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ランゲンザルツァの戦い(前)


挿絵(By みてみん)

ゲッティンゲンからゴータまでの地図(1866年7月)


☆ ハノーファー軍の布陣


※1866年6月26日夜間・ハノーファー軍ウンシュトルト川左岸の布陣()内人名は指揮官


〇右翼

 第3旅団(カール・マグヌス・イド・ハラルト・フォン・ビューロー=シュトレ大佐)

 予備砲兵隊(ハルトマン少佐)

*歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲18門

 タムスブリュック(ランゲンザルツァの北3.5キロ)近郊に展開。うち歩兵1個大隊と騎兵1個中隊はタムスブリュック内にあり、ミュールハウゼン(北西14.5キロ)方面を警戒

〇中央

 第2旅団(ヴィルヘルム・ド・ヴォー大佐)

*歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲6門

 マーックレーベン(ランゲンザルツァの北東2.5キロ)近郊に展開。うち第2連隊の第2大隊は予備として部落北方で待機

 第3連隊の第1大隊は連隊長のフォン・シュトルーベ大佐が直率し分遣隊としてランゲンザルツァ市街に駐屯。大佐は敵が襲来し敵わないと判断したらマーックレーベンまで後退することを厳命される

 旅団騎兵のケンブリッジ竜騎兵連隊は本隊から離れてヘニングスレーベン近郊に布陣しゴータ方面を警戒

〇左翼

 第4旅団(ルートヴィヒ・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ボートマー少将)

*歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲6門

 ネーゲルシュテット(ランゲンザルツァの東4キロ)近郊に布陣し、歩兵1個大隊をウンシュトルト川架橋の袂(南東郊外)に布陣させ、騎兵1個中隊半をテンシュテット(ネーゲルシュテットの北東10キロ)からブルッフシュテット(テンシュテットの北西5キロ)までの郊外に沿って展開させ左翼(東方)を警戒

〇予備

 第1旅団(エルンスト・ユリウス・ゲオルグ・フォン・デア・クネゼベック少将)

*歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲6門

 本隊は総軍予備としてマーックレーベン北方郊外で待機

 予備騎兵隊(フォン・ゲイソ中佐)と騎砲兵1個中隊はズントハウゼン(マーックレーベンの北東4.5キロ)付近で待機

〇後方縦列ほか

 弾薬縦列、砲兵廠、輜重縦列ほか軍用行李一切はキルヒハイリゲン(ランゲンザルツァの北北東9キロ)とその近隣で待機、野戦病院もキルヒハイリゲンに設置

〇前哨

 ド・ヴォー旅団の歩兵数個小隊により前哨を設置。ケンブリッジ竜騎兵と共にヘニングスレーベンに本部を置き、アイゼナハへの街道(現国道84号線)からエッカートスレーベン(ヘニングスレーベンの東3キロ)の間に前哨線を敷く

〇本営

 マーックレーベンに置く。王と王太子はタムスブリュックで待機


挿絵(By みてみん)

ハノーファー軍の軍装1866年歩兵、猟兵など


 Hv軍の陣地線正面に流れるウンシュトルト川(ランゲンザルツァの北東36キロ付近の山中を水源に南東へ流れミュールハウゼン~ランゲンザルツァ~ゼンマーダー~アルターン~カイザープファルツ~ラウハへと流れナウムブルク付近でザーレ川に注ぐ中級河川)は、タムスブリュックからマーックレーベン南方において川幅は最大12m、高さ約10mの土手が両岸に在り、ここから下流(南方)のネーゲルシュテットまでは更に土手が2m前後高くなり水深も深くなっていました。このネーゲルシュテット付近では砲や騎兵、馬車は橋梁なくしては渡河出来ず、歩兵も橋梁以外数ヶ所の浅瀬のみ渡河可能でした。

 Hv軍が布陣するウンシュトルト川の戦線で、マーックレーベン部落とその東にあるキルヒベルク(キルヒの丘)は文字通りの「要」となり、川向うはランゲンザルツァの街で、この街は東にエアフルト、北西にミュールハウゼン、南にゴータ、南西にアイゼナハ、北にゾンダースハウゼンと主要街道が交わる軍事上も重要な拠点でした。


挿絵(By みてみん)

ランゲンザルツァ市街 ベルク通りを通してサン・シュテファン教会を臨む


 また、マーックレーベン部落の両側には東にネーゲルシュテット、西にタムスブリュックとそれぞれ3キロほど離れた位置に部落があり、この間に布陣するHv軍にとって先述通りウンシュトルト川左岸(この辺りでは北岸)の地形は北東側のテンシュテット方面へ後退するには至極便利になっており、ただ気になるのは歩兵10,000名では7キロ程の前線維持は少々荷が重く、もし同等以上の兵力で攻め込まれた場合に前線を突破される危険があり、そうなれば俄然不利となる可能性があったことでした。


