表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
300/534

セダン会戦とは何だったのか

 「グラヴロット/サン=プリヴァの戦い」(8月18日)が終わり、翌日からメッスの包囲とシャロンへの進撃(この時点ではマクマオン軍の捜索と追撃)を行うため、独野戦軍が「メッス攻囲軍」と「マクマオン追撃軍」とに分かれた時点からほぼ10日で、仏皇帝が捕虜となるという近代史上特記すべき状況となりました。


 これは普軍創設以来最大の勝利となり、独帝国成立がほぼ確定的となり、仏帝政が崩壊し共和制が復活する「事件」でもありましたが、現代人から見ると実際の開戦(ザールブリュッケンの戦いのあった8月2日と考えても差し支えないかと思います)からちょうど1ヶ月であの「光輝ある」仏軍がほとんど「死に体」となるなど、ちょっと信じられない気がします。

 この辺の「世界史的」考察と「政治的・銃後的」背景は多くの書物に書き記され、それはネットにも溢れていますのでお調べ頂くとして「サラっと流し」、ここでは単純に「仏軍」と「独(普)軍」の動き、つまりは「仏軍の失敗要因」と「独軍の成功要因」に限って見てみます。


挿絵(By みてみん)

セダンの戦場(ルイ・ブラウンのパノラマの一部)


☆ 仏軍の失敗要因


 既に語り尽くした感もあるので、オサライ程度に見てみましょう。


 マクマオン将軍はヴルトの戦い(8月6日)で善戦するも敗退し、一気にロレーヌの地を捨ててシャロンを目指したのは大正解だったと言えます。多少の采配ミスはあったものの、さすがはフランス軍が誇る「優将」、特に引き際の鮮やかさは見事でした。

 ところが、ここからが怪しいところで、キャンプ・シャロンでシャロン軍が編成された直後(8月20日)から、何故か英断がなりを潜め、優柔不断な「その辺りにいる」同僚将軍と同じ、グズグズと何一つ決まらず朝令暮改の繰り返しが始まったのでした。


挿絵(By みてみん)

ナポレオン3世とマクマオンの戦場視察


 これはひとえに仏帝国軍が内在していた最大の弱点、「徹底し過ぎの上位下達」「命令絶対服従」が全てに「負」に影響した結果と言えるでしょう。


 いつの時代の「帝国・国家主義的専制」もそうですが、「革命・国家転覆」を恐れるあまり、軍と行政機関や国民生活に「枷」を填め、「お上」がうまく国家を転がしている内はこの統治システムもしっかり機能し、物事は一見スムーズに動いて行きますが、いざ物事が上手く転がらなくなる(経済や対外関係が原因となる場合が多いものです)と、この「枷」により国家運営がぎくしゃくし、更に枷を締め付けることとなるので悪循環に陥り、という構図が見えるものです。


 仏第二帝政も正に「上手く転がらなくなる」時期を迎えていて、そのタイミングで普仏戦争が勃発しました。

 仏軍が平和時に連隊単位で「孤立」し、集団単位での演習も形式ばかりで近代戦の実態に合っていなかったことは「普仏戦争」編の当初に詳述しましたが、これと前述の帝政による「枷」(例外無き命令厳守)がこの「セダン会戦」に至る過程で次々と悪さをし、シャロン軍は崩壊したのでした。


挿絵(By みてみん)

バゼイユ・掃討戦の後


 そして、ここでも仏軍統帥部の優柔不断が状況に拍車を掛けるのです。


 メッス攻囲に至った原因がナポレオン3世とル・ブーフ、バゼーヌら「ライン軍」上層部の優柔不断・朝令暮改にあったとすれば、セダンの敗北原因は同じく皇帝とマクマオンにあったこととなります。


 そしてこの陰に最大の「敗戦の戦犯」がおり、それはもちろん「パリ摂政政府」でした。


 政治・銃後は「サラっと」行くお約束ですので、少しだけ。


 「帝政維持」に汲々とするパリ政府が、戦況や軍事セオリーをほとんど無視して「横槍」(バゼーヌ軍と合流するためのメッス行き)を入れ、その結果、せっかく独軍の進撃情報を得ていたマクマオン将軍の手足に「枷」を填め、それでもマクマオンは少しでも抵抗した(パリ行きに拘った)分だけ「ちょっぴり偉かった」という結果になりました。

 当然、摂政政府首相もあの中国で英雄となったパリカオ(八里溝)伯爵クーザン=モントーバンです。軍事セオリーも当然分かっていたはずですが、結局は皇后一派の「お飾り」に過ぎず、そして皇后一派が何よりも恐れたのは連戦連勝の「敵」ではなく、恐ろしい「味方」、国民なのでした。その「国民」も、後に語ると思いますが地方はそれほど独に対して徹底抗戦するだとか、進撃に拘るとか、その手の「熱情」に駆られることも少なく、ただ平凡な日常に早く戻るための努力をしよう、といった程度だった様子で、「恐ろしい味方」とは、そんな地方民衆までも熱情の渦に巻き込んでしまう仏国「エネルギーの根源」、パリ市民なのでした。


