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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
267/534

ボーモンの戦い/ファイー将軍の致命的油断

ボーモン付近図


挿絵(By みてみん)


 8月29日夕方における仏シャロン軍の前哨線は、シャンピーの「双子部落」(ヌアールの北東2.5キロ付近のル・シャンピー=オーとル・シャンピー=バ)から北西へシャトー・ベルヴァル(ヌアールの北北西4.5キロ)を経てサン=ピエルモン(ヌアールの北西9.5キロ)に至る線上で、普大本営はこの線上には仏軍の「後衛」に当たる2乃至3個軍団がいるもの、と推定していました。


 この日夕方から深夜に掛けて、厚い仏軍の「壁」に幾度も阻まれつつも少しずつですが敵状を明らかにしていた、Sライター騎兵第2連隊と普驃騎兵第3連隊の「ストゥネ残留組」が再び斥候偵察を放ち、「仏軍は未だにボーモン市街に居座っているが、その一部は既にムーズを渡河しており、更に東岸をイノール(ストゥネの北6キロ)付近にまで進出している」ことが判明するのでした。


 マース軍司令アルベルト・ザクセン王太子は、これら騎兵斥候たちのもたらした情報と、前線における観察とによって確認した仏軍の行動から、「敵は明30日、全軍によってマースを渡河しようとしている」と信じるに至るのです。そして、「我が軍が迅速に行動すれば、敵がムーズを渡河する前にその後衛諸軍団を捕捉し、ムーズ西岸において撃破することも可能」と考えたのでした。

 マース軍本営はこの王子の判断に基づき、29日夕刻、翌日の前進実施に要する作業に取りかかったのです。


 第12「S」軍団は、前哨により「シャンピー~ベルヴァル間の敵が撤退中」との報告を深夜に受け、ゲオルグ・ザクセン王子ら軍団本営は「敵はムーズ川方面に撤退するに違いない」としてストゥネ方面の前哨に対し警戒を促しますが、再び前哨より、「ストゥネ方面との連絡が回復」し「ビュザンシー街道沿いのボーフォール(=アン=アルゴンヌ)方面に展開する歩兵1個大隊(宵の口までは第108連隊第1。夜に第103連隊第3と交代)の戦区は平穏無事で敵影を見ず」、「デュレの森(ボーフォールの北からワム川の南までに広がる森)にも敵を見ず」との報告が入り、「敵は東ではなく北方に去った」と悟るのでした。


 後となって入って来た、S軍団の左翼(西)側ビュザンシー方面に展開する近衛軍団からの情報でもこのことは裏付られ、ゲオルグ王子は直ちにライター騎兵に命じて北方を探らせますが、その報告も「フォセ(ヌアールの西北西3キロ)からヌアールの北方高地に敵影が無くなり」、「敵は全てボーモン方面へ後退した」ことを示していたのでした。


 ただ、不気味だったのはサン=ピエルモンからオシュ(サン=ピエルモンの北2キロ)方面の情報が得られず、この付近にいたはずの敵1個軍団(仏第7軍団)の所在が不明となっていることですが、これを無視したとしても、仏軍後衛主力がムーズを渡河するため、まずはボーモン付近へ進んだことがほぼ確実となったのでした。


 日付が変わって30日の早朝、マース軍本営は前日午後11時発令の普大本営命令を受領します。

 「ル・シェーヌとボーモンへの総攻撃」を命じるこの命令に接したアルベルト王子は夜明け前の午前3時、麾下に命令を発し、「第4軍団はヌアール並びにフォセ、第12軍団はボークレーとヌアール森西部にそれぞれ1個師団を前進させ、午前10時までに集合完了即待機とし、後命を待て」とするのです。

 続いて午前6時、アルベルト王子は軍を4縦列に仕立ててボーモンへ前進する以下の行軍命令を発しました。


「第12軍団右翼(ボークレー集合の第23)師団は騎兵第12(S)師団を従えてボークレーを発ち、東へ進んでラヌヴィル(=シュル=ムーズ)付近においてストゥネ~ボーモン街道(ボーモン街道東側部分。現在の国道D30号線)に到達、街道をボーモン目指し北上せよ」

