セダンの戦い/西部戦線・サン=ムニュ攻略
8月31日午後9時に発せられた独第三軍命令は、日付が変わる頃に相次いで普第5軍団と第11軍団本営へ通達されます。
普第5軍団長のフォン・キルヒバッハ歩兵大将と、普第11軍団長フォン・ゲルスドルフ中将は、この命令にある「ムーズ渡河」に関し、同時に5万を越える大軍が狭隘で数限られた渡河地点を越えるために生じる混乱を心配し、命令実行にあたって事前協議を行いました。
これにより第5軍団は、軍団工兵がドンシュリーの西郊外に架橋する予定の仮設橋を使って渡河し、第11軍団はドンシュリーの常設橋と31日に軍団工兵が架橋した仮設橋(ドンシュリーの西南西1.3キロ付近)を使用することが確認されます。
しかし、夜間行軍では森林高地帯を通過の際に遅延が生じるはずで、軍命令にある第11軍団が「先に」前進するとしても、最も遠方の第11軍団野営は第5軍団よりも遠くにあることを考慮し、速やかな前進のために「状況によっては第5軍団もドンシュリーの常設橋を利用可」とするのでした。
ところが、この「曖昧な」取り決めは後に混乱渋滞の原因となり、西部戦線の戦況に微妙な影響を与えてしまうこととなります。
普第5軍団はこの協議直後に緊急集合となり、午前2時30分、諸隊は宿・野営地を発してまずはオミクール(ドンシュリーの南南西8キロ)に達し、ここから街道(現国道D24号線)を北上して前衛は午前4時、ドンシュリーの西対岸のムーズ河畔に到着しました。
先行して架橋作業に入っていた工兵部隊は、前衛の到着前後に仮設橋(第11軍団橋のすぐ下流)を完成させ、前衛は直ちに仮設橋と許可の下りた常設橋を渡ってドンシュリー西郊外へ至り、指示されたヴィヴィエ=オー=クール(ドンシュリーの北西5.5キロ)方面へ前進します。
一方の第11軍団長フォン・ゲルスドルフ将軍はフォン・キルヒバッハ将軍との協議後、まずは糧食担当の幕僚に対し「出発前、全員にコーヒーを飲ませてやってくれ」と命じます。そして将軍は神妙な面持ちで続けました。
「今日は皆、大変な思いをすることになるだろうからな」
戦時、ましてや前線では希少で贅沢品と言えるコーヒーの「大盤振る舞い」をしたヘルマン・コンスタンティン・フォン・ゲルスドルフ将軍は、野戦指揮官一筋に軍歴を歩んで来た人で、当時60歳。1809年12月、シュレジエンはキスリングヴァルデ(現・ポーランドのスワブニコビツェ)の貴族でゲルリッツの地方高官だったヴォルフ・ルートヴィヒ・クリスティアンの子として生まれます。
ドレスデンの陸軍士官学校を卒業したヘルマンは、18歳で近衛歩兵第2連隊の少尉として軍歴をスタートさせます。成績優秀により24歳で陸軍大学に推薦され2年で卒業、猛者の集う近衛シュッツェン大隊勤務となりました。
31歳の時、選抜され士官交換留学生としてロシア陸軍に派遣、直後にコーカサス地方で延々と続くロシア軍の部族討伐侵攻戦(いわゆるコーカサス戦争)に参加、ウルプ川やアッサ川などの戦線で活躍しロシア帝国から数々の勲章を獲得、本国では大尉に昇進します。
この時一緒に従軍していたのは、普墺戦争で近衛第1師団長として従軍し、ケーニヒグレーツ会戦で戦死したヒラー・フォン・ゲルトリンゲン将軍や、普仏戦争ではバーデン軍などを率い、「ストラスブール攻囲」を指揮したアウグスト・フォン・ヴェルダー将軍などでした。
48年には第1次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争に従軍し、戦後44歳(やや遅い部類)で少佐に昇進、第16師団の本営幕僚となります。
この後は順調に昇進し、50歳で第4「マグデブルク」猟兵大隊長(中佐)、51歳で大佐に昇進し第67「マグデブルク第4」連隊長、55歳で晴れて少将となり第11旅団長に任命されると、直後に第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発し、あのマンシュタイン師団長(第6師団)の下で「ドゥッペル堡塁の戦い」や「アルス島上陸作戦」に参加して戦果を挙げると、66年の普墺戦争でもそのままマンシュタインの指揮下第11旅団を率いて「ミュンヘングレーツの戦い」や「ケーニヒグレーツの戦い」で活躍しました。