挿絵(By みてみん)

セダンの仏兵を描く仏プロパガンダ


 この「パリ市民」に関しても、避けて通れませんのでこの先「パリ攻囲」で「軽く」語るはずですし、何度も言いますがネットに素晴らしい評論や、何しろ「パリ燃ゆ」と言う名作もありますので、そちらをご覧頂くとして。

 このパリ市民がほとんど現実を「見ざる聞かざる」状態(でも「言わざる」ではない)で、面白おかしく「他人の不幸」を書き散らす(しかも真偽織り交ぜて)外国からの報道を真に受け、それを更に国内の新聞が煽り立て、殆ど闘牛の牛状態で「ラインへ進め」と叫ぶ中で政権を保とうとすれば、それはもう国民への「すり寄り」、ポピュリズムに陥るしかないのです。


 「真実」などというものは国家、時にはたった一人の独裁者(何もヒトラーやスターリン、秦の始皇帝、ローマのカエサルたちばかりではなく、絶大な人気を誇った政治家たちもそう)の考え一つでどうにでも変容するものです。時にそれを真に受けた無辜の人たちによって、それが国家の「喜怒哀楽」となり、独裁者たちは自分たちが蒔いた都合の良いはずの種が発芽して成長するにつれ、今度は育ち過ぎた「世論という植物」に絡め取られて行くのです。


 この普仏戦争という145年前の戦争は、ポピュリズムの典型的な例と良く言われますが、こんな軽薄短の筆者ですらはっきりと俯瞰することが出来るポピュリズムという国家政府にとって「最悪」の終着点を、19世紀から20世紀(否、現在もでしょうか)の施政者たちは見て見ぬ振りをするか、はたまた、自分たちは違うと優越感に浸って次々と墓穴を掘って行ったのです。

 この戦争の後半から戦後の「終焉」(パリコミューン)は、正に仏国の「汚点」と呼ぶべき時期で、それを今後読者の皆さんと軍事面から見て行くこととなります。


挿絵(By みてみん)

捕虜の護送(家族との別れ)ジュール・ドーベル画


 もちろん、8月中旬の状況下ではパリ摂政政府の横槍があろうが、皇帝がちょっかいを出そうが、マクマオン将軍が大逆転を演じられたかどうかの可能性は限りなく小さかったと言わざるを得ないでしょう。

 シャロン軍は、一部やる気満々の将兵(海軍歩兵「ブルー」師団)がいたものの、それ以外は、予備や第二線から参加し「運がない」と吐息を吐いていた連中と、ヴァイセンブルクからヴルトと連敗し、長距離を糧食乏しく後退して来た敗残兵の集合体でした。個々にはさすがと思わせる戦い振りは見られましたが、疲弊し不満たらたらの軍を指揮するのはただでさえ厄介でしょう。

 実際シャロン軍の行軍速度は、皇帝とマクマオン対パリ摂政政府の「駆け引き」による朝令暮改の酷い命令があったことを割引いても、相当な遅さで、独軍のほぼ半分以下の行軍速度(1日平均12、3キロ)でした。


 この体たらくに先の要因が重なれば、それはもう必敗の道を辿るしかなかったのです。


 そして敗因の最後に上げるのは、セダン会戦当日早朝の指揮官交代。


 これも元を正せばパリ摂政政府が余計なこと(ヴンファンに「万が一の場合は指揮権を掌握しろ」とのお墨付きを与えた)をしなければヴィンファンは大人しくデュクロに従った(何しろ命令盲従の仏軍です)でしょうし、その結果、セダンの「ネズミ取り(デュクロに言わせれば『おまる』)」からいくらかの部隊はメジエールへ脱出した可能性がありますし、ひょっとしたら皇帝も脱出出来た可能性すらあるのです。


挿絵(By みてみん)

19世紀のセダン


☆ 独軍の成功要因


 敵の失敗要因はイコール成功要因です。仏軍の有様があまりにも「アレ」だったため、独軍はかなり楽に物事を進めることが出来ました。まあ、楽とは言っても、ご覧頂いたようにかなりの紆余曲折がありました。


 成功要因の1位が敵の失敗要因だったとして、独軍の根本的な「強さ」は、繰り返しとなりますが次の3つに集約されます。


1、相対的に優れた軍事統帥システム

2、優勢・先進的な砲兵力とその使用方法

3、指揮官の質と教育・訓練の差


 1はモルトケが育てた参謀本部と、その方針に従った軍部の柔軟性、そして「委任命令」と「共同責任(先進的な参謀業務)」にありました。

 2はクルップ鋼鉄後装施条砲の威力はもちろんのこと、砲兵総監ヒンダーシン将軍以下の理解と指導による砲兵力の効果的な使用方法が、この1ヶ月間に野戦指揮官たちが(それこそ血塗れで)得た経験につながり、独軍は「事前準備砲撃」の破壊的効果を知るのです。

