隊をイルキルシュ(=グランフェンスタデン。オストヴァルドの南1.3キロ)に派遣したことで攻囲戦初の本格的戦闘が発生します。


 この日午後2時となり、イルキルシュを占領した第8中隊から発した1分隊がライン=ローヌ運河まで進んでここに架かる橋(オストヴァルドの東1.6キロ付近。現ストラスブール通りの橋)を守備し始めると、突然東から仏軍の騎兵隊が現れ攻撃して来ました。

 騎兵の後方には強大な歩兵部隊が見え、散兵展開すると猛烈な援護射撃の下、運河の橋梁めがけて突撃して来たのです。同時に前進して来た野砲隊は速やかに運河沿いに展開するとイルキルシュと街道に向け砲撃を開始したのでした。

 運河に出した前哨の危機を知ったBa第3連隊第8中隊長のカップラー大尉は中隊全部を引き連れ、急ぎ運河橋まで突進します。幸いにも前哨分隊は橋を死守しており、大尉は中隊を堤防に伏せさせ展開させると猛烈な射撃を開始、200mを切った近距離で堤防の陰から銃撃を受けた仏軍は程なく動揺して散り散りに逃走し始めました。

 小隊を率いていたフォン・ステュプリン少尉は敵が浮き足立ったのを見ると橋に突進し、前哨分隊の援護射撃の下、部下を先導して橋を渡り、運河沿いに砲列を敷いていた仏軍砲兵陣地に突入します。仏軍砲兵は急ぎ撤退しますが、野砲3門が少尉の戦利品として残されたのでした。


 仏軍はオストヴァルドから急行して来た第5,6中隊からも後退中に銃撃を浴び、更に前進して来たBa重砲第2中隊からも砲撃を受けると、急ぎ要塞内に退却するのでした。


 この仏軍部隊は、「南方戦区」に割り当てられていたマルシェ歩兵大隊2個(1,500名前後)に騎兵400騎、野砲4門からなる遊撃隊で、架橋工兵連隊を率いていたジャック・オーギュスト・コンスタン・フランシス・フィエヴェ大佐が直率していました。

 この戦いで戦死9名、負傷及び捕虜約20名を残し撤退したフィエヴェ大佐自身も重傷を負っており、手当の甲斐なく9月1日に要塞内で息を引き取ったのでした。Ba軍側の損害は軽微とだけ伝えられています。


挿絵(By みてみん)

 フィエヴェ


 この「イルキルシュの遭遇戦」が行われた16日夕方には、要塞北西側で攻城の第一歩となる「4個の堡塁構築」工事が開始されました。


 ところが、午後11時になって独第三軍本営よりムンドルスハイムの攻囲軍本営に電信が届き、それには「仏ファイー軍団の2個師団がストラスブールの解囲を狙ってシャルム(ナンシーの南37キロ)からエピナル(同60キロ)を経由して前進する、という信頼すべき情報あり」とあったのです。

 フォン・ヴェルダー将軍は思い切りよく、「なるべく多くの兵力により西からの脅威に対抗し、その間、要塞の包囲は寡少の兵力で賄う」と決断するのでした。


 これに従い攻囲軍本営は直ちに命令を発し、それによれば「翌日(17日)を期して攻囲軍の大部はアヘンハイム(大聖堂の東9.2キロ)とエルノルスハイム(=ブリュシュ。アヘンハイムの西南西4.5キロ)間の高地尾根(標高200m程度の緩やかな2つの丘陵を中心とします)に集合し、ブリュシュ川南方の平地に進出している部隊はエンツハイム(アヘンハイムの南5キロ。現国際空港南)まで前進、騎兵は西よりやって来る敵をいち早く発見するため、歩兵より遠く南西方面へ進み捜索せよ」との内容でした。


 この緊急命令を受け、Ba竜騎兵第1「親衛」連隊は17日早朝、2個(第1,3)中隊をサン=モーリス(エンツハイムの南西32キロ)を目標に先発させ、残り2個(第2,4)中隊はシルメック(同西31キロ)に向かいました。同じ頃、Ba竜騎兵第2連隊は、急ぎ集合地に向かう歩兵の援護のため、西方向に先行するのでした。

