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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ストラスブールとメッスの包囲、沿岸防衛
302/534

北海・バルト海の防衛と小海戦

19世紀のヤーデ湾、ヴェーザー川、エルベ川航路の海図


挿絵(By みてみん)


☆ 北独・北海沿岸防衛


 北海からヴィルヘルムスハーフェンに至る航路はヤーデ湾口ただ一つで、この「水道」も外洋を巡航可能な艦船が航行出来る水深のある部分は非常に限られたものでした。

 これら巡洋艦船が軍港に入ろうとする場合、湾口の北西側沖、東フリースラント諸島東端のヴァンガーオーゲ島を南に過ぎてから南東へ針路を取り、まずは湾口前に横たわるアルテ・メルム干潟(現在その中央部分が無人島のメルム島となっています)のすぐ西をすり抜け、今度は南に変針すると湾口西端のシリヒ岬の東を抜け、ホークジールやフォスラップと呼ばれる浅瀬を避けながら比較的水深のある湾口の西寄りを進み、最後に軍港入り口にあるゲニウス浅堆(バンク)の防船設備に気を付けての入港となります。


 このように水先案内人無しでは入港が難しいヴィルヘルムスハーフェンは、防御側にとって大変に都合の良い港と言え、この利点を最大限に利用しようと考えるヤッハマン提督は、ヤーデ湾の防衛を次のように規定します。


1.仏海軍が縦列となって狭い水道から湾内に進入しようとする場合を想定し、その側面を襲撃するため装甲フリゲート3隻はシリヒ岬北東3海里(5.5キロ強。現在のメルム島とヴァンガーオーゲ島のほぼ中間になります)を碇泊地に定め、何時でも出航出来る状態にする。

2.砲艦10隻は装甲フリゲート戦隊の直接援助として配置し、この内数隻は装甲モニター「アルミニウス」に帯同してヴォンガーオーゲ島の東水道で前哨(ピケット)を成し、仏艦隊の測量・測深を妨害し出来ればその接近を阻止する。

3.湾外で交戦する場合には、湾内で待機する水雷戦隊が出動して参戦する。

4.ゲニウスバンク(前述の浅堆。軍港の北北東7.5キロ。現在その西側は埋め立てが進んで陸地となっています)に設置する機雷と防船張鋼の阻塞設備を以て前進防御の最南端(最終防衛線)とする。

挿絵(By みてみん)

 プロシア海軍の外装水雷艇

 舷側に見える長い槍状の物が外装水雷。これを前方に突き出して敵艦舷側に当て爆発させました。


 この規定によって北海艦隊の大部分がヤーデ湾口外に出て碇泊することとなりましたが、これは仏軍の狙いがヴェーザー川や更に北のクックスハーフェンにあった場合にも対応することを狙ったもので、軍港内に逼塞していては攻防全てに後れを取ってしまうための処置でした。


 このブレーマーハーフェンに向かう水道(かなり東岸寄りにあります)の防御は、港湾の北北西7キロにあるブリンカマホフ堡塁(現在は埋め立てられ広い荷揚げヤードとなっています)に依存することとなります。しかしこの堡塁は8月初頭に完成したばかりで、その備砲も装甲艦に対抗するには些か非力だったため、ヤッハマン提督とファルケンシュタイン将軍らはブリンカマホフの対岸にラングリッチェンザンド堡塁(ブレーマーハーフェンの西北西14.5キロ)とフェッダーヴァルダージール堡塁(その北西2キロ。両方とも現存しません)を築造させるのでした。


 ブレーマーハーフェンの陸上防衛は、エムデンと同様の守備隊を構成し、この部隊はブレーメン駐屯の後備第2師団の前哨となります。万一の場合にはブレーメンの師団本隊からすかさず増援が駆け付ける手はずとなっていました。


※ブレーマーハーフェン守備隊(約1,000名)

○後備歩兵第15連隊の1個大隊

○要塞砲兵150名

○後備驃騎兵の50騎

○後備工兵45名


 エルベ河口、クックスハーフェンでもヴェーザー河口と同じく急速に防御態勢が取られていました。

 この港周辺には既述通り装甲ブリッグ「プリンツ・アーダルベルト」を中心とした戦隊(8月当初は「プリンツ・アーダルベルト」に汽帆走砲艦「シークロップ」「イェーガー」「プファイル」「ハビット」の5隻)が碇泊し、ヴィルヘルムスハーフェン同様、諸艦乗組と後備水兵から募った志願兵を乗員とした数隻の外装水雷艇を港湾に用意しました。

