ストラスブール攻囲戦(前)/包囲に至るまでの経緯と地形
1870年8月上旬。普仏戦争緒戦に連勝する独軍が仏本土内に深く侵攻すると、独軍(北独と南独諸侯軍)では補給連絡線の防衛が次第に問題となって来ます。
この後方連絡線と兵站輸送確保のため、前線にある野戦軍後方ではそれ以上の兵力を使うことになりますが、中でも主要街道にあって仏軍が籠城した諸要塞は多大の労力を要して包囲し、貴重な兵站輸送を妨害されないようにしなくてはなりませんでした。
これらの要塞の多くは、既述通りフランス国王ルイ14世に仕えたセバスティアン・ル・プレストル・ドゥ・ヴォーバン(1633-1707)が建設するか改修した堅牢なもので、これら17世紀後半から18世紀初頭に建設された要塞は、機動力と輜重補給段列を完備した野戦軍が主流となる19世紀の近代戦において最早国境防衛には役立たなかったものの、これも既述通り小銃と小口径・軽量の野砲を使用する野戦軍では陥落させるまでに至らず、多くは小部隊によって監視するに留めて後方に「宿題」として取り残されるのでした。
それでも戦線が更に仏本土奥地へ前進すると、輜重や兵站など後方部隊も仏本土へ前進を開始し、8月上旬から中旬にかけて独軍兵站総監部所属の後備歩兵大隊が全て動員を完了すると、これら要塞の監視や包囲を野戦軍に代わって行うこととなります。
同時に北部沿岸防衛に備えていた正規1個と後備4個師団も8月中旬以降アルザスとロレーヌに進み、要塞包囲に加わるのでした。
この要塞の中で最大なものはメッス要塞で、ここにバゼーヌ大将率いる仏「ライン軍」が籠城したため、独野戦軍の半数に及ぶカール王子率いる「メッス攻囲軍」がこれを完全に包囲していました。
そして、これに次いで重要なものがストラスブール(独ではシュトラースブルク。以下カッコ内は独名とします)要塞都市となったのです。
ストラスブールは既に中世からライン沿岸最大の要衝として仏側から独側へ侵攻する玄関となっており、戦争当初より仏側は南独へ侵攻するための入り口として、独側は最初に落とすべき目標としていました。
しかしヴルトの戦いの結果、仏第1軍団を主力とするマクマオン将軍麾下の軍がロレーヌの地へ去ったため、仏軍による南独侵攻の現実味は薄れます。それでも南仏から進撃する軍隊があるとすれば、未だストラスブールの存在は大きなものだったのです。
この危険性を看過出来ない、南独諸侯と北独第5、第11軍団の統合軍である独第三軍を率いる普皇太子フリードリヒ騎兵大将は、麾下のバーデン大公国師団に対しストラスブールの攻囲を命じました。
8月6日、偶発的に発生した大会戦、「ヴルトの戦い」に参加せず、アグノー(ストラスブールの北26キロ)郊外でストラスブール方面を警戒していたバーデン大公国師団は8日、西へ進んでヴォージュ山脈を越える友軍とは逆に進み、ブリュマト(ストラスブールの北17キロ)へ入城し、ストラスブールに向けて監視部隊を送り出します。
同10日夕刻、普大本営より直接の命令が届き、それは「ストラスブールを監視し仏軍の増援を防ぎ、後日到着する友軍増援と共に要塞を完全包囲せよ」というものでした。
大本営は至急バーデン大公国(以下Ba)師団への増援を手配し、ストラスブールを落すべく動き始めたのです。
ストラスブール市はアルザスの州都で、アルザス州は鉄鉱石(採掘量は当時仏における20%分)や石炭の産出と、ライン川を利用した物流により中世から栄えていて、過去も独仏間で争奪が相次いでいました。中世では長らく神聖ローマ帝国領でしたがルイ14世時代の三十年戦争の結果(ウェストファリア条約)仏王国領となり、独領域住民にとっては「奪われた土地」というイメージがありました。しかもアルザス地域の言語「アルザス語」は南部ドイツ語方言「アレマン語」の流れで、住民もドイツ系アルザス人が大多数を占め、今回の戦争により民族意識が高まったことも相まって、独側には200年来失われていた我が領土を「奪還する」という「目標」も自然現れ始めていたのです。
ストラスブール市(1870)
1870年当時のストラスブール要塞は、頂点をライン川方向の東南東に向けた二等辺三角形となっており、その周辺に衛星市街が取り巻いていました。
