8月30日・独第三軍の行軍と仏シャロン軍の後退
◯ 独第三軍と普大本営
ボーモンの戦い(8月30日)当日、バイエルン王国(B)軍は普フリードリヒ皇太子率いる独第三軍の最右翼(東側)となり、ビュザンシー~ロークール街道(現国道D6号線)を前進しましたが、そのB第1軍団は既述通り直接「ボーモンの戦い」に参戦しました。
そのB軍団の反対側、独第三軍の最左翼(西側)となったのは、直前までマース軍傘下となっていた普軍騎兵2個師団で、この30日、仏シャロン軍の後方連絡線を遮断または混乱させるための行動を行います。
普騎兵第5師団はこの日トゥルトロン(ル・シェーヌの西北西9.5キロ)まで前進し、師団長フォン・ラインバーベン中将は麾下の驃騎兵第17「ブラウンシュヴァイク」連隊をアティニー(ル・シェーヌの西南西14キロ)に分遣し西方を警戒させるのでした。
普騎兵第6師団はこの日1個旅団ごと二手に分かれ、セミュイ(ル・シェーヌの西南西8キロ)とル・シェーヌを占領、1個連隊は更に北上してブヴェルモン(ル・シェーヌの北西11キロ)まで進み出ました。
独第三軍の主力は8月30日、この騎兵とB軍の間をストンヌ(ビュザンシーの北14キロ)を目標に前進します。
普第5軍団は午前6時にグランプレを発ち、当初の命令通りにオシュ(ビュザンシーの北北西9キロ)を目指しました。その他の部隊は最初の命令から変更されるか、ボーモンからの砲声を聞いたことによって東寄りに行軍を変え、結局はオシュ~ストンヌの方向を目指すことになります。
ドゥエー将軍の仏第7軍団はこの日(30日)、既述通りサン=ピエルモン(ビュザンシーの北6.5キロ)からストンヌへ至る行軍中、絶えず2個中隊規模の普軍近衛槍騎兵より妨害され追跡を受けましたが、この騎兵を率いていたフォン・シュルテン大尉は、ドゥエー軍団主力がストンヌに辿り着いた午前11時前後に後退し、これまでに得た情報を前進中の普第5軍団前衛に知らせたのでした。「シュルテン隊」はこの後、しばらくはB軍の胸甲騎兵旅団に身を寄せます。
この第5軍団の前衛支隊は、第10軍団長の弟で第18旅団長、カール・フェルディナンド・ヴィリアム・フォン・フォークツ=レッツ少将が率い、ヴュルテンベルク王国(以下W)ライター騎兵第4連隊、普第9師団所属の第18旅団(擲弾兵第7「国王・ヴェストプロイセン第2」連隊、第47「ニーダーシュレジエン第2」連隊)、野戦砲兵第5「ニーダーシュレジエン」連隊重砲第1,2中隊、竜騎兵第4「シュレジエン第1」連隊からなる強力な支隊でした。
「フォークツ=レッツ支隊」は午前10時過ぎにオート(ビュザンシーの北西6.5キロ)へ到着、ここで少時休憩すると午前11時にWライター騎兵を先発させた後オシュを目標に出発しました。
するとここで前述のシュルテン大尉が行軍列に到着し、「敵の歩兵がストンヌの南側斜面となった土地に野営し、一部はラ・ベルリエール(ストンヌの南3キロ)にあり」との報告をします。フォークツ=レッツ将軍は直ちに重砲2個中隊に竜騎兵の援護を付けて急進させ、サン=ピエルモン北方の高地上に砲列を敷いた砲兵は午後12時30分、ストンヌの敵に対し砲撃を開始しました。
すると、仏第7軍団からライット砲兵1個中隊がラ・ベルリエールまで前進して来ると対抗射撃を開始するのです。この時、普軍重砲の砲列左翼(西)前方にはオシュ近郊まで接近したWライター騎兵連隊があり、その後方に普第18旅団が集中して展開しました。フォークツ=レッツ支隊の左翼と後方には既に第5軍団主力が進みつつあり、第9師団(第17旅団主幹)はヴェリエール(オシェの西南西4キロ)に、第10師団はサン=ピエルモンにそれぞれ接近していたのです。
普両師団砲兵の内2、3個中隊は急進し、一部は重砲第1,2中隊の砲列に加わり、一部はフォン・バールの家(フェルム・ド・フォン・バール。サン=ピエルモンの西約2キロ。現存)付近に砲列を敷きましたが、砲撃には至りませんでした。何故ならば、ラ・ベルリエールの仏軍砲兵はほんの十数分間砲撃を行っただけで、自身に被害が及ぶ前にさっさと後退してしまったからです。
