ボーモンの戦い(終)/フォーブール=ムーゾンとヴィルモントリーの陥落
ムーゾン方面の戦い最終局面の独側展開
凡例
93/8 第93連隊第8中隊
96/F 第96連隊フュージリア大隊
31/Ⅱ 第31連隊第2大隊
P=工兵中隊 J=猟兵大隊
4・3 野戦砲兵第4連隊軽砲第3中隊 4・Ⅲ 野戦砲兵第4連隊重砲第3中隊
4.3r 野戦砲兵第4連隊騎砲兵第3中隊
普第8師団の本隊はグレジィ鉄工所付近で集合すると、ツィヒリンスキー将軍の前衛が前進し、ムーゾン郊外を窺うようになると再び前進を始めました。
第93連隊第2大隊(ブロンヌ山攻撃時、山麓にいた第5,6中隊は攻撃に加わらず、ツィヒリンスキー将軍の命令でグレジィに戻り大隊に帰着しました)はヨンク川の渓谷を下り、第93と第96両連隊のF大隊は工兵第1中隊を従えて前進し、ブロンヌ山北西山麓のプロン部落を占領します。この部落にいた仏軍は既に全てムーズ河畔へ撤退していました。
本隊と共に前進した師団長フォン・シェーラー中将は、仏軍がブロンヌ山麓から北へ急速に撤退している最中であること、西方のロクール方面から砲声が聞こえること等を確認すると、プロンに集合した部隊をそのままムーズ河畔に向けて前進させるのでした。
※午後5時30分における普第8師団本隊の行軍隊形
☆右翼隊(フォン・ケスラー少将指揮・ヨンク川東岸を前進)
・第31「チューリンゲン第1」連隊(第2,3中隊欠)
・第96「チューリンゲン第7」連隊第2大隊
・軍団工兵第1中隊
☆左翼(師団長直率・ヨンク川西岸を前進)
・フュージリア第86「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン」連隊第2大隊、第4中隊
・第96連隊F大隊
・第93「アンハルト」連隊第2、F大隊
※師団の残余部隊の動向
第96連隊第1大隊は第4軍団砲兵の護衛任務に、第86連隊第1,2,3中隊はボーモン北西の仏軍野営地跡で警備に、それぞれ就いています。第31連隊の第2,3中隊は戦線最右翼(東)ヴィルモントリー南側のジヴォドー森北東縁で、第71「チューリンゲン第3」連隊と工兵第2中隊はジヴォドー森東側で、それぞれ戦闘中。第93連隊第1大隊は一部を除きブロンヌ山麓を北上中、猟兵第4「マグデブルク」大隊はかなり遅れてブロンヌ山の南を前進中でした。
この内、フォン・ケスラー少将率いる本隊右翼はツィヒリンスキー少将の部隊と連絡し、戦線を維持するよう師団長に命じられます。
第8師団の後方からは、フォン・デア・タンB第1軍団長に命じられて派遣されたフォン・シューフ大佐率いる旅団クラスの支隊が到着し、シェーラー将軍は早速プロン西側の高地に進むよう命じました。この高地には逃げる仏軍を追って、既に第93連隊の第8中隊が先行しています。
このブロンヌ山西側にいた仏軍(主に第5軍団)は概ねオートルクール方面を経てムーゾン川へ退却しました。これを追跡した第93連隊第8中隊は、敵の一大縦列がムーゾン南市街(フォーブール=ムーゾンと呼ばれた街区で、現在のムーゾン駅南西側の市街地です)からルフィーの渡し場へと続く街道(現国道D27号線。以降ルフィー街道とします)を進み、その先頭は正にヴィレ=ドゥヴァン=ムーゾン南側の橋を渡りつつあることを発見します。
この報告を受けたB軍のシェーフ大佐は、支隊の砲兵2個中隊をオートルクール南方の高地に前進させ、ルフィーの小部落とヴィレ=ドゥヴァン=ムーゾンの橋梁に向けて砲撃を開始させました。ムーゾン南側の仏軍はこれで退路を塞がれた格好となり、一部は四散しつつ川沿いに北上し、一部は街道に遺棄または動けずに停車していた馬車の陰で、身を縮めるしかありませんでした。
