セダンの戦い/デニーとシュヴァリエ森の戦い
午前9時頃にヴィンファン将軍がデュクロ将軍の後退命令を取り消したことで、バゼイユ市街地から引き揚げかけたブルー師団の一部は、再び市街地への攻撃に参加します。
これらの部隊は改めて市街地北西部から南部にかけて広い範囲で侵入し、B親衛連隊第3大隊(既述通り第9,10中隊のみ)左翼(西)とその後方(南)に耐え難い圧力が加わり、弾薬も乏しくなっていたこの2個中隊は遂に敗走を始め、市街地南西部の市場付近まで後退しました。彼らはここで、市街南側の庭園で戦うB第2連隊第2大隊と連絡を保ち、正に死を覚悟して背水の陣を敷いたのです。
この時、イクールの舟橋から前進して直接市街地南部に到着したB第4旅団の先鋒、フリードリヒ・シュールタイス中佐率いるB猟兵第7大隊が登場し、まずは2個中隊が市場に入って親衛連隊兵を救うのです。弾薬が尽きた親衛連隊兵は喜んで猟兵と交代、疲弊した身体を一時でも休めようとするのでした。
午前10時になると、旅団長ルートヴィヒ・フォン・デア・タン少将が直率するB第4旅団の3個大隊が市街地南東側から市街に入って参戦します。
その先頭を行くB第10連隊第3大隊は、市街の東端で二手に分かれ、第9,10中隊はモンヴィル庭園南部に進み、第11,12中隊は市街地東郊外でバゼイユ街道の北を並進しモンヴィル庭園北部を通過して、B猟兵第1大隊第4中隊とB親衛連隊第2大隊の散兵線の隙間を抜け市街に突入し、一気にバゼイユ街道まで進出するのでした。
この後を追って戦線を強化したのはB第13連隊(2個大隊のみ)で、第1大隊はB第10連隊第11,12中隊を追って庭園内を西へ突進し、第2大隊は庭園に入って散兵線を補強するのでした。
こうしてB第4旅団がバゼイユ市街地で戦い始めた頃、普第4軍団の前衛もまたバゼイユに接近しました。
普第4軍団は1日早朝にマース軍の命令を受領し、直ちに普第7師団をメリーへ、普第8師団と軍団砲兵隊をルミリーへ、それぞれの野営地より出発させました。
B第1軍団で最後までムーズ川を渡河していなかった歩兵と砲兵部隊は午前8時過ぎ、バゼイユ鉄橋とイクール前面の舟橋から渡河を始めます。この頃に普第4軍団砲兵隊はB第1軍団と入れ替わるようにしてイクール部落の西郊外へ進出しました。万が一仏軍がB軍の戦線を突破した場合、それを砲撃するために砲兵隊は準備をして待機に入ったのです。
このイクールにおいて、普第4軍団長のグスタフ(G)・フォン・アルヴェンスレーヴェン大将は、B第1軍団長のフォン・デア・タン大将から要請された「1個師団の増援」を快諾し、G・アルヴェンスレーヴェン将軍は普第8師団長テオドール・フォン・シェーラー中将に対し、「B第1軍団の直後に進み、バゼイユ方面の戦いを援助せよ」と命じるのでした。
普第8師団の前衛は第15旅団長のフランツ・フォン・ケスラー少将が率い、ルミリー前面に架かっていた舟橋を使って渡河すると、午前10時にバゼイユ停車場に現れます。シェーラー将軍は師団本隊をイクールまで進めると、舟橋周辺で待機し渡河の時機を見図るのでした。
ユリウス・フォン・グロス=シュヴァルツホッフ中将率いる普第7師団は、アルベルト・ザクセン皇太子の追加命令でメリーから前進し、同じく午前10時にS軍団の背後となるラメクールに到着するのでした。
バイエルン兵の前進
※1日午前10時30分頃 ラ・モンセルとバゼイユ市街地周辺で戦った独軍
(B軍・S軍別に大体北から南へ)