「第12軍団左翼(ヌアール森集合の第24)師団はヌアール森からボーフォール、その北に広がるデュレの森を経て、ベル・トゥールの家(フェルム・ドゥ・ラ・ベル・トゥール。ボーモンの南南東3キロにある一軒家の農場。現存)へ続く小道を利用してデュレ森を通過し、森の北端から北方に向かってボーモン南の丘陵地帯へ進撃し展開せよ」

「第4軍団右翼(ヌアール集合の第7)師団はシャンピーを経てベルヴァル森高地(シャンピーの北西にある高地林)に入り、ベル・トゥールの家へ続く小道(第24師団の行軍路とは別。その西側にある林道)を前進せよ」

「第4軍団左翼(フォセ集合の第8)師団はシャトー・ベルヴァルを経てプティ・デュレの森(ボワ・ドゥ・プティ・デュレ。ベル・トゥールの家南西側に広がる森林)へ入り、林道を使用し直接ボーモンまで前進せよ」

 アルベルト王子は更に、「中央の2縦列は大森林を経由するので」それぞれの軍団及び師団砲兵隊は外側の縦列(第23と第8師団の行軍路)に加入するよう勧告するのです。


 マース軍残りの近衛軍団については、前日(28日)夜半、「明日ビュザンシー付近を前進通過する第三軍のため」ビュザンシー~ボーモン街道(現国道D6~D19号線)を午前8時までに「明け渡す」よう命じられ、ビュザンシー西郊外の野営地を整理縮小して夜を明かしますが、30日午前10時、「ヌアールの西郊外まで進み、攻勢前進準備を整えた後に待機せよ」と命じられるのでした。


 アルベルト王子は午前8時、自軍の軍団長をバイオンヴィルに集合させ、今後の方針と状況の確認を行いました。

 この席で王子は3名の軍団長に対し、「ボーモン付近で戦闘行動を行うに当たり、優勢にして陣地に頼った敵に対して、単独で戦うことの無きよう」訴え、これを避けるため、「各師団は森林地帯よりボーモン南方の荒野丘陵地帯に出るに当たっては、必ず隣接する師団の到着攻勢準備を待つこと」と訓示します。

 また、「攻勢は砲撃を以て始め、各師団縦列の報告は直接マース軍司令官宛とせよ」と命じました。更に、「地図上で指定された行軍路が実際は通行不可となっていた場合でも、努力して指定の方向を目指し行軍してもらいたい」とし、「第4軍団の左翼(西)側からは普皇太子の第三軍から2個軍団が来援し協力する予定」と知らせるのでした。


 アルベルト王子は軍団長に命令を下すと本営を引き連れ、まずはヌアールを経由しフォセへと前進するのでした。


 独第三軍司令のフリードリヒ皇太子は、29日午後11時発令の大本営命令を受領すると、直ちにB軍2個軍団によりボーモン攻撃のマース軍を援助することに決し、「B第1軍団は2縦列隊形となり午前6時、野営より出立しビュザンシーからバール(=レ=ビュザンシー)を経てソモト(ビュザンシーの北7.5キロ)へ向かい行軍し、ボーモン街道を前進せよ」「B第2軍団は午前7時、野営より出立しソモトの南方郊外(ヴォー=アン=デュレ西方付近)において攻撃の総予備となれ」と命じたのでした。


 また、普第5軍団には、「ブリックネ(ジェルモンの南3.5キロ)からオートを経てオシェ方面へ前進し、オシェより戦況に応じて臨機に右翼(ボーモン戦線)か左翼(ル・シェーヌ戦線)に加入せよ」と命じ、W師団には、「ヴォングヴェ(ヴージエの東6キロ)からブ=オー=ボワ、シャティオン(ベルヴィル=エ=シャティオン=シュル=バール)を経てル・シェーヌへ前進」させ、普第11軍団に対して、「本隊をヴージエからキャトル=シャンを経て北上させ」「左翼側に1支隊を設けてテロン(=シュル=エーヌ。ヴージエの北6キロ)経由で共にル・シェーヌへ前進せよ」と命じ、「第11軍団とW師団でル・シェーヌを占領せよ」と命じたのでした。

