セダンの戦い/司令官交代
仏シャロン軍司令官伯爵パトリス・ドゥ・マクマオン大将は午前5時過ぎ、戦闘が始まったバゼイユ近郊まで騎行して仏第12軍団とB軍との市街戦を観察しました。その結果、優勢に戦う海軍将兵の姿に安心して、今度はジヴォンヌ川対岸の独軍(マース軍)の様子を確認しようとラ・モンセル西の高地に向かいます。
マクマオン将軍がこの高地に到着した直後、独軍からの突発的な砲撃が始まり、将軍の至近で一発の榴弾が炸裂、破片を浴びた将軍は負傷して倒れます(本人の手記では午前5時45分とありますが、独軍公式戦史では「その少々後」としていますので午前6時頃でしょうか)。
北西の高地(マクマオン将軍の負傷の地)から見たバゼイユ
大将は痛みに耐えつつ「ある決定」を副官たちに伝えた後、セダン城へ後送されました。それを見送った副官たちは「大将の決定」を知らせに急ぎ各軍団の本営へと走るのでした。
既述通り、マクマオン将軍は8月31日深夜に至ってもなおシャロン軍をセダンから「脱出」させることは可能と考えており、セダンにおける給養で幾分なりとも軍を「シャン」とさせた後、西に向けて進発し、メジエール要塞に至ったならば決戦すら考えていたのではないか、とも想像されます。
しかし大将は、高級指揮官や幕僚に対してさえ今後の方針を示しておらず、結局それを伝える前に戦場から去らざるを得ないこととなり、ただでさえ混乱の極みで統制の危機にあったシャロン軍は、更なる不運に見舞われることとなったのです。
マクマオン将軍を除いたシャロン軍の最古参先任士官は、第5軍団長に就任直後のエマニュエル・フェリクス・ドゥ・ヴィンファン将軍(1859年6月少将昇進)となります。次いで第7軍団長のフェリクス・シャルル・ドゥエー将軍(1863年1月少将昇進)でしたが、マクマオン将軍はシャロン軍を第1軍団長のオーギュスト・アレクサンドル・デュクロ将軍(1865年6月少将昇進)に托する、としたのです。
マクマオン将軍としては、「アフリカでは部下であり最古参だが頑固で融通が利かず、なにしろ戦場に到着したばかり」のヴィンファン将軍や、「不運が重なることがあったものの、ここまでの戦闘ではあまりぱっとしない采配振り」のドゥエー将軍より、「開戦以来、傍にいてお気に入り(=マクマオン将軍に忠実な)」のデュクロ将軍が後任に最適と信じたのでしょう。
マクマオン将軍
デュクロ将軍はマクマオン将軍が倒れた時、東から独マース軍に接近されて戦場で防戦の指揮を執っており、午前7時頃になって、マクマオン将軍が負傷し後送されたこと、そしてデュクロ将軍が後任のシャロン軍司令官に任命されたことを知らせたのはマクマオン将軍の副官でした。
その直後、唖然とする将軍の前にシャロン軍参謀長のフォール少将が本営幕僚を引き連れて現れ、「シャロン軍の指揮を引き継ぐよう」要請し「ご命令を」と迫ります。
「マクマオン大将が本官を指名したのであれば緊急の折、謹んでお受けする」
こうしてデュクロ将軍は軍司令の重責を引き受けるのでした。
負傷し構想される途中、デュクロに指揮権を譲るマクマオン
しかしデュクロ将軍は前日夕刻にカリニャンからジヴォンヌ川以西の陣地線まで後退したばかりであり、軍の会議に参加出来なかったばかりかマクマオン将軍にも会うことは出来ませんでした。そのため、大将が考えていた後退方向などの「真の意図」を聞いておらず、またシャロン軍が直面している「危機の全容」が見えないままに指揮を受け継いだのです。
