7月上旬から31日までの普仏海軍動向・北独沿岸防衛
☆ 北独海軍
陸軍に比して全く逆、否、二乗しても勝算薄い北独連邦海軍(実態は普王国海軍です)は、最初から洋上で決戦する意図はなく、主要な軍港、商業港、船舶運行可能な河川の河口などの海岸線防衛に全力を尽くす方針で戦争を始めます。
この海軍の任務に関しては、「普海軍の父」普親王ハインリヒ・ヴィルヘルム・アーダルベルト海軍大将からその指揮を受け継いだエデュアルド・カール・エマニュエル・フォン・ヤッハマン普海軍中将が防衛計画を作成し、ヴィルヘルム1世国王(この場合は北独総裁として)の裁可を受けています(因みに普参謀本部の権限は陸軍のみ、北独海軍は独自の指揮命令系統があります)。
このヤッハマンの計画を一言で表せば、「防御を主体として無理をせず、形勢が有利となり局所的な成功を収める可能性があった場合のみ、虎の子装甲フリゲート3隻を以て攻撃を実施する」と言うもので、「仏軍はバルト海(普王国では東海と呼びました)と北海沿岸を襲うはずなので、沿岸で価値のある拠点、及び軍艦により防御可能な地点を選んで防衛する」とするのです。
ヤッハマン提督
計画防御の中心は、竣工して間もないオルデンブルク大公国のヤーデ湾にあるヴィルヘルムスハーフェン軍港(ハンブルクの西125キロ)で、未だ工期途中の「将来の独艦隊母港」は開戦時、ほとんど防御工事が始まったばかりで無防備に近い状況でした。
また、このヤーデ湾はブレーメンに繋がるヴェーザー川の河口で玄関口のブレーマーハーフェン(ハンブルクの西93キロ)や、ハンブルクに繋がるエルベ川河口のクックスハーフェン(ブレーマーハーフェンの北35キロ)にも近く、最重要防衛要地となったのでした。
ヴィルヘルムスハーフェンに集合する「北海艦隊」は常時出撃可能とし、仏海軍艦隊がヴェーザー、エルベ両河口に侵入した場合には、敵艦隊の側面に突進し、更に敵艦隊がカテガット海峡を越えてバルト海へ侵入した場合には、その後方補給連絡を絶つことを目標に掲げたのです。
このため、普軍の主力艦である3隻の装甲フリゲート、「フリードリヒ・カール」「クロンプリンツ」「ケーニヒ・ヴィルヘルム」を1戦隊として、ここぞという場合に備えヤーデ湾口に常泊させ、装甲モニター(砲台艦)「アルミニウス」と装甲ブリッグ(砲艦)「プリンツ・アーダルベルト」の2艦はエルベ河口に常泊して、主力戦隊の補助とするのでした。
しかし、北独連邦海軍が所有する装甲艦は当時この5隻で全てとなり、ヤーデ湾とハンブルク沿岸防衛以外は残る旧式艦や弱小艦で賄うしかありません。
バルト海の防衛にはこれら小艦を少数用いるだけに決まり、沿岸港湾防衛は専ら急速に構築されつつある防御施設(防船網や沈船など)や要塞・砲台、そして水雷(機雷)に依存することとなります。
こうして所属艦船の殆どを沿岸防衛に宛てたため、開戦当初、外洋に出撃可能な艦船はアルコナ級汽帆走コルベット「エリザベト」ただ1隻だけという状況でした。
また、この戦争は突然降って湧いたような危機から始まったため、7月初旬、普海軍の主力装甲艦4隻(「フリードリヒ・カール」「クロンプリンツ」「ケーニヒ・ヴィルヘルム」「プリンツ・アーダルベルト」)はアーダルベルト親王大将が率いて通常の練習航海のため、大西洋へ出ていました。
