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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
294/534

セダンの戦い/デニー森とその西側高地の戦い

☆ 仏ヴィンファン将軍


 仏第7軍団「最後の砦」となったリーベル少将師団が、732高地尾根とカザールにおいて普第11軍団を中心とする軍勢と雌雄を決していた頃。

 仏シャロン軍で未だ攻撃力を維持していた諸隊は、必死となってセダン要塞の東側、フォン・ドゥ・ジヴォンヌの地から東方への突破を謀りました。


 仏シャロン軍司令官ヴィンファン将軍は、既述通り正午過ぎにフォン・ドゥ・ジヴォンヌから前線を眺めた後に状況を総括し、自軍戦線が崩壊を始めたため、「到底長い間セダン城内外の陣地を維持することは出来ない」と達観します。ところが、あくまでも強気で頑固な将軍は、「既に長時間戦闘を続け、疲弊度が高いであろう敵バイエルン王国(B)軍をムーズ河畔まで押し返し、カリニャン(東方)への通路を開くことはまだ不可能ではない」と信じ、その旨を副官等に伝えると、午後1時、次の主旨の命令を全軍に発するのでした。


「一時後退している仏第12軍団は、再び前進しバゼイユに向かえ。セダン城後方待機中の仏第5軍団は、使用可能な兵力を以て第12軍団の攻撃を援助せよ。仏第1軍団は、なるべく多数の兵力で北方よりラ・モンセルとバゼイユの敵を攻撃せよ。仏第7軍団はこれら各軍団の運動を後方から援護せよ」


 ヴィンファン将軍はこれらの軍命令を筆記させると、各軍団本営とセダン城の仏大本営へ送付させました。

 このセダン城への書簡には、ヴィンファンからナポレオン3世へ直接宛てた「奏上文」が付いており、これは「皇帝陛下は攻撃軍を親率され、その先頭に立たれんことを願います」という内容であり、その最後には「軍は陛下のために独軍戦線を突破して血路を開かんこと、これを名誉と致します」との決意が表明されていたのです。


 ところが、全く哀れなことに、これらの命令は肝心の各軍団に届くのが大幅に遅れ、中には全く届かなかったとする軍団もあったのです。


 仏第7軍団長ドゥエー将軍は午後2時頃に「命令を受領」しますが、既にガレンヌの森西側高地尾根からカザールまでの戦線が崩壊した直後にあって防戦一方となっており、命令を遂行することなど絶対に不可能なのでした。

 仏第1軍団長デュクロ将軍はこの命令を午後3時に至って受領し、この頃には第1軍団の混乱した主力諸隊は「危険な」ガレンヌの森からセダン要塞内部へなだれ込んでおり、将軍自身も残兵を集めてセダン城への退却途上にあって、この命令は無謀として「無視」しました。

 仏第12軍団は大半が要塞の庇護下へ退却し、後衛部隊も退却途上にありました。バラン周辺では未だ闘志溢れる海軍「ブルー」師団の一部が交戦中ですが、その数は取るに足らないものだったのです。しかも戦後の諮問会で軍団長ルブロン将軍が証言するには「本官はこの命令に全く接していない」とのことでした。


挿絵(By みてみん)

 バゼイユ付近の仏海軍歩兵


 戦後、自己弁護のため多くの手記を発表することとなるヴィンファン将軍はこの時の状況について、「当時、私は命令伝達のために使用可能な適当なる士官の不足に悩んでいた。これはマクマオン大将が負傷した折、その本営幕僚たちがみな、供をするとしてセダン城へ引き上げてしまったからだ」と「恨み節」を述べています。


 こんな体たらくではヴィンファン将軍の勇ましい(ドン・キホーテ的な)反撃など満足に行えるはずはありませんでした。

 また、ヴィンファン将軍は午後2時まで待ちましたが、ナポレオン3世からの返答も親率援軍もありません。この後、ナポレオン3世皇帝の答書は、全てが手遅れになった頃にヴィンファン将軍の手元まで届きますが、そこにはただ奏上の内容を「否定」し、「この企画は無謀である」との主旨が記してあるだけでした。


 将軍は恨めしいセダン城の北西わずか500m付近のヴュー・カンプ(旧・野営場)に集合した、ドゥ・ヴァソイーニュ少将率いる「ブルー」師団の残り数個大隊に、第7軍団のコンセーユ=デュームニル師団に属していて、ガレンヌの森からセダン要塞に向かって退却中のところを掴まえた戦列歩兵第47連隊、そして第1軍団のズアーブ各連隊の数個大隊を率い、フォン・ドゥ・ジヴォンヌの散兵線を通過して東側高地へ突進するのでした。

