セダンの戦い/軍団長負傷~W師団、騎兵第4師団の活躍
第11軍団の左翼部隊(シュリーフェン隊や騎兵10個中隊)によって第5軍団砲列の警護は十分となり、オリーも確保され近衛軍団とも連絡が成されたと聞き及んだ第5軍団本営は、当初東進させる予定だった第20旅団をシャン・ド・ラ・グランジュに留め置きました。
この旅団に後続した第19旅団はサン=ムニュの北郊外まで進み、午前10時に第46連隊の第1、2大隊はサン=ムニュに入ります。ここへ猟兵第5大隊も到着し、これら1個連隊の戦力はキルヒバッハ将軍の命により、フロアン戦線が増援を必要とした場合に備え待機するのでした。
このフロアン戦線では、第11軍団右翼部隊が死力を尽くして戦っていました。
最初にフロアン北部に侵入した第87連隊の第8,10中隊は、援軍もないままで2時間に渡って部落北縁にある二軒の農家を死守しています。
この内の一軒はサン=ムニュへ向かう街道に面しており、普軍にとって射界が開けた理想的な銃撃拠点となっていました。仏軍は何度もこの街道に沿って突撃を繰り返しますが、その都度正確な銃撃を受けて損害を出し、攻撃は中断されるのでした。
普軍側も兵力が少ない内は防戦に努めていたため、この膠着状態は午前11時頃まで続きます。
この頃になって前述通り兵力増強がなった普軍は本格的な攻勢を開始し、812高地尾根の南端で銃撃戦を行っていた諸中隊は一斉に高地を下って、フロアンを護る仏第7軍団リーベル少将師団の銃撃をものともせずにフロアン市街地へ侵入するのでした。
この攻撃の先頭に立ちフロアン市街に一番乗りしたのは、フリードリヒ・カール・ヴィルヘルム・エグベルト・フォン・ショルレマー少佐率いる第83連隊第1,2中隊と第4中隊半個の集団で、この直後に同連隊第6中隊が続きます。さらに30分後、同連隊の第5,7中隊が市街へ突入し、これに第8中隊と砲兵援護を行っていたF大隊が続いたのでした。
この時、同連隊第9中隊は一足先に仏軍が撤退したフロアン東方の墓地を占領し、第5軍団の工兵第2中隊はフロアン川(イイの北西付近を水源としムーズに注ぐ小河川)沿いに西へ進むとマルトゥレネの家(フロアン南西郊外のフロアン川岸の一軒家。現存)を占拠し部落南郊の拠点とするのでした。
フロアンには更に普猟兵第11大隊が進み、第2中隊は部落の西側入り口に、残りは部落東側入り口へ進みます。
第82連隊の第9,11中隊は第83連隊諸隊に続いて市街地に入り、サン=ムニュ東の砲兵護衛に就いていた第87連隊第2中隊も続いて市街地まで前進し、部落東方を流れるフロアン川支流の渓谷に入りました。
これによってフロアン部落の大半が普軍の手に落ち、余力のある部隊はそのまま部落を通過して、部落南東側から東の高地斜面に登る気配を見せました。仏軍側は戦線が維持出来なくなる怖れを感じ、ここに一大逆襲を企てるのです。
これはフロアンを含む仏第7軍団の戦線左翼を構成したリーベル師団全力による攻撃で、彼らは陣地線となっていたフロアンの東高地を駆け下り、部落に向けて闇雲に突進しました。このおよそ1個師団に近い兵力の「波」は西を除く三方から部落を襲い、部落を越えて812高地南麓にまで押し寄せました。
部落東郊の墓地にも仏軍がやって来ますが、ここを単独で護っていた第83連隊の第9中隊は全滅を覚悟して防戦に努め、一歩も退くことはありませんでした。
しかし、部落に進出した普軍諸隊は倍する敵により再三の突撃を受け、勇戦しても被害は増大し弾薬が心許なくなって行きます。
812高地には未だ1個連隊近い兵力*がありましたが、これは重要な第11軍団の砲列を護るため(仏軍散兵線まで1キロあまりしか離れていません)に動けず、ただでさえ前進中に無視出来ぬ損害を受けていたフロアン在の各中隊*は、暫くは増援を期待出来ず、背水の陣で粘り強く戦わねばなりませんでした。
