セダンの戦い/バゼイユ・死闘の始まり
B第1軍団長の男爵ルートヴィヒ・フォン・デア・タン=ラートザームハウゼン歩兵大将は31日深夜、この日に本営を構えていたアンジュクールにて上司である独第三軍司令官の普フリードリヒ皇太子より「B第1軍団は敵を抑止するため、マース軍と協力しつつ行動せよ」との主旨の命令を受領します。
フォン・デア・タン大将は、直ぐにでも始まるかも知れない仏軍の総退却を妨害するため、B第1師団の第一線部隊により、可能な限り速やかにムーズを渡河させることを即決しました。そして自ら馬を駆ってイクールへ向かい、午前3時、イクールのB第1師団本営にて次の主旨の命令を発するのです。
「B第1旅団はイクールより昨日(31日)ムーズへ架橋した舟橋を使って東岸へ渡り、B第2旅団の第一線部隊は同時に軍団参謀長フォン・ハインシット中佐の誘導指示に従ってバゼイユ鉄橋を使用し渡河せよ。両旅団は渡河後に静音隠密でバゼイユ市街へ接近し、出来る限り射撃を行うことなく同市街地の北端まで進出せよ。ポン=モジ高地上のB第2旅団第二線部隊はバゼイユ鉄橋を防衛するため、しばらくは現在地に留まるように」
バゼイユ鉄橋
9月1日木曜日。セダンは前日同様、濃霧で明けます。
B第1師団は黎明時の薄闇と一寸先も見えない霧に紛れて午前4時、ムーズ渡河を開始しました。
鉄橋を最初に渡ったのはB第2連隊第1大隊長フォン・ザウアー少佐率いる先鋒隊で、その編成はB猟兵第9大隊第4中隊、B第2連隊第1,3大隊(砲兵護衛のため第1,9中隊欠)の歩兵7個中隊でした。
ザウアー少佐は橋を渡るや猟兵中隊を散開させ、その後方から3個中隊の縦列横隊が2本直列する形で前進し、鉄道堤から降りるとバゼイユ市街南端へ続く小道を直進しました。ザウアー少佐は前日の状況及び敵が退却するとの情報から、市街地は敵の後衛部隊がいるだけで急襲すれば一気に市街北端まで占領出来る、と踏んでいました。少佐の予想通り猟兵中隊は市街地まで何の妨害もなく進み、バゼイユ街道を渡って市街へ入ることが出来ます。
ところが、一歩市街地に入ると道にはバリケードが築かれており、そこには多数の兵士が潜んで一斉に射撃を開始したのです。また、通りに面した石造りの家屋二階部分からも射撃が行われ、十字砲火を浴びたB軍猟兵たちは慌てて裏道へ飛び込み難を逃れようとしました。しかし、裏道や路地にもバリケードがあり、家屋や遮蔽物に潜んだ敵から猛烈な射撃を浴び、B猟兵中隊は一歩も前進出来なくなったのでした。
このバゼイユ部落は、手入れされた庭園状の草地や小林に囲まれたセダンの裕福な郊外市で、家屋はほとんどが立派な石造りの二階建てで、頑丈な三階建ての大邸宅も散見していました。
北西のバラン部落から市街を抜けて東のドゥジーへと続く、いわゆるバゼイユ街道は、市街地の南で鉤型に折れ、市街を北東部分とそれ以外の部分とに分けています。
市街の西側部分には大きな市場があり、ここには尖塔が目立つ大きな教会がありました。反対側、市街の南東端にはドゥリヴァル城館(シャトー・ドゥリヴァル。現存)があり、手入れされた林がこの北に続いていました。
市街地北部には目立つ建物としてブールマン邸宅があり、これはバランへ至るバゼイユ街道とデニーへの街道が分岐する部分にあり、仏軍の重要な拠点(実際は野戦病院もありました)となります。
同じく防衛拠点としては、バゼイユ街道を進む者を東側から狙撃可能な林と草地のあるモンヴィル城館の庭園(現在、その南側はユニークな形の校舎を持つバゼイユ職業高校になっています)があり、これは市街地の北東角までに細長く存在していました。その北には腰高の境界壁を持った果樹園が点在しており、これも銃撃拠点として有効です。またモンヴィル城館の庭園北西側には高い生け垣が巡らせてあり、それに沿って水壕もありました。他の部分は高い壁で区切られており、最も長く続く東側の壁には門が1ヶ所しかなかったのです。
