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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
269/534

ボーモンの戦い/ボーモンの陥落

 解任直前のファイー将軍に率いられた仏第5軍団は、悪天候が続いたこの8月下旬、連日連夜の行軍と戦闘により疲労は極限近くにまで達し、士気は最低となっていました。しかし、この8月30日の戦闘を振り返れば、さすが大陸軍国フランスの正規軍、と思わせるものも垣間見えるのです。

 崩壊寸前と見えたファイー軍団は、午前中だけでも休息したことが効いたのか「初戦」と張り切る普第4軍団相手に奮闘するのでした。


 プティト・フォレの家に対する最初の突撃が撃退された後、仏軍は再び逆襲に出ます。ボーモン市街南側に展開していた1個旅団以上の戦列歩兵が一斉に突撃を敢行したのでした。

 彼らが狙ったのは普軍戦線の右翼(東側)で、第7師団の第一線、第66「マグデブルク第3」連隊の散兵線でした。仏軍は、銃剣突撃の基本陣形である数列に編成した横一線の散兵線(第一線)とそれに続く密集した梯団(第二線)を作り、一気に普軍散兵線に迫りました。対する普第66連隊もドライゼの射程内まで敵の突進を引き付けると一斉射撃を開始しますが、鬼気迫る仏軍戦列歩兵の銃剣突撃は、特に左翼側の第2大隊と右翼中央の第4中隊の散兵線において50mまで迫ったのです。

 この危機に際し、第66連隊の散兵線中央に構えていたF大隊は直ちに両翼へ参入して散兵線を重層化し、倍加したドライゼの一斉射撃を突撃する仏兵に浴びせたのでした。

 それでも仏兵は次々と倒れる仲間を乗り越えて普軍散兵線に突入し、たちまち激しい白兵戦となりました。戦いは激しく一進一退しますが、程なく仏軍の勢いは衰え、次第に押されて後退を始めます。

 同僚第7師団第一線の戦いを前線近くで観察し「今が勝機」と感じた普第8師団長フォン・シェーラー中将は、プティト・フォレの家前面に展開していた麾下部隊に対し、逃げ始めた敵を追ってボーモン市街への突撃を命じたのでした。


 シェーラー師団長の命令に俊敏に応じたのは師団第一線の右翼、フュージリア第86「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン」連隊第1大隊でした。

 この大隊は男爵フォン・ボイネブルク少佐に率いられ、1個中隊をプティト・フォレの家に残すと3個中隊で前面の高地を一気に駆け上がり、ボーモン市街の南に面した仏軍野営(ボーモン市街南縁から450m付近)の東側を狙って銃撃を浴びせた後、銃剣突撃を敢行しました。野営地の仏軍はボイネブルク大隊に続いて三方から突入して来た普軍により、抵抗僅かの後に撃破され四散し、後にはそっくり野営資材が残されたのでした。


 この86連隊第1大隊の突撃に同調した各隊は次の通りです。


 第7師団左翼にいて仏軍の突撃を凌いだラーベ大尉率いる第66連隊第2大隊は、ボイネブルク大隊の後を追ってほぼ同時に敵野営地に突入すると、その第7中隊は直前まで砲撃を続けていたライット式4ポンド野砲2門を捕獲するのでした。

 この師団を越えて共闘していた2個大隊の左翼(西)では、フォン・ニッチェ中佐率いる第96「チューリンゲン第7」連隊第2大隊が野営地南側に達し、こちらもライット砲2門の鹵獲に成功します。

 その左隣にいたハッセ中佐率いる第86連隊第2大隊は、前方高地の西側斜面に沿って急進し、野営地の南西角から突入、こちらは砲3門とその砲牽引前車数両を鹵獲するのでした。

 また、これらの大隊と前線で肩を並べていた猟兵第4大隊の第2,3中隊も同時に前進し、猟兵らしく適宜数群に分かれて臨機に参戦したのでした。


挿絵(By みてみん)

 猟兵第4大隊の突撃


 プティト・フォレの家後方、チュイルリーの煉瓦製造所東側まで前進して第8師団の第二線となっていた第31「チューリンゲン第1」連隊は、前線が動き始めると直ちに攻撃行軍陣形である縦隊横列に展開し、第一線の攻撃を援護するため急速前進を行いました。その先頭に立った第2,3中隊は野営地の戦闘に直接加わります。