 17日午前中、Ba第3旅団に属した歩兵4個大隊と砲兵3個中隊は命令通りエンツハイムに進みます。

 同じく歩兵8個大隊(アグノーから到着したばかりの普第34連隊とブリュマトから来たばかりのBa第4連隊第1大隊を含みました)とBa竜騎兵第3連隊の2個中隊、そして砲兵5個中隊はアヘンハイム~エルノルスハイム高地に前進し、集合するのでした。

 午後になるとBa擲弾兵第2連隊第2大隊もローベルゾからアヘンハイムに呼ばれ、これで要塞の包囲は一時僅か歩兵3個大隊と騎兵2個中隊、砲兵1個中隊のみに託されることとなったのです。


 この時、Ba擲弾兵第2連隊F大隊はシルティカイムとローベルゾに展開し、後刻、ケールから応援に駆けつけた1個中隊の歩兵と、北方からBa第4連隊第2大隊が到着(後述)したことで薄い北部包囲線は幾分か強化されました。

 包囲線に残留したBa竜騎兵第3連隊の半部(2個中隊)は下馬してシルティカイムとオベルアウスベルジャン間を守り、Ba第5連隊F大隊と重砲第2中隊はエックボルスハイム(大聖堂の西4.5キロ)に陣取って衛星市街のケーニヒスホーフェンに対し睨みを利かせました。

 また、同連隊の第1大隊はランゴルサイム(大聖堂の西南西6キロ)にあって、ブリュシュ川と要塞南部イル川の間を警戒するのです。

 このイル川からラインに掛けての要塞南部は差し当たり放置し、騎兵が巡視するに留められたのでした。

 フォン・ヴェルダー将軍は本営幕僚と共にアヘンハイムの西1.5キロ、高地中央の北麓となるブロイシュヴィッカースハイムに進んだのでした。


※8月中旬のストラスブール攻囲軍本営


◯軍司令官 伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー中将

・参謀長 パウル・スタニスラス・エデュアルド・フォン・レシュツィンスキー中佐

・参謀 フォン・グローマン少佐他3名

・本営副官 伯爵フォン・ヘンケル=ドンナースマルク騎兵大尉他5名

・砲兵部連絡 ハルトマン中佐

・工兵部連絡 アルブレヒト少佐

・軍本営附(ライン川担当) 男爵フォン・ライプニッツ海軍少佐

◯攻城砲兵部長 フリードリヒ・ヴィルヘルム・オットー・ヘルマン・フォン・デッカー中将 


挿絵(By みてみん)

フォン・デッカー


・同参謀 フリードリヒ・エルンスト・フェルディナント・フォン・シェリハ中佐

・同副官 ヒンペ中佐他4名

◯工兵部長 カール・ヴィルヘルム・フェルディナント・フリードリヒ・フォン・メルテンス少将 


挿絵(By みてみん)

メルテンス


・同幕僚長 カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・オスカー・ボーゲン・フォン・ヴァンゲンハイム中佐

・同副官 ワーグナー大尉他2名

・同部員 フォン・ガイル中佐他16名

◯野戦砲兵部長 バートホルト・ミヒャエル・フォン・フライドルフ大佐(バーデン大公国砲兵連隊長)

・同副官 男爵フォン・ノイブロン中尉

◯軍本営従軍

・バーデン大公フリードリヒ1世・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ公

・男爵フォン・ノイブロン=アイゼンブルク中将(バーデン大公侍従武官)

・同副官 フォン・フォーゲル少佐他2名

・バーデン大公国公子フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・レオポルト・アウグスト親王

・侯爵ヘルマン・フォン・ホーヘンローエ=ランゲンブルク中将


 この時、仏軍側ではストラスブール大聖堂の尖塔高楼にある監視哨が独軍の動きを逐一観察していました。ところが、要塞防衛本営では独軍のこの行動を「要塞の包囲線を再構築し狭める行動」と判断してしまったのです。

 こうして仏軍は貧弱な包囲線に対して攻撃を企てることなく、僅かにあった解囲の機会を見逃し、ただそれまでも攻撃を繰り返していたローベルゾ地域のBa部隊に対し、時折銃撃を加えただけでした。