午後6時過ぎ、ツィヒリンスキー少将とシェーラー中将は一斉に攻撃を開始し、その攻撃正面はフォーブール=ムーゾン(以下、「フォーブール」と略します)の市街からルフィーまでとなりました。
この攻撃には後方から前進した普軍砲兵も重要な役割を担いました。
午後5時過ぎにヨンク北東の高地(918高地周辺)に集まった普第4軍団所属の諸砲兵中隊は、重砲第4中隊が先陣を切ってグレジィ鉄工所まで進んで砲撃を開始し、ブロンヌ山が攻略されるとその山頂目指して前進します。他の砲兵中隊も後を追いますが、ブロンヌ山の西面はヨンク川に向かって急斜面となり、北斜面も森となっていたため馬匹は登坂出来ず、他の斜面も道は細く急坂で集団で一斉に行軍するのは不可能でした。各中隊は砲車ごと各個に前進することとし、一部はムーゾン街道(現国道D19号線)へ向かい、一部はヨンク川に沿ったヨンク街道(現国道D4号線)から旧ローマ街道へ向かいました。
ムーゾン街道を進んだのは重砲第1,2、軽砲1,2,4の諸中隊で、残り(重砲3,5,6、軽砲3,5,6、騎砲兵2,3の各中隊)はヨンク渓谷を進みます。
最初にブロンヌ山頂に達したのは先行した重砲第4と軽砲第3中隊で、旧ローマ街道の北側に砲列を敷きました。続いて騎砲兵2個中隊が到着し、先着2個中隊の右に並びました。やや遅れて918高地の北斜面を滑り降りて急行した重砲第3と第6が登って来ると、重砲第3中隊は最左翼に、重砲第6中隊は旧ローマ街道を隔てた右翼側に砲列を敷きます。
これら6個中隊36門の砲は、フォーブール市街とルフィー街道上の仏軍縦列を狙って直ちに砲撃を開始しました。彼ら第4軍団砲兵は砲列が増えるに従い目標を拡大し、会戦終盤にはムーズ対岸の仏軍砲兵列や歩兵の縦列に向けても有効な砲撃を行ったのです。
先行した6個中隊に負けじとシュテアー少佐率いる重砲第5および軽砲第5,6中隊も急ぎブロンヌ山東側斜面に砲列を敷き、軽砲1,2中隊は更に南東側、ムーゾン街道の東脇580高地(ブロンヌ山頂の東南東1.2キロ)に陣を敷きます。
この会戦初頭で損害を受けて戦力が消耗し、4門だけとなっていた軽砲第4中隊は遅れてブロンヌ山上に至ると、騎砲兵の砲列左翼にあった隙間を利用して砲列を敷いたのでした。
※ブロンヌ山付近の砲列
◯プロン部落北西高地
・B第1軍団4ポンド砲第4中隊
・B第1軍団6ポンド砲第6中隊
◯ブロンヌ山・旧ローマ街道北
左翼より
・重砲第3中隊
・軽砲第3中隊
・重砲第4中隊
・軽砲第4中隊
・騎砲兵第3中隊
・騎砲兵第2中隊
◯ブロンヌ山・旧ローマ街道南
・重砲第6中隊
◯ブロンヌ山・北東斜面
・重砲第5中隊
・軽砲第6中隊
・軽砲第5中隊
◯ムーゾン街道東袖(580高地)
・軽砲第1中隊
・軽砲第2中隊
シェーラー中将(普第8師団)とツィヒリンスキー少将(第7師団第14旅団)の攻撃の最左翼(西側)となったのは第93連隊第8中隊で、プロン西側高地に敵を追ったこの中隊は、高地斜面を駆け下りてルフィーの渡し場目指し突進しました。この右翼に第8師団の各連隊が中隊~大隊単位で縦隊横列となり進撃し、更に右に第14旅団で前衛となった部隊がフォーブール市街までの間で突進しました。
この「ツィヒリンスキー隊」の右翼側には、ジヴォドー森からムーゾン街道を進んで来た、ヘルマン・フリッチュ少佐(第26連隊第1大隊長)率いる第26連隊の「左翼集団」(5個と4分の1個中隊。「ジヴォドー森の激戦」参照)と、攻撃開始時に到着した第71連隊第11中隊が続きました。