戦後、カッセルに新設された第22師団長に任命され、その直後中将に昇進、普墺戦争の結果普領となったチューリンゲンの小邦や旧カッセル、ナッサウ両公国の諸兵を鍛えます。
この第22師団長のまま普仏戦争を迎えたヘルマンは、新たに第11軍団長となったボーズ将軍の下でヴァイセンブルク、ヴルトと連戦し、ヴルト会戦でボーズ軍団長が重傷を負って本国に送還されると第11軍団長に昇進、運命の9月1日を迎えたのでした。
ゲルスドルフ将軍
第11軍団諸隊は概ね午前3時前後に宿・野営を発し、ドンシュリーの既設橋を利用してムーズを渡河します。
ただし、ヴァンドウレスで大本営を護衛した後、後方の安全確認をしてから前線に向かった第94「チューリンゲン第5」連隊(特にF大隊の一部は夜間行軍で行軍路を誤り更に遅れます)や、フュージリア第80「ヘッセン=カッセル」連隊長フォン・エッティンガー中佐率いる連隊と猟兵、驃騎兵、砲兵などの行軍列は、同じドンシュリーを目指した第5軍団の一部と交錯して混乱が発生、一時本隊から大きく離れムーズ河畔で待機を強いられるのでした。
これ以外の第11軍団諸隊は順調に午前5時15分前後ドンシュリーの北郊外へ進出し、三本の縦列(東から第41旅団主幹の縦列、第42、44旅団と軍団砲兵の縦列、第43旅団主幹の縦列)を作って第5軍団の右翼(東)側を北上するのでした。
ヴュルテンベルク王国(W)師団は午前5時30分、第5軍団の左翼(西)側、ドン=ル=メニル(ドンシュリーの西5キロ)付近のムーズ川に急ぎ架橋作業を始め、午前6時に完成を見ると直ちにW第3旅団を渡河させ、旅団はヴィヴィエ=オー=クール目指して北進しました。
この旅団は目標に到達するとしばらくは仏第13軍団を警戒してメジエール方面に対し西向きに布陣します。
普騎兵第2師団はこのW師団と合流する命令を受け、午前5時に野営地を発つとヴァンドウレスからドン=ル=メニルを目指しました。
普第5軍団の前衛(フォン・モンバリー少将率いる普第20旅団主幹)は午前7時30分にヴィヴィエ=オー=クール付近に到着し、ほぼ同時刻、第11軍団三本の縦列前衛も、それぞれヴリーニュ=オー=ボワ(ドンシュリーの北北西4.8キロ)、ブリアンクール(ドンシュリーの北3.4キロの小部落)、モンティモン(ドンシュリーの北北東3.8キロの家屋群)に到着しました。
それぞれの前衛たちはこの地に至るまで一人の仏斥候も見ず、妨害も受けることはありませんでした。
第三軍本営の首席参謀フォン・ハーンケ少佐は、フリードリヒ皇太子が新たな軍命令「軍は右旋回しサン=ムニュ(ヴリーニュ=オー=ボワの東5キロ)方面へ前進せよ」を発する(午前7時30分)と、これを伝えるため第5軍団の前衛を追い、普皇太子の変更命令を伝えたのです。
精力的なハーンケ参謀はこの後、軍の先頭部隊を巡りつつ前進しますが、後刻榴弾の破片を浴びて負傷してしまいました。
前衛と共にヴィヴィエ=オー=クールに至った普第5軍団長フォン・キルヒバッハ大将は、ハーンケ参謀から皇太子の意志を聞き及ぶと、「なるべく速やかにマース軍との連絡を通して、敵がベルギーへ逃走を図るのを阻止するため」軍団の目標をフレニュー(イイの北西1.5キロ)と指定するのでした。
こうして軍団長に急かされ、普第5軍団前衛支隊は午前8時過ぎ、既に第11軍団前衛が到着していたヴリーニュ=オー=ボワへ向かうのです。
一方、第11軍団長フォン・ゲルスドルフ中将はキルヒバッハ将軍より一足先に皇太子の変更命令を受ける(皇太子の発令直後、午前7時30分過ぎと思われます)と、「右(東)縦列はムーズ川とファリゼットの森(ムーズ大湾曲部の頂点北側の大森林)との間の隘路(現国道D5号線)を通過してサン=ムニュへ向かい、その他はこれに続いて東へ進め」と命令するのでした。
