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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
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1848年革命


☆ 1848年革命


 さて、この辺りからモルトケの周囲が慌ただしくなります。

 世界はナポレオン戦争後の王権反動政治(ウィーン体制と呼ばれます)に反抗する自由立憲主義者や芽生え始める社会主義者の勢力が増大し、各国で革命やクーデターが相次ぐ不安の時代に突入しました。

 そして1848年、ついにフランスで2月革命が勃発、それは見るまにヨーロッパ全土を巻き込む「1848年革命」となります。


 毎度毎度で申し訳ありませんが、この後にモルトケが活躍する背景を説明するため、この節では「歴史の授業」におつき合いください(長いので斜め読みで構いません)。


 「革命」と聞くとルイ16世やマリー・アントワネットが断首されたフランス革命や第一次大戦中に発生したロシア革命を思い浮かべる人が多いと思います。

 しかしヨーロッパにとって1848年に発生した革命の連鎖は「1789年のフランス革命」と同等かそれ以上、正に歴史的衝撃と言ってよいほどの傷跡を残すことになります。

 因みにこれは蛇足ですが、日本では「革命」という言葉が示す行為は「起きていない」と言われています。古来より天皇が最高権力者であり続けているためで、「大化の改新」に「後醍醐天皇の鎌倉倒幕」や「明治維新」などは本来の意味での「革命」ではない「内乱」「内戦」とされています。


 本題に戻しますと、1848年の革命連鎖を「諸国民の春」とも言いますが、その発端は1848年1月、イタリアの南端・シチリア島のパレルモで発生した暴動でした。


 これはナポリを首都とするイタリア半島南部とシチリア島からなる両シチリア王国からのシチリア島分離独立と憲法制定を求めたものでしたが、これはたちまちイタリア各地に波及して、当時はオーストリア帝国領だったイタリア北部地方やベネチアでも3月には反乱状態となりました。このオーストリア帝国からのイタリア独立を目指す戦いが第一次イタリア独立戦争へと発展します。


挿絵(By みてみん)

パレルモ(1848年1月)


 一方、1830年7月に「市民の王」をキャッチフレーズとして登場したルイ=フィリップ(オルレアン家)が支配するフランス(7月王政と呼ばれます)でも選挙権を持たず上流階級に搾取され続けていた農民や下層労働者の不満が爆発寸前になっていて、「改革宴会」なる催し物(中身は改革を求める政治集会ですが宴会の名前で集まっていたので、デモなどに発展しない限り政府も不満の「ガス抜き」として黙認していました)が各地で行われていました。しかし隣国イタリアで革命騒ぎが発生すると騒乱を恐れた政府は2月22日に開催される予定だった改革宴会に対し中止・解散を命じます。

 しかしこの行動は完全に裏目に出てしまい、怒った首都パリ市民らによるストライキやデモ行進が一斉に行われ、焦った政府は翌23日、宰相が責任を取る形で辞任し収拾を図りますが民衆の怒りは収まらず、市民たちは24日に武装蜂起し、首都は一気に革命機運となりました。鎮圧するはずの軍の動きも鈍く、あのルイ16世のようになっては叶わないとばかりに国王ルイ=フィリップは退位を宣言するや慌ててイギリスへ亡命、何とたった3日でフランスは王政が打倒され共和主義者主導の臨時政府が発足するのでした(フランス2月革命)。その後フランスは左翼急進派を抑えた穏健共和派(中道右翼)による第二共和制となります。


挿絵(By みてみん)

「2月革命のパリ市庁舎前」(フィリッポトー画)


 「革命の本家」フランスで突如発生した政変はヨーロッパ各地で抑圧されていた民族や民衆に大きな希望を与え、革命の炎は一気にヨーロッパ全土に飛びしました。


 オーストリア帝国では属州のイタリア北部ばかりでなく本国首都ウィーンでも改革を要求する学生や自由主義的な思想を持つ市民たちから言論の自由や自由選挙などの要求が掲げられ、3月13日には一時王宮を市民等が取り囲む暴動に発展してしまいます。この騒動によりナポレオン1世の時代から活躍していた宰相メッテルニヒが辞任(こちらもイギリスへ亡命します)に追い込まれ、この出来事を「ウィーン3月革命」と呼びますが、オーストリアはそれまで国の舵取りをほぼ一人で行っていたメッテルニヒを失って政情不安に陥りました。


挿絵(By みてみん)

ウィーン(1848年3月26日)