◯ラ・モンセル部落北郊外
・B第3連隊第1,2中隊
・B猟兵第1大隊第1中隊と第2中隊半部
◯ラ・モンセル部落内及びその西郊外
・B第3連隊第3,4中隊
・B猟兵第1大隊第3中隊
・B第10連隊第5,6,7中隊
・B第1連隊第1大隊
・B第3連隊第3大隊
・B第10連隊第2,3中隊
・B第12連隊第7中隊
・S第107連隊第1大隊
・S第107連隊第7,8中隊
・S第107連隊第3大隊
◯ラ・モンセル南郊外からモンヴィル庭園内
・B第12連隊第1大隊
・B第12連隊第8,5,6中隊
・B第13連隊第2大隊
・B第10連隊第9,10中隊
・B親衛連隊第1,2,3中隊
・B猟兵第1大隊第4中隊と第2中隊半部
・S第102連隊第1,2,5,7,8,10,11中隊と第12中隊の散兵小隊
・S第103連隊第1,3,4中隊
・S第103連隊第2大隊
・S第102連隊第4中隊
◯モンヴィル庭園外東側
・S第102連隊第3,6,9中隊と第12中隊の大部分
◯バゼイユ市街地
・B親衛連隊第4中隊
・B親衛連隊第2大隊
・B親衛連隊第9,10中隊
・B第2連隊第2,10,11中隊
・B第2連隊第2大隊
・B第10連隊第11,12中隊
・B第13連隊第1大隊
・B猟兵第2大隊
・B猟兵第4大隊
・B猟兵第7大隊
◯予備/バゼイユ停車場付近
・B第1連隊第2大隊
・普第8師団の前衛
◯予備/鉄道堤付近
・B第2連隊第3,4,12中隊
・B第11連隊第1大隊
・B第11連隊第5,6,7中隊
・B猟兵第9大隊
〇モンヴィル城館東側の砲列護衛
・B親衛連隊第11中隊
・B第10連隊第4,8中隊
・B第11連隊第8中隊
・S第103連隊第2中隊
◯予備/ラ・ルエル小部落の西郊外
・S第45旅団(シュヴァリエ森南に向かった第101連隊除く)
◯予備/ラメクール付近
・普第7師団本隊
◯予備/イクール前面の舟橋周辺
・普第8師団本隊
既述通り、フォン・シュルツ少将が率いたS軍団の前衛支隊は、ラ・モンセルの東で二手に分かれ、先頭を行く第107「S第8」連隊はそのままラ・モンセルへ、後方の第105「S第6」連隊は部落東側500mほどの友軍砲列右翼(北)へ進んで待機するのでした。
この高地に第24「S第2」師団長のフォン・ネールホッフ=ホルダーベルク将軍も現れ、ジヴォンヌ川の対岸をじっくりと観察した結果、「対岸高地上には仏軍の大軍が散兵線を敷き、それがデニー以北まで続いている」ことを確認するのでした。
午前6時30分、ネールホッフ将軍はラ・モンセルばかりでなくデニーをも手に入れるため、第105連隊に前進を命じます。
これを受けた同連隊長フォン・テッタウ大佐は、まずデニーに対面する大きく深いシュヴァリエの森西縁に沿って部隊を前進させ、その後に連隊の3個大隊をデニー方面へ突き出す形を造っていた丘陵に展開させようと計画し、実行に移しました。
この時将軍は、この高地からプティ・モンセルに向かって下がって行く長く緩やかな谷間の反対斜面に敵の散兵線を認め、その先のデニー部落北部では、シュヴァリエ森(デニーの東2キロ周辺の広大な森林総称)に向かって進む敵の歩兵縦列がはっきりと見て取れたのでした。