特に自身の第1軍団の背後(セダン要塞西側)の状況、敵が既にドンシュリーに達し更に北上していることを知らず、セダン~メジエール街道は未だ安全であろう、と信じていたのでした。
ところが、指揮を受け継いだ直後に参謀長のフォール将軍が差し出した情報詳細を一読するや、デュクロ将軍はようやく「とんでもない状況を背負い込んだ」と実感するのでした。
そこには「ドンシュリーは独軍が確保し北上を謀る」との斥候報告や「独軍の大集団がヴィレ=セルネに向かっている」との騎兵報告が列記されていたのでした。
デュクロ将軍は「このままでは全軍がセダンで包囲されてしまう」と考え、まずは東部の第12、第1軍団をイイ(バゼイユの北6.7キロ)付近まで下がらせて第7、第5軍団と合流し、一旦軍を南向きにして半円形に展開させ、右翼(西)はムーズ川からセダン要塞西部にかけて、左翼(東)はジヴォンヌ渓谷からその北、仏白国境まで広がる森林地帯に背後を託して陣を構え、敵の隙を見て西側に展開する敵の追及を逃れつつメジエールまで一気に下がろう、と決断するのでした。
将軍は、「現在、ジヴォンヌ川の沿岸にある諸軍団は、その第二線にある各師団を先に、次いで第一線の諸隊を右翼から逐次行軍梯団にして、イイ付近に向かって後退せよ」と命令するのです。
バゼイユでの「ブルー(海軍)師団」の善戦を受け、「勝っている」と考えていた第12軍団長のルブロン将軍はこれを聞き及ぶと強硬に反対しますが、デュクロ将軍はこれを全く聞き入れようとはせず、命令を実行せよ、と重ねて命じるのでした。
デュクロ将軍
デュクロ将軍の「後退」命令は、ジヴォンヌ後方の第1軍団第二線部隊から実行されます。
第1軍団のペレ師団とレリティエ師団(ルフェーブル准将の第2旅団中心。カルトゥレ=トルクール准将の第1旅団はバラン部落からバゼイユの戦いに参戦)、そして第12軍団のグランシャン師団は各自の散兵線から順次北西方向へ移動を開始しました。
バゼイユ市街で激戦中のドゥ・ヴァソイーニュ「ブルー」師団もまた後退命令を受け、順次前線より後退する準備行動に入るのです。
しかし、市街で戦う前線の海軍兵士はなかなか前線を離れられるものではなく、後退を円滑に行うため、軍団左翼に構えていたラクレテル師団は牽制助攻としてラ・モンセルに攻撃を仕掛け、この動きに合わせ「ブルー」師団で未だまとまっていた部隊の幾つかがバゼイユ市街からラ・モンセル方向へ攻撃の矛先を向けるのです。
こうしてシャロン軍左翼(東)の第二線部隊は西へ転向し始めますが、「マクマオン将軍が負傷しデュクロ将軍に指揮を譲った」と聞いた後、重い腰を上げてセダン城からバラン部落後方の高地まで赴き、東側の戦線を見守っていたナポレオン3世は、「バゼイユではどう見ても勝っているというのに、何故退却せねばならないのか」との疑惑を感じ、副官を送ってデュクロ将軍を問い詰めるのでした。
デュクロ将軍は「何もわからぬ癖に」と心中怒りながらもぐっと堪えて副官に告げます。
「陛下にお伝えしてくれ。バゼイユでの勝利など取るに足らないものだ。敵はB軍をしてバゼイユで我らを拘束し、第1軍団の左翼に出て包囲しようと考えている。つまり敵の真の目標はイイ付近にある。貴官は急ぎ帰り陛下に奏上しろ。本官は天に誓って退却や軍の集中に当たっての秩序を守る。今やどのような展開になろうとも一旦起こした行動を中止してはならない、とな」
シャロン軍の最先任士官、第5軍団長ヴィンファン将軍はデュクロ将軍が自身の任命を知ったのとほぼ同じ頃(午前7時過ぎ)に、マクマオン将軍が負傷しデュクロ将軍が代わって全軍の指揮を執ることを通告されます。