 この薄くなっていた包囲線に対し、この日(17日)昼過ぎから増援の第一弾が到着し始めます。


 普第30「ライン第4」連隊は開戦当初マインツの大要塞守備隊に所属していましたが、8月10日の大本営命令によりストラスブール攻囲軍に参加することとなり、翌11日汽船に分乗してマインツからマンハイム(ストラスブールの北北東113キロ)までライン川を遡上し、この地から徒歩急行軍でストラスブールに向かい、17日正午ミットアウスベルジャンに到着します。少時休憩した連隊は午後6時に前哨をサヴェルヌ街道に繋がる街道(現国道D63号線)に沿って配置しました。


 同じくBa第6連隊F大隊はゾウフェルヴァイヤースハイムに到着し、Ba第4連隊第2大隊は本隊の3個中隊が午後に入ってシルティカイムに現れ、市街地後方に準備された野営陣地に入りました。行軍が遅れた同大隊の第6中隊は、夕刻にアヘンハイム高地の攻囲軍本隊に合流するためオーバーシャエッフォルスハイムまで進むよう命じられます。


 予備第1師団に参加する普予備竜騎兵第2連隊は当初、オーダー(オーデル)河畔のフランクフルト(フランクフルト=アン=デア=オーダー。ベルリンの東80キロ)で集合完結しますが、10日の命令で列車に乗車してドレスデン、トルガウを経由しマインツまで輸送されました。ここで列車を降りた連隊は強行軍でストラスブールを目指し、16日にアグノー、17日夕刻にはエルノルスハイムで攻囲軍本隊に合流しました。

 これで17日夜に攻囲軍は歩兵21個大隊、騎兵16個中隊、砲兵9個中隊となっています。


 この17日午後遅くまでに攻囲軍本営のヴェルダー将軍は、南西方向へ先行派遣したBa師団騎兵によってもたらされた諸情報により、仏軍がストラスブールに向かって前進しているとの情報は誤りであることを知ります。


 将軍は直ちにブリュシュ川両岸に西を向いて展開していた諸隊に対し、現在地で集合したままの宿野営を命じ、Ba第3連隊第2大隊をイルキルシュへ進ませて、手薄となっていた要塞の南側へ前哨線を張らせるのでした。

 17日深夜、ヴェルダー将軍はブロイシュヴィッカースハイムの本営から全軍に命令を発し、それは「速やかに元の包囲線を回復し、従前より一層狭めた包囲網を構築せよ」との内容でした。攻囲軍本営では新たに加わった部隊を包囲線に配分するため、全軍の任担地と宿営地を再配分する作業に追われたのでした。


 この新たな包囲線に就くための行動は18日早朝から始まります。

 ライン川からオベルアウスベルジャンに至る要塞北方包囲線は普軍の混成歩兵旅団と予備竜騎兵第2連隊に割り振られましたが、元よりここを守備していたBa師団部隊は、普軍部隊と交代する前に仏軍と戦闘を交えることとなります。


 この日払暁時、要塞の仏軍は未だ終了していなかったシルティカイム南のサン・テレーヌ墓地周辺における木々の伐採を強行するため、貴重な正規軍部隊、戦列歩兵第87連隊の2個中隊およそ400名と同第21連隊の1個中隊およそ200名をステンブール門から出撃させます。

 この集団は第87連隊長で「西方戦区」を任されていたブロ大佐が直率しますが、シルティカイムの南郊外でBa擲弾兵第2連隊第9,12中隊の前哨陣地に遭遇、これに突撃を敢行しました。

 銃撃戦が始まると、シルティカイム市街地にいたBa第4連隊第8中隊が応援に駆け付け、暫し激しい銃撃戦が展開されましたが、やがて仏軍側は25名の損害を出した後、市街地南端のビール工場の一つに放火し、午前7時になって要塞へ退却して行きました。


挿絵(By みてみん)

 ブロ


 この朝の騒動以降、この18日は独軍の展開に対し仏軍は観察するのみに留まり、攻囲軍は無事に部隊展開を完了します。


 ローベルゾ地域からシルティカイム、その北のビシュハイムとホエンハイム市街地には到着したばかりの普第30「ライン第4」連隊が展開しました。

 アウスベルジャン高地(ニエトゥ~ミット~オベルの各部落)には普フュージリア第34「ポンメルン」連隊が展開し、第30連隊との連隊戦区境界線はブリュマトへ向かう鉄道線に引かれました。