ラインに突出する三角形の頂点にはヴォーバンによる稜堡式城塞があり、反対側の底辺は、ヴォージュ山脈から延びたアウスヴェルジャンの丘陵に約5キロの距離を隔てて面していました。
要塞地区の城壁は17世紀にはヴォーバンにより稜堡式に造られていましたが、その後度重なる改装で前進堡や稜郭堡が増設され、19世紀中頃には既に複雑な様相を呈していました。これは決して防御側に利とはならず、却って要塞内部の速やかな移動を妨げており、また、近代戦での大砲の威力増大によって無用の長物と化した箇所もあったのです。
1870年当時にあっては要塞そのものの防御より、その周囲の地形こそがストラスブールを難攻不落にしていました。
この要塞都市は東にはライン川が、それと平行し街を南北に走るイル川、南にその支流ラアン・トルテュ(クルマー=ライン)川、そしてイル川とライン川の間を直線状に走るライン=ローヌ運河、西側にイルの支流ブリュシュ(ブロイッシュ)川、それと平行に走るブリュシュ運河、街から北西へ直線状で走るライン=マルヌ運河、そして北にラインからブリュマトへ横切るソン川と、多くの水流に囲まれ、それら河川・運河を結ぶ無数にある小運河や小河川が網の目状となっていました。この水流を利用して要塞の外壕はいつでも水濠となり、街の北と南は万が一の場合には水没氾濫地帯となって、特に南側は3から4キロ四方に至りました。
水浸しとなった場合、ストラスブールに出入りするにはスイスのバーゼルに向かう本街道と2、3の堤状となった街道を行くしか手が無くなるのです。
市の南側、ラアン・トルテュ川とライン川の間は深い森となって展望と通行を妨げ、ここには重要な拠点となる可能性を秘める小部落と単独の農家とが点在していました。同じく南西側ライン=ローヌ運河とブリュシュ川との間はいくらか平坦ですが、前述通り水没する地帯であり、ここで水の上に出るのは数少ない小丘とブリュシュ川とイル川の合流点グリュナーベルク(ストラスブール大聖堂の西南西4キロ)の部落から以西の高地でした。
この地域で中心となるランゴルサルム(大聖堂の南西6キロ)から要塞まで進むには、水没した場合一部が堤状となったバール街道(現国道D392号線)を進むしか無くなります。
要塞の南側隔壁外のすぐ傍にはラインを越えてバーデン領ケール(ストラスブール東ライン対岸)に続く国際鉄道の堤があり、これは要塞市街の西を巡って北西へ抜けるので、要塞南側が水没した場合南側から北西側への連絡路として貴重な存在でした。
市の西側は前述通りヴォージュ(ヴォゲーゼン)山脈から続くアウスヴェルジャン高地帯があり、これはブリュシュ運河の北岸コルブスハイム(大聖堂の西12キロ)からオベルアウスベルジャン(同北西5.5キロ)を経てムンドルスハイム(同北北西7.5キロ)付近まで続きます。この付近では高地帯を源流とするゾウフェル川が深い淵を作って流れ、この川はゾウフェルヴァイヤースハイム付近(同北6.4キロ)でライン=マルヌ運河を横切り、大聖堂の北北東7キロ付近でイル川に注ぎました。このゾウフェル川が要塞攻略戦における北端となります。
この市北部は西の高地帯から東に向かって緩斜面となり、林は少なく見通しが利きますが、南部よりは窪地が多く波状にうねる地形もあって、これは攻める側にとって利点となるものでした。前述の国際鉄道はこの地を北西ブリュマトへ進み、この鉄道の堤や切り通しは要塞砲からの良い遮蔽物ともなります。
鉄道は市の南西側ケーニヒスホーフェンのビール醸造場(後述)付近で堤からトンネル状へと変化し、パリへの大街道(現ロマン道路~国道D228号線)の下を通過すると要塞の西1.5キロ付近で深さ1m程度の浅い切り通しとなってサヴェルヌ街道(現国道D41号線)の脇に達します。この周辺は水没地域となり、更にこの周辺の土壌は粘土質ですので、工兵の作業は捗り水の浸透は少なく、理想的な氾濫地域となりました。
ストラスブール市西~北部には3個の衛星市街地があり、これらは要塞の斜堤から500m程度離れてありました。
一番南にあるのはパリ街道上にあるケーニヒスホーフェン(ストラスブール大聖堂の西2.8キロ)でその東部分は街道沿いに2列となった家屋群ですが西部は家屋が密集し、その中ほどに前述のビール工場がありました。この市街入口南のサン=ガル墓地はイル河畔の高地上にあって軍事的に重要な地点となります。その西にはユーデンキルヒホーフ墓地もありますが、こちらは平坦地にあって軍事的に価値はありませんでした。