午前6時前にS軍団の進軍が始まった時、仏第1軍団長のデュクロ将軍は「敵の恐るべき砲兵がジヴォンヌ渓谷を渡河するためにはデニーの橋しかない」として、「デニーを死守するためには橋頭堡が必要」と考え、午前6時過ぎ、ラルティーグ師団に対し「デニーの散兵線より橋を渡って対岸のシュヴァリエ森まで前進せよ」と命じます。この任務で師団長マリエ・イポリット・ドゥ・ラルティーグ少将が前衛に指名したのはヴルトで死闘を演じ、補充兵で幾分か戦力を回復したアルジェリア=ティライヤール第3連隊でした。バリュ大佐率いるこの植民地兵連隊は1個大隊を先頭に立ててデニーの橋を渡り、本隊の2個大隊が後に続きます。これに続行したのは連隊の親部隊であるジョセフ・フラブール・ドゥ・ケルデアデック准将の第2旅団と師団砲兵隊(4ポンド砲x12、ミトライユーズ砲x6)でした。
突撃するテュライヤール兵
このおよそ1時間後にデュクロ将軍はシャロン軍全体の指揮官となり、物議を醸したイイへの後退命令を発しますが、デニー橋を渡っていたこれら1個旅団強の部隊だけは後衛として東岸に残留させたのです。将軍は戦後の手記において、「なるべく長きに渡ってデニーの橋を守るため」これら部隊を犠牲にしようと考えていた、と言っています。
午前6時30分過ぎにはS軍団の第24師団右翼(北)にあった第105連隊が前進を開始、シュヴァリエ森の西縁とデニーよりヴィレ=セルネに向かう小道(以降ヴィレ=セルネ道)の南側、デニーからリュベクールに向かう林道にかけて展開し始めます。
その先陣は同連隊の第3大隊でシュヴァリエ森の北西縁にあたる小林に展開し、続く同連隊第1大隊は縦列横隊となってその左翼(南)側に進みました。同第2大隊は、敵の前哨部隊らしい森に見え隠れする植民地兵を包囲するため、第1大隊を東側から追い越し、第2大隊が展開し始めた林の北まで進もうとします。
するとここで仏軍から激しい銃撃が始まり、それは直ちに前線の全てに広がっていったのでした。
いち早くシュヴァリエの森に展開し、進み来るS第105連隊に対して銃撃戦を開始したアルジェリア=ティライヤール第3連隊の右翼(南)には、ビロー中佐率いる仏戦列歩兵第56連隊とラマンデ中佐率いる師団砲兵3個中隊が戦線を作り、ケルデアデック准将旅団所属のズアーブ第3連隊は左翼側(北)に進んで、敵を包囲しようとしたS第105連隊第2大隊に対し再三に渡って突撃を敢行するのでした。
戦うズアーブ兵
対するS第105連隊も猛烈な射撃で応じ、午前7時過ぎには連隊の左翼側となるプティ・モンセルの東の三叉路に砲兵3個中隊が進んで援護砲撃を開始しますが、ラ・モンセルからバゼイユまで前線の全てに渡って敵の反撃が進行中で、出遅れたS軍団から増援を得るにはまだしばらくかかる状況となります。このため、連隊は次第に銃弾が乏しい苦境に陥り、7時30分頃には各自数発の銃弾のみとなって、気難しいドライゼ銃に欠かせない整備部品も不足してしまうのです。これは至急前進を命じられた際に、各自背嚢を野営地に置いたまま身軽に前進を始めよとの命令もあって、急いだ部隊のほとんどが背嚢から予備の銃弾や、折れ易いために入れていた予備の撃針などを取り出す時間がなかったためでした。
こうしてラ・モンセルで戦う孤立した同僚(第107連隊)同様、第105連隊も数倍する戦意衰えぬ敵と対決し、指揮官たちの剛胆さと兵士の規律・連帯とが試されることとなったのでした。
突出したため敵から格好な目標とされた第105連隊第2大隊を救うため、同第3大隊長のバウムガルテン大尉は大隊全部を率いて仏ズアーブ連隊に突撃し、第2大隊と第1大隊の援護射撃の下、白兵戦に持ち込んでこれを撃退しました。しかし、南側の第1大隊はこの時銃弾が極端に少なくなって、およそ600mに迫った敵戦列歩兵連隊から側面に猛烈な銃撃を浴びたため、南側へ数百m後退するのでした。