この際、損傷した各艦*は英国のプリマス軍港(コーンウォール半島のデヴォン州。ロンドンの西南西310キロ。)へ入港して応急修理を施し、その後7月10日に演習予定地のアゾレス諸島へ向けてプリマスを出港しましたが、その直後、「スペイン国王後継問題」により普仏間が突如緊迫した状況に陥ったという報道がなされ、独りダートマス(同じくデヴォン州の英海軍根拠地。英海軍兵学校所在地として有名。プリマスの東40キロ)に残されていた「プリンツ・アーダルベルト」がこのニュースを持って艦隊を追い、アーダルベルト親王に伝えます。
親王は艦隊を帰国させることを即断し、艦隊は今一度プリマスへ入港すると大急ぎで石炭と水を積み込み出港、16日には全艦無事にヴィルヘルムスハーフェンへ帰港するのでした。
この直後に宣戦が布告(7月19日)され、各艦は直ちに防衛計画に組み込まれると「プリンツ・アーダルベルト」はエルベ河口へ急行しました。
※この7月の練習航海で、「ケーニヒ・ヴィルヘルム」は機関出力を上げる際に罐の一部を損傷し、蒸気漏れを生じたため最高速力14ノットから10ノットしか出せなくなり、「フリードリヒ・カール」は既に5月末にキール軍港(ハンブルクの北85キロ)を出て大ベルト海峡(デンマーク領フュン島とシェラン島間。キールの北北東125キロ。)を通過中、水先案内人のミスにより暗礁に接触し、スクリュー2翼を欠損、最大速力が出せないままとなっていました。
アーダルベルト親王大将は、希少な装甲艦の損傷事故の責任を取り、思い切って艦隊司令長官を辞任し、動員が始まったフォン・シュタインメッツ大将率いる独第一軍本営附きとなってヴィルヘルムスハーフェンを去ります。その後「次世代に託す」とした親王の意向もあって、装甲艦を含む主力(北海)艦隊司令長官には前述のヤッハマン海軍中将が、バルト(東)海艦隊司令長官にはキール鎮守府司令長官だったエデュアルド・ヘルト海軍少将が就任するのでした。
アーダルベルト・プロイセン海軍大将
陸軍の動員と同時に海軍も予備役を動員し、後備海兵も順次集結地に到着すると、7月末までには主力艦艇に乗員が行き渡り、一部を除いて就役することが可能となります。
就役した艦艇は準備の整った艦より直接配属地に急行するのでした。
主力艦以外の配備状況としては、まず汽帆走砲艦カメレオン級の「コメート」が7月15日にキールを発したのを皮切りに、16日、汽帆走砲艦イェーガー級の「プファイル」がバルト海沿岸の主要都市、シュテェチンの外港スヴィーネミュンデ(現ポ-ランドのシフィノヴィシチェ。ベルリンの北北東165キロ)を出港、北海へ向かいました。
逆に、当時修理を必要としていたアルコナ級コルベットの「ヴィネタ」、帆走フリゲートの「ゲフィオン」と「ニオベ」、練習艦(ブリッグ)「ローファー」は18日にシュルツ海軍中尉が指揮して回航員らの手によりキール軍港から曳き出され、曳航されてスヴィーネミュンデまで後退しました。
これは湾口の防御工事が未完成で、防衛体制も整っていないキールに当座戦力とならない艦艇を放置すれば、敵が侵入した場合に鹵獲される恐れがあるための処置でした。
22日、通報艦「グリレ」カメレオン級砲艦「ドラッヘ」「ブリッツ」イェーガー級砲艦「ザラマンダー」の4隻を伯爵フランツ・フォン・ヴァルダーゼー海軍少佐が率いてシュトラールズント(バルト海沿岸、リューゲン島と向き合う港町。キール軍港の東190キロ)にて戦隊を作る命令が発せられました。
24日となると、カメレオン級砲艦「シークロップ」とイェーガー級砲艦「ハイ」「スペルベル」の3隻が、ツィルッツォフ・フォン・ノスティッツ海軍大尉の指揮下キールを出港して北海に向かい、28日に無事エルベ河口に入りました。26日から31日の間には「イェーガー」「フックス」「ハビット」「ハイエナ」「ナッター」「シュワルベ」「ヴェスペ」のイェーガー級砲艦7隻がキール及びシュトラールズントから北海へ向かい出航します。
