8月31日・バゼイユ橋梁の戦闘
昨日(8月30日)の夜。辛うじて仏軍が抑えていたアルデンヌ鉄道が盛んに稼働し、列車が頻繁に往復したことはフォン・デア・タン大将率いるB第1軍団本営にも伝わっており、また、軍団自体の前哨たちも、ムーズ対岸から列車の音や馬車の音を一晩中聞いていました。
その斥候たちは黎明時にムーズ河畔まで進み、仏軍が既にムーズ西岸から撤退し去ったことを確認します。
B第1軍団本営は31日の午前6時30分、ルミリー=イクールへ前進する軍命令を受領し、軍団前衛は午前8時にロクール周辺の野営地を出発しました。当座の必要性の低さと後方の渋滞とによって、未だソモト近郊にあった工兵の軽架橋縦列には、ムーズ渡河が直近に迫ったことで速やかにルミリーまで到着するよう発破が掛けられました。
この日の軍団前衛はフォン・ディートル少将率いるB第1旅団を中核とした支隊で、ルミリーに達した時に対岸から銃撃を浴びることとなります。
※8月31日早朝のB第1師団行軍序列(「B」を略します)
☆前衛支隊 カール・リッター・フォン・ディートル少将(第1旅団長)
○先鋒隊 アントン・リッター・フォン・トイフェンバッハ大佐(親衛連隊長)
・シュヴォーレゼー(以下軽騎兵)第3「カール・テオドール大公」連隊第1,2中隊
・猟兵第2大隊(フォン・ファルラーデ少佐)
・砲兵第1連隊4ポンド砲第1中隊の1個小隊(2門)
○本隊 ディートル少将直率
・軽騎兵第3連隊第3,4中隊(連隊長男爵ルートヴィヒ・フォン・レオンロード大佐)
・親衛連隊第1大隊(エッカルト少佐)
・砲兵第1連隊4ポンド砲第1中隊の2個小隊(4門)(中隊長グルイトフイゼン大尉)
・砲兵第1連隊6ポンド砲第7中隊(フォン・シュライヒ大尉)
・親衛連隊第2大隊(フォン・ザウエル少佐)
・親衛連隊第3大隊(伯爵ヨセフ・フォン・ヨーネル=テッテンヴァイス少佐)
・第1連隊 アルベルト・フォン・ロート大佐
第1大隊(フォン・リューネシュロス少佐)
第2大隊(ダッフェンライター少佐)
☆本隊 バプティスト・リッター・フォン・シュテファン中将
○第2旅団 カール・フォン・オルフ少将
・猟兵第4大隊(レシュライター少佐)
・砲兵第1連隊4ポンド砲第3中隊(フォン・グルンドヘラー大尉)
・砲兵第1連隊6ポンド砲第5中隊(男爵フォン・フッテン大尉)
・第2「王太子」連隊(男爵ルドルフ・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザームハウゼン大佐)
第1大隊(フォン・ザウエル少佐)
第2大隊(メーン少佐)
第3大隊(ストイラー少佐)
・第11「男爵フォン・デア・タン」連隊(伯爵マクシミリアン・フォン・ロイブルフィング大佐)
第1大隊(フォン・ボイメン少佐)
第2大隊(ビェーヘ少佐)
・猟兵第9大隊(男爵フランツ・ゲミンゲン・フォン・マイセンバッハ中佐)
○砲兵第3連隊(予備砲兵隊) ハインリヒ・ブロンジッチ大佐
・砲兵第3連隊第3大隊(ヴィル少佐)
6ポンド砲第8中隊(レーダー大尉)
6ポンド砲第7中隊(ベリンゲラー大尉)
・砲兵第3連隊第2大隊(ダッフネラー少佐)
6ポンド砲第6中隊(メーン大尉)
6ポンド砲第5中隊(ノイ大尉)
・砲兵第3連隊第1大隊(ヴィクトール・グラミッヒ少佐)
騎砲兵第2中隊(フォン・ヘルリングラート大尉)
6ポンド砲第3中隊(ジェルドネラー大尉)
1870年のバイエルン兵
攻撃を受けたディートル少将支隊の先鋒隊を率いるフォン・トイフェンバッハ大佐は、対岸の仏軍散兵線後方、ドゥジーを経てバゼイユに至る街道(現国道E44号から途中D764号線に。以下、バゼイユ街道とします)を行軍中の仏軍縦列を認め、大佐はB猟兵第2大隊にルミリー市街を占領させると、2個中隊を部落北端とムーズ河畔へ前進させました。
