8月29日・仏軍参謀捕らわる
☆ 独マース軍
マース軍司令・アルベルト王子は28日夕方、仏軍がボーモン(=アン=アルゴンヌ)及びビュザンシーから「西へ逆戻りしている」との情報に接し、至急その動向を確認するよう麾下部隊に命じ、これを大本営に通達しました。
大本営からは折り返し、午後7時発の命令(前節参照)が届けられ、同時に「29日早々には敵の西進が本物かどうか判定出来るだけの情報を集める」よう訓令されます。
この命令により近衛騎兵師団は「敵が進出しているかどうか」確かめるためビュザンシー周辺を偵察し、更にル・シェーヌ方面を重点的に調べるよう命令されました。騎兵第12師団は近衛騎兵師団に続行し、翌朝7時には近衛軍団から1個歩兵旅団がレモンヴィル(バントゥヴィルの北西5.5キロ)まで前進し、騎兵の後援をするよう命じられたのでした。
しかし28日夜半、マランクール在のマース軍本営には前述の「シャロン軍西進」に反する情報が相次いで到着し、アルベルト王子はマース軍の29日における行動を保留し、もっと詳細な情報が騎兵よりもたらされるまで行動を待とう、と考えます。内心では大本営が命じる通り、29日朝に麾下3個軍団をビュザンシーからヌアールまでのビュザンシー街道線まで前進させたかった王子ですが、大本営より「第三軍の諸隊が前進するまで防御態勢でいる」方針の前日午後11時発の命令(前節参照)が午前4時に到着し、マース軍本営は早速次の命令を麾下に発したのでした。
「近衛軍団はレモンヴィルに進む前衛を同地に留め置き、バール川方面を偵察する近衛騎兵師団を援助せよ。同軍団主力はバントゥヴィル周辺に防御陣地を設営せよ。第12軍団はデュン付近でムーズを渡河しクレリ=ル=グラン(デュンの南西3キロ)からエンクルヴィル(バントゥヴィルの東北東2.5キロ)に掛けて展開せよ。騎兵第12師団は前衛をヴィレ=ドゥヴァン=デュン(エンクルヴィルの北3キロ)に派出しここを拠点にヌアール方面を偵察せよ。第48旅団(シュルツ支隊)はストゥネ~デュン間を監視し、場合によっては(敵が接近していなければ)本隊に向かってもよろしい。第4軍団はナンティヨワ(マランクールの北北西7キロ)より北方へ前進せよ。各軍団長は今後の行動方針を受領するため(29日)午前8時にエンクルヴィル南方高地上まで集合されたい」
この命令の発送と同時に、ビュザンシーに進出していた近衛槍騎兵第3連隊第4中隊長のアルトゥール・ツィンメルマン大尉(第1次大戦当時の外相とは別人です)は、中隊を率いてビュザンシー西の近衛部隊前哨線を抜け、夜明け時にアリクールからバール川方面を偵察しましたが全く敵を認めませんでした。そこで大尉は士官数名に命じ、ソモト(ビュザンシーの北7.5キロ)とジェルモン(ビュザンシーの西5.5キロ)方面にそれぞれ斥候を出し、仏軍の「去った」方向を探知しようとするのです。
午前8時。第12、近衛、第4の各軍団長は少数の幕僚参謀を引き連れてエンクルヴィル南方高地にやって来ました。
この時、近衛軍団長アウグスト・ヴュルテンベルク王子は近衛騎兵が深夜偵察した最前線の状況を報告し、第4軍団長のグスタフ・アルヴェンスレーヴェン将軍は「軍団はナンティヨワの北方に既に進出した」と告げました。
ザクセン(第12)軍団長のゲオルグ・ザクセン王子は、「ライター騎兵第2連隊の斥候たちは昨夜、ヴォー=アン=デュレ(ビュザンシーの北北東6.5キロ)周辺の森以外を偵察することが出来ずにいたので、ザクセン騎兵師団にはヌアールまで前進することを命じ、第12軍団前衛には一時間前(午前7時)にデュルコン(デュンの西南西1.5キロ。ムーズ川西岸)よりヴィレ=ドゥヴァン=デュンに向けて進発させた。第12軍団の本隊は命令通りの場所(クレリ=ル=グラン~エンクルヴィル)に既に展開している」と高地北側のエンクルヴィル部落を示し、「シュルツ支隊はこの地まで行軍させるが、正午前後まで掛かる。ストゥネにはライター騎兵第2連隊の3個中隊を残留させている」と報告するのです。