 不安と言えば、ウンシュトルト川の対岸(南)、ランゲンザルツァ市街の東郊にユーデンヒューゲル(直訳すれば「ユダヤ人の丘」。国道84号線と左へカーブする廃線跡の間です)と呼ばれる小丘があって尾根は東西に約300m、頂上でも市街地との標高差は20m足らずではあるものの普軍がこの丘に陣取れば対岸Hv軍の動きは丸見となり、急斜面でもないため砲も置き易く布陣されたらかなり厄介となる場所でした。

 Hv軍陣地帯の中心・マーックレーベン部落の南側でウンシュトルト川は二股に分かれ短い支流は小さな円弧を描いて再び合流しています。ランゲンザルツァへの街道(現・国道84号線)はこの支流と本流を跨ぐため二本の橋が架かり支流を跨ぐ北側の橋は石造の太鼓橋、続く本流を跨ぐ南側の橋は木造となっていました。

 この木橋から南西へ延びランゲンザルツァ市街へ入る街道の北にはザルツァという名の小川が流れ、これは水面までの深さが2から3mほど、自然の用水溝といった感じで、また街道反対側の南東方面には高さが3mから4mの土塁(現・バーデ通り)がおよそ800mに渡って街道とほぼ並行して走っており、この間の街道はいわば隘路・軍事で言うところのチョークポイントとなっていました。


挿絵(By みてみん)

マーックレーベン ウンシュトルト川と木橋(1891年)


 この隘路沿いのユーデンヒューゲル北側に当たるランゲンザルツァ市街北東郊外には軍隊が拠点化するには好都合な煉瓦作りの頑丈な建物が数ヶ所に在り、まずはマーックレーベンから川を渡ったザルツァがウンシュトルトに合流する地点至近にカレンベルク水車場が、部落に近い先ほどの橋の真西ちょうど1キロにはワイズ工房が、その南250mにはグレーザー工房があってこれはランゲンザルツァへの街道を管制するには最適の場所となりました(両方の工場は現存しません)。また、市街入り口付近にはアルノルト煉瓦工場(こちらも現存しません。マーックレーベン部落前の橋梁から西南西へ1400mほどにありました)や小さな病院があり、先ほどの橋の600m南方には小林の中に温泉浴場(後述)もありました。

 なお、この浴場の東にはエルブスベルクと呼ばれる低丘陵がありこれはウンシュトルト川下(東方)からの視線を遮り敵の接近を察知する前哨を置くには最適でした。


挿絵(By みてみん)

ランゲンザルツァの戦い戦場図と戦場の建物と風景(19世紀の土産品)


 これらの地勢は後退せず戦う事を選んだHv軍にとっては交戦中不利に働き渡河して市街へ向かう場合の障害となり、逆にフリース将軍麾下の普軍にとっては防御しやすく有利に働く可能性がありました。

 更にHv軍の構えるネーゲルシュテット~マーックレーベン~タムスブリュックの戦線ではタムスブリュック側の右翼がやや手薄となっていたため、アレンツシルト将軍は防御を高めるよう27日早朝から麾下に命じてタクスブリュックとマーックレーベンの間に幾つかの急造土塁を築造させ、これは同日午後に完成し砲兵廠が備蓄していた予備の野砲10門が設置されるのでした。


☆ 普軍の攻撃展開とHv軍の抗戦


 27日。まだ夜と呼ぶことが出来る黎明前の早朝。

 フォン・フリース少将が掌握し直率するおよそ8,500名の将兵がゴータからランゲンザルツァに向けて出立します。


 それまでの数日間で虚報や誤認、そしてベルリンの「主導権争い」などに翻弄され、出撃準備や実際出撃しても退却するなどイライラも高まり我慢の限界に達していたであろうフリース将軍始めゴータの将兵たちは、再びベルリンからの出撃命令が発せられたことで、休戦期限を十分に過ぎたこともあり「今度こそ」と勇み不退転の決意を以てゴータを発したのではないか、と思われます。


※1966年6月27日早朝・ゴータ発「フリース兵団」行軍序列


 総指揮官 エデュアルト・モーリッツ・フォン・フリース少将

〇前衛 

 指揮官 ヘルマン・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フランツ・フォン・ファベック大佐

*ザクセン=コーブルク=ゴータ公国連隊(2個大隊編成)