ヴィンファン将軍は当初、最先任の自分を差し置いてデュクロ将軍が軍司令となることについて、「開戦以来従軍しているデュクロ将軍は、マクマオン将軍の意図や敵の状況について自分より深く知っているはずで、パリカオ首相の任命辞令や最古参士官としての権威を以てしても、今はそれを振りかざす時ではない」と考え、黙ってその指揮下に甘んじようとします。
ところが、午前8時前に第1と第12軍団が「イイへの移動後退」を命じられたと聞き、更に第12軍団長のルブロン将軍がこの命令に抗議した、と聞き及ぶと、「この命令は自分や政府の方針と相容れない」として、「今やこの命令を取り消させ、自分が指揮権を掌握することが仏軍にとっての最善」と決意、デュクロ将軍が指揮を執るジヴォンヌまで愛馬を疾駆させたのでした。
ヴィンファン将軍
「デュクロ将軍!」
ヴィンファン将軍は鬼の形相でデュクロ将軍に正対し、首相兼陸軍大臣パリカオ伯爵署名の「辞令」を突き出すと、こう要求します。
「本官はこうしてパリカオ伯より、マクマオン将軍に万一のことがあればシャロン軍の指揮を掌握せよ、との辞令を保持している。この際、シャロン軍は退却すべきではない。貴官は本官より早くに戦場に達し、敵と会戦を行っており、また、昨日は最も近くで敵と対していたので、敵の状況は分かっているだろう。本官が貴官に期待するのは、実力と能力を如何なく発揮して敵を撃退し、現在の防衛線を死守することだ」
これにはデュクロ将軍も驚き、余りにも現実を無視する命令に少々憤慨してヴィンファン将軍に詰め寄ると、次のように意見します。
「本官はマクマオン将軍より司令官の職を受け、それは陛下(ナポレオン3世)もお認めになったと聞きますが、敢えてその事は横に置きましょう。元より尽力して貴官を助けることは本官も願うところです。しかし、本官の意見もお聴き下さい。本官は普軍と相対する事既に2か月に及び、貴官よりは敵との戦い方を熟知していると自負するところです。敵は今や刻々と我がシャロン軍を包囲しようと企てている事は疑いのない事実。本官は敵の行動を直接目撃し、それを確信しています。軍の安全のため、本官が企画した退却命令を直ちに実行して頂きたい。後2時間も過ぎれば手遅れとなりましょう」
しかし、ヴィンファン将軍は首を横に振ります。
「貴官の言うことも一理あるが、現に勝利を得ている戦場を去ることは大いに士気を損じることとなるのは分かるだろう。現に退却にはルブロン将軍(第12軍団長)が強く反対したと聞く。軍の背後(西側)が危険であることも理解するが、これは敢えて無視して構わない。背後には予備騎兵があり、第7軍団も陣を構えているのだ。今は南正面の敵(B軍)を撃破する事に尽力すべき時なのだ」
デュクロ将軍はこれに反論し、
「敵の目的はセダン南部ではないのです。我々の背後となるイイです」
対するヴィンファン将軍は、
「イイ?イイとは何処だ」
この答えを聞いたデュクロ将軍は唖然とした後に憤慨して、
「何と!貴官はこの期に及んでも本戦場の要地イイの場所を知らないと言うのですか!」
デュクロ将軍はもどかしげに騎上で地図を取り出すと、鞍上に広げてイイを指さし示します。
「イイとはここです。ここが落ちれば我らは完全に包囲されます」
しかし、ヴィンファン将軍は鬼の形相を変えずに言い放つのです。
「貴官の言い様は『包囲、包囲』こればかりか!今は南部正面の戦いに勝利し、この勝ちに乗じて前進あるのみではないのか!本官は勝利を知っている。そこには貴官の様に退却と言う文字はない!」
これを侮辱と受け取ったデュクロ将軍は語気を強め吐き捨てます。
