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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・運命のセダン
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8月28日(前)シャロン軍の迷走

 ☆仏シャロン軍


 8月27日夕刻。

 緊迫感に溢れ混乱に終始した一日が暮れました。仏シャロン軍司令官パトリス・ドゥ・マクマオン大将はル・シェーヌに置いた本営で、ファイー第5軍団とドゥエー第7軍団がこの日、独軍騎兵によって頻繁に接触されたことを知り、斥候たちの報告によれば、それは主として「普皇太子の第三軍」所属騎兵で、一部ザクセン王子の騎兵も混じっていた、とのことでした。そのザクセン王子の「マース軍」と称する軍は、ベルダン周辺からビュザンシー周辺にまで進出し、シャロン軍の進路を妨害する位置まで達したことも確認されるのです。


 しかしこの夕方、マクマオン大将の頭は独軍の脅威より別のことで一杯となっていました。

 将軍は本営に届いたもうひとつの重大な報告、2日遅れの情報を前にして衝撃を受けていたのです。

「8月25日において、バゼーヌ大将率いるライン軍はメッスにあり」


 「最早ここまで」

 24日来、モンメディ目指して行軍しているものとマクマオンが信じていたバゼーヌ軍15万は、メッスから一歩も動くことがなかったのです。大将は怒りを内に、バゼーヌ軍との合同を諦める決意をします。


 シャロン軍がこのまま東進を続け、ムーズ川を渡河してモーゼル川に向かえば、軍の正面にヴィルヘルム王の甥(カール王子)が率いるメッス攻囲軍を迎えることとなり、そのモーゼル川西岸に展開する部隊から真っ先に攻撃されることは必至で、前(東)を抑えられた軍の背後(西)からは普皇太子率いる軍が迫り、パリへの退路が塞がれることもまた必然となったのです。

 マクマオン将軍は、この巨大な「罠」から逃れるには直ちに北西方向へ転進するしかない、と考え、まずはシャルルヴィル=メジエール(ル・シェーヌの北28キロ)を目標に進むことに決するのでした。


 大将の命令は直ちに発せられます。

「明28日、シャロン軍は以下の行軍をなす。第1軍団はマゼルニー(ル・シェーヌの北西15キロ)へ、第12軍団はヴァンドゥレス(ル・シェーヌの北北東10キロ)へ、第5軍団はポア=テロン(ル・シェーヌの北西17.5キロ)へ、第7軍団はシャニー(ル・シェーヌの北西8キロ)へ、それぞれ到達せよ。特に第1軍団はこの命令を受領次第、その輜重を直ちにマゼルニーに向け先発させよ」


 マクマオン将軍は、命令を発し終えた後の午後8時30分、何かと「煩い」政府に対して行動の釈明をする電信(陸軍大臣としてのパリカオ伯宛)を発します。


「今宵得た情報によれば、20万以上の独軍がメッスを包囲し、5万の独軍がシャロン軍の前方、ムーズ西岸に進出しております。更に普皇太子の軍のうち5万がアルデンヌへ行軍中とのことです。本官は10万を超える軍と共にル・シェーヌにおりますが、19日以降のライン(バゼーヌ)軍の行動を知り得ません。このままではシャロン軍は正面よりメッスを包囲する独軍により攻撃を受け、背後から普皇太子の軍の攻撃を受けてしまい、そうなれば退路なく挟撃されてしまいます。本官は以上の理由により、明日メジエールを目指して進み、状況によっては更に退いて、最終的には西へ進む予定でおります」


 対する返信は素早く、日付が変わった直後の28日午前1時、マクマオン将軍の下に届けられました。宛先は何故か「ナポレオン3世皇帝陛下」となっており、マクマオン将軍は眉を潜めつつ電文を読むのです。

 その主旨は、「万が一皇帝がバゼーヌ軍を見捨てた場合、必ずパリで革命が発生し、皇帝とシャロン軍もまた救援もなく敵から攻撃を受けることになる」「パリの防御体制は既に整っており、各堡塁・砲台・要塞とも補強工事が完了したので、今やシャロン軍が速やかにバゼーヌ軍と合流することが軍における最大の目的となる」「パリでは誰もがバゼーヌを救援することの必要性を感じており、今後の皇帝の行動を心配かつ注目している」