兄は弟の「一歩先を行く行動(ヌアールへの前進)」の報告に満足げに頷くと、これを追認しました。
アルベルト王子は軍団長たちの報告を吟味して、まずは「敵左翼(東)側で喪失した敵との接触を回復」し「特にボーモン付近がどうなっているのか明らかにする」のが緊急の課題、と語ります。
このためには、「マース軍本隊がビュザンシー街道の線まで前進」する必要があり、これは「普大本営が考える戦略にも相反しない」としたのでした。この裏にあるのは、「目下の状況では、この程度の前進は敵を煽ることにはならないだろう」という王子の自信(仏軍の戦意の低さを読んでいます)があったのでした。
この主旨からアルベルト王子は本日の行軍命令を伝達します。
「近衛騎兵師団はビュザンシーからブ=オー=ボワ(ビュザンシーの西8キロ)まで西進して敵の所在を確認後、転進してオート(ブ=オー=ボワの北東4キロ)を経てル・シェーヌからボーモンに至る街道(ほぼ現在の国道D30号線。以降ボーモン街道とします)に進み、状況を見てボーモンへ向かえ」
「近衛第1師団と軍団砲兵はビュザンシーへ、近衛第2師団はテルーノグ(ビュザンシーの南西3キロ)へそれぞれ前進せよ」
「騎兵第12師団はヌアール及びオシュ(ビュザンシーの北北西9キロ)を経てボーモン街道へ進み、第12軍団の前衛もまたこれに続行せよ。軍団本隊はヌアールへ進め」
「第4軍団はレモンヴィル及びバイオンヴィルまで前進せよ」
王子は命令を伝達した後、独軍でも勇気と意志の強いことで知られる、従って「アク」の強い3名の軍団長を一人一人見据えると、「特に強調するが、本日の行軍は全てにおいて斥候活動であり、大規模な偵察に過ぎない。大本営の真意は、明日を以て真の総攻撃を開始することである、と言うことをくれぐれも忘れないように」と、まかり間違っても独断で大会戦を惹起せぬよう訓辞した後、解散を命じたのです。
マース軍本営はこの後、この方針を大本営に伝達するため伝令士官を送る(午前9時に到着しました)とバイオンヴィルに本営を構えるのでした。
◯ 普近衛軍団
軍団長がエンクルヴィルへ会議に行っている間、軍団はビュザンシー方面へ前進を続けました。ビュザンシーで一夜を明かした前哨の歩騎兵たちは夜明け前から引き続き斥候活動に勤しみます。
中隊長ツィンメルマン大尉の命によりソモトへ向かった近衛槍騎兵第3連隊第4中隊の斥候たちは、同地に旅団規模の敵歩兵が数個中隊の騎兵と共に休息していることを発見し報告しました。
同じく斥候に出た同中隊の男爵フォン・プレッセン少尉は、ジェルモンを目標にビュザンシー街道を西進中、1台の馬車に遭遇します。少尉が御者に銃を突き付けると、馬車の中から手を上げて出て来たのは仏シャロン軍後方担当幕僚の主計士官でした。少尉が彼らを捕虜にして引き上げようとすると、突然、仏軍の猟騎兵が襲い掛かって来ます。たった数騎では適わないと感じた少尉は馬車を引き連れ、街道を東へと逃走を図りますが僅かの後、幸運にも同僚の槍騎兵前哨中隊に出会い、直ちに応援を得て小隊規模の敵騎兵を蹴散らすことに成功、数名の捕虜を得ます。すると捕虜の中に飾緒を付けた立派な出で立ちの士官がおり、尋問するとマクマオン本営の参謀士官、ドゥ・グルーシー侯爵と分かるのです。
仏猟騎兵(エドゥアール・デタイユ画)
グルーシー参謀は、仏第5軍団へマクマオン将軍の命令を伝達するため向かっていたもので、ファイー将軍に宛てた本日の命令書を携えていました。また、シャロン軍のここ数日の行軍を記した書簡も持っており、若き侯爵はこれらを破棄する間もなく捕虜となってしまったのでした。
前哨槍騎兵中隊の一部は逃げた仏軍猟騎兵をジェルモンまで追いますが、この部落周辺やブ=オー=ボワ付近には未だに多くの敵歩騎兵が野営中(これは昨日、結局は第5軍団に続行出来なかった仏第7軍団です)で、彼らは急ぎ引き返してこれを報告したのです。
昨夜からビュザンシーの東へ斥候を送り続けている近衛槍騎兵第1連隊の1斥候は、早朝ヌアール付近で同じく早朝の偵察行に出たザクセン・ライター騎兵斥候と出会い、一緒に北上しましたが、ヌアールの北において仏軍の伏兵から激しい銃撃を浴び、慌てて引き返すのでした。
