表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/534

ハノーファー王国の末路


☆ その後


挿絵(By みてみん)

ランゲンザルツァの戦いでのプロイセンの砲兵小隊に対するハノーファー王国軍ケンブリッジ竜騎兵隊第4中隊の攻撃

(ゲオルク・フォン・ボディエンによる油絵バート・ランゲンザルツァ市立博物館のコレクション)


 1866年6月27日の「ランゲンザルツァの戦い」でハノーファー軍が被った損害は、戦死が士官2名・下士官兵356名、負傷が士官80名・下士官兵971名の合計1,409名、馬匹の死傷は約300頭に上りました(墺軍の記録で普軍側は戦死358名・負傷1,501名としています)。

 ザクセン=コーブルク=ゴータ公国連隊将兵を含めた普軍フリース兵団の損害は、戦死が士官11名・下士官兵159名、負傷が士官30名・下士官兵613名、捕虜とならない行方不明が下士官兵33名の合計846名(墺軍記録。普軍では戦死196名・負傷634名としています)、ハノーファー軍が捕虜としたのは士官10名・下士官兵907名とされ、大砲2門とドライゼ銃を含む小銃約2,000挺を鹵獲したとしました。また、普軍ではこの日捕虜を含めおよそ2,000名が帰隊せず、戦死傷者を足せば出撃した将兵の三分の一を失うという大損害だったことが分かります(後日捕虜を除く300名ほどが無事帰還しました)。

 普軍側の記録では、フリース将軍が昼前後に一時気を失い人事不詳となり適切な命令を出せず、このため指揮が混乱し撤退命令が遅れて大量の捕虜を出すこととなってしまった、としていますが現代となっては「真実は闇の中」と言えます。

 いずれにせよ、「ハノーファー軍がプロシア軍に完全勝利した」という事実に変わりなく、普墺戦争でも珍しい普軍敗北の会戦でした。


挿絵(By みてみん)

 ランゲンザルツァの戦いで戦死したハノーファー軍下士官


挿絵(By みてみん)

 ランゲンザルツァの戦い・ハノーファー近衛胸甲騎兵の突撃


 ところで、ランゲンザルツァの戦いは国際赤十字社にとって特別な意味のある戦いとなっています。


 既に63年10月下旬、「戦争時に自発的看護を行う際の原則」と「将来の赤十字運動の発展と規則成立に関する準備」がヨーロッパ各国の篤志家たちによって話し合われ、最初の国際赤十字運動を定めたジュネーブ条約が結ばれました。

 その最初の具体的活動は64年2月、第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の勃発で開始されます。この時は2月6日のオイーヴァセの戦いで野戦病院に赤十字の腕章を付けたデンマーク赤十字社の前身となった戦傷者救済団体のボランティアが敵味方関係なく負傷者を手当てしたのを皮切りに、激戦となったデュッペル堡塁の戦いではスイスのハーナウからやって来た外科医ルイ・ポール・アメデ・アッピア医師が普軍側、オランダ海軍軍医チャールズ・ヴァン・デ・ヴェルデ大尉がデンマーク側(二人とも当時46歳。アッピアは最初の赤十字国際委員5名の一人です)で、歴史上初めて医師が国際赤十字の白い腕章を上腕に着け、戦場で中立的な立場で負傷者の治療と救護活動を行いました(これら64年の活動は赤十字社正式なものではなく知見を得るための活動や自発的なボランティアとされています)。


