ランゲンザルツァの戦い(後)
※ハノーファー王国軍戦闘序列(再掲)
司令官 アレクサンダー・カール・フリードリヒ・フォン・アレンツシルト中将
参謀長 エルンスト・ルートヴィヒ・フリードリヒ・コーデマン大佐
国王付副官 フリードリヒ・ダンマース大佐
砲兵部長 ヴィルヘルム・フォン・ストルツェンベルク大佐
工兵部長 ゲオルグ・アウグスト・オッペルマン中佐
☆第1旅団 エルンスト・ユリウス・ゲオルグ・フォン・デア・クネゼベック少将
(歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲6門)
〇近衛連隊・第1、第2大隊
〇親衛(ライヴ)連隊・第1、第2大隊
〇近衛猟兵大隊
〇女王ヴィクトリア驃騎兵連隊
〇「マイヤー」12ポンド前装滑腔砲中隊
☆第2旅団 ヴィルヘルム・ド・ヴォー大佐
(歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲6門)
〇歩兵第2連隊・第1、第2大隊
〇歩兵第3連隊・第1、第2大隊
〇猟兵第1大隊
〇ケンブリッジ竜騎兵連隊
〇「ラーベス」6ポンド前装施条砲中隊
☆第3旅団 カール・マグヌス・イド・ハラルト・フォン・ビューロー=シュトレ大佐
(歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲6門)
〇歩兵第4連隊・第1、第2大隊
〇歩兵第5連隊・第1、第2大隊
〇猟兵第2大隊
〇皇太子竜騎兵連隊
〇「エンゲルス」6ポンド前装施条砲中隊
☆第4旅団 ルートヴィヒ・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ボートマー少将
(歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲12門)
〇歩兵第6連隊・第1、第2大隊
〇歩兵第7連隊・第1、第2大隊
〇猟兵第3大隊
〇近衛驃騎兵連隊
〇「ミュラー」6ポンド前装施条砲中隊
〇「メルテンス」騎砲兵中隊
☆予備騎兵隊 フォン・ゲイソ大佐(6月24日昇進)
(騎兵8個中隊・砲4門)
〇親衛騎兵・独立4個中隊
〇近衛胸甲騎兵連隊
〇「レッツィンガー」騎砲兵中隊
☆予備砲兵隊 ハルトマン少佐
(砲12門)
〇「ブルーメンバック」6ポンド前装施条砲中隊
〇「フォン・ハルトマン」24ポンド前装滑腔(榴弾)砲中隊
ランゲンザルツァ戦を戦ったのは
・歩兵20個大隊/13,390名
・騎兵21個中隊/1,731名
・砲42門/砲兵1,056名
◇総計16,177名
と墺軍に記録されています。
ハノーファー軍の軍装1866年士官
☆ ハノーファー軍の反撃
1866年6月27日午後12時30分。
ランゲンザルツァ市街北方を流れるウンシュトルト川では、ハノーファー軍(以下「Hv軍」)が全軍右岸から左岸(ここでは北岸)に撤退してマーックレーベンを中心に戦線を維持し、フォン・フリース少将率いる普軍の混成兵団は同川右岸(ここでは南岸)付近まで接近し、時折激しくなる銃砲撃戦を繰り広げていました。
しかし、この時点で「フリース兵団」はいわゆる攻勢限界を迎えており、フリース将軍も渡河しHv軍と白兵に及ぶことに対し躊躇していました。
この様子をマーックレーベン部落東郊の丘「キルヒベルク」上から観察していたHv軍司令官フォン・アレンツシルト中将は防御から攻勢へ転換することを決意するのです。
