ボーモンの戦い/フォン・デア・タン軍団の進撃
ラ・ティボディーヌ農場の奪取に向けて進撃中のB第13連隊第1大隊は、農場の南方で突如銃撃を浴び、連隊長伯爵フォン・イーゼンブルク=フィリップスアイヒ大佐は即座に大隊を左翼へ方向転換しました。
この新たな敵に最も近い所にいた同連隊の第4中隊は、直ちに銃剣を装着し、散発的に銃撃を行っていた敵コンセーユ=デュームニル師団散兵に対し急遽突撃に移ったのです。この逆襲で仏軍の先鋒は出鼻を挫かれて高地西の斜面下まで後退し、第4中隊は先程まで敵が射撃を行っていた高地尾根を占領しました。
この第4中隊の活躍と同時進行で第2大隊の半数、第7,8中隊はB猟兵第7大隊の一部と共同し、ティボディーヌ農場に対して突撃を敢行、一気に農場を制圧するのです。
農場や付近に陣取っていた仏兵は西へ1キロほどのヨンク川東岸に沿った森林(現ル・ボシェ)まで後退し、既にこの付近に散兵線を敷いていた仏第5軍団の諸隊に吸収されました。この未だ侮れぬ仏軍部隊を前に、本隊より先行したイーゼンブルク大佐の部隊は、本隊の到着まで高地と農場を死守する持久戦に入るのでした。
この頃、B第13連隊の戦線右翼(東)では、B猟兵第7大隊の主力が遮蔽となっていた窪地を伝ってアルノトリの家南の雑木林まで200mを切った距離まで接近していました。
アルノトリの家とその周辺には、最初にボーモン南の野営地にいて普第4軍団の奇襲を受けた仏第5軍団レスパルト少将師団のほぼ半数、1個旅団が後退して陣を占めており、農家北の高台には、師団砲兵で生き延びた3門のライット4ポンド野砲が砲列を敷き、歩兵を援助していました。
猟兵の前進に続き、ティボディーヌ農場付近に陣取るB第13連隊第1大隊の左翼(西)には同連隊第2大隊残りの2個(第5,6)中隊が森林の縁まで前進し、続いてB第10連隊も到着して、その第3大隊は戦線左翼の増援として前進、また本隊の2個大隊はその後方窪地で予備となり待機するのでした。この時、前線のB第13連隊第1大隊長のエンドラス少佐より「弾薬欠乏」の連絡が入ると、B第10連隊長男爵フォン・グッテンベルク大佐は直ちに自連隊の第1大隊を前進させ、第13連隊の第1大隊と弾薬補給の間交代させたのでした。
午後3時、仏第7軍団長ドゥエー将軍はボーモンに向かって「しまった」師団を助けるため、砲兵1個中隊をヴァルニフォレ(ティボディーヌ農場の街道沿い西へ1.7キロ)付近へ送り、これに気付いたB軍も対抗するため740(標高フィート。約226m)高地付近の4ポンド第2中隊を西へ移動させました。この移動前には既に1個小隊(砲2門)が第10連隊第1大隊の前進と共にティボディーヌ農場の南へ転進し、ボーモン西街道の北でヨンク川東岸の森林に潜むレスパルト師団の歩兵に対し砲撃を加えていました。
B第2師団本隊となっていたB第3旅団もこの間にミュレの森の東縁で戦闘隊形を取って展開を終了し、シューマッハ師団長はこの旅団に対しB第4旅団の左翼(西)を抜けてヴァルニフォレ方面へ前進するよう命じ、同時に第4旅団の予備となっていた第10連隊第2大隊を第1大隊の左翼へ進めさせ、戦線を西へ延伸させるのでした。
この命令を受けたB第3旅団長シューフ大佐はB猟兵第1大隊を先鋒として森縁に沿って前進させ、第10連隊の戦線左翼を更に西へ延伸するように命じ、その後方ではB第3連隊に命じて踏破困難なミュレ森とその北西に続く森林(ラ・グラン・デュレ)内を通過させて順次ヴァルニフォレ方面へ前進させるのでした。
旅団で残ったB第12連隊と6ポンド第8中隊は予備としてミュレ森北東端で待機させます(当時第3と第12の両連隊はそれぞれ1個大隊を欠いていました)。
