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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
299/534

セダンの戦い(終)/セダン開城

 腎盂炎や膀胱結石に苦しみ、怒れる市民のためにパリにも帰れず、遂に歴史的大敗の将となり心身共に衰弱した状態であっても、己が背負った「ボナパルト家」の威光と「類希な自尊心」からか、「自分で普王と会い解決する」と大見得を切った仏皇帝ナポレオン3世。

 失意の皇帝は9月2日、後に「スダン・デイ」と呼ばれることとなる仏国最大の屈辱の日黎明、レイユ伯爵ら数名の近従と護衛騎兵とを伴い、ひっそりとセダン城を出ます。

 皇帝はまず、レイユを使者に仕立てて、普国王との会談への足掛かりとして宰相ビスマルクに面会を求めさせようと、その宿舎があるドンシュリーへ先行させました。


 先触れもなく申し訳ないと謝るレイユから「皇帝自らが城を出た」と聞き及んだビスマルクは宿舎を飛び出し、騎乗するとセダンへ馬を走らせました。すると朝靄の向こうから街道をゆっくりと(皇帝は痛みに苦しんでおり、揺れを抑えるため馬車は走れませんでした)進み来る皇帝一行に出会います。


挿絵(By みてみん)

皇帝一行と出会うビスマルク


 ちょうどセダン~ドンシュリーの中間付近、皇帝は無蓋馬車の座席に半身を沈めていましたが、ビスマルクが下馬して恭しく拝礼すると身を起こし、挨拶も早々「国王陛下とお会いしたいが取り次いでは貰えまいか」と尋ねました。


 ビスマルクは表情に出るのを抑えつつナポレオン3世の変貌振りに驚愕していました。

 北独宰相が最後に皇帝と面会したのは3年前のパリ万博の時でしたが、その頃の皇帝はメキシコ出兵の失敗を何とか取り繕い、また普王国とはライン西岸やルクセンブルクをめぐる諍いで「テーブルの下で足を蹴り合う」仲、既に病魔に冒され始めていた皇帝も、気丈なウジェニー皇后と並ぶと背筋を伸ばし、何とか威厳を保っていたものでした。

 それが目の前の男はまるで別人の老人で、身体も一回り小さくなったように見え、ひどい猫背で顔色は灰色に近く、誰が見ても病魔に冒され立つことも覚束ない様子なのでした。


挿絵(By みてみん)

ナポレオン3世に挨拶するビスマルク


 ビスマルクは恭しい態度を崩さずに、「ヴィルヘルム1世陛下はドンシュリーにはいらっしゃいません。ヴァンドウレスの大本営にいらっしゃいます」と答え、「この場は私が御用をお伺いすることで如何でしょうか」と、街道脇に見えた無人の作業小屋を差し示します。

 本来ならベルビュー城館かドンシュリー城へ招く所、ビスマルクはナポレオン3世の様態と人目を慮って、まずは直近の建物へ招き入れたのでした。


 ビスマルクは松材の机に粗末なイスしか置いていない小さな部屋にナポレオン3世を座らせると、互いに近従を表に出し、二人きりで1時間ほど話し合います。

 ビスマルクによれば、その話し合いは「打ちひしがれた皇帝に対し、歴史的な敗北の痛手を突かぬよう気を使いながら」思い出話なども挟みつつ「既に投降を覚悟した皇帝に、軍においても降伏する意志があるか否か」の確認と「独仏間の和平交渉にまで踏み込む意志があるか否か」の確認に費やされます。

 皇帝は「自分としては和平交渉にまで及んで話をしたいのだが、政治についてはパリ摂政政府と打ち合わせをしなくてはならないので、今は本会戦の決着についてのみ話し合いたい」とするのでした。

 ビスマルクは頷くと、「私は外交国事のみに責任を負う立場であります。軍事については全権を得ているモルトケとお話し下さい」として、ビスマルクを追って到着し、小屋の外で待っていたモルトケ参謀総長を招き入れました。


