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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
279/534

セダンの戦い/1870年9月1日・黎明

☆ 独軍


 8月31日夜までに普大本営が掌握した情報では、「マクマオン将軍率いる仏シャロン軍は、ムーズ西岸より完全に撤退しセダン城周辺に集合している」とのことでしたが、仏軍が自ら率先してセダン要塞という「張り子の虎」に頼って独軍と会戦する、などという「軍事常識上ありえない」ことは普参謀本部においてこの時点では想定外のことでした。


 とは言っても、「想定外のことを仏軍が行う」ということもこれまでの戦況(ヴルトからの撤退方向やメッス周辺3会戦)で度々現れたため、独軍としては精一杯の備えをしなくてはなりません。

 確かに普大本営では、「あらゆる状況を考慮すれば、仏軍は西方メジエール方面に突破するはずだ」との考えが主流でした。しかし、ドンシュリー発の情報(メジエールからセダン方向に兵員が送り込まれ、逆方向には空車が目立った、との第11軍団情報)等の「不可解」な状況も考慮すれば、マクマオン将軍が別の作戦、たとえば「ベルギー国境への北上」や「メッス方向へ決死の突進」を行う等ということも全く可能性がない話ではなかったのです。


 ところが、普大本営は31日夕刻になっても翌日の命令を出していません。これには理由が二つあり、その第1は、「30日に出した命令は未だに有効で、独軍は仏軍が東西南北どちらに動いても充分対応可能な状況にある」からであり、今ひとつは、「マース軍はムーズ東岸からベルギー国境までを完全に抑えて大本営の望み通りに待機しており、第三軍の行動に関してはシメリー(=シュル=バール)での参謀会合で意志の疎通が出来ている」からなのでした。


 この「シメリーでの参謀会合」の結果を受けて、第三軍本営は9月1日の命令を起こし、「軍の左翼によりセダンの西側、ムーズ下流域で行動を起こしてムーズを渡河、仏軍のメジエールへの退却を西側で遮断する」ことを骨子とし、次のように命令しました。


「8月31日午後9時 シメリー軍本営にて 


敵がムーズ川東岸(北)においてセダンからメジエールに向けて退却することを阻止するため、軍はその一部において明日(9月1日)、ドン=ル=メニルとドンシュリー付近にてムーズを渡河する。そのため、以下の命令を発する。

第11軍団は未明に集合し、ドンシュリーを経てヴリーニュ=オー=ボワ(ドンシュリーの北北西5キロ)に前進し、ヴリーニュ川(ラ・ヴリーニュ。仏白国境付近からムーズへ注ぐ小河川)西岸に沿って展開して、敵がベルギー国境とヴリーニュ=オー=ボワとの間をメジエールに向かって行軍する場合はこれを阻止せよ。

第5軍団は明午前5時頃に野営を撤し、第11軍団を追ってドンシュリーを越え、第11軍団と連絡して、右翼部隊は先行しヴリーニュ=オー=ボワへ前進せよ。軍団砲兵隊はヴリーニュ付近でセダン~メジエール街道(現国道D5号線)を射程に捕らえるべく砲列を敷くこと。

W¦(ヴュルテンベルク)師団は今夜中にドン=ル=メニル付近においてムーズ川に架橋し、払暁にこの仮橋を渡河しメジエールに正対してセダン~メジエール街道沿いに展開せよ。本軍団は第11軍団の予備となる。この仮橋には守備隊も置くこと。

B¦(バイエルン)第2軍団の1個師団と軍団砲兵隊は、午前5時頃に宿・野営地を出発し、ビュルソン(フレノワの南7キロ)を経てフレノワに向かい行軍し、ムーズ川の南、ドンシュリーの対岸高地に布陣せよ。軍団砲兵隊は(出来る限り早く砲撃を開始するため)行軍列の先頭を進め。他方の1個師団はノワイェ(=ポン=モジ。フレノワの南東4キロ)付近を通過して、フレノワ~ワダランクール間の高地に布陣して敵の南方突破を警戒せよ。