ここにアレンツシルト将軍は「普軍の注意を正面に引き続け、左右両翼から合撃を図る」という普軍参謀本部(=モルトケ)ばりの作戦を発動するのでした。
アレンツシルト将軍が麾下に進撃命令を下そうとした午後1時過ぎ、左翼(東)を占める第4旅団長フォン・ボートマー少将からの意見具申が届き、これは「我が歩兵により渡河して敵右翼を攻めたい」とのことで、アレンツシルト将軍は許可を与えると、自軍右翼(西)の第3旅団長フォン・ビューロー大佐に対し、「ボートマー旅団の攻撃に同調し渡河を敢行して敵左翼を攻撃せよ」と命じ、中央予備として麾下一部を前線へ、残部を待機させていた第1旅団長フォン・デア・クネゼベック少将に対し「前線にある近衛連隊(Hv軍歩兵連隊は2個大隊制です)を渡河させビューロー旅団兵と共に敵左翼を攻撃せよ」と命じたのです。
アレンツシルト将軍はこの際にキルヒベルク上の砲陣を強化することとして各旅団砲兵をマーックレーベンまで前進させると同時にクネゼベック旅団で総予備となっていた歩兵各大隊と予備騎兵隊もマーックレーベン郊外まで呼び寄せました。
また、中央で戦っていた第2旅団長ド・ヴォー大佐に対しては「第3、4旅団の左右両翼が敵を撃ち破り橋頭堡を得た場合は機会を見て進撃せよ」と命じたのです。
ランゲンザルツァ会戦 ハノーファー軍の渡河攻撃
攻撃許可を得たボートマー将軍は、渡河準備として旅団最右翼(西端)にあった猟兵第3大隊に対し「河岸に沿って散兵線を敷き渡河を援護せよ」と命じました。ところが同大隊は将軍が思っていたより西側に離れており、ド・ヴォー旅団の戦線に混入してしまっていたため、旅団長との連絡が途切れてしまっており、命令が届くことはなかったのです。
ボートマー将軍は落とされていたネーゲルシュテット(マーックレーベンの南東3キロ)の橋梁を工兵に修理させていましたが修理は間に合わず、このため歩兵第6、7連隊の両第1大隊を第一線、両第2大隊を後続として歩いて渡河させようとしました。
このボートマー旅団に対面するエルブスベルク(小丘)にはフォン・ゼッケンドルフ少将率いる普軍の後備諸隊が布陣していましたが、ボートマー旅団歩兵が川を越えて来るのを見ると、ゼッケンドルフ将軍は麾下を横一線に並べて散兵線を敷き直し、更に丘の前面に急造した塹壕に入った散兵により猛銃撃を加えたのでした。
エルブスベルク前面のウンシュトルト川は水深が1.5m前後在り、Hv軍第7連隊第1大隊兵は銃弾が周囲に降り注ぐ中蛮勇を振るい、ある者は銃を高々掲げて流れに逆らい歩いて渡り、ある者は銃が濡れるのも構わず泳いで対岸に渡るのです。ところが、いざ対岸に辿り着くと普軍後備兵が左右より接近し銃撃を浴びせ、応射しようと銃を構えますが哀しいかな薬包が濡れて不発が多発し、慌てて川に飛び込み命辛々元の北岸に退却するのでした。それでも大隊長以下士官たちが怒声を浴びせて短時間で隊を整え、この大隊は再び渡河を決行し対岸に達しますが、今度は待ち構えていた普軍アッシャースレーベン大隊とナウムブルク大隊が一気に押し寄せ、Hv軍将兵はまたもや小銃や拳銃の薬包が湿って不発が相次いだため算を乱して川に戻り対岸まで戻ったのです。しかしこの二回の無茶な渡河でHv軍第7連隊第1大隊は士官の四分の一、下士官兵も同等人数が戦死傷するという大損害を受けてしまいました。