これで2個大隊となった前線のS軍兵は最大の危機を迎えますが、ここに待望の援軍が登場するのです。
やって来たのは猟兵第12「S第1・王太子」大隊で、待機していたバゼイユ東のラ・ルエルで第105連隊を援助せよ、との命を受け駆け付けたものでした。大隊長の伯爵フォン・ホルツェンドルフ少佐は3個中隊を林とその北の十字路(デニーの東南東約1キロ。現在は高速道路の一部)まで進め、これによって右翼(北)側の安全が確保されたため、一旦退いていたS軍団砲列は再び前進して激しい砲撃を再開するのでした。また、前線の第105連隊第2、3大隊は後退が可能となり、小林の南へ下がって隊を整えたのです。
しかし、僅か1個大隊の兵力では仏の1個旅団を抑え切れるものではありません。猟兵第12大隊は予備としていた第1中隊も前進させ、全力で敵の1個旅団と戦いますが、戦闘開始僅か数十分後の午前8時には弾薬がほとんど尽きてしまい、各自最後の1発を装填した銃に装剣し、敵の突撃を待ち受ける状況に陥るのです。
この状況を知ってか知らぬか、正面からの突撃を幾度も撃退された仏軍は、側面からの包囲を狙いヴィレ=セルネ街道方面からの攻撃を開始します。これによって林の北縁に陣を敷いていた猟兵の第3,4中隊は全滅を回避するため第105連隊と同じく林の南へ下がるしかありませんでした。更に仏軍は3個砲兵中隊をズアーブ連隊の南へ前進させ、近距離から残った猟兵2個(第1,2)中隊を脅かしますが、この頃からようやく、待望久しい「本当の」増援が各方面からやって来たのでした。
まずはヴィレ=セルネ方面から普近衛軍団の前衛(近衛猟兵大隊や近衛フュージリア連隊第1大隊など)が登場し、仏ズアーブ第3連隊と戦い始めます(近衛軍団の戦いは後日紹介しましょう)。
続いてゲオルグ・ザクセン王子に命じられ、ラ・モンセルに向かっていた第104「S第5/フリードリヒ・アウグスト王子」連隊が戦場に到着します。この連隊は、ラ・モンセルの東で指揮中のネールホッフ将軍から、直接シュヴァリエの森に進むよう命令を変更されて、間一髪S軍猟兵の全滅を救うのでした。
これに続いたのは猟兵第13「S第2」大隊で、この猟兵たちは普近衛軍団との隙間を埋めるためリュベクールへ進み、その後近衛軍団の前衛と接触するため北上を続けましたが、シュヴァリエ森の東側で西側デニー方面から激しい銃砲撃音が鳴り響いたため、深い森に入り急ぎ西へ進んだもので、彼らは仏軍戦線左翼のデニー部落正面に進んで仏植民地兵と戦い始めたのでした。
ズアーブ兵と士官
猟兵第13大隊長フォン・ゴッツ少佐はほとんど遭遇戦の形で参戦したため、大隊全てを歩兵の攻撃陣形である縦列横隊(猟兵は通常散兵戦闘を行うため、攻撃時は普通小隊や中隊毎に散開します)に仕立てると思い切りよく予備も置かずにズアーブ兵へ突撃を敢行するのでした。
この思わぬ方向から突然現れた敵の突撃を受けた植民地兵は驚き慌てて逃げ出してしまい、その援護下で砲撃を開始したばかりの砲兵も急遽退却する羽目に陥ったのでした。ゴッツ少佐が敵の陣地に乗り込むと、そこにはライット4ポンド砲2門とミトライユーズ砲1門が遺棄されていたのでした。
ゴッツ少佐の攻撃成功とほぼ同時に、シュヴァリエ森の戦線反対側(南部)でも進展がありました。