モンヴィル城館の庭園内にはジヴォンヌ川が流れており、ここには二本の橋が架けられ、一本は城館の脇に、もう一本は庭園南部にありました。しかし、城館のある北部分では川幅があり、比較的浅かったため橋以外でも渡河は可能でした。
そしてモンヴィル城館の庭園北縁からラ・モンセルの部落南縁までは開墾地で視界が開けており、支障なく人馬の移動が可能だったのです。
モンヴィル城館
バゼイユ市街は既述通り31日の夕刻からマルタン・デ・パリエール准将の仏海軍第2旅団が防御を固めており、特に市街北部ではブールマン邸を始め堅牢な家屋に銃座を設けて通りを狙っていました。
しかもB軍猟兵がバゼイユ市街に入った直後に響いた銃声は警鐘となり、北西側のバラン部落南郊外で待機していたフランシス・ルブル准将の海軍第1旅団は直ちに斜面を駆け降りて1キロ離れたバゼイユ市街に突入し、最先任士官となったルブル准将はバゼイユ防衛の全体指揮を執ることとなったのです。
仏シャロン軍で最も戦意の高かったと言えるブルー師団が護るバゼイユの街は、B第1師団の突入によりたちまち激しい市街戦の場と化しました。
B猟兵中隊に続行したB第2連隊の6個中隊もこの激しい戦場に参入し、その先頭を行く第1大隊の3個(第2,3,4)中隊は午前5時に市街地の北、バランとデニーへ向かうそれぞれの街道分岐点付近まで進むことに成功します。ところが先陣に立っていたグロックナー大尉率いる第2中隊は、この街道分岐の直ぐ北にあるブールマン邸に籠る仏海軍兵士に対し、幾度も攻撃を仕掛けましたが全て失敗に終わってしまい、中隊の士官はことごとくが死傷してしまったのです。
同じく、街道分岐点の東側に進もうとした第3中隊や、ブールマン邸の北西にある庭園に侵入した第4中隊も付近の家屋や庭園の塀に隠れる仏兵から猛烈な射撃を浴び、前進を阻まれると同時に後方市街の家屋に潜んでいた仏兵からも射撃を受けて釘付けとなり、後退することも不可能となってしまったのでした。
第1大隊に続行したB第2連隊の第3大隊(第9中隊欠)は、その第10、11中隊が市街地の東へ進み、第12中隊は苦戦する第1大隊の援護のためにブールマン邸の西へ向かいます。
午前5時過ぎの時間は濃霧と早朝だったため視界が悪く、激しい銃撃戦の最中、攻撃側は正に手探り状態で一軒一軒シラミ潰しに攻撃を敢行し、おかげで兵士は分散し、部隊は次第に散り散りとなり、B軍は部隊の区別がなくなって歩兵と猟兵は部隊を超越し混合して行くのでした。
この午前5時、フォン・ディートル少将直率のB第1旅団本隊はイクールの仮設舟橋を渡り始めました。
昨夜に警戒のため一部を外していた西側の舟橋は、午前6時になってようやく開通し、部隊は戦闘が始まったバゼイユ市街へ直進します。
その先頭を行くB猟兵第2大隊は市街で戦うB第2旅団先鋒の援軍として市街へ突入し、続くB第1連隊第2大隊はバゼイユ停車場を占領、残りのB第1旅団部隊は市街地の南側へ進み出て再集合するのでした。
フォン・デア・タン大将は午前4時、マース軍本営発午前1時45分の全軍命令の写しを手に入れます。「マース軍は午前5時、ヴィレ=セルネ、フランシュヴァル、ラ・モンセルの各地へ前進せよ」との主旨で、「普第4軍団の1個師団がB第1軍団への増援としてルミリー(=イクール)に派遣される」との内容もありました。予備部隊を与えられると知ったフォン・デア・タン将軍は、軍団全部を戦線に投入する決意をするのです。