この突然の命令変更は諸隊に多少の混乱を呼び、既にボスヴァル(=エ=ブリアンクール。ヴリーニュの北東2.5キロ)まで北進していた第88「ヘッセン=ナッサウ第2」連隊のF大隊は命令受領が遅れ、後落してしまいました。
後続部隊の混乱を恐れたゲルスドルフ将軍は、左翼縦列にいた第22師団長、オットー・ベルンハルト・フォン・シュコップ少将を右翼縦列まで呼び出します。
シュコップ師団長は急ぎヴリーニュ=オー=ボワを出る際、左翼縦列を率いる第43旅団長のヘルマン・フォン・コンツキー大佐に対し、「このまま東進してサン=ムニュを目指せ」と命じて去りましたが、間もなく出立した旅団は東側の森林内で道を間違えて進んでしまい、森から出るとそこは右翼縦列が通過したモンティモンでした。
ムーズ大湾曲部の「頂点」へ進むはずが、その「左側面」に突き当たってしまったコンツキー大佐は、慌てて旅団を川に沿って北上させ、午前11時にはメゾン・ルージュの家(ヴリーニュ=オー=ボワの東2.5キロ。現D5号とD24号の交差点南東にあった家屋。「隘路」の入り口)に到着しますが、既に「ファリゼットの隘路」には第5軍団の部隊が前進中で、後続部隊による渋滞が発生していたのです。
第5軍団前衛は反応良くヴィヴィエ=オー=クールから「ファリゼットの隘路」へ突進し、同じく隘路を抜けて東進すべく命令されていた第11軍団の右翼縦列と中央縦列の間に入り込んでしまっていたのでした。
これ以前の午前8時頃。
軍団長の訓令を受けた後にメゾン・ルージュへ進み、渋滞と混乱が始まったのを目の当たりにしたフォン・シュコップ師団長は、第5軍団の前衛を先に通すことを決断し、セダン~メジエール街道の酷い渋滞が多少は緩和されるまで我慢して待ちます。その後、この「足踏み」の間に追い付いた第94連隊の第1、2大隊を加えた第22師団の本隊は、ムーズ川に沿って20分ほど前に右翼縦列が向かったサン=アルベール(サン=ムニュの西800m)へ向かい、第5軍団前衛と後続部隊はその左方斜面を苦労しながらサン=ムニュへ向かって前進するのでした。
仏シャロン軍は当初、セダンの西側における独軍の行動を察知出来ず、東ばかりでなく西側からも危機が迫る中、ほとんど手を講じないまま「成り行き任せ」となります。
イイ郊外で野営したジャン・オーギュスト・マルグリット少将の予備騎兵第1師団の一部は、午前6時にイイを経由して南下しますが、独軍の行軍を一切探知することが出来ませんでした。
軍の指揮がデュクロ将軍からヴィンファン将軍へ変わった頃、ようやくイイの西側にも斥候が出され、この斥候隊は午前8時頃サン=アルベール付近で普軍の驃騎兵部隊を発見するのです。
この普軍騎兵は驃騎兵第14「ヘッセン=カッセル第2」連隊の2個(第2,3)中隊で、普第11軍団の先陣となっていた部隊でした。
セダン会戦西部戦線で最初の戦闘はわずか数分、数に優った普軍驃騎兵が勝利を収め、仏軍斥候隊は急ぎサン=ムニュへ退却しました。
普軍驃騎兵は直ちにこれを追ってサン=ムニュに迫りますが、部落には仏第7軍団のリーベル師団から派出された2個大隊と、シャルル・フレデリック・ドゥ・ボヌマン少将の予備騎兵第2師団所属の胸甲騎兵2,3個中隊がおり、猛銃撃を受けた普騎兵はサン=アルベールへと退却するのでした。
サン=ムニュが仏軍拠点となっていることを知ったゲルスドルフ将軍は、軍団前衛となってサン=アルベールに到着していた第87「ヘッセン=ナッサウ第1」連隊F大隊に対し、「直ちにサン=ムニュを攻略せよ」と命じます。
大隊はフィリップ・エバーハルト・フォン・フィッシャー=トロイエンフェルト大尉が指揮を執り部落に突進しますが、仏軍守備隊は先ほどの驃騎兵接近後に急ぎ撤退したものか、部落からは散発的な銃撃しか起こりませんでした。これに構わずF大隊は突撃を敢行し、午前8時過ぎ、要地サン=ムニュはほとんど抵抗らしいものがないままで普軍に占領されるのでした。