猟兵第12大隊の第1,2中隊が踏ん張っていた小林の南側では、第107連隊の第5,6中隊(既述通りドゥジーを遅れて発進したため本隊に追従出来ず、行軍途中でシュヴァリエ森に目的地を変更しました)が進み来て、これに猟兵第13大隊の左翼側衛となっていて本隊より南へ進んだ半個小隊が加わり、前面の仏アルジェリア=ティライヤール第3連隊に突撃を敢行します。
ここでも、個々人は勇敢で獰猛な戦士であるものの、一端規律が緩むとたちまち崩壊してしまう植民地兵の脆さが出て、褐色や黒色の兵士たちは正に四散してしまうのでした。
この「遅れて登場した」第107連隊2個中隊を率いていたバッセ中尉は、「本隊から外れてしまった」猟兵たちと共に突進し、直前まで射撃中だったミトライユーズ砲2門を鹵獲するのでした。
こうして攻守が逆転したシュヴァリエ森では、弾薬切れで退いた後、新参部隊から緊急に銃弾を融通して貰った第105連隊の第1大隊と、第47「S第3」旅団長クルト・フォン・エルターライン大佐が直率していた第104連隊が一気にデニー部落に向けて前進を図るのです。
デニー攻撃は、第104連隊の第1、2大隊が一線となり、第3大隊が続行しました。
この内第4中隊は別動し、プティ・モンセル東の三叉路付近で砲列を敷いていたS軍砲兵を悩まし続けていたプティ・モンセル東郊外に散兵線を敷く仏軍部隊を攻撃し、これを後退させるのでした。
この早い展開はS軍に有利に働きました。
浮き足だった仏ラルティーグ師団はジヴォンヌ川東岸の線から一斉に後退し、一部は東岸に渡っていた師団砲兵を救助しようとデニー東の丘陵で抵抗しますが、これもミトライユーズ砲1門を残してデニーへ後退して行ったのです。
ヴィンファン将軍の手記によれば、この時、ズアーブ第3連隊は部落まで敗走した後、普近衛軍団が接近するのを知って「包囲されるのでは」との恐慌状態になり、部隊の一部はジヴォンヌへ逃走して遠くベルギーのブイヨン(セダンの北東13.5キロ)目指して国境を越え、何故かベルギー軍に抑留されずに半島状のジヴェ突出部を回り込み、再びメジエールの北25キロ付近(アイヴの西)の国境を突破して仏領に戻るという「冒険」を行っています。
いずれにせよ、S軍団は勝ちに乗じて一気に攻勢段階に入りました。
S軍第一線の部隊は、デニーに逃走する仏兵の背中が見えるまでに接近すると、諸部隊はヴィレ=セルネ道とデニーへ続くモンセル道との間を埋める形で連絡しつつ一斉に前進します。
最右翼(北)となったS猟兵第13大隊はヴィレ=セルネ道上をデニーに向かって直進し、その左翼側では第105連隊第1大隊両翼(第1,4)中隊が進み、更に南には第104連隊が前進して、その左翼はデニー南のモンセル道の線まで達しました。
第104連隊の左翼外には、このS軍団戦線の最左翼(南)として第105連隊第2,3中隊がラ・ラパイユ(デニーの南南西550m付近の家屋群)を目標に進みます。この左翼部隊には進撃開始直後に第107連隊第5,6中隊が加わり、更にはラ・モンセルから北上して来たB軍諸隊(B第3連隊第1,2中隊に、B猟兵第1大隊第1中隊と第2中隊半部)も合流するのでした。
この攻撃陣後方では、S猟兵第12大隊と第105連隊2個(第2と第3)大隊がシュヴァリエ森北西端の例の小林に集合し、先の短くも激しい銃撃戦による損害回復や補充を行いつつ、付近の十字路まで砲列を延ばしたS軍団やB軍砲兵を護衛するのでした。