「何と貴官は未だに勝利を唱えるのか!ならば本官は手遅れになる前に退路を開かねばならない。では、これにて!」
そして馬に鞭を入れ去って行ったのでした。
ヴィンファン将軍は普軍の大集団がドンシュリーを橋頭堡として北上を図っていることを知っていました。そのため、デュクロ将軍の西進は成功するはずがないと考えており、元よりパリカオ伯爵の命を受けて「シャロン軍のメッス行」を画策していたので、メジエールへの退却など出来るわけがない、とするのです。
将軍は今後の作戦を、「現在の防衛線を死守して、敵の攻撃が弱体化するのを待ち、特に疲弊し始めているB軍の隙を突いて反撃に転じ、カリニャンへの街道を強引に東進すること」とするのでした。
ウジェニー皇后摂政政府の意向を受け、あくまでも「メッス行」に拘る将軍は、デュクロ将軍が命じた「後退」を取り消し、これによってペレ師団とレリティエ師団、そしてグランシャン師団の後退は直ちに中止されるのです。バゼイユから後退した「ブルー」師団の一部部隊も再びバゼイユへと戻されたのでした。
この時点(午前9時頃)でヴィンファン将軍が率いることとなった仏軍本営は、デュクロ将軍が命じた後退命令により、既にバゼイユ、デニー、ジヴォンヌの主要部分から仏兵が引き上げてしまった、と信じていました。しかし実際にはバゼイユで未だ激しい市街戦が続いており、デニーには第1軍団のラルティーグ師団が、ジヴォンヌにもウォルフ師団がいました。
午前9時。「ブルー」師団の主力は既にデュクロ将軍の命令で攻撃軸をバゼイユ南部からラクレテル師団が戦うモンヴィル城館付近とラ・モンセル方面に変えつつあり、この行動によってB第1軍団とその右翼(北)に展開するS軍団左翼に対し仏軍の猛攻が始まったのでした。
狙撃するブルー師団兵士
仏第12軍団の第2師団長、シャルル・ニコラス・ラクレテル少将は午前8時過ぎ、デュクロ将軍が命じた後退命令から派生した「バゼイユで戦うブルー師団を後退させるための助攻」を命じられ、バゼイユの北部(モンヴィル城館庭園)からラ・モンセルにかけて一斉攻撃を敢行します。
モンヴィル庭園においてB軍およそ1個連隊の兵力が市街西部へ突破出来ず激しい銃撃戦に陥ったのも当然で、元よりこの城館周辺を防衛していたブルー師団第1旅団の一部に増援としてラクレテル師団の一部が加わり、地の利も得た仏軍は、バゼイユ北部の戦線を一時完全な膠着状態に持って行くことに成功するのです。
ラ・モンセル方面でもおよそ一個旅団の仏軍戦列歩兵やマルシェ歩兵が一斉に前進し、デニーからラ・モンセル西にかけての仏軍散兵線へ砲撃を加えていたS軍団砲列も、自らの方向に突進する仏軍散兵に目標を変えざるを得なくなるのでした。
当初、デニー付近で東へ渡河を始めた仏軍は、次第にその南側の複数地点でジヴォンヌ川を渡り始め、ラ・モンセル付近の独軍砲兵たちは必死で榴弾砲撃を繰り返すのでした。しかし一部では砲列まで250m以下に迫られ、護衛も少なく砲兵や牽引馬匹に被害が増え始めると、S軍団砲列は一時退却(B軍の6ポンド第6中隊も直接攻撃を受けバゼイユ停車場まで後退)することとなったのです。
この時S軍団砲兵で唯一、ラメクール街道の南側に砲列を敷いていたコップラッシュ中尉率いる軽砲第6中隊だけには後退命令が届かず、その南側で砲撃を続けるB軍6ポンド第5砲兵中隊と共に、銃砲火を浴びせつつ迫る仏軍散兵に対し、至近距離の榴散弾砲撃で応じるのでした。
後退したS軍団砲兵も数百m東へ離れた場所で急ぎ砲列を敷き直し、猛砲撃を繰り返した結果、仏ラクレテル師団の第一線部隊は大損害を受けた挙句、やがて耐え切れずに後退を始めるのです。
