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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
286/534

セダンの戦い/普近衛軍団前進す(後)

9月1日12:00のジヴォンヌ周辺


挿絵(By みてみん)


 連隊長を失った近衛砲兵連隊砲列の右翼(北)は、ガレンヌ森とその北側に集合する仏軍を目標に砲撃を開始しました。

 しかしこの時、砲列と目標との直線距離は3キロ以上もあり、射程距離ぎりぎり(当時の普軍クルップ砲は重・軽砲共に最大射程3,400mです)だったため、効果は余り期待出来ませんでした。しかも、仏軍はその主力がガレンヌ森へ退却し、騎兵は更にその北方まで退却したため、射程はますます延びて行きます。果敢に対抗していた仏第1軍団砲兵も徐々に後退を始めました。しかし、ラ・シャペルの歩兵部隊は未だ戦意衰えず、目前の敵(普近衛フュージリア連隊の右翼)と銃撃戦を交わすと同時にその一部が南下し、近衛軍団砲列の後方(東側)へ回り込もうとしたため、砲列右翼は北からの脅威に対抗すべく砲口をラ・シャペル方向へ向けて榴散弾を発射し、この敵の企画を挫いたのでした。


 こうして全軍、ヴィレ=セルネを経て西へと押し出そうとしたアウグスト王子でしたが、ラ・モンセルからデニーにかけての前線で膠着状態となった第12軍団長ゲオルグ王子から「デニー方面への援軍をお願い出来ないか」との要請が届くと、ヴィレ=セルネ西林に接近中だった近2師砲兵(近衛野戦砲兵連隊第3大隊)に命じ、林中の高地尾根開墾地に砲列を敷かせ、ジヴォンヌ川西岸の敵陣地を砲撃させて間接的にS軍団を援護しようとします。

 ところが午前9時直前、マース軍本営から伝令士官が到着し、「近衛軍団はジヴォンヌ占領後に右旋回し、フレニュー(イイの北北西1.5キロ)に向かえ」との命令を伝えたのでした。

 その頃、軍団砲兵が砲列を敷き、近1師本営も前進していた1023高地(標高フィート。約312m。ヴィレ=セルネ西林の北端付近)では、友軍の第三軍がセダンの北西側サン=ムニュ(イイの西2.5キロ)で戦闘を開始する様子をはっきりと望見することが出来たのです。


 状況が自軍有利に傾きつつある中、セダンを包囲する機会が訪れたことを悟ったアウグスト王子は、「デニーに総力を傾注してしまうと、ザクセン王太子の命じたフレニューへの前進が遅れてしまう」と考え、「デニーへは敵の前進を阻むに足る戦力のみ(1個師団)を供出し、軍団の残り(歩騎兵各1個師団と砲兵)は第三軍の左翼(北)と連絡するため(=セダン包囲の完成)、ジヴォンヌを抜いて北西へ進む」と決心するのです。

 しかし、「グラヴロット会戦」におけるサン=プリヴァの戦闘で、S軍団と競うかのように闇雲に突進したため、多くの将兵(王子と苦楽を分かち合った旧知の貴族士官も多数含まれます)を失った経験があまりにも生々しいアウグスト王子は、「前進に先立っては砲兵を活用して、敵の側面を前進するための準備を十分に行った後の行軍開始とする」とするのでした。


 アウグスト王子は1023高地に赴いて、ここで指揮を採るフォン・パーペ将軍やフォン・ブッデンブローク少佐に今後の指示を出すと、午前10時から11時の間に矢継ぎ早に次の主旨の命令を発するのです。

「シュヴァリエ森に進んだ近2師(既に午前10時頃、近1師を追うようにしてヴィレ=セルネから西へ進んでいます)はデニーに向け前進し、もし仏第12軍団が攻撃して来た場合は防戦せよ。

軍団砲兵部長ホーヘンローエ=インゲルフェンゲン少将は騎砲兵、師団砲兵含む軍団所属の砲兵全て(15個中隊)を掌握し、ジヴォンヌ川東岸高地に砲列を敷いて左翼はS軍団を援助し、その他は川を越えて前進する軍団歩兵を援護せよ。