同時に行われたHv軍第6連隊第1大隊の渡河も第7連隊同様困難で、わずかな人数が対岸に泳いで渡ったもののたちまち猛銃撃を浴び死傷者が続出したため彼らも慌てて泳ぎ戻ったのです。それまで対岸ユーデンヒューゲルの普軍砲列を砲撃していたミュラー大尉率いる6ポンド前装施条砲中隊は、友軍の渡河を援護するため河岸に進みますが、対岸高地からの銃砲撃をもろに受けて死傷者が多発し、こちらも急ぎ元のキルヒベルク麓の遮蔽に逃げ帰るのでした。
短時間で大損害を受けたボートマー将軍は攻撃を中止し、損害を受けた両大隊をキルヒベルクに続く高地陰まで退却させ、以降旅団は戦闘終了時までこの場所に留まったのでした。
これと対照的だったのはHv軍右翼の戦況で、ビューロー大佐はアレンツシルト将軍からの進撃命令が下ると、午後1時過ぎ、麾下第4と第5連隊の各第1大隊に猟兵第2大隊を第一陣、両連隊の第2大隊を第二陣として待機陣地より一気にウンシュトルト河岸まで進み、午後1時30分、全将兵鬨を上げると対岸からの銃撃をものともせず一斉に渡河を開始しました。
この辺りのウンシュトルト川は下流に比して浅瀬が見られ、土手も下流より低く徒歩による渡渉も比較的楽でした。そのためビューロー旅団は猛銃撃下にも関わらず短時間で対岸に殺到し、ザルツァ川を背に展開していた普第25連隊と同擲弾兵第11連隊の諸中隊を一気に後退させ、ザルツァ川とウンシュトルト川の中間点付近に橋頭堡を築き散兵線を展開するのでした。
この時、Hv軍のマーックレーベン前面右翼の土手で長らく対岸と銃撃戦を繰り広げていたクネゼベック旅団の近衛連隊は、ビューロー旅団の渡河を見て援護射撃を行うと、続けて川に入り対岸まで進むのでした。これはアレンツシルト将軍がクネゼベック将軍に下した命令そのままの行動でしたが、彼らハノーファー王国近衛の誇り高き将兵はこの命令が届く前、自主的に行動していたのでした。
このビューロー旅団の渡河少し前のこと。
元よりビューロー旅団の防衛地域で、少時前まで王と王太子が共に滞在していたタムスブリュック部落目前のウンシュトルト河岸に大隊級の普軍部隊が出没します。これは昼前に本隊から別れザルツァ川を越え自軍最左翼に進んだ普擲弾兵第11連隊の1個中隊とそれに続いたコーブルク=ゴータ連隊(以降「CB連隊」)の2個中隊で、敵味方とも気付かれずに進んで来たものでした。彼らは妨害なく渡河を終えると30分ほど前にHv軍将兵が消えたタムスブリュック(ゲオルグ5世と王太子もビューロー旅団の移動と同時にマーックレーベン市街後方の待機陣地まで下がりました)に入り簡単に市街を奪取しました。
これに気付いたビューロー旅団の最右翼警戒前哨兵がビューロー大佐に知らせ、大佐は当面出番がない旅団騎兵の皇太子竜騎兵連隊とエンゲルス大尉率いる6ポンド前装施条砲中隊にこの敵の監視と万が一の攻撃に備えさせ、自分たちは川に進むのでした。
ランゲンザルツァの戦い・戦闘詳細図・午後2時
戦線中央・マーックレーベンの面前ではビューロー旅団の渡河中ますます銃撃が激しくなり、キルヒベルクの麓にいた猟兵第4大隊は味方右翼の動きを見てウンシュトルト河岸へ進もうとしますがキルヒベルクの斜面を進むHv猟兵は対岸から丸見え状態で多くの普軍兵士から狙い撃ちされ、それ以上進むことが出来ません。しかし、午後2時に至りビューロー旅団と近衛連隊の渡河と進撃により普軍前線からの銃撃が弱まり、中央の戦線でも比較的楽に渡河することが出来るようになりました。
ド・ヴォー大佐率いるHv軍第2旅団の第2、第3連隊両第2大隊は進撃命令が届く前に陣地帯より前進し、木橋を渡ると一気にカレンベルクの水車場前まで進みます。しかし水車場では先にここを占有した普擲弾兵第11連隊の2個中隊と遅れてやって来た普第25連隊の一部将兵がレンガ作りの小屋に銃眼を穿って待ち構えており、猛銃撃を浴びたHv軍将兵は木橋と水車場の中間あたりで立ち往生してしまい慌てて引き返し再び川を渡ると、河岸土手に身を隠し掠め来る銃弾を避けるしかなくなったのです。
