8月31日・仏皇帝勅諭とムーゾンの陥落
○ 普大本営
8月27日にストゥネ(ボーモンの南東11キロ)を占領して以来、普大本営はマクマオン将軍麾下の仏シャロン軍将兵に厭戦気分が高まったことを察知し、このまま独軍が北上を続けるだけでマクマオン軍はベルギー国境へ圧迫され、場合によってはベルギー国内へ逃避することもあり得る、と考えます。
自身の観察からも戦況が完全に独側有利となったことを確信した北独宰相ビスマルクは、30日の午後遅く、ビュザンシーから在ブリュッセルの北独大使に電報を発し、「ベルギー政府に対し仏軍が貴国国境を越える可能性が高まったことを通告し、もし事が起きたならば貴国は中立国の義務に従い、直ちに仏軍の武装解除と抑留を為すことを期待する、と伝えよ」と命じるのでした。これは、ベルギー政府は国境を接する仏に対し同情しており、仏軍有利に事を運ぶのではないか、と憂慮したビスマルクの「先手釘差し」でした。
30日夜にビュザンシーへ移動した普大本営は、この時点で諸部隊の所在と状況が不鮮明だったとはいえ、ソモトから観察していた国王ヴィルヘルム1世は日中に集まった報告を併せ検討して、「仏軍はことごとくが後退し、独軍は直ちにこれを追って包囲攻撃に移行することが肝要」とするのです。
午後11時過ぎ、普大本営は参謀総長モルトケ大将の名で第三軍とマース軍に対し次の命令を発します。
「1870年8月30日 午後11時 在ビュザンシー大本営より
各軍団の戦闘につき、未だ終結したとの報告は到着していないが、敵はことごとく敗走し、あるいは撃破されたことについて最早疑う余地はない。
よって、両軍は明日31日黎明時より前進を再開し、未だムーズ西岸に留まっている敵があれば、これを撃破せよ。これにより、ムーズ川とベルギー国境との間のなるべく狭隘な地域に敵を圧迫し包囲することが肝要となって来る。
ザクセン王太子のマース軍は、特に仏軍左翼(東)がメッス方面へ逃走することを阻止するため、2個軍団でムーズ東岸を西進せよ。もしムーゾン付近に敵の陣地があった場合、これを側面及び背面から攻撃し撃破せよ。
第三軍は、敵の正面並びに右翼(西)に向かって運動し、同時にムーズ西岸の高地上に砲兵を集中してムーズ下流の東岸谷地にあるはずの敵の野営及び行軍を妨害せよ。
敵がもしベルギー国境を越え、同時に武器を遺棄しない場合、別命を待つまでもなく直ちにベルギーへ侵入しこれを追撃せよ。
国王陛下と大本営は明午前8時30分頃、ビュザンシーを発してソモトへ移動する。両軍司令官はこの刻限までに同日(31日)の行軍予定を報告せよ。 フォン・モルトケ」
こうして独軍が「クライマックス」を予感し勇んで31日を迎えようとする時、仏軍は未だ状況を整理することも儘ならず、何の決定も出来ないまま、そして目前に迫る危機を察知出来ないまま、混乱の内に8月最終日を迎えたのです。
○ 仏シャロン軍
セダン城に至った仏大本営に8月31日午前10時、シャルルヴィル=メジエールよりヴィノア中将の連絡士官がアルデンヌ鉄道の列車により到着しました。士官は「第13軍団の前衛は昨晩メジエールに到着」との報告をし、更に「ここへ至るまでの車窓から、敵軍諸兵科連合の縦列が南方よりドンシュリー(セダン城の西5.5キロ。ムーズ東河畔)へ前進するのが見え、現に列車も砲撃を受けた」と報告します。