 この第31連隊の前進に合わせ、前線の両翼を延伸するため第96連隊F大隊も前線に駆け付けますが、彼らが野営地に到着した時には既に戦闘は終了し、仏軍は半数がボーモン市街へ、半数が東側のボーモン東街道へ逃走するのでした。


 逃げる仏軍を追った普第4軍団第一線諸大隊の勢いは、正に破竹でした。


 第86連隊第1大隊の先鋒小隊はフォン・クイッケ少尉に率いられて逃げる仏兵とほぼ同時にボーモン市街に突入し、この勢いに押されて戦意を失った多くの仏兵は手を上げて、少壮クイッケ少尉率いる小隊の捕虜となったのです。

 少尉の属する第1大隊主力の方は男爵フォン・ボイネブルク少佐が率いてボーモン南郊外の採石場付近に再集合すると、市街戦を避けて市街地を西へ迂回し、北西郊外にあった仏軍野営地(既に遺棄された後でした)を占領するのです。


 第96連隊長のフォン・レーデルン中佐は、ボーモン南郊外で最初に占領した仏軍の野営地で第2とF大隊を集合させると、この2個大隊を率いてボイネブルク男爵が占領した北西郊外の野営地までやって来ました。

 この最初に占領した南郊外の野営地からは第86連隊の第2大隊も前進し、その第7中隊は先行してボーモン市街へ南西側から侵入、町の中心地まで進んで市場付近を占拠し、遅れて市街へ突入した第2大隊残りの3個中隊を迎えるのでした。

 この前進時、第86連隊の第6中隊は、市街地の西口からソモトへ向かうボーモン西街道上で、B第1軍団の先鋒部隊に遭遇し連絡を付けています。


 前述通り第31連隊の第2と第3中隊は連隊から離れて先行し、南郊外の仏軍野営地の戦い最終局面に参戦しましたが、その後、第86連隊の前進と同時に市街地へ向かい、東郊外にあった庭園を抜けて市街の北口へ到達します。

 続いて第31連隊F大隊と第1大隊の残り(1,4中隊)を率いて連隊長のフォン・ボニン大佐が市内に入ります。しかし、ボニン大佐直率の6個中隊は途中、ボーモン東街道で頑固に抵抗する仏散兵から縦隊側面に激しい銃火を浴びてしまい、その損害もまた大きなものとなりました。この犠牲の上で大佐が市内に入ると、逃げ遅れた仏軍兵士たちは抵抗を諦め、そのほとんどが降伏するのでした。


挿絵(By みてみん)

 ボニン大佐


 こうして午後2時頃、ボーモンは普軍の手に落ちます。市街はボニン大佐の第31連隊が掌握し、そのまま守備に就きました。


 ボーモンの陥落まで僅か1時間半程度の戦いでしたが、敵の銃砲火を浴びつつ強行された突撃により、普第4軍団の損害は非常に大きなものとなっていました。

 死傷者数が定員の四分の一以上となった大隊も複数あり、その死傷者の中には既述通り第13旅団長のフォン・ボリス少将の他、第16旅団長のフォン・シェフラー大佐とその副官、第86連隊長のフォン・ホルン大佐、同第2大隊長のハッセ中佐、猟兵第4大隊長のフォン・レットウ=フォルベック少佐等々多数の士官が含まれていたのです。


 普第4軍団左翼(西)側の激闘は、市街地北西側の仏軍野営占領で一段落となりますが、右翼(東)側の戦闘はなお暫く続きます。


 第86連隊と第96連隊による仏軍野営への突撃と時を同じくして、仏軍はボーモン東街道に沿って散兵線を敷き、この街道は所々窪地となっていたため良好な遮蔽を仏軍に与え、また、野営を追われた仏兵の一部もこれに加わり、普軍にとっては少々厄介な拠点となりつつありました。


 既に最初の前進時、右翼外から側射を受けたことにより右へ逸れて街道に進んでいた第66連隊の第1大隊は、仏軍の逆襲時に散兵線が崩れてしまった第2大隊の半分(第6,7中隊)を加え、猛射撃を浴びせて仏軍の突撃を撃退し、直後、第8師団の前線から外れた兵士をも糾合して街道沿いの仏軍と接近した銃撃戦に至ります。ここに後方から第31連隊の第2大隊が前進して参戦、銃撃戦は一時非常に激しいものとなりました。