こうしてS軍団砲兵は短時間で元の砲兵陣地に戻り、途切れず砲撃を続けるのでした。この時、それまでは予備として後方に控えていた騎砲兵第2中隊も砲列最右翼(北)に砲列を敷き、砲撃に参加するのでした。
砲兵が一時後退した午前8時過ぎ、S軍団の第107連隊とB第3旅団の一部が確保したラ・モンセル周辺地域は、バゼイユのブルー師団を後退させようとする仏ラクレテル師団の猛攻に遭って孤立し、同時に始まった仏第12軍団と第1軍団の一時的逆襲(デュクロ将軍が命じた後退を成功させるための後衛戦闘)により、ラ・モンセルからデニーの東側高地に前進しようとするS軍団は仏軍と正面から衝突するのです。
第24「S第2」師団の残部は全てがこのデニー方面を焦点とした戦闘に指向けられ、第23「S第1」師団はようやくラメクールへの入り口であるラ・ルエルに前衛が到着したばかりでした。
この頃、ラ・モンセルにおける孤立した戦闘の指揮を執っていたフォン・シュルツ少将が重傷を負って後送され、直ちに第107連隊長のフォン・リンデマン中佐が指揮を代わりました。
また、仏軍が逆襲を開始した時とほぼ同じくして、モンヴィル城館で待機していたB第12連隊第7中隊がラ・モンセル南部に到着して戦闘を開始し、同じくB第3連隊第9中隊も部落東の城館から出撃し、部落の墓地に拠点を置いて防衛戦闘に参入するのです。しかし、独断でモンヴィルから北上し、第7中隊の先頭に立って指揮を執ったB第12連隊第2大隊長ハルラッハ少佐は、敵弾を浴びて壮絶な戦死を遂げたのでした。
「ラ・モンセルの危機」を知らされたB第2師団長フォン・シューマッハ少将は、バゼイユ南郊外に到着し始めたB第4旅団の一部に対し北上を命じ、師団砲兵隊にも北上参戦を命じたのでした。
遡ること午前8時過ぎ。
独第12(S)軍団長ゲオルグ・ザクセン王子は第23師団の前衛を直率してラ・ルエルに進出します。
ここで王子は続々と到着する第23師団を区処して、前衛の第46旅団に対し午前9時頃、バゼイユに向かい前進を命じます。残された第45旅団にはこの地で待機を命じました。師団長のアルバン・フォン・モンベ少将は、師団砲兵で前衛に随行していた2個中隊を、B軍の6ポンド砲兵が砲撃を行っているモンヴィル城館東の高地へ差し向けました。
また、デニー方面で戦う第24師団より砲兵援護の要請を受けたモンベ将軍は、待機していた第45旅団から第101連隊を割いて、ラ・モンセル東の砲列へ向かわせるのでした。
これらの命令により、ラ・モンセル東側独軍砲列は、その左翼(南)側で増加を見ます。
シューマッハ将軍の命により、独り砲撃を続けていたB砲兵第1連隊6ポンド砲第5中隊の左には、B第2師団砲兵を指揮するルートヴィヒ・ムスジナン少佐配下のB砲兵第1連隊4ポンド砲第2中隊と、6ポンド砲第8中隊が到着し、直ちに砲列を敷きました。
S軍団からは第23師団砲兵の砲兵第12連隊重砲第1中隊と軽砲第2中隊がラメクール街道まで進むと、街道と南側砲列のS軍団砲兵軽砲第6中隊との間に展開し砲撃を開始するのでした。
午前9時を過ぎる頃には、S軍団からの13個砲兵中隊とB軍の3個砲兵中隊がジヴォンヌ川東方の高地に砲列を敷き、以前に増して激しい砲撃を繰り返したのです。
S軍団の第46旅団がバゼイユ市街へ近付いた頃、激しい戦いを続けるモンヴィル城館からラ・モンセルにかけての戦線では、B軍諸隊が弾薬欠乏を訴え始めます。第46旅団を率いるフォン・ザイドリッツ大佐はB軍の複数指揮官から増援を直接に要請され、直ちに救援に赴く旨を答えます。大佐は旅団行軍を市街直前で右(北)へ曲げ、モンセル道をモンヴィル城館方面へ進めました。