また、27日夜に装甲モニター「アルミニウス」がキールを発してクックスハーフェンへ向かい、翌28日早朝にはアルコナ級コルベット「エリザベト」が「アルミニウス」を追って出港するのでした。
ところがこの28日にスカゲラク海峡の入り口、ユトランド半島の沖合に仏艦隊が目撃され、「アルミニウス」と「エリザベト」の2艦が危険となったため、両艦には帰港が命じられますが、この命令は「エリザベト」のみ受領を確認し、「アルミニウス」には間に合いませんでした(当時船舶無線はありません)。
「アルミニウス」は28日日中、仏艦隊を遠方に視認、艦長オットー・ダニエル・リフォニウス海軍少佐は直ちに変針してバルト海へ「逃げ戻る」素振りを見せた後、敵艦隊の視界外へ去るとスウェーデンの領海ぎりぎりに航行して引き返し、夜の闇を利用しつつ北上、31日に無事クックスハーフェンに到着するのでした。
※7月31日における北独海軍の配置
☆北海艦隊
◯装甲フリゲート戦隊(ヤーデ湾口の北、ヴァンガーオーゲ島東方)
・装甲フリゲート 「ケーニヒ・ヴィルヘルム」「クロンプリンツ」「フリードリヒ・カール」
・汽帆走砲艦 「バジリスク」「コメート」「ヴォルフ」
◯エルベ河口戦隊(クックスハーフェン付近)
・装甲艦 「アルミニウス」「プリンツ・アーダルベルト」
・汽帆走砲艦 「シークロップ」「ハイ」「スペルベル」
◯フースム(キールの西北西70キロ)付近
・汽帆走砲艦 「プファイル」
◯浚渫されたアイダー川経由で北海へ航行中
・汽帆走砲艦 「イェーガー」「フックス」「ハビット」「ハイエナ」「ナッター」「シュワルベ」「ヴェスペ」
☆バルト(東海)艦隊
◯キール戦隊(キール湾内フリードリヒショルト付近)
・練習艦(旧戦列艦) 「レナウン」
・汽帆走コルベット 「エリザベト」
・通報艦 「プロセッサー・アドラー」
・汽帆走砲艦 「カメレオン」「ティーガー」「スコーピオン」
◯シュトラールズント戦隊
・通報艦 「グリレ」
・汽帆走砲艦 「ドラッヘ」「ブリッツ」「ザラマンダー」
◯ダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)の北、ノイファーヴァッサー(現ポーランドのグディニャ)
・帆走コルベット「ニンフ」
ケーニヒ・ヴィルヘルム
世界有数(当時英に次ぐ地位と唱われました)の海軍力を誇る仏帝国海軍に対し圧倒的不利にある北独(実質普)海軍を率いることとなったヤッハマン中将は、「仏は必ず緒戦で北海からバルト海にかけて襲撃を企画するはず」と考えており、将旗を「ケーニヒ・ヴィルヘルム」に掲げ、国王に奏上した防衛計画に基付いて自らヴィルヘルムスハーフェン軍港の封鎖を防ぐため、ヤーデ湾口において他2隻の装甲フリゲートと共に碇を降ろしました。
距離の離れたヴィルヘルムスハーフェンとは徴用汽船を使用して連絡を保つのでした。
☆ 仏海軍
突然の戦争は北独海軍のみならず仏海軍にも等しく困難を招きます。
陸軍とは真逆に有利な立場にあった海軍でしたが、平時にあってその隻数や装備、運用がどんなに有利であっても、実際の戦闘を目前とした兵員の動員や訓練は時間が掛かるもので、これは陸軍同様、予備役の召集や装備品の艤装、修理などに忙殺された仏海軍はたちまち機能不全に陥るのです。