水車場 ハノーファー軍の反撃
同じ頃、緒戦に旅団長の命令でマーックレーベン方向へ前進したものの勇み過ぎたのか進み過ぎてド・ヴォー旅団の戦線に紛れ込んでしまい親部隊と逸れてしまったボートマー旅団所属の猟兵第3大隊は、木橋の南方でキルヒベルクの面前にあった浅瀬から川に入り、こちらは渡河に成功すると河岸まで進んで物陰から銃撃を行っていた普軍の散兵たちを蹴散らし、ユーデンヒューゲル北の浴場とバドゥエルドヘン(浴場を含む小家屋群)直前まで一気に進み浴場の北に掘削されていた排水路を塹壕代わりに展開し浴場の敵と銃撃戦に入りました。
この成功を見たド・ヴォー大佐は空かさず予備に指定していた第2連隊第1大隊と猟兵第1大隊を直率すると河岸へ突進し激しい銃撃を受けるも構わず猟兵第3大隊に続いて渡河を開始するのでした。
ハノーファー猟兵第3大隊(1866年)
既に麾下の近衛連隊が渡河に成功していたクネゼベック将軍は、午後1時過ぎにアレンツシルト将軍から前進命令を受けると旅団残余で待機陣地からマーックレーベン市街に入り、親衛連隊第1大隊と女王ヴィクトリア驃騎兵連隊の半数(2個中隊)を部落西郊外に置いて総予備に指定し、残りを直率すると前線で激しい銃撃戦を行うド・ヴォー旅団を援護し始めました。
午後2時過ぎにド・ヴォー大佐が渡河に成功するとクネゼベック将軍は近衛猟兵大隊をド・ヴォー大佐隊に後続させ、第2連隊第1大隊もそれに続きましたが、こちらの大隊は先行した猟兵よりやや正面(木橋側)に進んだため対岸の普軍散兵やユーデンヒューゲルの砲陣から銃砲撃の目標とされ、激しい弾雨の中進むことが出来ず石橋と木橋の間の中州で踵を返し、一旦キルヒベルクの陰に難を逃れると再びマーックレーベン市街に入り以降は総予備の一部となり待機に入りました。
午後2時30分の時点でHv軍はおよそ2個旅団、概ね7,000名が渡河に成功し、対する普軍フリース将軍は殆ど全軍で防戦に追われることとなります。この時フリース将軍が握っていて好きな時に投入出来た総予備は擲弾兵第11連隊の3個中隊・多く見積ったとしても僅か400名だけだったのです。
この勢いのまま優位に立ったド・ヴォー大佐麾下第3連隊第1大隊と第2連隊第2大隊、クネゼベック将軍麾下近衛猟兵大隊の3個大隊は午後3時前後に普軍が立て籠るカレンベルク水車場前とザルツァ川の小橋周辺に集合しました。この時、左翼ボートマー旅団の近衛驃騎兵連隊の半数(第1,2中隊)が連隊長のコーデマン少佐に率いられ、近衛猟兵大隊に続いて木橋を越えてザルツァ川の小橋とカレンベルク水車場の間に進み、戦い始めた猟兵の後方で待機に入ります。近衛驃騎兵残りの2個中隊も続いて木橋を渡りますが、あいにく周囲は硝煙と土埃が舞って極端に視界が悪く、逸って速歩(トロット)で進んだ両中隊は待機する同僚2個中隊の隊列に激突してしまいます。いきなり同僚騎兵に襲われた形となってしまったコーデマン少佐率いる2個中隊は大混乱に陥り、騎馬は制御を失い騎兵を振り落とすもの、ザルツァやウンシュトルト川に逃げ河中に突入するもの様々で、ある小隊はザルツァの小橋から次々に河中へ落下してしまったのです。