B第1軍団はマース軍がセダンの東側で戦闘状態に入ったならば、その応援としてルミリー=イクール方面より参戦せよ。

騎兵第6師団は午前5時頃マゼルニー周辺(大本営のあるヴォンドゥレスの西13キロ)を出発して、ブルジクール(メジエールの南8キロ)~ブタンクール(ドンシュリーの西南西7.5キロ)を経てフリーズ(ブタンクールの北1.5キロ。ムーズ河畔)付近に至り後命を待て。

騎兵第4師団はフレノワ南方に集中し後命を待て。

騎兵第2師団は午前6時頃シメリー周辺の宿営地を出発して、ブタンクール付近に至りその南郊外で待機せよ。

第6軍団と騎兵第5師団は軍の最左翼として、現在地(アティニーとトゥルトロン)に止まり、西側ルテル、ランス方面を警戒する。

軍司令官宛の報告はフレノワまで送付せよ。輜重は現在地に留め置くこと。

軍本営はシメリーにあり。


  中将フォン・ブルーメンタール(第三軍参謀長)」 (筆者意訳加筆)

挿絵(By みてみん)

 バイエルンの騎兵たち


 独第三軍がこの命令を練り上げていた頃、在ヴォンドゥレスの普大本営では、この日(31日)前線まで騎行して情報収集に当たっていた参謀本部第三課長、カール・ヘルマン・フォン・ブランデンシュタイン中佐からの報告が届き、それによれば、「ルミリー=イクールでの観察結果、敵は行李を遺棄し急速にメジエール方向へ退却する模様」とのことでした。

 普大本営においても、最早仏軍がカリニャンへ戻ることはない(東進してメッスを目指すことはない)であろう、との見解が多数を占めることとなるのです。


 しかしこうなると気になるのは、独第三軍がセダン~メジエール間の諸街道を封鎖するのが遅れれば、セダン城の北部に集合しているらしい仏軍が、一気にメジエール要塞の庇護下へ逃げ込んでしまう可能性が高まる、ということです。フォン・モルトケ参謀総長はこの可能性を消し去るため、午後8時に第三軍参謀長フォン・ブルーメンタール中将に対し「今夜半に軍の一部をムーズ対岸(北)へ進め、セダンからメジエールへ抜ける諸街道を西へ進む敵に対し、直ちに攻撃へ転移出来るよう準備せよ」との主旨の書簡を送って注意を喚起しています。

 この書簡がシメリーの第三軍本営に到着した午後9時頃は、第三軍の明日の行動に関する命令が完成した頃合いで、フリードリヒ皇太子とブルーメンタール参謀長は至急命令にモルトケの意向を追加(各軍団の進発時間の前倒し)、更にB第1軍団の任務を「マース軍の援護」から拡大し、「前面の敵(仏第12軍団)を抑止するため」に「マース軍の行動より先に単独で攻撃を開始せよ」と書き換えるのです。

 普皇太子はマース軍本営に対し、明日第三軍がどう行動するのかを明確に通達し、軍司令のアルベルト・ザクセン王子に対して「貴軍もまた第三軍と共に前進すれば、明日の我が軍の勝利は一層確実となるでしょう」と付記して、「明日は休日」と定めたアルベルト王子に、攻撃を行うよう促すのでした。


 この普皇太子からの「要請」は、日付が変わって1日午前1時30分、ムーゾンのマース軍本営に到着します。

 アルベルト王子は「戦友にしてライバル」であるフリードリヒ皇太子の書簡を一読するや、副官に対し「本日のマース軍の休養は取り消し、再び攻撃前進する」と宣言するのでした。

 アルベルト王子はフリードリヒ皇太子の文面から、普軍統帥部が事態を戦争の重大な局面とみなして積極攻撃の考えを保持していることと推察し、本日は敵を討つ「槌」である第三軍の「金床」となるのではなく、マース軍もまた「槌」となり、第三軍と共にセダンの仏軍を「合撃」、または北上してベルギーへ逃走する場合にはこれを阻止して、仏国内で殲滅することを求められている、と考えたのでした。