仏皇帝ナポレオン3世は持病の悪化で激痛に悩まされつつもヴィノア将軍宛てに電信を送るよう命じ、その内容は「普軍、セダン至近に迫る。貴官の全軍をメジエール付近に集めよ」というものでした。また、ナポレオン3世は同席したマクマオン将軍ら首脳陣と異口同音に「シャロン軍はメジエール方面へ後退し、その行軍は敵から妨害されないだろう」と連絡士官に告げたのでした。その理由として皇帝は、「敵は(昨日の激戦の後だけに)ドンシェリー付近で十分な兵力をムーズ東岸(セダン付近では「北岸」ですが便宜上東岸とします)へ渡す状態になく、渡河は大々的には行われないだろう」と「希望的観測」を述べたのです。
皇帝はペンを取ると、机上のセダン周辺の地図上のサン=ムニュ(セダン城の北北西4.5キロ)からサン=アルベール(サン=ムニュの西1キロ。ムーズ河畔)を通ってヴリーニュ=オー=ボワ(サン=ムニュの西5キロ)まで線を引き、「独軍はこの線に街道が作られていることを承知していない」と語り、「ヴィルヘルムも我が軍がセダンからムーズの湾曲頂部を抜けて西へ退却するなどとは思いもよらないだろう」と断言するのでした。
ナポレオン3世の示した道は現在のD5号線(一部D29号線)に当たり、この数年前に完成した街道でしたが、戦前から熱心に偵察を行っていた普参謀本部は勿論この道の存在を承知しており、進軍する独側指揮官たちの手に握られる地図にもはっきりと記してありました。これも独仏情報力の差が分かろうか、と言うエピソードと言えそうです。
ただ、マクマオン将軍は、ムーズ川をメジエール撤退時の右翼側「自然の防塞」とするため、「ムーズ川に架かる諸橋梁をバゼイユ(セダン城の南東3.5キロ。ムーズ東岸)から下流、フリーズ(ドンシュリーの西7.5キロ)に至るまで破壊せよ」と命じるのでした。
こうして独軍が包囲完了する前に補給を終え、西方へ脱出しようと考える皇帝とマクマオン将軍でしたが、将兵が疲労困憊で飢餓の状態にあることは統帥部としても頭が痛い問題でした。なにしろ腹を空かして疲弊し尽くし、戦意に乏しく自棄になった将兵は、退却するためだから、と諭しても、もはや糧食や弾薬補充作業に駆り立てることすら困難な状況で、計画的な行軍・補給計画など実施しようにも出来かねる状況なのです。
この日(31日)午後5時には、仏第7軍団長のフェリクス・ドゥエー中将より「普皇太子の軍がアルデンヌ運河(エーヌ下流のヴュー=レ=アスフェルからポン・ア・バールに至りムーズに注ぐ運河)の両岸を北上し、ドンシュリーとドン=ル=メニル(ドンシュリーの西5キロ)でムーズを渡河しようと行動中」との主旨の報告が届きます。しかし、全てに退廃感漂う仏大本営では、アルデンヌ運河沿いに騎兵斥候を派出する、又は、セダンとメジエール間のムーズ河畔に兵力を増強するなどの「当然な策」ですら為すことなく、手を拱いたまま時間を浪費するのでした。
午後5時30分、マクマオン大将はセダン要塞の宿舎で軍事会議を催します。
この会議には大本営付の諸将官と会議に間に合った数名の軍団長たちが参加しますが、何一つ決定がなされないまま、状況報告のみに終始しました。この会議において新第5軍団長ヴィンファン将軍はマクマオン将軍に対し「セダンは防衛に難しい土地なので、今のうちに東方へ活路を見出すべき」との主旨の上申をしましたが、聞き入れられなかったと証言しています。
何も決まらず諦感と絶望に満ちた雰囲気の中、皇帝は「地に落ちてしまった総軍の士気を鼓舞するために勅諭を発する」として次の布告文を認めるのでした。