 しかし、順次増強のなった普軍に対し街道沿いの仏軍は後続なく次第に押され、機を見て銃剣突撃に至った普軍によりその大部分が降伏を余儀なくされたのです。

 このボーモン東街道での戦いでは多数の仏軍捕虜に加え、各種馬車30両に馬匹100頭が鹵獲されるのでした。


 この街道沿いの戦いの後、第66連隊第1大隊一部は街道を越えて逃げる仏軍を追い、レタンヌ南方の森林に散兵線を再構築しようと試みる敵を撃破し、仏兵は更に北へ退却して行きました。

 この直後、この地にはS軍団が進み出、またこの時刻(午後2時過ぎ)にはこの方面の戦闘も絶えたことにより、第1大隊は「お役御免」となって街道沿いまで引き返し集合したのです。


 第66連隊残りのF大隊は仏軍の逆襲を撃退後、師団長フォン・グロス=シュヴァルツホッフ将軍直々の命令により右に旋回、ボーモン東街道に向いて第1大隊と並び、軍団の右翼を形成するのでした。

 こうして第7師団の第一線を担った第66連隊は僅か1時間半の間に士官20名・下士官兵およそ500名を損失(およそ4分の1)します。負傷者の中には連隊長伯爵フィンク・フォン・フィンケンシュタイン中佐も含まれ、中佐は銃弾を腕に受け後送されるものの、包帯所で簡単な治療を受けると三角巾で腕を吊って前線に戻り指揮を採り続けたのでした。


 歩兵の激闘中、砲兵もまた短くも激しい戦いを行います。


 普第8師団並びに第7師団砲兵は、メゾン・ブランシェからベル・トゥールの家北西側高地にかけて展開し、歩兵の攻防を支援しました。また、ボーモン南部郊外の仏軍砲兵に対しても的確に対処し、仏軍砲兵はたちまち正確な砲弾を受け、待避するか撃破されるかして沈黙するのです。

 砲撃戦が短時間で終了すると、師団砲兵8個中隊は再三再四押し寄せる仏軍戦列歩兵とその出発点である野営に対して有効弾を送り続け、ギルザ少佐率いる第8師団砲兵はまた市街地西から砲撃を開始した仏軍砲兵に対しても応戦し、これを撃破するのでした。

 しかし、森林線から離れ高地斜面に陣取る砲列には遮蔽物が全くといってなく、シャスポー銃弾は情け容赦なく降り注ぎ、普軍砲兵に大きな損害を与えました。軽砲第4中隊は士官3名、下士官兵26名、馬匹34頭を失って一時砲撃を中断し、フォン・ギルザ少佐は馬上で指揮を執ったものの、乗馬を2度も銃弾に倒され3度馬を代える羽目となったのです。


 しかし、この激戦もほぼ1時間で収まり始め、午後1時20分前後に到着し始めた普第4軍団砲兵隊は、ボーモン市内と市郊外の敵野営に殺到する味方歩兵を同士討ちする危険を避けるため、ほとんど砲撃をすることが適いませんでした。ただ最左翼に進み出た騎砲兵第2中隊だけが少時砲撃を行っただけだったのです。


 歩兵の前進によって砲兵もまた前進を図ります。軍団所属砲兵の全て、14個中隊は梯団となって歩兵を追い、仏第5軍団諸兵がボーモンを捨て一斉に後退し始めると、その南側郊外高地尾根に展開して市郊外北方高地に再展開した仏軍砲兵や、敗走中の仏軍歩兵に対し激しい砲撃を加え、市街北西にあった野営に対しては、味方第86連隊が突撃する直前まで砲撃を続けたのでした。


※午後1時半過ぎにボーモン南部に展開した普第4軍団砲兵(野戦砲兵第4「マグデブルク」連隊)

左翼(西)から右翼(東)へ。()内は所属

・騎砲兵第2中隊(軍団)

・重砲第3中隊(8師)

・軽砲第3中隊(8師)

・重砲第4中隊(8師)

・軽砲第4中隊(8師)

・騎砲兵第3中隊(軍団)

・重砲第5中隊(軍団)

・重砲第6中隊(軍団)

・軽砲第5中隊(軍団)

・軽砲第1中隊(7師)

・軽砲第6中隊(軍団)

・軽砲第2中隊(7師)