 普予備竜騎兵第2連隊はオベルアウスベルジャン、ムンドルスハイム、ゾウフェルヴァイヤースハイムの各部落に分駐します。


 一方、Ba師団は本営を「仏解囲軍迫る」の誤報で進んだオーバーシャエッフォルスハイムに定めると、ブリュシュ運河を境に師団を分割し、「北支隊」*はBa第2旅団長フォン・デーゲンフェルト少将が率いて、歩兵部隊は東側エックスボルスハイムからヴォルフイスハイムを経て西側をアヘンハイムにかけて街道(現国道D45号線)沿いに展開、その前哨警戒をケーニヒスホーフェンとその付近の鉄道線まで進ませます。配下の騎兵は包囲線の背後にあって、包囲線西側に聳えるヴォージュ山脈方面からの攻撃を警戒しました。


 「南支隊」*はBa第3旅団長ケラー少将が率いて、歩兵はブリュシュ川南のホルツハイムと、イルキルシュからガイスポルスハイム(イルキルシュの西南西5.5キロ)までに展開し、Ba第6連隊のF大隊のみドゥッピクハイム(ガイスポルスハイムの西北西4.3キロ。現国際空港西)に進出してヴォージュ山脈方面を警戒しました。支隊の前哨線はホルツハイム郊外からランゴルサイムとオストヴァルドを経てイル川東岸ワーグホイゼル(オストヴァルドの東北東2.5キロ付近)南方まで張り出します。

 竜騎兵部隊は遥か南方に進んで、Ba竜騎兵第2連隊はバール街道(現国道D392号線からD215号線などを経る)に沿ってエンツハイム(現国際空港南)からクラウターガースハイム(エンツハイム南西8.2キロ)まで警戒線を張り、1個中隊を北支隊に派遣して欠くBa竜騎兵第3連隊はイル川両岸に沿って南下すると、セレスタやヌフ=ブリザックにつながる諸街道を監視するためヒップスハイム(イルキルシュの南南西8キロ)とブローブスハイム(イルキルシュの南7キロ)に進みます。この両連隊の偵察隊はバール(ストラスブールの南西30キロ)、ベンフェルド(同南南西26キロ)、ボオフツハイム(同南28キロ)付近まで進んだのでした。


 ストラスブール攻囲軍司令フォン・ヴェルダー中将は17日午後、前述通り「西からの解囲軍進撃の情報は誤り」と判断してムンドルスハイムの攻囲軍本営へ帰りました。

 情報ではフェリクス・ドゥエー将軍率いる仏第7軍団もベルフォール要塞付近から鉄道に乗って「西側の何処か」へ向かったとのことで、これで仏第7軍団がストラスブールへ向かうことは考えられず、ファイー将軍の仏第5軍団もとっくにヴォージュ山脈を越え西への撤退を行っている最中と考えられるため、攻囲軍が西または南から脅威を受ける可能性はかなり減るのでした。


 しかし、攻囲軍が心配しなくてはならないことは仏正規軍の攻撃ばかりではありません。

 この時、遠く南西方向へ偵察に進んでいたBa竜騎兵第1連隊からの報告では「武装蜂起した住民が護国軍と共同し攻撃して来た」とのことだったのです。


 同連隊の第1,3中隊は17日昼前、前述通り「南西からの脅威」を事前に察知せよ、との命令を実行してサン=モーリス(大聖堂の南西42キロ)に到着し、部落北西郊外に野営しました。ここから斥候をサアール(サン=モーリスの西17キロ)とセレスタへ放ちます。

 午後2時、セレスタに向かった1個小隊の竜騎兵斥候は、途中のタンヴィレ(サン=モーリスの南東1.2キロ)で部落内の道路にバリケードが築かれ、その地の橋も武装した一団によって守備されているのを発見し、更にその先へ延びるシャトノワ街道(現国道D424号線)にまとまった数の武装集団がいるのを望見しました。


 報告を受けた第1,3中隊は、森林に囲まれた険しい地形により正面から敵と対するのは騎兵にとって不利となるので、西へ迂回して攻撃することに決し、サン=モーリスからヌーヴ=エグリーズ(サン=モーリスの西1.8キロ)に向けて急進し、この平坦な開拓地から山裾を南へ回り込んで、セレスタ護国軍大隊を主幹とする街道上の武装集団左翼を襲いました。