*後備驃騎兵第12「チューリンゲン」連隊・1個中隊

*野戦砲兵第6「シュレジエン」連隊・4ポンド施条砲第3中隊/砲6門

*エルフルト要塞出撃砲兵中隊・7ポンド榴弾砲1個小隊(要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊所属)/砲2門

〇本隊

 指揮官 男爵エドムント・ルートヴィヒ・フォン・ハンスタイン大佐

*第25「ライン第1」連隊・2個大隊

*擲弾兵第11「シュレジエン第2」連隊(3個大隊編成)

*後備第32「チューリンゲン第2」連隊・第2大隊(トルガウ大隊)

*驃騎兵第10「マグデブルク」連隊・補充中隊

*野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・騎砲兵第4中隊/4ポンド騎砲6門

〇予備(後衛)

 指揮官 男爵ヴィルヘルム・アドルフ・フォン・ゼッケンドルフ少将

*後備第20「ブランデンブルク第3」連隊・「トロイェンブリーツェン大隊」「ポツダム大隊」

*後備第32「チューリンゲン第2」連隊・第3大隊(ナウムブルク大隊)

*後備第27「マグデブルク第2」連隊・第3大隊(アッシャースレーベン大隊)

*第71「チューリンゲン第3」連隊・補充大隊(3個中隊編成)

*後備竜騎兵第7「ライン」連隊・要塞駐屯騎兵中隊(3個小隊編成)

*野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・騎砲兵第3中隊/4ポンド騎砲6門

*エルフルト要塞出撃砲兵中隊・6ポンドカノン砲1個小隊(要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊所属)/砲2門


 以上、歩兵約8,200名、騎兵240騎、砲兵200名/各種砲22門


挿絵(By みてみん)

ランゲンザルツァの戦い・戦闘詳細図・午前


 27日午前8時30分。

 ヘニングスレーベン付近で警戒網を敷いていたHv軍の前哨がゴータ方面から街道を北上して来る普軍の縦隊を発見します。前哨は直ちにHv軍前遣隊を指揮するランゲンザルツァ在のフォン・シュトルーベ大佐に警報を送りました。

 1時間後の午前9時30分。

 普軍前衛の砲兵がヘニングスレーベン南方の高地(部落南方約2キロの十字路付近)に砲を敷き、警報を受けてランゲンザルツァから街道を前進しつつあったHv軍歩兵を狙って砲撃を開始します。

 これを見たシュトルーベ大佐は無理をさせず竜騎兵と前哨兵、そして前遣隊をランゲンザルツァまで下がらせました。この際に前哨として展開していたケンブリッジ竜騎兵連隊は1個中隊をランゲンザルツァ市街南方郊外に残留させ、前哨と前遣隊の撤退を援護させます。


 一方、普軍前衛を率いるファベック大佐は自ら先鋒と共にHv軍を追ってランゲンザルツァへ向かい、これにハンスタイン大佐率いる本隊が続いてヘニングスレーベンを越えました。

 普軍先頭を行くコーブルク=ゴータ連隊(以下「CG連隊」)第1大隊は午前11時前後にランゲンザルツァ市街へ突入し、同連隊の第2大隊は市郊外を南東へ迂回すると高地のユーデンヒューゲルに向かいます。

 普軍が市街に侵入したことでHv軍のシュトルーベ大佐は市街を棄ててユーデンヒューゲルへ進み、ここから市街の普軍を射撃しようと試みました。ところが、普軍前衛のCG連隊第2大隊の行動は僅かに早く、市街東郊外へ先着してHv軍前遣隊の側面を狙い、普軍本隊も市街南郊に展開した砲兵の援護で市街に入りつつありました。このためシュトルーベ大佐は自身の歩兵大隊と前哨、そして郊外で下馬し歩兵として騎銃で射撃を続けていた竜騎兵中隊を召還すると全部隊一気にマーックレーベンまで退却するのでした。これを追った普軍は砲兵を前に繰り出し、Hv軍が退却する街道を砲撃するのです。


 Hv軍前遣のシュトルーベ隊が去った後、CG連隊第2大隊は一時ランゲンザルツァ市街の北側街道口に展開し、同連隊第1大隊はユーデンヒューゲルの頂上尾根を占領しました。続いてマーックレーベンの街道を砲撃していた砲兵たち(野戦砲兵第6連隊4ポンド砲第3中隊と野戦砲兵第7連隊騎砲兵第3、4中隊。計18門)がこの丘陵に登り素早く砲陣を整えるとウンシュトルト川対岸に向け砲撃を始めたのです。