要塞の西正面にはサヴェルヌ街道に沿ったクローネンブルク(大聖堂の西北西2.8キロ)があり、こちらも東部は街道沿い2列となった家屋群、西部は家屋が密集とケーニヒスホーフェンそっくりな造りとなっていました。ただ目立つ建物はなく、大きな建物としては西郊外に床板の製材所があるだけでした。
このクローネンブルク東方には鉄道線路が走っており、バーゼル鉄道とパリへ続く国際鉄道の合流点が部落北東にあって、この合流点内側に2個の大きな建物と貯水塔が目立つ貨物停車場があって、これは要塞外郭から500m程離れた位置にありました。
三番目でレクステット(大聖堂の北7.5キロ)へ続く街道(現国道D37号線)沿いにあるシルティカイム(シルティヒハイム)は、他2つの衛星市街より大きく広く、その北街道沿いにビシュハイム、ホエンハイム2つの部落を連ねて人家、町工場、立派な隔壁を持つ庭園などが密集し、この地域だけで当時1万人の人口がありました。
その中心地はレクステット街道の東側、イル川西岸の高台上にあります。大きな街路が数条あって、これはイル川支流で街の南を流れるアル川と街の東側に延びるライン=マルヌ運河とに向かって下っていました。
労働者階級が多く住むシルティカイムの街南部は、要塞隔壁からシャスポー銃の射程内(およそ1,200m)にあって、密集する家屋の多くは木造で安普請であり、庭園の隔壁も多くが木造の塀でした。
市街郊外には建物がほとんど無く、ただビール工場の倉庫が2、3棟見えるのみでした。
シルティカイムの市街地南部にほとんど隣接する形で、レクステット街道とファンデンハイム街道(現国道D263号線)が三叉路となり、ここには樹木と草むらに囲まれたサン・テレーヌ(サンクト=ヘレナ)墓地がありました。墓地は両街道に挟まれて北を底辺に三角形を成していて、南側頂点は要塞の斜堤からわずか200m強でした。北側底辺は深さ3.7mの壕となっていましたが、他の2辺はただ街道からの無用な侵入を防ぐだけの木柵でした。
このシルティカイムの東、要塞の北東方はイル川とライン川に挟まれた低地で、両河川の支流が入り組んでおり、その様相は南部水没地帯と変わらぬ光景と映ります。この低地南側を東西にライン=マルヌ運河が横切りますが、この運河が隔てた南と北では多少風景が異なっていました。
運河北部はローベルゾ(旧名ルプレヒト=アウ。要塞の北東5キロ)の丘を中心として林が広がり、所々に農家がありました。
運河南部は要塞斜堤までの距離が短く、北部より狭い地域で、こちらは水路が入り組んでいくつかの「島」が形成されていました。
シルティカイムの東でアル川が湾曲して分流し、再び要塞直下でイル川に合流することで鞘状のスピタルガルテン島(イーゼル)を造っていました。この島の北、ライン=マルヌ運河がイル川を横切る部分の島はヴァッケン島と呼ばれていました。
ヴァッケン島は運河で二分され、そのシルティカイム側の西先端には鞣し皮工場と並んで皮細工の製造工場があります。
このヴァッケン島南西側の要塞水濠に続く水路によってヤルス島が形成され、その南、要塞との間にはコンタッド庭園(現存)がありました。
この辺りのイル川と交錯して走る諸水路の余った水をライン=マルヌ運河へ排水するため、城塞下の水濠からフランツージャシャー・カナル運河(現在は暗渠となってマルヌ通りという道路になっています)が造られていましたが、この運河とイル川の間も島状となっており、ここには広大なオレンジ農園(現・オランジュリ公園)があり、附属の庭園と数軒の家屋がありました。
これら大小の「川中島」はほとんどが橋で結ばれ、相互の連絡は容易となっていたのです。
要塞の東側、ライン川と挟まれた地域はシュポレン島(現エピ島)と呼ばれ、この島と要塞の間には運河が屈曲しつつ流れており、「島」の幅は広いところでも1キロ強と狭く、その地質は砂礫がほとんどで土地も平板、密生する低木や草むらはライン対岸のバーデン領ケール部落からストラスブール市街を隠蔽していました。この島は正しく国境の島となり、国際鉄道と街道の橋が並んで架かり、そこには税関もありました。