 また、広大なオーストリア帝国ではイタリア以外でも独立や権利獲得の騒乱が多発します。

 ベルギーでは5月、ボヘミア(チェコ)では6月に暴動から発展した革命騒ぎとなりますが、これらは駐屯オーストリア軍が何とか鎮圧に成功、イタリアでも7月末に伯爵ヨハン・ヨーゼフ・フォン・ラデツキー元帥率いるオーストリア軍がイタリアのサルデーニャ=ピエモンテ王国軍を破って優勢に立つと帝国軍は革命派打倒に向け弾圧に入ります(この時ヨハン・シュトラウス1世が元帥に捧げた行進曲は誰もが一度は聞いた曲)。

 しかし、3月にハンガリー王国(国王はオーストリア皇帝の同君)で発生した革命騒ぎは、やがて王国内の騒乱(ここでも多数派マジャール人と少数民族との争いがありました)を抑えた革命軍が9月にオーストリア派遣軍を破ってウィーンに迫り、皇帝フェルディナント1世一家は首都を脱出し隠遁する羽目になりました。


挿絵(By みてみん)

ウィーンを脱出する皇帝


 10月末にはウィーン近郊でハンガリー革命軍とオーストリア軍との間に凄惨な戦闘が発生し、ここで侯爵アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ元帥率いるオーストリア軍はハンガリー革命軍を破ってウィーンの危機は救われました。

 12月に皇帝フェルディナント1世は長男フランツ・ヨーゼフ1世に譲位。ハンガリー革命軍も翌49年、反革命でオーストリアに協力したロシア軍により壊滅され、ようやくオーストリアでの革命は収まったのでした。


 このヨーロッパ各国における革命騒ぎにプロシア王国も無事で済む筈はなく「ドイツ3月革命」とその一部「ベルリン動乱」が発生します。


 ドイツ最初の革命動乱は西部ライン河畔にあるバーデン大公国で始まりました。

 比較的自由主義に寛容だったはずのバーデンでは、パリから2月革命のニュースが伝わった直後に各地で自然発生的な地方領主や貴族の館への襲撃・焼き討ちなどが始まり、1848年2月27日、主要都市のマンハイムで民衆が大集会を催し、自由選挙、国民衛兵(人民軍)の設置、報道・出版の自由、憲法制定などを定めるためのドイツ連邦議会の成立などを求める宣言を発しました。これはたちまち各地に同様な動きを誘発し、近隣の諸侯領邦(ヴュルテンベルク王国、ヘッセン大公国、ヘッセン=ナッサウ公国など)でも同様の決議・誓願が宣言され、身の危険を感じた各国国主たちはそれを無条件で認めるしかありませんでした。


 プロシア王国首都ベルリンでもウィーンでメッテルニヒが辞任したとのニュースが伝わると3月18日、市民が一斉に蜂起し軍と衝突しました(ベルリン動乱)。

 当時の国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(後の国王ヴィルヘルム1世の兄)は暴動を早期に鎮めるため議会の招集や出版の自由、そして憲法制定の準備を許し、自由主義に理解あるルドルフ・カンプハウゼンに組閣を命じました。これを「ドイツ3月革命」と呼びます。


 しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は決して自由主義者や民族主義者たちに妥協したわけではなく、反撃の機会を得るための時間稼ぎを行っただけで、6月中旬にベルリンの武器庫が暴徒に襲撃(6月14日)されるとカンプハウゼン首相に責任を負わせて辞任させ、5歳年上の叔父、伯爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク中将(フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の「ご落胤」)に組閣させると極右の取り巻き(カマリラと呼ばれます)主導による反革命が開始されます。


挿絵(By みてみん)

革命の中で民衆に迎合するふりをするフリードリヒ・ヴィルヘルム4世


 11月にはプロシア軍の重鎮フリードリヒ・ハインリヒ・エルンスト・フォン・ヴランゲル中将が1個師団・砲60門を率いて市民により実質支配され「半」占領状態にあったベルリン郊外に到着し、ヴランゲル将軍はベルリン市民自警団の隊長オットー・リンプラー退役少佐と交渉して首都を無血解放、自由主義者が多数となった議会も解散させられると、国王は12月5日に欽定憲法(国王が定めた憲法で絶対王政を保持する内容です)を発布、議会選挙法も保守派有利に改訂され、ひとまず王政の危機は去ったのでした。