追って到着した第87連隊第1、2大隊は部落を抜け、その東郊で敵がいるはずのイイに面して布陣します。
この午前8時30分過ぎ、午後に発生する「セダン・チャージ」の前兆とも言える「朝の突撃」が仏マルグリット少将率いる予備騎兵第1師団によって行われましたが、第87連隊の防戦で撃退されました(後述します)。
一方、同連隊F大隊の2個(第10,11)中隊と第2大隊の第8中隊は更に南下を企て、第11中隊はフロアン(サン=ムニュの南1.8キロ)に続く街道(現国道D6号線)の東側にある812高地(標高フィート。約266m。サン=ムニュの南東900mにある)の森を占拠し、第8と10中隊はフィッシャー=トロイエンフェルト大尉が直率して午前9時少し前、フロアン部落入口付近で守備隊と戦闘を交え、部落の北にあった2軒の農家を奪取した後、敗走する仏兵を追って部落北西角に突入しました。
仏軍は逆襲に転じますが、この2個中隊は大尉の指揮下で統制射撃を繰り返し、迫る仏軍を押し返します。その後フィッシャー大尉は2軒の農家に急ぎ防御を施して以降、増援が到着する2時間後に至るまで激しい攻防を独力で展開したのでした。
歩兵の前進と同時に砲兵もまた前進し戦闘に加わります。
普第22師団砲兵の軽砲2個中隊(野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊軽砲第3,4中隊)は驃騎兵第13「ヘッセン=カッセル第1」連隊の第1,2中隊に護衛され、中央の縦列先頭を前進していました。この集団を指揮していたのは驃騎兵第13連隊長のヴィルヘルム・コンラート・アウグスト・フォン・ホイドゥック中佐で、中佐は前進中、師団本営より「左翼縦列の第43旅団に配属された連隊の半分をも掌握し、連隊全体でサン=ムニュに向かう師団の左翼(北。森林)を援護せよ」との命令を受けるのです。
ところが中佐は「残りの部下がいる第43旅団は既にサン=ムニュへ向けて転進しているはず(実際は中佐隊の後方にありました)」と考え、騎・砲兵各2個中隊を引き連れて右へ旋回し、隊に早駆けを命じて前方を行く軍団右翼縦列脇をすり抜けて「隘路」を突進し、軍団前衛の到着とほぼ同時にサン=ムニュ近郊に達します。
前線に達した驃騎兵4個(第14連隊第2,3と第13連隊第1,2)中隊はサン=ムニュ攻略後に一時、その西郊外で待機となり、師団砲兵の軽砲第3,4中隊と、前衛(第87連隊)と共に前進して来た軍団砲兵隊所属の軽砲第5中隊は、そのまま部落南方の高地(前述の812高地尾根北部)へ前進し、第87連隊第11中隊が護る812高地上の森北東角に砲列を敷き、午前8時過ぎ、フロアンからカルヴァイル・ドゥ・イイ(フロアンの東北東2.8キロ)に至る高地尾根に展開している仏第7軍団と第5軍団砲兵に対し砲戦を開始するのでした。
しかし仏軍の砲兵は優に数倍し、その対抗砲撃はまた凄まじいものがありました。
普軍砲列の右翼(北東)にあった軽砲第4中隊は特に狙われて、砲撃戦僅かで中隊の半分(3門)が砲員の損害と激しい砲撃により砲撃不能となって後退せざるを得ないこととなりました。
また、軽砲第3中隊は後方より戦場に現れた軍団砲兵隊が砲撃を開始したため、敵・味方砲列の間に挟まってしまい、まずは高地西へ撤退すると再び迂回前進して、軽砲第5中隊の砲列左翼に連なって砲撃を再開するのでした。
フォン・ゲルスドルフ将軍は午前9時少し前、敵仏軍の展開状況を確認するため幕僚を引き連れて前線に到着し、812高地から観察した結果、軍団の持つ砲兵全力で東側の仏軍散兵線を叩くことを決し、副官を砲兵の縦列に向かわせ、行軍を急がせるのでした。
第11軍団砲兵は、軍団砲兵部長カール・ゲオルグ・エルンスト・フリードリヒ・ハウスマン少将が統一指揮を執り、到着次第順次812高地尾根に展開します。
軍団砲兵隊(野戦砲兵第11連隊・第3大隊と騎砲兵大隊)は午前10時頃にはその全中隊が前線に到着し、隊長のクニッパー少佐は遅れていた重砲第1中隊と軽砲第2中隊(2個中隊とも第21師団砲兵)をも引き連れていました。