 モルトケの顔を見ると、皇帝は開口一番「独軍監視の下で構わぬので、仏軍をこのまま北上させて貰いたい。全員ベルギーへ越境し、武装解除と抑留されることにしたいのだが」と要求するのです。


 これについては昨日来、モルトケの参謀本部とビスマルクら外交筋は様々な可能性を探っていました。

 つまりは「望外に獲た大量の捕虜をどうするのか」という大問題で、これには、今は戦意喪失し意気消沈した仏軍ではあるものの、やがて時間を経て体力気力が回復すればプライドと復讐心も回復し厄介な存在となろう、という裏がありました。


 この時点で考えられるのは大きく分けて次の4つの案でした。

1・今後戦わないと宣誓させて釈放する(ヴィンファンの提案)

2・ベルギーへ越境させ武装解除・抑留して貰う(皇帝の提案)

3・アルジェリアなど仏領アフリカ植民地へ追放する

4・独領で抑留する


 ここで軍部が「絶対に譲れない」としたのは、シャロン軍を「この戦争で二度と戦力とさせない」ということで、1案に関してはこの時代、軍人という紳士(それは兵卒ですら同列)が「神に誓って」または「この剣にかけて」宣誓するからには、これを反故にすることは「男(紳士)として最も恥ずべきこと」なので個人的には守るはず、と言えますが、貴族は別として一市民に戻った兵卒がその約束を守るかどうかは不透明で、しかも帝政が倒れるのは必然と言える状況では、皇帝が交わした条約など新政府が簡単に破り捨ててしまい、結局の所、シャロン軍は復活するに違いない、との確信が独側にはあったのです。

 この点では3案も同じで、多少距離が遠くとも、逆に目が届かない所では兵は直ぐに軍へ戻ってしまい、時間はかかるもののやがては独軍の前に現れるだろう、そもそも輸送の手立てや莫大な手間と費用(海を行くとすれば陸の逆で強力な仏海軍も出て来ます)をどうするか、ということでした。

 すると2案となりますが、これも元来仏側に同情的なベルギーのこと、10万の仏軍を抑留し逃走しないよう監視するなど絵に描いた餅、例えとすれば仏軍越境兵は「ザルに入れる水」のようなもの、抑留したと見せかけて逃亡出来るよう監視をせず、兵士たちは仏領に直ぐ戻って来るに違いなく、第一、小国ベルギーが抑留の間の費用を負担するとも思えないのです。


 結局、モルトケ(軍)とビスマルク(政府)としては、4案にせざるを得ないということで同意しました。

 これも巨額の費用(抑留施設の維持、食糧など)や国内に抱える多数の敵国軍人に対する看守に後方警備の準備、国民の不安・不満など問題はあるものの、戦争勝利のためにはこれしか案がなかったのです。 


 ナポレオン3世とは二度目の会見となる(13年前にパリにて謁見)モルトケは、ベルギーへ軍を進めるという皇帝に対し、「要望については国王陛下にお伝えしますが、その実現は困難と思えますし、本官としてはこの件を国王陛下に斡旋するつもりもございません」と、半分拒絶の言葉を皇帝に告げるのでした。


 ここでモルトケ参謀総長は、昨夜の会談の顛末とナポレオン3世が出向いて国王との面会を求めていることを知らせ、同時に起草した降伏休戦協定文の裁可を求めるため、ヴァンドウレスに向かい出発します。

 この後、ナポレオン3世とビスマルクは近従を連れて交渉の場であるベルビュー城館へ一足先に向かうこととなりました。


挿絵(By みてみん)

ベルビュー城館へ向かうナポレオン3世とビスマルク


 普大本営の宿営へ向かったモルトケは途上、運良くドンシュリーへ向かうヴィルヘルム1世一行と出会います(この時、仏側回答期限の午前9時となっていました)。

 国王はその場で条文を認可し「仏軍のベルギー行き」はモルトケの説明を受け拒否しましたが、ナポレオン3世が会いたがっていることに対しては「会うことは会うが、それはこの降伏協定が締結された後としたい」とするのでした。