同時に前衛の4ポンド砲小隊はルミリーの南西側で砲を並べ、急ぎ前進して来た支隊の砲兵(4ポンド砲x4、6ポンド砲x6)もその東側に砲列を敷いたのです。この砲列は準備出来次第に砲撃を開始し、狙われた街道上の仏軍縦列は直ちに街道を降りて更に北へと進んで行くのでした。
これ以降、バゼイユの東郊外と北の高地に砲列を敷いた仏第12軍団砲兵より、B軍前衛は激しい対抗砲撃を受けることとなります。
急ぎルミリー付近まで騎行し状況を掌握したB第1軍団長フォン・デア・タン大将は、B第1師団本隊から砲兵8個中隊を急進させ、4個中隊を前衛砲兵列に加えてルミリー部落南側に、残り4個中隊を順次ポン=モジ(バゼイユの南西1.8キロ。ムーズ西岸)南東の高地(ルミリーとポン=モジの中間付近。現ボワ・デュ・リリー付近)を登坂させて砲列を敷かせたのでした。
しかし、これらの砲兵は対抗射撃を行う仏軍砲兵ばかりでなく、たちまちムーズ対岸から激しいシャスポー銃の射撃を被ることとなります。
この時のB軍砲兵列線からムーズ川岸の仏軍散兵線までの直線距離は600mに過ぎず、その散兵線はルミリーの正面対岸からバゼイユの南側まで延び、その一部は更に西側のアルデンヌ鉄道鉄橋まで延びていたのです。
この砲兵の危機に際してB第1師団の歩兵部隊は駆け足で到着し、B親衛連隊の第1,2大隊はルミリーで砲撃中の砲列を援護して対岸への銃撃を開始、ポン=モジの砲列左翼には同連隊で先行していた第5中隊が進み出て護衛任務に就きました。中隊はアルデンヌ鉄道のムーズ川鉄道橋(以下バゼイユ鉄橋)南詰(西岸)にあったポン=モジ臨時停車場に散兵線を敷き、鉄道橋を渡って砲兵に突撃しようとした仏軍部隊を統制射撃で撃退するのでした。
しかし、ルミリーの砲列はまだしも、敵に近いポン=モジの砲兵援護にこの歩兵1個中隊だけでは心許ないこと甚だしい状況だったため、フォン・デア・タン大将は師団本隊となっていたB第2旅団の歩兵のうち、後衛部隊についてアンジュクール(ルミリーの南南西2キロ)から街道を外れて北西方向へ急がせ、直接ポン=モジへ向かわせました。
この新たな軍勢はB猟兵第9大隊とB第11連隊(2個大隊のみ)で、彼らは砲兵の前方に進み出ると、対岸のバゼイユ鉄橋周辺に展開していた仏軍散兵と30分間に渡って激しい銃撃戦を行い、その結果、後続なく弾薬も限りある仏軍側はバゼイユ市街への後退を始め、ムーズ河畔から消え去るのでした。
危機の際に1個中隊でポン=モジ停車場を護ったB親衛連隊第5中隊の散兵線には、B猟兵第9大隊から第1中隊が増援として加わり、同猟兵大隊の4個(全中隊の)散兵小隊と第2中隊は正午、ムーズ河畔及びバゼイユ鉄橋へ前進したのです。
正午過ぎ。B第1師団長バプティスト・リッター・フォン・シュテファン中将は、ポン=モジ高地の砲兵列線から「敵は火薬樽と思われる貨物を鉄橋に搬入中。鉄橋爆破の可能性あり」との目撃情報を得て、ルミリーに到着していたB猟兵第4大隊に対し「急ぎ敵の行動を妨害せよ」と命じます。
この命令に対し同猟兵大隊は第3中隊を直接鉄橋に急がせ、残り3個中隊は生垣や並木に隠れつつムーズ河畔に接近しました。
この時、第3中隊長のスレーフォークト大尉は、鉄橋に達した敵兵が既に北側半分の橋桁に火薬樽を結び付け、更に火薬樽を橋の上から橋梁に降ろそうと作業中なのを発見するのです。大尉は中隊に駆け足を命じ、急ぎ河畔へ突進しました。そして河岸から一斉射撃を行い、橋の下で作業中の仏兵を駆逐したのでした。
