セダンの戦い/「彼らを『ネズミ捕り』の中へ……」
マクマオン将軍の負傷後、一旦はデュクロ将軍に渡った仏シャロン軍の指揮権を「政府の方針と相容れない指揮を執ろうとした(西方への脱出)」として奪取したヴィンファン将軍ですが、軍を掌握した当初、普軍の運動について「東側のバイエルン(B)軍やザクセン(S)軍の攻撃が本物で、西側(サン=ムニュ方面)からの攻撃は、ジヴォンヌ川下流の戦線(バゼイユ~デニー)に掛かる圧力を減ずるための陽動である」と断じます。
そのため、「西側の防衛はドゥエー将軍の第7軍団と予備騎兵2個(マルグリットとボヌマン)師団で十分」と考え、増援は全て東側に向かい、専らジヴォンヌ川流域からの反攻機会を窺っていたのです。
ところが、正午に近付くにつれて仏第7軍団に対する普軍の砲撃は激しさを増し、フロアンとイイに面する歩騎兵も数を増しつつあることがヴィンファン将軍の下にも伝わって来るのでした。
ヴィンファン将軍は自ら仏第7軍団の戦況を確かめるため、騎行してフェリクス・ドゥエー将軍の本営まで出向くのです。
この時、ドゥエー将軍はヴィンファン将軍に対し、「イイ~フロアン東高地までの戦線は第7軍団が死守する」と約束しますが、「カルヴァイル・ドゥ・イイからガレンヌの森一帯に対し、普軍に対抗可能な増援を送り込むことは必要」と具申するのです。
普軍が「本気」でイイ~フロアンの線を攻め立てていることを知ったヴィンファン将軍もこの時は異を唱えず、デュクロ将軍の第1軍団中、第二線となっていた部隊を全て西へ転用すべく命令を下すのでした。
この後ヴィンファン将軍は、これも激しい攻防が続く仏第12軍団の戦線へ急行します。
将軍がバゼイユを臨むフォン・ドゥ・ジヴォンヌに到着したのは正午頃のことで、この時には仏軍は既にセダン要塞とフォン・ドゥ・ジヴォンヌの尾根に向かって後退局面に入っていました。
攻める独軍(BとS軍)はラ・モンセルの西側高地尾根(705高地と635高地)まで進出し、左翼(南)部隊はセダン要塞の東口に面するバラン部落まで進んでいたのです。
元来、B軍の「息切れ」を狙って攻勢を強め、その勢いのまま全軍東側への突破を夢見ていたヴィンファン将軍にとって、この光景は衝撃そのものだったに違いありません。
この戦況絶対不利の有様を目の当たりにした将軍は焦り、「この方面へ増援を送り込むことが第一の急務」と考えますが、既に第二線となっていた仏第1軍団の2個(レリティエとペレ)師団は、先ほどヴィンファン将軍自らが下した命令によってカルヴァイル・ドゥ・イイに向かって移動を始めていました。
既に動き始めた2万に及ぶ兵力を、狭い森林中で逆戻りさせれば大混乱を招くことは必至です。ヴィンファン将軍は臍を噛みつつ仏第7軍団のドゥエー将軍に対し、以下の短い命令を発します。
「ルブロン将軍の軍団(仏第12軍団)は激しい攻撃に晒され圧迫されている。従って貴官が指揮を執る全兵力を挙げてルブロン軍団を救援せよ」
ヴィンファン将軍は、西側の防衛を動き始めた第1軍団2個の師団に任せ、入れ替わりにドゥエー軍団を南西方向へ動かそう、と考えたと思います。しかしこれは当事者から見れば、理不尽かつ実行困難な命令でした。
「激しい攻撃に晒され圧迫されている」状況はドゥエー軍団も変わらないのです。1時間も経たない前に増援を欲して認められ、ほっとしていたドゥエー将軍も「真逆方向へ前進せよ」との命令に、さぞ困窮したことと思いますが、とにかく命令は命令であり、仏軍の将星たるもの命令遵守は金科玉条でした。