 この5~6,000名の混成兵力による反撃行を知った仏第5軍団第1師団長のオーギュスト・ゴゼ少将は、自らの師団の残兵力を率いるとヴィンファン将軍に先行してヴュー・カンプを発し、ガレンヌの森南部を通過してジヴォンヌに至る街道(現国道D977号線)を目指し南東へ進みました。同じくヴュー・カンプに待機していたアバテュシ准将の旅団も右(東)に転回しバランに向け進撃を始めます。第12軍団のグランシャン少将(第1)師団の残兵もまた自分たちの散兵線を越えて前進するゴゼ師団やヴィンファン混成集団を見て、その最左翼(北東)側に加入するのでした。


挿絵(By みてみん)

ゴゼ


 このようにどうにか2万近い兵力を集めたヴィンファン将軍は、疲弊し切っているはずのB軍に向け、一気に攻勢へ移行するのでした。


 この仏シャロン軍(と言うよりヴィンファン将軍)の反撃と平行して、セダン要塞東部戦線において、正午過ぎから午後3時に至るまでに発生した戦況も記して行きましょう。


☆ 北独第12軍団(ザクセン王国軍団)


 ザクセン王国(S)軍団を率いる中将ゲオルグ・ザクセン王子は正午、前衛がラ・モンセルの西へ押し出した麾下の第23「S第1」師団に対し、「右翼側のイイに向かって転進せよ」と命じ、同時に「師団はデニーに至るまで、ジヴォンヌ渓谷に沿って行軍し、デニー以北のジヴォンヌ渓谷に沿った道は全て普近衛軍団のために空けておくよう」命じるのでした。

 この命を受けた第23師団は急遽2、3本の仮橋をモンヴィル屋敷庭園内のジヴォンヌ川に架橋し、全部隊がジヴォンヌ川西岸に渡ります。この後師団本隊は、午後1時頃モンヴィル庭園を発って命令通りイイに向かい前進を始めました。


 これに先だち、正午過ぎにラ・ラモリ(ラ・モンセルの北500mの城館)を目標に先行したフュージリア第108「S・シュッツェン」連隊第6中隊は行軍中、二十数名の捕虜を獲て、屋敷の西側500m余り、標高フィート705(約215m)の高地南側尾根上で仏軍ライット砲小隊と遭遇し、砲手を駆逐すると砲2門を鹵獲するのでした。中隊はこの後、師団行軍の左翼側に付いて、常にガレンヌの森方面を警戒し進んだのです。

 最初、師団本隊は行軍縦列のままジヴォンヌ渓谷の西岸沿いを前進しましたが、後方を行く第46旅団はラ・モンセル付近で友軍と交錯したために渋滞し、ここで再び東岸へ移ると、先を行く第45旅団右翼後方となってデニーへ向かうのでした。


※第23「S第1」師団・午後1時頃の行軍序列

○左翼警戒

・フュージリア第108「S・シュッツェン」連隊第6中隊

○第45「S第1」旅団と師団砲兵隊

・擲弾兵第100「S第1/親衛」連隊

・野戦砲兵第12連隊 軽砲第2中隊(師団砲兵)

・同 重砲第1中隊(師団砲兵)

・擲弾兵第101「S第2/プロシア王ヴィルヘルム」連隊

・野戦砲兵第12連隊 重砲第2中隊(師団砲兵)

・同 軽砲第1中隊(師団砲兵)

・フュージリア第108連隊(第3大隊欠)

○第46「S第2」旅団

・第102「S第3/王太子」連隊

・第103「S第4」連隊(第2中隊と第3大隊欠)


※第108連隊第3大隊は、遅れて635高地脇の街道の「切通し」より進発して師団を追っています。

※第103連隊第2中隊は砲列護衛として、同第3大隊はストゥネ守備隊として後置。


 この北進行軍時、第23師団長のアルバン・フォン・モンベ少将は、「仏軍は既にジヴォンヌ渓谷の上流より撤退し、友軍はデニーの上流でジヴォンヌ川を渡って西岸に進出しているはず」と認識していました。そのため、師団左翼(西)には前述の1個中隊のみを派遣しただけで、大胆にも敵側に横腹を晒し行軍するのです。もしもこの時、仏軍散兵線より急襲されていたら、この縦列は散々な目に遭った可能性がありましたが、結局そういう事態に陥ることはありませんでした。