騎兵師団はイイ方面へ進んで第三軍との連絡を確実にせよ」


 「サン=プリヴァの悪夢」を繰り返さない決意をなしたアウグスト王子の命を受け、公爵クラフト・カール・アウグスト・エドュワルド・フリードリヒ・ホーヘンローエ=インゲルフェンゲン王子は、軍団砲兵総力を挙げての猛砲撃を準備しました。


挿絵(By みてみん)

プリンツ・ツー・ホーヘンローエ=インゲルフェンゲン


 近2師砲兵(軽砲5,6、重砲5,6中隊)はアイブに対面する東側高地尾根(デニー北東1キロ付近)に砲を並べ、最初はセダンからジヴォンヌへ至る街道の屈曲部(現国道D977号線。屈曲部はジヴォンヌ部落南縁。以降ジヴォンヌ街道)に土塁を造って銃撃を行っていた仏軍陣地を砲撃しました。しかし、この時にはS軍団第103と第104連隊らのデニー攻撃が佳境となっており、誤射をおそれてデニー部落への直接砲撃は出来ず、またこの位置ではデニー西郊外やラ・ラパイユに陣を敷く仏軍を砲撃出来なかったため移動を開始、ヴィレ=セルネとデニーを結ぶ林道に接近すると左翼(南)側を後退させてS軍団砲列の右翼(既述通りB軍砲兵2個中隊が既に砲列を敷いていました)に連携するよう陣地を転換するのでした。

 この近2師砲兵と近1師砲兵の間は、騎兵師団から離れて駆け付けた近衛騎砲兵3個(第1,2,3)中隊が埋めます。彼らは午後12時30分頃にヴィレ=セルネ西林の南東側高地(870高地。標高約265m)へ砲列を敷き、ほぼジヴォンヌ部落に正対し砲撃を開始します。

 こうして近衛軍団は左翼(南)に8個、右翼(北)に6個の砲兵中隊を並べ、猛烈かつ正確な砲撃を仏軍に浴びせたのでした。


※午後12時30分頃の普近衛軍団砲兵中隊砲列(南から北へ)

○ヴィレ=セルネ~デニー街道沿い870高地までの部分(左翼)

(デニーの北東1km付近から北へ)

・重砲第5(近2師砲兵)

・軽砲第5(近2師砲兵)

・軽砲第6(近2師砲兵)

・重砲第6(近2師砲兵)

(100mほど北東に離れて)

・騎砲兵第3(軍団砲兵)

・騎砲兵第2(軍団砲兵)

・騎砲兵第1(軍団砲兵)

(800mほど北東に離れて)

・重砲第1(近1師砲兵)

○ヴィレ=セルネ西林西縁から北端までの部分

(ジヴォンヌの東北東1200m付近・林の西縁)

・重砲第2(近1師砲兵)

・軽砲第2(近1師砲兵)

・軽砲第1(近1師砲兵)

(800mほど東・林の北端)

・重砲第3(軍団砲兵)

・軽砲第3(軍団砲兵)

・重砲第4(軍団砲兵)

(200mほど南東)

・軽砲第4(軍団砲兵・予備※)

※この中隊は正午頃それまで予備として後方に控えていた重砲第3中隊と交代しました。


 デニーに向けて前進し、北西へ進撃を図る近1師の左翼側を護ることとなった近2師団長フォン・ブドリツキー中将は、近衛第4旅団を先行させてデニーへ向かわせますが、「デニーへの前進はあくまでS軍団の援助」と考えた将軍は旅団に対し、部落中央を流れるジヴォンヌ渓谷を越えて西へ進むことを禁じました。

 近2師の先頭に立ったのは近衛擲弾兵第2連隊で、その第1大隊が先行してデニー部落に向かい、既にS軍団により占領された部落の北東辺に布陣しました。後方から接近した同連隊第2大隊中、第5,6中隊は第1大隊の左翼やや後方に連なり、連隊残りの中隊は予備として部落東南方のジヴォンヌ渓谷縁に留まります。

 近衛擲弾兵第4連隊は近擲弾兵第2連隊の東側で行軍列のまま停止し、近衛第3旅団はブドリツキー師団長の命令によりヴィレ=セルネ南西方のシュヴァリエ森北端付近で停止すると待機に入りました。また、師団騎兵の近衛槍騎兵第2連隊は第3旅団の左翼(南)側に付く形で後命を待ったのです。