 ドイツ全体としては1848年5月18日、ドイツの統一と統一憲法制定を目指す「フランクフルト国民議会」が召集されます。

 この議会はドイツ連邦(オーストリア、プロシア、バイエルン、ザクセンなど中欧のドイツ人領邦39ヶ国からなる「緩い」国家同盟)を構成する各領邦で行われた代議員選挙(もちろん制限選挙です)で当選した649名からなる議会で、当時は「自由市」として独立していたフランクフルト・アム・マインで行われました。


 この議会では「自由主義的なドイツの統一」が話し合われますが、大ドイツ主義者と小ドイツ主義者の対立も目立ち、10月末にようやく大ドイツ主義による統一が決議されます。しかしこの時にはフランスでも左翼を抑えた穏健共和派が実権を握って落ち着き始めており、また、各領邦では国主や保守派による反撃・反動も始まっており、この議会開催に端から乗り気ではなかったオーストリア帝国が抜けてしまい、結局議事を振り出しに戻して行われた議会では翌49年3月末に小ドイツ主義による世襲立憲君主制を基調とした「ドイツ国」の成立を目指すことを決議し、初代「皇帝」(「ドイツの王」程度の意味)にプロシア国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を推挙しました。


 しかし、当初からこの議会の権威を認めていなかったプロシア国王は「各領邦国主からの推戴ではない平民からの推挙は拒絶する」と答えたため「統一ドイツ」成立は失敗、既にこの頃には一般大衆の革命機運も萎んでおり、権威を取り戻したオーストリアの圧力により議員たちは次々に帰国してしまい、やがては自由主義者で純粋にドイツ統一を願う議員だけとなった議会(ランプ議会と呼びます)は、それでも南ドイツのヴュルテンベルク王国首都シュトゥットガルトで細々と活動を続けますが、反動勢力の圧力を受けて解散してしまうのでした。


挿絵(By みてみん)

ヴュルテンベルク軍によって解散させられるランプ議会(1849年6月18日)


 このフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の皇帝就任拒否とフランクフルト国民議会の解散により、ドイツ各領邦では再び立憲自由主義国家としての統一を掲げた労働者や学生を動員する左翼自由主義者と右翼反動保守との間で内紛が発生します。

 以下、端折りますがプロシア王国で「エルバーフェルト蜂起とイーザーローン蜂起(ルール地方)」「プリュム武器弾薬庫襲撃(ベルギー国境付近)」が、ザクセン王国で「ドレスデン5月蜂起」が、バイエルン王国で「プファルツ蜂起(ライン西岸地区)」が、そしてバーデン大公国で「バーデン革命」が立て続けに発生、各地で次々と「共和国」が宣言されるのでした。


挿絵(By みてみん)

ドレスデン(1849年)


 しかし、これらの暴動はプロシア軍やオーストリア軍を中心としたドイツ連邦軍によって速やかに鎮圧され、一番強力で厄介だったバーデン大公国の「革命」もヘッセン大公国軍や王弟ヴィルヘルム親王率いるプロシア軍(ローンもいました)、そして大公国側のバーデン軍による情け容赦ない討伐戦により革命軍は各地で殲滅され、1948年革命が夢見た「諸国民の春」、早過ぎた自由主義者たちの「祭」は1949年7月23日、革命軍に占拠されていたバーデン大公国の要衝ラシュタット要塞の陥落で終わるのでした。


 この48年革命までのモルトケの経歴を以下ざっと流します。


 モルトケは1845年にフリードリヒ・ハインリヒ・カール親王(時の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の叔父)の副官に任命されます。カール親王は20年以上もローマに住んでおり、モルトケは妻を置いてイタリアに移りました。しかし既に寝た切りになっていた親王は翌46年の夏に死去し、モルトケも親王の遺体と共に汽船で帰国の途に付きますが、酷い船酔いを起こし途中下船して陸路ハンブルクへ向かい、船の到着を港で待つという体裁の悪い経験をしました。


 帰国後に第8軍団付参謀を命じられると、短い間ですがここでフォン・ローン少佐と一緒に働いています。

 1848年3月。正にベルリン動乱が始まる直前にモルトケは参謀本部戦史課課長を命じられ首都へ転勤しますが、落ち着く間もなくベルリンには革命の嵐が吹き荒れ、離れて暮らすのを嫌がる妻マリーを説得し難が降りかかる前にホルシュタインの実家へ疎開させました。


 しかしこの直後。モルトケにも縁が深いホルシュタインと北側のシュレスヴィヒが正に48年革命の一つの中心となってしまうのです。



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