 そして66年6月。普墺戦争が始まり、国際赤十字は各国篤志団体に赤十字社として医療従事者を派遣することを要請しました。この時、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国も篤志団体が赤十字運動に賛同(公国自体は国際赤十字条約加盟国ではありませんが普王国は加盟国でした)して出動準備を行っており、6月27日午前、ランゲンザルツァで戦闘が開始されたとの情報を得た彼らは30名が赤十字の腕章と担架、包帯や三角巾、飲用水のボトルなどを馬車に積み込んで出発し、硝煙棚引く戦場で両軍の士官に許可を得ると早速活動を開始し、この日は「最初に国際赤十字が戦場で公式活動を行った」記念日となります。彼らは2年前から地元の篤志家フーゴー・フォン・ビューロー男爵の手筈で応急処置の訓練を受けており、「患者輸送分隊」と「救急看護分隊」に分かれ、戦闘中はランゲンザルツァ市内の病院や教会で双方の看護兵や軍医と共に地元の医師や看護師、教会関係者や飛び入りの市民など様々な人々が赤十字旗の下で活躍したのです。


挿絵(By みてみん)

マーックレーベンの西で負傷者を介護する看護兵と初期の赤十字職員


 話をHv軍に戻しましょう。


 普軍に完勝し意気が上がったはずのハノーファー軍でしたが、27日夜間にフリース兵団を追ってゴータに攻め込む、またはゴータ~エアフルト間やゴータ~アイゼナハ間を突いて南方脱出を図る、などという行動を起こすことはありませんでした。

 現在では多くの軍事専門家が「この機会を逃さず会戦に連続して行動に移っていた場合、ハノーファー軍は南方突破に成功した可能性が高い」と述べていますが、とは言え「アレンツシルト将軍が当時の心理状態で麾下にこれを命じた可能性はなかった」とする専門家や、「そもそも脱出に成功しても追撃する普軍から逃げ切れる可能性も低かった」と見る専門家も多いと言われます。それは以下の顛末を見れば明らかでした。


 アレンツシルト将軍は27日深夜、ゴータに向けて白旗の軍使を送り、フリース将軍に対し「両軍の戦死者回収と埋葬のため数日間の休戦」を提案しますが、フリース将軍は使者に会う事さえ拒みました。これは敗戦直後で頭に血が昇っていたため、とも考えられますが、フリース将軍は「自分が敗れてもハノーファー軍の命運は数日以内」と考えていた可能性も高かったと思います。

 この頃、アイゼナハで南方からやって来る「幻のバイエルン軍」を待ち構えていたフォン・ゲーベン将軍は、ゴータからの至急報でこの日中のランゲンザルツァにおける顛末を知ると、直ちに麾下歩兵7個大隊と騎兵2個中隊を用意出来たものから順次列車に乗せ、正しくピストン輸送で翌28日黎明前までにゴータへ送り込みました。

 「フリース敗れる」の電信報告は27日深夜、カッセルに帰っていたフォン・ファルケンシュタイン将軍にも届き、将軍は幕僚と共に列車を仕立ててこれに飛び乗りアイゼナハに急ぐと、28日早朝アイゼナハとゴータにある全ての部隊に対し「本日中にランゲンザルツァに向け進撃するよう」命じるのです。


挿絵(By みてみん)

 ランゲンザルツァの戦い・浴場前の戦闘


 時間を多少巻き戻し、26日午前。

 ゲッティンゲンのフォン・マントイフェル中将は、本隊(ゲーベン将軍の第13師団)から離れていたため一時的に指揮下となったヴィルヘルム・フォン・ヴランゲル少将の支隊を列車に乗車させてカッスルから呼び寄せ、麾下のフォン・コルト少将に対し前衛を組織してゲッティンゲンを発しドゥーダーシュタット(ゲッティンゲンの東22.5キロ)へ進ませます。


 マントイフェル将軍はファルケンシュタイン将軍の本営ばかりでなく、前・軍事内局長官でヴィルヘルム国王の「お気に入り」という立ち位置と、失脚した極右の王室側近「カマリラ」の思いを受け継ぐ軍人として「ベルリン」と直接繋がっており、情報量と伝達速度ではファルケンシュタイン将軍より上位にあったと思われます。