 しかし、セダンの北東部に展開する仏軍(第12と第1軍団)の全貌は未だ明らかでなく、前線の斥候報告によれば、「ラ・モンセルからヴィレ=セルネ方面には未だ侮れぬ大部隊が控えている」こともあり、「まず、これらセダン要塞東側の拠点を手に入れる必要がある」として、深夜午前1時45分、第一線の諸軍団に対し緊急集合を掛け、次の命令を発するのでした。


「9月1日午前1時45分 ムーゾン軍本営にて 9月1日の命令


敵は今夜、一切の行李を捨て去ってセダン~メジエール街道を退却することは確実である。

独第三軍の一部は本日未明、バゼイユ~ドンシュリー、ドン=ル=メニル付近においてムーズを渡河し、メジエールへ向かう敵を(南から)攻撃する予定である。よって以下に命令する。

近衛軍団は直ちに集合し、1個師団(近衛第1師団)はエスコンブル(=エ=ル=シェノワ)~プル=オー=ボワを経てヴィレ=セルネへ前進し、他方の師団(近衛第2師団)は軍団砲兵隊を連れてサシー~プル=サン=レミを経てフランシュヴァルに向かい前進せよ。

第12(S)軍団(第23、24師団)は直ちにドゥジー南の街道沿いに集合した後、(リュベクール=エ=)ラメクールを経てラ・モンセルに向け突進せよ。

これら2個軍団の前衛は、午前5時頃には少なくともプル=オー=ボワ~プル=サン=レミ~ドゥジーの線を越えて攻撃開始とせよ。続行する各本隊はなるべく速やかに行動し、かつ密集密接せよ。3個の攻撃縦列(近衛1師団、近衛2師団、第12軍団)は相互間の連絡を絶やさず取るように。

第4軍団は、その1個師団(第8師団)と軍団砲兵隊によってルミリー=イクールへ前進し、バゼイユへ突進するB第1軍団を援助せよ。他方の師団(第7師団)はムーゾン付近でムーズを渡河し、ムーズ東岸(北)を西進してメリーに至り、軍の総予備となる。本軍団は出来る限り速やかに現在地を出立せよ。

全軍団は輜重と行李を現在地に留め置き、戦闘員は全員背嚢も宿野営地に残留せよ。

本日中の報告はアンブリモン東方の高地まで送付せよ。


 歩兵大将ザクセン王太子アルベルト

 少将フォン・シュロトハイム(マース軍参謀長)」 (筆者意訳加筆)

挿絵(By みてみん)

 普砲兵隊の進撃


 この普・S両王国の世継ぎの命令により、麾下両軍は1日黎明前、一斉に集合・前進を開始しました。

 その前線総延長は16キロ以上に渡ります。


 独軍戦線右翼(東側)の3個(近衛、第12、B第1)軍団は、セダンの東から南東側にかけての前線からジヴォンヌ渓谷方向へ前進し、待ち構える仏第12並びに仏第1軍団との衝突は必至となります。

 要塞の南側、フレノワとワダランクール間の高地目指して1個(B第2)軍団が進み、戦線左翼(西側)では2個(第5、第11)軍団がセダン~メジエール街道を目指し、仏軍の西方突破時に側面を痛撃する準備を成しました。

 この他にも3個(W、第4軍団の2個)師団と各軍隷属の騎兵部隊多数が予備となって戦線後方に進み、待機となります。


 普大本営は続々集まって来る斥候情報から、「敵はメジエール方面に向かって後退中」と想像しましたが、実際には仏軍は31日夕刻の前線から動いておらず、1日黎明時の仏軍前線はジヴォンヌ渓谷~ムーズ川~フロアン~イイまで、即ちセダン要塞を取り巻く形を作っていたのです。