 このモンベ将軍の「事実誤認」は、師団前衛となっていた第100連隊の第2中隊がデニーに向き合う西側森林(部落の西300mから北北西1キロに至る間の森林。現存。以降「デニー森」とします)に達した時、明らかとなるのです。


 この師団前衛がデニー森南端に接近した時、不意に激しい銃撃を浴びました。この銃声は後続部隊への警報となりますが、モンベ将軍は第100連隊の第1,3中隊が急ぎ第2中隊の応援に駆け付けたことを知ると、第101連隊2個の半大隊(第1、3大隊から2個中隊づつ)を左翼側に展開させることで師団左翼を護り、本隊はあくまで北進を続けさせようと試みます。

 ところが前線の銃声はますます激しくなり、その数はモンベ将軍の予想よりかなり大きかったため、「これは敵の後衛ではなく本隊」と認識した将軍は第45旅団の縦列をアイブ(デニーの北1キロの小部落)郊外で止め、第101連隊第1、3両大隊の残部2個半大隊を左翼側の高地尾根へ前進させました。この動きに合わせ、アイブにいた普近衛猟兵大隊第3中隊とB猟兵第1大隊が前進し、S擲弾兵の援護射撃を行いました。

 あくまでも「イイへ向かう」ことが使命のモンベ将軍は、第45旅団残りの5個大隊(第100連隊第2、3、第101連隊第2、第108連隊第1、2)について、師団砲兵と共にジヴォンヌ渓谷東側斜面に待機させます。この斜面には直後に第108連隊第3大隊が追い付いて本隊に合流するのでした。


 実は、軍団長のゲオルグ王子は、ラ・モンセル東方の砲列で敵を観察した結果、仏軍が未だデニー西の高地森林にいることを認識しており、午後1時15分、行軍中のモンベ将軍に宛てて「先にデニー西側高地に展開する仏軍を攻撃、排除せよ」との主旨の命令を持たせて伝令士官を走らせました。ところが、この伝令は途中銃弾に当たって負傷したため命令は届かず、モンベ将軍は仏軍と衝突するまでデニーの西郊外に敵がいることを知らずにいたのでした。


 第23師団がデニーを越えて前進したことで、それまで部落西端で仏軍と散発的な銃撃戦を行っていた独軍諸隊も、自然と西側高地に向けて前進を開始します。

 しかし、第24「S第2」師団に属する第104連隊と猟兵第13大隊主力の前進は、その直後モンベ将軍と同じく「イイへの進撃」を優先するゲオルグ王子により差し止められ、彼らはデニーの西縁で留まり散兵線を敷きますが、命令系統が違う普近衛擲弾兵第2「カイザー・フランツ」連隊の第1、2大隊は前進を続け、第45旅団の前線に加入して「助太刀」するのでした。


 これら合せて1個旅団に近い独軍(近衛擲弾兵2個大隊とS軍団兵約3個大隊)は、中隊ごとに前進するもの、半個大隊で行動するもの様々でしたが、その一部はジヴォンヌ渓谷の西岸斜面から直接西側の高地尾根に構える仏軍陣地線を狙い、デニー森を越え斜面を登って進もうとします。しかし、その前進は地形(急斜面と夏草茂る森)に阻害されて勢いが付かず、攻撃は統制出来ずに部隊間の支援・互助はたちまち困難となりました。と、ここへ突然西側高地を越えて仏軍の歩兵と砲兵がジヴォンヌ渓谷目掛けて急進して来たのです。


 この仏軍集団は仏第1軍団の残存兵と、ヴィンファン将軍の命によりこの地へ前進して来た仏第5軍団のゴゼ少将師団(今や戦列歩兵第46、61、86の3個連隊残兵と猟兵第4大隊、ライット4ポンド砲8門だけの兵力となっていました)の一部も含まれていました。この師団はガレンヌの森からフォン・ドゥ・ジヴォンヌの東方に進んだ後、そのまま攻撃に加わったのです。更にその左翼(東)後方、アイブと対面する高地上には仏第12軍団のグランシャン少将師団もあって、攻撃を援助するのでした。