 この3個軍団と1個師団には「午前6時を出立時間とする」との命令が付されましたが、それぞれの軍団長たちは前衛を組織して、B第1軍団の前衛共々午前6時より以前にそれぞれの野営地を発って行ったのでした。


 なお、第三軍の後衛となっていた第6軍団はこの30日、ヴージエ周辺まで前進し、エーヌ川西岸沿いに密集して宿営するよう命令が下っています(万が一ランスに居るという仏軍が出撃した場合の保険でしょう)。


 この日、騎兵第2師団はスニュックでエーヌを渡河すると、ビュザンシーの北郊外まで進んで待機となり、騎兵第4師団は第11軍団に続行してキャトル=シャンに至ると、シャティオン郊外で野営して後命を待ちました。

 騎兵第5師団はアティニーから北上してトゥルトロンに至り、騎兵第6師団は前衛が占領したヴォンクから北上してエーヌ川とアルデンヌ運河の合流点・セミュイへ進んで、仏シャロン軍の「後背地」に向けた騒擾任務と、ランス方面への警戒に当たりました。


 また、輜重を始めとする後方縦列について、「戦闘のために必要とする縦列(弾薬など)は軍の後方に追従し、他の部分は戦闘地から遥か後方に留め置く」ように各軍団へ命じました。

 最後に皇太子は、「会戦が発生すれば急進し、サン=ピエルモンで第三軍の指揮を執る」ことを予告するのです(軍本営はブリックネに移動しました)。


 「決戦」を期して北上を始めた独軍に対し、その「相手」となる仏シャロン軍第1、第5、第7の各軍団はこの日戦う気など毛頭無く、ただムーズ渡河を目指して重い腰を上げようとしていました。


 連日の雨天によって泥濘と化した山地で数日間右往左往をする羽目となった仏諸軍団の動きは鈍く、そこに同じ山地行軍で泥まみれになりながらも、ベタ金の高級指揮官から輜重・雑用の軍属に至るまで「勝っている」実感を噛みしめつつ意気揚々と進む独軍が登場し、遂にこの日、本格的な衝突に至るのです。


 仏シャロン軍司令マクマオン大将は、この30日を以て残りの3個軍団と1個騎兵師団とその輜重縦列をムーゾン及びルミリー(=イクール)でムーズを渡河させるべく、また、渡河し終わった諸部隊をモンメディ方面へ行軍継続させるべく命令を下します。


「30日、第12軍団及びマルグリット騎兵師団はムーゾン周辺で休息と補充を成し、マルグリット騎兵師団は暫し休息後カリニャンへ移動せよ。予定では皇帝陛下もカリニャンへ大本営を移動させる次第となっている」

「第1軍団はルミリーへ移動し、付近においてムーズを渡河せよ。ボヌメン騎兵師団もこれに続行し、渡河を完了すべし」

「第7軍団はヴィレ=ドゥヴァン=ムーゾンへ、第5軍団はムーゾンへ到達し、本日中にムーズ渡河を完了することが重要である」


 この命令に従い、第1軍団は午前7時にロクールの部落を出立し、ルミリーまで北上します。

 ところが、ルミリーの渡河場に着いて見ると、渡渉用の浅瀬は増水で使用不能となっており、渡船も川の流れが急となっているため、大軍の渡河には途方もない時間が掛かるものと想定されました。

 これは雨による増水のためばかりでなく、独軍の接近により至近のセダン要塞の空壕に水を張るために川堰を閉じているためで、軍団長のデュクロ将軍は工兵隊に命じ、手頃な資材を徴発して直ちに人道橋の架橋作業に入らせたのでした。

 軍団はレリティエ少将(軍団第3)師団とドゥ・セプテイユ准将の騎兵旅団を後衛として渡河を始めますが、間もなく(正午頃)南東ボーモン方面から砲声が聞こえ出し、デュクロ将軍は渡河を続けながら軍の方針を聞くべくシャロン軍本営へ「いかがすべきか」の「伺い」を立てるのでした。