※午後6時過ぎにおける普第8師団と第14旅団の戦列
左翼(西)より
◯ルフィー付近からヨンク川まで
第一線
・第93連隊第8中隊
・第96連隊F大隊
・第86連隊第2大隊
・第86連隊第4中隊
第二線(86連隊の後方)
・第93連隊第5,6,7中隊
・第93連隊F大隊
◯ヨンク川からフォーブール市街南西側まで
第一線
・第31連隊第1,4中隊
・第96連隊第1大隊の3個散兵小隊
・第31連隊第2大隊
・第96連隊第2大隊
・軍団工兵第1中隊
第二線(工兵の後方)
・第31連隊F大隊
◯フォーブール市街正面
第一線
・第27連隊F大隊
・第27連隊第5,6,7中隊
第二線
・第93連隊第1大隊
◯フォーブール市街南東(ムーゾン街道の東側)
・第26連隊第1,2,5,6,11中隊と第8中隊散兵小隊
・第71連隊第11中隊
フォン・ハイドヴォルフ中尉率いる最左翼の第93連隊第8中隊は、ルフィーから既に仏軍が渡河したか更に北上したかで消えていることを確認した後、敵が遺棄し一部はムーズ川に落とし込まれていた車両群を捜索し、1万8千フランが入った金庫を押収しました。この後中隊はムーズ河畔を北上し、ヴィレ=ドゥヴァン=ムーゾンの南側(上流)に架橋してあった仮設軍橋を占領し、橋上の渡し板を外して守備するのでした。
その右翼側の普軍諸部隊は、ルフィーの渡し場を砲撃されたため行き場を失いルフィー街道で最後の抵抗を試みる仏軍へ、ほぼ横一線となって突進します。
片や沿道で車両や遮蔽物に潜んでいた仏兵たちは、直後は流れの急なムーズ川となって正に背水の陣、突進する普軍部隊に対し必死で銃撃を加えたのでした。対岸に砲列を敷く仏軍砲兵も、ブロンヌ山から対砲兵射撃を繰り返す普軍砲兵を無視して直前の普軍歩兵へ砲撃を繰り返し、取り残された友軍を立派に援護したのでした。
ムーゾンのルブラン軍団砲兵
特にヨンク川とルフィー街道が交差する西岸にあったポンセ水車場(ブロンヌ山頂の北1.7キロ)と、その南で停車していた車両群に散兵線を敷いた仏軍は激しい抵抗を示し、ラーデマン大尉率いる第86連隊第4中隊はこの水車場を落とすべく川の西岸を前進して激しい銃撃戦が展開されました。
ヨンク川東岸からは第31連隊第1,4中隊が同じくルフィー街道目指して前進しました。その右翼側を進んだのは同連隊第2大隊と、ブロンヌ山で待機していた第93連隊第1大隊から独断で前進して来た3個散兵小隊で、彼らは共同して街道の車両群に向かって突撃を敢行するのです。
この水車場と街道の戦いは激戦となりますが、午後7時までに普軍は水車場一帯を制圧、第31連隊と第86連隊それぞれの第4中隊は街道を越えて逃げる仏軍を追います。しかし、第86連隊第4中隊は未だ対岸河畔に留まっていたミトライユーズ砲中隊に狙われ、前進を阻まれてしまいました。この仏軍砲兵は夕闇が深くなる中、普軍から襲撃を受ける前に戦線を離脱し戦場を後にするのでした。
第31連隊第1大隊長、フォン・ペテリー少佐(9月に中佐昇進)は第1,4中隊を率いてヨンク川西岸の水車場とその北にある小林を占領し、ちょうど戦場に到着した猟兵第4大隊は、水車小屋の西を通り過ぎ、仏軍の抵抗を全く受けずにヨンク川岸を下ってムーズ河畔に至ったのでした。
ヨンク川東岸の戦線では、第31連隊第2大隊と工兵第1中隊がルフィー街道の仏軍を制圧して街道を越え、第96連隊第2大隊と第1大隊の散兵(先鋒)たちは、負傷しても後送を拒否し街道脇で指揮を採り続ける第16旅団長フォン・シェフラー大佐の命を受け、街道沿いの雑木林に散兵線を敷きました。