帝国海軍長官のシャルル・リゴー・ドゥ・ジュヌイー海軍大将は開戦にあたっての国防会議の席上、「海軍は未だ大戦争の準備ならず、艦隊に突如の役務を命じれば、諸工廠の貯蔵物品の不足により通常航海に要する部品にも事欠くであろう」と正直な意見を述べたのです(この辺り、「ゲートルやボタンひとつも準備万端」と大見得を切った国防・陸軍大臣ルブーフと比較すると、興味深いものがあります)。リゴー大将は更に「艦隊の一部を出航させるのにも多少の日時は必要」と、戦争に前のめりとなっている面々に釘を差したのでした。
リゴー
最初に仏艦が外洋に出たのは7月24日で、この日午後、シェルブール軍港(ノルマンディー地方。パリの西北西300キロ)において皇后の臨席を仰いで通報艦「カサール」を先頭に1級装甲フリゲート「サベイラント」「ゴロアーズ」「ギュイエンヌ」「フランドル」「オセアン」、2級装甲フリゲート(アルマ級コルベット)「ジャンヌ・ダルク」「テティス」の8隻からなる強力な艦隊が出航し大西洋に出ました。
この「第一艦隊」は22日に編成されて、その長官にはルイ・エドゥアール・ブーエ=ウィヨーメ海軍中将が任命されたのです。
その後、艦隊には準備のなった艦より随時参加し、多数の通報艦と全14隻からなる装甲フリゲートによって一応の完成を見ることが予定されますが、同時に召集の掛かっていた砲艦やモニター艦、輸送船舶からなる第二艦隊は「なるべく速やかに艤装を終え出航すること」とされて、実質上その準備は大きく遅れていたのでした。
この「第二艦隊」は男爵カミーユ・アダルベル・マリエ・クレマン・ドゥ・ラ・ロンシエール・ル・ヌリー海軍中将が長官となり、北海沿岸に上陸予定の陸戦隊を乗せて第一艦隊を追うこととなっていたのです。
ブーエ=ウィヨーメ提督
ブーエ=ウィヨーメ提督が受けていた命令では、艦隊をエーレ海峡(コペンハーゲンとマルメー間)に進め、まずは「テティス」をコペンハーゲンに入港させることとなっていました。これは開戦が回避不能となって後、仏側に立って参戦する交渉が続くデンマーク政府に圧力を掛け、ユトランド半島に睨みを利かせる意味合いがありました。
命令は更に「まずはヤーデ湾を封鎖して普艦隊をヴゥルヘルムスハーフェンに閉じ籠めるため、夜間に移動すること」と続き、「艦隊を追う各艦はヤーデ湾沖を集合地点として艦隊に参加し、その集合後に長官はヤーデ湾封鎖分遣隊を指定して指揮をデュドネ海軍少将に任せ、残りの艦隊主力を率いてバルト海に向かうこと」を命じていたのでした。
この命令には、普と比較的仲が良く仏とは伝統的に仲の悪い「ロシア帝国の監視」も含まれており、この「バルト海入り」は中立を宣言したとは言え、陰で仏の足を引っ張るかもしれない露に対する威嚇の意味もあったものと思われます。
この時、地中海にあった仏地中海艦隊も、ジブラルタルを抜けて一旦ブレスト(ブルターニュ地方。パリの西505キロ)に集合し、北海または地中海どちらにでも参戦出来るよう準備を整えることとされたのでした。
オセアン
北海に進んだウィヨーメ提督は、普海軍の装甲艦3隻が7月中旬にアゾレス諸島方面で演習を行っていたことを知っており、それら普艦隊主力が未だ(7月25日現在)英国近海にいるものと予想していました。
これを捜索して即攻撃して撃破することをもくろんだ提督は、英国を刺激しないよう気を付けながらイングランドの海岸線沿いに偵察しつつ進みましたが普艦隊を発見出来ず、その後「敵艦隊は既に帰国している」との連絡を受けてデンマークへ針路を変じたのでした。
7月28日にウィヨーメ艦隊はスカゲラク海峡入り口に達します。するとこれを待っていた仏海軍省からコペンハーゲンに派遣されていたドゥ・シャンポー大佐が小舟で来艦しました。