しかしコーデマン少佐始め騎兵士官たちは必死に部下を落ち着かせ、短時間で秩序を回復し前進待機しようと図りますが、ザルツァ川の橋から水車場まではわずかに150mで、騎兵連隊(この時点で350騎から最大でも450騎程度と思われます)が留まるには狭隘に過ぎ、後から進んだ2個中隊は虚しくマーックレーベン市街に下がることを命じられて去るのでした。
ランゲンザルツァ市街 手前はザルツァ川
騎兵が思わぬ苦難を強いられていた頃。ビューロー旅団は普軍必死の抵抗にも消沈することなく絶えず攻撃し続けました。
Hv猟兵第2大隊と近衛連隊第2大隊は渡河以降常にド・ヴォー旅団と行動を共にして、粘り強く幾度も波状攻撃を仕掛けて遂にカレンベルクの水車場から普兵を追い出しこれを占拠します。しかしこの2個大隊は渡河以前から普軍の銃砲撃によって死傷者を出し続けて疲弊しており、この後ユーデンヒューゲルの西側斜面から敵の姿が消えると水車場の北側に集合し、以降は前線予備として控えるのでした。
同じ頃。第5連隊の第1大隊は水車場の東よりユーデンヒューゲルの頂上目指して南下、抵抗する普軍の銃撃を冒して途中グレーザー工房の東側でザルツァ川を渡るとそこにあった泥炭精製所を奇襲、短時間でこれを占拠し逃げ遅れた普軍1個小隊(16名ほど)を捕虜にしました。大隊は休まずここに半数の2個中隊を残留させ残り2個中隊は散開して横に広く展開しつつユーデンヒューゲルの斜面を駆け上がり、俯角を付けてゼロ距離で射撃しようとする普軍砲列に対し的確に銃撃しながら進んで頂上に達すると、砲を前車に繋いでいち早く逃走する普軍砲兵を銃撃し、護衛として居残っていた普軍歩兵も蹴散らすとユーデンヒューゲルの最高点付近を占領したのでした。
水車場を占拠するハノーファー軍
同じく第4連隊の第1大隊(あのクニッピング中佐の大隊です)はグレーザー工房を攻め、ここを守っていた300名強の普軍歩兵(第25連隊と擲弾兵第11連隊の各1個中隊とCB兵若干)と銃撃戦を行い、隣接する病院とレンガ工場からの銃撃も相手にしつつ工場から普軍を追い出しここを占拠するのでした。この際にクニッピング中佐は士官2名下士官兵20名を捕虜にしています。
フォン・ランデスベルク中佐率いる近衛連隊第1大隊(この時1個中隊欠)はクニッピング大隊の後方を進んで病院とレンガ工場を襲撃し、遮蔽の少ない中勇戦していると、グレーザー工房を制圧したクニッピング中佐隊も攻撃に加わり共に普軍の2拠点を攻めましたが、頑丈な建物に立て籠る敵を追い出すには彼らは数が少なく普軍を追い込むことが出来ませんでした。するとここに第5連隊の第2大隊が後方より到着して銃撃に加わると、普軍も弾切れを気にし出して持ち場を棄てて後退し、病院とレンガ工場もHv軍に制圧されたのでした。
煉瓦工場 ハノーファー軍の反撃
この第5連隊第2大隊はレンガ工場制圧後直ちに前進を再興し、北街道口よりランゲンザルツァ市街へ突入すると、ブリンクマン大尉率いる1個中隊は街を駆け抜けて南街道口より街の外へ出て、ユーデンヒューゲルの南側斜面に残って頂上のHv軍と戦っていた普軍将兵の側面を攻撃しました。これに驚いた普軍将兵は包囲される危険を避けて一気に斜面から南方へ敗走するのです。
この後、Hv第4連隊の2個大隊はユーデンヒューゲルの頂上で集合し、先に高地へ到達していた第5連隊の第1大隊と共にこの重要な丘陵を完全掌握するのでした。
ハノーファー軍ケンブリッジ竜騎兵(1866年)
普軍の最右翼となっていたゼッケンドルフ少将率いる後備兵中心の部隊はユーデンヒューゲル東方のエルブスベルク(低丘陵)に陣取ってHv軍の猛攻を防いでいましたが、後方を脅かす騎兵集団が出現したことで一気に後退することとなってしまいます。