この砲兵の後退とほぼ同時に仏第7軍団本隊もストンヌから後退を始め、その長い車両縦列はラ・ブサスへ向けて続いていました。この混乱した状態のため、その一部は既述通り東側のボーモン方面へ進んでしまい、B第1軍団と衝突します。フォークツ=レッツ支隊の先鋒となったWライター騎兵は、ストンヌ西隣の部落レ・グランド=アルモワーズ(ストンヌの南西3キロ)へ向かい、その南側フェイの森¦(ボワ・ドゥ・フェイ)に前進しようとしますが、ストンヌの西郊外に留まった仏軍後衛のミトライユーズ砲中隊から狙われ、付近の遮蔽に逃げ込んだのでした。
午後12時30分過ぎ。普フリードリヒ皇太子は第三軍本営幕僚を引き連れてサン=ピエルモン北方高地に到着し、W騎兵が蹴散らされるのを目の当たりにします。
ストンヌ部落は周囲より標高が高い高地上にあり、未だ仏軍によって護られていることを知った皇太子は「無駄な正面攻撃を避ける」ため、「ストンヌへの本攻撃は第11軍団が到着するまで待つ」としました。
この時、北独第11軍団はヴージエからラ・シェーヌへ向けて行軍中で、途中、キャトル=シャンで皇太子からの「行軍目標をラ・ベルリエールへ変更せよ」との命令を受け取ることとなります。この軍団はおよそ1時間半後の午後2時30分、ラ・ベルリエールに到着しました。
一方、ヴージエの東方からル・シェーヌへ向かっていたW師団本隊は、ベルヴィル=エ=シャティオン(=シュル=バール。ビュザンシーの西北西10.5キロ)付近でバール川渡河準備中の第11軍団前衛と遭遇し、皇太子の命令を聞いた師団は第11軍団前衛に後続してラ・ベルリエールに向かったのでした。
このシャティオンの南郊外で野営し待機していた普騎兵第4師団は、正午に野営を撤して出立し、ラ・ベルリエールへ向かいますが午後1時30分、同じ地点に部隊が集中し過ぎることを恐れた第三軍本営の命令によりヴェリエール郊外で停止して待機に入るのでした。
ビュザンシー北郊外で野営していた普騎兵第2師団は、正午過ぎに北方からの砲声を聞くと前進を始め、午後3時、伝令により本営の命令が伝達され、サン=ピエルモンまで進むのでした。
男爵ヤコブ・フォン・ハルトマン歩兵大将のB第2軍団は29日の深夜、エール川の南側マルク(グランプレの南東4.5キロ)とシュヴィエール(同じく東南東2キロ)で野営し、深夜、早朝の出立に備えサン=ジュヴァン(マルクの北北東2キロ)の南でエール川に架橋しました。軍団は30日黎明時にB第1軍団が出撃すると、その後続として橋を渡って前進を開始します。第三軍本営としてはこの軍団をラ・ブサスまで前進させ、ザクセン王太子のマース軍との境界を埋める連絡役に使おうと考えていましたが、如何せんビュザンシーとヌアールの北ではこの数日間、敵味方を問わず非常に多くの軍隊が行軍しており、折からの悪天候も手伝って道も荒野も泥濘が深く、また先行する各軍団の輜重や後方部隊により渋滞も発生していました。このため、B第2軍団の行軍は大幅に遅れてしまいます。
ハルトマン軍団は30日の午後遅くに至っても遙か南方で渋滞に巻き込まれていたため、第三軍本営はフォン・デア・タン大将に命じて、B第1軍団から一部兵力を割き(B第1師団の一部)、ラ・ブサスの守備に当たらせようとします。しかし、仏第7軍団の後退が急激で、フォン・デア・タン将軍は独断で更に北へと進撃するのでした(既述)。
退却中に攻撃を受ける仏第7軍団
このように独第三軍は、ほとんどが正午から午後1時までの間にストンヌ南方の地方へ集中行軍しました。
この皇太子の軍を追って、大本営のお歴々を従えたヴィルヘルム普国王も前進します。