 この北海艦隊「第二戦隊」は「プリンツ・アーダルベルト」艦長アレント海軍少佐が指揮官となって、エルベ河口からヘルゴラント島(クックスハーフェンの北西64キロ)付近までの海域を巡航して仏海軍の探索と警戒任務をも行いました。アレント少佐の戦隊でも手に負えない敵が出現した場合、ヤーデ湾外から装甲フリゲート戦隊が応援に駆け付けますが、止むを得ない場合にはエルベ河口を閉塞することが決められ、グラウアーオルト(ハンブルクの北西35キロ)付近に多数の徴用船舶を碇泊させ、命令一下30分以内に船舶全てをエルベ川に沈め、敵艦のハンブルク侵攻を防ぐ事とされたのでした。


挿絵(By みてみん)

グラウアーオルト堡塁の計画図(1869年)


 このクックスハーフェンからハンブルクに掛けての陸上防御の中心は、クーゲルバーク(クックスハーフェン北郊外の岬)付近と前述グラウアーオルト(クックスハーフェンからは東南東55キロ)付近にある砲台群となります。これらは当時堡塁とすべく工事中で、普仏戦後、幾度かの工事中断を経て完成(両堡塁とも79年に完成。現在史跡として保存されています)を見ますが、この戦争中は周辺に野砲や海軍砲、要塞砲などを並べて砲台とすることで我慢しました。

 各砲台は8月下旬に一応の完成を見て、20門近くの重砲を搬入し備えとします。

 港湾と市街地周辺には他の拠点港湾と同じく守備隊を置き、これはハンブルク周辺に展開する正規兵部隊、第17師団の前哨扱いとなりました。


挿絵(By みてみん)

クーゲルバーク堡塁の計画図(1869年)


※クックスハーフェン守備隊(約1,300名)

○後備歩兵第15連隊の1個大隊

○要塞砲兵400名

○後備驃騎兵の100騎

○後備工兵50名


 これら重要拠点以外の北海沿岸では、防衛計画に基付いて西端オランダ国境のエムス河口から東端のジルト島(ユトランド半島北海沿岸。現ドイツ/デンマーク国境の島。当時はその北に接するレム島もドイツ領でした)まで8つの信号所を設け、ここにベテランの海員と電信員とを常駐させて周囲に置かれた監視哨からの情報を集約、一部は新設の海底電信線を使って軍の駐屯地を結びました。

 沿岸防衛に責任を持つ「ハノーファー並びに沿岸諸国総督」のフォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン大将は、第一防衛管区(第1、2、9、10軍団管区)内に布告を出し、沿岸監視と警備のための志願兵を募集します。これは折からの統一ドイツ気運(=ナショナリズムの高揚)と対仏会戦勝利に次ぐ勝利で予想以上に集まり、これら「義勇兵・監視員」たちは各信号所と後備防衛部隊前哨兵の任務を軽減し、昼夜を問わない監視警戒任務を続けたのでした。


※北海沿岸の信号所

/以下所在地


◆第1号信号所・「エムデン」

 /ピルスム(エムデンの北西17.5キロ)

◆第2号信号所・「ノルダーナイ」

 /ノルダーナイ島(エムデンの北39キロ)西部

◆第3号信号所・「ヤーデ」

 /シリヒ岬(ヴィルヘルムスハーフェンの北21キロ)

◆第4号信号所・「ヴァンガーオーゲ」

 /ヴァンガーオーゲ島西部

◆第5号信号所・「ヴェーザー」

 /ブレーマーハーフェン、ブリンカマホフの北

◆第6号信号所・「ノイヴェルク」

 /ノイヴェルク島内(クックスハーフェンの北14.5キロ)

◆第7号信号所・「アイダー」 

 /テンニング(アイダー河口。クックスハーフェンの北52キロ)の西20キロのザンクト=ペーター=オルディング

◆第8号信号所・「ジルト」 

 /ジルト島内ヴェスターラント(島の中心。クックスハーフェンの北118キロ)