この騎兵集団は男爵エミール・フェルディナント・ヴィクトール・フォン・ハマーシュタイン=ゲスモルト少佐率いるHv軍の名門・ケンブリッジ竜騎兵連隊で、少佐は親部隊である第2旅団長ド・ヴォー大佐から「未だ後退せず防戦に努める普軍諸隊を後退させるため、ウンシュトルト川下流へ進み適当な場所で渡河し普軍の背後を脅かすよう」命じられます(午後2時30分前後)。
ハマーシュタイン少佐はキルヒベルク東麓の待機陣地より連隊を直率すると先頭に立って連隊を導き、ネーゲルシュテットの部落西郊から、この時は何とか仮修繕が終わり渡り板などを設置して渡渉可能となっていた橋の残骸を使って渡河し、イレーベン北の高地(ネーゲルシュテットの南東3キロ付近)まで一気に進出、ゼッケンドルフ隊の後方を脅かす位置を占めました。ハマーシュタイン少佐は敵の目を気にせず隠れることなく堂々部下騎兵を進ませたため、ゼッケンドルフ将軍も背後にHv軍騎兵が廻り込んだことに気付き、前後から挟み撃ちされる前に麾下を遮蔽が少ないエルブスベルクからジーヘンホフ(エルブスベルクの南1キロ付近の家屋群)まで下げざるを得なくなったのです。
襲われるエルフルト出撃砲兵
この後退中ゼッケンドルフ隊に随伴していたエルフルト要塞の出撃砲兵中隊に属する6ポンドカノン砲小隊(2門)が部隊の後退援護として砲を敷いていると、不意を突いてフォン・アイネム大尉率いるケンブリッジ竜騎兵の1個中隊がこれを襲い小隊長のハンプフェルト中尉以下普軍砲兵たちを斃してしまいました。大尉は主のいなくなった野砲を奪取しようと見捨てられた砲に近付きましたが、ここで突然銃撃を受け、大尉は部下数名と共に戦死を遂げてしまいました。
アイネム大尉を斃したのは普後備驃騎兵第12連隊の1個中隊で、彼らはフォン・ファベック大佐の前衛と共に前進し、この時までランゲンザルツァ市街南東郊外で待機していたもので、ゼッケンドルフ隊が後退するのを見て駆け付け、下馬し騎銃で射撃を行ったのでした。しかし彼らも砲を曳くことが出来ずに撤退し、この砲2門はやがてHv軍歩兵によって鹵獲され、本戦争初の「普軍が失った砲」となったのでした。
これを境にゼッケンドルフ隊は無事主街道沿いのヘニングスレーベン南の高地まで引き上げますが、その数は出撃時の半数に満たず、多くは秩序無く後退したため隊の体を成さず散逸し、またその多くが逃げ遅れて「残兵狩り」のHv軍騎兵たちにより捕虜となってしまったからでした。
アイネム大尉の戦死
☆ フリース兵団の敗走
午後3時30分前後には普軍フリース兵団はその多くが退却行に入っており、唯一浴場のあるバドゥエルドヘンの家屋群のみ1,000名に満たない所属も様々な普軍諸隊(第25連隊の数個中隊・擲弾兵第11連隊第1大隊の残余・後備歩兵ポツダム大隊の大部分・同トルガウ大隊の1個中隊と伝わります)が守っていましたが、彼らは午後3時前に発せられたフリース将軍の総退却命令を受領出来ていなかったため取り残されてしまったものでした。
アレンツシルト将軍はこの残留する普軍を駆逐し後退する普軍諸隊を騎兵で襲撃させようと考え、キルヒベルクの砲陣によりバドゥエルドヘンを集中砲撃しマーックレーベン市街で待機していた親衛連隊第1大隊に対し普軍残兵の駆逐を命じ、待機していた騎兵諸中隊にも伝令を送って敗走する敵を襲撃するよう促すのでした。
ランゲンザルツァの戦い・戦闘詳細図・午後3時30分
ところが、Hv軍騎兵は再び不運な事故に見舞われてしまいます。
