セダンの戦い/ヴィンファン将軍の反撃
ガレンヌの森で仏軍が崩壊状態となって次々と投降するなか、その南東方フォン・ドゥ・ジヴォンヌからバランに掛けての戦線では激しい攻防戦が行われていました。
バラン部落と城址を失い、要塞とフォン・ドゥ・ジヴォンヌの西へ引き上げた仏軍(仏第12軍団と同第5軍団それぞれ一部)でしたが、仏ヴィンファン将軍の命令(午後1時頃の仏第7軍団に対するもの)と同時に「活」を入れられ、再度前進することとなります。
仏軍部隊は再度銃撃しつつ前進すると、右翼(西)が部落西にある立派な境界壁を持つ庭園からセダン要塞東側の斜堤までに拡張され、庭園を重点としてバラン戦線のバイエルン王国(B)軍部隊を西側から包囲する勢いとなりました。
ブルー師団の攻撃
B軍前線では、この脅威に対抗するためB第6連隊第4中隊を庭園の南端にあたる三叉路まで後退させ、B第7連隊第7,8中隊をその左翼に前進させるとその向きを北西側に向けて戦線を「ムーズ川の氾濫地」際まで延伸しました。
すると仏軍はライット砲兵とミトライユーズ砲兵中隊を前進させて砲撃を開始し、その援護によって歩兵を突撃させて庭園の北東角を襲います。
この突撃により庭園境界壁に散兵線を敷いていたB軍兵は内部に後退し、その外側に防衛線を敷いていたB軍諸隊も後退せざるを得ない状況に追い込まれたのです。
こうして、B第5旅団は窮地に陥り、増援をB第6旅団に求めるのでした。
増援要請を受けたB第6旅団は、バゼイユ北西の待機地より連隊長フーゴ・フォン・ディール大佐が直率するB第14連隊の半個、6個(第1大隊の4個と第6,7)中隊をバラン庭園に急行させます。大佐は第3,4中隊を庭園後方の、部落東側にある656高地(標高フィート。約200m)に通じる小道に停止させて予備とすると、残り4個中隊により後退するB第6連隊兵を収容させ、庭園内に新たな散兵線を敷きました。
ディール大佐の後方からはB第15連隊の2個大隊が進みます。この内第1大隊は656高地付近の散兵線に加わって防衛線を強化し、第2大隊は656高地のB軍前線左翼側にあるセダン街道(現・国道D8043A号線)を前進しました。
この増援により、バラン部落周辺のB軍は仏軍の反撃を受け止め、互角の銃撃戦を行うことが出来ました。
この激しい攻防戦は1時間に渡って続きましたが、その時にはB軍側は元の散兵線の位置にまで敵を押し返すことが出来、B第15連隊第2中隊は仏軍の歩兵1個中隊を丸々降伏させて捕虜とするのでした。
この時、最初に増援として庭園に進んだB第14連隊の2個中隊は庭園の前線最右翼(東)に進み、この直後にはB砲兵第4連隊の4ポンド砲第3中隊がフォン・リェスル大尉に率いられて、仏軍の散兵線約400mにまで接近すると、榴散弾や霞弾で仏軍前線を砲撃しました。
この砲撃は非常に効果的でしたが危険でもあり、砲兵を守るための歩兵を必要としましたが、既に周囲にいる全ての歩兵が銃撃戦の只中にあったため、銃弾を撃ち尽くして後方待機となっていたB第6連隊の第5,6中隊がベルク大尉に率いられて砲兵中隊を囲み、いざとなったら銃剣のみの徒手格闘で砲兵を守ろうと覚悟を決め待機するのでした。
失地を回復したB軍は更に仏軍を要塞に追い返そうと前進を試みます。
しかしこれは要塞を後背にその隔壁から援護を受ける仏軍散兵線からの猛銃撃のために成功せず、突撃はことごとく途中で挫折し跳ね返されてしまうのです。