 パリカオ政権はマクマオンが再びパリへの帰還を匂わせたことに怒り、しかも「軍事的に妥当」であったとしても敵前で「退却」することが今、どんなに「帝政にとって危険」であるのかを省みないマクマオンに対し不信感一杯となったのでした。そのため返信電文の宛先を「皇帝」とし、マクマオンが逆らえない皇帝の権威を以てメッスへ行軍する命令を出させようとしたのでした。


 返信にはマクマオンが得た情報に対する「反論」もあり、それによれば、「現在シャロンにいるのは普皇太子の軍ではなく、ヴィルヘルム王の末弟アルブレヒトの部隊(騎兵第4師団)」「確かに普皇太子の軍はシャロン軍を追っているが、マクマオン大将はこれに対し行軍時間にして36から48時間離れている」「メッスを包囲するカールの軍でシャロン軍に対することが出来るのはほんの一部」「その包囲軍は、シャロンより一旦ランスへ動いたシャロン軍の行動に欺瞞されて兵力を分散し、メッスの西からアルゴンヌ山地の東まで広く分散配置されている(多分、普第2と第3軍団の動きをそう捉えたのでしょう)」とのことでした。


 28日午後3時近く。マクマオン大将の下に再びパリより「重大な」電信が届けられました。午後1時30分にパリ陸軍省から発せられたこの「命令電信」は、マクマオン将軍の「やる気」を最終的に殺ぐこととなります。


「内閣と元老院の名によりマクマオン将軍に要求する。貴官は直ちにバゼーヌ軍を救援すべく出立せよ。シャロン軍は普皇太子軍より行軍30時間はメッスに対し先行している。なお、陸軍省は(シャロン軍の後方を援護しつつ合流するため)ランスにヴィノワ将軍麾下の第13軍団を派遣することに決した」


 マクマオン大将はきっと、「ぷっつりと糸が切れた」感覚を味わったのではないでしょうか。それはフランスという国が自ら進んで「敗北への道」を歩むことになる瞬間とも言えました。

 将軍は遂に「軍事的には正しい道」を捨て去り「政治的に正しい道」を進むこととなったのです。

 

 28日午後3時過ぎ。シャロン軍本営は行軍命令の変更を発令しました。

 しかし、この時には既に各軍団は昨夕の命令を実行中で、しかも輜重を先行させた部隊(第1軍団)もあり、それが一斉に方向を変えるのですから、その混乱の度合いは昨日における命令変更の比ではありません。

 街道筋では進む部隊と引き返す部隊が衝突して大渋滞が発生し、脇道では我先に急ぐ行軍縦列同士が交差して混乱を招き、しかもこの数日続いている大雨のため泥濘は極まって、そこに幾度も往復を繰り返す行軍のため道という道は掘り返されて泥沼状となり、兵士も馬匹もほんの僅かの行軍で疲弊し切ってしまうのでした。

 ただでさえ士気の衰えた軍は、殆ど兵を脅すようにして行軍させる士官を含め、即時の戦闘など不可能な部隊も多く見受けられ、連日連夜「右往左往」させられる高級指揮官たちもマクマオン将軍の采配に疑問を持ち始めるのでした。

 各軍団の変更目的地到着は当然のことながら遅れ、28日深夜から29日明け方となった部隊もありました。これほど苦労した行軍であっても再び逆戻りに近い状態であったため、27日の野営地からほんの数キロから10キロ足らずしか「前進」していない部隊が続出していたのです。


挿絵(By みてみん)

敵を観察する仏軍斥候


◯仏第1軍団


 28日朝に野営地のヴォンクより出立し、ル・シェーヌに至ったところで休憩中、行き先を「マゼルニーからル・シェーヌへ変更せよ」との命令を受領し、そのまま宿営と一部は野営に入りました。しかし、輜重は既に北方へ進んでおり、泥濘の街道を引き返しために大幅な渋滞を招く原因となります。