B猟兵第1大隊がティボディーヌ南方で北に向けて突出するミュレ森の北端付近に達した時、猟兵大隊長のオットー・シュミット中佐は、ここで北西側グラン・デュレ森東縁に陣取った新たな敵、仏第7軍団のコンセーユ=デュームニル師団本隊との銃撃戦を行った結果、大損害を被っていたB第10連隊第3大隊左翼が、敵の圧力に負けて後方に戦線を屈折している状況を見て取ります。
このままでは戦線が崩壊しかねないと感じたシュミット中佐は、倍以上する敵に怯まず直ちに自らの大隊に突撃を命じ、前方で激しい銃撃を浴びせていた仏軍散兵線に飛び込んで行ったのです。
この突然の反撃を受けた仏軍散兵は慌てて後退し、この左翼側の状況変化を見て取ったB第4旅団長のフーゴ・フォン・デア・タン少将(軍団長の弟です)は第10、第13の両連隊に対し一斉に突撃を命じて、遂に前面の敵を一気に後退局面へ追いやることに成功するのでした。
仏レスパルト師団とデュームニル師団は尚もヨンク川東岸の森林帯で抵抗を試みようとしましたが、シュミット中佐の猟兵大隊と、機転良く猟兵に続いた4ポンド第2中隊の例の2門の砲の急進により圧力を受け、ほとんど銃撃を行わないまま森を去って行ったのです。
一度戦線が崩壊してしまうと、今の仏シャロン軍将兵には即座に抵抗する気力は残っていませんでした。
完全な敗走状態になった仏軍右翼(ボーモンの西側)諸隊はラ・ブサスを通過して北上し、ヨンク(ラ・ブサスの東北東4キロ)とロクール(ラ・ブサスの北5キロ)方面に後退します。
今やB第2師団は森や急斜面などの自然障害以外に引き留められず前進を続け、午後4時には師団左翼がヴァルニフォレの小部落でボーモン西街道に到達し、このB猟兵第1大隊はB第13連隊の一部の援護を受けて、この地で仏軍の砲2門を鹵獲するのでした。この砲は馬匹が死亡したため運べずに遺棄されたものでした。
こうしてシューマッハ将軍は部下を叱咤激励しつつ、勝ちに乗じて更に前進を強行しましたが、午後4時30分、後続のB第1師団の行軍(後述)と歩調を合わせるためフォン・デア・タン大将が一時停止を命じ、師団はラ・ブサスからヨンクへ通じる街道(ヨンク街道)まで前進したところで停止します。師団の一斉前進時に予備扱いから解放された後、独り泥濘の森林縁を苦労しつつ前進した6ポンド第8中隊は、ヴァルニフォレ北方の丘(標高フィート725高地。現ボワ・ル・コルボー)に登ると砲列を敷き、敗走する仏軍に榴弾を送り続けたのでした。
この師団の停止直前、B第3連隊はグラン・デュレ森内を前進中で、森林中に敵敗残兵を認めますがほとんど戦闘は起こらず、森の北縁を出てヴァルニフォレに達しても全く敵影はありませんでした。
B第2師団は大部分がヴァルニフォレ北方725高地(標高約221m)の北斜面に集合し、予備となっていたB第12連隊(2個大隊のみ)は同じく後置されていた第10連隊第3大隊と合流して、ティボディーヌの農場で待機するのでした。
一方、アルノトリの家南方に迫っていた猟兵第7大隊は、農場周辺に展開する仏軍の散兵線から猛銃撃を浴び続けても耐え、その陣地を死守しました。
およそ1時間の辛抱の後、ボーモンからアルノトリの家に続く谷に沿った小街道を普第8師団所属の歩兵たちが前進して到着し、B軍の猟兵たちは笑顔で迎えるのでした。この普軍歩兵はヒュージリア第86連隊第3大隊です。ほぼ同時に普第4軍団のフォン・ギルザ少佐率いる重砲第3と第4中隊の砲兵がアルノトリの家を有効射程に捉えるまでに前進し、彼らはボーモンの北郊外からB軍砲兵と共同してアルノトリの家周辺に榴弾を浴びせ始めたのでした。
これに乗じて普第86連隊の兵士たちは農場まで400mを切る地点まで前進して待機、友軍の砲撃が一段落した後第10と第12中隊を先頭にして、炎上し始めた農場に対し突撃を敢行しました。
この直前の午後3時30分、仏軍は農場周辺から一気に退却を始めており、アルノトリの家は普第86連隊第3大隊が占拠、暫くは厄介な仏軍の抵抗地点となっていた農場南側の雑木林はB猟兵第7大隊が占領するのでした。