スレーフォークト大尉はそのまま中隊を率いて河岸の草地を突っ切り鉄道堤に登ります。ここで同じく鉄橋に突進したB猟兵第9大隊の4個散兵小隊並びに第2中隊と合流し、猟兵たちはバゼイユ方面からの猛射撃をものともせずに橋を渡って、橋上の火薬樽を川に投げ捨てつつ橋を渡り終えると、ムーズ東岸から続く鉄道堤を占拠するのでした。
バゼイユ側のムーズ河畔には生垣が続いており、バゼイユ市街に対して45度の角度で北東に続く鉄道堤とこの生垣によって、B軍猟兵は市街南端からの銃撃に対し十分な遮蔽を得たのでした。
橋を渡って東岸に橋頭堡を築いた猟兵援護のため、B砲兵第1連隊の6ポンド砲第5中隊から1個小隊(2門)が前進しムーズ西河畔に砲を構えます。残り4門は激しい砲戦を続行するポン=モジ高地の砲兵列線に加入しました。しかしこの時ルミリー付近のB軍砲列では、仏軍砲兵が西の射程外へ撤退したため、砲撃は中止されたのでした。
こうしてフォン・デア・タン大将は「ルミリーとその周辺のムーズ河畔を占領せよ」との大本営命令を遂行しますが、同時にムーズ対岸のバゼイユ周辺に仏軍の完全編成1個軍団がいることを確認するのです。
大将は、幅60mほどの増水したムーズ川を渡河するのに、たったバゼイユの鉄橋1本という状況を考えて自重し、B第1軍団のみで本日中の渡河前進を止め、ドゥジー~メリー間に進んだマース軍先鋒がバゼイユ方面での戦闘に参加するまで、軍団の渡河を待つこととしたのです。そのため、本日(31日)は敵をムーズ河畔から引き離し、その隙にムーズへ架橋するだけに留め、これ以上麾下部隊の渡河を厳禁したのでした。
しかし、軍団長の思惑とは異なり、既に猟兵およそ3個中隊がバゼイユ鉄橋を渡って東岸へ進んでいたため、B第1軍団はこの日更に戦闘を継続することとなったのです。
B猟兵第4大隊長のレシュライター少佐は午後1時、せっかく獲得した橋頭堡を維持すべく、第3中隊に続いて第4中隊に命じて鉄橋を渡らせ、東岸の橋頭堡を補強しました。
これでほぼ1個大隊となった東岸の猟兵は、バゼイユの南側に布陣していた仏軍散兵を攻撃し、これを市街へ撃退して、更に市街地へ突進したのです。
このB軍猟兵の前進で、市街の仏兵はバゼイユから北方のラ・モンセル部落(バゼイユの北北東1.5キロ)へ追いやられ、B軍猟兵たちは大した抵抗も受けずにバゼイユ市街を占領し、その北端まで急速に前進するのでした。
この頃、その後方の鉄橋では、B猟兵第4大隊の残部2個(第1,2)中隊も橋を渡って東岸へ進み、バゼイユ市街へ入ります。
同じ頃、B猟兵第2大隊はルミリー付近の砲撃戦が終了し、仏軍が対岸から西へと退却したことにより、ムーズ川の西岸を前進しました。
大隊はバゼイユ停車場の南にある渡船場(バゼイユ市街の南南西1キロ。現国道D129号線のムーズ橋付近)に到着、ここで北北東700m付近の停車場に対し猛銃火(B猟兵は既述通り新式長射程のヴェルダー小銃を使用しています)を浴びせ、先行した第4中隊は東岸沿いに西へ進んで鉄道堤後方に展開集合しました。
また、ムーズ河畔に降りたB砲兵第1連隊6ポンド砲第5中隊の2門は、猟兵の攻撃に同調してバゼイユ停車場を砲撃するのです。
その後方、ポン=モジ高地の砲列は仏軍が撤退したことで一時砲撃を中断しましたが、この停車場攻撃と前後して始まった仏軍のバゼイユ奪還に向けた行動を阻止すべく、バゼイユの北方高地から駆け下りて来る仏軍に対し猛烈な砲撃を再開するのでした。
この仏軍逆襲は、迫るB猟兵に対し頑強に抵抗を続け北上を阻止したバゼイユ北方郊外の数軒の家屋に始まり、この家屋からの猛射撃が呼び水となったのか、ラ・モンセルに通じる街道沿いに潜む仏軍散兵から市街北入口に展開するB猟兵に対し、次第に無視出来ない規模の集中した銃撃が浴びせられるのです。