 そもそもマントイフェル将軍はシュレスヴィヒ「州」総督であり、2年前まで国王側近中の側近として軍のヒエラルキー最上階にあった人で、ファルケンシュタイン将軍・対デンマーク戦ではお目付役だったのに老害が著しかったヴランゲル元帥を押さえるどころか同調し、軍の中でその資質にケチがついていた「上司」より遥かに影響力がありました。

 今回の出陣も「本来なら」彼が総司令官として指揮を執ることが、(マントイフェル将軍自身には)自然と思われましたが、「何故か」ファルケンシュタインに天命が下ったのには「何か意味がある」とマントイフェルが思ったとしても仕方がないだろうと思われます。

 マントイフェルが「ベルリン」を体よく追われたのは「ビスマルクとローン」という権勢に相反したためであり、彼らベルリン中枢に恨みがなかったか、といえば噓になるでしょう。今回の指揮系統にしても、たとえファルケンシュタイン自身がマントイフェル同様国王から気に入られていた事実(国王はファルケンシュタインに雪辱のチャンスを与えたのだと思います)があっても、マントイフェルとしては納得がいかなかったことだと思います。

 せめてもの慰めはハノーファー王国を攻めることにしても国王から直接命令書簡が届いたことで、(書簡には「ファルケンシュタインの隷下となること」とはっきり書かれていましたが)マントイフェルは「本官は国王から直接ハノーファーを攻め降伏させるよう命じられており、ファルケンシュタイン将軍を応援せよ、と命じられはしたが決して部下になれとは言われていない」と公言し、ファルケンシュタインから「命令」や「要請」が届いても、それに不満があれば反駁して従わず、また従ったとしても独自の解釈で動くことがあり、結果論争となることもあって二人の仲は冷え切っており決して良い関係ではありませんでした。


 この時もファルケンシュタインからフリース支隊を切り離しゴータへ向かわせるよう「要請」され、これは「ベルリン」の意向でもあったために従ったものの「代わりに」と本隊から離れていたウランゲル将軍の旅団を指揮下に貰い受けました。更に新設される「第2予備軍団」に配属が決まりポツダムより出立する近衛歩兵連隊の各第4大隊(いわゆる「マルシェ」大隊)のうち先行しゲッティンゲンに向かった2個大隊も指揮下に編入し、ファルケンシュタイン将軍からランゲンザルツァ方面へ進撃命令が来る前に「ハノーファー軍が北進または東進する可能性が出たのでこれを阻止してもらいたい」、との「ベルリン」の「要望」を受けたマントイフェル将軍は、前述通りコルト将軍の支隊を東へ送り出しハノーファー軍が北上してハルツ山地方面へ逃走する場合に備え、コルト支隊は26日夜間、目標のドゥーダーシュタットに到着して宿営し、翌27日にヴォルビス(ドゥーダーシュタットの南東12.5キロ)へ到達します。

 マントイフェル将軍は師団本隊を率いてこの日(27日)ディンゲルシュテット(ミュールハウゼンの北西15キロ)へ、ハノーファーシュ・ミュンデンにいて26日にハノーファーと普領国境のフリートラントまで進んでいたフォン・フライホルト少将率いる後衛はハイゲリンシュテット(ディンゲルシュテットからは北西に14キロ)まで進みました。

 しかし、翌28日黎明時。ミュールハウゼンに向け出立しようと準備していたマントイフェル将軍の下に前日のランゲンザルツァの戦い詳報が届きます。将軍は急ぎ出立すると午後にはミュールハウゼンに達しましたが、率いていたのは8,000名程度(歩兵10個大隊)と麾下の半数程度で、フライホルト支隊は未だ遥か後方を行軍中、コルト支隊は前日「ハノーファー軍はゾンダースハウゼン(ミュールハウゼンの北東33.5キロ)に向けて進む」との虚報を受けて東進し、この日はエレンデ(同北北東27.5キロ)に進んでしまいました。


 いずれにせよ、ハノーファー軍はランゲンザルツァから動くとすれば東しか残っておらず、当然ながらそちらは普王国本土であって「その先」はなく、しかも27日の戦闘で約一割に及ぶ兵力を失った上に弾薬消費も甚だしく、二度と大規模な戦闘は不可能でした。