 一皮剥けば素人の集団に過ぎない護国軍部隊と農民武装集団は、この訓練されたBa竜騎兵による情け容赦のない襲撃で多数が斬殺され、動揺した集団はたちまち離散してしまうのでした。

 ところが、この襲撃の最中、残りの護国軍と農民はサン=モーリスと周辺の街道にバリケードを造り、その後方に銃を構え待ち伏せを始めます。ストラスブール方向の退路を絶たれたことを知ったBa竜騎兵両中隊は深追いを止め、山地に分け入って後退し、多くはヴィレ(サン=モーリスの北西3キロ)~レッシュフェル(同北東5.7キロ)~エイコフェン(同北東10キロ)を経由して深夜半、ニエデルネ(同北東19キロ。Ba竜騎兵第2連隊前哨のいるクラスターガースハイムの南西4.5キロ余り)に到着し難を逃れました。

 この日、第1,3中隊は戦死1名、負傷1名、行方不明7名(その全てが護国軍の捕虜となっています)を報告しています。

 中隊の災難を知らずサアールに向かった斥候1個小隊は、同地を偵察後に後退し、シルメックに到着していた第2,4中隊と無事合流しました。


 攻囲軍包囲網の後方で「ゲリラ」的な活動が活発化すれば、後方連絡線が脅かされ、糧食などの徴発や兵站輸送に支障を来たし、巡視を強化し拠点防衛にも兵力を割かねばならなくなる、といった様に攻囲作戦に大きな影響が生じかねません。

 攻囲軍本営はブライテンバッハ(サン=モーリスの北西5.5キロ)付近から流れるギーセン川(セレスタの北東郊外でイル川に注ぐ支流)が作るヴィレの谷(シャトノワ街道筋に当たります)で蜂起する住民を「懲らしめる」ため、Ba師団南支隊に対しその討伐を命じました。


 出動したのはBa第5連隊第2大隊で、18日午前早くにエンツハイムの宿営を発ち、バールへ続く諸街道を行軍して早くも同日正午頃、先行する2個中隊はヴィレの谷東側に接するサン=ピエール=オー=ボワ(サン=モーリスの東2キロ)に到着しました。

 この地を拠点に谷沿いに多数の偵察隊を発した両中隊は、「谷地にあるほとんどの部落は住民が放棄して無人となっている」と報告し、「住民からの抵抗は受けなかった」とするのです。

 しかし、シルメック在のBa竜騎兵第1連隊第2,4中隊からの報告では、「ラオン=シュル=プレンヌ(シルメックの西北西10キロ)からヴォージュ山脈地帯へ派遣した竜騎兵斥候隊が、特にサン=ブレーズ(=ラ=ロッシ。シルメックの南南西9.3キロ)方面で住民の抵抗を受けた」とのことだったのです。

 この情報から攻囲軍本営は「南方包囲線の後方地域に監視哨兵を派出し、特にヴォージュ山脈とセレスタ地方に対し警戒を厳重にする」と決したのでした。


 この方針に従い、Ba師団南支隊は19日以降の数日間に渡ってヴォージュ山脈に面するバール地方を走るバーゼル鉄道のエイコフェン(バールの南2.5キロ)、ゲルトヴィラー(同北東1.3キロ)等の停車場、そしてライン川とバール地方間のベンフェルド、ボオフツハイムの部落に守備隊を置き、ここから発した斥候隊は「住民の抵抗あり」とされたヴォージュ山脈内のサン=ブレーズまでの間、ヴィレ谷やセレスタ周辺をくまなく巡視し、住民たちにその姿を見せて威嚇したのです。

 北方包囲線では同時に、普予備騎兵第2連隊の一部が包囲線後方地域に散って付近の諸部落を捜索し、未だ隠れ潜んでいる「ヴルトの戦い」における敗走兵を捕縛して、これをラシュタット要塞へ護送したのでした。


 このBa軍による要塞後方地域への示威行動によって、アルザス全域に広がろうとしていた独軍への抵抗運動の芽を摘み取り、後方が比較的平穏となると、攻囲軍はいよいよストラスブールへの本格的な攻撃準備に入るのでした。


挿絵(By みてみん)

 イルキルシュの遭遇戦


※バーデン大公国(Ba)師団の分割(8月18日)