ザイドリッツ旅団の先頭は第102連隊(但し2個中隊が遅れてこの時点では10個中隊)で、部隊は直ちに庭園での戦闘に加わります。
同連隊第4中隊は庭園内のオレンジの温室と庭園北西隅を確保して銃撃戦に加わり、第1,2中隊は、庭園東部にある砲兵援護のため、付近の雑木林とその周辺に布陣しました。
同連隊の第2、3大隊は庭園東の塀に沿って北上して庭園北辺に達し、ここで5個(第5,7,8,10,11)中隊はB軍兵が急遽設置したジヴォンヌ川に架かる応急の仮橋を渡って庭園内に入り、ここから北に向けて戦線を延長して、至近の果樹園とポプラが目立つ雑木林を中心に西に向けて散開するのでした。
連隊残りの第9,12中隊と、遅れて到着した第6中隊は庭園東塀で予備として待機します。ここには間もなく連隊で最も遅れていた第3中隊も到着し、この合わせて1個大隊は、モンヴィル庭園において独軍の貴重な予備戦力となるのでした。
こうして第102連隊もモンヴィル庭園の戦いに加入しましたが、この程度の戦力増強では強力な仏軍の「圧力」に抗し切れるものではありませんでした。戦線の膠着に変化がないことを知ったモンベ将軍は、旅団残りの第103連隊を直率してモンヴィル庭園に入ります。
しかし、この連隊は第3大隊を欠き(同大隊は当時ムーズ川遙か上流の要所ストゥネ部落防衛任務に就いていました)、第2中隊も砲兵援護のために後方にありました。つまり、ほぼ半分の7個(第1,3,4,5,6,7,8)中隊のみで参戦したのです。
庭園に入った連隊の右翼は北辺に新たな散兵線を敷いた第102連隊第1大隊と連絡し、同じく庭園の北で戦うB第12連隊第1大隊とも連絡を付けました。このB第12連隊第1大隊はこの頃、庭園北部に味方が増えたため北上を開始しており、独軍戦線はジヴォンヌ川に沿ってラ・モンセルまで繋がったのでした。
モンヴィル庭園でS軍団の応援を得たB第1軍団も、お返しとばかりに最後の旅団であるB第4旅団の前衛が寡兵に喘ぐラ・モンセルまで進み出ます。
シューマッハ将軍の命令により北上したB第4旅団の前衛は、B第10連隊の第1、2大隊でした。但しこの部隊も3個中隊が欠けており(第1中隊は弾薬縦列警護、第4と第8中隊は砲兵護衛)、この当時僅か5個(第2,3,5,6,7)中隊に過ぎません。
部隊は連隊長の男爵ルドルフ・フォン・グッテンベルク大佐が直率しモンヴィル城館を横目にモンセル道を突き進み、ラ・モンセルの南で渓谷となるジヴォンヌ川の谷底に降りて渡河すると、第2,3中隊はラ・モンセルの西側で部落からバランへ続く街道(現国道D17号線。以降バラン街道)の南側で、第5,6,7中隊はバラン街道を越えて北側で、それぞれ銃撃戦を開始します。
これにより、例の「二軒屋」で孤立して戦っていた第107連隊第3大隊のS軍兵は大いに救われますが、ここまで部隊を引率したB第10連隊長グッテンベルク大佐は銃撃戦の指揮中に負傷してしまうのでした。
普軍とバイエルン軍の共闘
こうしてモンヴィル城館とその庭園、そしてラ・モンセルの「か細かった」独軍戦線は強化され、その危機は去りました。
シューマッハ将軍はモンヴィル庭園の戦線が補強され安定したのを感じると、軍団長の弟が率いるB第4旅団の残り、即ち軍団最後の戦力を、まるで地獄の様相を呈し始めていたバゼイユの市街地へ待望の増援として投入することが出来るようになったのでした。