これにより、ルミリーで待機状態にあったB第2旅団本隊に対し、「舟橋を利用して渡河し、バゼイユへ前進せよ」との命令が下りました。また、フォン・デア・タン将軍はB第3旅団も第2旅団に続いてバゼイユへ進撃させると、B第4旅団とポン=モジの高地に待機していたB第2旅団の3個大隊をムーズ河畔まで前進させ、第4旅団は舟橋と鉄橋に分かれ、第2旅団の3個大隊は鉄橋付近で、それぞれ何時でも渡河出来るよう待機させるのでした。
後方部隊への命令が行き渡ると、B第1師団長のフォン・シュテファン中将は自ら騎行して舟橋を渡りバゼイユ停車場へ進みます。ここにバゼイユ攻撃の本営を構えると午前5時30分、バゼイユ市街地南部に集合したB第1旅団の本隊4個(B第1連隊第1とB親衛連隊の3個)大隊に対し市街地への前進を命じるのです。
バゼイユ停車場
B第1連隊第1大隊はモンヴィル城館の庭園東縁に沿って北に延びる道(現モンセル道)を進みますが、大隊長のフォン・リューネシュロス少佐は「バゼイユは既に我が方が確保している筈」と踏み、「更に敵の左翼(北)を包囲しよう」とラ・モンセルへ向かいます。
B親衛連隊(3個中隊欠の9個中隊のみ)は命令通りバゼイユ市街へ進み、たちまち激しい市街戦に陥ります。市街地南部はほとんどがB軍の手にありましたが、残存する仏海軍兵士は頑丈な家屋に籠って激しく抵抗し、戦いは一軒ずつ家屋を巡る攻防が四方八方で連続する混戦模様となりました。すると間もなくB親衛連隊の将兵は、西側から友軍兵士が後退する姿を見ることとなります。
これはブールマン邸の西側で激戦を繰り広げていたB第2連隊の第4中隊で、仏軍は進退極まったこの中隊に対し再三再四突撃を敢行して、遂に耐え切れなくなった中隊は市街地の北西側から後退を始めたのでした。
このため、市街地西側で戦っていたB第2連隊第1と第3大隊の諸中隊は側面から攻撃され始め、順次後退の止む無きに至るのでした。
このB軍将兵の後退戦も激しいものとなります。
先鋒隊を率いていたフォン・ザウアー少佐は、後衛となった第3中隊の残存兵を率いて一軒の家屋に籠りますが、仏軍はこれを完全に包囲し、1時間余りに渡る攻防の後、少佐は第3中隊と共に投降するのでした。
市街西部に残っていたB猟兵第2大隊の第1中隊も次々に押し寄せる仏海軍兵士の群に押し切られ、結局は敗走状態で後退し、バゼイユ市街の西部は一時仏軍が完全に奪還しました。
これら後退した将兵は鉄道堤後方まで退却して再集合します。押される形で後退した将兵の中には、市街東側の戦闘に部隊を越えて参加する者もいました。
この押し寄せる仏軍を防いだのは、2個中隊だけで参戦していたB親衛連隊第3大隊(第9,10中隊)で、彼らは敗走する兵士を後方へ送ると、バゼイユ街道の南側に陣取って銃撃戦を行い、仏海軍兵を押し返したのでした。
バゼイユ街道沿いを進んだB親衛連隊の残り(第1大隊と第6,7,8中隊)は、ブールマン邸付近から幾度も試みられる突撃を受け、激しい白兵戦を行いますが、既に左翼側(西)の友軍が退却してしまったため、結局は戦線に突出する形となってしまい、包囲される前に退却することになったのでした。
この時点で、B軍は市街地南部のバゼイユ街道屈折点付近まで押し戻され、この角の南東で二軒の頑丈な石造り家屋を確保し防御拠点としますが、仏軍は残り三方を確保しており、家屋からは激しい銃撃が浴びせられたのです。
これにより、この「丁字路」は一時市街地争奪の焦点となるのでした。