B第2師団がこれら大きな成果を上げる前の午後2時30分。
B第1軍団長フォン・デア・タン大将は普皇太子から「なるべく多数の部下を率いてラ・ブサスへ進み、前線の穴となっているボーモン~ストンヌ間を埋めよ」と命じられます。
フォン・デア・タン大将は遅れていたB第1師団を使用してこれを実行しようとしました。
バプティスト・リッター・フォン・シュテファン中将率いるB第1師団は、ティボディーヌの農場付近で戦闘中のB第2師団を援助するためソモト森を経てヴァルニフォレへ向かうよう命令されていましたが、午後3時前、目標をラ・ブサスに転じるよう命じられます。また、ソモトの北郊外で待機を命じられていたヨハン・バプティスト・フォン・タウシュ少将率いるB胸甲騎兵旅団とハインリヒ・ブロンジッチ大佐率いる軍団砲兵隊(B予備砲兵)は最初の命令通りにボーモンへ向かって進み、ソモトの森を出た所でストンヌとラ・ブサスの中間、街道の南側へ進むよう命令が変更されました。
フォン・デア・タン大将はこれらを命じた後、ソモトを離れB第2師団の前線へ騎行します。
男爵ルートヴィヒ・ザムゾン・ハインリヒ・アルトゥール・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザームハウゼン歩兵大将はこの時55歳。バイエルン王国の由緒ある貴族家出身でB軍の中心人物の一人でした。第1次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争から活躍し、この普仏戦争で更に名を上げた将軍ですが、日本では妙に耳に残る帝政ドイツ海軍の巡洋戦艦の名(第1次大戦時、ユトランド沖海戦で英巡洋戦艦インディファティガブルを撃沈して有名)として知られはするものの、当の将軍自身については案外知られていない模様です。
ルートヴィヒ・フォン・デア・タン大将はバイエルン王国の財務担当大臣だったハインリッヒ・フリードリヒ・フォン・ウント・ツー・デア・タンと、アルザスの旧家ラートザームハウゼン家の一人娘ソフィとの間に、奇しくもナポレオン戦争の最終戦「ワーテルローの会戦」当日(1815年6月18日)、ヘッセン公国の都ダルムシュタットで長男として生まれます。当時のバイエルン国王、ルートヴィヒ1世が名付け親となりました。
因みに、バイエルン王国の系譜紋章院は1868年5月21日、彼とその兄弟、2歳年下のフーゴと5歳年下のルドルフに対し母の実家の相続継承を認め「ラートザームハウゼン男爵」の称号を「タン男爵」と合わせて名乗ることを許可し、以降正式な姓は「フライヘーア(男爵)・フォン・ウント・ツー・デア・タン・ゲナント・フォン・ラートザームハウゼン」となります。これは彼らの従弟オットーとアーサーにも認められましたが、名字が余りにも長いため、普段は単に「フォン・デア・タン」と略されて呼ばれました。
ルートヴィヒは14歳でバイエルン王立士官学校に入学し、1833年18歳で卒業、8月1日バイエルン王国軍に士官候補生として入隊します。同年10月26日、第1砲兵連隊に少尉として配属され軍人としてのキャリアを正式にスタートしました。
40年1月、中尉に昇進し幕僚として勤務すると44年11月には大尉に昇進、マクシミリアン王太子の副官となりました。この後64年に亡くなるまでルートヴィヒとマクシミリアン2世は深い友情で結ばれます。
なお、ルートヴィヒはこの44年、女性を巡って学生と決闘するという事件を起こします。既に私的な決闘は禁じられる時代でしたが、彼のキャリアが傷付くことはありませんでした。
彼は軍に入隊後この44年までにプロシアからイタリア、フランス、オーストリア、アルジェリア等に旅行して各地の軍隊を視察、見聞を深めています。