また、ケール自体も林に囲まれ、西岸よりは高地にあるもののこちらもストラスブール要塞先端の城塞からは望むことが出来ませんでした。
これら地形からして、ストラスブール市を攻める方向は自然と「北西」側からとなります。
要塞のこの方面には第7から第15号までの9ヶ所の稜郭堡があり、特に第12号堡は鋭く北東方に飛び出していました。
この12号堡と7号堡の間が要塞の西正面となり、ここには郭壁に4つの城門があります。この内3つの門はそれぞれ3つの「衛星市街」につながり、ヴァイセンツルム門はケーニヒスホーフェンに、サヴェルヌ(ツァーベルン)門はクローネンブルクに、ステンブール(スタイン)門はシルティカイムに、それぞれ通じていました。
サヴェルヌ門付近にはストラスブールの市内停車場に向かう鉄路が要塞の隔壁を通過する箇所があり、ここは要塞へ侵入する格好の地点(即ち要塞の弱点)となりかねない部分でした。
また、西側には2つの前進堡塁があって、それぞれ要塞隔壁から200mほど前方に突出して構え、それぞれサヴェルヌ門の南北にあって、南側堡塁には第40から第42号の3つの稜郭堡が、北側堡塁には第47から第49号の3つの稜郭堡が、それぞれ北西側からの侵入に備えていました。
サヴェルヌ門(1865年)
この要塞西側防衛線において最も要塞から離れていた拠点は、バーゼルとパリ国際2つの鉄道線が交わる三叉路間にあった第44眼鏡堡でした。
また、第7号稜堡の前にある低地には「パーテ」と呼ばれる第37眼鏡堡があり、南側前進堡の第40号稜堡の南西側にも土で造られた小堡塁がありました。
要塞北側防衛線の中で、この攻囲戦に関係したものは第12号稜堡とイル川との間に要塞隔壁に接してあった「フィンクマット」と呼ばれる前進堡があり、第58から第60号の3つの稜郭堡が備えられていました。この北には前述ヤルス島の南部を塞いで造った堤状の「コンタッド」土塁があります。
フィンクマット堡と第15号稜堡との間にはユーデン門があり、これは要塞内部の市街とコンタッド庭園を経てシルティカイムとを結ぶ街道の出入り口でした。
仏軍の工兵は、北西部防衛の弱点は突き出した第12号堡にあると信じ、急ぎ4つの眼鏡堡を築造しています。
これはステンブール門からシルティカイムへ向かう街道左に造られた第52と第53堡と同街道右側、第54と第55堡でした。これらはコンタッド土塁と連絡を通し、射界が重なるよう造られていたのです。
この時代物とはいえ頑強なストラスブール要塞都市の防衛司令官は、同じく「老兵」とはいえ頑固で一途な当時68歳になっていた仏将官、ジャン=ジャック・アレックス・ウーリッシ少将でした。
ウーリッシは開戦時、既に引退し予備役に入っていましたが動員召集と共に現役復帰させられ、「ストラスブール防衛司令官並びにアルザス州徴兵区長」に任ぜられ、7月21日にストラスブールへ着任したのです。
ウーリッシ
ストラスブールは既に7月15日深夜、戒厳令が敷かれていましたが、ウーリッシ将軍が着任した時点ではまだ仏側は当市が包囲されるとは考えておらず、ただ城門を閉ざすだけで、この地から南独に侵攻予定の仏第1軍団と名将マクマオン将軍を待っていたのでした。
引退していたとは言えウーリッシ将軍はのんびりと構えていません。着任早々、これも出征するルブーフから引き継いだばかりのピエール・シャルル・ドジャン陸軍大臣に対し、「一刻の猶予無く要塞外射程内にある建造物を撤去し、樹木を伐採する許可を得たい」と上申します。
ところが、動員の「混乱」で頭が一杯のドジャン陸軍大臣は「緊急事態に陥った場合のみ許可するが、その場合も州庁官僚に承諾を得てから行い、決して許可無く行ってはならない」と答えるのでした。
全く現状が見えていない陸軍省にウーリッシ将軍は苛立ちますが、そこは「命令厳守」の仏軍将軍、まずは自身の判断のみで「動かす」ことの出来る要塞地区に手を着けます。要塞砲の邪魔となる視界内の樹木を伐採し、建物を整理し始めました。頑丈な家屋や防御に適した場所にある建物を接収し、銃座や監視哨なども設けました。
この間、動員の遅れていた仏第1軍団も順次街に到着しますが、遂に前線で戦闘が始まったことにより仏軍は一旦第1軍団による南独侵攻を諦め、マクマオン大将は8月4日午前、最後までストラスブールにいた野戦部隊を全てヴルト方面へ後退させ、ストラスブールは残った僅かな正規兵部隊と補充兵により守備されることとなったのでした。