 これは、「仏軍はメッスからベルダンに向かって西方突破するはず」と信じた独第二軍と同第一軍が、実際はメッスの西方に「しがみついていた」仏バゼーヌ軍と「マルス=ラ=トゥール」「グラヴロット」2つの会戦を戦った状況に似ています。

 しかし、天然の要害であったグラヴロット周辺と違い、セダンは地形上防御に弱点を抱える欠陥のある要塞であり、その周囲の高地に独軍が有利な野砲の砲列を敷かれてしまうと、要塞内部の者は砲撃から隠れるところがない、という急所が存在していました。


 とは言え、要塞自体は彼のヴォーバンが設計し築き上げた堅牢な代物で、要塞の西側と南側はムーズ川が屈曲して流れ防備を強め、この付近では1.5から2キロの幅の河畔は全て要塞砲の射程内に収められており、その境界は断崖か厚い防壁となっていました。

 また、要塞南東方からバゼイユの西郊外までの平坦地にはムーズ川から水を引き入れ、泥沼状の氾濫地域となっています。


 仏軍の東側防衛線は既述通りジヴォンヌ川の線となり、その渓谷西岸からは東岸を見通すことが出来、射界が広い防衛適地となっていました。

 また、要塞北から北西方向は「ガレンヌの森」(ボワ・ドゥ・ラ・ガレンヌ)の丘陵地帯で、仏軍は森と原野の凹凸が織りなす幾筋かの自然の散兵線を利用可能でした。この高地西側に展開した仏第7軍団左翼と仏第5軍団の一部は当初、ガレンヌの森高地最南端のフロアンからセザールにかけての高地に展開し、第5軍団主力は要塞内部及び北縁と、ガレンヌ森北西のフロアン北郊外からカルヴァイル・ドゥ・イイの高地までに展開していました。


 この要塞北部に集中する仏軍を犠牲少なく西から攻撃するためには、要塞砲の西側射程外を進むしかなく、いわゆる「ムーズの大湾曲部」の西を北上しヴリーニュ=オー=ボワ付近で東へ転向、川の湾曲部頂点部分を東に抜けなくてはなりません。

 そのムーズ湾曲部の北側には高地が迫り、この狭い部分に走るナポレオン3世言うところの「ヴィルヘルム(王)の知らない街道」(セダン~~メジエール街道)を進むしかなく、この「ファリゼットの森」高地(ボワ・ドゥ・ラ・ファリゼット)から流れるファリゼット川(北東方向よりムーズに注ぐ小川)は深い谷となってこの街道の中央付近を横切り、この街道に掛かる橋を渡ることが唯一迅速に軍を東へ進める方法だったのです。

 このため、東へ攻める独にとっても西へ脱出する仏にとっても、この付近は行軍を阻害する「関所」となっていたのでした。そして、この湾曲部北からベルギーに掛けては高地と断崖の谷、そして深い森が続き、こちらも大軍の行軍には適さない要害の地となっていたのでした。


☆ 仏軍


 9月1日黎明時、仏軍の「セダン会戦」直前の状況は以下の通りでした。


◯ 仏第12軍団

 エリー・ジャン・ドゥ・ヴァソイーニュ少将率いる軍団第3「海軍」師団、いわゆる「ブルー師団」は軍の戦線右翼最南のバゼイユ市街から北西のバラン部落までに展開し、師団第2旅団(マルタン・デ・パリエール准将)をバゼイユの市街地に、同第1旅団(フランシス・ルブル准将)をバラン部落付近に、それぞれ南東を正面として配置しました。

 シャルル・ニコラス・ラクレテル少将率いる軍団第2師団は、ブルー師団の左翼(東)に連絡してその左翼はラ・ラパイユ(デニーの南南西550m付近にある家屋群)付近まで展開、師団を数個の支隊に分けて、その拠点はそれぞれ南から北へラ・モンセル、ラ・モリ(ラ・モンセルの北500mの家屋群)、プティ・モンセルとなっています。