 アレンツシルト将軍はゴータのフリース将軍から休戦提案を拒絶された後の28日早朝、主要な指揮官と幕僚を集めて軍議を開き、意見は一致して国王に奏上することとなるのです。

 アレンツシルト将軍は次の書簡を認め諸官に署名を求めるとゲオルグ5世に面会するのでした。


「我ら臣下一同、恐縮するも真意を以て大元帥たる陛下に申し上げます。

1.我ら軍人軍馬は戦備が整わない中、5月19日以降連日苛烈な行軍を強い、その間の給養は乏しく時に絶え、加えて昨日の会戦により士官含め戦死者は多く、ここに至り全軍の疲弊も甚だしく休養無くしてこれ以上戦うことは出来かねます。

2.弾薬は消費激しく今後補充の望み薄となれば僅か一戦行う量を残すのみとなります。

3.既に明らかになっておりますが重ねて経理が申すには、糧秣糧食が底を突き掛けております。

4.敵は既に我ら四面を封鎖した模様で我軍は現在完全包囲下に置かれており戦況を一変する手段もありません。

 事情は以上の如くですので我ら臣下一同熟考するに敢えて一戦を賭し又は敵襲を受け専守に励むと謂えども無益の血を流すだけに終わるであろうこと確実であります。

 陛下。戦いを終わらせ和議を望まんことを我ら臣下一同切に願うものであります。

1866年6月28日

中将 フォン・アレンツシルト

少将 フォン・ヴァルデ

少将 フォン・デア・クネゼベック

少将 フォン・ボートマー

大佐 フォン・ビューロー=シュトレ

大佐 ド・ヴォー

大佐 ダンマース

大佐 フォン・ストルツェンベルク

大佐 フォン・ゲイソ

大佐 コーデマン       (筆者意訳)」


 ハノーファー国王ゲオルグ5世はこの進言を受けると暫し黙考した後に同意し、アレンツシルト将軍に「普軍に対し和議を申し入れる」よう、また「講和協議の権限を貴官に与える」として全権を委任するのでした。


挿絵(By みてみん)

ハイネマン コーヒーハウスに置かれたハノーファー軍野戦病院


 アレンツシルト将軍は28日午後、ゴータに赴きフリース将軍に面会を申し入れ、和議を申し入れる件を伝えました。

 ファルケンシュタイン将軍はフリース将軍からハノーファー軍が和議を申し入れているとの連絡を受けると急ぎ和約条件を練り、これを本営参謀のフリードリヒ・クサーヴァー・ヴィーベ少佐に託してハノーファー大本営へ送り出すのでした。28日深夜、ヴィーベ少佐と話し合ったアレンツシルト将軍はこの和約条件に多少手を加える(後述の第五条)とこれを承諾し、いよいよハノーファー軍の投降で終わるのかと思われた時、「マントイフェル将軍がベルリンの命を受け講和条件を話し合いにランゲンザルツァを訪れる」との先触れが届いたため、アレンツシルト将軍はヴィーベ少佐に対し「万が一マントイフェル将軍の示す条件が貴官と合意した講和条項より我軍に有利だった場合、貴官との合意は無効とする」と伝えるのでした。

 29日早朝。マントイフェル将軍はランゲンザルツァに到着し早速アレンツシルト将軍に面会を求めます。ところが、ファルケンシュタイン将軍の意を受けたヴィーベ参謀が先着し条件を仮決定した、と聞くと顔色を変え、ファルケンシュタイン将軍の本営がグロス=ベーリンゲン(アイゼナハの東北東14キロ)にあると聞くと直ちに向かい、ファルケンシュタイン将軍を捉まえると殆どケンカ腰に言い争いを始めたのです。