 S軍団の第100連隊第2中隊は、同第1,3中隊の応援を得るとデニー森に元からいた仏散兵を駆逐し、そのまま北方へ進みます。この後方からは同連隊の第7中隊が本隊を離れ、独断で続行しました。

 第2中隊と第7中隊は川沿いに北上を続け、ジヴォンヌ部落南端に至るとここを占拠し、S軍団の右翼端となって普近衛軍団との連絡を付けます。


 同連隊第1大隊の残り、第1,3中隊はデニー森西縁で散兵線を敷くと仏軍再三の突撃を迎え撃ってこれを撃退し、第4中隊はジヴォンヌ渓谷西縁で予備となりました。

 この森の西縁からはエイブの西側に築かれた土塁が良く見え、ここには仏軍の銃座とミトライユーズ砲2門があって独軍に銃砲火を浴びせていましたが、第100連隊第1中隊長のキルヒホフ中尉はこの土塁の敵を潰すべく行動する決心をして、周囲にいた部下を率いると西側の高地際の急斜面を伝って接近し、土塁と高地上両方から激しい銃砲撃を浴びたもののたった11名で土塁に突入、35名の仏兵を降伏させてミトライユーズ砲2門を鹵獲する殊勲を挙げるのでした。


 一方、普近衛擲弾兵第2連隊第1大隊は、デニーの庭園(現在、ラ・フルリと呼ばれる小部落付近。デニー中心地の北北西350m)とこれに接した森を越え、高地際へ向かいました。

 この内第3,4中隊はジヴォンヌ渓谷を越えた際に前進して来た仏軍部隊と鉢合わせをし、突発的に激しい銃撃戦となりました。これは数に勝った仏軍側に軍配が上がり、普近衛2個中隊は一旦デニー森に退却して難を逃れます。

 大隊の後続2個(第1,2)中隊は、デニー庭園の塀に沿い遮蔽を伝って前進したお陰か敵と遭遇せず、少々北に進むと西側高地斜面を進み、S軍団のキルヒホフ中尉率いる分隊が守る土塁に至りました。ここに散兵線を敷いた近衛兵は、目前にあるフォン・ドゥ・ジヴォンヌからセダンへ続く街道(前出の現国道D977号線)に見え隠れする仏軍を狙って銃撃戦を挑むのでした。

 この方面の仏軍はしばらくの間高地上に留まって銃撃戦を行い、東方突破の機会を窺いますが、結局フォン・ドゥ・ジヴォンヌ北東後方にある採石場(デニーの北西1.2キロ)まで後退して行きました。


 デニー部落で行軍縦列を解き、モンベ師団長の命令で西側高地へ向かったS軍団の第101連隊第1、3大隊は、近衛擲弾兵第2連隊第1大隊の両翼を伝って前線に至ります。


 この内フォン・ベルレプシュ大尉率いる第1大隊の半大隊(第1,2中隊)は、デニー水車場(デニー庭園内)付近でバゼイユ~デニー街道(現・国道D129号線)へ左折し、ここで中隊ごと分かれます。第2中隊は街道を横切ると、ほとんど崖となった細い山道を登り、息も荒いまま高地上に達しましたが、この720高地尾根には仏の大軍がおり、猛銃撃を受けた中隊は損害を出しつつも後退せず、高地頂上縁で留まります。

 第1中隊の方はフォン・ドゥ・ジヴォンヌに通じる山道を使って前進し、第3大隊の半大隊(第11,12中隊)はその右翼(北東)側に迂回して続行しました。この3個中隊は急斜面を登って第2中隊が踏ん張る高地上の戦線に加わり、しばらくは激しい銃撃戦が行われるのでした。

 やがてこの戦線には第100連隊の第3中隊が加わります。この中隊はキルヒホフ中尉を追って土塁に向かいましたが途中、激しい銃撃を浴びて前進を阻止され、転進してこの戦線左翼(南西)側で銃撃戦に参加したのでした。

 この戦いにジヴォンヌ東側で展開する近衛の砲列が気付いて仏軍に砲撃を加え、S軍擲弾兵を援助します。

 長時間に渡る銃撃戦の後、次第に不利となった仏軍はフォン・ドゥ・ジヴォンヌに向け後退を始め、これを追ったS軍兵は街道沿いに長く延びる部落東側に侵入すると、既に戦意を失って手を上げた士官6名、下士官兵300名余りを捕虜にするのでした。