 グランシャン少将率いる軍団第1師団はセダン要塞の東側、フォン・ドゥ・ジヴォンヌで予備となり展開待機していました。


◯ 仏第1軍団

 第12軍団のラクレテル師団左翼と連絡し、その第一線はマリエ・イポリット・ドゥ・ラルティーグ少将の軍団第4師団とシャルル・ジョセフ・フランシス・ウォルフ少将の同第1師団で、ジヴォンヌ川の西岸に沿った高地尾根に散兵線を敷いていました。その一部は付近の部落内にも拠点を設け、ラルティーグ師団はデニーからアイブ(デニーの北1キロの小部落)まで、ウォルフ師団はジヴォンヌからフルリ(ジヴォンヌの北1キロにある家屋群)まで、それぞれ前哨部隊の散兵線を敷きました。

 軍団の第二線には右翼(南)側にレリティエ少将の軍団第3師団が、左翼(北)側にジャン・ペレ少将の同第2師団がそれぞれ予備として展開し、第三線として最後方(西)にはアレクサンドル・エルネスト・ミシェル少将の軍団騎兵師団が第12軍団の騎兵部隊と共にガレンヌの森南部に潜んでいたのです。


◯ 仏第7軍団

 軍団は北に面して展開し、ガレンヌ森西縁に当たるカルヴァイル・ドゥ・イイの高地からフロアンまで緩やかに続く丘陵上に散兵線を構築し、その第一線は右翼(北)にジョセフ・ウジェーヌ・デュモン少将率いる軍団第3師団、左翼(南)にリーベル少将の同第2師団が展開しました。

 リーベル師団からは2個大隊がサン=ムニュの南側高地に前哨として派遣され、最左翼ではギョマール准将率いる師団の第1旅団から数個大隊が西側に散兵線を折って展開し、軍団全体としては逆L字の鉤型陣形で総じてセダン~メジエール街道のサン=ムニュ側入り口に対面する形となっていました。

 軍団の第二線は30日の「ボーモンの戦い」で損害を被った軍団第1師団のコンセーユ=デュームニル少将師団で、特に大損害を受けた第1旅団は、戦死した旅団長ルイス・シャルル・オーギュスト・モラン准将の代わりにル=ブレット・ヴァルロア大佐が指揮を執っていました。

 31日にイイの南で野営した軍団騎兵師団(アメル少将)は、1日早朝に若干移動して右翼デュームニル師団の後方(南東)に待機しています。


◯ 仏第5軍団

 メッスに第1旅団(ラパセ准将指揮)が残って1個旅団となっていたルイ・ドゥ・ラバディ・ディドレン少将指揮の軍団第2師団は、「ボーモンの戦い」では第二線となっていたため、30日に大損害を被ったこの軍団では唯一前線配置が可能でした。この師団第2旅団はウジェーヌ・カンプ准将が率い、第7軍団を援助するため、カザール部落の北部高地に布陣しました。

 東側第1軍団との連絡はジョセフ・フローレン・エルネスト・ギュイヨ・ドゥ・レスパルト少将率いる軍団第3師団から第2旅団(ルイ・ドゥ・フォンタンジュ・ドゥ・クーザン准将指揮)が派遣され、ガレンヌの森西側のミシェル騎兵師団近くに待機しました。

 30日の損害を癒し切れていない軍団他の3個旅団は軍の総予備として、セダン城北の野営で待機となりました。


 軍団騎兵師団のブラオー少将騎兵師団は既述通り、ムーゾンからの撤退の際その行軍方向を間違えてしまい、一部はセダンの北方アルデンヌの大森林を彷徨い、一部はメジエール方面へ進み、更には遙か彼方エーヌ県方面に去って行った者までいたのです。


◯ 予備騎兵団

 31日にイイ周辺で野営したジャン・オーギュスト・マルグリット少将の予備騎兵第1師団と、フロアン付近で野営したシャルル・フレデリック・ドゥ・ボヌマン少将の同第2師団は、1日早朝に移動を開始してフロアンからムーズ河畔までの間に集合します。