 3は、普墺戦争以来積み重ねた訓練の賜で、戦争の経験値では仏軍も劣らぬ(クリミア、イタリア、メキシコ)ものの、普軍は教育と訓練に励んだお陰で数段上の域に達し、指揮官のみならず下士官兵までが「一家言」あると言われる独軍人たちの「独立独歩」の気風は更に研ぎ澄まされ、変わらず「上意下達」に汲々する仏軍の「他人依存性」を打破したのでした。


挿絵(By みてみん)

バイエルン軍の行進


 こうして書いてしまうともう、独軍は最強を通り越して「チート」の域にまで高まってしまいそうですが、実際はそんなことはなく、今までご覧頂いたように様々な「誤解と判断ミス」がありました。


 独軍はマクマオン軍をヴルトで見失って以降、手探りで西へ向かい、中央北部の戦域で独第一、第二軍が大きな犠牲の上でメッスにバゼーヌ軍を包囲するまで、独第三軍は敵の状況を明確に捉えることが出来ないままでした。


 その後マース軍が創設されて、北側の捜索任務を肩代わりした後もシャロンに至るまで敵影がはっきりしないまま進み、8月23日から24日にかけて、なんと仏軍は東へ、独第三軍はその南を西へと、あわやすれ違い寸前にまで至るのです。

 これは独軍の偵察不徹底、というよりは、マルス=ラ=トゥール会戦の時にも独第二軍のカール王子らが陥った「自分が当然と思っていることを敵も行うと信じる」過信から生じたものでした。


 この場合、「マクマオン軍は首都に向かうに違いない」という認識で、確かにマクマオン将軍はパリに向かい「たかった」のですが、それが出来ずに右往左往してしまい、モルトケさえも、まさか仏軍がメッスへ向かおうとしている、などとは思いもしなかったのでした。

 この仏軍のメッス行きを憂慮したのはポドビールスキーら少数の参謀のみで、仏軍さえその気になって行軍したのなら独軍の不意を突いて、広い正面を以て進んで来た独マース軍をアルゴンヌ山地から奇襲して撃破するか完全にスルーしてその北を抜け、ベルダンの北デュンかストゥネでムーズ川を渡ってエテン方面から「メッス攻囲軍」の背後に現れることも可能だったと思います(どのみち最後に仏軍は壊滅したと思いますが)。

 しかしその様なことは起きず、逆に8月25日の早朝、モルトケは騎兵情報や報道等からシャロン軍の東進を疑い出し、第三軍とマース軍の「北向転進」を決断、両軍はこれに素早く反応して独軍の「すぐそこにあった危機」は去り、この「全軍の右90度一斉転進」は、モルトケの「大胆かつ鮮やかな作戦手腕」として歴史に刻まれたのでした。


 その後、シャロン軍は変わらず右往左往して独軍に追い付かれ(前述のようにランスからヴージエ、ル・シェーヌまで約60キロの行程を5日間も掛けています)、ムーズ川を渡れなかった半数が「ボーモンの戦い」によりボーモン~ムーゾン間で撃破され、逃げ込んだ先が運命のセダンでした。


挿絵(By みてみん)

当時のセダン市街

挿絵(By みてみん)

当時のセダン城稜角


 セダンで10万人の将兵と共に皇帝が捕虜となったことで、独軍将兵の間では「これでフランスは負けた。戦争も終わる」という楽観論が流れ、浮ついた空気と共に直ぐにでも帰国出来るとの期待に包まれますが、「そんな甘いものじゃない」と考える者もいました。

 特に独軍統帥部では「政権が変わろうと戦争は継続する」と冷静に読んでおり、その中心にいたのがビスマルクとモルトケでした。


 ビスマルクは、皇帝が捕虜となったことで帝政は崩壊し、パリでは革命が発生して生まれる政権は共和制に違いないと読み、仏人(パリ市民)の性格からして、大革命当時と同じく国民皆兵として簡単には降伏しないだろう、と考えるのです。

 モルトケも、首都パリを陥落させなければ戦争の効果(独の利益)は不十分であり、近い将来再び戦争となるはず、と考えます。常日頃、敵軍を殲滅し敵国政府を打倒しなければ完全な勝利ではない、と考えるモルトケは参謀本部に「パリへの進撃・包囲・兵站計画を作成するよう」命じるのでした。

 

 こうして独軍はセダンで獲た10万人を独へ護送する任務に忙殺されつつも、メッスの包囲を続け(このセダン会戦とほぼ同時、8月31日から9月1日にメッスでは「ノワスヴィルの戦い」が発生しています。詳細後日)、パリへ進撃することとなります。


挿絵(By みてみん)

仏軍逆襲の後に警戒する普第7驃騎兵連隊(クリスチャン・シェル画)


 この9月2日以降のパリ進撃、そのパリでの摂政政権転覆、メッスでの攻囲戦、そして同時進行でストラスブールでも攻囲戦が行われますが、これは後日整理します。

 この後は時計の針を巻き戻し、まずはバルト海と北海沿岸、仏に味方するかも知れないデンマークと接する問題の地、シュレスヴィヒ=ホルシュタインやオルデンブルクの防衛に目を転じましょう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