 ここでマントイフェルは「ベルリン」=国王からの直接命令により行動している、として「交渉は本官が行う」と言い張り、ファルケンシュタイン将軍も多少は粘ったもののウラに「ベルリン」が付いているのでは抵抗も虚しく、ならば「ヴィーベ少佐がアレンツシルト将軍に持参した文書を生かすのなら」と折れ、「後は貴官の好きにすればよい」と全権を譲ってしまいました。

 鬼の首を取ったかのようなマントイフェル将軍は、ランゲンザルツァのハノーファー軍本営に取って返し、辛抱強く待っていたヴィーベ少佐を同席させるとアレンツシルト将軍と交渉を行い、講和条約(ハノーファー王国からすれば降伏文書)を締結するのでした。


挿絵(By みてみん)

 ファルケンシュタイン歩兵大将


「プロイセン王国軍中将フォン・ファルケンシュタインからハノーファー王国軍との講和につきハノーファー王国軍中将フォン・アレンツシルトに捧げる書


我が軍少将フォン・フリースは本日、貴官から得た書状を本官に転送し、本官はこれに従い講和に付決定する。

本官は国王陛下の命令により先にヘッセン選帝侯国に示した条件と同様の条件にて貴官と協議を行う全権利を有するものである。

この条項の要旨は以下のとおりである。即ち貴国軍の将兵は全員故郷に帰還させるが、武器と軍装はこれを放棄せよ。士官は個人用の帯剣拳銃などを所持することを許可するが職責や給与については正式講和までこれを停止する。

本官は部下である参謀少佐ヴィーベにこの書を託し貴官に使わす。貴官は以上の条件を承認し講和の協議を行いたいと希望するならば書を以て本官に通知せよ。

ただし、武器弾薬その他軍需品引き渡しの件についてはヴィーベ少佐に委任し本官が与えた訓令によって貴官との協議を行うこととする。

1866年6月28日 グロス=ベーリンゲン本営において

プロイセン王国軍総司令官 フォン・ファルケンシュタイン 押印(筆者意訳)」


 ※ファルケンシュタイン将軍の講和決定書に添えたマントイフェル将軍の副書

「我が至高なる国王陛下は本官に命じて本朝歩兵大将男爵フォン・ファルケンシュタインとハノーファー王国軍総司令官中将フォン・アレンツシルトとの間に締結した講和条約に以下の説明を加える。

 我が国王陛下は真っ先にハノーファー王国軍の武勇を称賛するとの意を伝えるよう本官に命じた。その後、本官に次の条項を示しこれを講和条件とするよう命じた。


第一条 ハノーファー国王は王太子共々必要な臣下属員を従えハノーファー王国以外自由に移住することが出来る。また王家の資産は全て自らの意思で自由に整理することが出来る。

第二条 ハノーファー王国軍の士官および文官はプロイセン王国に対して再び戦わないことを約束しその武器、行李私物、馬匹を携行して去り、その給与、職権をそのままとすることを許し、またプロイセン王国よりハノーファー王国統治のため置かれる総督府に対して全て旧ハノーファー王国本国政府の下に有していた権利義務と同じ権利義務を有するものとする。

第三条 ハノーファー王国軍の下士官兵は携行武器、馬匹、弾薬をハノーファー国王が定めるところの士官及び文官に引き渡し、プロイセン王国に対して再び戦わないことを約束し、プロイセン王国の定める組分けに従って分散し鉄道により故郷へ帰還すること。