大佐は海峡を進む際に必要となるデンマーク人水先案内人を雇って乗艦させると、シェラン島(コペンハーゲンのある島)の東海岸にあるケーエ湾に艦隊のための糧食集積所用地を確保した、と告げたのです。大佐は駐デンマーク大使の要求として、「ただちにバルト海へ航行して欲しい」と伝えました。これは「今、北独海岸へ上陸部隊を揚陸させればデンマーク政府は中立を翻し仏側に立って参戦する」との観測からの要望だったのです。デンマーク大使やシャンポー大佐はコペンハーゲン政府の説得に失敗し、デンマーク王国は25日に中立を宣言してしまったため、焦りがあったものと思われます。
しかし、ウィヨーメ提督には一兵の陸戦隊もなく、また命令では「先に北海沿岸を封鎖する」とあったため、大使の要求を一旦拒否して「この状況を政府に知らせて新たな命令を受ける」、と答えるのでした。
すると、提督がこの旨の電報をパリへ発した直後、入れ違いでパリ発の電報が到着し、それによれば「デンマークの局外中立を尊重し、ただ、艦隊の糧食補給と北独海岸線を監視可能な地点を定めよ」とのことでした。
ウィヨーメ提督としては、「この命令が北海とバルト海両方の監視」を意味するのだとすれば「現有戦力では遂行不能」として、先に送った「情勢変化に因み新たな命令を求める」との電報の回答を待つこととしたのでした。
ゴロアーズ級(ギュイエンヌ)
☆ 北独海岸防衛
こうして北独海軍が恐れていた7月中の仏軍来襲は消えましたが、仏軍来襲の可能性までもが消えた訳ではありません。
北独連邦は、いつ現れるか分からない仏軍の北海岸上陸を想定した軍隊の展開を急ぎ進めます。
7月27日までには後方で動員を進めていた第1、第2、第9、第10の各野戦軍団も独仏国境の前線へ出発し始め、これと入れ替わる形で海岸防衛を担当する陸軍部隊の展開も急速に進みました。
唯一国内に残った普軍の正規師団、第17師団はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州防衛のため、7月28日より郷土シュヴェリーンからハンブルク周辺に到着し始め、分遣隊をリューベック(ハンブルクの北東60キロ)とノイミュンスター(ハンブルクの北60キロ)に派遣しました。
後備第2師団は8月1日までにブレーメン周辺に進出し、分遣隊をオルデンブルク(ブレーメンの西北西40キロ)とブレーマーハーフェン(ブレーメンの北53キロ)に派遣しました。
後備近衛師団は一部鉄道輸送で7月29日から8月3日にかけてハノーファーに到着し、ここから北東へ延びる鉄道沿線に沿ってツェレ(ハノーファーの北東35キロ)からユルツェン(同北東85キロ)間に展開しました。
7月30日にはメクレンブルク=シュヴェリーン大公がハンブルクに到着し、その北部防衛の本営を北部市街ウーレンホルストに置きました。
最も遠隔地(東プロシア)から動員された後備第1師団は、シュヴェリーン防衛の中核となって8月8日から12日にかけてヴィスマル(ハンブルクの東北東103キロ)とリューベックに到着することとなります。
これら北部防衛の各後備師団は、防衛命令が発せられたならば12時間以内に後衛を含め全てが宿営を発ち、鉄道によって防衛目標へ輸送されることとなったのでした。
バルト海から北海までの沿岸防衛はエドゥアルド・エルンスト・フリードリヒ・ハンニバル・フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン歩兵大将が責任を持ちます。