挿絵(By みてみん)

デニーの戦い(戦後独の絵葉書)


 近1師本隊がヴィレ=セルネ西林に進むと、パーペ師団長は前衛のフュージリア連隊への増援とするため、近衛歩兵第4連隊第1大隊(輜重護衛の第4中隊欠)と第2大隊をジヴォンヌ部落へ前進させます。しかし、部落ではフュージリア連隊が足場を固めて掃討戦段階となっていたため、両大隊は一時ジヴォンヌ部落東の高地斜面に散兵線を敷き、ジヴォンヌ川対岸の高地尾根斜面に陣を敷く仏第1軍団の散兵線と銃撃戦を行うことでフュージリア連隊を間接的に援助したのでした。


 このように午前11時時点では、ジヴォンヌ渓谷西縁には未だ仏第1軍団の諸兵が居残り張り付いており、川を越えようとする普軍に銃撃を浴びせていました。特に普近衛軍団砲兵が本格的に前進を始めると、仏軍散兵線からは再三に渡り渓谷を越えて普軍砲列を襲撃しようとの試みが見られるのです。


 特に仏軍攻撃の目標とされたのは、デニーの北東側高地尾根に進んだ近2師砲兵で、ただでさえデニー部落からシャスポー銃弾が届く距離に接近していたこの砲列は、憎き普軍の砲兵を退治すべく決死の突撃を敢行する仏兵から猛銃撃を浴び、またフォン・ドゥ・ジヴォンヌやデニー西側高地尾根に退いた仏軍砲列からも激しい砲撃を受けるのでした。


 この近衛砲兵の危機を救ったのは近1師の前衛です。彼らは仏軍出撃の起点となっていたアイブの小部落を攻撃することで仏軍の攻撃を防いだのでした。


 軍団前衛としてジヴォンヌ部落に突入した近衛フュージリア連隊第4中隊と近衛猟兵大隊の1個小隊は、デニーの友軍と連絡を付けるためにジヴォンヌ南郊外から南下し、午前11時30分にアイブに突入して仏軍守備隊を一気に駆逐しました。これにより、この地を足場として攻撃を仕掛けていた仏軍は以降、ジヴォンヌ川東岸への進出が困難となるのです。

 このアイブの占領は独軍戦線が一つに繋がるという重要な意味も持ち、これでS軍団の戦線と近衛軍団の戦線はデニーの北で完全に「一本」になったのです。

 アイブには程なくして、近衛フュージリア連隊第12中隊と近衛猟兵大隊の第3,4中隊が猟兵大隊長のフォン・アルニム少佐に率いられて到着し、アイブの諸部隊はそのままジヴォンヌ渓谷縁と西側斜面に陣取る仏軍に対し、猛烈な銃撃を浴びせ始めました。


 こうして昼前にはラ・モンセル~デニー~アイブ~ジヴォンヌと独軍戦線は途切れなく繋がり、ジヴォンヌ渓谷に沿った部落は全て普軍の手に入ったか、と思われました。

 ところが正午直前、仏第1軍団は突如ジヴォンヌに対して強力な反撃を開始し、部落東の近1師砲列まで一気に到達するかのような激しい攻撃を敢行するのです。


 この攻撃にはライット4ポンド砲とミトライユーズ砲の混成部隊(ウォルフ師団砲兵の生き残りと思われます)も参加して、必死にドライゼ銃を乱射し防戦に努める普近衛の散兵線に向かい前進、ジヴォンヌ部落の西口から部落へ侵入して橋を渡り東岸に至りました。侵入部隊は未だ普近衛兵が完全には掌握していなかった部落南部を奪還し、ここに砲を並べて至近距離から普軍砲列と対決しようとするのでした。


 しかし仏軍にしては珍しいこの大胆不敵な攻撃も、冷静かつ即座に反撃を行った普近衛の一士官により頓挫する運命にありました。


 この危機の際、ジヴォンヌ部落へ一番乗りをした後に部落北部で西側の仏散兵線と銃撃戦を行っていた、近衛フュージリア連隊第5中隊長のフォン・ヴィッツレーベン大尉は、敵が突然前進して部落南部を席巻したと知るや手近の兵を集め、数個小隊規模で数倍規模の敵集団に対しその左翼側面から突撃しました。