第四条 ハノーファー王国軍の武器、馬匹、その他軍備は第三条定めるところの士官及び文官が収集しプロイセン王国の任命委員に引き渡すこと。

第五条 ハノーファー王国軍総司令官フォン・アレンツシルトからの請求により特にハノーファー王国軍の下士官に対し最終の給与を支払うものとする。

1866年6月29日ランゲンザルツァにおいて

エルベ公国知事兼プロイセン王国宮中侍従武官*中将男爵フォン・マントイフェル 押印

ハノーファー王国軍総司令官 フォン・アレンツシルト 押印 (筆者意訳)」


 マントイフェル将軍は戦前「シュレスヴィヒ州総督」でしたが、普墺開戦前に墺領ホルシュタイン州を王の命令により占領し、この時点でシュレスヴィヒ=ホルシュタイン総督となっていました(67年2月まで)。但しシュレスヴィヒ、ホルシュタイン、ラウエンブルク三公国の総称である「エルベ公国」の「知事」(シュレスヴィヒ=ホルシュタインはこの時点ではまだ普王国の正規の「州」ではないため)に任命されたわけではなく、マントイフェルはこの時点で「第7軍団長兼普西方方面軍司令官」としてしか名乗れないものの階級は上のファルケンシュタインに対抗して名乗ったものと思われます。「宮中侍従武官」についてもハクを付けるため前・軍事内局長官という立場からそう名乗ったものと考えられます(長官を更迭されただけでは「侍従武官」としての立場は変わらないのかも知れませんが、これは調べ切れませんでした)。


挿絵(By みてみん)

 マントイフェル中将


 このハノーファー軍の名誉を守るため「講和条約」という名で交わされた「降伏文書」では、通常戦争が終わるまでは「捕虜」となる将兵が全員普軍と戦わないという中世以来の紳士協定「不戦の誓い」で放免されるという「甘い」裁定になっており、このことからも「ベルリン」が最初からハノーファーを併合するつもりであったことが分かります(ハノーファー軍は近い将来「身内=普軍」となり「戦友」となるため)。


 会戦翌日の28日、ハノーファー軍は前日夕刻の配置のまま警戒を解かずに休息し、すると昼過ぎ、ランゲンザルツァ市内に入った国王よりアレンツシルト将軍以下全将兵に対し感謝と称賛の言葉が贈られると、国王は軍令を発し普軍に対し和議を申し入れたことを告知するのでした。同時に会戦で捕虜となった普軍将兵917名を「糧秣が乏しい中で給養を施すことが不可能」としてこの日の午後「好きにしてよろしい」と市内外の臨時収容所から解放するのでした。


 翌29日。マントイフェル将軍との間で講和条約というものの実際は降伏文書に署名したアレンツシルト将軍は最後の軍命令を発し、士官文官の個人携行武器以外全ての武器と軍備を所定の場所に置き去るよう命じた後、全軍ゴータに向けて街道を南下し、この日はフリース将軍が指定したゴータ北郊の広地に普軍監視の中野営しました。


 30日からハノーファー軍将兵の本国送還が始まり、将兵は所属部隊毎に集合すると協定通り鉄道を使用してゴータからマグデブルク経由でヒルデスハイム及びツェレ(それぞれハノーファー市の南南東28.5キロと北北東36キロ)に向け出発しました。

 アレンツシルト将軍自身は7月4日にハノーファー市へ帰還し、従った幕僚と大本営の解散式を行うと翌5日、正式に国軍の解散を宣言しました。


挿絵(By みてみん)

 栄光のハノーファー軍


 ゲオルグ5世と王太子は6月29日夕、ランゲンザルツァからザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国のイェーナ(ゴータの東62キロ)に移り近郊の城館に身を寄せ、次いでアルテンブルク(ライプツィヒの南38キロ)に移動するとここも短日で引き払い、8月にはウィーンに移りました。王后と王女ら他の王族は暫くハノーファーに留まりましたが、やがてウィーンに移ることを許されゲオルグ5世と再会するのでした。


挿絵(By みてみん)

ランゲンザルツァ・浴場跡にあったハノーファー軍戦死者集団墓地


☆ こぼれ話

 「徒花」ヴェルフ兵団


 普墺戦争の終戦後66年9月20日。他の三邦(ヘッセン=カッセル、ナッサウ、フランクフルト)と共にハノーファー王国がプロシア王国に併合されました。

 プロシアの一州となったハノーファーでは、改めて普軍の「第10軍管区」(ブレーメン周辺地区を除くハノーファー州とブラウンシュヴァイク公国にオルデンブルク王国)が置かれ、旧ハノーファー王国軍将兵の多くが思いも様々に普軍に入隊し直します。