普墺戦争ではマイン軍を率い、西部戦線で今は無きハノーファー王国や南部諸侯と戦ったこの老将軍は、先の後備4個師団の他に、後備や補充用の歩兵77個大隊、猟兵5個中隊、各種騎兵33個中隊、野戦砲兵17個中隊、要塞砲並びに海軍砲兵48個中隊、工兵11個中隊を率い、その数は戦闘員だけでも9万人を数えたのでした。
ファルケンシュタイン第1防衛管区総督
ファルケンシュタイン将軍がなぜこのような強大な「軍」を率いることとなったのかは、当初デンマーク王国の態度が不明確で、結果「局外中立」を宣言するまで2週間余りを要したからでした。
もし、この間に仏海軍がその強力な艦隊でヤーデ湾やキールを封鎖し、数万人規模の「陸戦軍団」をユトランド半島に上陸させたならば、デンマークは間違いなく仏側に与するはずでした。
それは二度の対戦(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)で普軍もよく知っている、強力なデンマーク海軍と侮れない陸軍とが仏に加担する事によって「第二戦線」が築かれることを意味したのです。
7月25日に至ってデンマークが中立を宣言したことで、「第三次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の悪夢は消え去りますが、未だ仏海軍の跋扈する北海やバルト海を抱えるファルケンシュタイン将軍は、後備師団以外の補充用部隊もその一部を海岸防衛に転用することに決し、7月28日、命令を受けた部隊は海岸へ移動を開始しました。直接海岸防衛を担当していた諸隊も、独仏国境で戦闘が始まった(8月2日)こともあり、定員の3分の1から半数を常勤状態に置いたのでした。
バルト海沿岸は水深が浅く、大型艦船が海岸線まで進むことはなかったため、海軍は砲艦や警備艇、旧式帆船や民間からの徴用船を中心に防御を整えました。陸上では拠点防御の堡塁や砲台などが比較的最近に整備されており、防衛計画は人員を大量動員しなくとも拠点防衛に徹し、ただ監視哨を多数増築することで成し遂げられます。
北海沿岸も元より海岸線から先10キロに近い浅瀬によって定められた水路以外は船舶が接近出来ず、複数ある船舶航行可能な大河川も、その河口は航行可能な水深のある幅員が狭いため、航路を示す浮標を外してしまうと進入がほぼ不可能となる防衛適地でした。
とはいえ、仏海軍がデンマークやスウェーデン人の水先案内人を密かに雇い、当時は防御施設に乏しかったエルベやヴェーザー河口、そしてヤーデ湾を抜けて内陸に侵攻する可能性は残りました。ファルケンシュタイン将軍は、この可能性を無視せずに海岸監視と拠点防衛に奔走するのでした。
一方で、出来る限りの拠点防衛施設建設も急ぎ進められました。
エムス川は独(旧ハノーファー王国領)とオランダ国境と平行に流れる艀が航行可能な河川ですが、河口には港湾都市エムデンがあり、仏海軍が狙うには持って来いの場所でした。
当初ファルケンシュタイン将軍はハノーファー政府が造営していた4つの砲台を補強するだけで満足していましたが、度々仏艦が沖合に現れるため、砲台以外にも多くの野戦重砲を配備し、砲台から旧式海岸砲を外して24ポンド施条砲を配備する準備に入るのでした。同時期には後備兵と補充兵からなる「エムデン守備隊」*が結成されて海岸を巡回し、8月上旬にはイェーガー級砲艦の「ナッター」と「ヴェスペ」が到着して河口に張り付いたのでした。
※エムデン守備隊(約1,900名)
○後備歩兵第13連隊の1個大隊