 しかし、この細長い部落全てを占領するには兵力が足らず、やがて西側から現れた新規の仏軍部隊によりS軍擲弾兵は部落を追われ、先ほどの激戦地である高地尾根まで撤退するのでした。


挿絵(By みてみん)

 仏軍の散兵線


 第101連隊の残部(第3,4,9,10中隊)はこの間にアイブから前進して、例の土塁陣地の北にあるジヴォンヌ街道(現国道977号線)の深い切り通しを使って散兵線を敷くと、その西側高地上の仏軍と銃撃戦を開始しました。

 この戦線でも普軍の砲列が活躍し、ジヴォンヌ渓谷対岸から榴弾の雨を仏軍前線に降らせます。

 この前線の指揮を執っていた第101連隊長、フォン・シンプ中佐は友軍の砲撃に勇気付けられて突撃を決意し、中佐を先頭に4個中隊のS軍擲弾兵は仏軍が退いたフォン・ドゥ・ジヴォンヌ北東の採石場に突進し、これには付近で戦うB猟兵第1大隊と普近衛擲弾兵第2連隊の一部が加わり、この場所で士官18名、下士官兵900名余りを捕虜にするのでした。


 この進撃に乗じて付近の独軍もまた一斉に前進しました。


 普近衛擲弾兵第2連隊第1,2中隊はフォン・シャプイ大尉に率いられてアイブ北の土塁から前進し、採石場付近でシンプ隊が捕らえ切れなかった多くの捕虜を獲ました。

 同連隊第2大隊の内、第5,6中隊は第1大隊に割って入る形で参入し、第7,8中隊はデニー森西縁でS軍団諸隊の左翼(西)側最前線に進み出ました。


※午後2時半頃のデニー森と720高地尾根北部の独軍前線

 左翼西から右翼東へ

○近衛擲弾兵第2連隊・第7,8中隊

○擲弾兵第100連隊・第3中隊

○擲弾兵第101連隊・第2,1,11,12中隊

○近衛擲弾兵第2連隊・第3,4,5,6,1,2中隊

○擲弾兵第100連隊・第1中隊(土塁)

○擲弾兵第101連隊・第3,4,9,10中隊


 この後午後3時、近衛擲弾兵第2連隊は連隊長代理、フォン・ダーエンタール少佐が掌握して、採石場付近に再集合となりました。


 フォン・ドゥ・ジヴォンヌ東側、採石場と720高地尾根北部、そしてデニー森での戦闘が落ち着いたことで、第45旅団の主力も当初の命令に従い、アイブ付近斜面の展開地からイイへの前進を再開し、ジヴォンヌ渓谷を通過してその西側高地尾根へ進みます。

 第23師団砲兵4個中隊も西進して斜面を登り、デニー森の西、ジヴォンヌ街道の湾曲部と採石場の間に砲列を敷き、第45旅団の3個連隊はこの砲列東側に再集合となりました。

 再集合から外れ、フォン・ドウ・ジヴォンヌ東郊外に留まったのは擲弾兵第101連隊の第1,2,11,12中隊で、未だ抵抗を続ける部落南の仏軍部隊と銃撃を交わすのは、この中の2、3個中隊だけでした。S軍団の最右翼となり、普近衛軍団と連絡を付けていた擲弾兵第100連隊の2個(第2,7)中隊は、そのままジヴォンヌの南郊外で待機となりました。


 中将ゲオルグ・ザクセン王子は午後3時頃、S軍団兵がデニーとアイブ西側高地を確実に占領したことを知ると、ガレンヌの森とセダン要塞を砲撃するために軍団砲兵の前進を命じました。

 それまでラ・モンセルの東側に砲列を敷き、友軍の前進で一部砲撃を中止していたS軍砲兵たちは、ラ・モンセル付近からジヴォンヌ川を越えて西側高地に向かい、午後に入り長時間砲撃を続けている635高地付近の普軍砲列と第23師団砲列の間に砲列を敷きます。

 これでバゼイユの北西郊外からフォン・ドゥ・ジヴォンヌ北東までの高地に独軍砲兵21個中隊が断続的に砲を敷いたことになり、砲列の左翼後方にはSライター騎兵第1連隊が前進して警戒に当たるのでした。


※午後3時半頃のフォン・ドゥ・ジヴォンヌ南と東の独軍砲列線

 左翼西から右翼東へ


◇バゼイユの北、バラン街道の南、635高地の西

・B野戦砲兵第3連隊6ポンド砲第8中隊

・同6ポンド砲第7中隊

(100m北)