これは相変わらず視界の優れないカレンベルク水車場前で待機していたコーデマン少佐の近衛驃騎兵連隊の半数に、先に命令を受け速歩で前進して来た近衛胸甲騎兵連隊(ガルド・デュ・コール)の先頭小隊が衝突し、またもや双方に死傷者が発生するという悲劇でした。
ガルド・デュ・コールの後方からは予備騎兵隊に属するレッツィンガー大尉率いる騎砲兵中隊が進んで来ますが、前方で事故が発生し街道が渋滞すると大尉は素早く部下を街道の外に導き、路傍に砲列を敷いて街道の外を浴場に向け進んで行く味方歩兵の援護射撃を始めたのです。
ハノーファー近衛胸甲騎兵(1866年)
これ以降短時間で浴場とバドゥエルドヘンの普軍は完全に敗走状態となり、Hv軍歩兵は後退しつつ銃撃を繰り返す普軍諸隊を制しながら前進し、普軍の多くはヘニングスレーベン目指しゴータ街道に出ようとしますが一部はゼッケンドルフ隊が一時避難したジーヘンホフへ退却し、ゼッケンドルフ隊の後衛諸隊と合流しました。しかし、ジーヘンホフの普軍は休む間もなくHv軍親衛連隊第1大隊により攻め立てられ、エルブスベルクの南側から更に東へと遁走するのでした。
午後4時にはアレンツシルト将軍も勝利を確信し、方々に散った自軍歩兵の秩序を回復させるよう各級指揮官に命じると、騎兵諸隊には残兵狩りを命じました。
Hv軍は命令受領後ユーデンヒューゲルの丘陵上にド・ヴォー旅団とクネゼベック旅団が点呼の場として集合し、ビューロー旅団はランゲンザルツァ市街南郊に、総予備からひとり前進した親衛連隊の第1大隊はジーヘンホフにそれぞれ集合しました。
予備騎兵隊は一旦ジーヘンホフに進むと、ここで親衛騎兵隊の独立3個中隊を第1梯団、カレンベルク水車場で悲劇に見舞われた先鋒中隊を除くガルド・デュ・コールの3個中隊が第2梯団となりランゲンザルツァ南方高地(ジーヘンホフの南1,300m付近)へ進むと、ここから普軍が逃走した南方を俯瞰します。すると普軍の集団が2個の方陣を作り「残兵狩り」に出る騎兵を警戒しているのを発見するのです。
方陣はクリンゲングラーベンと呼ばれる水路(現在もジーヘンホフから西南西へゴータ街道に向けて流れています)の南方300から400mほどに作られ、一つはフランツ・ヴィルヘルム・ヘルマン・グスタフ・アドルフ・デ・バレス中佐率いる普擲弾兵第11連隊第1大隊を中核としていました。この集団はバドゥエルドヘンからの後退中に部隊から逸れた落伍兵をバレス中佐が声を掛けて吸収しつつこの地で方陣を作ったもので、もう一方はフォン・ローゼンベルク大尉が普軍諸隊とCG連隊の落伍兵を集めたそれぞれ500名前後の集団でした(バレス隊の方陣はジーヘンホフの南西580m付近。ローゼンベルク隊の方陣は現在の国道84号線と247号線の交差点から北東へ500m付近)。
ここで真っ先にフリース兵団の後方へ進出し普軍が全面撤退するきっかけのひとつとなったケンブリッジ竜騎兵連隊が最初にバレス中佐の梯団に近付き、連隊長のハマーシュタイン少佐はバレス中佐とローゼンベルク大尉に降伏を訴えようとしますが、Hv軍予備騎兵が我先に襲撃を開始してしまい果たせませんでした。
この時、親衛騎兵の3個中隊はローゼンベルク大尉の方陣に対し襲撃を敢行しましたが方陣は崩れず攻撃は失敗し、ガルド・デュ・コールもほぼ同時にバレス中佐の方陣を攻撃して、こちらは方陣の一角を崩しその中央を貫いて反対側に突き抜けるという成果を上げました。また、降伏勧告を諦めたハマーシュタイン少佐もまた1個中隊に命じて胸甲騎兵の反対側からバレス隊の方陣を攻撃したもののこれを完全には破れず、ただ一部を崩して損害を与えますが同時にHv軍騎兵にも死傷者が相次ぎ、胸甲騎兵も竜騎兵もほとんどの士官が死傷してしまいました。