 モルトケは同行した副官に対し「この旨を至急ポドビールスキー次長に伝えよ」と命じてベルビュー城館へ早駆けさせ、自身も急ぎ引き返し、ビスマルクと仏皇帝の待つベルビューへ向かったのです。


 セダン城では仏軍の高級指揮官会議が早朝6時から行われていました。

 皇帝の出発を見送ったヴィンファン将軍は会議冒頭に昨日の顛末を報告すると、集合した各軍団長や師団長、工兵や砲兵部長らシャロン軍の将官たちに問い掛けます。つまりは「モルトケの告げる無条件降伏を受けるか否か」と。

 諸将の答えはほぼ一致(反対は2名のみだったといいます)し、「独軍の要求を受け入れ、無条件降伏するしか手はない」というものでした。

 しかし、その責を一身に担うヴィンファンは、多数決とはいえ些かも責任を負う必要のない諸将を睨むと、「単身敵陣に向かった陛下の交渉次第としよう」とまとめてしまうのです。


 この間独軍包囲陣では、早朝より戦闘再開の準備が始まっており、特にその「恐怖の道具」となる砲兵たちは要塞を粉砕して見せようと手ぐすね引いて愛する砲を調整し磨き立て、砲弾を準備するのです。

 しかし、約束期限の午前9時を迎えても仏軍交渉団はベルビュー城館に姿を現さず、モルトケの留守中に参謀本部の面々とベルビュー城館に到着していた参謀本部次長のポドビールスキー将軍は、参謀課員のルドルフ・ツィングラー大尉を招くと、「レイユ伯爵を連れてセダン城のヴィンファン将軍を訪ね、午前10時までに回答無き場合砲撃を再開すると通告して来い」と送り出しました。


 レイユ将軍を連れたツィングラー参謀はセダン城に案内されるとヴィンファン将軍を呼び出し、最早観念して一刻も早い決着を望むレイユを横に、「午前10時を以てしても無条件降伏の回答が無い場合砲撃を開始する」と「最後通牒」を突きつけます。

 ヴィンファンは「皇帝陛下が普国王と会見するまでは要塞を離れるな、との勅命を受けているので、交渉に向かう訳には行かない」と抗弁しました。

 ツィングラー大尉は、「ならば本官はベルビューへ戻る道すがら、要塞外の砲列に命じて午前10時前であっても砲撃開始させましょう」と言い放つのです。

 階級が遙か下の若き普軍参謀(当時まだ31歳です)に堂々と詰め寄られ、いよいよヴィンファン将軍も進退極まりました。

 眼光鋭い普軍若手のエリートに見据えられ、こちらも強い双眸を伏せたヴィンファンは、遂に「分かった。ベルビューに出向こう」と折れたのです。


挿絵(By みてみん)

ツィングラー


 この頃、セダン要塞内に閉じ込められ殆ど士気が崩壊していた仏軍将兵には、昨夜の会談の様子や「午前9時の刻限」で恐ろしい「殺戮」が始まるとの噂が流れ、各城門では多くの将兵が直ぐ外で対峙する独軍に向かって投降を願い出ていました。しかし独軍前衛には、これら「単独の投降は一切許可するな」との指令が出ていたため、哀れな仏兵たちは独兵から「大人しく要塞内にいろ」とにべもなく拒絶されるのでした。この時、場外に出ることを許されたのは仏皇帝用の御用馬車一輌だけで、これは早朝正規の馬車を使わずに出城した皇帝と合流したい御者の誓願により、ヴィンファンら仏軍交渉団に続いてベルビューに向かうことが許されたのでした。


 ベルビュー城館に着いたヴィンファンはナポレオン3世と再会しますが、将軍の「ご成果は」の問い掛けに、皇帝はただ首を振るだけで、未だヴィルヘルム1世にも会っていないことを白状したのです。