この内、第31連隊の一部は敵を追い続けてムーズ河畔に到達し、追われた仏軍兵士で捕虜を嫌った者たちは増水するムーズ川に飛び込んで泳いで渡ろうとしましたが、その多くは流され溺死してしまうのでした。
第31連隊はこの戦闘で遺棄された野砲3門を手に入れましたが、その損害もまた大きく多くの下士官兵が死傷し、F大隊長フォン・ベチュヴァルツォウスキー少佐を筆頭に数名の士官も重傷を負ったのでした。
第8師団の諸隊はこうしてルフィー街道を越えて前進し、その右翼でフォーブール市街を狙う第14旅団の最左翼を進む第27連隊の第11,12中隊は、やや左翼側に動いて第8師団の戦線と第14旅団の戦線に穴が開かないよう連絡を付けるのです。
この右翼側では、本日大活躍の同連隊第10中隊が第9中隊を従える形で、南西側の旧ローマ街道からフォーブール市街へ突入しました。
この市街南面に向かったのは、ツィヒリンスキー将軍が直率する第27連隊第5,6,7中隊と第93連隊第1大隊で、旧ローマ街道の南側、ムーゾン街道沿いを前進すると、市街最南西端の家屋から猛烈な銃火を浴び、更にムーズ対岸より仏軍砲火も浴びてしまいます。中にはブロンヌ山上の友軍からの榴弾により前進を阻まれた中隊もありましたが、これらを避けつつ前進した部隊は、遂に市街へ突入し、午後7時、フォーブール市街地南端の教会と墓地を占領するのです。
これとほぼ同時に南からフォーブール市街へ突入したのはフリッチュ少佐率いる第26連隊の半数で、市街南側の庭園や家屋に侵入して守備兵と白兵戦を行い、これを虱潰しに行ってムーゾン本市街を目指しました。その先頭を行く第2(ルートヴィヒ・リヒャルト・モーリッツ・フォン・ヴェスターンハーゲン大尉指揮)と第11中隊(男爵オスカー・フォン・コラス大尉指揮)は、ムーゾン本市とフォーブール市街を隔てるムーズ川の常設橋(以下「ムーズ橋」とします)に突進し、橋上に構えたミトライユーズ砲中隊に突撃すると、これを北の本市街へ駆逐して橋を占領しました。この後、速やかにムーズ橋の南端(フォーブール側)付近の家屋を占拠して対岸への銃撃拠点を設けると、第26連隊残りの部隊(第1,5,6中隊など)はフォーブール市街南側で予備となって待機したのです。
このフォーブール市街地の南側には、第66連隊第7中隊と同連隊第2中隊の一部もやって来ました。彼らは独断でジヴォドー森北縁の戦線からフォーブール目指して前進して来たものでした。
第26連隊のフリッチュ隊と行動を共にしたフォン・ベルラーディ大尉率いる第71連隊第11中隊は独りツィヒリンスキー隊と合流すべく市街南から墓地へと進みましたが、この時は未だ市街掃討戦の最中で、激しい銃撃を浴びて多大なる犠牲の上で市街に突入し、大尉はツィヒリンスキー将軍と墓地で邂逅するのでした。
フォーブールの市街を追われ、川を越えてムーゾン本市街へ撤退した仏軍は、対岸よりフォーブールめがけて激しい銃砲火を浴びせ、一部の兵士たちはムーズ橋を奪還しようと逆襲を何度か試みましたが、最前線で戦うフリッチュ少佐の隊は、その都度これを撃退する奮闘振りを見せたのです。
完全に陽も暮れ、夜陰が広がるとムーゾン市街地からは反撃の銃声も途絶え、深と静まり返りました。盛んに反撃を行っていた仏軍がやって来なくなると、フリッチュ少佐は「敵が完全にムーゾンを後に撤退したのでは?」と疑い出します。少佐は第26連隊の第1中隊を選んで自ら先頭となってムーズ橋を渡り対岸に達しますが、ここでたちまち三方から激しい銃撃を浴び、少佐は慌てて橋を逆戻りして難を逃れるのでした。この後、後退し集合を命じられた少佐は、ツィヒリンスキー将軍の部隊に任地を任せて引き上げたのです。