クニッパー少佐らは「ファリゼットの隘路」を苦労しながら通過後、一部は道を外れて北東側の高地森林へ迂回し、一部は早駆けして歩兵の行軍列の脇を抜け、出来る限り早くに戦場へ到着したのでした。
まずは騎砲兵第3中隊が、半数となっても奮戦する軽砲第4中隊の左翼(南西)側に到着して砲列を敷き、アルノルド少佐率いる3個(軽砲第6、重砲第5,6)中隊は北部の森からサン=ムニュ部落を抜けて812高地尾根を登って騎砲兵第3中隊の左翼側に達して砲列を敷きました。騎砲兵第1中隊と軽砲第2中隊も高地斜面を登って到着し、砲列の隙間に入ります。残った重砲第1中隊は最初サン=アルベール付近の高地上に砲列を敷きますが、間に味方砲列があることと敵までの距離が遠かったことで再度前進し、812高地の南西側森の縁に砲列を敷き、砲列右翼端となりますが、南東側の仏軍陣地線に隠蔽されていたミトライユーズ砲中隊から集中砲撃を喰らってしまい、著しい損害を受けて砲手と牽引馬匹を失ったため、以降弾薬縦列より兵員と馬匹の補充を受けて戦い続けるのでした。
軍団残りの砲兵4個中隊も、午前10時過ぎに相次いで戦場に到着しました。
コンツキー大佐の第43旅団と共にモンティモンへ到着してしまったフォン・ウスラー少佐率いる重砲第3,4中隊は、旅団に先行して「隘路」を突破しサン=アルベールに向かいますが、途中普第5軍団の行軍列の渋滞に巻き込まれ、午前11時になってようやく重砲第1中隊を挟む形で砲列を敷くことが出来ました。この3個中隊の砲列は以降フロアンの仏軍守備隊に対して砲撃を行うのです。
フォン・ティール少将率いる第42旅団と共に前進した重砲第2及び軽砲第1中隊は、サン=アルベールに到着後サン=ムニュからフレニューへ向かう街道(以降フレニュー街道)沿いに展開しますが、敵までの距離が遠かったため更に前進し、812高地尾根の砲列最左翼に砲を敷いたのでした。
サン=ムニュ西郊外で待機していた驃騎兵4個(第14連隊第2,3と第13連隊第1,2)中隊は、砲列が仏軍と激しい砲撃戦を行い始めると、その左翼(北)側を護るためフレニューへ向かいます。
第83「ヘッセン=カッセル第3」連隊の第1大隊は軍団砲兵隊とほぼ同時にサン=ムニュ南方の戦線に到着し812高地尾根の森の側方へ展開しましたが、この内第3中隊と第4中隊の1個小隊は危機に陥った重砲第1中隊を援護するため森の南側へ進みます。
この砲列南側がフロアン方面からの仏軍によって危険な状態にあると考えた第11軍団参謀長のオスカー・ヴィルヘルム・スタイン・フォン・カミンスキー少将は、軍団長の許可を得ると自ら砲列右翼側の防衛を指揮するため現地に向かいます。
将軍は多分、砲列護衛の方針と陣地構築を指導した後、本営に帰ろうと考えていたのかもしれませんが、流動する戦況はそれを許さず、この後カミンスキー将軍は僅かな手勢(先ほどの1個と4分の1中隊)を駆使して、砲列が放つ榴散弾や霞弾に大いに助けられつつ、仏第7軍団の突撃に次ぐ突撃を阻み続けることとなるのです。
カミンスキー
その他の第83連隊(第2とF大隊。第94「チューリンゲン第5」連隊の第5中隊も同行)はゲルスドルフ軍団長の命令で予備に指定され、サン=ムニュ南郊外に待機となり、同時に到着した軍団工兵第2中隊はサン=アルベールに留まりました。
当初ブリアンクールに進んだ第42旅団は、命令変更によってまずはモンティモンへ移動し、その後クニッパー少佐の軍団砲兵隊と並走しつつ午前8時過ぎ、その前衛が占領されたばかりのサン=ムニュへ到着します。
砲撃戦が激化する中、旅団はゲルスドルフ将軍から砲兵援護を命じられ、第88「ヘッセン=ナッサウ第2」連隊の第1大隊はフレニュー街道の路肩、砲列の左翼後方に進み、同第2大隊は812高地尾根の森縁に展開しました。
第82「ヘッセン=カッセル第2」連隊は砲列の両方向に分割され、第1大隊と第9,11中隊が危機迫るフロアン北方高地上の戦線へ進んで強力な増援となり、第2大隊と第10,12中隊は砲列左翼の前方で、イイに面して布陣します。