 ヴィンファン最後の望みもこうして潰え、将軍は肩を落とすと昨日の交渉の場である食堂に向かいました。交渉の部屋にはポドビールスキーら普参謀本部の面々が待っており、書記(即ち交渉部屋の支配役)の男爵フォン・ノスティッツ大尉は「参謀総長は国王陛下に謁見中に付き暫くお持ちを」と言い「国王陛下におかれましては協定締結後、皇帝陛下とお会いする予定です」と、たった今届いたモルトケからの連絡を伝えました。力なく座った仏軍「敗将」の相手はポドビールスキーと「モルトケの懐刀」参謀本部第2課長のファルディ・デュ・フェノイス中佐が務めます。

 やがて食堂にはビスマルクも現れますが、重苦しい空気の部屋では「歴史的大敗の将」を前に、それ以上積極的な会話は交わされませんでした。


 モルトケは午前11時前に到着し、直ちに交渉が再開されます。もうヴィンファンにも異議はなく、モルトケが差し出した「セダン開城降伏の条約」に一通り目を通すと、黙って末尾に署名するのでした。


☆ セダン開城と仏シャロン軍の降伏協定 


 「条約」


 下記署名の独陸軍大元帥プロイセン国王陛下の参謀総長と、フランス帝国陸軍総司令官との間に、ヴィルヘルム王並びにナポレオン帝の全権委任状を付して以下の条約を締結する。


第1条

将官ヴィンファンの指揮に属し、目下有力な(独軍)兵力によりセダン周辺において包囲されている仏軍は(すべて)捕虜となる。

第2条

右軍隊は勇敢に防戦を行ったため、これに鑑み、将官と士官及び士官に相当する官職者は今次戦争終了までの間、独諸国に対し武器を取らず、また、いかなる方法においても独諸国の利益を損する行動を取らないと、その名誉を賭けて誓い、これを書面とする者は前条の例外とする。この条件を承服する士官及び士官に相当する官職者はその武器と私有品の保有を許す。

(注・宣誓した士官も完全に釈放されるのでなく、独に護送されることに変わりはなく、ただ捕虜とは別の場所に移され、帯剣を許され士官待遇のまま軟禁となります。つまりは捕虜と同じ扱いではない、即ち「捕虜のレッテルを貼られず体面が守られる」との意味です)

第3条

各種武器並びに一切の軍需品、つまりは軍旗、軍用標旗、火砲、馬匹、金庫、車輌、弾薬等はセダンにおいて仏軍総司令官の指名する担当官が集め、同担当官は速やかに独軍の全権委員にこれを引き渡すこと。

第4条

セダン要塞は現状を維持し、遅くとも9月2日夕刻までにプロイセン国王陛下に引き渡されること。

第5条

第2条に示した義務を負うことを欲しない士官、並びに武装解除を受けた下士官兵は、連隊毎に隊列を整えて護送されること。この実行は9月2日より開始され3日中に完了のこと。各隊はムーズ川の大湾曲部にあるイジュ部落(フロアンの北西1.7キロ)付近まで護送され、これを引率する仏軍士官は(イジュで)独軍の全権委員に引き渡すこと。同時に引率した士官は部隊の指揮権を下士官に委譲すること。

第6条

軍医に関しては全員残留し傷病者の救護を行うこと。


 1870年9月2日 フレノワ(ベルビュー)において

             フォン・モルトケ(署名)

             ドゥ・ヴィンファン(署名)


挿絵(By みてみん)

 セダン・捕獲された馬匹


 署名後、ヴィンファン将軍はただ一つ、「シャロン軍の運命に関しパリの陸軍大臣に電報を発したいのだが」と希望します。これはモルトケも許し、この仏帝政に「止め」を差すこととなる電報は普参謀本部がパリに向け発信したのでした。