ヴィルヘルム1世は早朝、グランプレを発してビュザンシーに向かい、渋滞を縫うようにしてソモト(ビュザンシーの北7.5キロ)へ進みました。ここでヴォー=アン=デュレの北西高地(ソモトの南にある標高300m台の高地)に登ると、第4軍団とS軍団がボーモンを陥落させて更に北上して行く様を、モルトケ参謀総長やビスマルク宰相ら首脳部と共に観戦するのです。
国王はまた、フリードリヒ皇太子よりの戦闘経過報告を受けると、「現況ではストンヌを強襲しても利はなく危機に陥るだけ」として、皇太子に対し「ストンヌの敵と正面から戦うな」と命じたのです。この慎重な判断は勝っている側の余裕とも言えますが、「グラヴロットの悪夢」を経験した普大本営の偽らざる反応とも言えるでしょう。
ところが、ストンヌの「敵」(仏第7軍団の後衛)は午後2時を過ぎると順次撤退を始め、午後3時過ぎには歩兵がストンヌ部落から消え去るのでした。普第5軍団の前衛、フォークツ=レッツ支隊はこれを追って前進し、オシュを経て先刻仏軍砲兵が砲撃を行ったラ・ベルリエールの高地まで進むと、重砲2個中隊は未だストンヌ郊外で砲撃を繰り返すミトライユーズ砲兵や、後退する仏軍歩兵縦列に対し榴弾砲撃を行うのです。
フォークツ=レッツ支隊の前進により、普第10師団もまた前進を再開し、午後3時30分、仏軍後衛の去ったシーニュ山(モン・デュ・シーニュ。オシュの北東2キロの山)を占領しました。
普第9師団の本隊となっていた第17旅団は、竜騎兵第14「クールマルク」連隊(第10師団騎兵)と軍団砲兵隊の騎砲兵2個(第2,3)中隊を引き連れて前進し、オシュに至り、ラ・ベルリエールの高地でフォークツ=レッツ少将の支隊と合流しました。この前衛からは第47連隊の2個大隊がダミオン山(モン・ダミオン。ラ・ベルリエール北東2.5キロ付近の山)に登ってラ・ブサスを窺い、後に軍団砲兵隊もオシュまで前進するのでした。
普第5軍団長フォン・キルヒバッハ歩兵大将は、午後4時を過ぎても東方より砲声が途絶えないことから万が一参戦する可能性を考慮し、予定地を越えて軍団をラ・ブサスまで進ませることに決定しました。この直後、既にB第1軍団が仏第7軍団を追ってラ・ブサスから北方へ進んだことを知ったキルヒバッハ将軍は、第20旅団がストンヌに進み出るや休まず行軍を継続してラ・ブサスの北方まで前進するように命じ、竜騎兵第14連隊も歩兵旅団に同道させるのです。これに続いて普第5軍団の残り部隊は、ラ・ブサスの南郊外で「ボーモン西街道」(現国道D30号線)の両脇に沿って野営に入りました。
仏軍がストンヌを後に退却したことで、ヴェリエール郊外で待機していた普騎兵第4師団に追撃命令が下ります。師団は槍騎兵第10「ポーゼン」連隊を先頭に突進し、先鋒の第1中隊はロクールに至る街道沿いで多くの捕虜を獲るのでした。夜が更けると追撃を止めた普騎兵第8旅団は、ストンヌとレ・グランド=アルモワーズ周辺で野営に入り、他の2個(騎兵第9と第10)旅団はロクールへ進んだB第1軍団の戦闘音を追って進み、この夜はフラバ(ラ・ブサスの北3キロ)付近で野営しました。
第11軍団は仏軍後衛がストンヌを去った時に前進を再開してストンヌへ向かい、第5軍団が通過した後に部落へ入ります。この夜はストンヌとラ・ベルリエールに別れて野営しました。
W師団はヴェリエール付近に留まり、騎兵第2師団はオシェ周辺で野営となります。B第1軍団は既述通りプロン西高地で野営に入った「シューフ支隊」を除き、ロクールとラ・ブサス周辺で野営し、B第2軍団は前衛が日没時にソモトに到着、本隊も夜に入って続々とソモト周辺に集合し野営に入りました。
普第6軍団はこの日エーヌ河畔のオートリー(ヴージエの北北西17.5キロ)を発して当初の命令通りヴージエに入ります。その前衛はヴリジー(ヴージエの北北西3.5キロ)まで前進したのでした。
ストンヌ陥落後、普フリードリヒ皇太子は部落(標高320m程度)からヨンク川流域とムーゾン付近の戦闘を観察し、日が暮れると軍本営をサン=ピエルモンへ移動して宿営します。