この移動に際しマクマオン将軍は当初1個旅団の正規軍を残留させるつもりだった(再び戻ってこの地からの侵攻を目指すためでしょう)と言いますが、4日朝になるとウーリッシ将軍に対し「ストラスブールは外から第1軍団が直接に防御するので」と「言い訳」した後、「戦列歩兵第87連隊(第1軍団第4「ラルティーグ少将」師団)を貴官に預ける」として僅か1個連隊の正規兵を残し去ったのでした。
この8月4日にストラスブールに居たのは以下の兵力でした。
※1870年8月4日のストラスブール要塞守備兵
◆歩兵
○戦列歩兵第87連隊(3個大隊)
連隊長 オメル・アルセーヌ・アンドレ・ブロ大佐
○戦列歩兵第18連隊・第4大隊(いわゆる「マルシェ部隊」)
○同連隊・補充隊
○戦列歩兵第96連隊・第4大隊
○同連隊・補充隊
○猟騎兵第10連隊・補充隊
○猟騎兵第13連隊・補充隊
※猟騎兵は歩兵として使用。「第13連隊」は降伏の際に申告のあった連隊名による。ウーリッシ将軍の回想録では「猟騎兵第16連隊」となっています。
◆騎兵
○槍騎兵第6連隊・補充隊
◆砲兵
○砲兵第16連隊所属の架橋兵(第1軍団の架橋兵連隊・11個中隊)
連隊長 ジャック・オーギュスト・コンスタン・フランシス・フィエヴェ大佐
○砲兵第5連隊・補充隊
○砲兵第20連隊・補充隊
※砲兵補充隊は計11個中隊
◆砲兵属兵及び輜重兵(降伏の際、士官6名下士官兵458名在籍)
◆工兵16名(但し城壁監視兵に転用)
◆看守兵、憲兵、国境警備兵(護国兵) 各若干
これら雑多な兵士を併せても、ウーリッシ将軍が掌握していたのはおよそ7,000名でした。将軍はアルザス州の徴募責任者でもあったので、なおも市民や周辺住民から護国軍兵士を徴募中でした。
8月6日午後。
街には西方から難民が押し寄せ始め、市街地では仏軍が負けたとの噂が伝播します。それを裏付けるかのように西から負傷兵や落伍兵、戦場で本隊からはぐれ脱出した兵士らが現れ始めます。これらヴルトの戦いで最初に負傷した兵士や離散兵士たちはアグノーからの鉄道によって到着し、ウーリッシ将軍は「来るべきものが来た」とばかり警報を発し、隔壁の守備を増員して各城門を閉鎖するのでした。
この日夜遅くになって将軍に宛、マクマオン将軍からの電報が届き、それにはヴルト会戦の敗北が記されており、ウーリッシ将軍は覚悟を決めるのでした。
明けて8月7日。
敗残兵の大群が市郊外に現れ、ほぼ同時にアグノーで待機していたコンセーユ=デュームニル少将師団(第7軍団第1師団)の戦列歩兵第21連隊の1個大隊が到着します。この大隊は本隊に合流出来ず、南独軍(Ba師団)が現れたためアグノーから退却したものでした。
また、南方コルマール方面から動員が遅れようやくアルザスへ進んだ戦列歩兵第74と第78連隊の一部部隊(両連隊とも第1軍団第2「ペレ少将」師団)も到着し、これらの部隊は全てウーリッシ将軍が要塞守備隊に編入するのでした。
マクマオン軍が西方へ去り、ナンシー方面との連絡も絶たれたため、以降ストラスブールは要塞内に備蓄した糧食や物品、そして周辺と南方からの物資調達に依存することとなります。
ザール前面にいる仏皇帝ナポレオン3世は、この時ミュルーズ(ストラスブールの南96キロ)にいた仏第7軍団長フェリクス・ドゥエー将軍に対し、「出来ればストラスブールに1個師団、残り1個師団でベルフォール要塞(ミュルーズの西南西38キロ)を援護せよ」と命じますが、この時既にドゥエー将軍は1個師団をマクマオン将軍に、1個師団は未だ南仏リヨンから離れられずにいて、動かせたのは動員もままならない1個師団だけであり、到底命令に応じることは出来ませんでした。
この緊迫した状況で、ウーリッシ将軍は掌握していた徴兵区全域に戒厳令を布告します。これは先に州政府が発した「生温い」ものとは違い正真正銘の戒厳令で、将軍は当時の軍法に則って配下の高級士官による「要塞籠城防戦会議」を召集、情報の収集・共有と対策を急ぐのでした。しかし、この会議には一切の責任はなく、以降ストラスブールの防衛は一人ウーリッシ将軍の肩に重くのし掛かって来るのでした。