ドゥエー将軍はフロアン東の高地下カザールの北で待機する、本来は仏第5軍団所属のカンプ(旧・モーソン)旅団に対し、「至急バゼイユへ向かえ」と命令し、これで「お茶を濁そう」としました。ところがヴィンファン将軍はヒステリックに幾度も「増援はまだか」と催促の伝令を寄越したため、カルヴァイル・ドゥ・イイの南西側戦線を維持していたデュモン少将師団も順次戦線から離脱させ、ガレンヌの森を経由して南東方面へ進ませようとしたのです。デュモン師団の抜けた陣地線には、第二線となっていた「満身創痍の」コンセイユ=デュームニル少将師団が前進し穴を埋める手筈でした。
森を行く仏軍
一方、独第三軍の前線では、普第11軍団と同第5軍団砲兵がイイからガレンヌの森に掛けて激しい砲撃を繰り返していましたが、正午を過ぎると午前中から砲撃を行っていた第11軍団砲兵の一部中隊から弾薬の補充を求める声が上がり始めます。
これは、当初より仏軍の優勢な砲列に対し激しい砲撃戦を行ったことと、急いで前線へ展開したために弾薬縦列を後方に留め、一切の弾薬車を同行させなかったことが原因でした。
このため、砲撃の間隔を開き始めた砲列に加わるべく、シャン・ド・ラ・グランジュから第9師団砲兵の一部が前進し、狭い地域で砲撃を行っていた第11軍団砲列左翼の砲兵3個中隊と共に、フレニュー川を越えてサン=ムニュからイイへ通じる小道の際まで進むと、新たに砲列を組んで砲撃を開始するのでした*。
これにより第11と第5両軍団の砲列は26個中隊(156門)が一列となり、東から砲撃を続ける普近衛軍団の砲列との十字砲火は益々強烈となって仏第7軍団の陣地線とガレンヌの森に降り注いだのでした。
※サン=ムニュ南東の新たな砲列(午後12時30分前後)
左翼(東)から右翼(西)へ
○第5軍団
・重砲第1中隊
・軽砲第1中隊
○第11軍団
・重砲第2中隊
・軽砲第1中隊
・軽砲第2中隊
この普軍の激しい砲撃は、午後に入ると仏軍砲列の衰退により次第に一方的となります。
仏軍砲兵は榴弾の直撃により大砲を破壊され、馬匹と砲手の損害も増大して、仏第7軍団では弾薬箱40個が砲弾を受けて誘爆したといいます。只でさえ連日の後退で士気が低迷するこの軍団は、防ぎようもない砲撃により遂に士気が崩壊し、大部分が散兵線から先を争うように多少なりとも安全に見えるガレンヌの森へと潰走するのでした。
これによってイイの部落から仏軍歩兵が消え、フレニュー南の普第5軍団砲列脇で砲兵護衛として控えていた第82「ヘッセン=カッセル第2」連隊5個(第5,6,8,10,12)中隊と第87「ヘッセン=ナッサウ第1」連隊3個(第1,9,12)中隊は午後1時にフォン・シャハトマイヤー中将の命令でイイへ前進し、これを占領しました。
これら第11軍団の諸隊はイイの南へ出ると、カルヴァイル・ドゥ・イイ方面の仏軍陣地線に対し銃撃を開始するのでした。
この仏第7軍団の右翼も、既に砲撃と命令とによりガレンヌの森へ後退しますが、ただ仏第7軍団砲兵隊のライット12ポンド(野戦重砲)砲兵2個中隊だけは勇敢にも高地陣地に留まり、イイの普軍歩兵に対し砲撃を続けました。
この頃、ガレンヌの森では目を覆わんばかりの大混乱が発生していました。