また、普国王ヴィルヘルム1世は日没直後にソモトの高地を降り、今宵大本営の宿泊地と定めたビュザンシーへ向けて引き上げます。国王自身は戦場に近いソモト周辺に大本営を置きたかったのですが、既に付近の部落という部落は戦場から運ばれる負傷者で溢れ始めており、国王一行は輜重縦列が渋滞し所々に深い沼状の泥濘や崩落がある荒れた街道を苦労しながら辿り、ビュザンシーに到着した時には深夜となっていました。
比較的小さな市街のビュザンシーは、グランプレから前進した大本営の随行員で既に満杯となっており、宿営は正に立錐の余地のない状況でした。モルトケやポドビールスキーを始めとする普参謀本部の面々は到着早々翌日の作戦命令の作成に入りましたが、彼らに宛がわれた宿舎は狭い一軒家で、若手の参謀は表で焚火の明かりを頼りに命令書のコピーを作成する始末だったのです。
◯ 仏シャロン軍
仏シャロン軍司令官、パトリス・ドゥ・マクマオン大将は8月30日午後遅く、仏第12軍団の一部と同第7、第5軍団がボーモン~ムーゾン間で敗れ後退したことを受け、全軍を率いてセダン*へ後退することに決します。
セダンは要塞の街であり、マクマオン将軍は一見、メッスを後背地として戦ったバゼーヌ大将と同じくこの地で一戦を期したように見えますが、この決定の裏は「単に糧秣と弾薬を補給するだけ」だったとする戦記が多いようです。これは戦後の諮問調査会でマクマオン自身が答弁した内容によるものです。
しかし、マクマオン将軍がどう考えていようが、この日の「ボーモンの戦い」によってシャロン軍に残っていた最後の「気力」や「戦意」は燃え尽きてしまったと言っても過言ではなく、四六時中命令の変更に次ぐ変更で右往左往し、悪天候と深刻な糧秣不足に喘ぐ将兵は、遂に「輝くような栄光に包まれた偉大なマクマオン」ら統帥部に対して、大きな疑問と信頼の失墜を覚えつつ後退して行ったのでした。
こうなってしまうと、光輝ある「大陸軍」(ラ・グランド・アルメ。ナポレオン1世の陸軍)の末裔といえども、もう烏合の衆に等しい信頼の置けない存在となってしまいます。
アルジェに残されていたアフリカ植民地軍を指揮していた男爵エマニュエル・フェリクス・ドゥ・ヴィンファン(中将格)は、ヴュルテンベルク出自の古いドイツ系貴族家出身(独ではヴィンプフェン)で、18世紀末の市民革命期からナポレオン1世帝政期に陸軍准将まで昇進した祖父を持ち、サンシール士官学校卒業後はアルジェリア植民地でテュライヤール兵を指揮してクリミアからイタリアへと転戦し、この70年3月にオランで発生した反乱を鎮圧する武功を挙げたプライドの非常に高い将軍で、8月中旬パリ摂政政府から召喚され、更迭されるドゥ・ファイー将軍の後任として仏第5軍団長に任命されます。
ドゥ・ヴィンファン将軍は帰国直後に首相(陸軍大臣兼務)のパリカオ伯クーザン=モントーバン将軍から直接第5軍団長への任命を受け、同時に「重要な任務」を授けられます。
それは、もしマクマオン将軍自身に「何かが起きたら」その指揮権を掌握するように、と言うものです。パリカオ伯はその証となる辞令をヴィンファンに与えると、「シャロン軍は何があってもメッスのライン軍と合流するように」と訓示しました。ヴィンファンも激しい闘志を「売り物」とする闘将です。英雄パリカオ将軍の激励を受け、尊敬しつつも「いつか必ず越えて見せる」と目標にする上司、マクマオン将軍の下に向かったのでした。
ヴィンファン
ヴィンファン将軍はパリからシャルルヴィル=メジエールを経由し、ドゥジーでアルデンヌ鉄道を降りると8月30日の午後、アンブリモン(ムーゾンの北北西3キロ)に至りますが、ここでムーゾンとルフィーの渡し場から後退して来た「敗残兵の群れ」に遭遇します。後に彼が記した回想(その名も「セダン」。1871年著)によれば、各軍団の敗走兵は「群れをなして奔走して来るや、みな大声を上げて食料や水を求め、大いに憔悴落胆して疲労困憊した様子で、士官たちは手を拱いて成す術を知らず、下士兵士たちの有様にも冷淡で無関心を装っていた」とのことで、将軍は服従心が失せ規律も失って我先に逃走を続けようとする兵士の群れに対し、獰猛な植民地兵を震えさせた銅鑼声で「敵は追って来ないぞ!」と一喝し、パニックに襲われていた兵士たちの目を覚まさせ、立ち止まらせたのでした。