さて、第8師団と第14旅団の活躍で、ムーゾン対岸までを完全に掌握した独マース軍でしたが、その戦線右翼側では尚も強大な敵を前に苦戦を続けるザクセン軍(S)と第7師団の本隊がありました。
普第7師団長、フォン・グロス=シュヴァルツホッフ中将は、部下のツィヒリンスキー少将がムーゾンに向かって前進を始めるのを見ると、これを援助しようと考えて師団の軽砲兵2個(第1,2)中隊を前進させましたが、この時、将軍自ら適当な砲兵陣地を選ぼうとして副官らを従えジヴォドーの家(ヴィルモントリーの北1キロ。現存)方面まで騎行しました。ところが、未だヴィルモントリー周辺では仏軍が頑張っており、特に部落西にある林(部落西端から1キロ。現存)の北端には強力な散兵線があって、背後から狙撃を受けた将軍一行は副官1名が銃創を負ってしまったのでした。
これに怒った将軍は、ヴィルモントリーの仏軍のために師団右翼側戦線で停滞する第13旅団の前進を謀るため援軍を求め、まずはムーゾン街道上を進む第8師団の後続部隊に赴きます。
この時ムーゾン街道からは、第4軍団砲兵と共に前進して来た第96連隊の第3,4中隊(第1大隊。残りの第1,2中隊は反対側ブロンヌ山西端砲列脇にいます)と、その後方から第71連隊が進んで来ました。
ルートヴィヒ・フォン・クレーデン中佐率いる第71連隊は、ヴィルモントリーに仏軍が集中しているのを知って街道沿いに散兵線を敷こうとしているところでした。後方からは第71連隊と同行した第86連隊の第3大隊や軍団工兵第2中隊が進んで来ます。
更に、ボーモン周辺で占領地警備を行っていた第86連隊第1大隊の3個(第1,2,3)中隊や第27連隊の第8中隊も任を解かれ、ムーゾン街道を北上中でした。
シュヴァルツホッフ将軍は、最初に出会った第96連隊の2個中隊と第71連隊の第9,10,12中隊(F大隊。残り第11中隊は前述通りフォーブールの墓地に進みました)、そして直前に現れた第27連隊第8中隊に対し、ジヴォドーの家とヴィルモントリー西林への攻撃前進を命じます。第96連隊第3,4中隊は左に転回しジヴォドーの家へ、第71連隊F大隊と第27連隊第8中隊は東側の開墾地を直進しヴィルモントリー西林へ向かいました。この時、同時にジヴォドー森からも攻撃隊が進み出て来るのでした。
Sフュージリア第108連隊第1大隊は、フォン・レーオンハルディ中佐に率いられてジヴォドー森北端より突進し、その右翼(東)からはフォン・シンプ中佐率いる擲弾兵第101連隊が前進して来ます。
これらおよそ1個旅団クラスの攻撃に対し、仏軍も必死の抵抗を見せますが、同時に南と西二方向から攻撃され、遂に耐え切れず林を飛び出し北へ撤退を始めるのでした。普軍とS軍団の先鋒は林へ突入し、負傷兵や戦意を喪失して手を上げる多くの捕虜を得たのでした。
林から逃走する仏兵は開けた原野を北上したため、ムーゾン街道の東側でムーゾン市街に砲撃を開始した直後の第7師団軽砲第2中隊の方向に進むこととなり、砲兵中隊長ゼンガー大尉は2個小隊4門の砲を右に旋回させ、集団となって押し寄せる仏敗走兵に向かって600mの距離で速射を行いました。仏兵は恐慌を来し逃走方向をジヴォドーの家へ転じますが、既にこの方向へ進撃中の第96連隊2個中隊により銃撃を受け、遂に四散して主にムーズ川の方向へ散り散りとなって逃げ去ったのでした。