イイが普軍に占領された頃(午後1時30分前後)、ヴィンファン将軍の命令で仏第7軍団右翼へ向かう仏第1軍団の2個師団と、仏第12軍団の増援としてバラン方面へ向かう仏第7軍団師団がガレンヌの森中程で行き当たり、これで狭い林道の取り合いによる混乱が発生します。間の悪いことに、ここへ砲撃を避けて避難して来た前線の歩兵と騎兵が乱入してしまいました。この混乱に拍車をかけたのは普軍の砲撃で、万遍なく落下する榴弾は不運な人馬を傷付け吹き飛ばし、この恐怖によって将兵たちの秩序は一時崩壊し、狼狽した人馬が右往左往する森は正に混乱の坩堝と化したのでした。
この混乱の責任はお互いの方向へ行軍する部隊の交錯を考慮しなかったヴィンファン将軍の「朝令暮改」(仏第7軍団に「守れ」と言った後の「移動せよ」)にあります。
ドゥエー将軍は文句のひとつも言いたいところだったでしょうが、崩壊の危機に瀕した軍団を建て直すべく森の中を奔走し、秩序と戦線回復の第一歩としてカルヴァイル・ドゥ・イイへの復帰を計るのです。
ドゥエー将軍は浮き足立つ部隊をまとめようとしていたボルダ准将を掴まえると、まずは3個大隊の歩兵を集合させます。ボルダ准将は苦労しながらもこれを成功させ、部隊を直率すると砲兵2個中隊が居残るカルヴァイルの高地尾根へ急行するのでした。
この後、仏第5軍団の一部を掴まえたドゥエー将軍は、この部隊も増援としてカルヴァイルへ向かわせました。
その後、カルヴァイル・ドゥ・イイの南で仏軍諸隊は再三再四に渡って突撃を敢行し、高地尾根へ何とか辿り付こうとしますが、三方が開けた尾根には普軍の砲弾が途切れなく炸裂しており、尾根に登ればイイ南方に布陣する普軍歩兵8個中隊の散兵線から猛烈な銃撃を浴びてしまいました。結局カルヴァイルの高地尾根の再占領は適わず、歩兵の再度後退を見た砲兵2個中隊も撤退の止む無きに至るのでした。
一方、ジヴォンヌ部落を普近衛歩兵が確保した後、西側戦線の独第三軍と連絡すべく、部落北方から北西方へ前進を始めた普近衛騎兵師団は午後1時30分、ジヴォンヌ渓谷西岸でガレンヌの森北東端に面するラ・フールリー(ジヴォンヌの北900m)に進みました。
この進軍中、血気に逸る近衛槍騎兵第3連隊の若き伯爵ランツナウ少尉と男爵マグヌス・フリードリヒ・ニコラウス・フォン・リーリエンクローン少尉(後に詩人として有名となる人ではありません)がそれぞれ率いる2個小隊は、フールリーから2キロ弱北西に離れたカルヴァイル・ドゥ・イイ高地への偵察斥候を命じられて先行しました。その後方から親部隊の第2中隊も続行します。
名門貴族家の2名に率いられた両小隊は、ジヴォンヌ渓谷の斜面を登るとガレンヌの森縁を進んで1時頃カルヴァイル・ドゥ・イイに達します。ここに居残っていた仏散兵を蹴散らすと遺棄されていたライット砲1門を鹵獲しますが、直後ガレンヌの森から仏ボルダ旅団兵の攻撃を受け、大損害を受けた両小隊は親部隊に合流すべく退却するのでした。
この後、ジヴォンヌ渓谷の谷底で待機していた近衛騎兵師団はガレンヌの森から銃撃を受け、再びフレニューに向かって行軍して友軍戦線に達すると、普第5軍団砲列後方に落ち着くのでした。
ところが、近衛騎兵師団が銃撃を避けてジヴォンヌ渓谷を遡った直後、カルヴァイル・ドゥ・イイの回復を計った仏ボルダ旅団の攻勢も失敗に終わり、仏軍は午後2時までに全てがガレンヌの森へ撤退します。