B親衛連隊第2大隊(3個中隊)と市街地東部にいた諸隊も、この「熱い曲がり角」に吸い寄せられるように移動して戦い、仏軍もB軍兵士が頑張る二軒の家屋に対し幾度も突撃を敢行しました。しかし、B軍は必死でこの角を死守し、仏軍は突撃の度に大きな犠牲を払うのです。また、B軍もB猟兵第2大隊第2中隊が二軒の拠点に対面する仏軍拠点の家屋に対し突撃を行ったものの、仏軍と同じく大きな犠牲を出して撃退されてしまったのでした。
丁字路は負傷者と戦死者で埋まり始め、戦闘は膠着するかと思えた午前7時45分、イクールの舟橋を渡河したB砲兵第1連隊4ポンド砲第3中隊から先行して1個小隊2門が到着します。砲兵たちは急ぎB猟兵が撃退された邸宅から50mまで接近して敵の拠点に砲撃を加えます。この決死の反撃を受けて仏海軍兵は撤退し、すかさずB軍兵士が突進してこれを占拠するのでした。
これを足掛かりに丁字路の邸宅群を制圧したB親衛連隊第2大隊長フォン・バウアー=ブライテンフェルド少佐は、大隊の残存兵を率いて街道をブールマン邸まで突進し、邸宅に突撃を敢行しましたが、邸内には未だ多くの仏兵がおり、シャスポー銃の射撃は正確かつ猛烈で、再びB親衛連隊の攻撃は頓挫するのでした。
先ほど街道の丁字路における戦闘で、砲撃が有効だったことを知った少佐は、直ちに4ポンド砲2門を呼び寄せます。砲は仏兵の銃撃が及ばない裏路地に運び込まれ、ここで砲の前車を外された砲は、人力でブールマン邸前の街道まで運び出されました。砲兵小隊長のフリッカー中尉は直ちに砲口をブールマン邸に向けますが、仏軍から猛烈な銃撃を浴びてしまいます。ところが、B軍砲兵は銃撃を無視して砲撃を行い、12発の榴弾が邸宅に大きな穴を開けるのでした。しかし、B砲兵小隊の犠牲もまた大きく、砲手は全員が死傷してしまったのです。結局邸宅は陥落せず、B軍兵士らは仏軍が逆襲を企てる前に、4ポンド砲を引いて再び路地へと撤退するのでした。
市街の銃撃戦(仏軍)
午前8時におけるバゼイユ市街の状況は、双方次々と増援を投入するため、戦闘は苛烈を極めて延々と続き、バゼイユ街道においては一進一退が繰り返されて勝敗の行方は全く混沌としていたのです。
海軍師団が全力で戦い始めると、仏第12軍団を率いるルブラン将軍は、自軍団右翼に連なる仏第1軍団に対し増援を要請しました。
自軍団から増援を出さなかったのには理由があり、バゼイユの戦闘が激しくなると同時に、ザクセン(以下S)軍がルブラン軍団左翼の構えるラ・モンセル東の高地に向けて進撃を始めたからで、ルブラン将軍は次第に防戦一方となったからでした。
増援要請を受けた仏第1軍団長のデュクロ将軍は、第二線で予備となっていたレリティエ少将師団からカルトゥレ=トレクール准将率いる師団第1旅団を引き抜き、午前6時に増援として手薄となったバラン部落へ移動させます。
また、セダン城後方に控えていた仏第5軍団のゴゼ少将率いる第1師団からも、未だ規律と闘志を失っていなかった一部の部隊が前進し、ムーズ河畔の水没地帯に沿って南下するとバゼイユの西郊外から戦闘に参入するのでした。
対するB軍もフォン・オルフ少将率いるB第2旅団本隊が市街地に到着し、その先頭を行くB猟兵第4大隊は午前8時30分、ドゥリヴァル城館の庭園西側で、弾薬が底を尽き戦線から後退して補充を求めていたB猟兵第2大隊の残存兵と合流しました。
その後方から接近したB第2連隊第2大隊は、市街の南西側の塀を巡らせた庭園に侵入し、隣接する家屋二、三軒を接収すると急ぎ射撃拠点を設け、市街地全域を制圧しようと再び前進して来た仏軍に対し、効果的な銃撃を行うことで前進を阻止するのでした。
市街南西側に強固な拠点を得て、市街西側への反撃の足掛かりとしたB軍では、市街南部で敵を追い返していたB親衛連隊第3大隊長のフォン・ヨーネル=テッテンヴァイス少佐は敵が怯んだのを機会と捉え、第9,10中隊を直率して庭園の横道から市街西側の仏軍拠点、尖塔目立つ教会堂と市場へ突進するのです。