☆ 仏海軍


 ブーエ=ウィヨーメ提督率いる仏「第一艦隊」は、7月24日に熱狂的なシェルブール市民の歓声と「国母」ウジェーニー皇后に見送られ、スカゲラク海峡を越えてデンマークに入った後、既述通り提督はデンマークの中立を受けて以降の指示待ち状態となりました。


挿絵(By みてみん)

ウィヨーメ艦隊のシェルブール出航


 ウィヨーメ提督は7月30日、艦隊をコペンハーゲンの沖合に投錨させますが、この地でパリからの返信を受け、それに因れば「デンマークの中立を犯さぬよう気を付けながらバルト海の北独沿岸を厳重に封鎖せよ」とのことでした。

 ウィヨーメ提督は8月5日になってから行動を開始し、デンマーク人の商船員を雇い入れて水先案内をさせ、難所の大ベルト海峡を通過しました。案の定、コアセー(海峡を臨むシェラン島西端)の沖合で完成したばかりの最新装甲フリゲート「オセアン」は艦底を海底で擦ったとのことです。

 仏艦隊は8月6日(ヴルトとスピシュラン戦の日です)にキール軍港沖に現れ、海岸砲台の射程距離ぎりぎりまで接近しました。この後、互いに大事に至る前に仏艦隊は東へ離れ、その後は示威と偵察のためにホルシュタイン州とメクレンブルク領の沖合を約1海里(1,852m)の距離を隔てて航行し、ノイシュタット(・イン・ホルシュタイン。リューベックの北28キロ)湾とヴィスマル(シュヴェリーンの北30キロ)湾を「覗き見」した後、ヴァーネミュンデ(ロストクの外港)沖を通過すると独最大の島リューゲン島沖に現れました。

 ここで仏艦隊は旋回し、最終的にキール軍港を真正面に見据えるデンマーク領エーア島とランゲラン島間のマスタル湾(キールの北東68キロ付近)に碇を下ろすのでした。


 「やりたい放題」の仏艦隊は続く8日も碇を揚げて東行し、この日はコルベルク(現ポーランドのコウォブジェク。シュテェチンの北東107キロ)の正面まで進んだ後に引き返し、9日、あのドゥ・シャンポー大佐が用意していたシェラン島のケーエ湾に投錨すると以降、ここを碇泊地に定めて居座ったのでした。


 このケーエ湾でウィヨーメ提督はパリからの情報を受けるのです。

 これによれば、「当初の計画は放棄され、バルト及び北海上陸用の部隊輸送は中止された」とのことで、提督は以降の艦隊行動をどうするか司令部幕僚と艦長を集めて会議を開き、その結果「上陸部隊無しでは直接に海岸を攻撃するのは到底不可能」であり「命令されている封鎖は出来うる限り実行して、ダンツィヒとコルベルクに対し砲撃を実施する」ことを決定したのです。

 仏第一艦隊はこれにより二つに分割され、本隊はウィヨーメ提督自らが率いてリューゲン島の東方へ遠征、支隊は予定通りアレクサンドル・デュドネ少将が率いて同島の西側を遊弋し、沿岸を封鎖する手筈となりました。

 この「バルト海封鎖」を明らかにするため、ウィヨーメ提督は北独沿岸各地に「封鎖宣言」(「沿岸を封鎖監視するので、以降船舶を出航させたり封鎖を妨害したりすれば攻撃する」)を発送し、キール軍港に「封鎖宣言書」が届いたのは8月15日でした。


 しかし、この書簡送付は時期を完全に逸してしまい、8月10日以降バルト海は大いに荒れ、この暴風雨の影響により仏艦隊はデンマーク沿岸から動くことが出来ず、沿岸監視信号所から仏艦を見かけることも少なくなって行くのでした。


☆ 北独・バルト海沿岸防衛


 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の激戦地、ドゥッペル堡塁群(キールの北北西70キロ)とゾンダーベルク(現デンマーク、アルス島のセナボー。ドゥッペルの東2.5キロ)市街の堡塁は、戦争直前に改修工事が始められ、クルップ重砲が据え付けられるよう砲台も整備されました。