この林への攻撃中、フュージリア第108連隊の右翼側部隊(第7,11,12中隊)とロストケン少佐率いる第26連隊の左翼集団の一部はヴィルモントリーの部落へ向かい、部落の仏軍は三方から攻められる形となって白兵戦に至る前に撤退を始めました。
ヴィルモントリーで戦う仏第5軍団兵士
これで完全に勝負は付きます。戦線右翼でも仏軍はムーズ川へ一斉に後退して行ったのでした。
既にフォーブールを制圧されムーズ橋を抑えられたので、仏兵の多くは逃げ場を失いムーズ河畔で追い詰められて多くが捕虜となります。一部は流れの早いムーズを泳ぎ渡る危険を冒し、また一部は夜陰に紛れて雑木林や無人の家屋に潜みました。
ヴィルモントリーを攻略した部隊と西側の林を占領した部隊は敵を追ってジヴォドーの家に至り、この地を集合地点として午後7時30分から午後8時にかけて擲弾兵第101連隊、フュージリア第108連隊の9個中隊、第26連隊の「ロストケン隊」の殆どがこの地に集合したのでした。
S軍団の前衛からは士官斥候がフォーブールへ派遣され、既にムーズ川南部が普軍の手に入ったことを確認します。増援は不要と聞かされ、ジヴォドーの家周辺に前進した諸部隊はここで停止しました。
第71連隊のF大隊はヴィルモントリー西林を守備し、第96連隊第3,4中隊は軍団砲兵隊の脇に戻って行きました。ヴィルモントリー西林が占領されたことで後方待機となっていた第7師団砲兵の重砲第1,2中隊も前進し、同僚の軽砲第1,2中隊と共にジヴォドーの家付近まで進んで野営に入るのでした。
このヴィルモントリーとジヴォドーの家の戦闘を最終場面として、午後8時を過ぎて双方の砲火は減って行き、やがて完全に収まります。正午過ぎからおよそ8時間に及んだ「ボーモンの戦い」はこうして終了したのでした。
マース軍司令官アルベルト・ザクセン王太子は午後7時、第4軍団長G・アルヴェンスレーヴェン大将と第12(S)軍団長ゲオルグ・ザクセン中将をラ・サルテルの家に招聘し報告を受けました。午後8時には普近衛軍団長アウグスト・ヴュルテンベルク大将も訪れ、「近衛軍団は午後6時にボーモンへ前進を始めた」と報告したのです。アルベルト王子は三軍団長に命令し、近衛軍団はボーモン周辺で、S軍団はレタンヌ(ボーモン東)周辺で、第4軍団は現在各隊の占領地で、それぞれ野営に入ることとなるのです。
この夜、マース軍本営はボーモン市内へ入りました。
◯近衛軍団
ボーモン東街道のポーリュの家付近からボーモンにかけての沿道に野営します。夜間、工兵たちはムーズ川岸に出てレタンヌ部落の東側にある浅瀬付近に舟橋を架けました。
◯第12(S)軍団
歩兵と砲兵はレタンヌ周辺で、騎兵はプイイ付近のムーズ両河畔で野営します。第105連隊第1大隊と猟兵第13大隊はレタンヌからジヴォドー森の東側までのムーズ西岸を巡回監視し、第107連隊の第2大隊はプイイへ派遣されました。このムーズ東岸に進出した諸隊の前衛は槍騎兵第18連隊で、プイイの北でムーズ川湾曲部に陣を敷いていた仏第12軍団の左翼部隊を警戒していました。また、ムーズ上流(南方)のイノール(プイイの東3.7キロ)対岸(西)には、S近衛ライター騎兵第5中隊*がおり、渡船を使って東岸との連絡を確保していました。
◯第4軍団
第7師団長フォン・グロス=シュヴァルツホッフ中将は師団前哨を第14旅団に命じた後、分裂していた第26連隊を合同させた後に直率してラ・サルテルの家まで後退し野営しました。第13旅団は残りの部隊もラ・サルテルの家周辺まで退いて野営します。