 この間に普軍本隊は第25連隊とトルガウ後備大隊を第一線・擲弾兵第11連隊の3個大隊を第二線としてユーデンヒューゲルに向けて前進し、後衛予備隊は後備竜騎兵中隊を先鋒にヘニングスレーベンの北側高地で街道を右に逸れ、ここからアッシャースレーベン後備大隊とナウムブルク後備大隊を第一線・トロイェンブリーツェン後備大隊とポツダム後備大隊を第二線、要塞出撃砲兵を縦隊左翼(西側)に従えてジーヘンホフ(ランゲンザルツァ東郊外1キロほどにある家屋群)へ進みました。


挿絵(By みてみん)

ランゲンザルツァのザクセン=コーブルク=ゴータ公国連隊兵


 Hv軍本営のあるマーックレーベンには午前10時、ランゲンザルツァのシュトルーベ大佐から「敵兵約1個旅団、ゴータより前進来る」との警報が達し、同時に西と南西側前哨から「ミュールハウゼン、アイゼナハ両街道上に敵影なし」との報告も到着します。これを受けアレンツシルト将軍は「ゴータの敵は本隊到着前に強行偵察か時間稼ぎの示威行動を行っている」と断じて、クネゼベック旅団に対し「ヘニングスレーベンに進撃しその北方高地を敵がまだ占領していなかったのなら先ずここを押さえよ」、ボートマー旅団に対して「敵が更にランゲンザルツァに接近していた場合はネーゲルシュテットから敵の右翼(東側)を攻撃せよ」と命じました。

 クネゼベック少将は麾下の親衛(ライヴ)連隊(2個大隊)と「マイヤー」12ポンド前装滑腔砲中隊(6門)を直率するとマーックレーベン北方陣地から出撃し部落を抜け木橋を渡って対岸に達すると、更に街道隘路をランゲンザルツァ市街へ向かいますが、ここで市街からシュトルーベ大佐隊とケンブリッジ竜騎兵連隊がユーデンヒューゲルから追われて退却して来るのに出会うのです。

 クネゼベック将軍は直ちに親衛兵を街道の両脇に展開させ、カレンベルク水車場の後方から浴場への並木が続く小道に沿って散兵線を敷き退却する味方を迎え入れました。直後に現れた普軍の先鋒を一斉射撃の連続で撃退し時間を稼ぐと、後退して来た友軍を全てウンシュトルト川の対岸へ渡すのに成功するのです。するとここにアレンツシルト将軍から「貴隊も全て元の陣地線まで後退せよ」との命令が届き、クネゼベック将軍と親衛兵たちは整然と橋を渡ってマーックレーベンも越え、元いた部落後方の陣地帯まで下がったのでした。


挿絵(By みてみん)

ハノーファー軍・戦列歩兵


 この後退戦闘でHv軍は目立つ損害を受けていません。これはユーデンヒューゲルを奪取し砲を敷いた普軍の4ポンド砲諸隊が、後退するHv軍を狙って砲撃を開始した直後、急ぎマーックレーベン東郊外の高台・キルヒベルクに展開したHv軍の諸砲兵部隊*から対抗射撃を受け、目標をHv軍砲兵に切り替えたため、と言われます。


※午前11時過ぎにキルヒベルクへ展開したHv軍砲兵

〇「ラーベス」6ポンド前装施条砲中隊(ド・ヴォー旅団)

〇「ブルーメンバック」6ポンド前装施条砲中隊(予備砲兵隊)

〇「マイヤー」12ポンド前装滑腔砲中隊(クネゼベック旅団)

 但し12ポンド砲中隊は親衛連隊との行動中に戦列から離脱して後退、遅れて高地に達したため砲を敷く場所が足らず半数の3門のみが砲を敷くことが出来砲撃を行いました。


挿絵(By みてみん)

ランゲンザルツァ会戦 ハノーファー軍砲兵


 この時点(午前11時30分前後)で普軍はユーデンヒューゲルとバドゥエルドヘン(先に記した浴場がある小家屋群。マーックレーベンの南1キロ。小林は残りますが家屋と浴場は現存しません)を占拠しウンシュトルト川の南岸からはHv軍将兵が全て撤退しています。


 この正午直前に数騎の普軍将兵がランゲンザルツァ南郊にやって来ると付近の普軍将兵に戦況を尋ね、自身も周辺の様子を確かめました。彼らはアイゼナハ在の第13師団本営の副官たちで、ランゲンザルツァにフリース将軍が攻撃を仕掛けたと聞いた師団長のフォン・ゲーベン将軍が「背後」を気にして状況確認に送り出したものでした。副官たちは踵を返してアイゼナハに帰着するとゲーベン将軍に対し「ランゲンザルツァを占領したフリース将軍麾下ゴータの兵団は優位に戦闘を進めている」と報告します。これでゲーベン将軍も安心し「フリースに援軍は必要あるまい」として計画通り南方のバイエルン軍を待ち受けることとしたのでした。