※フロアン逆襲時に812高地尾根で砲兵護衛にあった中隊
○フュージリア第80連隊・第2,3中隊
○第82連隊・第1大隊
○第83連隊・第3中隊と第4中隊半個
○第87連隊・第11中隊
○第88連隊・第5,6,8中隊
※フロアン周辺で戦った中隊
○第82連隊・第9,11中隊
○第83連隊・第1,2中隊と第4中隊半個
○同連隊・第2大隊
○同連隊・F大隊
○第87連隊・第2,8,10中隊
○第11軍団工兵・第2中隊
○猟兵第11大隊
墓地の戦い
このフロアン部落の攻防が激化したことを知ったフォン・ゲルスドルフ将軍は、フォン・キルヒバッハ将軍に対し「歩兵の増援をお願いしたい」との主旨を託して伝令を送ります。キルヒバッハ将軍はこれを受け、サン=ムニュで待機する歩猟兵3個大隊に対し急ぎフロアンへの前進を命ずるのでした。
正午。第46連隊長フリードリヒ・フォン・エーベルハルト大佐は第1,2大隊を直率してフロアンに向かい、大佐は部下に駆け足を命じると行軍縦列は812高地尾根の西側斜面を駆け抜け、フロアンに急行するのです。
この内、第1大隊は部落北辺で仏軍と衝突する普軍諸隊に合流し、第2大隊は中隊ごとに分かれると部落中央まで進み出るのでした。
猟兵第5大隊は第46連隊を追ってサン=ムニュ~フロアン街道(現国道D6号線)を突進してフロアン西部に至ると、ここにあった城館を仏軍から奪い取って市街地に残る仏軍を狙撃するのでした。
これら3個大隊の普軍の増援は正にカンフル剤の役割を果たし、午後12時30分頃から普軍は一斉反攻に転じ、仏軍の歩兵たちはたちまち部落から追い出されるのでした。
普軍諸隊は逃げる仏軍を追って、その勢いのまま部落南東の高地を占領するのです。
フロアンを巡る戦闘はここでほんの数十分間ですが一息付く形となります。
フロアンから追い出され、その陣地線の一角(フロアン南東高地)を崩された仏第7軍団は急ぎ防御態勢を整え、普軍はこの貴重な時間を使い部隊を整理し、出来る限り弾薬を補充すると次なる攻撃の準備に入るのでした。
しかし、この攻防は普軍側にも多大な損害を与えていました。特筆すべきは812高地上で起きた「事件」でした。
普第11軍団長のヘルマン・フォン・ゲルスドルフ中将は午後12時30分、普軍の凄まじい砲撃により仏軍からの応射が減衰したことを感じ取ると、フロアンから東側の敵前線を観察すべく812高地頂上に登り、林を抜けて東側を見晴るかす高台に立ちました。するとたちまち東側から狙撃され、シャスポー銃弾に胸を撃ち抜かれた将軍は大地に崩れ落ち、意識を失いました。
重傷を負った将軍は直ちに後送されますが、手当の甲斐なく9月13日にサン=アルベールの野戦病院で死去します。
1ヶ月足らず前のヴルト会戦中にエルザスハウゼンでボーズ軍団長*を失った第11軍団は、ここセダンでも再び軍団長を失うという悲劇を味わうのでした。
※注
ユリウス・フォン・ボーズ中将はこの時の銃創(脚)が元で一時生命の危機に陥りますが、普仏戦争の終盤時にようやく回復の兆しが見え、戦後になって全快し73年歩兵大将に昇進すると軍に復帰しました。
ゲルスドルフ
このフロアン陥落と前後して、普第5、第11両軍団の後方に遅れていた部隊もファリゼットの隘路を越えてサン=アルベールへ進み、これによって一時待機状態となっていた諸隊も前線へ進み出ることが出来るようになりました。
既述通り、遅れていた諸隊*は正午頃に続々サン=アルベールへ到着し、これを受けて普第5軍団本営は、シャン・ド・ラ・グランジュやサン=ムニュ近郊に留まっていた部隊をフレニュー方向へ前進させます。
これにより第20旅団はフレニュー南方の谷に展開し、第19旅団はその右翼前方(南西)に進んだのでした。
