セダンの戦い/バゼイユ陥落・「最後の銃弾の家」
午前10時。ラ・モンセルとバゼイユで苦闘を続けるB第1軍団とS軍団の前線に、待望の増援が続々と到着します。これにより独軍はそれまでの前線を強化して仏軍の攻勢を頓挫させただけでなく、全線に渡って反転攻勢を掛けることが可能となり、示し合わせたかのような一斉前進が始まったのです。
この一斉前進の発端は、S軍団の第107連隊第3大隊が籠もるラ・モンセル西の「二軒屋」にありました。
午前7時頃に占拠した後、3時間に渡って息詰まるような攻防を戦ったこのS軍大隊は、その間ほぼ三方から(一時は後方に回り込まれ四面楚歌の状態で)近距離からの猛銃砲火を浴び続け、また次から次へと新たな敵が現れて突撃を受けるのでした。「二軒屋」は無数の銃砲弾が穿って蜂の巣状の半壊状態になり、大隊は仏軍の突撃を撃退し続けた果てに将兵の大多数が最後の銃弾を銃に詰め、死を覚悟するのでした。
この頃、仏軍は新たにシャロン軍司令官となったヴィンファン将軍の命令により反転攻勢を開始しており、ジヴォンヌ川流域では既述通り各地で攻防戦が激化、そのために孤立した「二軒屋」を救援する部隊は中々現れませんでした。
ラ・モンセルの戦闘(西側からラ・モンセルを臨む。右端が二軒屋の一軒)
午前9時過ぎ、最初の増援部隊として現れたのは、モンヴィル庭園北部で激戦の果て、小部隊に分散したB第12連隊の混成部隊で、フォン・シュトックハンメルン中尉率いる第4と第5中隊の一部兵士たちでした。中尉はこの半個中隊規模の混成チームを率いてモンヴィル庭園北部からジヴォンヌ川沿いに北上し、仏軍の銃砲撃下、二軒屋の東側家屋に突進して辿り着き、次いで最前線の西側家屋にも増援を送ることに成功したのです。そのしばらく後、B第3連隊の第3大隊長フリードリヒ・ムック少佐が大隊の4個散兵小隊を直率して登場し、少佐は散兵の先頭に立って突撃、これを見たB第12、B第3両連隊の後続部隊もジヴォンヌ川岸より突進しました。
この突撃は未だ衰えぬ仏軍の激しい銃砲撃を浴びて多数の犠牲を生じ、複数の士官が戦死しムック少佐も負傷して倒れるのです。
本格的な増援はこの直後に到着したB第10連隊の5個(第2,3,5,6,7)中隊で、B第4旅団の前衛だったこの集団は連隊長の男爵アルベルト・フォン・グッテンベルク大佐に率いられ、ジヴォンヌ渓谷を遡ってラ・モンセル付近に達し、ジヴォンヌ川西岸に沿ったバラン街道両袖に展開したのです(既述。「司令官交代」の段参照)。
展開直後にフォン・グッテンベルク大佐が負傷して後送され、B第10連隊の指揮は第2大隊長のライタウザー少佐が代行します。
少佐はB第3とB第12連隊の攻撃が不十分な結果に終わるのを見て、旗手より大隊旗を受け取るとこれを捧げ持つや「突撃!」と一声、手近にいた第2,5,6中隊の一部将兵は、軍旗を持って突進する少佐に続いて高地尾根の仏軍散兵線へ突撃するのでした。
こうしてB軍やS軍団将兵が入り交じって展開する二軒屋周辺の友軍散兵線に到達したライタウザー少佐は部下を銃撃戦に加入させますが、味方の増加に合わせたかのように、二軒屋から僅か50m足らずの排水溝に陣取った仏軍からは一層激しい銃撃が巻き起こるのです。
少佐は「現有戦力では直前の敵を制圧出来ない」と即断し、独り銃弾飛び交う中をジヴォンヌ川縁まで戻ると、B第10連隊残余の兵士を集合させ、これを直率すると自身2回目の突撃を敢行しました。
この突撃はジヴォンヌ川岸に展開していた他の部隊にも波及し、南側のモンヴィル庭園北部で戦う諸隊も一気に西側高地尾根に向かって突撃を開始したのです。
この一斉突撃により二軒屋付近の仏軍戦線は崩壊し、攻守は完全に逆転しました。
これは犠牲を厭わず突撃したB軍とS軍団諸隊の奮闘ばかりでなく、時機を逸せずに仏軍散兵線や砲列へ砲撃を集中した独軍砲兵諸隊の力にも拠るところ大と言えそうです。