 ヴィルヘルム1世国王に届けるため条文を持って幕僚が出立すると、「別れ」の挨拶をするため、モルトケはナポレオン3世が閉じ籠っていた城館2階の寝室のドアをノックします。

「お暇を請いに伺いました」

 モルトケは長椅子から半身を起こした皇帝に声を掛けると、ナポレオン3世は黙って手を差し延べました。モルトケもこれ以上掛ける言葉はなく、黙ってその手を取ると、長年宿敵として来た男を最後に一瞥し、深々と頭を垂れると部屋を出て行ったのでした。


 正に「世紀に一つの大勝利」の結末、仏軍の降伏協約締結は直ちにフレノワ南、昨日の観戦場と同じ956高地に来着したヴィルヘルム1世に伝えられます。

 独の各国諸侯や多くの副官・幕僚・王族や貴族と共に高地へやって来た国王は、文字通り幸福の絶頂にありました。

 国王は署名されたばかりの「条約書」を前に一席ぶち、北独と南独の独全軍将兵に感謝の意を表すと「この勝利によって独国は将来に渡り多幸の国運を期待して構わないだろう」と感慨深げに語るのでした。


 この後、ヴィルヘルム1世は集まったB第4師団将兵の歓呼に送られ、高地を降りると「敗軍の将」に会いにベルビュー城館へ向かいます。

 この歴史的会見に色を添えるため、儀仗兵としてB第4師団の1個大隊が急ぎ身を整え整列し城館を囲みました。

 午後2時、「国王万歳」の声に迎えられたヴィルヘルム1世がベルビュー城館の正面玄関に到着すると、ナポレオン3世は階下に降りて出迎えました。王と皇帝は玄関で握手をした後、2階に上がりましたが、その時には皇帝は王に支えられながら階段を一歩一歩と昇らねばならぬほどに衰弱していました。


挿絵(By みてみん)

ベルビュー城館の会見 (アントン・フォン・ヴェルナー画)


 ヴィルヘルム1世もビスマルクと同じくナポレオン3世の変貌振りに驚いていました。普国王もその宰相と同じく3年前に会見して以来の出会いでしたが、この異様な状況での会見では、痛々しい「敗者」に対し「勝者」は大いに同情し、相手の気分がこれ以上落ち込まないよう言葉を選んで語り合ったのです。

 結局、二人の王者の会見は15分足らずで終了しました。そこで話し合われたのはほぼ一点だけ、「皇帝はこの後、どのような場所を在所とするか」と言うことで、ヴィルヘルム1世はナポレオン3世自身の希望を聞いた結果、「ヘッセン=カッセルの近くに静かな城館があります」との王の言葉で決定しました。後に皇帝は「王の目には涙が光っていた」と書き残しています。

 その後は会話も弾まず、勝者は惜別の言葉を掛けると敗者の下を去って行ったのでした。


挿絵(By みてみん)

ヴィルヘルム1世とナポレオン3世 (カール・レヒリング画)


 ヴィルヘルム1世はナポレオン3世と別れた後、気を取り直して近従・武官多数を引き連れ、セダンを包囲する部隊の野営地を一つ一つ残らず訪問し始めます。これはこの日の深夜にまで及び、プロシア、バイエルン、ザクセン、ヴュルテンベルク各国将兵たちは殆ど全ての者が普国王を仰ぎ見て歓呼の声を上げ、ヴィルヘルム1世も出来る限りの兵士の手を取って感謝の意を述べ続けたのでした。


挿絵(By みてみん)

 ヴィルヘルム1世の視察


 国王が野営地の巡幸を行っていた頃、普参謀本部は大急ぎで膨大な数に上る捕虜の扱いをどうするのか決定します。


 既に会戦中、合計21,000名の捕虜を獲ていた独軍中、普近衛軍団は9,000名、第12「S」軍団は5,000名を1日深夜にドゥジーに向けて徒歩で護送しており、独第三軍が獲た捕虜はドンシュリー付近に集めていました。