「 軍人たちに告げる
開戦当初より(戦況は)不幸にして我が軍に有利とはならなかった。従って朕は、朕に対する憶測を度外視して総軍の指揮権を特に信望厚い(バゼーヌやマクマオン)将軍に預けたのだ。
諸官らはよく艱難辛苦に耐えて任務に精励したが、今日に至るも状況は好転しない。しかし、朕が聞くところ、バゼーヌ大将の軍はメッス要塞に籠城し英気を回復中で、マクマオン大将の軍は昨日、はなはだ軽微な攻撃を受けただけである。故に諸官らが勇気を喪失する理由などなにもないのだ。
われわれは(これまでの行動によって)敵が我が首都へ侵攻しようとした状況を阻止したのだ。仏帝国は今や独軍を駆逐するため全土全国民が奮闘中である。朕はこのごとき国家の大事を前にして国政をパリの皇后に委任して摂政とならしめ、一人の軍人として軍隊の中で活躍することを期待した。朕は国難を救済するため、何事にも動じず恐れはしない。祖国にはなおも多くの勇気と忠義溢れる男子がいるのだ。万が一怯懦の者があれば軍規と社会の制裁はこれを追及して止むことはないだろう。
諸官ら軍人よ。古来我が軍が勝ち得た偉大なる名声を失墜することのないように望む。
各自よくその義務を欠かすことなく励めば、神は我が仏帝国を見捨てることなどないであろう。
セダン大本営において 1870年8月31日 ナポレオン」 筆者意訳。()内は筆者付記
この1ヶ月の皇帝の采配を知る者にとっては、「この期に及んで言い訳とは」「今更ながらの士気高揚か」との反駁が出てもおかしくない布告と思います。
ムーゾンから戦いながら後退する仏軍
さて、マクマオン将軍が命じていたムーズ諸橋梁の破壊はどうなったのでしょう?
フリーズ付近の橋梁はメジエールの仏第13軍団から1個歩兵大隊が出撃して独軍接近前に無事破壊しました。また、フレノワ(ドンシュリーの東南東2キロ。ムーズ西岸)付近の橋梁も仏第7軍団の兵士が破壊に成功します。
ところが、その他の橋梁は落とされずに終わり、特に重要なドンシュリーとバゼイユの橋はこの夕刻までに、独軍によって占領されてしまうのです。
ドンシュリーの橋梁破壊に向かったのはセダン城から派遣された工兵1個中隊でした。この中隊はメジエール行きの列車に乗車してドンシュリーで下車しますが、独軍が目前まで接近して気の急いていた運転手ら鉄道員が、工兵が大型工具や火砲を降ろさない前に出発してしまい、工兵たちは茫然と佇み途方に暮れてしまったのでした。しかもマクマオン将軍は、橋梁の破壊が不十分に終わったことを31日の深夜に至るまで知らされませんでした。
○ 仏第7軍団
ドンシュリーに独軍が迫るとの情報が入った仏第7軍団は31日の午後、フロアン南方の野営地から移動して、フロアン部落とカルヴァイル・ドゥ・イイ(直訳すれば「受難のイイ」という不吉な名の丘陵。フロアンの東北東2.8キロ。現在記念碑があります)との間にある高地尾根に進み、前衛として歩兵2個大隊をサン=ムニュへ送り、西からの敵侵攻に備えました。ドゥエー将軍は「漫然と野営したままでは昨日のファイー将軍の二の舞(ボーモンの野営)」、とでも考えたのでしょう。将軍はただでさえ動かない将兵を自ら叱咤激励して廻り、この高地尾根に何とか塹壕を掘らせ、身を隠すことが出来る散兵線を築いたのです。
歩兵が消えたフロアン部落周辺には入れ替わりにボヌマン騎兵師団が入り、周囲で野営・待機しました。