ラ・モンセル部落と二軒屋から前進した第107連隊第2、3大隊の諸中隊は、バラン街道を直進してバゼイユからデニーに続く街道(現国道D129号線。以降デニー街道)の切り通しとなった部分に到達し、同連隊のハフナー少尉は部隊を超えて一緒に前進した付近のS軍団兵とB軍兵をも率い、牽引馬匹が殺されて立ち往生していたライット砲1門を鹵獲するのでした。この突進により他に独軍諸隊は砲2門と若干の捕虜を獲ています。
結果、B第12連隊第1、2大隊とB第3連隊第11,12中隊はバラン街道の南側を前進し、ラ・モンセル市街にいたB軍諸隊は街道の北を進みました。ラ・モンセルには予備・警備としてB第12連隊第7中隊とB第3連隊第10中隊が残ります。部落周辺で銃撃戦に加わっていたS軍団の第107連隊第1大隊は一旦部落内で集合すると、部落の西でデニー街道と重なる地点となる標高635フィートの高地(標高約193m。ラ・モンセルの西北西670m付近)に進むのでした。
バラン街道の両側を一斉に前進する諸部隊の左翼(南)側では、S軍団の第46「S第2」旅団に属する部隊がジヴォンヌ川の線から等しく前進します。
ラ・モンセルの南郊からモンヴィル庭園北側にかけて展開していた第102連隊の8個中隊は、一斉前進でデニー街道の切り通し部分に到達し、右翼(北側)を635高地に接して街道沿いに再展開しました。連隊長フォン・ルードルフ大佐は「虎の子」として取っておいた同連隊予備の4個中隊を遂に前進させ、前進した諸中隊の穴を埋める形でモンヴィル庭園内に展開させます。
旅団のもう一方、第103連隊は第102連隊の左翼に連なって、ジヴォンヌ川岸よりバゼイユ街道の市街北西部からバランへと延びる部分に向かって前進するのでした。
このラ・モンセルからモンヴィル庭園までの独軍前線が一斉に西へ動くと、その東側から普軍部隊も後続として前進を始めます。
午前10時30分にB第4旅団の後続本隊がバゼイユ市街へ進むと、バゼイユ停車場まで前進していた普第8師団の前衛は、市街地東端で観戦していたフォン・ケスラー第15旅団長の命令により一斉に市街地東部へ突進しました。
その先頭となった普第71「チューリンゲン第3」連隊第2大隊は、大隊長のフォン・ボイスト少佐が先頭に立って誘導し、モンヴィル庭園北部でジヴォンヌ川の浅瀬を使って渡河すると、ここで第5中隊を市街地へ進め、残り3個(第6,7,8)中隊を少佐が直率して第46旅団を追いバゼイユ西の高地線目指し進むのでした。
この前進でも仏軍は激しく抵抗しつつ後退し、独軍側は多数の下士官兵と士官数名が戦死、第102連隊第2大隊長の男爵フォン・オービラー少佐が負傷するのでした。
こうして、独軍の前線は午前11時に635高地に続く尾根(現・ラパイユ通りの線)まで前進し、その東方斜面となるデニー街道の線には第二線として多くの部隊が集合し、次の行動に移る前の準備を始めました。
また独戦線左翼(南)側では、バラン方面へ退却する仏軍を追ってB第12連隊と普第71連隊の一部がバラン部落近郊まで追撃を行い、同右翼(北)側では、B第3連隊第4中隊とB第10連隊第4、第8中隊の3個中隊が最先任士官となったクラフト大尉に率いられて635高地尾根頂部まで進みましたが、その先のフォン・ドゥ・ジヴォンヌ(バゼイユの北3キロ)の高地に陣取った仏軍第二線の散兵線より猛射撃を浴び、それ以上の追撃は適いませんでした。
この午前11時の時点でB第1軍団の第一線は、635高地尾根沿いに進んだB第10連隊第2大隊とB第1連隊第1大隊だけであり、残りの前進部隊はその200~300m東側の斜面で部隊整理の最中でした。
同じくS軍団の第一線は、635高地とその南側でバラン街道を超えた付近に敷かれます。その右翼となった635高地付近には第107連隊の10個中隊(デニーで戦う第5,6中隊以外)が正午までに集合し、その左翼(南)には第102連隊の7個(第1,2,4,5,7,8,11)中隊が同じく集合中でした。
S軍団の最左翼は第103連隊の7個(第1,3,4,5,6,7,8)中隊で、既述通りモンヴィル庭園からバゼイユ市街地東部に突入してB軍団と共にバラン街道を進み、第102連隊左翼となっていた第10,12中隊もこれに続行するのでした。