 普仏間の緊張が高まった66年秋のルクセンブルク危機の解決に英国が動き、その仲介で交わされた多国籍間条約の第二次ロンドン条約でルクセンブルクがオランダと同君連合となることと同時に普墺戦争の結果で崩壊状態にあった旧ドイツ連邦の「完全な終焉」が確認され、結果北ドイツ連邦の国際的な承認とプロシア王国が併合した地域がプロシア領土として認められました。これでプロシア王国によるハノーファー王国の併合は国際的にも承認されました。

 しかし既述の通りプロシアの併合に憤り従わない勢力も未だ多く、政治ではドイツ・ハノーファー党が結党され67年2月の選挙で9議席を得るという地域政党として成功を収めると、この党は反普で保守派の一角としてドイツ帝国成立後も存続しナチスが敵対政党を迫害し禁止した1933年まで続くのです。


挿絵(By みてみん)

 ランゲンザルツァ会戦慰霊塔


 一方、 最後のハノーファー国王でヨーロッパでもカペー家(仏のルイ王朝など)と並ぶ伝統を誇るヴェルフ家のゲオルグ5世は、ハノーファー軍が降伏すると一時オーストリアに移りますが、ハノーファー王国がプロシア王国に併合されると憤慨し、私財を投入して「私兵」を組織し、これをヴェルフェンレギオン、「ヴェルフ兵団」と名付けました。しかし、ゲオルク5世の資産を管理していた米国人で銀行家イスラエル・サイモンはこの件に関連し一時ベルリン当局に逮捕されています。

 玉座を奪われ領地もはく奪されたゲオルク5世は、プロシアへの併合により「国を失った」と感じゲオルグ国王への忠誠を誓ったのにプロシアに迎合しなくてはならないのか、と怒り悩む人々(国家公務員や軍隊)の葛藤を解くため、自ら国王への絶対忠誠の義務を解きましたが、多くが併合を受け入れ喜んでプロシア国民になった民衆とは別に、土地を奪われた貴族や役人、良心の呵責に苦しむ高級軍人たちに秘かに声をかけ、プロシア王国への抵抗を図ったのでした。

 兵団は最初ゲオルグ5世に懇願されたオランダ国王ウィレム3世の黙認によりオランダ王国内で創設され、当初数百名で1、2個中隊程度でした。しかし67年5月11日、前述の第二次ロンドン条約に署名したオランダ政府は、プロシア軍がルクセンブルク要塞から去ったことで「全ての外国軍隊の国外退去」を命じ、プロシア王国と事を構えたくなかったオランダ政府は、「私兵」のヴェルフ兵団に対しても退去命令を出したのでした。

 兵団は中立国スイスに移動し、この地で難民状態だったゲオルグ5世に忠誠を誓う旧軍の士官や兵士を受け入れ、大隊クラス(700名)に成長するのです。この間、ゲオルグ5世は王族と共にウィーンからパリに移住しますが、ゲオルグ5世は王位に対する執着を棄てず、公然とプロシアを非難し続け変わらず私財で兵団の維持を図ったためプロシア王国内でも問題になり始めました。

 1868年2月にゲオルグ5世はマリー王后と銀婚式を祝いますが、これを機に兵団はスイスよりフランスに移住します。翌69年プロシア王国下院は「ヴェルフ家による王国への敵意表明とヴェルフ兵団の存在」に対し「国内にあるヴェルフ家ゲオルグの財産差し押さえ」を議決しました。また、ヴェルフ兵団設立に関連し活動したとしてハノーファー王国最後の外務大臣男爵アドルフ・ルートヴィヒ・カール・フォン・プラーテン=ハラームントは1875年亡命先のオーストリアからザクセン(当時は既にドイツ帝国領)に入ったところで反逆罪により逮捕されています。