第82連隊の指揮官、伯爵ヴィルヘルム・フォン・シュリーフェン少佐は、イイと対峙した6個中隊を直率していましたが、布陣して程なく、前方イイ方面で仏軍騎兵の動きを望見し、「これは我が左翼(北側)を迂回し後方(西)へ回り込む機動」と読み、直ちに第6中隊を後方援護に残すと仏軍騎兵と対抗するため5個中隊でフレニューまで前進しました。
シュリーフェン少佐はこの時、同じく853高地(標高フィート、約280m。イイの北西700m付近)の南側斜面でイイに対峙していた第87連隊の第9,12中隊に対し「カルヴァイル・ドゥ・イイに向かって前進せよ」と命じます。
気になる方もいると思うので余談を記しますが、「伯爵フォン・シュリーフェン少佐」とは、あの「シュリーフェン・プラン」を構想した独帝国軍第3代参謀総長のアルフレート・フォン・シュリーフェン伯爵、ではなく、親戚筋で4歳年上のエデュワルト・カール・ヴィルヘルム・フォン・シュリーフェン少佐(後に中将まで昇進)です。
有名なアルフレートの方は普仏開戦時大尉、メクレンブルク=シュベリーン大公フリードリヒ・フランツ2世付きの次席参謀として、北海からデンマーク、バルト海沿岸防衛や後方業務に携わり、戦争中少佐に昇進しました。
さて、第87連隊の2個中隊がイイ方面からの銃撃を無視して斜面を下り、先頭を行く両散兵小隊がイイ~フロアン街道(現D205号線)に達した時(午前8時30分過ぎ)。
セダンの戦いでも有名な「マルグリット騎兵師団の突撃」の第一弾、「朝の突撃」が始まるのです。
9月1日12:00のサン=ムニュ周辺
※9月1日早朝の普第11軍団行軍序列
◎普第11軍団
軍団長 ヘルマン・コンスタンティン・フォン・ゲルスドルフ中将
◇第21師団 ハンス・フォン・シャハトマイヤー中将
シャハトマイヤー
☆モンティモン(ドンシュリーの北北東3.8キロ)を経由して北上する右翼縦列
○第41旅団 フリードリヒ・フォン・グローマン大佐
*驃騎兵第14「ヘッセン=カッセル第2」連隊・第2中隊 パウル・ヒルマ・ヴァーナー・フォン・シェーンフェルト大尉
*第87「ヘッセン=ナッサウ第1」連隊 シュルツ少佐
・F大隊 フィリップ・エバーハルト・フォン・フィッシャー=トロイエンフェルト大尉
・第2大隊 フォン・グローテ少佐
・第1大隊 ストリッター大尉
*野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊軽砲第5中隊 フォン・ギルシェン大尉
*第11軍団第1衛生隊第2分隊
☆ブリアンクール(ドンシュリーの北3.4キロ)を経由して北上する中央縦列
○第42旅団 ルートヴィヒ・フォン・ティール少将
フォン・ティール
*驃騎兵第14「ヘッセン=カッセル第2」連隊・第3中隊 フォン・レーヴェンシュタイン大尉
*第88「ヘッセン=ナッサウ第2」連隊・F大隊 男爵フォン・ヒルゲルス少佐
*野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊重砲第2中隊 エンゲルハルト大尉
*野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊軽砲第1中隊 ノルマン大尉
*第88「ヘッセン=ナッサウ第2」連隊 プロイス中佐
・第2大隊 フォン・ツグリニッツキー中佐
・第1大隊 ハイエ少佐
*第82「ヘッセン=カッセル第2」連隊 伯爵ヴィルヘルム・フォン・シュリーフェン少佐
・第1大隊 フォン・ルコヴィッツ大尉
・第2大隊 フォン・マルシャル少佐
・F大隊 フォン・フェルゼン大尉
*驃騎兵第14「ヘッセン=カッセル第2」連隊・第4中隊 フォン・リース=ヴィルコー大尉
*第11軍団第1衛生隊第1分隊
○第11軍団砲兵隊 クニッパー少佐
*野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊・第3大隊 アルノルド少佐