○ 仏第5軍団
ドゥエー軍団の南側、セザールの小部落(フロアンの南東1.3キロ)北郊外には仏第5軍団のウジェーヌ・カンプ准将率いる軍団第2師団唯一の旅団(旧ドゥ・モーソン旅団)が野営していました。昨日30日に大損害を受けた軍団の残り部隊はセダン城の北西500m付近の「旧野営地」(ヴュー・カンプ)と呼ばれる空き地に集合し、既述通りヴィンファン将軍がファイー将軍から指揮を代わり部隊整理の真最中でした。
○ 仏第1軍団
30日深夜からカリニャン北部郊外に留まった仏第1軍団の2個(軍団第2と第4)師団と軍団砲兵隊は、軍団長デュクロ将軍の指揮で31日午前8時、カリニャン北部周辺の野営を徹して出発し、シェール川のベルギー側(北岸)をメシンクール(カリニャンの北5.5キロ。ベルギー国境まで僅か1.5キロです)からエスコンブル(=エ=ル=シェノワ。メシンクールの北西2.5キロ)を経て西へ退却します。至近に野営していたマルグリット騎兵師団も、歩兵の行軍列左翼(南側)を護るように追従しました。
デュクロ将軍は軍団の半分の第1、第3師団がこの時間もドゥジー(セダン城の東南東7.5キロ)で敵と相対しているものと信じ、これを収容し軍団に復帰させようとして正午頃、直率する2個師団をフランシュヴァル(ドゥジーの北3.5キロ)付近で南向きにして布陣させました。
ところが、フランシュヴァルの南方からは各軍団の輜重縦列が途切れずに続々とやって来ては去るだけで、戦闘兵員の姿は一切見られなかったのです。また、ドゥジー付近や後にしたカリニャンの北方には既に独軍の騎兵が走り回っているのが望見され、更に南西側のバゼイユ方向からは途切れることなく砲声が響き渡っていたのでした。
マクマオン将軍から信頼され、シャロン軍では「ナンバー2」を自認するデュクロ将軍は、直ちに軍団砲兵の3個中隊を割いてバゼイユへ向かわせ、残りの部下を率いて午後3時にジヴォンヌ渓谷に向けてフランシュヴァルを発ち、午後5時前にジヴォンヌに達すると、そこで部下の2個師団が陣を敷いているのを発見するのでした。
デュクロ将軍はこの第1、第3師団の右翼側(南)でジヴォンヌ川西岸上に沿いデニー部落(セダン城の東3キロ)付近までに布陣して、東を向いてバゼイユまで迫ったであろう敵に備えたのです。
デュクロ軍団に従って進んだマルグリット騎兵師団はそのまま西へ進み、イイ(フロアンの北東3キロ)部落周辺で野営に入りました。
○ 仏第12軍団
こうして仏シャロン軍の大部分は31日一日を掛けて独軍の追及を避けセダンへ向かいましたが、仏第12軍団はこの日も戦闘状態に陥ることとなりました。
軍団の先頭はこの日の早朝ようやくバゼイユに到着し、引き続きセダン要塞に入るため西へ進もうとします。その東では後衛がドゥジーを通過し、バゼイユへ向かおうとしましたが、このドゥジー~バゼイユ間で遂に独軍に捉えられてしまうのでした。
仏第12軍団の後続部隊がムーズ川を左に見てバゼイユを目指したとき、突然ムーズ川の西岸(南側です)から砲弾が飛んで来て隊列中で破裂したのです。
仏軍行軍列中の砲兵3個中隊は素早く砲列を敷き、南側の未知の砲兵に対し対抗砲撃を開始しました。軍団歩兵の反応も素早く、ラ・モンセル(バゼイユの北北東2.5キロ)付近の丘陵に南向して陣を敷きます。バゼイユ部落にはアルベール・カンブリエ准将旅団(第1師団第1旅団)が入って陣を固めました。そしてこの状態で砲兵とアルデンヌ鉄道の貴重なバゼイユ橋梁(市街地の南側1キロ付近)をも護り始めたのでした。