 これら砲台と堡塁にはフレンスブルク(キールの北西67キロ)とアルス島を護るために海に向けて50門の重砲が配備され、周辺の海面には機雷が敷設されます。堡塁とフレンスブルクには仏軍の上陸と万が一デンマークが参戦した場合に備え、およそ1万の兵力が張り付きました。


※フレンスブルク/ゾンダーベルク守備隊(約10,000名)

○普第25連隊

○同・補充大隊

○普第84連隊の補充大隊

○後備歩兵第75連隊の1個大隊

○後備歩兵第76連隊の2個大隊

○後備驃騎兵1個中隊

○後備砲兵1個中隊

○要塞砲兵8個中隊

○後備工兵100名


 キールの湾口にある諸堡塁は開戦当時未だ改装工事の最中でしたが、8月までに急ピッチで工事が進み、何とか侵攻する仏艦隊に対抗することが可能となります。


 この時代、普海軍はキール市街の北、西岸にあるフリードリヒショルト(市街地の北北東8.5キロ)を停泊地としており、部落北郊外に新設された海岸堡塁(後の「ファルケンシュタイン堡塁」です)と港の東岸に築かれた諸砲台には56門の重砲が配備されます。

 また、湾口には4条の鋼線が張られ、その間に機雷を結んだ阻塞線1条、そして多数の小舟の間を結んだ鉄鎖阻塞線2条を設けて仏艦の侵入を防止していました。この船舶侵入防止の施設は陸軍工兵隊のローデ大佐が指導して急ぎ設置され、これは全て堡塁と諸砲台の海岸重砲射程内にありました。

 キールの陸上守備隊*は普海軍歩兵大隊と後備部隊、補充兵から編成されます。この守備隊の他に正規部隊の普第17師団の前衛支隊(歩兵3個大隊、騎兵1個中隊、砲兵1個中隊)がハンブルクからキールに派遣されました。


※キール守備隊(約5,000名)

○海軍歩兵大隊*

○後備海軍歩兵大隊

○普第36連隊の補充大隊

○後備歩兵第36連隊

○後備驃騎兵半個中隊

○海軍砲兵6個中隊


※海軍歩兵大隊

 1852年5月13日にシュテェチンで創設されました。最初は乗組員の一部として軍艦に駐在し、海戦に至れば小銃で敵艦上の士官などを狙い敵の艦上切り込みに備える19世紀初頭型の海兵隊的性格が強かったそうです。1870年には5個中隊編成・士官22名・下士官兵680名としてキールに本営を構え、陸戦隊の形となっていました。


 キールのフリードリヒショルト泊地にはヘルト海軍少将率いる「東海艦隊」主力が碇泊し、8月当初には旗艦の通報艦「プロセッサー・アドラー」、練習戦列艦「レナウン」、汽帆走コルベット「エリザベト」、1級汽帆走砲艦「シークロップ」「カメレオン」、2級汽帆走砲艦「ハビット」「スコーピオン」「ティーガー」、そして徴用した3隻の通報汽船が仏艦隊を警戒していました。


挿絵(By みてみん)

1880年頃のキール


 ハンザ同盟の古港町リューベックの防衛は3つの堡塁をトラーヴェ川河口のトラフェミュンデ(リューベックの北東15キロ)付近に築造し、後はヤーデ湾と同じく浅く複雑な航路水道の浮標を取り外すだけで十分とされました。


 リューベックの東50キロ、バルト海沿岸の要所ヴィスマル港の防衛は、戦争開始当時最も防備施設設置が遅れていたことと、諜報や情報収集から得た報告で「仏艦隊の上陸・攻撃目標の一つ」とされたことで、フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン大将が大いに憂慮し、防衛計画を至急定める命令を出しますが、開戦当初に配属された兵力は沿岸正面にあるペール島を防衛するのも困難な小さなものだったため、ファルケンシュタイン将軍はヴィスマルとペール島間の海峡を制御するため、ホーエン・ヴィーシェンドルフ(ヴィスマルの北西10キロ)の岬に砲台を建設することとし、この工事に当地の資材・人員を集中して短期日で完成させ、ここに16門の海岸重砲を据え付けるのでした。