 大尉は敵を目視するや部下を部落内のジヴォンヌ街道上に展開させ、不意を付いてこの敵に銃撃を浴びせます。

 大尉は仏軍の砲兵護衛が怯んだ隙に砲列を敷くため砲の前車を離脱しようとしていた仏砲兵を襲撃、居残って戦った護衛兵と共にこれを降伏させるのでした。

 この大尉の果敢な攻撃は、同様に敵の前進を知って急遽駆け付けた近衛フュージリア連隊の同僚中隊に一発も撃たせないまま、と言う正に電光石火の完勝でした。

 この攻撃により東岸へ渡った部隊も孤立する前に慌てて後退し、結局仏ウォルフ師団は、ライット4ポンド砲7門、ミトライユーズ砲3門、士官10名、下士官兵263名、馬匹142頭、ロバ6頭を鹵獲及び捕虜として失ったのでした。


 ジヴォンヌが襲われた時には、前述通り近衛歩兵第4連隊の2個(第1,2)大隊は近1師砲列の前方150mに展開しており、襲い来る仏軍に対抗して銃撃を浴びせていました。

 これ以外の近衛第2旅団4個(近衛歩兵第2連隊と近衛歩兵第4連隊フュージリア)大隊は、この直前に一時近2師の指揮下に入ることを命令され、デニーに至った近2師部隊の予備としてヴィレ=セルネ西林の南部、近衛第3旅団の後方に転進しました。

 この内、近衛歩兵第2連隊のF大隊は砲列援護を増強するために正午頃、既に砲列を援護していた近衛フュージリア連隊第3大隊の左翼(南)側に移動します。

 この間、近衛第1旅団は林中を抜け出て師団砲列東側まで進んでいます。


挿絵(By みてみん)

 前進する普近衛軍団


 ところで、近1師が進み出たヴィレ=セルネ西林の北部、ラ・シャペルをめぐる攻防戦はこの間(午前10時から正午)に決着を見ています。


 1日早朝、近衛軍団の前衛に属した近衛驃騎兵連隊の斥候隊は、既述通りラ・ヴィレの一軒家を接収した時にラ・シャペルより銃撃を受け、これに気付いた近衛フュージリア連隊第6中隊が前進しましたが、これより以前、近衛騎兵第1旅団が先行してヴィレ=セルネ西森の1023高地に到着した時に増援がラ・ヴィレに向かっています。

 この部隊は近衛教導「ガルド・ドゥ・コール」連隊の1個中隊で、ラ・ヴィレに到着すると、そのままラ・シャペルに向けて強引に突撃を敢行しますが、仏の部落守備隊から猛射撃を受けて撃退されてしまいます。

 

 このラ・シャペルを守っていたのは仏第1軍団第3師団(レリティエ少将)所属のパリ義勇兵大隊でした。このパリで徴募された最初期のフラン=ティラール部隊*は正規軍士官のロバン少佐に率いられ、首都から4日前(8月27日)に到着したばかりです。

 戦意溢れる大隊は既述通り敵近衛の砲兵が前進するのを見て、これを包囲すべく南へ一部が移動を開始しますが、近衛砲列から榴散弾を浴びせられ、行軍は頓挫してしまいました。


 普近衛驃騎兵連隊長のフォン・ヒンメン中佐は、ラ・ヴィレに進んだ斥候隊に「その西に広がるアルデンヌの大森林に入り、連隊が西へ抜けることが可能な林道を発見する」任務を与えますが、この実行にはまず、ラ・シャペルの仏軍を撃退することが必要となります。

 この意を引き受けたのが先の近衛フュージリア連隊第6中隊で、中隊長のフォン・クリュッヘル中尉は親部隊である同連隊第2大隊がジヴォンヌ部落に取り付いた後、ヒンメン中佐の要望を聞いて北上し、ヴィレ=セルネ西林北端からラ・ヴィレを経て、ラ・シャペルに突撃を敢行したのでした。

 中隊はおよそ30分間の銃撃戦により、増援なく孤立したパリ義勇兵大隊を心理的にも追い込み、午前11時頃、遂に耐え切れなくなった仏兵がアルデンヌ森林に逃げ込んだ後、部落を完全に占領するのです。