・軽砲第6中隊 ケーネ(弟)大尉
・重砲第5中隊 ティール中尉
・重砲第6中隊 ヴットシュタイン大尉
*野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊・騎砲兵大隊 フォン・オーネゾルゲ大尉
・騎砲兵第1中隊 スパツール少尉
・騎砲兵第3中隊 パウルス中尉
*猟兵第11「ヘッセン=カッセル」大隊・第1,2中隊 フォン・ヴァンゲンハイム大尉
*第11軍団第3衛生隊第1分隊
※第2分隊は8月2日以来普騎兵第4師団に所属。
*野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊重砲第1中隊 ノイマン大尉
○第44旅団 アルトゥール・マルシャル・フォン・ビーバーシュタイン大佐
*驃騎兵第13「ヘッセン=カッセル第1」連隊・第1,2中隊 連隊長ヴィルヘルム・コンラート・アウグスト・フォン・ホイドゥック中佐
*野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊軽砲第4中隊 フォン・ヘッペ中尉
*野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊軽砲第3中隊 ゴスラー大尉
*第83「ヘッセン=カッセル第3」連隊・第1大隊 エグベルト・フォン・ショルレマー少佐
*第11軍団野戦工兵第2中隊 エッケルト大尉
*第83「ヘッセン=カッセル第3」連隊 ヴェーバー中佐
・第2大隊 フォン・ヨーン=フライエンド大尉
・F大隊 モイエ大尉
*第94「チューリンゲン第5」連隊・第5中隊 シュネー・フォン・シュネビューヘラー大尉
◇第22師団 オットー・ベルンハルト・フォン・シュコップ少将
☆ヴリーニュ=オー=ボアを経由して前進する左翼縦列
○歩兵第43旅団 ヘルマン・フォン・コンツキー大佐
*驃騎兵第13「ヘッセン=カッセル第1」連隊・第3,4中隊 フォン・グリースハイム少佐
*第32「チューリンゲン第2/ザクセン=マイニンゲン」連隊
オットー・フォン・フェルスター大佐
・第2大隊 フェルディナント・フォン・ツォイナー中佐
・第1大隊 フォン・ホルツェンドルフ少佐
・F大隊 フィッシャー少佐
*第95「チューリンゲン第6」連隊
アルベルト・カール・フォン・バッセヴィッツ中佐
・F大隊 ラウベ少佐
・第2大隊 フォン・ガイエッテ少佐
・第1大隊 ヴィッペルト大尉
*第11軍団野戦工兵第3中隊 ケスター大尉
*野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊・第2大隊 フォン・ウスラー少佐
・重砲第4中隊 ライヘルト大尉
・重砲第3中隊 フォン・バルデレーベン中尉
*第11軍団第2衛生隊
☆アノニュ=サン=マルタン(ドンシュリーの南西4キロ)から後発し、モンティモンで第43旅団行軍列に加入した部隊
*第94「チューリンゲン第5」連隊
ユリウス・アントン・カール・フォン・ベッセル大佐
・第1大隊 フォン・ネッケラー少佐
・第2大隊 フォン・シャウロート少佐
☆ヴァンドウレスから後発し、午後4時前線に到着した部隊
*第94「チューリンゲン第5」連隊・F大隊 フォン・ゼリュー少佐
☆ドンシュリーで第5軍団による渋滞のため橋梁を渡れず待機した部隊
*驃騎兵第14「ヘッセン=カッセル第2」連隊・第1中隊 フォン・コロンブ大尉
*猟兵第11「ヘッセン=カッセル」大隊・第3,4中隊 ドルヴィル大尉
*野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊軽砲第2中隊 フライベルク中尉
*フュージリア第80「ヘッセン=カッセル」連隊 フォン・エッティンガー中佐
・第3大隊 フォン・ベロウ少佐
・第2大隊 フォン・レンゲルケ大尉
・第1大隊 ゲオルグ・フォン・シュトランツ大尉