これを見たイイ南方の普軍散兵線から第82連隊の第5中隊が突進してカルヴァイル・ドゥ・イイを占拠して速やかに布陣すると、この絶好の射撃地点からガレンヌの森北縁に対し銃撃を開始したのです。
同じ頃、ラ・シエリ(フレニュー東900mの家屋群)とオリーに集合した第11軍団最左翼諸隊もカルヴァイル・ドゥ・イイ目指して南下しました。
この内、フュージリア第80「ヘッセン=カッセル」連隊第3大隊は同連隊の第1,4中隊、そして第87連隊の第3,4,5,7中隊を引き連れてシャテモン(オリーの南600m付近にある家屋。現存)を通過して南下します。
この先頭を進む第87連隊第3中隊は、シャテモン南のジヴォンヌ渓谷にあった水車場にて、およそ50名の仏軍歩兵が隠れているのを発見し捕虜としました。この後、行軍を再開した近衛騎兵師団と邂逅した同中隊は、その要求に従ってラ・フールリーに面するガレンヌの森北東縁を占領し、カルヴァイル・ドゥ・イイの高地下に退いた近衛槍騎兵第3連隊第2中隊の後方を援護するのでした。
一方、第87連隊第4,5,7中隊は、第3中隊が占領した森縁から更に森の中へ侵入し、森の北東角付近で多くの捕虜を獲るのです。
しかし、この3個中隊を率いた第87連隊第2大隊長フォン・グローテ少佐は、付近の仏兵から逆襲を受けると、仏軍が未だ多くの兵力でガレンヌの森を占めている現状を踏まえ、無理をせずにカルヴァイル・ドゥ・イイ高地東斜面まで退却するのでした。
少佐は捕らえた仏兵に関しては撤退の際に足手纏いとなるため、構わず現地に放置して行ったのですが、既に戦意を喪失した捕虜たちは味方陣内へ逃げることもせず、ただ大人しく普軍歩兵に付いて行ったのです。
普近衛軍団の砲兵部長、公爵ホーヘンローエ=インゲルフェンゲン少将は、完全に友軍有利となった戦況を見切ると、敵が集中するガレンヌの森に対して更に有効な榴弾砲撃を行うべく、砲列の前進を決意します。
まず、ヴィレ=セルネの林西縁から林の北角後方に展開していた砲兵諸中隊をジヴォンヌ部落東郊外の高地まで前進させ、その後部落に面する高地斜面に砲列を再展開させました。午後2時には、完成したこの砲列に騎砲兵諸中隊も前進させ、その両翼を占めさせます。
これで60門となった砲列は、およそ1キロは近付いたガレンヌの森に対し一層激しい砲撃を行ったのです。
※普近衛軍団砲兵・午後2時の砲列
ジヴォンヌ部落の東・ヴィレ=セルネ林の西側
右翼(北)から左翼(南)へ
・騎砲兵第3中隊
・軽砲第1中隊
・軽砲第2中隊
・重砲第2中隊
・軽砲第4中隊
・軽砲第3中隊
・重砲第4中隊
・重砲第3中隊
・騎砲兵第1中隊
・騎砲兵第2中隊
この近衛軍団残りの砲兵5個中隊と、これに接して砲列を敷いたB軍砲兵の2個中隊、そしてS軍団砲兵の7個中隊は、午後2時以降も主としてアイブとデニーの西側高地尾根に展開した仏第1軍団の砲列と砲撃戦を繰り広げました。
しかし、S軍団砲兵左翼(南)は正午過ぎ、友軍諸隊がジヴォンヌ川西岸に渡ってラ・モンセル西側の高地まで進出し、フォン・ドゥ・ジヴォンヌの敵と交戦し始めたため、同士討ちを避けるため砲撃を抑制せざるを得なくなり、最終的に砲撃を中止しています。
午後1時になると、バゼイユの南郊外で待機するB槍騎兵旅団に属するB騎砲兵第2中隊と、B野戦砲兵第4連隊に属するB4ポンド砲第1中隊も第三軍本営の命令でフレノワの東高地にあるB第2軍団砲列に加わります。ほぼ同じ頃、B騎砲兵第1中隊と、B野戦砲兵第2連隊6ポンド砲第4中隊は、前記2個砲兵中隊に場所を譲るため、砲列右翼から左翼に移動しています。