しかし、どうやら住民まで動員し始めたらしい仏軍必死の抵抗に遭い、少佐の2個中隊も家屋群に突入出来ずに遮蔽物の陰から激しい銃撃戦を行うしかなくなり、また仏軍側も反転突撃には至らず、ここでも戦線は膠着するのでした。
午前9時までに戦線は膠着し、双方の犠牲は高まるばかりでした。
B軍ではB第2連隊の第3大隊長ストイラー少佐が戦死、B猟兵第2大隊長フォン・ファルラーデ少佐も負傷、フォン・オルフ少将も乗馬を倒されました。
仏軍では、マルタン・デ・パリエール准将が前日夕刻に負傷したものの指揮を続け、ルブル准将も十字砲火を浴びて間一髪モンヴィル城館の庭園へ逃げ込んでいます。海軍歩兵第1連隊長のルイ・ブリエール・ドゥ・イスル大佐は尻に銃創を負い、ドマンジュ中佐、シャセリオー少佐、クロスニエール少佐、フルミエ少佐、ホファー少佐が戦死、ショメ中佐、ブル、ボネ、スタール、ドバの各少佐が負傷しました。
前述通りバゼイユの熱血的な住民も自ら銃を取って戦闘に参加し、公然とB軍兵士に反抗し、隙あらば、と銃撃を始めました。
B軍兵が接収した家屋では、ドアを開けるなり銃撃を浴びせられ負傷する兵士があり、憎悪に駆られた住民の一部は、正規の戦闘では撃たれることのない担架兵や後送される途中の負傷兵にまで見境なく銃を向け倒し始めます。怒ったB軍兵も次第に容赦なく銃を持った民間人と見るや銃撃するようになり、頭に血が昇って情緒不安定となった一部兵士は次第に誰彼構わず、銃を持たない男ばかりでなく老人や女子供にまで銃撃を浴びせるようになって行くのでした。
この後の長時間の戦闘の果てには公然と私的な銃殺刑まで行われるようになり、双方の憎悪は極限にまで達し、互いに残虐行為が目立ち始め、また一部では捕虜を取らない殺戮が行われ、まるで中世の十字軍やナポレオン戦争時のスペイン(いわゆるゲリラの始まり。「半島戦争」)のような殲滅戦を連想させる悲惨な状況に陥ったのでした。
Bazeilles 1870
一方、双方の砲兵たちは当初は濃霧のため、午前6時以降霧が晴れ始めても市街戦のために明確な目標がなく、また同士討ちの危険があるため砲撃を行うことが出来ませんでした。
ポン=モジやイクールに砲列を敷いていて砲撃機会を待っていたB軍砲兵は午前6時、フォン・デア・タン大将から「バゼイユ北方の仏軍砲列や増援に向かう歩兵の行軍列を狙って砲撃せよ」との督促命令を受け砲撃を開始します。しかし、砲兵の予想通り距離が遠く観測も十分でなく正確な砲撃がままならないため、顕著な効果を上げることは出来ませんでした。
この直後、ルミリーから進んで舟橋を渡った6ポンド第5中隊だけが、ようやく有効射程内に敵を捉えることが可能となるのです。
午前6時30分頃、バゼイユ停車場で指揮を執るフォン・シュテファン将軍の下に、前衛に属して北方に偵察斥候を放っていたシュヴォーレゼー(以下「軽」)騎兵第6連隊第4中隊から報告が入り、「S軍団はラ・モンセルの高地に向かって前進を開始した」とのことで、シュテファン将軍は6時45分、到着したばかりの6ポンド砲兵中隊に対しバゼイユ北東側の高地(ラ・モンセルの東側およそ450m。モンセル丘陵の緩斜面)に進むよう命じます。将軍はS軍団の砲兵が既にこの高地に砲列を敷き、北西方に向かって砲撃を開始したことを認知していたからでした。
6ポンド砲第5中隊長の男爵フォン・フッテン大尉は、中隊を高地上に導くと、折しも砲撃中のS軍砲兵軽砲第4中隊の左翼(南)側に場所を定めて砲列を敷き、ジヴォンヌ川西側の仏軍(第1軍団)散兵線に榴弾を送り始めるのです。