29日午前中、近衛第1師団前衛と近衛騎兵師団本隊は、ビュザンシー西郊のバール(=レ=ビュザンシー)に到着しました。彼らが拠点を構えている最中、ジェルモン方面から仏軍騎兵1個中隊がやって来ましたが、これは直ちに撃退されました。多分プレッセン少尉に連れ去られた本営士官を探しに出たものでしょう。
この後、近衛騎兵はアリクールの北に集合して野営待機となり、歩兵はバールとアリクール部落に宿営しました。
師団本隊と軍団砲兵は正午頃、ビュザンシーに到着しています。
近衛第2師団の先頭を行く師団騎兵の近衛槍騎兵第2連隊は、テルーノグへの行軍途中、駆け付けた同僚槍騎兵第3連隊の伝令より「ブ=オー=ボワに敵集団がいるので注意するよう」に言われ、また別の伝令から「敵の本隊はオートリュシュ(ブ=オー=ボワの東北東5キロ)へ向かって行軍を始めたようだ」と告げられました。
近衛槍騎兵第1連隊のフォン・ショルテン大尉は連隊より2個中隊を率い、この仏第7軍団の行軍を追跡しました。大尉は昼過ぎになって前線から「敵はサン=ピエルモン(ビュザンシーの北6.5キロ)付近に野営を始めた」と報告を送ったのです。
こうして正午頃、近衛軍団は野営の僅か数キロ西で仏1個(第7)軍団の行軍を発見し、相前後して東方のヌアール方面から連続する砲声を聞きつけました。軍団長のアウグスト王子は近衛第1師団から近衛驃騎兵連隊を呼び、「ヌアール方面に進んでザクセン軍団と連絡を付け、状況を探るよう」命じます。
ここに王子は「どちらかと戦う」か、はたまた「何もしない」のかで迷うこととなりました。
僅か十日ほど前のサン=プリヴァ戦において、不利を承知で麾下軍団を死地へ進めた「見敵必戦」の鬼将軍が迷う姿は、いかにサン=プリヴァの戦場が近衛軍団にとって過酷だったかの「裏返し」なのかも知れません。
午後1時45分、アウグスト王子はこの時点で集まっていた情報をまとめ、それと一緒に「命令を乞う」と軍本営へ伝令を送るのでした。
無闇に突進することの非を認めた王子は、大本営の戦略も考え、自身の「東の敵に向かえばビュザンシーを空けることとなり、西に向かえば敵の数が未知数で戦況が不利となる可能性がある」との意見も添え、4年前は恐るべき敵だったアルベルト王子に「どうすべきか」と問いかけたのです。
アルベルト王子の返答は素早く、午後2時15分にアウグスト王子の下に届きました。
「本日は単にバールとビュザンシーの陣地を維持するだけで結構です。ただし、騎兵は敵との接触を保つよう努めて下さい。もし敵が退却したら攻撃せず接触のみを願います。また、ヌアール方面の戦闘もこれ以上拡大しない限り貴軍団を参入させるつもりはありません」
これを読んだアウグスト王子は内心ほっとしたのではないでしょうか。
アウグスト・ヴュルテンベルク王子
王子は近衛騎兵第1旅団を既に驃騎兵連隊が向かっていたヌアールに増援として送ります。しかし近衛の誇り高き騎兵たちも行く手を数倍する仏軍歩兵の散兵線に阻まれ、フォセ(ビュザンシーの北東4キロ)より先に進むことが出来ませんでした。フリードリヒ・フォン・ブランデンブルク旅団長が本隊より北へ迂回させた近衛教導騎兵(ガルド・ドゥ・コール)連隊の1個中隊もヴォー=アン=デュレの南西付近で仏軍歩兵部隊と遭遇し、戦闘となっていたのです。
☆ 仏シャロン軍
28日の夕刻、ストンヌに到着した仏大本営に届いた情報によれば、「ストゥネには1万5千に及ぶザクセン軍がおり、ムーズの橋梁も破壊されてしまった」とのことでした。退却行が続いた軍団と後方予備から出来上がったシャロン軍には架橋資材が一切ありません。しかも他にも悪い知らせがあり、「独軍は前衛がビュザンシー街道まで進み、その一部は既に街道の北側にまで進んでいる」とのことでした。
これによりマクマオン大将はストゥネへ向かう行軍を止め、北へ進んでムーゾン(ボーモンの北7.5キロ)並びに下流のルミリー(=イクール。ムーソンの北西8キロ)周辺の橋梁からムーズを渡河し、一旦カリニャン(ムーソンの東北東7キロ)へ進んでからシエール川沿いにメッスを目指そう、とするのです。