一方、第5軍団の後衛となった第9師団は、正午から午後1時に掛けて、第10師団の去ったシャン・ド・ラ・グランジュに至りました。
※普第5軍団、普第11軍団 9月1日正午から午後1時における位置
◇第11軍団の砲兵14個中隊並びに第5軍団の砲兵10個中隊
フロアン北方の812高地尾根~イイの北方までに展開。
第11軍団砲列と第5軍団砲列の境はフレニュー川(フレニュー北の森林を水源にフロアン北東郊外でフロアン川と合流する小河川)となります(前節下図参照)。
◇フロアン部落周辺
○第11軍団
*第82連隊・第9,11中隊
*第83連隊・第1,2中隊と第4中隊半個
*同連隊・第2大隊
*同連隊・F大隊
*第87連隊・第2,8,10中隊
*第11軍団工兵・第2中隊
*猟兵第11大隊
○第5軍団
*第46連隊・第1、2大隊
*猟兵第5大隊
◇フロアン北方林間(砲兵護衛)
○第11軍団
*第80連隊・第2,3中隊
*第82連隊・第1大隊
*第83連隊・第3中隊と第4中隊半個
*第87連隊・第11中隊
*第88連隊・第5,6,8中隊
◇フレニュー南方砲列脇(砲兵護衛)
○第11軍団
*第82連隊・第5,6,8,10,12中隊
*第87連隊・第1,9,12中隊
◇イイ北方林間
○第11軍団
*第82連隊・第7中隊
*第88連隊・第7中隊
*第87連隊一部(フレニュー、オリーへ進んだ部隊のうち若干)
*第80連隊・第1,4中隊
*同連隊・第2、3大隊
◇イイ北方林とフレニューの間
○第11軍団
*驃騎兵第13連隊・第1,2中隊
*驃騎兵第14連隊
○第5軍団
*竜騎兵第4連隊
◇オリー付近
○第11軍団
*第87連隊・第3,4,5,6,7中隊
◇サン=ムニュ東郊外・砲列の北
○第11軍団
*第88連隊・第1大隊
◇フレニュー南郊外・谷間
○第5軍団(第10師団)
*第6連隊(第19旅団)
*第46連隊・F大隊(第19旅団)
*第37連隊(第20旅団)
*第50連隊(第20旅団)
*竜騎兵第14連隊・第2,3中隊
◇サン=アルベール(行軍通過中)
○第11軍団
*第32連隊(第43旅団)
*第95連隊(第43旅団)
*第94連隊・第1、2大隊
*第11軍団工兵・第3中隊
*驃騎兵第13連隊・第3,4中隊
◇シャン・ド・ラ・グランジュ(待機)
○第5軍団(第9師団)
*第58連隊・第1、2大隊(第17旅団)
*第59連隊(第17旅団)
*第7連隊・第1、2大隊(第18旅団)
*第47連隊(第18旅団)
*第5軍団工兵・第2中隊
*第5軍団工兵・第3中隊
*野戦砲兵第5連隊・軽砲第1,2中隊
*野戦砲兵第5連隊・重砲第1,2中隊
◇主戦場の後方に在る部隊
○第11軍団
*竜騎兵第14連隊・第1,4中隊
※仏白国境で仏軍落伍兵を捜索中。
*第88連隊・F大隊
※ボスヴァル(=エ=ブリアンクール。ヴリーニュの北東2.5キロ)から戦場へ行軍中。
*第94連隊・F大隊
※ヴァンドゥレスから戦場へ行軍中。
○第5軍団
*第58連隊・F大隊
※シメリー=シュル=バール(第三軍本営)警護。
*第7連隊・F大隊
※ヴァンドゥレス(大本営)警護。
☆ 普騎兵第4師団
ヴィルヘルム1世国王の末弟、フリードリヒ・ハインリッヒ・アルブレヒト・プリンツ・フォン・プロイセン騎兵大将(会戦時60歳)率いるこの騎兵師団は、甥である第三軍司令官フリードリヒ皇太子の命令により、第5、第11の両軍団が前進した後、この後続としてフレノワ南方からモンティモン(ドンシュリーの北北東3.8キロ)目指して進軍を開始します。