 正午過ぎ。マーックレーベンのアレンツシルト将軍はキルヒベルクで砲撃を続ける自軍砲列の脇から硝煙を透かし見て敵の様子を観察し、「ユーデンヒューゲルの敵砲列と川の右岸(ここでは南岸)を占拠した敵以外にもまだ一大縦列がジーヘンホフからバドゥエルドヘン方向へ行軍しつつある」と判断し、「先ずは川の左岸(ここでは北岸)沿岸を死守し守勢に立って敵が弱体するのを待つ」ことを決心します。これにより将軍は戦闘開始でマーックレーベンに接近し始めていた両翼のボートマー旅団とビューロー旅団の配置を正式に変更することにして両旅団の布陣を更にマーックレーベン側に移し、更にズンドハウゼンに待機する予備騎兵もマーックレーベン北方のクネゼベック旅団待機陣地付近まで進ませて全軍中央に集合することを命じたのでした。


 マーックレーベンの陣地帯ではド・ヴォー旅団諸隊が一部クネゼベック旅団に助けられながら奮戦し銃砲撃戦は断続的に続いていましたが、アレンツシルト将軍は敵が渡河して来た場合に備える、としてド・ヴォー大佐に「1個大隊を割いてその内2個中隊半にマーックレーベン部落前で南から西へ向けて散兵線を敷かせて川の土手と街道の木橋を死守させ、残り(1個中隊半)を部落内の教会周辺に待機させ直近の交代予備とせよ」と戦闘により崩れ始めていた戦線の整理を命じました。

 ド・ヴォー大佐はこの任務に第3連隊の第2大隊を指名し、大隊長のフォン・レットベルク中佐は部下と共に勇んで北岸土手に向かいました。ド・ヴォー大佐は残り4個大隊を集合させるとキルヒベルク高地と東へ続く丘陵に進ませいつでも参戦出来るよう戦闘態勢で待機とし、ケンブリッジ竜騎兵も「時が来るまで」左翼後方(キルヒベルクの北側)に待機させるのでした。

 この時、クネゼベック旅団の近衛連隊(2個大隊)は対岸から戻った親衛連隊を部落北の陣地内へ収容すると、入れ替わってマーックレーベンの北西側から部落の外へ回り込もうとしましたが、対岸に達した普軍に発見され見通しの良い耕作地で猛射撃を浴びてしまいます。しかし彼らは怯まずに橋の上流(北西側)に進み土手に沿って散兵線を敷き、レットベルク大隊と共に対岸と銃撃戦を続け普軍の渡河を防ぎ続けたのでした。


挿絵(By みてみん)

マーックレーベン 石橋と教会(1891年)


 一方、正午頃の普軍では、第25「ライン第1」連隊の第2大隊が街道隘路に向かったCG連隊に代わってユーデンヒューゲルの尾根上に布陣し対岸(距離1200mほど。双方命中は望めない遠距離です)の敵と散漫な銃撃戦を繰り返し、同連隊第1大隊の半数(2個中隊)とフリース兵団の全騎兵3個中隊もまたユーデンヒューゲルの友軍砲列を護衛するため展開していました。第1大隊残りの2個中隊はCG連隊に続きカレンベルクの水車場を押さえるべく進んでいました。

 ザルツァ川付近の建物、工房や病院、工房脇の風車、レンガ工場にはCG連隊の主力1個大隊半が進出して対岸の敵と銃撃を交わし、ランゲンザルツァ市街はCG連隊残りの半大隊と擲弾兵第11「シュレジエン第2」連隊の2個大隊、そして後備兵数個中隊が進んでいました。この他後備兵の1個中隊は敵が南へ去ったタムスブリュックを占領すべくザルツァ川の北側を進みつつあり、これにザルツァ沿岸のCG連隊兵2個中隊が続きました。

 正午過ぎにキルヒベルクから望見したアレンツシルト将軍が発見した「敵の一大縦列」、フォン・ゼッケンドルフ少将の予備隊はジーヘンホフを越えてエルブスベルクの高地に進み出、ゼッケンドルフ将軍はここに布陣することに決すると部下に散兵線を敷かせ、その左翼西側に連れて来た要塞出撃砲兵小隊の6ポンドカノン砲2門を展開させてユーデンヒューゲルの友軍砲列に倣って砲撃を開始させたのでした。この時、第71「チューリンゲン第3」連隊の補充大隊中第1,2の2個中隊が前哨散兵として高地縁に薄く展開し、残った第3中隊は2門の大砲の護衛として砲列傍に残りました。