 ヴィスマルの陸上防衛はメクレンブルク駐在の補充大隊1個と要塞砲兵1個中隊に任され、後に普第17師団から普猟兵第14大隊が同地に派遣されました。

 また既述通り、リューベックからヴィスマル間の海岸防衛に従事するため、8月上旬に後備第1師団が周辺沿岸に到着し始めています。


 リューゲン島と向かい合うシュトラールズントは後備歩兵の6個大隊と海峡に面した砲台に備えた重砲60門でしっかりと守備され、リューゲン湾に設置された防船鋼索のお蔭でリューゲン島の防衛のために碇泊していた海軍の「シュトラールズント戦隊」の砲艦(時期により増減しました)は安心して休むことが出来たのです。

 シュテェチンの外港スヴィーネミュンデ(現ポ-ランドのシフィノヴィシチェ。シュテェチンの北北西57キロ)には後備歩兵3個大隊と重砲40門が、コルベルク(同コウォブジェク)には後備歩兵5個大隊と重砲30門が、ダンツィヒ(同グダニスク)とその街中を流れるヴァイクセル(現ヴィスワ)川河口にあるヴァイクセルミュンデ要塞(史跡として現存)には、後備と要塞警備兵9個大隊と重砲40門が、そして北独最北にあるメーメル(現リトアニアのクライペダ。グダニスクの北東220キロ)の砲台には海岸砲30門が備えられていました。その他、万が一仏軍が来襲した場合に各堡塁や要塞には旧式砲500門が何時でも使用可能なように準備されていたのです。


 バルト海沿岸でも北海沿岸同様、信号所が準備され「義勇兵・監視員」が集められて勤務に就いていました。その規模は北海を大きく上回るものでした。


挿絵(By みてみん)

19世紀初頭の仏の腕木信号所

「テレグラフ」と呼ばれた、言わば機械式の手旗信号塔で、その後通信装置の発達で「テレグラフ」は廃れ、普仏戦争当時はすっかり電鍵式電信に取って代わられていました。


※バルト海沿岸の信号所

 北海の信号所に続く番号で東へ続いていました。

/以下所在地


◆第9号信号所・「アルス(アルゼン)島」

 /ノルブルク(現ノルド。アルス島北端)

◆第10号信号所・「ケケニス」

 /アルス島南部(セナボーの東南東15キロ付近)

◆第11号信号所・「ビルケナッケ」

 /ケケニスの対岸(セナボーの南東16キロ付近。ニービー北の岬)

◆第12号信号所・「キール湾」

 /湾口西側ビュルカーフク岬(キールの北北東15キロ)

◆第13号信号所・「フェーマルン島」

 /ヴェスターマルケルスドルフ(島北西端。キールの東北東65キロ)

◆第14号信号所・「ダーメスフェルト」

 /ダーメ(リューベックの北東47キロ付近)

◆第15号信号所・「ヴィスマル」

 /ペール島ゴルヴィッツ(ヴィスマルの北15キロ付近。島の北端)

◆第16号信号所・「ダルサー・オルト」

 /ボルン=アム=ダルスの北(ロストクの北北東50キロ)

◆第17号信号所・「ヒデンセー島」

 /リューゲン島の西にあるヒデンセー島の北端(シュトラールズントの北32キロ付近)

◆第18号信号所・「アルコナ」

 /プートガルテン付近(リューゲン島北端。シュトラールズントの北北東47キロ付近)

◆第19号信号所・「ティースソー」

 /リューゲン島南東端。シュトラールズントの東41キロ付近)

◆第20号信号所・「ストレッケルスベルク」

 /コサート(シュテェチンの北北西77キロ付近)

◆第21号信号所・「オーデル」

 /スヴィーネミュンデ東郊外のミスドロイ(現・モルスカ灯台付近)

◆第22号信号所・「コルベルク」

 /コルベルクの海岸(現・コウォブジェク灯台付近)

◆第23号信号所・「ケスリーン」

 /ケスリーン郊外ゴレンベルク山付近(現・コシャリン東郊外)