挿絵(By みてみん)

 ハノーファー王后マリー妃


 ヴェルフ兵団はゲオルク5世の私財と旧ハノーファー人多数からの寄付により維持されましたが、プロシアの陰日向に及ぶ様々な妨害によって1870年4月15日に正式解散されます。最後には1,400名と2個大隊級になっていた兵団の将兵は除隊の慰労金としてそれぞれ400フランを受け取り、必要な者には旅費も支給されました。その多くは反逆罪で起訴される可能性はあったもののハノーファーに帰りますが、一部の人間はアメリカやヨーロッパ各国に移住しました。特に調べてはいませんが、ひょっとすると普軍の一員として、または仏側のボランティア(義勇兵)として普仏戦争に参加した者がいたのかも知れません。


挿絵(By みてみん)

 パリのヴェルフ兵団士官たち


 生涯変わらずプロシアを憎んでいたゲオルグ5世はパリにいたまま普仏戦争を迎えますが、戦中、そしてパリ包囲中も特筆に値するエピソードはなく、戦後ドイツに連行されることもありませんでした。76年には英国陸軍から名誉陸軍大将に任命されますが、生涯イギリスで暮らさなかったのは、英国に行ってしまえば英国王族「カンバーランド公ジョージ」としての存在でしかなくなるという恐れと自らは王冠を棄てていない国王としての矜持、即ち世界中がハノーファーを「ドイツ帝国内プロイセン王国の一州」と認識していようが「ハノーファー国王」として存在し続けるという執念だったのでしょう。

 最後のハノーファー国王で英国名誉陸軍大将カンバーランド公爵ジョージ5世、正式名ゲオルク・フリードリヒ・アレクサンダー・カール・エルンスト・アウグストは1878年6月12日、パリのプレスブール通りにあった屋敷で亡くなります。享年59歳。遺体はパリで葬儀が行われた後英国に引き渡され英国王室の一員としてウィンザー城内のセントジョージ礼拝堂に埋葬されました。


挿絵(By みてみん)

パリ時代のゲオルグ5世(1874年・写真家ナダル撮影)




アレクサンダー・カール・フリードリヒ・フォン・アレンツシルト中将


 アレクサンダー・フォン・アレンツシルト将軍はナポレオン戦争中ドイツ・ポーランド戦役の当初1806年10月14日、ナポレオン軍のルイ=ニコラ・ダヴー将軍が自軍二倍のプロシア軍を潰走させ名を挙げた「イエナ=アルエルシュタットの戦い」当日にハノーファー王国のリューネブルクで生まれます。父は当時ロシア軍に従軍していたヴィルヘルム少将でナポレオン戦争後半、独の解放に活躍しています。因みにアレンツシルト家は元々ブレーメン自由都市の貴族でした。

 アレクサンダーは戦後14歳でハノーファー軍の士官候補生として歩兵連隊に勤務し軍歴を始め、22歳で中尉、39歳で大尉となりハノーファー歩兵第3連隊で中隊長となります。そのまま第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1848年)に従軍、49歳で少佐、52歳で中佐、54歳で大佐と順調に昇進しています。大佐昇進直後(1860年)第2旅団長となると63年、57歳で晴れて将官となりました。普墺の仲が最悪となる66年、59歳で中将に昇進すると共に国軍最高司令官に就任し国の存亡を賭けた普墺戦争に突入するのです。

 結果的にハノーファー王国軍最後の総司令官となってしまったアレンツシルト将軍は、ハノーファー王国が普に併合され消滅した67年3月、普軍は勝者の余裕で将軍を従前そのまま中将として迎え入れますが、将軍は多くの元ハノーファー軍士官がそうしたように「意地を通して」直後に引退。その後は世に出ることはなくハノーファー市で余生を過ごし81年5月15日、ひっそりと亡くなっています。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