 フォン・ポドビールスキー中将は、協約で決定しているセダン西のムーズ大湾曲部内を「一時収容所」とする方針と、僅か1日でセダン要塞を「空」にする決定を考慮しつつ、ほぼ徹夜で計画を作成し、2日早朝「捕虜の護送と給養に関する規定」を全軍に発します。

 これによると、仏軍全捕虜を1組2,000名に組織し、マース軍が担当する捕虜はストゥネーからエテン(ベルダンの東北東19キロ)へ、第三軍が担当する捕虜はビュザンシーからクレルモン(=アン=アルゴンヌ)、サン=ミエルを経由してポンタ=ムッソンへそれぞれ護送し、この「中継点」でカール王子率いる「メッス攻囲軍」に引き渡し、以降独仏国境までカール王子の責任で護送することとされました。

 また、「同時・同地点に1万人以上の捕虜を留めない」こと、「士官の待遇」に関すること、「上記2本の輸送線に関して沿道に給養の特別例外規定」を設けることなどが定められました。


 先の「降伏協約」には付則としてセダン開城後、後方へ護送されるまでの間に必要となる捕虜の給養は全て仏側が賄うこととなっており、このため糧食の一大集積地であるメジエール要塞からドンシュリーまで、アルデンヌ鉄道を使用して糧食が送られることとなります。

 一時収容される「大湾曲部」内の捕虜の監視はB第1軍団と普第11軍団が担当し、両軍団は戦利品の収容も命じられました。両軍団はこの任務の間B軍のフォン・デア・タン大将が統括することに決まります。

 この内、第11軍団の1個連隊は、9月3日に仏軍が全員退去した後のセダン要塞を警備することを命じられました。


挿絵(By みてみん)

 軍旗を燃す仏軍

※セダン要塞まで持ち込まれた殆どの軍旗は普軍の手に渡るよりは、と燃やされました。


 セダン会戦による独軍全体の損害は、合計すると士官460名、下士官兵8,500名(詳細は欄外に記します)となり、仏軍に関しては様々な説*がありますが独側の主張に従えば以下の通りとなります。


※仏シャロン軍の損害

○会戦中によるもの

・戦死 3,000名

・負傷 14,000名

・捕虜 21,000名

○セダン要塞開城で捕虜となった者

・83,000名

○中立国ベルギーに逃亡し武装解除・抑留された者

・3,000名


 合計 124,000名


*ヴィンファン将軍は戦後、「会戦中の死傷者数は25,000名、シャロン軍の総兵力は70,000名程度だった」と記していますが、独軍が捕虜を集合させたイジュで数えた員数だけでも83,000名となっており、信用出来ません。


※独軍が会戦で獲た主な戦利品

・鷲旗(金鷲の竿頭を持つ連隊旗)1旒

・大隊旗 2旒

・各種野砲とミトライユーズ砲 419門

・要塞砲 139門

・各種車両 1,072輌

・小銃 66,000丁

・無傷の馬匹 6,000頭


挿絵(By みてみん)

 イジュの捕虜たち


☆ 仏第13軍団


 パリとシャロン演習場で結成されたジョセフ・ヴィノワ中将率いる仏第13軍団は、セダンの陥落により攻囲中のメッスを除き戦場にある唯一の軍団となりました。


 皇帝の勅命でシャルルヴィル=メジエールに至ったヴィノワ将軍は、8月31日にも引き続いて兵力の集中に努め、9月1日には歩兵11個大隊、騎兵4個中隊、砲兵12個中隊(これら砲兵中隊はブランシャール少将師団砲兵3個、モーユイ少将師団砲兵3個、軍団砲兵隊の6個)とかなり強力な集団となっています。

 将軍はこの日、セダンから皇帝が脱出するのを待ちました。しかし独軍がドンシュリーを抑え、その西側でも活発な動き(W師団や騎兵)が見られたため、自らもセダンへの通路を確保せねば、とギレム准将旅団(ブランシャール師団の第2旅団)にブランシャール師団の砲兵を付けてムーズ西(南)岸を前進させますが、既述通りW師団に阻止され、旅団と砲兵隊はモオン(メジエール南市街)の停車場まで後退しました。