◯ シャロン軍本営


 この運命の日。マクマオン将軍は9月1日の行動について遂に軍本営としての命令を発することはありませんでした。


 会戦後、戦場にて開封されずじまいで発見されたシャロン軍本営発の書簡に、「本日全軍は休憩日となる」との「暢気な」記述がありました。マクマオン将軍はクライシスを承知の上で、疲弊と不満に満ちた将兵の姿を天秤に掛けた結果、「後1日だけ」休ませようとしたのかも知れません。その後、独軍の行動を観察して、9月2日に「西」メジエールへ後退するのか、「東」カリニャンへ進むのかを決めようとしたのでしょう。

 これはシャロン軍本営が独軍の動きを全く(見くびって?)読み違え、同時に偵察も充分には行っていなかった証左と言えるでしょう。

 マクマオン将軍は1日に日付が変わった直後でも、未だにメジエールへの街道もカリニャンへの街道も「開いている」と信じ切っていたらしいのです。


 普仏戦後の仏議会諮問委員会におけるマクマオン将軍の答弁に、その様子がありありと現れています。かなり先の「ネタバレ」にはなりますが、その答弁の主旨を見てみると、


「もし本官が負傷せず、シャロン軍の指揮権を失わなかった場合、1日午前6時にある重大な決定をしただろう。独マース軍とバイエルン軍はこの時(明け方)、仏軍が東方へ突破を図った場合でも大した妨害は出来なかったはずで、この仏軍東進のための後衛も、この時点ではガレンヌの森に留め置いた第5軍団の一部だけで充分だったと思われる。

 デュクロ将軍が午前8時に下した命令(メジエールへの全軍撤退命令。後日詳細を記すはずです)についても成功の可能性が残されており、もし失敗したとしても、シャロン軍の一部はムーズ川大湾曲部とベルギー国境との間で森林の遮蔽を使い、西へ退却するか国境を越えてベルギー軍に抑留されるかの道が残されていただろう。

 実際に起こった戦況を振り返って見て考えるに、これら東進・西進どちらの行動も実施が午前9時以降となれば困難となり、正午以降となったならば全く不可能となったであろう」

挿絵(By みてみん)

 マクマオン将軍


 当時セダンで起こった「信じられない事件」の経過やその「お粗末な」結果を知れば、「優将」と称えられていたマクマオン将軍が本当にこのような考えを持っていたのか信じられない気もします。

 しかし、マクマオン将軍は保身のため、あるいは部下を庇ってこのような答弁を行ったのかも知れないと言う可能性はあるものの、当時の仏軍の有様や状況の推移を見てみれば、あながち違った(即ち仏軍絶対不利との)見識を持っていたとも考え難いものなのです。


 マクマオン将軍は31日深夜に、命令したムーズ川バゼイユ以西の橋梁破壊が不完全に終わり、ドンシュリーで独軍に橋頭堡を築かれたとの報告を受けるや、セダン~メジエール街道が独軍に抑えられる危険性が増した、として状況把握のため、本営の士官2名を士官斥候として黎明前にドンシュリー方面へ送りました。ところが、この士官たちは遂に戻ることがなく、その間に逆の東から重大な報告が届いたのです。


 その報告とはまず、マルグリット騎兵師団の前哨から送られたもので、「独軍は夜半にプル=オー=ボワを占領し更に西へ進んだものと思われるが、未だフランシュヴァルに現れず」とのことで、更に第12軍団長ルブラン将軍から電信が届き、それは「バイエルン軍は現在我が軍団に対し攻撃を始めた」との至急報でした。

 この報告を受けるやマクマオン将軍はセダン城を飛び出して、ルブラン軍団の最前線となるバゼイユに向かい騎行し、その途端、東方より激しく連続する銃撃音が響き、疾駆するマクマオン将軍は白々と明け始めたセダンの東郊で、海軍師団兵士がバイエルン軍と死闘を始めた姿を垣間見るのでした。



 9月1日黎明時 仏シャロン軍セダン布陣図


 挿絵(By みてみん)


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