1848年、第1次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が始まると、少佐に昇進していたルートヴィヒはドイツ連邦軍からハンブルクとマグデブルク、キールから集められた義勇軍部隊を預けられ、4月21日にアルテンホフ(現アルテンホルツ)、5月8日にホプトルプ(現ハザスレウ)でそれぞれ戦います。49年にはザクセン=アルテンブルク・エデュアルド侯子の幕僚長となり、50年に大佐に昇進するとプロシア軍のヴィリゼン将軍の参謀長になり、イトシュテットとコーゼルの両会戦、フリードリッヒシュタットの攻囲戦と戦い続けました。
これらの功績により54年最初の勲章(マックス・ジョセフ戦功勲章)と「リッター」(騎士)の称号を得ます。
戦後バイエルンへ帰還すると、彼は国王となったマクシミリアン2世の副官になります。更に55年3月31日に少将、60年1月1日に国王の首席武官となりました。
61年2月25日、中将へと順調に昇進すると第2師団長となります。
64年の第2次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争では4月、ドゥッペル堡塁の戦いにおいてドイツ連邦軍の首席幕僚として参加しています。
66年5月21日、普墺戦争直前にバイエルン王国軍司令官カール・フォン・バイエルン親王の参謀長に任命され、直後南ドイツの連邦軍総司令官になったカール王子と共にオーストリア帝国と対プロシアで共闘することになります。
しかし、ルートヴィヒはプロシアとの戦争に気が乗りませんでした。彼は南ドイツ軍の弱点を良く知っており、また同じドイツ国家群との戦いにも反対していたからでした。
結果、7月に発生した数々の敗戦によりルートヴィヒも責任者の一人として有力新聞から叩かれましたが、その反論をライバルの全国紙に寄稿し、堂々と自身の正当性を国民に訴えるのでした。
ルートヴィヒは戦後、国王の首席武官に復帰(但し国王はルートヴィヒ2世)し、67年4月28日、バイエルン第11連隊の名誉連隊長(連隊に名前が冠されます)となります。そして69年1月8日、歩兵大将に昇進しバイエルン第1軍団長に任命され野戦指揮官となると普仏戦争を迎えるのでした。
男爵ルートヴィヒ・フォン・デア・タン
さて、フォン・デア・タン大将が前線に到着すると、B第2師団はちょうどラ・ブサス方向に向け仏軍を追撃する直前であり、前述通り軍団長は直ちにその進軍を止めさせると、右翼側の普第4軍団を援助するため、B第3旅団長シューフ大佐に命じ1個支隊を編成させて、「普第4軍団の左翼(西)へ連なり、普軍と協調して戦闘を継続するよう」命じたのでした。
この「シューフ支隊」は歩兵4個(B猟兵第7、B第12連隊第1、第2、B第10連隊第3)大隊、B軽騎兵第4連隊から2個(第1,2)中隊、740高地に陣取っていた4ポンド第4中隊と6ポンド第6中隊から成っています。
シューフ大佐は支隊を率いるとヨンク川の渓谷とその両岸に切り立つ高地まで前進し、自隊右翼(東)を普第4軍団左翼と連絡させ、以降、普第4軍団長G・アルヴェンスレーヴェン大将の命令に従うこととなるのでした。
この間、B第1師団長フォン・シュテファン将軍は師団に対し目標をラ・ブサスに変更するよう命じ、前衛としてカール・フォン・オルフ少将率いるB第2旅団を指名し、更に軽騎兵第3連隊と砲兵3個(4ポンド第3、6ポンド砲第5、6)中隊をオルフ将軍に預けるのでした。この「オルフ支隊」の後方からはカール・リッター・フォン・ディートル少将率いる師団本隊のB第1旅団が続行します。
このB第1師団のラ・ブサスへの進軍はほとんど抵抗らしい抵抗を受けず、B第2師団が停止した時と同じ午後4時30分、先行した軽騎兵第3連隊がラ・ブサス南郊へ至りました。
市街からは短時間銃撃がありましたが、この仏軍後衛は間もなく北へ去り、軽騎兵を追って来たB猟兵第4大隊は市街地に入り、一時停留して部落を守備することとなり、オルフ支隊の後続はそのまま市街を通過してロクール方面へ街道を進撃するのでした。