部落で戦う部隊も雑多な仏軍兵たち
庭園の戦線左翼(西)側では、少数の散兵が高い生け垣と庭園の隔壁を伝って要塞の斜堤まで接近し、塁壁上の守備兵を狙撃することが出来ました。しかし右翼(東)側となると、B第6旅団の一部が幾度も戦線正面にある仏兵の籠った東屋を攻撃しますが、その都度激しい十字砲火を浴びて撃退されてしまいます。
前線の状況を後方から観戦していたB第1軍団長フォン・デア・タン歩兵大将は、「いたずらに兵を損ねるのは愚の骨頂」とばかりに突撃を禁止させ、午後3時以降は従前の散兵線を維持し、銃撃のみで敵と戦うよう命じ、これでB軍はバランの戦線を維持するだけで、要塞への前進を止めるのでした。
しかしこの仏軍逆襲は、バゼイユで大損害を受けた後に、会戦に勝利したと信じ切って安心していたB軍に思わぬ損害を与えました。
バラン周辺の諸部隊は「バラン西庭園の戦闘」で大混乱に陥り、見る間に増えた仏軍の攻撃により多くの兵員を損耗するのです。
高級指揮官だけを見ても、B第14連隊ではフォン・ミッヘルスとフォン・ライツェンシュタイン2人の少佐大隊長が負傷後送され、B第15連隊では第2大隊長フォン・シントリング少佐が負傷しました。
また、バラン部落と城址の戦いに引き続いて戦ったB第5旅団では、多くの部隊が弾薬の欠乏を訴え、兵の疲弊と損耗で既に旅団としての戦闘力を失いかけていたのです。
B第2師団長のフォン・ヴァルター少将はこの窮状を知ると、直ちに予備となっていたB第6旅団の2個大隊に前進を命じて部落内と庭園の散兵線に就かせ、代わって最前線に展開していたB第5旅団の諸中隊を部落後方まで後退させるのでした。
新たに前線に就いたのはB猟兵第3大隊とB第15連隊の第3大隊で、猟兵大隊はセダン街道から庭園に至ると街道から庭園東端までの散兵線に展開し、B第15連隊第3大隊の方は、第9,10中隊をバラン部落西端に陣取らせると、残2中隊で部落内を再捜索して敗残兵を探し、その後第11中隊は散兵線に増援として送られ、第12中隊は前線予備として部落南に留まり待機となりました。
庭園内で第二線となっていた諸隊中、B第14と同第15連隊それぞれの第2大隊半個は、この増援2個大隊の展開以前に移動を開始し、仏軍の圧力が大きい前線右翼側に進んで展開し、両大隊の第8中隊はそれぞれ予備として庭園後方に待機となるのでした。
※午後3時過ぎにおけるB第6旅団の配置
◇バラン庭園隔壁沿い・東方より、右翼から左翼へ
○B第14連隊・第7,6中隊
○B第15連隊・第6,5中隊
○B第14連隊・第4,3中隊
○B第15連隊・第1大隊
○B猟兵第3大隊・第4中隊
○B第14連隊・第1,2中隊
◇バラン庭園内より街道まで
○B第14連隊・第5中隊
○B猟兵第3大隊・第3中隊
○B第15連隊・第7,11中隊
○B猟兵第3大隊・第1,2中隊
◇予備/バラン庭園後方
○B第14連隊・第8中隊
○B第15連隊・第8中隊
◇バラン部落西端
○B第15連隊・第9,10中隊
◇予備/バラン部落後方
○B第15連隊・第12中隊
戦闘中のバイエルン兵
バゼイユ北方に砲列を敷いた普軍4個とB軍6個の砲兵中隊の内、B軍の3個(第1、4連隊の6ポンド砲第7と第4連隊の4ポンド砲第4)中隊は、仏軍歩砲兵がフォン・ドゥ・ジヴォンヌ西方に退却して後、目標を失ったため、弾薬補給も兼ねて一旦後退しました。しかし、残りの7個中隊は砲撃を続行し、バラン方面で死闘を繰り広げるB軍歩兵を大いに助けるのでした。この砲兵の後退時、損害を被ったため砲列最右翼、普軍砲列の端に留まっていたバイエルンの王子レオポルト親王が指揮するB砲兵第3連隊6ポンド砲第4中隊は移動してラ・モンセルからの街道(現・国道D17号線)南方に砲列を敷き直し、砲撃に加わるのです。