ラ・モンセル西側の635高地尾根の攻略とほぼ同時に、バゼイユ市街地でも大きな進展がありました。それまでB軍の進撃を幾度も拒絶していたブールマン邸宅とその庭先のバゼイユ、バラン両街道分岐点が遂にB軍の手に落ちたのです。
バゼイユで戦うバイエルン歩兵と仏海軍歩兵
このブールマン邸の占領に大きく貢献したのは、B第1猟兵大隊長シュミット中佐率いる僅か1個中隊半の猟兵で、モンヴィル城館とその庭園に対し最初に突入してから5時間余りの激闘の果て、B第10連隊の援護の下に、それまで拠点として来た庭園の東屋から市街地を東西に分けるバゼイユ街道まで突進し、ここで後続する諸隊を確実に援護出来る拠点を獲たのでした。
B猟兵の援護射撃により、モンヴィル庭園西辺にいた諸隊はブールマン邸に対し一斉に突撃を敢行します。
シュミット中佐の猟兵とB第10連隊の諸中隊はバゼイユ街道を二股分岐点まで一気に北上し、モンヴィル庭園の諸中隊はドライゼに着剣すると庭園西側で遮蔽物に利用していた厚い生け垣を切り開き、突進してブールマン邸を包囲すべく行動しました。この急展開で邸宅の仏海軍兵も遂に退却し、B第10連隊第3大隊が街道から突進して入れ替わりに邸宅を占拠するのでした。
今や完全に優勢となった独軍側は、後方より来着したばかりのB第13連隊の2個大隊を併せて兵力を増強すると敗走する仏軍を追撃し、バラン街道を北西へ向かいます。
この時を同じくして、市街地西部の市場からB猟兵第7大隊の2個中隊が前進を開始し、残部2個中隊は市街地西端に出ると作物の実る郊外の田園を通過しつつ残敵掃討を行い、北西市街南部で同じく残的掃討を行いつつ北上して来た2個中隊と合流します。ここでブールマン邸付近から前進して来たB第13連隊第1大隊の一部と共にバラン街道南側を占領するのでした。
こうして、B第1軍団はモンヴィル庭園北部とラ・モンセルの南郊から進撃して来たS軍団諸中隊と協力し、遂に市街地北端部分まで支配下に入れ、夜明け前の午前4時に始まり7時間に及んだ凄惨な市街戦を大方終了させるのでした。
市街地の仏軍は、逃げ遅れたり市民と共に自主的に残ったりした一部を除いて大部分が北西側バラン街道を使って退却しました。その一部はバラン部落に入り、一部は北西側の高地線(フォン・ドゥ・ジヴォンヌ)に向かいました。
市街地北西部からの独軍追撃の先頭はB猟兵第7大隊の3個中隊で、彼らはバラン部落南西側の斜面まで進むと、左翼側はバラン街道の南側に展開し、右翼側は前述のB第12連隊及び普第71連隊の一部と連絡しつつ部落の仏軍と銃撃戦を開始するのでした。
しかし掃討戦段階となった市街地では、憎悪と不屈の闘志に我を失った多くの市民と、残留した仏正規兵が午前11時以降もしばらくの間、複数の拠点で最後の抵抗を試みるのです。
この抵抗は一部が午後に入るまで行われましたが、ほとんどが正午までに収束します。民家に籠もった兵士や武装した市民(不正規兵とされてしまう護国軍の制服を着用していない市民も散見されました)は次々に狩り出され、護国軍の軍旗3旒も鹵獲されます。
バゼイユ・戦闘の終結
この時(正午頃)バゼイユ市街地は燃え盛っていました。
放火とも銃砲撃の結果とも分からぬ火事は既に午前中早い時間に始まっており、B軍の市街地攻略が遅れたのも、奮戦虚しく仏軍の防戦が終了するのも、等しくこの火災の影響が大きかったと思われます。
大火に手が付けられなくなったB軍では、工兵が出動すると火災の影響が比較的軽かった市街地北東部の家屋を破壊して縦貫道を作り、焼け落ちて燃える物が無くなるまで入れない市街地の迂回路とするのでした。
正午には後方予備となっていた3個(B第11連隊第1、第2、B猟兵第9)大隊が鉄道堤から前進し、鎮火した部分から残敵掃討と捜索を始めるのでした。
バゼイユ・残敵掃討