市街から追われたカンブリエ准将の仏第12軍団第1師団第1旅団は、ラ・モンセルの高地(モンセルの北東800m周辺の尾根)に構えていた同軍団第3「海軍(ブルー)」師団からマルタン・デ・パリエール准将率いる第2旅団(ブレストとツーロンの海軍歩兵連隊)の増援を受けて反撃を開始、軍団砲兵からの砲撃に、機会良く到着した仏第1軍団の砲兵3個中隊の砲撃も加わり、部落北部のB猟兵は強力な砲列からも狙われることとなったのです。
「ブルー師団」兵士
この後およそ2時間。B猟兵合わせて2個大隊規模の集団と、仏軍の実質1個師団の銃撃戦が市街地の北縁を巡って行われるのでした。
しかし、フォン・デア・タン大将は「本日は軍団単独での戦闘を回避する」との方針を曲げず、前線からの増援要請を拒絶したのです。
次第に劣勢となるB猟兵集団を自然率いることとなったレシュライター少佐は、軍団長命令で増援が来ないことを知ると午後3時30分、バゼイユ市街を放棄する決断をし、散兵線を一斉に後退させて市街を去ります。
市街地北部で戦ったB軍の猟兵たち(猟兵第4大隊、同第9大隊の4個散兵小隊と第1,2中隊)は、鉄道堤と渡船場付近に展開するB猟兵第2大隊第2と第4中隊、そして対岸に構えるB親衛連隊の前哨たちによる援護射撃の下、隊列を整え堂々と退却し、大部分はバゼイユ鉄橋を渡って西岸(南)へ、一部は渡船場から渡船で西岸に撤退するのでした。
午後4時過ぎに猟兵たちが市街地を撤退したため、B軍砲兵はバゼイユに対する砲撃を再開します。
この砲撃再開後幾ばくもなくポン=モジの砲列からは幾筋もの黒煙と火炎が市街地から立ち上るのが観察されました。この砲撃で仏第12軍団の追撃も中止され、午後5時になるとお互いの砲撃も次第に止んで行ったのです。
この「バゼイユ橋梁の戦闘」中の午後2時30分、朝早くにソモトを発したB軍の軽架橋縦列は、ようやくルミリーに到着し、待ちわびていたフォン・デア・タン大将は早速ムーズへの架橋を命じます。
軍橋はイクール(ルミリーの北西1.2キロ)付近に二本の舟橋として架けられることとなり、工兵作業の護衛は渡船場にいたB猟兵第2大隊が担いました。
また、ほぼ同時刻にはフォン・デア・タン大将の緊急要請で後方から駆け付けた砲兵6個中隊(B第2師団の砲兵2個中隊とB第2軍団砲兵隊の6ポンド砲4個中隊)がイクール南側の高地斜面に砲列を敷きました。
架橋作業自体は仏軍側から砲撃や妨害を全く受けることなく順調に進み、夕暮れ前には軍橋が完成しています。
B猟兵が撤退したバゼイユ鉄橋では、橋上に鹿柴(バリケード)を築いた後、B第2連隊第2大隊が前進し守備を始めました。
鉄橋や市街地、そして停車場砲撃に活躍した6ポンド砲2門は、工事中のムーゾン鉄道堤上に後退し、河畔に散っていた前衛以外のB第1旅団は、B親衛連隊を先頭に軍橋後方のイクール付近で渡河の準備を始めたのです。
しかし、午後5時30分になるとメリー在のマース軍本営から、「本日の行軍はこれで終了した」との通告を受け、フォン・デア・タン大将も「本日はここまで」として「軍団は作業を終了し野営に入るよう」命令を下したのです。
B軍工兵は容易に架け直せる舟橋を一部撤去し、万が一敵が夜襲を行い橋を奪取した場合に利用するのを防ぎました。
最前線の部隊は、ほぼ現在地を維持するよう命令が出され、イクール付近高地の砲列は6ポンド砲(普軍の重砲に当たります)ばかり14個中隊84門となりました(10個中隊60門はB第2軍団、4個中隊24門がB第1軍団所属)。この他に、ルミリー付近に38門、イクールの砲列左翼のポン=モジ南東高地に66門が砲列を敷いています(10個中隊60門はB第1軍団、4個中隊24門がB第2軍団所属)。