○歩兵第78連隊の補充兵(第4)大隊
○後備驃騎兵の50騎
○後備工兵25名
既述通りヴィルヘルムスハーフェン軍港は新設されたばかりで未だ工事が完了しておらず、計画されていた防御施設工事は僅かに海側に対するものだけが着工されているだけでした。
新聞報道や仏国内の情報源から「仏艦隊出航」の情報を得ていた北独連邦は7月下旬、軍港の西側ヴィットムント(軍港の西北西24キロ)の北5キロ、ヘッペンスの地北方の隘路にあった数軒の農家を接収して、これを防御拠点とし、この間を塹壕散兵線でつないで歩兵の陣地を築きました。更に海軍から提供された海軍砲を配備するため砲台を築造するのでした。
この拠点にはオルデンブルク大公国内に留まっていた普軍正規軍の第91連隊と竜騎兵第19連隊、そして第10軍団所属の野戦砲兵2個中隊が進出して配置に就き、第91連隊の1個大隊はヴィルヘルムスハーフェン市街で軍港の守備隊となります。また、竜騎兵の一部はヤーデ湾北西端のシリヒに駐屯し海岸を警戒し、その他の部隊は鉄道を利用していつでも移動可能な準備を成す(つまりは機動防御を図る)のでした。
1853年、普王国にヴィルヘルムスハーフェン要地を売却したオルデンブルク大公ペーター2世は、自国領の海岸線(東はヴェーザー川から西はハルレ川まで)防御を強化し、度々ヴィルヘルムスハーフェンを訪れてはその防衛に力を尽くしました。
大公の後援により軍港の対陸上防御としては野砲を次々に搬入して7個の堡塁を新設し、軍港の対海上防御としては砲台を突貫工事で完成させ、8月上旬には既に海岸重砲30門を搬入したのです。
ペーター2世(オルデンブルク大公)
7月下旬にハノーファーとオルデンブルクなどの郷土部隊である第10軍団がザール地方へ移動すると、入れ替わりに後備部隊がオルデンブルクに入り、ヴィルヘルムスハーフェンも後備部隊と補充兵により守備され始めました。
※ヴィルヘルムスハーフェン守備隊(約2,100名)
○後備歩兵第57連隊の2個大隊
○海軍砲兵2個中隊
○後備海軍砲兵1個中隊
○後備驃騎兵の100騎
○後備工兵80名
ヴィルヘルムスハーフェン軍港の防衛としては、海軍もその本拠地として7月31日より北海艦隊を集中し始め、装甲モニター「アルミニウス」、イェーガー級砲艦「シュワルベ」「ハイ」「ハイエナ」「スペルベル」「フックス」、予備艦(補助艦艇)「マグネト」「ディアナ」が加わります。
この他海軍は民間船を徴用して、小汽船7隻にカッターボート数隻で「水雷艇隊」を組織、他の汽船7隻は連絡通報任務と曳航に利用するのでした。
北独連邦海軍戦闘序列(1870年8月)
注;各艦の要目は「普仏戦争/プロシア・ドイツの軍備(中・海軍)」参照のこと。
☆北海鎮守府(北海艦隊)
艦隊司令長官 ヤッハマン中将
旗艦「ケーニヒ・ヴィルヘルム」
参謀 ステンツァー大尉
副官 フォン・マウデローデ大尉
ケーニヒ・ヴィルヘルム
◯第1戦隊(ヤーデ湾)
・装甲フリゲート
「ケーニヒ・ヴィルヘルム」
(ルートヴィヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘンク大佐)
「フリードリヒ・カール」(グスタフ・クラット大佐)
フリードリヒ・カール
「クロンプリンツ」(ラインホルト・フォン・ワーナー大佐)
クロンプリンツ
・汽帆走コルベット
「エリザベト」(パウル・グラポウ少佐)
アルコナ級(ガツェレ)
・通報艦
「グリレ」(ドンナー大尉)
グリレ
・1級汽帆走砲艦<カメレオン級>