 マクマオン将軍は既に午前4時、ロクールを発してムーズ対岸にいましたが、これに返答して「万事は了解しているので、軍団は迷わず渡河を急げ」と命じるのでした。

 安心したデュクロ将軍は本隊に続いて後衛も渡河を終わらせた後、フランシス・ウォルフ少将(軍団第1)師団とレリティエ師団をドゥジー(ルミリーの北東4キロ)へ、ジャン・ペレ少将(軍団第2)師団とドゥ・ラルティーグ少将(軍団第4)師団をテテーニュ(ムーゾンの北東6キロ)へ、それぞれ向かわせます。ボヌメン騎兵師団は第1軍団に続行し渡河するのでした。


 一方、軍の「後衛」となった第5、第7の両軍団は、ヴージエ近郊に至った26日から始まった「苦難の日々」の延長戦がまだまだ続いていました。


 仏第7軍団は午前4時、オシェとサン=ピエルモン周辺の野営を引き払い、まずはボーモン街道沿いのストンヌ目指して行軍を開始しようとしました。ところが、マクマオン将軍が発した行軍命令には、軍の後方兵站業務担当からの付則命令が付いており、それによれば「車両は(貴重なため)無闇に破棄してはならない」とあり、これは、何が何でも30日中にムーゾン方面でムーズ川に着くよう命じた本軍の命令の「足を引っ張る」ことになりかねない命令でした。

 足手まといとなるものを一切遺棄するか後送しようと、「傷病兵馬を後送し、車両を整理することも止む無しとする」との方針だったドゥエー将軍は苛立ちますが、「軍命令」では仕方が無く(この辺りが独断を許さない命令遵守の仏軍の悲劇です)、車両を全て(空となり当座必要でない糧秣車両も含め全て)輜重縦列に加え、行軍を開始したのでした。

 このために、細いアルデンヌ地方の街道を行く行軍縦列の長さは8キロ以上となり、弱く「貴重な」輜重を守るため、戦列歩兵7個大隊が縦列の脇の泥濘に沈む荒野を進むことになってしまいます。軍団後衛となったデ・ポルト准将の旅団(軍団第3師団第2旅団)が野営を発った時には午前10時を過ぎており、軍団先頭の出発から既に6時間が過ぎようとしていたのでした。


 これを観察していたのが、一昨日から仏第7軍団を追跡していたフォン・シュルテン大尉率いる近衛槍騎兵第1連隊の2個中隊で、敵が苦労しながら出立すると、その長大な縦列に付かず離れず追従し、足止めを狙って散発的な銃撃を行ったりするのです。仏軍はそのため、うるさい敵騎兵に対し一部の行軍を止めさせて散開させ、またミトライユーズ砲まで持ち出して威嚇し追い払うのですが、この妨害によっても行軍は更に遅れて行くのでした。


 行軍縦列はゆっくりとストンヌまで達し、続いてボーモン街道上をラ・ブサスに向け進みます。

 行軍縦列がラ・ブサスに到着した頃、ボーモン方向から連続した砲声が轟き、会戦が始まったことを告げます。しかも、ほぼ同時に南から敵砲兵による砲撃も始まりました。ところが、ドゥエー将軍は「ムーズ川を渡河するとの命令は正しく絶対である」として戦場には向かわない決定をし、且つ軍団が戦闘に巻き込まれないため、行軍方向を真北にして、ロクールからルミニーへ向かうことに決定して軍団を進めようとしました。

 しかし、この命令は前衛として先頭を進み、既にラ・ブサスの東側に出ていたコンセーユ=デュームニル少将率いる軍団第1師団には届かず、ボーモン西街道の南側森林を進んだ師団は、間もなく南方から進んで来たB軍と衝突するのです。