ジヴォンヌ川東岸高地上に砲列を敷く独軍砲兵たちは、かなりの時間、仏軍の最前線から1キロ以内にあったためにシャスポー銃の狙撃を受け、一部では歩兵の突撃のため陣地転換を余儀なくされましたが、友軍歩兵の一斉前進でその脅威も薄れ、砲兵たちは今まで以上の猛砲撃で仏軍陣地線を叩きました。
後にこの時の砲撃が仏軍を叩きのめし、会戦勝利に大いに貢献したことが確認されます。
この午前11時前後において、S軍団砲兵の重砲第8中隊は仏軍が一斉に退却したことで適当な目標を失い、砲列最右翼(北端)となっていた砲兵第12連隊騎砲兵第2中隊に隣接した新陣地へ移動しました。
ラ・ルエルから前進したS軍団最後の砲兵2個(軽砲第1、重砲第2)中隊は、フュージリア第108「Sシュッツェン」連隊と共に前進してラ・モンセルを通過、正午頃に635高地尾根付近に砲列を敷きます。最前線に躍り出たこの2個砲兵中隊は、バラン部落前面に砲列を敷いていた仏軍砲兵に対し砲火を浴びせて損害を与えるのでした。結果、仏軍砲列は急ぎ撤退を始めます。
しかし、この12門の砲が前進したことで、モンヴィル城館の東高地で砲撃を行っていたB軍の諸砲兵中隊は、誤射を恐れて砲撃を中止するのでした。結果、目標を失ったB軍砲兵諸隊はバゼイユ停車場付近まで撤退して行きました。ただ、B軍砲兵の6ポンド第7と第8中隊は砲列撤退の少々前にS軍団砲列最右翼まで移動し、再展開して砲撃を開始しています。
市街戦のバイエルン軍砲兵
この逆境の中でも仏軍砲兵は犠牲を厭わず友軍第12軍団の退却を援護しますが、正午頃にバランとフォン・ドゥ・ジヴォンヌ間の656高地(標高フィート。約200m)西側斜面へ後退して独軍散兵線や砲列から視界外となり、独軍の砲撃も目標を失ったことで下火となりました。この後は仏軍の砲車やミトライユーズ砲、そして歩兵縦列が高地上に見える時だけに砲撃を短時間行うこととなるのです。
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☆ La maison des dernières cartouches 「最後の銃弾の家」
バゼイユ市街地北西部の外れ、ブールマン邸から150mほど北西に行ったバラン街道の北脇に一軒の居酒屋兼旅荘がありました。その看板には‘Bourgerie, vin, biere, eau-de-vie’「ブルジェリー。ワイン、ビール、蒸留酒(ブランデー)」とあり、セダンに向かう旅人や地元の常連が喉を潤す場所でした。
現存するこのブルジェリー館を見ると、南側の前庭に向いた水色の鎧戸が付く8つの窓(一階は7つ)と3つのドアを持つ二階長家風の建物で、食糧貯蔵庫兼ワインセラーのある地下室、大広間、亭主のリビング、広い食堂、キッチン、8つの客室などがありました。
このありふれた19世紀来の建物は2つの世界大戦を生き残り、現在も‘La maison des dernières cartouches’即ち「最後の銃弾の家」と呼ばれる記念館として1870年9月1日を偲んでいるのです。
最後の銃弾の家
1870年9月1日の「バゼイユの戦い」では、多くの家屋に仏海軍「ブルー師団」兵や旧式銃を手にした市民(護国軍に所属していなかった者もいました)が籠城し、襲い来るバイエルンやザクセンの将兵に容赦なく銃弾を浴びせ、その結果多くが傷付き倒れ、捕虜となり、一部は不正規兵として銃殺されましたが、その「不屈の精神と愛国心」の象徴となって普仏戦後に「ドイツへの復讐」を誓う仏国民の聖地(まさにプロパガンダ)となったのが、このブルジェリー館(Bourgerie)でした。
この日の朝、海軍第2連隊のブルジェ大尉(Bourgey.偶然にも旅荘の名に似た名前)はバゼイユ市街最北西端となるブルジェリー館を防御拠点とするように命じられます。
この館は既にブルー師団第2旅団の本営として接収されており、同旅団参謀長で、前線観察中に足首を銃弾で粉砕されたアルセーヌ・マチュラン・ルイ・マリエ・ランベール少佐以下9人の旅団本営将兵が前線(モンヴィル城館)に出て行った旅団長の留守を預かっていました。