シャロン軍のセダンに向かう行軍は30日の日没時に開始されます。
ヴィンファン将軍はこの姿も活写しています。
「退却部隊の行軍は、各種様々な車両で充満・渋滞する諸街道を終夜に渡って遅々延々と進み、部隊の違い、兵種の違いを問わず渾然一体となると、みな先を争って更に混乱し、ただ命令された目標に到着することだけを願ったものだ。渋滞に遭遇し街道が塞がっていることを知った部隊縦列は、街道を外れて横道や道なき路傍の荒れ地へ進むものの、彼らは土地勘がなく地図もなく、全く方向を誤って進んでしまった。これによって戦闘に巻き込まれなかった部隊も散り散りとなって疲弊し、少なくない部隊が一時行方不明となった。特に騎兵諸連隊は道を誤るものが多く、中立国ベルギー国境を越えてしまう部隊もあった。第5軍団のブラオー少将騎兵師団も方向を逸し、セダン方向への退却を失敗し、遥か北西方向へ脱出してしまう始末だった」(ヴィンファン著「セダン」。筆者意訳)
仏皇帝ナポレオン3世は30日昼前にカリニャンへ到着し、午後には仏第1軍団の前衛が市街に入りました。前衛と共に進んだ軍団長オーギュスト・アレクサンドル・デュクロ将軍は、ここでマクマオン将軍からの「総軍はセダンに向かい行軍する」との命令を受け取ります。この命令には、「皇帝に奏上し、セダンへ同道するよう説くように」との命令が附してありました。
ところが、直後に戦況の悪化によって第1軍団は軍の後退を援護するよう命じられ、デュクロ将軍は軍団第1と第3師団をドゥジー付近に、第2と第4師団を日没までにカリニャンとブラニー(カリニャンの南東2キロ)間に集合させます。ブラニーには先着してマルグリット騎兵師団も待機していました。
8月30日のムーゾン市街
この第1軍団が後背地を固める中、ムーズ河畔の諸隊は30日の夜から翌朝に掛けて徐々にセダンへ後退して行きました。
ボーモンからムーゾンにかけて、独マース軍に激しく攻撃され後退した仏第5軍団は、諸隊混乱と疲弊が激しかったものの何とかムーズ渡河に成功した部隊は夜通しセダンに向けて後退し、31日午前9時、ほとんどの部隊がフォン・ドゥ・ジヴォンヌ(セダンの北東側街区。現国道D977号線沿い。北東側のジヴォンヌ部落とは別)に到着し、一部はその地に野営、一部は南西側の要塞斜堤上で配置に就きました。この31日、ドゥ・ファイー将軍は正式に更迭されヴィンファン将軍が軍団の指揮を代わります。しかしファイー将軍はセダンを去ることなく、指揮権を剥奪された後も第5軍団に留まるのでした。
ラ・ブサスからロクールへ退却した仏第7軍団は、諸隊が散り散りとなって後退しました。オーギュスト・アメル将軍の軍団騎兵師団は30日早朝、歩兵に先行して出立したため戦闘に巻き込まれることなくムーゾンへ進みました。コンセーユ=デュームニル少将の軍団第1師団は、その前衛がティボディーヌ農場付近の戦闘に巻き込まれ潰走しますが、普第4軍団がフォーブール=ムーゾンを落す前にムーズ川を渡ってムーゾン本市街へ脱出しました。師団の残りは北上し、ルミリー(=イクール。ロクールの北北東6キロ)でムーズを渡河しようと計画します。リーベル少将の軍団第2師団は、軍団砲兵隊と共に一時アンジュクール(ロクールの北北東3.7キロ)東方の高地上に留まってロクールから脱出する部隊を援護しました。