◆第24号信号所・「ストルプミュンデ」

 /現・ウストカ

◆第25号信号所・「リックスヘーフト」

 /現・ロジェビエ。グダニスクの北北西55キロ

◆第26号信号所・「ヘラ岬」

 /現・ヘル。グダニスクの北北東30キロ

◆第27号信号所・「ピラウ」

 /現ロシア領バルティスク。カリーニングラードの西40キロ。砂州の先端付近

◆第28号信号所・「ブリュスター・オルト」

 /現マヤク。カリーニングラードの北西44キロ付近

◆第29号信号所・「メーメル」

 /現・リトアニアのクライペダ


☆ バルト海と北海の小海戦


 キール湾口における偵察任務は大型の徴用汽船「ホルザティア」(3,134t・12ノット・非武装)が行い、当初はプロイス海軍少尉が船長としてほぼ毎日キールからランゲラン島(南端まではフリードリヒショルト泊地から50キロ余り)までを巡航しました。

 「シュトラールズント戦隊」の砲艦たちもヴァルダーゼー海軍少佐の指揮下リューゲン島付近から偵察を行い、8月1日にはエーレ海峡(コペンハーゲン~マルメ間の海峡)を目指して進み、途中「仏艦隊はコペンハーゲン近海にあり」との情報を得て引き返しています。リューゲン島の東側では、ダンツィヒを母港としたコルベット「ニンフ」が単艦偵察に勤しんでいました。


挿絵(By みてみん)

 ホルザティア


 この8月上旬の偵察行では、独仏が接触することはほとんどありませんでした。これはウィヨーメ提督が艦隊行動を厳守して、前哨となった艦に独艦船が接近するといち早く撤退し、仏側から追撃することがなかったからでした。しかし暴風が襲った8月中旬以降となると様相に変化が現れます。


 8月当初、シュトラールズント戦隊の旗艦としてリューゲン島近海にいた汽帆走通報艦「グリレ」(350t・13.2ノット・12cm砲x2)は、キール沖合からコペンハーゲンまでの偵察を予定されていましたが、10日から1週間ほど続いた暴風のため航行が出来ず、ようやく8月17日になってシュトラールズントを出航しました。


挿絵(By みてみん)

1870年8月ヒデンソーで戦うグリレ


 北へ針路を取って航行間もなく、メーエン島(現・デンマークのメン島。コペンハーゲンのあるシェラン島の南端南東沖)の南方沖約2海里半(およそ4.5キロ)で仏の汽帆走通報艦「ジェローム・ナポレオン」(1,600t・14ノット・12cm砲x5)を発見し、「グリレ」は砲艦戦隊の待つリューゲン島の西、南北に細長いヒデンソー島へ誘い込むため南東方向へ変針して逃走します。


挿絵(By みてみん)

ジェローム・ナポレオン(通報艦)


 思惑通り「ジェローム・ナポレオン」は小さな「グリレ」を追いますが、その速度は思いの外早く、戦隊と合流する前に追い付かれると感じた「グリレ」艦長ドンナー大尉は3,400mの主砲有効射程内に入ったところで相手の足を止めさせるため砲撃を開始しました。すると砲撃を受けた「ジェローム・ナポレオン」は深追いを止めて針路を転じ、ファルスター島(メン島西。シェラン島の南端南沖)南端に向け撤退を始め、盛んに信号を送りました。その送り先は同島沖合にいたウィヨーメ提督直率の仏装甲艦4隻(提督の旗艦「サベイラント」「テティス」「ゴロアーズ」「ギュイエンヌ」と言われています)で、リミエ級汽帆走通報艦「レルミット」(1,342t・12.5ノット・16cm砲x1/14cm砲x4)を先頭に、午前11時頃ファルスター島南端を回って姿を現わしたため、「グリレ」は「ジェローム・ナポレオン」の追跡を中断し、敵艦に砲撃を加えつつリューゲン島に向かって撤退しました。

 この当初、仏艦隊は2隻の通報艦と「テティス」が追撃を開始し、続いて3隻の装甲艦も後を追いますが、「グリレ」は迎えに出て来た3隻の砲艦「ドラッヘ」「ブリッツ」「ザラマンダー」と共に砲撃を加えつつヒデンソー島北端を通過して無事に当時泊地としていたリューゲン島のウィットウ・ポートハウス(島の北西リューゲン湾内。ヒデンソー島の対岸付近)に帰着するのでした。彼らには仏艦隊は途中で引き返した様に思えました。