 そして午後12時30分。ゼッケンドルフ隊は布陣が終わり射撃を開始しました。ユーデンヒューゲルの普軍砲列と援護の歩兵も右翼側に友軍が進出したことで東側面を警戒せずに済み、射撃を対岸のマーックレーベンに集中します。これに勇気を得た普第25連隊第2大隊はユーデンヒューゲルから下って一気にマーックレーベン面前の木橋に突撃を敢行、ザルツァ河畔のグレーザー工房から浴場に掛けて散兵線を展開し対岸へドライゼの銃弾を撃ち込み始めました。同時に同僚の第1大隊の半数、先にカレンベルク水車場へ到着していた2個中隊中1個中隊が援護射撃を受けてウンシュトルト河畔へ突進しようとします。この中隊は街道東側で土手の後方へ辿り着き、銃砲火の下、遮蔽物の陰で集合を終えると一気に面前の川へ突進しこれを渡渉して対岸に達するのです。そして河岸土手を遮蔽にキルヒベルクのHv軍砲列に向けて激しい銃火を浴びせるのでした(射距離およそ600m強でドライゼ銃でも何とか銃弾が届く距離です)。続いて水車小屋から残りの中隊の半数近く(2個小隊)も渡河に成功して先の中隊に合流し、この橋頭堡の確保に対して擲弾兵第11連隊のフュージリア大隊(第3大隊)が市街から街道を突進して2個中隊が水車場に、他の2個中隊が街道の左右路肩に展開し、普軍の銃火はますます激しくキルヒベルクやマーックレーベンに注がれました。

 このHv軍危機に際しマーックレーベン死守を命じられていたド・ヴォー大佐は、総予備として市北郊外に留め置いていた第2連隊第2大隊を前進させ、その半数(2個中隊)を市街南東角の教会墓地に前進させると、この半大隊は銃撃を繰り返しながら石橋に向かい、残り半数は予備として市街の予備隊に加わりました。

 これで接近戦を強いられ苦戦していたHv軍レットベルク隊と近衛2個大隊は勢いを取り戻し、川を越えて来た普軍は新たな敵の登場に際し包囲される前に橋頭堡を棄て再び渡河して退却するのでした。


挿絵(By みてみん)

マーックレーベン前の死闘


 これがフリース兵団の「限界」、正に「戦いの分水嶺」でした。

 彼我の戦力差に加え「伝統と噂通りの強さ」を示すHv軍のため、フリース将軍としてはこれ以上の攻勢を仕掛けそれを継続することは困難で、先ずは奪還したランゲンザルツァとその周辺地域を保持し前線を安定させ、増援が来るまで戦線を維持することに注力するしかない状態に追い込まれつつあったのです。

 これはあくまで筆者の想像ですが、フリース将軍は誤った情報に吊られたとはいえ、優柔不断にさまよい停留を繰り返していたHv軍を侮りその実力を過小評価し、相手の三分の二程度の兵力(しかも後備や後方要塞守備兵も混ざる寄せ集めです)でも勝てると信じ、助攻も後続する援軍もなく戦い始めた事を後悔したのではないでしょうか。

 これは冷静に考え増援の必要性を感じ訴え掛けたザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世の意見を取り合わず、全てをフリースに託して現場から去ったファルケンシュタイン将軍の失態でもありました。

 この点はこの項最後にもう一度考えるとして、戦記を続けます。


挿絵(By みてみん)

ランゲンザルツァで指揮を執るフリース将軍


 この時(午後1時過ぎ)、マーックレーベンの左右両翼から中央へ進みつつあったボートマー、ビューロー両旅団はマーックレーベンの左右郊外に姿を現しました。


 ボートマー少将は午前11時少し前、アレンツシルト将軍からの命令「前進し来る敵の右翼(東側)を攻撃せよ」に従い近衛驃騎兵連隊の2個中隊半と「メルテンス」騎砲兵中隊を急遽先行させ、続いて旅団本隊もネーゲルシュテットから出撃し、先ずはマーックレーベンの東1.5キロのキルヒベルク東麓まで進みました。

 ここで「ミュラー」6ポンド前装施条砲中隊(この時1個小隊欠・4門のみ)は対岸のユーデンヒューゲルから砲撃を繰り返す普軍砲列と、新たに面前エルブスベルクに砲を敷いた敵カノン砲小隊に対し敢然と砲撃を行い、エルブスベルクの普軍出撃砲兵を後退させることに成功、砲撃をユーデンヒューゲルに集中するのでした。また、「メルテンス」騎砲兵中隊はその6門の4ポンド前装施条騎砲をキルヒベルクからなだらかに下がって続く丘陵に置き、河岸に向けて前進する敵や浴場に進もうとする普軍予備隊を砲撃し、幾度もその足を止めさせました。