この「運命のセダン会戦」前哨戦となった「バゼイユ橋梁の戦い(31日)」*を記す前に、31日の独軍側の状況も見ておかねばならないでしょう。
ムーゾン付近の仏海軍歩兵(仏第12軍団第3師団)
※「バゼイユの戦い」は正確には8月31日と9月1日の二日間に跨がっています。通常は1日午前4時以降の戦いを「バゼイユの戦い」と呼称しますが、ここでは前日の同所における戦闘を近い名称の「バゼイユ橋梁の戦い」と呼ぶこととします。
○ マース軍
「ボーモンの勝者」アルベルト・ザクセン王太子は30日夜、会戦終了と同時に翌31日の行動予定を決します。それによれば、2個軍団と2個騎兵師団によりボーモンの東でムーズを渡河し、ムーズとシェール両河川間をカリニャンとムーゾンに向かって前進、ボーモンの会戦で活躍した第4軍団はムーゾン付近でムーズを渡河させる、というものです。
ところが深夜になって到着した前哨の報告によれば、「敵はムーゾン本市街より北西方向へ退却中」「カリニャンとシャルルヴィル=メジエール間のアルデンヌ鉄道では頻繁に列車が運行している」とのことで、マース軍本営はこの情報を普大本営と左翼に隣接するB第1軍団のフォン・デア・タン大将に転送(翌午前8時受領)し、フォン・デア・タン将軍には「貴軍団の前方に走るアルデンヌ鉄道を破壊しては貰えまいか」と要望するのでした。
アルベルト王子は31日黎明、大本営昨日午後11時発令の命令を受領し、午前6時、次の軍命令を発して大本営に報告するのです。
「近衛と第12(S)の両騎兵師団は、午前8時、プイイ及びレタンヌ付近においてムーズを渡河し、相互連絡しつつ近衛騎兵はカリニャン方面へ、S騎兵はムーズ東岸に沿った高地尾根上を前進せよ。
近衛歩兵両師団は午前9時にプイイで、S軍歩兵は午前10時にレタンヌ付近で、それぞれムーズを渡河し、各自の騎兵師団に続行し行軍せよ。この際に近衛軍団はなるべく2個縦列となって、1縦列はオートレヴィル(=サン=ランベール。プイイ北北東3キロ)を経由してヴォー(=レ=ムーゾン。ムーゾンの東4キロ)へ、もう1縦列はその右翼(東)に出てマランドリー(カリニャンの南南東6キロ)を経由しサイイ(カリニャンの南南東2.5キロ)へ、それぞれ行軍せよ。
第4軍団は午前11時にフォーブール=ムーゾンの西で待機状態となり、本営の命令を待つこと。軍司令官はS軍団と共に前進する」
騎兵第12(S)師団は軍命令が至る前に独断で行動しています。
これは師団長伯爵フランツ・ヒラー・フォン・トゥール・リッペ=ビースターフェルト=ヴァイセンフェルト少将の命令によるムーズ東岸の偵察で、既述通り黎明にサイイへ向かった槍騎兵第18「S第2」連隊の士官斥候フォン・アインジーデル中尉は、「昨夜見かけた野営が撤去された」と報告、上司の騎兵第24旅団長フリードリヒ・モーリッツ・アドルフ・ゼンフ・フォン・ピルサッハ少将は同連隊の第1中隊を直率すると午前4時、プイイから一気にムーゾンを目指し直行しました。
この道中、将軍は仏軍の落伍兵数名を捕らえ、ムーゾン郊外から望見すると、ムーゾン北方から仏軍の縦列がムーゾン周辺の野営に集まりつつあり、ムーゾン郊外からは兵士の縦列が続々と出発して一部はカリニャン方面へ、一部はドゥジー方面へと進んでいるのを確認するのです。