挿絵(By みてみん)

 テティス(仏装甲艦)

挿絵(By みてみん)

 レルミット(通報艦)


 しかしこの時、ウィヨーメ提督はそのまま艦隊を東へ進めていたのです。


 8月19日の夕刻、ダンツィヒ(グダニスク)の要塞司令官は沿岸の信号所より「敵艦接近」の通報を受けます。これによりダンツィヒとノイファーヴァッサー(グディニァ)は厳戒態勢に入りました。

 要塞司令官は21日になって入港した商船から、敵艦隊が第25号信号所のあるリックスヘーフト(現・ロジェビエ。グダニスクの北北西55キロ)の沖にいることを確認しています。

 この21日午後2時、仏装甲艦3隻と通報艦1隻からなる艦隊が細長いヘラ岬(現・ヘル。グダニスクの北北東30キロ)を回り込んでダンツィヒ湾に入り、午後6時にはノイファーヴァッサーの北西15海里(約27.8キロ)の海域まで接近して碇を下ろしました。


挿絵(By みてみん)

仏フィヨーメ艦隊旗艦サベイラント


 ノイファーヴァッサーに碇泊していた「ニンフ」(1,183t・12ノット・12cm砲x17)艦長、ヨハネス・ヴァイクマン少佐は敵艦隊を夜間に襲撃し混乱させるため、夜間出航のために港の阻塞を外させた後の夜半、出撃します。

 折しも半月が昇り始め、この微光により敵艦隊を発見すると、少佐は敵に直進するか東側に廻り込もうとしますが浅瀬に因って断念し、艦を沿岸に沿って北上させ、北側から接近しました。

 日付が変わり22日午前1時30分頃、敵艦との距離がおよそ1海里となったことでヴァイクマン艦長は砲撃開始を命じ、「ニンフ」は舷側に並べた6門の12cm砲を斉射した後に回頭、敵の艦尾側へ廻って反対舷で再び斉射しました。

 すっかり油断していた仏艦隊は2度の砲撃を浴びてようやく動きが見え、各艦の甲板上に灯火が見え出すと数発の応射を「ニンフ」に対し行いますが、全て遠弾となりました。仏艦隊は直ちに錨を上げ「ニンフ」に迫りましたが、その時には既にヴァイクマン艦長は艦を西へ向けており、一目散に離脱した「ニンフ」は午前3時過ぎノイファーヴァッサーへ無事帰港するのでした。

 その後、ウィヨーメ艦隊は警戒しつつダンツィヒ湾内を一周した後にヘラ岬を回り、22日の夕刻、リックスヘーフト沖に碇泊するとそこに2日間居座った後、24日、西へと出航し消え去ったのでした。

 「ニンフ」は9月上旬まで度々メーメルまで巡航して警戒を怠りませんでしたが、その後東プロイセン沖では一切敵艦を見ることはありませんでした。


挿絵(By みてみん)

 ニンフ


 仏艦隊は8月22日のダンツィヒ湾遠征以降、すっかり形を潜め、リューゲン島近海からケーエ湾に引き上げた後は独艦船を警戒するだけとなります。

 仏海軍は開戦当初、防衛施設のない都市への攻撃・砲撃を禁止する方針でしたが、全般の戦況が芳しくなくなったためか8月下旬になるとパリから「無防備都市への攻撃禁止の方針を撤廃する」との訓令が届きます。これで情け容赦ない都市砲撃が始まるか、と思えますが、仏艦隊にとっては生憎なことに再び天候が悪化し、海は荒れ波浪は高く風雨激しく艦隊運動は困難となって、仏艦隊はただケーエ湾で浮かぶだけとなってしまうのでした。


 ブーエ=フィヨーメ提督がバルト海に入った後、仏海軍は8月初旬、北海に新たな艦隊を送り込むことを決定し、フィヨーメ艦隊への参加が遅れていた装甲艦や、元来上陸隊を乗せる予定のロンシエール・ル・ヌリー提督率いる「第二艦隊」用として艤装が進められていた艦を集めてこれをレオン・マルタン・フリション海軍中将に預け、8月9日、シェルブールからヤーデ湾目指して出航させました。