 ヴィノワ将軍がセダンの陥落を知ったのは午後遅くとなります。それ以前にも少なくない兵士がセダンより逃亡して来て軍団前哨に収容されており、マクマオン大将の参謀、ティシエ大佐がメジエール要塞に到着し、大佐の口からシャロン軍が包囲され敗戦確実なのを知ったのでした。

 将軍は「退勢は最早挽回出来ぬ」と確信し、「まずはパリを守らねば」と速やかに首都へ向かうことを決するのでした。


 これにより将軍は、メジエールに輸送中のモーユイ少将師団の後続部隊を、電信を使って一時ラン(ランスの北北西45キロ)まで引き返させ、セダンから逃げ延びた将兵を集合させるとイルソン(メジエールの西北西50キロ)を経てアヴェーヌ(=シュル=エルプ。メジエールの北西70キロ)を経由する街道を指定して西進させ(その先ウルノワ=エムリからパリへ鉄道輸送されます)、自らはメジエールの第13軍団主力を率いて9月1日夜更けに、普軍騎兵が跋扈しているランスへの鉄道沿線とポワ=テロンを避けてロノワ(=シュル=ヴォンス。メジエールの南西17キロ)を経由しルテル(メジエールの南西38キロ)に向かいました。

 同日、ルテルにはランスに留め置いたエクゼア=デュメルク少将師団から1個大隊が前進し、後方連絡線を遮断されぬよう守備を固めます。

軍団本隊はロノワで大休止した後の9月2日午前、ルテルへ向かい前進を再開しますがその途上、ルテルの住民から「ルテルは今朝普軍に占領され、既に仏軍はいない」との情報を得て、ヴィノワ将軍は急ぎ目的地をノヴィオン=ポルシアン(ルテルの北北東11キロ)へと変更するのでした。


☆ 普騎兵第5師団


 この騎兵師団は数日来ランス近郊からルテルの間を巡回し、ランスへ派遣した驃騎兵第17「ブラウンシュヴァイク」連隊は8月31日ラ・シャトレ(=シュル=ルトゥルヌ。ルテルの南西12キロ)付近で鉄道線を破壊し、ルテルからやって来た一列車を銃撃しこれを後退させています。

 この連隊は9月1日に一旦ポーヴル(ルテルの南東14キロ)へ後退しますが、ランスの監視に戻るよう命じられ、その日のうちにランス近郊へ戻っています。

 この日、師団主力はトゥルトロン(ルテルの東20キロ)方面に駐在していました。


☆ 普第6軍団


 騎兵第5師団からの報告と、8月31日夕刻にアマーニュ(ルテルの東10キロ)からルテルに向けて仏軍のまとまった部隊が後退するのを見た普第6軍団は、ルテルに大きな敵兵力が集中しているはずと予想しますが、9月1日早朝、普第12師団長のフォン・ホフマン中将は師団本隊が駐屯するアティニー(ルテルの東16キロ)からルテルへ士官斥候を送り出し、この士官が戻って報告するには、「ルテルにはおよそ1,000名の仏正規軍兵がいるだけであり、この大隊も撤退のためか兵員輸送用の列車1編成を準備中で、ランス方面で破壊された鉄道線(前述のブラウンシュヴァイク騎兵の仕業)を修理するのに汲々としている」とのことでした。

 この情報を受けた普第6軍団長のフォン・テューンプリング騎兵大将はホフマン将軍に対し、「ルテルを奇襲し確保せよ」と命じるのです。


 ホフマン将軍は1日夕方、歩兵5個大隊半、騎兵3個中隊、砲兵2個中隊の支隊を編成するとこれを直率し、部隊は数個の縦列を作って徹夜の行軍で西へ進み、2日黎明午前4時にルテルへ突入しますが、既に仏軍の姿はなく、ホフマン将軍は市街地を占領すると部隊を休ませるのでした。