この砲列援護に就いたのはB第11連隊の第8中隊とB親衛連隊第11中隊の数個小隊で、彼らは砲兵の存在を知って西側の谷から攻撃前進を始めた仏軍部隊と交戦し始めるのでした。
1970.9.1セダンの戦い(カール・レヒリング)
※1日午前6時におけるバゼイユ市街地の仏軍
☆バゼイユ市街全域
◎第12軍団第3「海軍(Division Bleue)」師団
師団長 エリー・ジャン・ドゥ・ヴァソイーニュ少将
ドゥ・ヴァソイーニュ
*第1旅団 フランシス・ルブル准将
・海軍歩兵第1連隊(在ツーロン/ルイ・ブリエール・ドゥ・イスル大佐)
・海軍歩兵第3連隊(在ロッシュフォール/エドゥアール・オーギュスト・ル・カミュ大佐)
*第2旅団 シャルル・マルタン・デ・パリエール准将
・海軍歩兵第2連隊(在ブレスト/ルイ・ウジェーヌ・アレイロン大佐)
・海軍歩兵第4連隊(在ツーロン/ダルボー大佐)
☆市街西部
◎第5軍団第1師団
師団長 フランシス・オーギュスト・ゴゼ少将
*第1旅団 クリエーション・ドゥ・アレクシス・デニス・ソーラン准将
・戦列歩兵第46連隊(ミシェル・アンリ・アルフレッド・ピション大佐)
・猟兵第4大隊(ギヨーム・イアサント・フォンセグリーヴ少佐)
*第2旅団 男爵ジャン・ニコラ・シャルル・ヴァリク・ニコラ准将
・戦列歩兵第61連隊(ルイ・ギュスターヴ・アルフォンス・ヴィシー中佐)
・戦列歩兵第86連隊(オーギュスト・フロリモン・ディ・アレクシス・ベルトー大佐)
※師団全てではなく一部が参戦しました。戦列歩兵第11連隊(バセリエ中佐)は30日の戦闘で壊滅状態のため、参戦していないと思われます。
☆バラン部落付近で待機
*第1軍団第3師団第1旅団
旅団長 カルトゥレ=トルクール准将
・戦列歩兵第36連隊(ボードワン大佐)
・ズアーブ歩兵第2連隊(デトリエ大佐)
・猟兵第8大隊(ベノ少佐)
※1日午前4時~5時にバゼイユ市街地へ進んだB軍
◎B第1師団
師団長 バプティスト・リッター・フォン・シュテファン中将
シュテファン
☆バゼイユ鉄橋を渡った部隊
◯B第2旅団先鋒支隊 支隊長 フォン・ザウアー少佐
・B猟兵第9大隊第4中隊(フォン・マイヤー大尉)
*B第2連隊
・第1大隊(第1中隊欠/フォン・ザウアー少佐直率)
・第3大隊(第9中隊欠/ストイラー少佐)
※第1,9中隊は砲兵援護。
☆イクールの軍舟橋を渡った部隊
◯B第1旅団 旅団長 カール・リッター・フォン・ディートル少将
・B猟兵第2大隊(フォン・ファルラーデ少佐)
*B第1連隊 アルベルト・フォン・ロート大佐
・第1大隊(フォン・リューネシュロス少佐)
・第2大隊(ダッフェンライター少佐)
*B親衛連隊 連隊長アントン・リッター・フォン・トイフェンバッハ大佐
・第1大隊(エッカルト少佐)
・第2大隊(第5中隊欠/フォン・バウアー=ブライテンフェルド少佐)
・第3大隊(第11,12中隊欠/伯爵ヨセフ・フォン・ヨーネル=テッテンヴァイス少佐)
※第5中隊はイクールに残留、第11中隊は砲兵援護、第12中隊は馬車列援護。
*B砲兵第1連隊4ポンド砲第1中隊(グルイトフイゼン大尉)
*シュヴォーレゼー騎兵第6連隊第4中隊(伯爵フォン・ライデン=シェーンブルク大尉)
※1日午前8時前後にバゼイユ市街地へ進んだB軍
☆イクールの軍舟橋を渡った部隊
◯B第2旅団本隊 旅団長 カール・フォン・オルフ少将
*シュヴォーレゼー騎兵第3連隊 連隊長 男爵ルートヴィヒ・フォン・レオンロード大佐
*B猟兵第4大隊(マクシミリアン・レシュライター少佐)
*B砲兵第1連隊4ポンド砲第3中隊(フォン・グルンドヘル大尉)
*B第2連隊 連隊長 男爵ルドルフ・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザームハウゼン大佐