 前日の29日に思わぬ形からS軍団と戦闘をする羽目となった仏第5軍団は、30日の早朝(午前0時頃から5時頃に掛けて)にボーモンへ達し、連日連夜に渡る迷走気味の行軍と「ヌアールの戦い」によって疲労困憊となった将兵は、既に「梃子でも動かない」状態となっていました。

 仏軍将官の誰よりも独の大軍が直ぐそこにまで迫っていることを知っているはずで、また自身の「首」も危ういドゥ・ファイー軍団長(既にシャロン軍がルテルにいる頃、第5軍団の指揮官解任・交代が陰で決定されており、その理由はファイー将軍の「ヴルトの会戦」における「優柔不断(=敗戦責任)」にあったとされています。将軍自身もこの頃には自身の解任を知っていたのではないかと想像します)は、内心焦ったことと思いますが、軍団を休ませるしか手が無くなりました。


 ここまではどんな名将が率いていたとしても、この「士気最低」の軍団では手の打ち様がない事なのですが、ここからがファイー将軍の「頂けない」ところです。


 将軍は昨日S軍団と戦ったにも関わらず、「敵はストゥネの方向に向かった」との楽観的な推察に頼ってしまいます。

 確かに昨晩S軍団は「東へ」進みましたが、これは当のファイー軍団が「ストゥネ方面に進んだ」との「幻の報告」によるもので、その後この任に就いたモンベ少将の支隊はヌアールの野営地に帰っていました。

 しかも、ファイー軍団がボーモンに到着した直後から警戒のために派出した騎兵斥候は、僅かに野営地周辺を一巡りしただけで満足してしまい、「敵影見ず」と簡単に報告して終わりにしてしまい、軍団本営もそれ以上斥候を出したり警戒を厳重にしたりすることはありませんでした。


 独仏軍共に偵察の不徹底は今に始まった事ではありませんが、それにしてもこの時、仏第5軍団とS軍団との距離はわずかに4キロ程度しか離れていない訳で、その事実を知らなかったとは言え、ファイー将軍はなぜ「楽観論」に偏ったまま念入りに偵察することもなく安心し切って「休もう」としてしまったのか、全く理解に苦しむところです。

 ファイー将軍は麾下に「午前中は炊事と休息を成し、出立は正午とする」として少しでも疲労を回復させようとしましたが、これで緊張の糸が切れたのか、部隊の中には前哨を等閑にしてしまったり、全く配置することなく不用心に過ごしてしまう部隊すらあったのです。


 このボーモンの野営において、寝不足と疲労でふらふらとなった将兵たちは、空きっ腹を抱えて急ぎ炊事を行い、薄く不味いオートミールや僅かな量の乾パンを貪り、のろのろと補給作業に従事したり、僅かな気力を振り絞って点呼のために整列したりしていましたが、午後12時30分、突然南方から榴弾砲撃を浴びることとなるのです。

 この突然の砲撃は普第4軍団砲兵によるもので、彼らは仏軍に発見されることなく困難なデュレの森を踏破し、ボーモンの南方高地に密かに展開し、奇襲攻撃を成功させたのでした。


 ここで戦闘の詳細を記す前に、当時のボーモン周辺の地勢を見てみましょう。


 ボーモンの町はムーズ川とヨンク川(サン=ピエルモン東の森を水源としてムーゾンの西郊外でムーズに注ぐ支流)両河川に挟まれた起伏の大きな場所にあり、主要街道が二つ、一つはラ・シェーヌからストゥネに向かう東西に走る街道(主として現国道D30号線。ボーモン街道)、もう一つはビュザンシーから北上し、ボーモンを抜けてムーゾンへ至る南北に走る街道(主として現国道D19号線。これ以降「ムーゾン街道」とします)が交わるアルデンヌ県東部の交通の要衝でした。


 市街地は四方を山に囲まれた盆地状の場所で、北を除いた三方は森に覆われ、森までの距離はおよそ2から3キロといったところでした。この森と市街の間の土地は起伏のある丘陵地で、木々は少なく視界は開けており、軍隊が野営したり行軍したりするのに問題はありませんでした。ボーモンの町を守るには、この丘陵地に砲列か散兵線を敷いて森の縁に照準を合わせれば良く、特に市街地東方の土地は急に立ち上がる斜面の山で、ここにある郊外部落レタンヌ(ボーモンの東2キロ)周辺は段丘となって東をムーズ川へ向かう急斜面とし、西は階段状の耕作地で、このためにボーモンの東側は軍隊の通過に困難を伴う場所となっていました。