 部落陥落を見届けたヒンメン中佐は、驃騎兵連隊第5中隊にアルデンヌ森林の捜索を命じます。同中隊長の伯爵フォン・ヴァルテンスレーベン大尉は、中隊に速歩を命じてラ・シャペルを通過すると森に入り、西へ抜けると正午過ぎにオリー(イイの北東1.3キロ)付近で独第三軍左翼端部隊(第21師団所属第87連隊)と遭遇し、ここに初めてプロシアとザクセン両王国の「後継者」が指揮を採る両軍が連絡を通したのでした。


 この間も前進を続けた近衛騎兵師団は、正午までに3個旅団の全てをヴィレ=セルネの西、1023高地の東方まで進めます。

 この地でまずは近衛槍騎兵第1連隊の第5中隊を斥候として先発させ、午前10時以降イイ付近から北方に消えたという敵の騎兵集団を発見させようとしました。

 中隊の前衛小隊を率いたフォン・ヴァッケルバルト少尉は、この偵察行でラ・プティ・テルム森(ジヴォンヌの北に広がるアルデンヌ森林の南端部分)方面において多くの敗残兵と遭遇し、およそ90名の捕虜と共に遺棄されていたライット砲1門を鹵獲しますが、敵騎兵の情報は一切得ることが出来ず、中隊は行軍中の原隊に帰着しました。


 騎兵師団本隊は午前11時にアウグスト王子から「イイへ向かって前進せよ」との命令を受け、師団長伯爵フォン・デア・ゴルツ中将は即座に3個旅団に行軍縦列を取らせて出発しました。

 師団縦列は正午頃にジヴォンヌ部落で渓谷を越え、その前衛は部落北方の製鉄所付近に到着します。師団はここから狭い山道となる山腹の街道を進むこととなりました。しかも相変わらずの泥濘は行軍を妨害し、この先は仏軍がいつ現れるか分からない状態ともなった(実際に標高の高い南西側の仏軍散兵線から銃砲撃が加えられ始めていました)ので、彼らエリート騎兵集団はその胆力を試されることともなったのでした。


※ 9月1日正午頃の普近衛騎兵師団行軍列

○先鋒

・近衛槍騎兵第3連隊第2中隊

○近衛騎兵第2「槍騎兵」旅団

○近衛騎兵第3「竜騎兵」旅団

○近衛騎兵第1「重/胸甲騎兵」旅団

 他に近衛槍騎兵第1連隊第5中隊が斥候偵察中。


※ 9月1日正午における普近衛軍団の状況

○デニー周辺

 第一線として部落の東側へ近衛擲弾兵第2連隊(北に第1大隊、南に第2とF大隊)が進み、第二線としてその後方ヴィレ=セルネ道沿いに近衛擲弾兵第4連隊が進みました。

○アイブ周辺

 部落内とその東側に近衛フュージリア連隊第1大隊と第12中隊、そして近衛猟兵大隊のおよそ半分(第3,4中隊中心)がいました。

○ジヴォンヌ部落

 部落内とその北辺に近衛フュージリア連隊第2大隊の主力(第5,7,8中隊中心)がいます。

○ジヴォンヌの東側

 近衛歩兵第4連隊第1、第2大隊はジヴォンヌ渓谷から東側尾根の砲列までに展開していました。

○ヴィレ=セルネ西森の西側

 近1師砲兵列の後方には近衛第1旅団(近衛歩兵第1連隊と同第3連隊)主力が進みました。

 同じく砲列援護としては、近衛歩兵第2連隊F大隊、近衛フュージリア連隊第9,10,11中隊、近衛猟兵大隊第1中隊が砲列の傍らに展開しています。

○ラ・シャペル部落

 近衛フュージリア連隊第6中隊が占領しました。この部落は独軍の最北端(マース軍最右翼)となります。

○ヴィレ=セルネ西林南部

 近衛第3旅団(近衛擲弾兵第1連隊と同擲弾兵第3連隊)と近衛槍騎兵第2連隊は騎砲兵大隊の砲列後方に待機し、その後方では近衛歩兵第2連隊第1,2大隊と近衛歩兵第4連隊F大隊が一時近2師傘下となって軍団予備となりました。