最前線のムーズ河畔では、B猟兵第2大隊がルミリーから二本の軍舟橋までを警戒監視し、その後方のイクールにフォン・ディートル少将のB第1旅団本営と本隊がありました。
このイクール北西のポン=モジ南東高地にはB第11連隊第2大隊とB猟兵第9大隊が野営します。この猟兵大隊からは第4中隊がバゼイユ鉄橋に居残り、橋の南詰で警戒監視しました。それまで鉄橋警備に就いていたB第2連隊第2大隊はルミリーまで退いています。
ポン=モジ南郊外のムーズ河畔に面してはB第2連隊第1と第3大隊が警戒しつつ野営し、その他のB第1師団残り部隊はルミリー南郊外で野営しました。
B第2師団の歩兵はこの日正午、アンジュクールに到着すると待機に入り後命を待ちましたが出番はありませんでした。彼らは夕刻、この部落周辺で野営に入ります。
ちなみに、30日の「ボーモンの戦い」で普第4軍団を援護しプロンの高地に進んでいたシューフ大佐(B第3旅団長)支隊はこの夕刻アンジュクールに進んで師団に帰還しています。
B胸甲騎兵旅団(普近衛槍騎兵第1連隊の2個中隊も未だ同行しています)もB第2師団の南側で野営に入りました。
この旅団からは軽騎兵第6「親王アルブレヒト・フォン・プロイセン」連隊が独り前進し、ルミリーからムーズ西岸に沿って南側のヴィレ=ドゥヴァン=ムーゾンで普第4軍団と連絡すると、ここからセダン南東のワダランクールに至るまでを広範囲に偵察した後、ルミリーの南で野営しています。
午前中にポン=モジの砲列を援護し、バゼイユ鉄橋付近まで進んでいたB親衛連隊の第5中隊は、猟兵たちが鉄橋で戦っている間にムーズ西岸沿いに前進、早朝に普騎兵第4師団が通り過ぎたワダランクールを経て、川を隔ててセダン要塞の南側を偵察した後、付近に隠れ潜んでいた130名の仏軍落伍兵を捕虜にしてイクールに帰還しました。
フォン・デア・タン大将のB第1軍団本営はこの夜アンジュクールに置かれました。
8月31日の「バゼイユ橋梁の戦闘」におけるB第1軍団の損害は、士官9名、下士官兵133名、馬匹7頭に上ります。この損害は一時バゼイユ市街に侵出した猟兵第4と第9大隊に集中したのでした。
バゼイユ市街の戦闘が終了した午後4時過ぎ、仏第12軍団はバラン(バゼイユの北北西2キロ)からバゼイユとラ・モンセルを経てプティ・モンセル(バゼイユの北北東2.3キロの小部落)に至る線を最前線として、ここで急ぎ防御工事を開始しました。
パリエール准将旅団はバゼイユ市街地に入り、多くの家屋に銃撃拠点を設け、町を半要塞化しようと急ぐのでした。
この仏第12軍団の陣地帯にプティ・モンセル付近で連絡したのはデュクロ将軍率いる仏第1軍団の陣地帯で、既述通りジヴォンヌ川の作る渓谷のデニー部落(ラ・モンセルの北1.6キロ)に対面した西岸から北へ延びていました。仏第1軍団の陣地帯はそのまま渓谷に沿ってジヴォンヌ(デニーの北2キロ)まで続き、ここで北西へ曲がるとカルヴァイル・ドゥ・イイ(ジヴォンヌの北西2キロ)付近でドゥエー将軍率いる仏第7軍団の陣地帯と連絡するのでした。
普皇太子率いる独第三軍本営は8月31日午後にシメリー(=シュル=バール)に入ります。
普王ヴィルヘルム1世と参謀本部は同日午前中、ビュザンシーを発して前日に「ボーモンの戦い」を観戦していたソモトの高地へ戻り、やがてこの地も発してボーモン~ロクール~シメリーと進んで、夕刻にはヴォンドゥレス(シメリーの西5キロ)に至りました。