 第6軍団の本隊は9月1日、アティニー周辺で宿・野営しています。


挿絵(By みてみん)

 捕虜の護送


 セダンの戦いにおける独軍の損害

 (戦死・負傷・行方不明の総計)


☆第三軍


○第5軍団

*第9師団

 士官8名 下士官兵191名 馬匹2頭

*第10師団

 士官36名 下士官兵770名 馬匹71頭

*軍団砲兵隊

 士官3名 下士官兵12名 馬匹40頭

軍団合計

 士官47名(他軍医3名) 下士官兵973名 馬匹113頭

○第11軍団

*軍団本営

 士官4名 馬匹1頭

*第21師団

 士官31名 下士官兵531名 馬匹85頭

*第22師団

 士官61名 下士官兵867名 馬匹95頭

*軍団砲兵隊

 士官4名 下士官兵58名 馬匹144頭

軍団合計

 士官100名(他軍医3名) 下士官兵1,456名 馬匹325頭

○バイエルン第1軍団

*バイエルン第1師団

 士官55名 下士官兵832名 馬匹62頭

*バイエルン第2師団

 士官65名 下士官兵1,142名 馬匹60頭

*軍団砲兵隊

 下士官兵14名 馬匹40頭

軍団合計

 士官120名 下士官兵1,988名 馬匹162頭

○バイエルン第2軍団

*バイエルン第3師団

 士官87名 下士官兵1,828名 馬匹41頭

*バイエルン第4師団

 士官6名 下士官兵50名 馬匹9頭

*槍騎兵旅団

 下士官兵3名 馬匹2頭

*軍団砲兵隊

 下士官兵7名 馬匹5頭

軍団合計

 士官93名 下士官兵1,888名 馬匹57頭

○ヴュルテンベルク師団

 士官1名(他軍医1名) 下士官兵33名 馬匹12頭


☆マース軍


○近衛軍団

*近衛第1師団

 士官13名 下士官兵235名 馬匹28頭

*近衛第2師団

 士官5名 下士官兵127名 馬匹38頭

*近衛騎兵師団

 士官6名 下士官兵54名 馬匹118頭

*軍団砲兵隊

 士官1名 下士官兵8名 馬匹6頭

軍団合計

 士官25名 下士官兵424名 馬匹190頭

○第4軍団(第7師団は参戦せず)

*第8師団

 士官17名 下士官兵332名 馬匹22頭

○第12軍団

*軍団本営

 士官1名

*第23師団

 士官24名 下士官兵560名 馬匹32頭

*第24師団

 士官32名 下士官兵757名 馬匹71頭

*軍団砲兵隊

 士官5名 下士官兵48名 馬匹79頭

軍団合計

 士官62名 下士官兵1,365名 馬匹182頭


◯合計

*戦死

 士官187名(他軍医1名) 下士官兵2,132名 馬匹564頭

*負傷

 士官276名(他軍医6名) 下士官兵5,627名 馬匹467頭

*行方不明

 士官2名 下士官兵700名 馬匹32頭


〇総計


 士官465名(他軍医7名) 下士官兵8,459名 馬匹1,063頭


挿絵(By みてみん)

 ナポレオン3世とビスマルク

※教科書にも載るこの絵は、街道脇で話し合う普宰相と仏皇帝を描き、セダンの顛末を示す挿絵として有名ですが、実際は2人は小屋の中で話し、外には出ていません。


挿絵(By みてみん)

 ベルビュー城館の会見

※こちらの絵もかなりの脚色が施されており、皇帝は王に剣を渡していますが、この時にはそのような「儀式」は行われず、画中の皇帝も元気そうに見えます。

実際は本文中のヴェルナーやレヒリングが描く通り、皇帝は病魔と心労で老人のような有様でした。




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