ところが、ピルサッハ将軍の見ている前でにわかに霧が発生し、それはたちまちに濃霧となって視界が閉ざされてしまうのでした(午前6時)。
将軍はこれに乗じてムーゾン市街へ進み、その道筋で仏軍が遺棄した多数の輜重を鹵獲するのでした。将軍一行は全く妨害されずに市街地東部に達し、ピルサッハ将軍はフォン・シュネーヘン少佐と槍騎兵4名をお供に、たった6騎で昨日猛烈な抵抗で占領出来なかった要衝へ堂々入城するのでした。
すると将軍は、驚くほど多くの仏軍兵士が未だに市街地に残っているのを発見するのです。しかし、数十倍の敵兵を前にしても驚きを態度に現さず、すっと背筋を伸ばし馬上から怜悧な眼差しで見下ろす敵の将軍に対し、剣や銃を向ける者はありませんでした。疲れ切った仏軍落伍兵たちは、ぽつりぽつりと立ち上がると静かに両手を挙げたのでした。
ピルサッハ将軍は捕虜を槍騎兵中隊に任せると、昨夕激戦の場となったムーズ橋を渡って南側のフォーブール=ムーゾン市街へと進みます。橋の南詰にいた普軍哨兵の誰何に「ザクセンのゼンフ・フォン・ピルサッハだ」と名乗った将軍は、まさか敵中から友軍の騎兵将軍がやって来るとは、と目を丸くして敬礼する哨兵に対し、「隊長はどこにいる」と聞いたのです。
午前6時30分頃、フォーブール市街で警戒していた「昨日の主役」、普第27連隊F大隊がムーズ橋を渡ってムーゾン市街に入りました。
午前7時、ボーモンのマース軍本営にムーゾン陥落の知らせを持って伝令が走ります。その報告にはピルザッハ将軍の「敵は既にセダン及びカリニャンへ退却しつつあり」との確実な情報が付記されていたのでした。
ピルサッハ将軍の活躍にやや遅れて、S騎兵と近衛騎兵2つの騎兵師団はその後方からカリニャンとムーゾン目指し行軍を始めます。
S騎兵師団は午前10時、ヴォーの西側に到達し、師団所属の騎砲兵第1中隊は砲列を敷いてカリニャンからベルギー国境方面へ北上中の仏軍縦列に対し砲撃を開始しました。これにより、カリニャン付近で停車していたアルデンヌ鉄道の列車1編成が焼失し、以降この付近での列車運行が止まるのです。
普近衛騎兵第2「槍騎兵」旅団長、親王フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト・フォン・プロイセン中将(王弟で普騎兵第4師団長フリードリヒ・ハインリヒ・アルブレヒト親王の長男です)は、旅団を率いて正午頃、カリニャンの南郊外に達します。この行軍中、近衛槍騎兵はサイイを通過する時にシェール川北岸ブラニー方面(およそ1.5キロ北東)より銃砲火を浴び、アルブレヒト王子は一緒に行動していた近衛騎砲兵第1中隊に命じて対抗砲撃を行わせ、シェール北岸の仏軍は直ぐに退却しています。
近衛槍騎兵第3連隊第5中隊はフォン・ゴッデウス大尉が率いて真っ先にカリニャンへ侵入し、家屋や園庭の塀に隠れた仏兵から散発的な銃火を浴びたものの、これを無視して突き進んで市街を横断し、数名の捕虜を得た後にクレマンシー(カリニャンの北北東4.3キロ)付近にいた仏歩兵の集団を蹴散らしたのでした。
近衛騎兵師団はこの後カリニャンを占領し、この市街とマトン(=エ=クレマンシー。クレマンシーの東隣800m)との間で野営するのです。
近衛槍騎兵がカリニャンへ向かうと、S騎兵師団は更に西へと行軍を再開しました。