この前進途中、シメリーで高級参謀の会合が行われ、モルトケ、ポドビールスキー、ブルーメンタールの3名を中心に戦況分析と明日以降の作戦の確認を行ったのです。
こうして、8月31日の夜が訪れ、独仏両軍は僅か数キロの距離を置いて対峙することとなります。
この日夕刻の両軍展開を見れば、マクマオン将軍のシャロン軍はナポレオン3世皇帝と共にセダン要塞の東西と北側の狭い地域に集中し、独軍はそれを南と東から包囲する寸前、という状況でした。
マクマオン将軍がメッス(東)へ向かうという自殺的な行動を採ることは、最早軍事的にはあり得なくなっています。
優柔不断と言うより機能不全と言った方が正解のシャロン軍本営(=仏大本営)が、独軍の包囲を免れる方法として採用出来る作戦は、今のうちなら開いているセダンの北へ進み、一気にベルギーとの国境を越えてしまう(武装解除され抑留されるか、ベルギーの変節によって「救われる」のか)、または、後衛と左翼側衛の犠牲によって一気に西へ突進し、その一部がメジエールの要塞庇護の下、ピカルディ地方(アルデンヌ県の西側、サン=カンタン方面)に突破脱出するのか、正に二つに一つしか方法は無くなったのです。
セダン要塞地区に仏軍が留まり籠城することは軍事的に論外でした。
何故なら「セダン要塞」とはメッス要塞やベルダン要塞と違い、全く「欠陥」の多い要塞だからです。
セダン要塞の始まりは、15世紀以来の由緒あるセダン城を中核に17世紀末、要塞設計施工の名手セバスティアン・ドゥ・ヴォーバンによって計画されたもので、その規模は比較的小さく、狭い河岸段丘斜面に建つため分派堡塁もなく、またヴォーバン自身も「難攻不落の要塞化」を途中で諦めたほど、防御が難しい地形上にあったのです。
セダン要塞(17世紀末)
確かに要塞の南側にはムーズ川が流れて自然の防塞となっていますが、川の南フレノワからワダランクールの間は要塞内部をも見通すことが出来る高地となっており、ここからセダン城までは3キロ以内、軽野砲でも射程内でした。
また、要塞の北側は防備上の「問題地域」で、セダン城の直ぐ北側、いわゆる「ガレンヌの森」は城と要塞とを完全に見下ろす丘陵地帯となっていました。つまり、要塞の北側丘陵さえ抑えてしまえば要塞は「丸裸」となってしまい、大砲の発達したこの19世紀では、要塞だけ確保し籠城しても、それは自ら窮地に陥る危険な行動となってしまうのです。
従って仏シャロン軍は狭い要塞地区に籠らず、セダンの弱点となる要塞北側の「ガレンヌの森」丘陵地帯に展開したのですが、もうひとつの弱点であるムーズ川を挟んだ南側高地にまで兵を回す余裕はなく、早くもこの31日にこの高地を独軍に抑えられてしまうのでした。
しかも普参謀総長のモルトケ大将は、「ガレンヌの森」への仏軍集中など全く意に介しませんでした。
元よりモルトケは、対仏戦に当たっての戦略の一つとして「仏軍を仏白国境へ圧縮し仏軍が止むを得ず越境してしまうように」仕向けることを考えており、今は正にその仕上げ時でした。
また、仏軍の「メジエール方向への脱出」を不可能とするため、モルトケ率いる参謀本部はこの31日に独第三軍への命令を定めています。
この日、セダン要塞の東側をマース軍で塞ぎ、ムーズ川の南側にこの第三軍が集中することで、仏軍がメジエールへの突破を強行した場合でも、独第三軍は直ちにムーズを渡河して南から仏軍の左翼側面を襲撃することが可能となるよう行軍を命じたのです。
更に用意周到にも、仏軍増援となった仏第13軍団がメジエールに現れると、騎兵2個(普第5,6)師団とW師団、そして普第6軍団を使ってその南側を塞ぎ、ルテルやランス方面からの後方連絡線をも断ち切る手立てを行ったのでした。