この街道の砲列には左翼端にB砲兵第4連隊6ポンド砲第8中隊が前進して加わり、午後3時になると同連隊4ポンド砲第3中隊もやって来て加わりました。この第3中隊は前述通りバランまで前進し、45分間に渡って仏軍散兵線へ砲弾を送り続けましたが、次第に危険が大きくなったために後退し砲列に加わるのでした。
ところが、バラン庭園での戦いが一段落した直後、再び激しい仏軍の逆襲が始まったのです。
これは仏シャロン軍司令官ヴィンファン将軍の新たな命令「全軍による東方突破」の開始で、ヴュー・カンプから前進した仏軍部隊は、バラン城址で戦いフォン・ドゥ・ジヴォンヌへ後退した仏第12軍団諸隊に合流すると、バラン部落を占領したB第15連隊を襲い始めるのでした。
B軍側から見れば、衰えつつあった敵の銃撃が突然復活し激しさを増すと、部落北西部に突如仏軍散兵の集団が現れ、瞬く間にその数が数倍まで膨れ上がると、その後方、要塞の東門から仏軍の長い縦列が出て、付近の田畑や農家に押し寄せたのです。
同時に仏軍の主力はセダン街道を直進し始めたため、街道の東側、それまでは比較的「静か」だった城址周辺のB軍は急遽左翼側に脅威を受ける形となり、街道方面の戦線を補強する必要に駆られます。
部落の南端で全体の指揮を執っていたB第15連隊長、フリードリヒ・フォン・トロイベルク大佐は自身の周辺にいた麾下連隊の一部を率いてバラン街道を突進しましたが、その前に仏軍は部落西端に沿って家屋を奪取し始め、ここを守っていたB軍の2個(第15連隊の第9,10)中隊は包囲の危機に晒されました。彼らは包囲寸前に脱出して街道に飛び出し、街道沿いに展開していたB軍諸隊も後退の止むなきに至るのでした。
この時バラン部落は未だ残敵掃討の最中で、発見されずに潜んでいた仏兵たちは住民有志の協力で部落内のB軍兵を狙撃し始め、バランにいたB第15連隊の諸隊(前述の第9,10中隊と第7中隊一部、そして救援に赴いた第12中隊)は最大の危機に陥ったのです。
バラン南郊で戦況を見守っていたフォン・デア・タンB第1軍団長は、バラン目指して進撃を開始した新たな仏軍の攻勢を認知すると、戦線後方で戦闘準備の成った部隊を前線に送り込む命令を矢継ぎ早に発するのでした。
これにより後方に下がっていたB第5旅団は再び前進しようとしますが、未だ部隊整理も補給も不完全で、多くの部隊は咄嗟の前進命令に対応し切れませんでした。但し、応じて素早く前進を開始した部隊もあり、B猟兵第8大隊は真っ先に飛び出すとバラン部落南西角に向かい、続いてB第7連隊の第2大隊が部落中央を縦貫する通りに向かって直進しました。
この救援命令は更に後方で待機する部隊にも急報され、市街戦では予備に指定されて後方待機を続け、市街戦終了後にバゼイユ北西端まで前進していたB第1連隊第2大隊もまた前進命令を受けてバランに急行します。
敵がバランの戦線を突破した場合に危険となる街道沿いの砲列には、B第1旅団の残り部隊が前進して砲兵護衛に就くよう命じられ、未だ至る所で火の手が上がっているバゼイユ市街で戦闘後の処置を行っていたB第4旅団には、直ちに市街防衛の準備に入るよう命令が下るのでした。