 敵の勢いが削がれたと見たボートマー将軍は近衛驃騎兵を放って目前の川を渡河させ浴場やエルブスベルクの丘に構える敵兵を襲撃しようと考えますが、残念なことにこの辺りの川は水深が深く土手も高いため渡河は代償を伴うと考え直し、渡河作戦は断念するのでした。


 ビューロー大佐は午前11時前後、敵が一気にランゲンザルツァ市街を席巻しウンシュトルト川に向けて前進するのを望見するや急ぎタムスブリュックからマーックレーベン方向へ麾下を動かし、急造途中の土塁を頼って布陣し直します。この時旅団砲兵の「エンゲルス」6ポンド前装施条砲中隊が先行してカルクベルク(小丘。タムスブリュック市街東端から東南東1キロ付近)に砲を敷き、ユーデンヒューゲルの普軍砲陣と砲撃戦を始めました。その後普軍歩兵が河岸に現れると目標を歩兵に変え、敵の渡河を大いに妨害するのです。


 左右両翼の両旅団はこの後、前述通りアレンツシルト将軍から「中央・マーックレーベンに集まれ」との命令を受け、急ぎ部落郊外まで進み来るのでした。


 クネゼベック旅団はこの頃(正午前後)、歩兵3個大隊と女王ヴィクトリア驃騎兵連隊がビューロー旅団の東側、マーックレーベンの北で待機、前述通り近衛歩兵連隊の2個大隊はウンシュトルト河畔で奮戦していました。また、予備騎兵隊も命令に従いズンドハウゼンを出てクネゼベック旅団の左翼・東側に沿って待機に入りました。


 そして午後1時過ぎ。

 キルヒベルク上のアレンツシルト将軍はここまでの敵の運動を逐一観察した結果、「今、面前で戦うのは普軍の一部にして孤軍、敵主力の前衛でもない」と看過、普ファルケンシュタイン軍の主力はこの日攻撃に加わらないのではないか、と疑い始めたのです。


挿絵(By みてみん)

ランゲンザルツァの戦い ウンシュトルト河畔俯瞰



※以下は改稿でカットしたものです。内容はたわいのない駄文でスルーして頂いて構いません。


西部・「左遷組」の戦い


 ドイツ西・南部諸侯との戦いは、この戦争においては「サイドストーリー」の戦いです。ここで勝っても負けても、結局のところ東での横綱戦「プロシア対オーストリア」の勝敗如何で戦争は決まります。


 サイドストーリーの戦いは、やはりというか、過去、色々とケチが付いて脇役に回された(ズバリ言えば左遷組の)人たちが織りなして行きます。


 プロシアが西方対策で新たに編成したマイン軍の「マイン」という名前は、マイン川から名付けられています。

 この川はバイエルン王国の山岳地帯を水源地としてバイエルン国内を東から西に流れ、フランクフルト自由市を経て最後はヘッセン大公国のマインツで大河ライン川に合流します。全長520キロ余り。ドイツ国内のみを流れる川としては最長の川です。

 この川を目指し戦うという気概からマイン軍と呼んだのでしょう。


 実はこの「マイン軍」という名称、最初から付いていた訳ではありません。西方の諸公(ハノーファー、ヘッセン=カッセル、ヘッセン、ナッソウなど)を制圧した後で、総司令官が自軍をそう呼び出したものです。


 プロシアの西方軍をマイン軍と名付け、方々から寄せ集めた約5万人の将兵を指揮した総司令官は、エデュワルド・ヴォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン大将という将軍でした。

 顔を覆う髭と厳めしく恰幅の良い体は、正に典型的なプロシア貴族の軍人です。彼は第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争で、あのフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥の参謀長を勤めていた男でした。

 あの戦いでぱっとしない指揮を見せたヴランゲルの下にいて、彼の参謀本部嫌いに同調し、モルトケを成り上がりの格下と見続けていたファルケンシュタイン。

 戦争の不首尾で左遷された後、大将には昇進したものの閑職で甘んじていた彼にお呼びが掛かったのは戦争直前の事でした。

 今回の任務で与えられた軍団は雑多で小さいとはいえ、西部方面で戦うのはこの軍団のみ。彼はプロシアの西を任された形となりました。きっとあのデンマークでの屈辱を晴らすべく、闘志を燃やしたことでしょう。


挿絵(By みてみん)

ヴォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン


 密かな闘志を燃やしていた人物はファルケンシュタインだけではありません。


 従兄が1850年代に首相を勤め、当人は前・軍事内局(国王の軍事諮問機関で当時は参謀本部より発言力があった)局長のエドウィン・フォン・マントイフェル少将は、ヴィルヘルム1世の軍政改革をローン陸相と共に強行した張本人。整った顔立ちとワイルドな頬髭がよく似合う、騎兵上がりの精力的な将軍でした。

 もし彼が大人しく行動していたのなら、この普墺戦争開戦時は国王の隣にいて軍事見解や作戦の進行などを説明しているところです。

 しかし、彼は思ったことは口に出さないと気が済まない質なのか、少し出過ぎたところがありました。


 軍事内局時代は、国王に反発する議会に対しクーデターを起こすよう再三再四、国王や政府に働きかけましたし、反革命・反自由主義の立場としては意見の一致するオーストリアと仲良くする様しつこく要求したりしていました。

 これでは、何とか議会を宥めて国王の考える軍事改革を成し遂げたい陸相ローンや、手段を選ばず悪魔とだって手を組んでプロシアを頂点としたドイツ統一を成し遂げたいビスマルクと衝突するのは当たり前です。


 こういう場合の決着としてはどちらかの退場しかなく、結局ビスマルク&ローン組の権勢により、マントイフェルを信頼していた国王も庇い切れず、1865年、彼はシュレースヴィヒ総督に栄転という名の「左遷」をされてしまいました。

 

 マントイフェルはローンと同じ政治を利用する資質、すなわち「軍政家」の顔を持つ人でしたが、深謀遠慮のローンと違い、意見を異にする者たちと妥協したり組んだりということが苦手な実直な軍人さんでした。

 彼は歴史の表舞台から退場して行った残念な一人ですが、もし、ローンでなく彼が普仏戦争辺りまで中央政府にいたらドイツはどうなっていたのか、興味が湧きますねえ。

 

 しかし彼は軍服を着た「政治家」ではなく、やっぱり軍人さんでした。

 シュレースヴィヒ総督となってクサった事でしょうが執務室の椅子に座ってばかりでなく、この先に何が起きるのかを認識しており、自分に与えられたシュレースヴィヒ守備隊を監督、お隣ホルシュタイン駐留オーストリア軍の動向をしっかり見張っています。そして戦争の「スターターピストル」を鳴らせたのも彼だったのです。


 ちなみに、マントイフェルと聞くと、多分ミリオタさんは第二次大戦時のドイツ国防軍の将軍で、東部戦線やバルジの戦いに活躍したハッソ・フォン・マントイフェル将軍を思い浮かべる事と思います。ネットでは血縁関係を示す記述もありましたが、残念なことに筆者は彼とこの将軍との血縁関係を示す証拠を見つけることが出来ませんでした。


挿絵(By みてみん)

マントイフェル

  

 それにしても、国土を占領し国王を捕らえてもなかなか終わらないのがこの時代の戦争。元来、小国は横のつながりが強く、王家も政略結婚が当たり前で親戚同士という場合が多かったので、逃亡した王は他の国が保護するし、軍は簡単に他国領へと逃げてしまいます。


 しかも今回の戦争、実体こそ「オーストリア対プロシア」ですが表向きは「ドイツ連邦対プロシアとその取り巻き(イタリアも含むよ)」だったのですから、連邦が崩壊しない限り一公国が敗北しても終わりではありません。


 また、この時代は国民兵の新時代とは言っても、国民の全てが敵対する国と戦う、20世紀ではおなじみの「国家総動員体制」な訳ではありません。

 現在とは違い、戦争は政治の一手段として当たり前になっている世の中でした。

 戦争は経済や社会を破壊する最悪のシナリオではありますが、それがサッカーの国際試合の様に頻繁に行われていれば、それなりの暗黙の了解や紳士協定っぽいものが存在して来ます。


 泣く子も黙るプロシア軍としても小国との戦いでは、その国に侵攻すれば「我々の敵はあなたたちではなく政府や王様だから、黙って見ていれば何もしないし、生活は保障するよ」とお触れを出します。


 実際、この時点でハノーファー政府や王様は「降参」と言っていませんが、国土はプロシアがほぼ占領し、国民は普通に日々の生活を送っていました。占領軍が圧政を敷き人々を虐待する、また、国民がゲリラ化して占領軍を襲撃する、などと言うことはこの戦争ではありませんでした。


 もっとも、同じゲルマン人種同士、同じドイツ語を話す訳ですから乱暴に括ってしまえば内戦と変わりません。日本の戦国の世に近い状態ですが、それ以上に「クリーン」だったのは国を統一するという目的が潜んでいるから。プロシア軍が将来の同胞である住民に乱暴狼藉を働くわけがありません。それを知っている住民も大人しく従った、そういうことなのでしょう。



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