・B野戦砲兵第4連隊6ポンド砲第8中隊

・B野戦砲兵第3連隊6ポンド砲第4中隊

・同6ポンド砲第6中隊

・同6ポンド砲第5中隊

◇635高地の北、ラ・モンセルの西高地尾根

・野戦砲兵第4連隊軽砲第4中隊

・同重砲第4中隊

・同軽砲第3中隊

・同重砲第3中隊

◇705高地(デニーの南西キロ)の北、デニー森西側高地尾根

・野戦砲兵第12連隊重砲第7中隊

・同軽砲第6中隊

・同砲重第8中隊

・同騎砲兵第2中隊

・同重砲第6中隊

・同重砲第5中隊

・同軽砲第5中隊

◇デニー北西、ジヴォンヌ街道湾曲部北側

・野戦砲兵第12連隊重砲第2中隊

・同重砲第1中隊

・同軽砲第1中隊

・同軽砲第2中隊


 軍団砲兵の前進を追ってゲオルグ王子自身もジヴォンヌ渓谷を越え、午後3時過ぎ、前線視察のために第45旅団の前線までやって来ます。


 王子の観察では、「敵仏軍は既に我が前線からフォン・ドゥ・ジヴォンンヌの後方へ退却しており、S軍砲兵も砲撃目標が少なく、時折短時間砲撃を行っているだけとなっている」とし、また、「普近衛兵が進んだガレンヌの森では、激しい銃声が未だ響いている」として、「我が軍団が右旋回してイイへ向かうと言う当初の命令は、既に戦況の変化によって困難であり、得策ではなくなった。仏軍は既に我が軍により完全に包囲されており、混乱している」と判断するのです。

 これによってゲオルグ王子は、「本会戦の勝敗は決した」として「これ以上前進してセダン要塞の要塞砲射程内に入れば、いたずらに損害を増やすのみ」として、モンベ少将に対し「麾下部隊は全て現在地に留めよ」と命じ、兄のアルベルト・ザクセン王太子に対し、その旨を報告するのでした。


 これで第45旅団は進撃を止め、戦闘を中止しましたが、未だ戦闘中の普近衛軍団を援護するため第108連隊と、続いて第101連隊の一部とをガレンヌの森へ侵攻させ、近衛軍団との連絡を維持すると同時に、森の仏軍と戦闘を交えたのでした。


 同じ頃、独マース軍司令アルベルト王子は本営幕僚を従え、デニー東の高地尾根にやって来ます。

 アルベルト王子も弟君と同じく、「友軍の第三軍はイイ方面を押さえ、仏軍は明らかにセダン要塞方向へ退却中」と認識しました。王子は「マース軍は北へ迂回の必要なし」と断じると、ゲオルグ王子の停止命令を承認し、同時に未だ行軍中の第12(S)軍団全ての部隊に直令を発し、その行動を一時中止させるのでした。


 ジヴォンヌ渓谷の東岸をデニー、アイブと横目に見て前進中だった第46「S第2」旅団は、その前衛がジヴォンヌ部落を越えて北に進んだ時点でアルベルト王子の命令を通達され、これにより第102連隊(第3大隊のみ道に迷ったため遅れて到着)はラ・マカの農場(ジヴォンヌ北郊外、現国道D977号線とD4A号線の分岐点にある家屋)付近で待機に入り、第103連隊はジヴォンヌ部落東郊で止まります。この連隊の第1中隊のみは警戒のため、ジヴォンヌ渓谷を越えて部落の西郊へ進みました。

 同じ頃にデニーとシュヴァリエ森の中間まで進んでいた第24「S第2」師団は、デニー東方に集合となりました。


 これで第12軍団の戦闘・行軍は午後4時頃に停止されます。

 第45旅団と砲兵11個中隊、ライター騎兵第1連隊はデニー~アイブ西の高地上に、第46旅団はジヴォンヌ部落東郊と北郊ラ・マカに、第24師団(第47、48旅団)はデニー東郊に、それぞれ駐留・待機となりました。

 歩兵の銃撃戦と砲兵の活躍により、前線では遂に使用する機会のなかった騎兵第12「S」師団はドゥジーで待機を続けたのです。


午後4時頃のデニー周辺

挿絵(By みてみん)


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