王族中、メッス攻囲軍司令官フリードリヒ・カール親王と並び軍人として名高いアルブレヒト王子は、幕僚を従えると師団に先行して前線へ騎行し、シャン・ド・ラ・グランジュに至ります。王子はこの道中、サン=ムニュへの諸街道が全て第5、第11両軍団によって使用されており、一部では渋滞となっていることを確認しました。これでは全く王子の騎兵たちは前進が適わないこととなり、この戦争を決するであろう一大会戦に何としてでも参加したいと願うアルブレヒト王子は、騎砲兵2個中隊(第11軍団騎砲兵第2中隊と第5軍団騎砲兵第1中隊)に対し「前進しモンティモン付近で敵を砲撃せよ」との主旨の命令を持たせた伝令を送ります。
午前10時、この2個中隊12門の騎砲はモンティモン付近の高地斜面(モンティモンの南西500m付近)に砲列を敷き、ムーズ川の大湾曲部を越えてフロアン南東の高地上にある仏軍陣地帯に向けて砲撃を開始するのでした。
騎砲兵たちは無理を承知(軽い4ポンド騎砲の有効射程は3キロ程度)で榴弾をおよそ4キロに近い敵陣まで送り込みますが、この時間(午前10時前後)未だ普第11軍団の砲列は形成されたばかりで東方の強力な仏軍砲列と戦うのに忙しく、フロアンの南へ砲撃を行うものは少なかったため、これは一時仏軍の戦闘力を殺ぐ貴重な戦力となりました。結果、仏軍の砲列は、この遠距離からの砲撃を受け一部が後退することとなります。
しかし、この長距離砲撃はフロアンに普軍部隊が侵入すると同士討ちの危険性が高まり、普皇太子は正午に砲撃中止を命じるのでした。
この頃までに騎兵第4師団の諸隊はモンティモンの南方、騎砲の砲列東側の低地(モンティモンの南400m付近)に集合しますが、その馬列に対し、騎砲の砲撃に怒った仏軍砲列から遠距離の砲撃を受け、被害を避けようと師団は西側の高地西方(ドンシュリーの北2.5キロ)まで移動するのでした。
アルブレヒト王子は会戦中、シャン・ド・ラ・グランジェに留まり観戦を続けますが、師団参謀のフォン・フェルゼン少佐は戦況視察のため前線に赴こうとし、この途上敵弾を受けて重傷を負ってしまうのでした。
アルブレヒト親王(父)
☆ ヴュルテンベルク師団
ドン=ル=メニル(ドンシュリーの西5キロ)付近でムーズを渡河したヴュルテンベルク(W)師団は、前衛のW第3旅団が先行してヴィヴィエ=オー=クール(ドン=ル=メニルの北5キロ)に進みます。
師団本隊はこれを追って午前7時から8時に掛けてムーズを渡河し、W騎兵旅団はシャルルヴィル=メジエールの仏第13軍団を警戒するため、前衛に続いてヴィヴィエ=オー=クールに至るとテュメクール(ヴィヴィエ=オー=クールの郊外西へ800m)まで前進し、斥候隊はエーグルモン(ヴィヴィエ=オー=クールの北西7キロ)付近のムーズ河畔まで進出すると、ジヴェ(メジエールの北42キロ。仏白国境の要塞地区)鉄道を遮断し、ヴィル=シュル=リュム(ヴィヴィエ=オー=クールの北西3.7キロ)に仏軍前哨がいることを報告するのでした。
ところが午前10時頃、普皇太子から「W師団は軍総予備となり、ドンシュリー付近で集合せよ」との命令が届き、普軍人の師団長、男爵フーゴー・モーリッツ・アントン・ハインリッヒ・フォン・オーベルニッツ中将はメジエール方面から後背を護るため、W猟兵第3大隊(2個中隊のみ/1個中隊は輜重援護、残1個中隊はアルザスのリヒテンベルク城警備で残置)とWライター騎兵第4連隊の2個中隊をヴィル=シュル=リュムへ進めました。
この「後衛」支隊はリュム部落東の林から銃撃を受けたため南方に迂回し、部落が包囲されそうになった仏軍前哨部隊は直ちにメジエール方面へ撤退を始めました。これを追ったWライター騎兵の2個小隊はムーズ河畔のロムリー(ヴィル=シュル=リュムの西1.5キロ)まで敵を追い、部落直前の開墾地で襲撃を企てますが、起伏のある地形と部落からの銃撃で失敗し、退却するのでした。この頃、その南側のリュム(ヴィル=シュル=リュムの南2キロ)にあるムーズ川の常設橋にも仏軍がいることが確認されたため、W支隊指揮官のヴィルヘルム・ズースドルフ大尉はこれ以上の「深追い」を中止させ、ヴィル=シュル=リュムを確保するのみで留めました。大尉は更にリュムの橋を監視するため、歩兵1個中隊とライター騎兵数騎を橋梁付近まで進出させたのでした。