ブルジェ大尉はこれら士官(第2連隊のオベール大尉やデロリー大尉、第3連隊のピカード大尉など)と所属も様々な海軍兵士60名を率い、この館を護ることとなったのです。この中には部隊からはぐれた1名の陸軍歩兵もいたとのことです。
ランベール(1890年代)
夜も明け、南の市街戦が激しさを増すと、大尉は部下を急き立てて館の防備を固めます。窓やドアには家具やマットレスで防御した銃座を設け、屋根に上った兵士はスレート瓦を部分的に取り除き、そこに即席の銃座を作るのでした。
最先任士官だったランベール少佐は痛みを堪えて大広間に陣取り、指揮を執るブルジェ大尉の防御方針を承認しました。
既に残り少なくなっていた銃弾を兵士から掻き集めたオベール大尉は、射撃の上手な兵士に優先して割り当てるように指示し、なんとか戦闘準備を終えるのです。
この後、ブールマン邸を襲ったバイエルン軍はブルジェリー館にも現れ、激しい銃撃戦が発生しました。バイエルン第12連隊(注・資料では第15連隊となっていますが、第12か第13の誤りではないかと思われます)は館に向かって突撃を繰り返しましたが、シャスポー銃はここでも威力を発揮し、バイエルン兵は多くの死傷者を出して一旦撤退します。
しかし、戦闘の推移と共に次第に不利となった仏軍は、重要拠点だった教会や市場からも主力が後退し、遂にブールマン邸もバイエルン軍の手に落ちました。
程なくブルジェリー館の周囲にもバイエルン軍兵士が見え隠れし始め、彼らの持つヴェルダー銃の猛射撃は館を穴だらけにし始めました。その一発は大広間の大柱時計に当たって時計を止め、現在も館内に記念品として展示されるこの時計は「11時30分」を指したままとなっています。
最後の銃弾の家の柱時計
こうして館を包囲したバイエルン軍は、四方から一斉射撃を館に浴びせますが、ランベール少佐もブルジェ大尉も降伏することを拒絶しました。
屋根の兵士は倒され、熱い銃弾が可燃物に当たって何ヶ所もの小火(ぼや)が始まります。倒れた兵士は部屋の奥に運ばれ、少ない銃弾は割り振られつつ銃撃戦は続きました。
セダンへ向かうバラン街道のすぐ脇にあり、後続部隊がバラン方面へ進む障害となり始めたこの館の抵抗に苛立ったバイエルン軍は、目標が遠ざかったため余裕の出来た砲列に対し、館を目標とした砲撃を要請しました。
敵の砲撃が始まる直前、ランベール少佐はブルジェ大尉に告げます。
「私は歩けない。数人私に預けたなら、残りの兵士とうまく脱出しなさい」
ブルジェ大尉は即座に拒否します。
「少佐。本官はこの館の防衛を任されたのです。我々は最後まで留まります。決してここを去りません!」
最初の榴弾は遠弾となって炸裂しました。次の一発は屋根を貫通し屋根裏で破裂します。埃と火の粉が二階の兵士に降り注ぎパニックが起き掛けましたが、ブルジェ大尉ら士官の厳格な統制で直ぐに混乱と火災は収まりました。
この砲撃は短時間で終了し、不気味な一時の静けさが辺りを満たします。
館の仏軍はこの貴重な時間を有効に使い、戦死者や重傷者から貴重な弾薬を回収し、銃弾は再配布されました。
静けさの中に付近から銃撃音がいくつも響いていました。それは未だバゼイユとその周辺で抵抗が続いている証拠であり、ブルジェリー館の人々に勇気を与えるのでした。
しかしそれも束の間、再び砲撃が始まり砲弾は屋根に穴を穿ち兵士たちを倒しました。再び火災が発生すると煙が充満して窓から排出されるので、銃を構える兵士たちは目を開けるのも息をするのも困難となりました。
砲撃中は館を遠巻きにしていたバイエルン軍は、再び砲撃が終了すると包囲の輪を絞り始めます。銃撃戦が再開されますが、半数近くが倒れた館からは反撃の銃声が少なくなり、正午直前には遂に残弾は30発となって、兵士達には最後の一発が配給されるのでした。
最後の銃弾の家の戦闘
最後の一発は二十数名にまで減った銃手が持つシャスポー銃から一斉に放たれます。その内の一発を放ったオベール大尉(射撃術に優れ、ランベール少佐が指揮を執る大広間の窓で自ら狙撃を行っていました)は銃を撃った後、放心したかのように窓辺に凭れるのでした。