フォン・シェーラー中将の第8師団主力はプロンとグレジィ鉄工所付近で野営に入り、一部はムーゾン街道のヴィルモントリー西林の傍らに、軍団砲兵隊はブロンヌ山麓に、それぞれ野営しました。
前哨としては、第93連隊第8中隊がヴィレ=ドゥヴァン=ムーゾン南方の軍橋を、第86連隊第4中隊はポンセ水車場を、第31連隊の第7中隊はヨンク川のムーズ合流点からフォーブール市街まで、それぞれ監視・守備しました。
フォーブール市街には主として第27連隊のF大隊が展開し、第9中隊はムーズ橋を、第10中隊はフォーブール市街北端ムーズ河岸の家屋群を、第11中隊は市街の北東側を、第12中隊はムーズ西側河畔に至る野道脇に、それぞれ展開し警戒に当たりました。同じくフォーブールの墓地は第71連隊第11中隊が守備し、第27連隊第2大隊と第93連隊の諸大隊はフォーブールの西側に接して野営するのでした。
なおボーモン市街は、第27連隊の第1大隊と軍団工兵第3中隊が宿営し警備に当たりました。
◯B第1軍団
第4軍団を援助したフォン・シューフ大佐率いる支隊は、そのままプロン西方高地に留まって野営に入っています。
この日大活躍だったフォン・ツィヒリンスキー少将は、幾度かムーズ橋からムーゾン本市街へ潜入させた斥候が全く銃撃を受けなかったため、午後9時頃に第26連隊のフリッチュ少佐が企てて失敗したムーゾン市街突入を再び試みようと考えます。
日付も変わろうかと言う深夜、将軍はこの任務に第27連隊第9中隊を選んで自らこれを率いてムーズ橋を渡り、対岸に足を踏み入れましたが、たちまち激しい十字砲火を浴びてしまい、副官を銃撃に倒された将軍はこれ以上犠牲の出る前に再びフォーブールへと退却するのでした。
この夜は他にも突発事態が発生します。
仏第5軍団のドゥ・ラバディ・ディドレン少将師団に属する戦列歩兵第88連隊は、ドマンジュ中佐に率いられボーモン市街からジヴォドー森、そしてヴィルモントリーへと戦い続けて後退しますが、ヴィルモントリーが陥落した際、中佐と共に退却した数百名の将兵がフォーブール南東郊外で逃げ場を失い、フォーブール南方の家屋に隠れ潜み、脱出の機会を窺っていました。
夜半過ぎ、今が機会と考えたドマンジュ中佐は数個中隊規模の将兵を引き連れて闇に紛れて脱出を謀ります。中佐は自ら隊を率いて退路を獲ようとフォーブールの南端にいた哨兵を攻撃し、その付近に野営していた第27連隊第11中隊の不意を突いて攻撃、これらを撃退します。
ここでも活躍したのは騎兵を二度までも撃退したヘルムート大尉率いる第10中隊でした。この中隊はムーズ河畔の頑丈な家屋に銃撃拠点を設けて通りと郊外を狙っており、市街を縫って駆け抜けようとした仏兵を狙い撃ちにして足止めしたのです。フォーブール市街地警備に責任を持つF大隊長、ヒルデブランド中佐は大隊の他中隊から駆け付けた兵士を直率し、浮き足立つ仏軍を攻撃、仏軍は大損害を受けて四散し、僅かの兵士のみがムーズ川に飛び込み、対岸に泳いで逃げ延びたのでした。
ムーズ東岸に進んだ第12(S)騎兵師団は、ゲオルグ王子の命により午後7時に槍騎兵第18連隊からフォン・アインジーデル中尉を長とした斥候隊をプイイから北方に派遣します。
彼らはまず北東に進んでマランドリー(プイイの北東7.5キロ)に至り、仏兵がいないことを確認後、シエール河畔のカリニャン(ムーゾンの東北東7キロ)に向かいました。