◯仏第12軍団


 マクマオン将軍の本営と一緒にいたこの軍団は、同僚第1軍団が近付いた28日午後2時にル・シェーヌを出立し、ヴァンドゥレス目指して北西へ向かいますが、3時過ぎ、「行軍方向をストゥネ方面に変更しラ・ブサス(ビュザンシーの北14.5キロ)を新目的地とする。同地よりボーモン方面を監視せよ」との主旨の命令が届き、そのまま東進してラ・ブサスに達すると、軍団長のルブロン将軍は別命でソモト(ストゥネの西15キロ)へ移動したマルグリット騎兵師団に代わって軍団所属師団の騎兵をボーモンへ派遣し、同時にムーズ川方面を偵察させるのでした。


◯仏第7軍団


 2日間に渡ってヴージエ周辺で敵騎兵と相対したドゥエー将軍は、この日午前中から野営を撤去して移動を開始し、まずはキャトル=シャン(ヴージエの北東7キロ)に至り、ここで大休憩を取りました。午後3時を過ぎると砲声が東より聞こえ始め、午後4時になってル・シェーヌの本営より「砲声の方角へ進め」との命令を持って伝令が来着し、ドゥエー将軍は軍団をブ=オー=ボワ(ビュザンシーの西8キロ)まで東へ進めました。ここで「普近衛軍団と第11軍団がビュザンシー付近に進んで来た」との誤報に接するのです。この後、東に並んだ第5軍団がムーズ川へ進むと同時に「第5軍団に続行し、場合によってはファイー将軍の指揮下に入れ」との命令を受け、第5軍団の西側に沿う形で後続しようとしたのでした。


◯仏第5軍団


 北西方向へどの軍団よりも遠く進む命令を受けたこの軍団は、早朝、ブリユ(=シュル=バール)とシャティオンの野営を払ってまずは南へ進みます。これは、そのまま細い街道をル・シェーヌまで進むと、第1と第12軍団の行軍列に衝突してしまうため、まずは南へ迂回しストゥネ~ビュザンシー~ヴージエの本街道(現国道D947号線。以降「ビュザンシー街道」とします)へ出ようとした行動でした。

 ところが、街道沿いのアリクール(ビュザンシーの西北西2キロ)とブ=オー=ボワへ接近すると、「諸兵科連合の独大軍がビュザンシーの後方(南)にあり」との報告が届き、また、ビュザンシーの西郊外で独軍騎兵と接触、砲撃にまで発展する(後述)など緊迫した事態になりました。これにより、軍団長のファイー将軍は軍団をバール川沿いから南のマルメイゾンとブリックネの森林高地(ブ=オー=ボワ南側の森林地帯)まで進ませ、待機させます。ところが「独の大軍迫る」という情報は早とちりの誤報とされて取り消され、直後マクマオン将軍の本営より「28日中に出来る限りムーズ川方面へ前進せよ」との命令が届くのです。


 ファイー将軍は「独軍が至近に迫っており、ビュザンシーにその前衛がいる状況では、ビュザンシー街道をストゥネ方面へ進むのは困難」と断じ、迂回してソモトを経由してストゥネ方面へ進むことに決し、午後3時過ぎに軍団はソモト目指して行軍を再開し、黄昏時にシャトー・ベルヴァル(ビュザンシーの北東7キロ)とその南東1.5キロのボア・デ・ダム部落に到着してこの日は野営に入るのでした。

 この行軍援護のため、エルネスト・ルイ・マリエ・モーソン准将(ちょうどこの28日に少将へ昇進し、隊を離れます)の旅団(軍団第2師団第2旅団)は軍団援護のためしばらくの間バール(=レ=ビュザンシー。ビュザンシー西郊外1キロ)付近に残留し、夜となってから軍団を追ってシャトー・ベルヴァルに進むのでした。


◯マルグリット騎兵師団


 前述通りボーモンからソモト(ストゥネの西15キロ)へ移動しました。


◯ボヌマン騎兵師団


 ちょうど第1軍団(ラ・シェーヌ在)と第12軍団(ラ・ブサス在)の中間、レ・グランド=アルモワーズ(ル・シェーヌの東9.5キロ)付近に進みました。


◯シャロン軍本営(仏大本営)