・第2大隊(メーン少佐)
*B砲兵第1連隊第1大隊(リッター・フォン・フォルマー中佐)
・6ポンド砲第5中隊(男爵フォン・フッテン大尉)
・6ポンド砲第7中隊(フォン・シュライヒ大尉)
◯B第3旅団 旅団長 シューフ大佐
*B猟兵第1大隊(オットー・フォン・シュミット中佐)
*B第3連隊 連隊長 ヴィルヘルム・コーラーマン少佐
・第1大隊(ハインリッヒ・ビルクマン上級大尉)
・第3大隊(フリードリヒ・ムック少佐)
※第2大隊はバール=ル=デュク警護。
*B第12連隊 連隊長 男爵ヨセフ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン少佐
第1大隊(ランゲンゼー上級大尉)
第2大隊(ハルラッハ少佐)
*B砲兵第1連隊第2大隊(ルートヴィヒ・フォン・ムスジナン少佐)
・B砲兵第1連隊6ポンド砲第6中隊(ジギスムント大尉)
・B砲兵第1連隊4ポンド砲第2中隊(シュロップ大尉)
☆バゼイユ鉄橋際で一時待機となった部隊
◯B第2旅団「ポン=モジ」支隊 支隊長 伯爵マクシミリアン・フォン・ロイブルフィング大佐
*B猟兵第9大隊(第4中隊欠/男爵フリードリヒ・マリア・ゲミンゲン・フォン・マイセンバッハ中佐)
※第4中隊は先鋒としてバゼイユで戦闘中。
*B第11連隊 フォン・ロイブルフィング大佐直率
第1大隊(フォン・ボイメン少佐)
第2大隊(第8中隊欠/ビェーヘ少佐)
※第8中隊は砲兵援護。
◎B第2師団
代理師団長 イグナス・シューマッハ少将
◯B第4旅団 旅団長 男爵フーゴ・カール・ルートヴィヒ・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザームハウゼン少将
*B第10連隊第3大隊(フォン・ラッヘル少佐)
*B第13連隊 連隊長 伯爵ルートヴィヒ・フォン・イーゼンブルク=フィリップスアイヒ大佐
・第1大隊(エンドラス少佐)
・第2大隊(男爵フォン・シェーンヒューブ少佐)
・B砲兵第1連隊4ポンド砲第4中隊(バウミュラー大尉)
☆イクールの軍舟橋際で一時待機となった部隊
◯B第4旅団
*B猟兵第7大隊(フリードリヒ・シュールタイス中佐)
*B第10「親王ルイトポルド」連隊 男爵ルドルフ・フォン・グッペンベルク大佐
・第1大隊(フォン・ヘーグ少佐)
・第2大隊(ライトホイザー少佐)
*B砲兵第1連隊6ポンド砲第8中隊(ゼヴァルダー大尉)
*シュヴォーレゼー(軽)騎兵第4連隊(男爵カール・フォン・レオンロード大佐)
☆31日深夜の位置で一時待機となった部隊
◯B胸甲騎兵旅団 旅団長 ヨハン・バプティスト・フォン・タウシュ少将
・B胸甲騎兵第1連隊(ファイヒトマイル大佐)
・B胸甲騎兵第2連隊(アドルフ・フランツ・フィリップ・バウミュラー大佐)
・シュヴォーレゼー騎兵第6連隊(第4中隊欠/男爵フォン・クラウス大佐)
※第4中隊は第1旅団に派遣中。
・B砲兵第3連隊騎砲兵第1中隊(男爵フォン・レーベル大尉)
◯B砲兵第3連隊(予備砲兵隊) 連隊長 ハインリヒ・ブロンジッチ大佐
*B砲兵第3連隊第1大隊(ヴィクトール・グラミッヒ少佐)
・騎砲兵第2中隊(フォン・ヘルリングラート大尉)
・6ポンド砲第3中隊(ジェルドネラー大尉)
・6ポンド砲第4中隊(親王レオポルト大尉)
*B砲兵第3連隊第2大隊(ダッフネラー少佐)
・6ポンド砲第5中隊(ノイ大尉)
・6ポンド砲第6中隊(メーン大尉)
*B砲兵第3連隊第3大隊(ヴィル少佐)
・6ポンド砲第7中隊(ベリンゲラー大尉)
・6ポンド砲第8中隊(レーダー大尉)