・重砲第1中隊(7師)

・重砲第2中隊(7師)

注・騎砲兵第1中隊は騎兵第5師団所属


 普第4軍団砲兵は砲撃を続けながら機を見て前進し、大地の畝を利用して陣地転換を繰り返しながら次第に敵砲兵陣との距離を詰め、正確な砲撃に拍車をかけました。午後2時前にはその両翼側で、左はB軍砲兵、右はS軍団砲兵と連携し始め、一大砲列を構成します。その中央部分では歩兵と共にボーモン市街に入り、通過してその北郊外にまで進出するのでした。


 こうしてボーモン周辺を確保した普第4軍団は、中央部の自軍団戦区でほぼ戦闘が収束すると休む間もなく更なる前進準備に入りました。


 第26連隊は5個の半大隊(2個中隊)を作って第一線の第66連隊直後に付いて前進し、ボーリュの家付近の林でS軍団の前進を援護していた残りの半大隊(F大隊の半分)もS軍団兵と交代した後に第1大隊2個の半大隊右翼に連なりました。

 第7師団本隊となったフォン・ツィヒリンスキー少将率いる第14旅団は、森林線から出ても既に前衛諸隊が前進方向を埋めていたため一時停滞し、先行していた第93「アンハルト」連隊の先鋒のみがボーモン部落に達して若干の捕虜を獲るのでした。

 第8師団左翼では、第86連隊第3大隊だけが予備としてベル・ヴァレの家に留まっていましたが、砲兵の前進運動が始まるとボーモン西郊外に向けて前進を開始し、ラ・アルノトリの家(ボーモンの北西2.5キロにある農場。現存)へと続く谷を目標に進みました。

 軍団砲兵隊の前後に付いて護衛を行っていた第96「チューリンゲン第7」連隊第1大隊の内2個(第1,2)中隊はフォン・プレッツ少佐に率いられて午後1時過ぎ前線に進み出て(第3,4中隊は輜重護衛で森に残ります)、最左翼となった騎砲兵第2中隊の更に左を進んでボーモン西郊外方向へ進み、師団後衛となった第71「チューリンゲン第3」連隊と驃騎兵第12「チューリンゲン」連隊もまた砲兵の前進後方からボーモン市街南西側郊外まで前進したのでした。

 

 こうして、仏第5軍団は僅か数時間の休息と引き替えに、遂に普軍に「尻尾」を掴まれることとなります。

 メゾン・ブランシェから飛来した榴弾はその野営中央で破裂し、警戒を怠ったファイー将軍始め軍団将兵の度肝を抜きました。しかし、最初こそ狼狽し右往左往する姿を晒した仏軍将兵も、速やかに態勢を建て直し、ボーモンの南側で休息していたオーギュスト・ゴゼ少将並びにギュイヨ・ドゥ・レスパルト少将の師団からは準備の成った部隊から先を競うように散兵線を敷き、後方に第二陣が構えたと見る間に普軍へ突撃を敢行し始めるのでした。その姿は往年のナポレオン「大陸軍」の伝統を彷彿とさせる勇敢なものでしたが、残念ながら彼らの「エネルギー」は僅か1時間しか保たず、同じく強行軍で森を越えてやって来た普第4軍団に次第に押され、遂には敗走に至るのです。


挿絵(By みてみん)

 砲撃を受ける仏軍ボーモンの野営


 ボーモン南側郊外の野営には1個砲兵中隊と思しき数の大砲とその運搬車両などが遺棄され(この時、砲運搬用の馬匹が野営から離れていたとの証言が残されています)、その他の砲兵たちは慌ててボーモンの北郊外へ逃れました。最初に市街地の西に砲列を敷いていた中隊も普軍砲兵から猛砲撃を受けるとたちまち沈黙してしまい、残された北方高地に陣を敷く砲兵のみがボーモン市街が陥落するまで普軍砲兵と砲撃戦を交わし、また前進する普軍歩兵に榴弾を浴びせ続けたのでした。


 しかし、この砲列も市街北西の野営が陥落し、至近まで敵歩兵が迫ると更に北方に後退し、ラ・アルノトリの家からラ・フェイの林(現ボワ・ド・ファイー。ボーモンの北北東1.5キロ付近の林)南方の高地まで断続的に続く散兵線に加わったのでした。



ボーモン南部略図


挿絵(By みてみん)


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