 ストゥネ~ビュザンシーの「ビュザンシー街道」東部分からは5つの小街道(というより山道・林道です)がボーモンに向かって延びていました。

 東から西へ、

(1)ストゥネの対岸部落ラヌヴィルから北西へ進む「ボーモン東街道」(現国道D30号線)

(2)ボーモン南側デュレ森に延びる「ベル・トゥール道」

(3)シャトー・ベルヴァルから概ね北北東へ走り、プティト・デュレ森からポン・ジェラシェ森を突っ切る街道(現国道D4号線。以降「ジェラシェ街道」とします)

(4)その西側を進む「ボーセジュール道」(ボーモンの南南西2.5キロにある一軒農家フェルム・ドゥ・ボーセジュールに至る道)

(5)そしてソモトの北から北東方へ走る「ボーモン西街道」(現国道D19号線)

でした。

 この内東側の4本がマース軍の攻撃4縦列(第23、24、7、8師団)の行軍路に当たり、一番西側のボーモン西街道がB第1軍団の行軍路と指定されたのです。


 これら独軍3個軍団が通過することとなるボーモン南方の森林地帯は、やや低めの木々が密生して生えており、砲兵や騎兵、馬車の隊列はもちろん、歩兵や山道に強い猟兵であっても苦労する厄介な森で、前述5本の小街道以外は通行不可能と言っても良いくらいの障害でした。

 この街道自体も数日来の雨と仏軍団の行軍により深く掘られた泥濘と化しており、車輪という車輪を沈めさせ、馬匹も脚を取られて疲弊するとんでもない悪路となっていたのです。


 この他にもこの森には大きな障害があり、それは森林内を流れ下るワム川(アルデンヌとムーズ県境となっているムーズ支流の小河川)とその支流で、その幅は小さいとはいえ、上流では深い渓谷を作るものが多く、数少ない木橋や吊り橋によってのみ渡河可能な地点もあって、通過困難なものでした。しかもこの橋は基本人道橋で、馬匹牽引車両の通行には補強が必要という代物だったのです。


 森林内部はこのような状況だったため、独軍の行軍はたちまち困難に直面し、左右両側の師団縦列との連絡は途切れ、各軍団本営は後方からのべつ幕なしに伝令を送り続けて、その往復によってようやく連絡を確保し命令・情報を伝達する有様となるのでした。


 ボーモンから北、ムーゾン方面へ向かう街道は4本あり、東側から西へ、

(1)レタンヌからヴィルモントリー(ボーモンの北北東5キロ)を経由するムーズ川沿いの「レタンヌ道」

(2)ラ・サルテルの家(ボーモンの北3キロにある一軒農家。現存)を経てヴィルモントリーへ出る「ラ・サルテル道」

(3)前述の「ムーゾン街道」(現国道D19号線)

(4)ボーモンの西郊外からヨンクを経てオートルクール(=エ=プロン)へ至る街道(現国道D4号線。以降「ヨンク街道」とします)

がそれでした。


 ヨンクからボーモンの北側は急斜面を成して高地となっており、特にムーズとヨンクの両河川に沿った部分は崖状になっていました。このため、ボーモン周辺からムーゾン方面を望見する事は出来ませんでした。

 このボーモン北側高地の頂上は、標高918フィート(約280m)と972フィート(約296m)の両高峰で、この高地は深い森(ボワ・ド・ジヴォドー。ボーモンの北4キロ付近)となって山道以外の通行はほぼ不可能でした。この森とその東西に断続する森林は、ボーモン南の森林地帯に似て、山林道以外の連絡を不可能としており、行軍は双方共に困難なものだったのです。



ムーゾン付近図


挿絵(By みてみん)


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