これで全71個中隊*の砲兵が、セダン要塞の北側およそ3キロ四方(カルヴァイル・ドゥ・イイ~ジヴォンヌ~フォン・ドゥ・ジヴォンヌ~セダン要塞~フロアン~カルヴァイル・ドゥ・イイの内部)に「押し込まれた」仏シャロン軍に対し、真西以外の三方から砲撃を集中することとなります。
それぞれの砲列からは、優秀なクルップ砲やバイエルン砲の有効射程距離が重複したため、仏全軍は榴弾を逃れる術がなくなり、ただ強固な城塞・堡塁の陰や、深く掘り出した塹壕の中などにいた運のよい者以外は、何時頭上から落ちて来るか分からない榴弾の恐怖に怯えながら、逃げ場もなくただ神に祈ってひたすらに耐えるしかなかったのです。
前述通りその多くが潜むガレンヌの森は正に混乱の極みにあり、第一線にある砲兵や戦列歩兵から右往左往する予備部隊に騎兵まで、等しく降り注ぐ榴弾の嵐に戦う前から戦意を挫かれ、呆然と天を仰ぐ者数知れずといった状態にありました。
本会戦の帰趨は、歩兵の要塞突入や敵陣切り込みなどの大挙を待つまでもなく、正にこの独軍の砲列完成時で定まったと言えます。
普軍の砲列
とはいえ時は現代ではなく19世紀後半、天才モルトケや普軍の優秀な参謀を以てしても、これだけ大きな会戦において激しく流動する全方面の情報を一挙に手に入れ通観することなど短時間で出来る筈もありません。またこの一ヶ月、いくら「連戦連敗」とはいえ、それまでの勝利に彩られた長い歴史とナポレオンの名の下に「最強」と謳われた軍隊が「完全な崩壊」を迎えようとは、この時点で独軍将星の誰一人思ってもいなかったことでしょう。
一人モルトケだけはその自信があったことでしょうが、まだ戦えるはずの12万に上る敵を目前に、あのケーニヒグレーツの戦場でヴィルヘルム1世国王に「戦争の勝利おめでとうございます」と言い切ったような自信を覗かせることはありませんでした。
この後仏軍では正に「袋のネズミ」となったことを知り、何とか脱出すべく撃って出ようとする動きが現れます。また、シャロン軍内部は正に同床異夢の状態となり、各上級指揮官はそれぞれが抱く思惑に従って様々な動きを見せ、これも更なる戦闘激化と多くの悲劇を生み出すこととなりました。
イイが第11軍団によって占領されたとの報告を受けた時、フレノワ南高地のモルトケは物静かに「今、我が軍は彼らを『ネズミ捕り』の中へ捕らえた」と呟いたと伝えられます。
一方、ガレンヌの森で味方が降り注ぐ榴弾に右往左往する姿を見たアレクサンドル・デュクロ将軍は、ヴィンファン将軍に却下された「シャロン軍の西方脱出」の機会が遂に潰えたと知り、怒り心頭で「我が軍は『おまる』の中にいて、『される』のを待っているだけだ!」と下士卒顔負けの兵隊言葉で口汚く罵っていました。
しかし、モルトケが国王に恭しく大勝利を告げ、デュクロ将軍が絶望して帯剣を外すまでには、未だ紆余曲折を経なくてはならなかったのです。
※午後2時・全独軍「セダン包囲の砲列」
○北部
・第11軍団の砲兵14個中隊
・第5軍団の砲兵12個中隊
○東部
*ジヴォンヌ渓谷の東側高地
・近衛軍団の砲兵15個中隊
・第12「S」軍団の砲兵7個中隊
・B軍の砲兵2個中隊
*ラ・モンセルの西
・普第8師団砲兵4個中隊