「コメート」(ルドルフ・ホフマン大尉)
・2級汽帆走砲艦<イェーガー級>
「イェーガー」(グスタフ・スタンプ中尉)
「ナッター」(オットー・フォン・ディーデリヒス中尉)
「プファイル」(フォン・ヴェディング中尉)
「ザラマンダー」(エデュアルド・シュターケ中尉)
イェーガー級(フックス)
◯第2戦隊(エルベ河口)
・装甲モニター
「アルミニウス」(オットー・ダニエル・リフォニウス少佐)
アルミニウス
・装甲ブリッグ
「プリンツ・アーダルベルト」(アレント少佐)
プリンツ・アーダルベルト
・2級汽帆走砲艦
「ヴォルフ」(ケブケ中尉)
「シュワルベ」(クロキジウス中尉)
「ティーガー」(アウグスト・トムゼン中尉)
◯第3戦隊(ヴェーザー河口)
・1級汽帆走砲艦
「バジリスク」(ヴィルヘルム・ディトマー大尉)
・2級汽帆走砲艦
「ハイ」(イワン・フリードリヒ・オルデコップ中尉)
「ハイエナ」(ルートヴィヒ中尉)
「スペルベル」(フランツ・フォン・キックブッシュ中尉)
◯エムデン戦隊
・1級汽帆走砲艦
「ドラッヘ」(ローデンアッカー大尉)
・2級汽帆走砲艦
「ヴェスペ」(メラー中尉)
◯徴用艦
・予備艦
「ディアナ」(砲2門)
「マグネト」(砲1門)
・偵察艦(汽船)
「クックスハーフェン」
「ヘルゴラント」
・他外装水雷艇改造艇など
☆バルト(東)海鎮守府(北海艦隊)
艦隊司令長官 エデュアルド・ヘルト少将
旗艦「プロセッサー・アドラー」
副官 リッター少佐(海軍歩兵大隊所属)
シュリーダー大尉
ハーケ少尉(海軍歩兵大隊所属)
プロセッサー・アドラー
◯キール戦隊(キール/フリードリヒショルト)
・練習艦(旧戦列艦)
「レナウン」(フォン・ハッセンシュタイン大佐)
・通報艦
「プロセッサー・アドラー」(ティルツォウ大尉)
・1級汽帆走砲艦
「シークロップ」(ツィルッツォフ・フォン・ノスティッツ大尉)
「カメレオン」(フリードリヒ・アルブレヒト中尉)
カメレオン級(シークロップ)
・2級汽帆走砲艦
「ハビット」(ゲオルギ中尉)
「スコーピオン」(ベックス中尉)
◯徴用艦
・偵察艦(汽船)
「ホルザティヤ」(レーマン少尉候補生)
「サント・ゲオルグ」(コヒウス中尉)
・他外装水雷艇改造艇など
◯シュトラールズント戦隊
・1級汽帆走砲艦
「ブリッツ」(マッターゼン大尉)
・2級汽帆走砲艦
「フックス」(ギュンター・フォン・ツィツヴィッツ中尉)
◯ダンツィヒ
・帆走コルベット
「ニンフ」(ヨハネス・ヴァイクマン少佐)
☆海外に派遣中の艦艇
◯日本・長崎
・汽帆走コルベット<アルコナ級>
「ヘルタ」(ケラー大佐)
◯日本・横浜
・汽帆走コルベット<ニンフ級>
「メデューサ」(マリウス・ストルーベン少佐)
◯アゾレス諸島
・汽帆走コルベット
「アルコナ」(男爵フォン・シュライニッツ少佐)
◯西インド諸島(メキシコ湾沖)
・1級汽帆走砲艦<カメレオン級>
「メテオール」(エドゥアルド・クノール大尉)
☆就役を解かれた艦艇
◯修理中
・汽帆走コルベット<アルコナ級>
「ヴィネタ」
・汽帆走コルベット<アガスタ級>
「アガスタ」「ヴィクトリア」
アガスタ
・1級汽帆走砲艦
「ドルフィン」
◯改装中
・通報艦
「ポメラニア」
◯乗員不足による
・汽帆走コルベット<アルコナ級>
「ガツェレ」
◯老朽化のため修繕・改装待ち又は保管
・帆走フリゲート
「ゲフィオン」「テティス」「ニオベ」「ブリッグス」「ウンディーネ」
・帆走練習艦
「ムスキト」「ローファー」
・通報艦
「ヘラ」「ローレライ」