バラン救援に向かった3個(B猟兵第8、B第7連隊第2、B第1連隊第2)大隊は、およそ午後3時30分前後に相次いで部落周辺に到着します。
この時、B第6旅団の戦況は非常に不利となっており、仏軍は部落西端を制圧してB第15連隊の戦線左翼(庭園)を圧迫し続けていました。部落内に残り戦うネー大尉が率いる同連隊第12中隊は、決死の覚悟で幾度か逆襲を試みましたが、全て撃退されてしまいます。仏軍は部落内にライット4ポンド砲を曳き入れ、中央の通りを掃射する状況にありました。
部落内で戦うB軍兵は北面から猛烈な銃撃を受け、又、左翼(西)側に進んだ仏軍からも銃撃を浴びました。家屋や家具の遮蔽物に頼り、ほとんど身を護ることしか出来ないB軍部隊は、最先任士官として先頭に立って防戦の指揮を執っていたB第15連隊第3大隊長、シーダー少佐が斃れた後、部落内を縦貫する2本の路地を伝って南東側の部落入り口まで後退し、ここに到着した増援は、これら傷付き疲弊した将兵の後退に進路を塞がれてしまい、前進を阻まれてしまうのでした。
セダン・パノラマ#7(バラン南郊外から見たムーズ川方面・左隅がバゼイユ)
セダンへの街道上を早足で進んだB第1連隊第2大隊は、街道に溢れ退却する将兵をかき分けるようにして前進し、部落南端に到達します。
部隊先頭を行く第8中隊はディートル大尉指揮の下、仏軍が奪還したばかりのデニーへ通じる小道(現・モンセル道路と呼ばれる農道)とセダン街道との交差点にあったバリケードに向けて果敢な突撃を敢行しました。突然別方向から現れたB軍に驚き慌てた仏軍兵は短時間の白兵戦に敗れて遁走し、中隊はこの拠点と付近の家屋を接収すると、直ちに銃座を設けて仏軍を待ち受けたのでした。
B軍がバラン部落より追い出され、西側の庭園や北東側城址の陣地にあった守備隊は決死の覚悟で現在地を死守しようとしていた頃。
仏シャロン軍司令官ヴィンファン将軍は、東方突破の糸口をバランに見付け、更なる増援をバランへ送り出しました。
ヴィンファン将軍は、自身が命じた「全軍東方への進撃」が確実に行われるよう、まずはデニーからアイブに掛けての前線に進んだゴゼ師団や第1軍団の残兵を督戦し、突破のための戦闘が始まると直ちにセダン要塞へ引き返し、午後4時頃に要塞の南東門に到着しました。するとここでナポレオン3世附の皇帝副官に呼び止められ、「皇帝の勅命」を手渡されました。
それは2時間半ほど前にヴィンファンが皇帝に直訴した「親率による軍の東方突破」に対する「拒絶」の回答と、「独軍と休戦のための協議を開始せよ」という命令だったのです。
これを一読したヴィンファン将軍の顔は見る間に真っ赤になり、将軍は何とか気を静めると、「まだB軍を撃破してカリニャンへの血路を開くことは可能だ」との信念を披露すると、この勅命を受領することを拒絶したのです。
命令遵守が当然の仏軍にあって、これは全く驚くべき行動でしたが、このシャロン軍の断末魔状態にあっては、持病により覇気もなく「臆病な」皇帝の「権威」も風前の灯火だったということでしょう。
ヴィンファンばかりでなくシャロン軍参謀長のフォール将軍もまた、独軍の包囲を知って絶望した皇帝が午後3時30分過ぎに副官に命じてセダン城の塔上に掲げさせた白旗を「まだその時機ではない」として直ちに引き下ろさせていました。
この裏には、危機に際してどこからか軍中に流れた「バゼーヌ大将がライン軍を率いてメッスから到着した」との流言飛語を、前線の将兵ばかりでなく大本営の幕僚たちまで信じていたから、という話もあります。