この夕暮れ時のロクール部落では、仏第7軍団本隊がその南郊に展開してB軍を迎えようとしていました。
急速に街道を前進して来たオルフ将軍は斥候からこの状況を知ると、街道の両側に支隊を展開させつつ前進させ、その第一線は軍団長と第4旅団長の弟ルドルフ・フォン・デア・タン大佐率いるB第2連隊と男爵フランツ・ゲミンゲン・フォン・マイセンバッハ中佐のB猟兵第9大隊で、後方から伯爵マクシミリアン・フォン・ロイブルフィング大佐率いるB第11連隊を続行させました。
オルフ支隊はこの戦闘陣形を守りつつ前進し、午後5時30分には一波乱覚悟していたフラバ部落(ラ・ブサスの北2.8キロ)とマルメイゾンの家(マルメイゾン・フェイム。フラバの西2キロ。現存)周辺の高地間を難なく通過し、左翼(西)を行く猟兵大隊はロクール森(ボワ・ドゥ・ロクール。ラ・ブサスの北西に広がっていた森林)を捜索しつつ前進、最右翼(東)を進む軽騎兵はヨンク川岸を前進する友軍諸隊と連絡するため、広い範囲に斥候を放ったのでした。
ボーモンの戦い・森を捜索するバイエルン軽騎兵
主に街道とその東側を前進するB第2連隊がロクールに近付くと、たちまち市街南方に散兵線を敷く仏軍から銃撃を浴びます。すると、連隊に続行するB砲兵3個中隊は直ちに砲列を敷いて、敵散兵線に対し激しい榴弾砲撃を開始しました。この砲撃はただでさえ士気の低い仏第7軍団兵士の戦意を挫き、仏軍兵士たちは我先に持ち場を離れ、たちまちにして後退局面に入ってしまいます。
こうしてB第2連隊はほとんど止まることもなく前進を継続しました。仏軍の中には市街西に留まり、なおも抵抗を試みる部隊もありましたが、これも市街南方に砲列を敷くB軍砲兵から狙い撃ちにされ、B第2連隊の第1大隊が包囲を図ってそちらに向かうとこれも素早く退却して行くのです。
B第2連隊は、退却する仏軍の後ろ姿を眺めることが出来るほど敵に接近しつつロクール市街に突入し、後方から襲歩で参戦したB猟兵第4大隊の先鋒中隊と共に、ロクール市街並びに東西郊外の目立つ高地、そしてコニューの森(ボア・ドゥ・コニュー。ロクールの東に広がる森林)を一気に占領したのでした。
この後、仏第7軍団の後衛部隊は本隊を逃がすためロクール北西郊外に広がるグロ森(グロ・ボワ。ロクールの北西2キロ周辺)に籠もって抵抗を試みましたが、ちょうどロクール森を踏破しグロ森の南側高地上へ到着したB猟兵第9大隊が、B軍自慢の新式ヴェルダー小銃による正確無比の銃撃を行い、ドゥエー将軍最後の抵抗も敢え無く粉砕されてしまい、敗残兵はルミリー(=イクール。ロクールの北北東6キロ)に向け遁走するのです。
午後7時15分、戦場は日没を迎えます。
黄昏の中、「勝っている内に戦場を保持しよう」とばかりB第1軍団長フォン・デア・タン大将は歩騎兵の追撃停止を命じ、最前線の砲兵だけが敵影が夜陰に没するまで砲撃を続けたのでした。
結局、前衛オルフ支隊を追ってラ・ブサスからロクール南郊外まで進んでいたフォン・ディートル将軍のB第1旅団諸隊は、ただの一発の銃弾も放つことをしないまま「ボーモンの戦い」を終えたのです。
B第1師団は、午後9時に至って後続して到着したB胸甲騎兵旅団と軍団予備砲兵隊と共にロクール周辺で野営し、市街地はB第2連隊第1大隊が警備しました。B第1とB第11の両連隊はルミリーへ向かう街道両側にそびえる高地上に前哨を置いて警戒します。
ヴァルニフォレ北方の725高地付近で集合していたB第2師団の本隊は、午後6時にラ・ブサスまで移動し、部落周辺で野営に入りました。
この夜、フォン・デア・タン大将はB第1軍団本営を最前線のロクールまで前進させて宿営し、翌朝の追撃に備えたのです。
ボーモンの戦い・バイエルン軍の捕虜となる仏第7軍団兵