28日深夜、シャロン軍本営は翌日の行軍命令を発します。それによれば、「29日中に第1軍団はロクール(=エ=フラバ。ムーゾンの西8.5キロ)に、第12軍団はムーゾンに、第7軍団はラ・ブサスへ、第5軍団はボーモンに、それぞれ至り」マクマオン大将は「30日中には全軍がムーズを渡河すること」を望んでいる、とするのでした。
翌29日。仏第1と第12軍団、そして2個予備騎兵師団は苦労しながらも予定の行軍を成しました。
◯ 仏第1軍団
輜重縦列が先行していたこの軍団は、混乱し渋滞する車両の整理と収容に手間取り、しばらくはル・シェーヌから北東へ延びる街道上で停滞していました。その後、何とか整理を付けた軍団は急ぎ行軍し、日没時に目的地ロクールへ到着するのです。
後衛となったラルティーグ少将の師団は、一時独軍の騎兵に追跡され行軍は遅れに遅れますが、夜半近くとなってようやくロクールに入りました。
◯ ボヌマン騎兵師団
第1軍団に追従し、夕刻、軍団と共にロクールへ到着し、その周辺で野営しました。
◯ 仏第12軍団
比較的混乱少なく行軍し、午後早い時間にはムーゾンに到着します。夕刻にムーズを渡河して東岸に進み、一部は東方のカリニャンへ向かう街道沿い、一部は南東側ストゥネに向かう街道沿いに展開し野営しました。
◯ マルグリット騎兵師団
ヴィレ=ドゥヴァン=ムーゾン(ムーゾンの北西4キロ。ムーズ河畔西岸)に進んで付近の浅瀬(渡渉堰)から東岸へ渡りました。その後、川沿いに上流(南東方)へ進み、ムーゾン及びカリニャンへの中間点ヴォー=レ=ムーゾン(ムーゾンの東4キロ)で野営しました。
北側の部隊とは対照的に、南側の仏軍2個軍団にとって、この29日も困難の連続となりました。
◯ 仏第7軍団
午前10時、ブ=オー=ボワ周辺の野営を出立し、疲弊し切った行軍列は正しく牛の歩みで北東方へ進みますが、途中「3万の独軍がベルヴィル(=エ=シャティオン=シュル=バール)にいる」との斥候報告が入り、行軍縦列に緊張が走りました。しかし僅かの後にこの報告は誤認であることが分かり、敵と見えたのは同僚ファイー第5軍団の後衛で、斥候が遭遇した独軍部隊も単なる騎兵数個中隊に過ぎず、第7軍団の周辺をうるさい蠅よろしく徘徊し行軍の妨害をしようとしているだけ、と判明するのです。
しかし、この噂と独騎兵の頻繁な接触は第7軍団将兵の気力を削ぎ、また今度こそ確実な「ビュザンシーには普近衛軍団がいる」との報告が届くと、軍団の行軍縦列は街道から外れて泥濘の荒野や山林を進むこととなってしまい、予定より恐ろしいほどの遅れとなってしまいました。
これにより軍団長ドゥエー将軍は29日中のラ・ブサス到着を諦め、午後になって行軍を止め、サン=ピエルモンとオシュに野営を築かせ、兵を休ませたのでした。
◯ 仏第5軍団
ファイー軍団長はマクマオン将軍からの29日における行軍命令を受け取ることはありませんでした。何故ならば、前述通り命令を運んでいた本営のドゥ・グルーシー参謀が普軍騎兵の捕虜となったためでした。
夜が明け、日が昇っても命令が届かない軍団本営は焦り始めます。独軍が直ぐそこまで迫っていると考えていたファイー将軍は痺れを切らし、午前10時、命令がないまま軍団を各隊2個縦列にさせ、野営地のシャトー・ベルヴァル(ヌアールの北北西4.5キロ)並びにボワ=デ=ダム(ヌアールの北3.5キロ)からボーフォール(=アン=アルゴンヌ。ヌアールの北東6キロ)並びにボークレー(ヌアールの東北東5キロ)を仮の目標として出発させるのです。
とりあえずストゥネ方面でムーズを渡河するとの方針に変更はないだろう、と考えたファイー将軍は、ムーズ西岸の二つの部落を拠点にして、マクマオン将軍からの「ストゥネ進撃」命令を待とうとしたのでした。
しかし、その行軍先には既にザクセン軍団が到着し、その前衛は正にファイー軍団の行軍列先頭と衝突する運命にあったのです。