いずれにせよ、ヴィンファン将軍は皇帝の「弱気」を改めさせるためにも自身の「信念」を実現しようと意気込み、要塞の門を潜るとセダン城の東方にいた将兵を集合させました。この2、3,000名の雑多な歩兵にライット砲が2門、そしてフロアンで勇戦した後、カザールの北を抜けて要塞まで後退して来た仏第7軍団リーベル師団の生き残り2、3個大隊を加えて直率し、要塞門からバランに突入したのです。
この時、既に仏第12軍団(特にブルー師団兵)を中心とする「バラン侵攻隊」は部落からB軍兵をほとんど追い出して、中央の通りを突き進むと部落南の教会を奪還しました。こうなると、部落の東西に展開するB軍の陣地も片翼包囲の危険が増し、要塞から次々と繰り出される仏軍の増援に押される形で戦線が崩壊して行きました。
セダン街道東側、城址と高地に展開するB第6旅団の諸隊は、散兵線を解くと梯団を作り、左翼(西)側から順に前線を離れて退却を開始します。
旅団は後退に際しては大きな損害を受けず、バゼイユ目指して一気に斜面を降りますが、後衛となったB猟兵第3大隊第1,2中隊の一部将兵は退路を遮断されて仏軍の捕虜となってしまいました。
このB軍の後退に際し、セダン街道沿いに進んだ仏軍は急追せずに見送り、B軍側は落ち着いて後退することが出来ると共に、デニー道の傍らに後衛戦闘用の陣地を構えることが出来たのです。
しかし、バラン部落では加速度的に仏軍の兵力が増大し、その勢いが急となったため、部落南端まで進んでいたB第5旅団の救援2個大隊はそれ以上進むことが出来ず、これをきっかけにして午後4時30分頃、B軍は全線に渡って総退却となったのでした。
ブルー師団の突撃
前線で戦い混交した諸隊は、一斉にバゼイユ市街を目指して高地斜面を駆け下り、恐ろしいシャスポー銃の射程外に去りました。
B第6旅団の右翼(東)側諸隊は、セダン街道上とその東側を伝って後退し、救援に赴いたB第1連隊第2大隊も結局これに帯同して逆戻りを始めます。
この後退を援護したのは街道交差点に拠点を設けた同連隊第8中隊と、その北東側に展開していた普第8師団所属、第71連隊第2大隊の数個中隊でした。
しかし仏軍は、ラ・モンセル街道とセダン街道の交差点付近までしか追撃を行わず、この街道交差点南側にあった数軒の民家は、死を賭した後衛戦闘を覚悟して陣を構えたB猟兵第7大隊の一部が確保し続けるのでした。
この「総退却」が始まる以前の午後4時少し前、B第1旅団長のフォン・ディートル少将は、市街戦後に集合を終え、なお戦闘可能だった3個(猟兵第2、親衛「Leib」連隊第1と第2)大隊を急ぎバゼイユ北西入り口付近に前進させ、セダンへの街道両側に展開させました。
これと時を同じくして、普第8師団長のフォン・シェーラー中将は第71連隊第1大隊と同連隊第9中隊、そして普猟兵第4大隊をバランへの街道まで前進させ、街道沿いの家屋2、3軒を第1大隊に占拠させて拠点を作らせました。
前方バランの戦闘が激化した午後4時過ぎ、B親衛連隊の2個大隊はバランへの街道南側を、普第71連隊の第9,2,1中隊は街道上とその北側を、それぞれ前進してバランへ向かい、その後方からは普猟兵第4大隊が街道両側に分かれて続行するのでした。
セダン・パノラマ#8(バラン郊外から見たムーズ川方面・左ワダランクールから右トルシー)