この間、師団本隊はフォン・オーベルニッツ将軍に率いられてヴィヴィエ=オー=クールからドンシュリー目指して行軍し、途中ヴリーニュ=ムーズ(ヴィヴィエ=オー=クールの南南東3.6キロ。ムーズ河畔)で斥候報告を受けました。それによると、「メジエールから前進した仏軍歩兵2個大隊と騎兵2個中隊はムーズ西岸(南側)からドン=ル=メニルの橋梁に迫る」とのことでした。
この方面には僅か歩兵2個中隊をフリーズ(ヴリーニュ=ムーズの西5.4キロ)とヌヴィオン(=シュル=ムーズ。同3.8キロ)に守備隊として後置するだけだったため、オーベルニッツ将軍はW第3旅団の大部分にWライター騎兵第3連隊と4ポンド砲1個中隊を付けて至急フリーズに向かわせます。
W第3旅団長の男爵アルベルト・フォン・ヒューゲル少将はW第8連隊第1大隊をヌヴィオンへ向かわせ、残りを率いてドン=ル=メニルの軍仮設橋を渡りました。そのまま川沿いに西へ進みフリーズを越えると、将軍はここで普軍騎兵と出会うのです。
この普軍騎兵は前日「イヴェルノモンの前哨戦」でポワ=テロン(フリーズの南西11キロ)付近に足止めされた普騎兵第6師団の前衛で、驃騎兵第16連隊の斥候隊でした。普騎兵はヒューゲル将軍に「ブルジクール(フリーズの西5.5キロ)で敵部隊と遭遇し、プティ=ザイヴェル(フリーズの北北西3キロ。レ=ザイヴェル西郊外)に仏軍の陣地を見た」との情報を伝えるのでした。
ヒューゲル将軍は午後2時15分、4ポンド砲中隊に命じてプティ=ザイヴェルを狙って砲撃を行わせます。同刻、W第8連隊第2大隊は攻撃態勢で前進し、W第3連隊第2大隊がこれに続きました。ところが、W2個大隊が部落に接近すると、仏軍は部落ではなくその北郊外の高地(現「ザイヴェル要塞跡(第1次大戦の堡塁)」のある高地)に散兵線を敷いており、ここから一斉射撃でW軍を迎え撃ったのでした。
しかしW第8連隊第2大隊は銃撃を冒して前進を続け、その第8中隊は左翼側に迂回してボワ・デ・トロワ・コミュネ森(プティ=ザイヴェル西側の森)を通過し高地仏軍の後方へ出ようと機動すると、仏軍は包囲を恐れて背嚢を遺棄して後退を始め、ヴィレ=ドゥヴァン=メジエール(現ヴィレ=スムーズ。プティ=ザイヴェルの北2キロ)に撤退するのでした。W軍の4ポンド砲部隊は暫く敗走する敵を狙って砲撃を続けましたが、これも午後3時には収まるのでした。
W師団はこうしてメジエール要塞都市近郊まで進んでヴィノア将軍率いる仏第13軍団と小戦闘を交えましたが、この日の損害は士官1名、軍医1名、下士官兵33名、馬匹12頭という比較的軽微なものでした。
W師団は大きな戦闘なくこの大会戦を終えますが、その功績は大きなものがありました。
この日メジエールに肉薄したW諸隊のお陰で、仏第13軍団はメジエール要塞から積極的に撃って出ることが出来ず、「セダンの戦い」に何ら寄与することなく終えるのです。
W師団の内、前哨任務でムーズ西岸(南)に在る部隊はフリーズ周辺に、東岸(北)に在る部隊はヌヴィオンにそれぞれ集合し、W騎兵旅団はテュメクールで宿・野営しました。師団本隊は普皇太子の命令通りドンシュリーの北へ集合し待機しました。
こうしてこの会戦中、W師団本隊はドンシュリーの北へ進んだ普騎兵第4師団と、ドン=ル=メニルを経てヴリーニュ=ムーズに進んだ普騎兵第2師団と共に独第三軍の予備となったのでした。
オーベルニッツ