アインジーデル中尉が午後11時にプイイへ帰着して報告するには、「仏軍の1個軍団がサイイ(カリニャンの南2キロ)の北方に野営中であり、モンメディ方面(東)より大編成の汽車車両がカリニャンへ到着していた」とのことでした。この後深夜半、プイイ北方の前哨から「ムーズ東岸に見えていた仏軍の灯火が消えた」との急報があり、ムーゾン東南方を偵察した斥候からは、「夜間にも係らずカリニャンから列車がセダン方面へ運行中」や「ムーゾンからドゥジー(ムーゾンの北北西7.5キロ)に向かう街道からは絶えず多数の馬車の音が聞こえている」との報告が相次いだのでした。
これらの報告からゲオルグ王子のS軍団本営は、「仏軍が夜間アルデンヌ鉄道を利用して北西方向へ移動しようとしている」との結論を得るのです。ゲオルグ王子はイノール在のS近衛ライター騎兵第5中隊に対して、「アルデンヌ鉄道をモンメディ~カリニャン間で遮断せよ」と命じ、これは直ちに実行されて、ライター騎兵は夜半過ぎ、仏軍からの妨害を一切受けずラムイイ(イノールの東約5キロ)付近で鉄道を破壊しました。
翌31日早朝、再びアインジーデル中尉は斥候隊を率いてサイイに向かいます。しかし中尉は、前夜に見た仏軍の巨大な野営が跡形もなく消え失せていることを目の当たりにするのでした。
8月30日宵・仏軍ムーゾンからの撤退
8月30日のボーモンからムーゾンまでに至る戦闘における仏軍の損害は、仏側公式資料では死傷者1,800名、行方不明3,000名、喪失(敵の鹵獲含む)した砲42門となっています。別の資料では死傷者1,800名、行方不明及び捕虜5,700名、喪失(敵の鹵獲含む)したライット砲28門、ミトライユーズ砲8門とあります。
高級指揮官の戦死としては、第7軍団第1師団第1旅団長のルイス・シャルル・オーギュスト・モラン准将(ティボディーヌ農場付近の戦い中、グラン・デュレ森で重傷を負い9月9日に死去)と第5軍団第1師団の戦列歩兵第11連隊長ジャン・ピエール・フェルディナン・ドゥ・ベアグル大佐(ボーモン南部の野営地の戦いで負傷、ボーモンの野戦病院で死去)が挙げられます。
他にも仏軍は大量の野営資材、予備の武器弾薬、その他物資を遺棄し、これらは全て独軍の手に渡っています。
同じく独軍の損害を以下にまとめます。
(戦死・負傷・行方不明の総計)
○第4軍団
*第7師団
士官57名 下士官兵1,399名 馬匹80頭
*第8師団
士官67名 下士官兵1,460名 馬匹135頭
*軍団砲兵隊
士官2名 下士官兵19名 馬匹33頭
軍団合計
士官126名(他軍医5名) 下士官兵2,878名 馬匹246頭
○第12軍団
*第23師団
士官3名 下士官兵81名 馬匹2頭
*第24師団
下士官兵2名
*騎兵第12師団
士官1名 下士官兵1名 馬匹6頭
*軍団砲兵隊
下士官兵1名 馬匹1頭
軍団合計
士官4名(他軍医5名) 下士官兵85名 馬匹9頭
○バイエルン第1軍団
*バイエルン第1師団
下士官兵22名
*バイエルン第2師団
士官15名 下士官兵399名 馬匹16頭
*工兵隊
馬匹1頭
軍団合計
士官15名 下士官兵421名 馬匹17頭
◯総計
士官145名(他軍医5名) 下士官兵3,384名 馬匹274頭
ムーゾンの仏軍捕虜
※独軍側の「騎兵連隊第5中隊」に関して
独軍の資料によれば普仏開戦時、主に普軍は騎兵連隊を4個中隊に編成し出征させ、平時に所属していた「第5中隊」を予備として後置したらしいことが分かります。しかし、戦争が8月中旬となると記録に「第5中隊」が登場し始め、このことから戦争が独側にとって有利に展開し始めたこの時期(8月10日前後)に、後方に留め置いた「第5中隊」を、別任務に使用していない中隊のみ原隊に復帰させたのではないか、と想像します。以降、資料で「第5中隊」が登場した場合、そのまま記すこととしました。