トゥール・リッペ将軍は師団を率いてシェール川の南を西へ進み、ムーゾン市街を北に迂回して更に前進しました。すると正午過ぎ、アンブリモン(ムーゾンの北北西3キロ)付近の高地から望見すると、シェール川の北岸を仏軍の長大な縦列が行軍しているのが見て取れ、更にこの先のドゥジー付近には未だ仏軍がいるのが見えたのです。
午後1時過ぎ、トゥール・リッペ将軍は騎兵第23「S騎兵第1」旅団長カール・ハインリッヒ・タシーロ・クルーク・フォン・ニッダ少将に命じて旅団をドゥジーへ先発させました。
騎兵第23旅団の先鋒は槍騎兵第17「S第1」連隊で、午前中カリニャンを砲撃したS騎砲兵第1中隊が続行して進み、ドゥジーの仏兵から銃撃を受けますが騎砲兵中隊はメリー(ドゥジーの南2.5キロ)の東に砲列を敷いて砲撃を開始、たった数発発射しただけで仏軍は西へ撤退を始めたのです。
S槍騎兵は直ちにドゥジー部落に突進し、これを占領しました。騎兵たちは更に西へ進みますが、ここで部落の北のフランシュヴァルに向かう街道(現国道D4号線)に多数の車両が停止し、その付近の低木が密生する高地には、この馬車縦列の護衛兵と思われるおよそ2個中隊規模(300名前後)の仏兵が構えているのを発見しました。
槍騎兵第17連隊長フォン・ミルティッツ大佐は連隊を細かく区処して、第1,2中隊を敵の両側面から、第3,4中隊を一部は車両縦列へ、残りは護衛兵の散兵線へ突撃させたのでした。
この時に仏軍輜重縦列を指揮していた仏軍士官は、特筆すべき冷静さで馬車隊を統制し、秩序の乱れなく急ぎ後退することに努めていた、と独軍側に記録されています。
護衛兵も激しく抵抗し、散兵線に正面から飛び込んだS軍槍騎兵第3,4中隊は幾人もの仏兵を槍で刺し殺したものの、そのシャスポー銃の銃撃は凄まじく、騎兵たちは短時間で襲撃を中止して、占領したばかりのドゥジー部落へ待避するしかなくなるのでした。しかし、退却しつつも馬車縦列で生き残っていた牽引馬匹を解き放つという機転を利かせた者もいて、仏軍の輜重部隊の後退を見事に阻止したのです。
護衛兵を側面から襲撃して駆け抜けた第1,2中隊は、第2中隊がリュベクール=エ=ラメクール(ドゥジーの北西2.5キロ)まで進んだところでラ・モンセルの高地に構える仏第12軍団の散兵線から猛烈な銃撃を浴びて引き返し、第1中隊はプル=サン=レミ(ドゥジーの東北東3キロ)とプル=オー=ボワとの間でフランシュヴァル方向から銃撃を浴び、また数倍する敵騎兵部隊が迫ったため後退、それぞれドゥジーに退却したのでした。
この「ドゥジーの襲撃戦」でS槍騎兵連隊が被った損害は、軽傷を負った連隊長を含む士官3名・下士官兵6名・馬匹18頭と、激しい戦いの割には少なく、仏軍は40名の死傷者と80名前後の捕虜を出したのでした。
槍騎兵第17連隊がドゥジーへ向かったと同時に、S近衛ライター騎兵連隊はその右翼(東)側のブレヴィリー部落(ドゥジーの東南東3キロ)に向かいます。軽騎兵たちは無人のブレヴィリー部落を通過して更に北上し、部落北東側のシェール川の橋を渡るとその直ぐ北にあるプル=サン=レミの部落に進みます。ここで仏軍歩兵の集団に遭遇し、20名の捕虜を得ますが、部落の北には未だ仏軍の大部隊(直後に槍騎兵も遭遇した仏第1軍団の一部です)がおり、先程の橋梁まで退却すると下馬して騎兵銃を構え、後続の歩兵部隊が到着するまで橋を占拠し続けたのでした。
普軍槍騎兵と仏軍歩兵