 第12軍団に続いてストンヌ(ラ・ブサスの西2.5キロ)へ移動しました。


挿絵(By みてみん)

 仏軍戦列歩兵


☆ 独マース軍


 アルベルト・ザクセン王子は普大本営が定めた行軍計画に従い、麾下3個(第12、近衛、第4)軍団に対し27日夜、翌28日の行軍命令を発令しました。


 まず、デュンとストゥネのムーズ渡河地点に待機となった第12軍団に対し、「マース軍がムーズ西岸に集合することとなったので」ストゥネ付近の橋梁を撤去してしまったのであれば、直ちに架橋作業をせよ、と命じました。

 騎兵第12師団は、「ヌアールを拠点に前衛をボーモンへ前進」させ、近衛騎兵師団は、「レモンヴィルとビュザンシー間に進み、ビュザンシーを占領せよ」と命じられ、「ザクセン騎兵に協力し絶えず敵との接触を保つ」よう要求されます。

 また、アルベルト王子は指揮下を離れた騎兵第5と同第6師団に対し、「追って普皇太子より命令があるまで」は「敵の右翼(西)側との接触を保ち、敵が動けばこれを追跡するよう」「但し敵を圧迫し過ぎて攻撃に転じさせないように注意し」「しばらくの間は、マース軍の左翼(西側)となる近衛騎兵師団との連絡を維持するよう」要求したでした。


 これによってビュザンシー街道は正に独仏の軍事境界線と化します。しかし、仏シャロン軍の2個(第5と第7)軍団は28日、前述の通りこの本街道を行軍しようとしますが、独軍が迫っていると信じられる南側に対し遠深斥候や強行偵察を行わない内に北へ転じ、独軍側は4個(5,6,近衛,12)騎兵師団がこの街道沿いを偵察し、更にその北に向けて斥候を出すも、大した妨害を受けることはありませんでした。

 従ってこの28日は、独側に仏シャロン軍の行軍とその規模が次第に見えて来たのとは対照的に、仏側では、迫る独軍の様子が、折しも降りしきる雨の向こうに霞んで見えていただけとなったのです。

 但し、この悪天候のため見通しが悪かったことと、仏統帥部の度重なる命令変更による行軍の「右往左往」とが原因となり、独側は仏軍の意図を図りかね、また敵情を誤解することもあったのでした。


◯騎兵第6師団


 28日早朝の午前3時、ヴージエを目前とする前哨より「ヴージエ付近にある敵野営の灯火が消失し、この地域に野営していた敵軍は少時南下した後に北方へ向けて退却に移った」との至急報が在モントワの師団本営に届きます。師団長のヴィルヘルム・メクレンブルク王子は午前5時30分、師団全体をヴージエに向けて進発させました。

 先頭となった槍騎兵第15連隊はヴージエ市街に突入すると、仏第7軍団の後衛に遭遇します。短時間の戦闘後、仏後衛は退却に移り、これを追った普軍槍騎兵はバレ(ヴージエの北東5キロ)の郊外で街道の先・キャトル=シャン方面に広がる仏軍の大野営を発見したのでした。連隊は直ちに引き返しこれを報告します。


 師団本隊は一時ヴージエに駐留する事に決し、斥候を北のヴォンク(ヴージエの北北西8.5キロ)と北西のアティニー(ヴージエの北西12.5キロ)に対し放つのでした。これらの斥候は午後4時を過ぎて帰還し、アティニー周辺には敵影を見なかったものの、ヴォンクには午後になっても未だ仏歩兵約6個大隊に中隊規模の騎兵と砲兵が待機している、と報告しました。

 ヴォンクを偵察した斥候は更に「住民の尋問によれば歩兵6個大隊はル・シェーヌに向かった軍団の後衛とのこと」と報告するのです。

 また、アティニーから戻った斥候は「8月23日来仏軍1万2千がアティニーを通過し、皇帝ナポレオン3世とマクマオン大将は4個軍団を率いてムーズ河畔のストゥネにいる」との噂が周辺住民の間で流布している、とも報告するのでした。

 これらの報告は(誤認も含めて)全て28日中に普大本営に送付されました。


挿絵(By みてみん)

 普軍槍騎兵の斥候



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