このロクールにはデュモン少将の軍団第3師団が残ってB第1軍団の追撃を受けてしまいますが、夕刻にロクールから退却した師団は午後7時にルミリーで渡河を終え、続いてアンジュクールのリーベル師団と軍団砲兵がルミリーで渡河しますが、慌てた歩兵の後衛が砲兵隊の渡河前に橋を破壊してしまい、砲兵隊と歩兵の一部は敵が追って来るムーズ西岸をセダン目指して進むしかなくなったのです。
仏第7軍団長フェリクス・ドゥエー中将は31日明け方近く(午前3時30分)、ようやくセダン要塞の東門前に到着し固く閉じる城門前で入城を求め、許されたドゥエー将軍は軍団を率いてセダン城前を通過し、要塞西地区のフロアン街区(セダン城の北北西2.7キロ)まで進んで集合しました。
ボヌマン少将の予備騎兵第2師団は、仏第7軍団の渡河に先だってルミリーからムーズ東岸へ渡り、軍団の渡河後はこれに従い、同じくフロアンへ進みました。
仏第12軍団の内、ドゥ・ヴィルヌーヴ准将旅団(軍団第1師団第2旅団)と胸甲騎兵第5連隊は既述通り、ヴィルモントリーとフォーブール=ムーゾン市街で独軍の前進に対し激しく抵抗しますが、胸甲騎兵連隊は三割程度の損害を受けて潰走し、歩兵は捕虜となった者やムーズ川で溺死した者も多数あり、ムーズ西岸で砲撃を繰り返した3個中隊の砲兵の内、ムーズ東岸へ脱出したのは半数以下の砲7門だけでした。
会戦終了直後にムーゾンを発った仏第12軍団長ジョセフ・ルブラン将軍は、独軍の追撃前に軍団諸隊をドゥジー経由でセダンに進めるべく奮闘し、軍団砲兵隊はカリニャンからシェール川の北を走るアルデンヌ鉄道沿いの街道を使って進ませ、歩兵3個師団は午後9時からおよそ1時間30分の間隔を空けてムーゾン周辺の陣地を密かに離脱し、順次西へ向かいました。しかし、深夜の隠密行軍はたちまち渋滞と迷走を招き、ヴィンファン将軍が記したように大変な混乱を引き起こしたのでした。
結局、軍団諸隊は翌朝に至りようやくドゥジーからバゼイユ(セダンの東城外市街。セダン城の南東3.5キロ)に至る地点に達しました。
こうして仏シャロン軍のムーズ西岸に残っていた部隊は全て東岸に渡り、黎明時にはドゥジー付近にいた仏第1軍団の半数もセダンに向かって退却、日の出時にはジヴォンヌ(セダンの北東3.5キロ)の渓谷に達し、このジヴォンヌ川に沿って散兵線を敷いたのでした。
8月31日の払暁にはシャロン軍は後衛を除き全てがセダン要塞周辺に集合しました。
ナポレオン3世は先立つ30日午後11時にセダン城に入ります。その出発前カリニャンにて皇后に宛て、ボーモンの戦いの概要を電信で伝えています。しかしその内容は相変わらず虚勢に満ちたもので、「戦いはあったが事は重大には至らず」とあったのです。
シャロン軍本営のマクマオン大将は本営と共に31日の早朝、セダンに入城しましたが、第1軍団長でマクマオンが右腕と頼むデュクロ将軍は、軍団の半数2個師団とマルグリット騎兵師団と共に午前8時までカリニャン北方に留まりました。
このセダンの北西方17キロにあるシャルルヴィル=メジエールでは、仏軍の新たな軍団、第13軍団が集合しつつありました。
ジョセフ・ヴィノア中将率いるこの軍団は、ローマ教皇領に駐屯していたピエール=ヴィクトル・ギレム准将旅団を召喚し中核として新設されたもので、8月16日から20日にかけて首都パリで編成されたマルシェ連隊が主力となっています。
デクゼア=デュメルク少将率いる第1師団は25、26の両日ランスまで先行し、軍団の残り部隊はパリから直接列車にてメジエールへ送られたのです。軍団長のヴェノア将軍はジョルジュ・ウジェーヌ・ブランシャール少将師団と共にこの列車で移動し、30日夕刻、メジエールに到着したのでした。
8月31日早朝・ムーゾン南郊外 街道沿いの光景
※セダン、ベルダン、メッスなどの表記について
現在、「セダン」は「スダン」、「ベルダン」は「ヴェルダン」との日本語表記とされる場合が普通ですが、ここでは旧来の表記「セダン」「ベルダン」で通します。「メッス」についてもドイツ表記の「メッツ」や「メス」との表記がありますが、「メッス」とさせて頂いています。