挿絵(By みてみん)

 フリション


 同じく8月当初に仏海軍が新たな艦隊を準備中(ロンシエール提督の「第二艦隊」のことでしょう)との情報を受け取った北独海軍は、偵察用に徴用した船舶をヤーデ湾及びクックスハーフェンから一斉に出航させて、絶えずオランダのテッセル島(西フリースラント諸島最大・最西端。アムステルダムの北75キロ付近)沖からヘルゴラント島の間を巡回させました。

 8月4日夕刻、「仏装甲艦2隻東方へ進む」との電信が英国ドーヴァー在の情報員より届き、ヤッハマン提督は翌5日、装甲フリゲート3隻を率いてヴァンガーオーゲ島沖からドッガーバンク(英国東沖合100キロにある巨大な砂堆浅瀬)まで進み、敵艦を待ち受けましたが発見出来ず7日にヤーデ湾口へ戻っています。


 すると8月11日となって、クックスハーフェンから西フリースラント諸島沖へ偵察巡航に出た徴用汽船の「ヘルゴラント」が、二縦列となって進む仏艦隊を発見するのでした。

 このフリション艦隊は翌12日にヘルゴラント島沖で投錨すると、「バルトルム島(東フリースラント諸島ノルダーナイ島の東)からアイダー川河口に至るまでの沿岸を封鎖する」と宣言し、布告を各地に送付するのでした。


挿絵(By みてみん)

 仏艦隊の勇姿


 しかしこの宣言も、先にバルト海沿岸へ出した宣言同様、折から始まった悪天候により封鎖を継続することが出来ずに終わる運命にありました。


 フリション提督の仏「北海第二艦隊」は昼間、強い風雨に舳先を向けて碇泊し、夜間にのみ沿岸まで航行すると、小型の通報艦などで各河口に侵入するのでした。

 この仏哨戒艦船はまた、2、3日に1回の割合で北独艦隊を試すかのようにヴァンガーオーゲ島東水道入り口へ姿を現し、その都度前哨として島の東沖に居座っている普装甲モニター「アルミニウス」が前進して、敵艦をヘルゴラント方面へ追い払うのでした。

 この行動は、外海では動きの鈍い低喫水の「アルミニウス」をヘルゴラントまで誘き出して仏主力艦の餌食とし、その後普海軍主力の装甲フリゲート3隻も引き摺り出そうという仏艦隊の魂胆でしたが、ヤッハマン提督は頑として「外海では海戦を行わず」との方針を貫いたため、「アルミニウス」も誘い出されず深追いする事はありませんでした。


挿絵(By みてみん)

仏艦を追い払うアルミニウス(1870年8月24日)


 こうして北独艦隊は決戦を望む仏艦隊の誘いに乗らずにただ沿岸警備に徹し、仏艦隊も悪天候が続く北海とバルト海では積極的行動が取れず、ただ波浪が高い海上で糧食の補給も滞りがちとなり、ひたすら耐乏することとなったのです。


 9月3日。突如北独海岸線一帯の砲台・堡塁と各艦船から幾度も砲声が鳴り響きました。この「セダンの大勝利」を祝して放たれた祝砲は、長期の敵前遊弋に疲弊し、本国からの戦況悪化の報道を受け続けて士気も低下、暴風のため糧食飲水が不足するなど数々の困難を背負った仏艦隊に「仏帝政の終焉」を伝え、更なる兵員の士気低下を招くのでした。


 既にデンマークの中立を受けて、沿岸防衛兵力が足りたと信じた独大本営は8月初頭に後備第3師団を正規軍に組み込むため(直後に新編成の「予備第3師団」中核となります)アルザスの前線へ送り出しますが、陸戦が順調に進み野戦軍が仏本土深くまで進み始めると、残った4個(第17、後備近衛、後備第1、後備第2)師団にも「転進命令」が次々に発せられ、その一部はカール王子の「メッス攻囲軍」に加わり、また一部は「ストラスブール攻囲軍」に加わることとなります。

 沿岸防衛はシュレジェン州の後備8個大隊が移動し、これら前線へ向かった諸隊から任務を引き継ぐのでした。


挿絵(By みてみん)

アルミニウスに搭載されていたアームストロング砲


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