・B軍の砲兵6個中隊
○南部
・B第2軍団の砲兵11個中隊
※この他、S軍団砲兵6個中隊(S軍団砲列左翼)や普騎兵第4師団砲兵2個中隊が布陣していますが、共に同士討ちを防ぐため待機状態にありました。
ケーラー 第5砲兵連隊長
午後に入り「セダンの戦い」は後半戦に突入します。
仏第7軍団の右翼(北東)部分は前述通り砲撃と普軍のイイ占領とによって足場を失い、戦線は崩壊状態となりました。しかし、その左翼では、リーベル師団がフロアンの攻防で多くの損害を受け、その後普軍により北と西から攻撃を受けたにも係わらず、その高地の陣地線を死守する姿勢を見せていました。
このカザール(フロアンの南東1.5キロ)北の高地は尾根部分が広く大軍の布陣に適しており、特に仏軍左翼(南)側は地形上有利な点が多くあり、この高地尾根縁に沿った樹木線(散兵線に使えます)や、その直下の急斜面、そして開けた射界によって普軍は迂闊に接近出来ない状況にありました。
この状況によって普軍の攻勢はフロアン付近で一時停止するのです。
普軍のフロアン占領諸隊は、部落の残敵掃討を終え部隊整理がなった後も、東側高地に布陣するリーベル師団諸隊との間で銃撃戦を行うだけに止まるのでした。
この状況に変化を与えたのは、フロアンの確保を確実とした時と同じく、普軍増援の登場でした。
正午過ぎ、サン=アルベールに到着した普第22師団本隊は、休む間もなく師団長オットー・ベルンハルト・フォン・シュコップ少将に率いられ、各連隊は半個大隊の戦闘行軍縦列でムーズ沿岸を激戦続くフロアンに向けて行軍しました。
その先頭は第95「チューリンゲン第6」連隊が担い、その後方を第32「チューリンゲン第2/ザクセン=マイニンゲン」連隊が、1個大隊を大本営護衛として欠いていた第94「チューリンゲン第5」連隊は予備として続きました。
歩兵に続いては第11軍団工兵第3中隊が続行し、最後尾は驃騎兵第13「ヘッセン=カッセル第1」連隊の2個(第3,4)中隊がムーズ河畔の草地を越えて進んだのです。
シュコップ将軍がフロアンを目指したのは、師団本隊のサン=アルベール到着時、サン=ムニュ南方からエーベルハルト大佐の隊(第46「ニーダーシュレジエン第1」連隊2個大隊と猟兵第5「シュレジエン第1」大隊)がフロアン目指して進撃するのを目撃したからで、将軍の思惑としては、エーベルハルト隊が部落の敵と対決する後方から進み出て、フロアンの東側高地上に構える敵陣に対し、側面及び背面から包囲を試みるつもりだったのです。
ところが、師団縦列がフロアン部落内とその西郊外でフロアン川を越えようとした時、軍団長から「軍団総予備として1個旅団を割き、812高地上の林まで行軍させよ」との命令が届いたのです。
時間からしてフォン・ゲルスドルフ軍団長が発した「最後の」命令と思われますが、この時(午後12時30分過ぎ)には既にフロアンの普軍は総攻撃に移り、フォン・シュコップ将軍は部落南方で先兵の普軍散兵たちが仏軍の後衛と死闘を繰り広げるのを見るのです。
「予備として戦場から退くより、ここで戦う方が理に適う」と考えた将軍は、独断で軍団長命令を曲げ、812高地には予備となっていた第94連隊の2個大隊を充てて北へ進ませ、残った第43旅団(第32と95連隊)と工兵、驃騎兵は全てフロアンからカザールに向かう攻撃に使用するのでした。
※フロアン戦場図