◆師団本営

師団長(代理) カール・ドゥ・ジャリス・フォン・ラ・ロッシ少将 

参謀長(代理) 男爵フォン・テーツ=アメロンゲン少佐

野戦砲兵連隊長(代理) フォン・ファーベルト中佐

◆北支隊

 男爵アルフレッド・エミール・ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・デーゲンフェルト少将 (混成歩兵「第2」旅団長心得)

◯ 第1「親衛擲弾兵」連隊(男爵男爵カール・ハインリヒ・ルドルフ・フォン・ヴェマール大佐)

・第1大隊(男爵フォン・ゲミンゲン少佐)

・第2大隊(アウグスト・ホフマン中佐)

・フュージリア大隊(ベッツ少佐)

◯ 第2「プロシア王擲弾兵」連隊(カール・フォン・レンツ大佐)

・第1大隊(ブライブトロイ少佐)

・第2大隊(カール・ヒエロニュムス中佐)

・フュージリア大隊(ヴィルヘルム・ヨセフ・フェルディナント・ヴォルフ少佐)

◯ 第4「ヴィルヘルム親王」連隊(バイヤー大佐)

・第1大隊(アーノルド中佐)

・第2大隊(ヘルト少佐)

◯ 竜騎兵第3「カール親王」連隊の1個中隊

◯ 予備砲兵隊(野戦砲兵連隊・第2大隊/フォン・ロッホリッツ少佐)

・軽砲第3中隊(ホルツ大尉)

・軽砲第4中隊(クンツ大尉)

・重砲第3中隊(ヘヒト大尉)

・重砲第4中隊(フォン・フローベン大尉)

◆南支隊

 フランツ・アントン・ケラー少将(混成歩兵「第3」旅団長)

◯ 第3連隊(カール・アウグスト・フリードリヒ・ミュラー大佐)

・第1大隊(コン・フォン・ヴィルデック中佐)

・第2大隊(シュタインヴァックス少佐)

・フュージリア大隊(ヴィッドマン少佐)

◯ 第5連隊(ザックス大佐)

・第1大隊(パッヘリン少佐)

・第2大隊(男爵リューダー・フォン・ディールスブルク少佐)

・フュージリア大隊(ヤコビ少佐)

◯ 第6連隊・フュージリア大隊(キーファー少佐)

◇騎兵旅団

 男爵フォン・ラ・ロッシ=スタルケンフェルス=ヴェルツェ少将

◯ 竜騎兵第1「親衛」連隊(代理・フォン・メルハルト少佐)

◯ 竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊(ヴイルト大佐)

◯ 竜騎兵第3「カール親王」連隊(1個中隊欠・男爵ヴィルヘルム・ディートリヒ・フォン・ゲンミンゲン中佐)

◯ 騎砲兵中隊(男爵フォン・ステッテン大尉)

◯ 師団砲兵隊(野戦砲兵連隊・第1大隊/フォン・テオバルト中佐)

・軽砲第1中隊(代理・男爵フォン・ウント・ツー・ポドマン中尉)

・軽砲第2中隊(伯爵フォン・ライニンゲン=ビリヒハイム大尉)

・重砲第1中隊(フォン・ポルベック大尉)

・重砲第2中隊(フォン・ゲーベル・フォン・ハーラント大尉)

◆ケール支隊

  クラウス中佐(Ba第6連隊第1大隊長)

◯ 第6連隊・第1大隊(クラウス中佐直率)

◯ 第6連隊・第6,7中隊

◯ ラシュタット守備隊騎兵中隊の支隊(50騎/ストックホルネラー・フォン・シュタライン少尉)

◯ バーデン大公国要塞砲兵大隊第1中隊(野砲装備/男爵フォン・ゼルデネック大尉)

◯ 攻城砲兵分遣隊 ネベニュース少佐

・バーデン大公国要塞砲兵大隊第2中隊(フューレンバッハ大尉)

・バーデン大公国要塞砲兵大隊第4中隊(モール大尉)

・バーデン大公国要塞砲兵大隊第5中隊(フォン・ファーベル大尉~8/25)

     (フォン・グライヘンシュタイン中尉 8/26~)


※第4連隊フュージリア大隊(パウエル少佐)は輜重縦列警備、第6連隊第2大隊はラシュタット在


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