○オリーの東

 近衛驃騎兵連隊第5中隊はアルデンヌ森林南端を通過して第三軍と連絡を通しました。


 午後に入ると、バゼイユからジヴォンヌにかけてのジヴォンヌ川流域はほぼ独3個軍団(南からB第1、第12、近衛)によって占領され、渓谷縁の数ヶ所の小林では仏軍後衛が最後まで抵抗を続けますが、それも午後1時頃までに全て掃討され、セダンの東側戦線は一時膠着するのでした。


フラン=ティラールとは


 フランス第二帝政におけるフラン=ティラール(直訳すれば「フランス(自由とのダブルミーニング)の射撃手」。以下「義勇兵(または軍)」とします)とは、1867年の「ルクセンブルク危機」の際、仏東部で募集された義勇兵を発端とする一種の「不正規兵」で、護国軍とはまた別のボランティア(民兵)でした。その「兵士」は射撃術に優れた者が多いとされ、実際の戦争では護国軍部隊と並んで後備部隊の主力となることが期待されていたそうです。

 通常平和時、義勇軍の兵士は制服を着用しませんでしたが、一般的に自前のライフル銃を所持しており、士官は軍隊からでなく自分たちから選んでいました。後の第二次大戦で「レジスタンス」や「マキ」と呼ばれた抵抗組織の「先祖」と呼んでも差しつかえないかとも思います。


 70年7月に普仏戦争が勃発すると仏陸軍大臣だったル・ブーフは野戦軍を補助させるため義勇軍を陸軍の指揮下で組織化しようとしました。しかし実際に義勇軍が軍隊に取り込まれて活動を始めるのは11月4日まで待たねばなりませんでした。

 それまでの間、義勇軍は随時募集され(一部は通常の徴兵後に割り当てられ)て部隊化し、一部は野戦軍に送られたものの、大多数はよりゲリラ的な任務に少人数の集団として、それぞれ地方で戦争に参加し、独軍が仏本土へ侵攻し拡散し始めると、占領地の各地で騒擾撹乱や輜重襲撃、電信線切断などのゲリラ的任務を主体として活動するのでした。


 このセダン戦における「バゼイユの戦い」での市民の参戦や、仏第1軍団に加わった「パリ義勇兵大隊」などはその先駆けとなったものでした。


挿絵(By みてみん)

 バゼイユで逮捕される義勇兵


 戦争が進むと独軍は次第にこの義勇兵に悩まされ、不正規戦による損害も、特に情報伝達阻止と物資輸送妨害の面で無視出来ないものとなって行きます。義勇軍の方も次第に「戦慣れ」して軍人らしい規律も生まれ始め、独の正規兵ですら手を焼く場面もあったと伝えられます。

 仏軍や政府国民はこの「義勇軍」を英雄として称え、軍の徴兵から洩れても参加する人々に賞賛の声を送りますが、当然ながら敵側の独軍は「義勇軍」を基本的に「不正規兵」や「反乱者」、即ち犯罪者同等として扱い、捕えた義勇兵は処刑される者も多かったと言われます。

ドイツ人はこれら「義勇軍」を忌み嫌い、親独の新聞各紙は彼らを「殺人者」「おいはぎ強盗」と呼んで憚らなかったのです。


挿絵(By みてみん)

 逮捕される義勇兵


 義勇軍は独側の弱点である後方輸送線を脅かし、待ち伏せや神出鬼没の襲撃を繰り返し、その多くは制服を着用せず一般市民に紛れての活動だったために、独軍は輸送隊の待ち伏せや巡察隊などが襲撃された近辺の村や町に対し、しばしば厳しい報復(権利剥奪や強制連行ばかりでなく処刑も)を行います。また、「ゲリラ狩り」を行い義勇軍の活動地を徹底的に制圧しようとしたため、占領独軍と仏民間人との間にぬぐい去れない敵意、そして憎悪を燃え立たせました。正にこれが「アルザス=ロレーヌ問題」とも同調し、19世紀末から20世紀前半に至る独仏間の緊張・敵対関係の原点とも言われるようになっていったのでした。


挿絵(By みてみん)

 仏側主張による市民を銃殺に処するバイエルン軍


挿絵(By みてみん)

 難民の馬車を調べる独軍

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