S猟兵第13大隊第2中隊長で名門軍人貴族家の一員であったフォン・トライチュケ中尉は、大隊の先陣となった中隊の先頭に立つと、猛烈な銃撃を冒してデニーの橋を一気に渡り切り、デニーの部落内へ一番乗りで突入します。中隊は激しい抵抗を排除しつつ橋梁とその脇にあった水車場を占拠しました。
続いてデニーの南から、第104連隊第4中隊がキャストネラー(「二軒屋」で戦った第107連隊第3大隊長の弟です)大尉に率いられて部落に至りました。大尉と中隊は共にジヴォンヌ渓谷を進んだB軍諸隊の援護射撃の下、渓谷をよじ登って橋に到着し、部落へ侵入したのです。
デニー部落ではアルジェリア=ティライヤール第3連隊が奮戦して最後の抵抗を見せますが、次々と現れるSとB軍兵に対し次第に不利となって防衛線が崩壊、多くの戦死者と負傷兵を残して撤退しました。この時、連隊軍旗は旗手が戦死したため部落に残され、これを第104連隊第4中隊の兵士が奪取し連隊の歴史に栄誉を加えました。
第104連隊第1大隊の残り3個(第1,2,3)中隊はデニー部落南東側の小林や採石場に隠れ銃撃を続けていた仏軍兵士を駆逐し、周辺の掃討戦に入ります。同連隊第2、3大隊はその後方で停止し、何時でも第1大隊を援助出来るよう警戒しつつ待機に入りました。
第105連隊の第1,4中隊は猟兵第13大隊に続いてデニーに入り、橋の袂の水車場を猟兵と共に占拠します。第104連隊第4中隊に続いてジヴォンヌ渓谷を登って来たB軍とS軍の諸中隊(第107連隊第5,6中隊にB第3連隊第1,2中隊、B猟兵第1大隊第1中隊など)は、部落南側の庭園から敵を追い出し、その南側ラ・ラパイユには第105連隊第2,3中隊が突進し、この家屋群に籠った仏軍と激しい銃撃戦となり一時膠着状態になりましたが、第107連隊第5,6中隊が応援に駆け付け、ここでも仏軍を撤退させることに成功するのです。
テュライヤール兵に突撃するザクセン猟兵
こうして午前10時頃までに仏ラルティーグ師団は全てジヴォンヌ川西岸に撤退し、デニーとラ・ラパイユも独軍が占領して橋頭堡としました。
しかし仏軍ばかりでなく独軍側指揮官にも犠牲が大きく、第104連隊第1大隊長のアルマー少佐が戦死、同連隊長のバルトキー少佐に第105連隊長第1大隊長のフォン・ケッシンガー少佐も重傷を負ったのでした。
デニー周辺の戦線は、このデニー陥落で一段落し、以降持久戦の様相となります。
デニーからラ・ラパイユに掛けてデニー街道(現国道D129号線)に沿って戦線が形成され仏独軍は対峙しましたが、これは完全に仏軍有利の戦線となりました。
後退した仏ラルティーグ師団主力は、街道西側の高地斜面に長々と延びる庭園の外壁を使って完全に掩蔽された散兵線を維持しました。また、ジヴォンヌ川東岸より高い標高のデニー西側高地の上には、レリティエ少将師団のルフェーブル准将旅団が散兵線を敷き、ここには軍団砲兵とレリティエ師団砲兵が砲列を敷いていました。
S軍団諸兵が占領したジヴォンヌ川東岸は、高地上から撃ち掛ける仏軍諸隊の銃砲弾に対して余りにも無力な低い塀や生垣があるだけでした。しかし、午前10時過ぎにはこの戦線北部に普近衛軍団が進出し始め、S軍団の右翼(北)側はこれ以降、仏軍の攻撃に対して強靭な防御力を示すこととなります。
午前10時30分以降、仏第1軍団は普近衛軍団の西進を恐れて次第にジヴォンヌ川上流(北)に防御の力点を置くようになり、ジヴォンヌ下流域を護る仏第12軍団は、ラ・モンセルからバゼイユに掛けての戦線を次第に維持出来なくなって行くのでした。