表からバイエルン士官の「降伏しろ!」の声が聞こえます。ランベール少佐は集まった士官たちに「降伏する」と告げました。最後の銃弾を放ち、抵抗の術は銃剣でしかない今、このまま戦い続ければ全滅するのは自明の理でした。
ブルジェ大尉の責任もここまででした。彼は誰よりも長く拠点を死守し、銃弾を余すことなく放ったことで名誉ある降伏をすることが出来ます。
少佐はポワトヴァン軍曹に命じ、軍曹のシャスポー銃の銃剣に白いハンカチが結び付けられ、窓から打ち振られました(このロットナンバー69399のシャスポーは大切に保管されています)。
表ではバイエルン兵が勝どきを上げるなか、ランベール少佐は「私が最初に出て行く」と言います。そしてブルジェ大尉に囁くように命じました。「もしもバイエルン兵が私を射殺したなら、君は部下と共に銃剣突撃を行い、血路を開いてセダン城に向かいなさい」
ランベール少佐は負傷した片足を引き擦りながらドアを開け、一歩を踏み出しました。間を置いてブルジェ大尉が出て行き、その後ろからおよそ20名の生存者が出て来ると、遠巻きにしていたバイエルン兵が一斉に銃を向けました。地獄のバゼイユ市街を戦い抜け、ここでも仲間を多く倒されたバイエルン兵たちは殺気立っていました。近付く兵士の中には鬼の形相で銃剣を向け、そのまま突進して二人の仏軍士官を突き刺すのではないか、との緊迫した空気が流れます。
この時、バイエルン兵を率いていたリシニヨル大尉(記事では第42連隊となっていますが、これも第12の誤りかと思われます)は殺気立つ部下の前に急ぎ立ち塞がり、兵士に冷静を呼び掛けて虐殺を防いだのでした。
部下を止めるリシニヨル大尉
こうして、勇気ある敗者を尊ぶ騎士道精神を忘れなかった一バイエルン士官に救われ、捕虜となったランベール少佐ら仏海軍将兵の前には、「最後の銃弾の家」を取り巻くようにバイエルン兵戦死者が倒れていました(原文では600名と、かなり誇張しています)。
これを見たランベール少佐はこう呟いたと言われています。
’Tous, nous marchons le front haut et nous disons nous ne sommes pas de la capitulation de Sedan.’
「諸君、顔を上げて歩こう。セダンが陥落しようと我々に(死力を尽くし戦ったので)責任はない」
Bazeilles 31 août - 1er septembre 1870 植民地歩兵指揮官ジャン・コワネ大尉著(1953年)より抜粋。筆者意訳と加筆。
最後の銃弾の家 アルフォンス・ヌーヴィル 1873
仏の画家アルフォンス・マリエ・アドルフ・ドゥ・ヌーヴィル作のこの絵画は、バイエルン画家のルイ・ブラウンが描いたヘルマン・ヴァイナハトの活躍(詳細は「普仏戦争/開戦直前のドイツ軍(三)」をご覧ください)や、カール・レヒリング描くハデルン少佐の死(同じく「グラヴロットの戦い/独第一軍戦線崩壊に瀕す」参照)と同じく、プロパガンダの傑作と言われています。
実際の戦闘では絵画中に描かれたティライヤール兵はその場におらず、海軍兵士ばかりだったはずなのに戦列歩兵も描かれています。(いくつかの証言では、原隊からはぐれたカンブリエ准将旅団の戦列歩兵第34連隊兵士が1名いたとも言われるものの……)
更に驚くことには、脚を怪我して中央の家具を支えに身を乗り出しているランベール少佐も陸軍士官の制服(アルジェリア・ティライヤール部隊と思われます)で描かれています。
もちろん画家は史実を知っており、絵画の出来栄えとフランスの栄光のため、歴史を都合よく改竄して描いているのです。
ドゥ・ヌーヴィルは、海軍兵ばかりでなく陸軍兵を描き加えることで、この戦闘における英雄的な性格を仏軍全体の姿に拡張しているのです。
ヌーヴィルの描いた客室。天井に開いた穴に注目。
20世紀初頭の「最後の銃弾の家」