ハノーファー騎兵の襲撃に方陣で立ち向かう普軍後備第20連隊
普軍バレス中佐率いる集団はHv軍騎兵襲撃後、隊伍が乱ればらばらに退却しますが、これをしつこく追ったのはHv軍胸甲騎兵で襲撃後に秩序を回復した2個中隊が数度に渡って攻撃を行いました。しかしバレス中佐はその都度周囲の部下に方陣を作らせこれを撃退し続け退却したのです。
即席に出来たバレス隊やローゼンベルク隊の他にも無名の下級士官や下士官が集合させた小集団がいくつかありましたが、こちらも放たれたHv軍騎兵に幾度も襲撃され、少なくない数の将兵が死傷し捕虜となってしまいました。
ハノーファー騎兵の襲撃を受ける普擲弾兵第11連隊
ところで、Hv軍の予備騎兵隊と共に行動したレッツィンガー大尉の騎砲兵中隊は前記騎兵の方陣攻撃の間これを援護することが出来ませんでした。
バドゥエルドヘン攻撃の後、速歩と駈足(キャンター)織り交ぜて先を急ぐ予備騎兵を追ってジーヘンホフへ進んだレッツィンガー大尉でしたが、この先の荒れ地や耕作地を越える際、先に2門の砲が土手状の小道から道下に落下し行動不能に、続いて2門の前車と砲車が泥濘に捉まって先に進めず、残り2門も騎兵の襲撃に間に合わなかったためでした。それでも大尉は部下を急かせて残り1個小隊・2門で近衛胸甲騎兵2個中隊を追い、イレーベン北方高地(先にハマーシュタイン少佐率いるケンブリッジ竜騎兵連隊が待機していた場所です)に到着し、ここで南方に逃走する普軍将兵を砲撃するのでした(午後4時30分頃のことで、この方面で普軍に向けたHv軍最後の砲撃と思われます)。
同じ頃、遅れて残兵狩りに出撃したコーデマン少佐の近衛驃騎兵2個中隊は、予備騎兵隊の親衛騎兵第3中隊とケンブリッジ竜騎兵第3中隊と遭遇して合流しネーゲルシュテット部落を越えてゴータ街道を更に南へ進み、道中多数の普軍やCG連隊の落伍兵を捕虜としますが、夕方となったため追撃を中止し引き返しました。
フリース兵団は散々に分裂し急速に後退、ヘニングスレーベンを越えた辺りでようやく緊張を解き、夕闇迫る中ゴータへ向かったのでした。
その遥か後方、ジーヘンホフでは親衛連隊第1大隊が周辺に取り残され又は隠れていた普軍落伍兵を捕虜とし、その数およそ200名と記録されます。
午後5時前には、今朝方ケンブリッジ竜騎兵連隊が前哨線を張っていたヘニングスレーベン南方の高地にHv軍前哨歩兵が到着し夜間警戒前哨線を敷きます。
一方、未だ戦闘が終わらない場所もあり、それは戦線の最西端・タムスブリュックで、午後4時過ぎ、この部落を占拠していた普軍とCG連隊の臨時混成大隊は本隊が撤退したことを知って急ぎ街を棄ててウンシュトルト川を越え、南岸に広がる排水路が縦横に走る耕作地を南西に向けて退却しました。
これに向け、それまで警戒しつつ監視を行っていたHv軍ビューロー旅団の皇太子竜騎兵連隊は2個中隊を追撃に送り出し、これにそれまで野堡を急造していた集団とエンゲルス大尉率いる6ポンド野砲中隊が加わり、逃げた普軍を追いますが追い掛け切れず野砲が僅かな死傷者を与えただけで、普軍はシェーンシュテットの部落を越えて逃げ切ったのでした。
エンゲルス大尉が砲撃中止を命じたのは午後6時頃で、これでこの日の戦闘は全て終了したのです。
ハノーファー軍の軍装1866年砲兵、工兵など




