8月27日・ビュザンシー騎兵戦とムーズ西岸迎撃案
☆仏シャロン軍
マクマオン大将は、仏第7軍団からの「グランプレに独軍が進出し、いつヴージエに現れてもおかしくはない」という前日深夜の報告により、27日早朝、仏第1軍団に対し「ヴージエに向かいドゥエー第7軍団を救援せよ」と命じ、仏第5軍団には「ビュザンシーを確保せよ」と命じました。また、自身が行動を共にしている仏第12軍団をル・シェーヌ(ヴージエの北北東13.5キロ)経由でシャティオン(ベルヴィル=エ=シャティオン=シュル=バール。ビュザンシーの北北西10.5キロ)に向け出立させ、第5軍団に続行させたのでした。
ところが、トゥルトロンから出発直前のマクマオン将軍の下に午前8時、「グランプレは未だ独軍の手にあらず。第7軍団も未だ攻撃されず」との報告が届くのです。将軍は、無駄な動きをさせてしまった、と慌てて早朝の命令を取り消し、当初の目標地点よりかなり手前の地点を新たな目的地として指示しますが、「遂に独軍と決戦」と緊張が漲った諸軍団は、取り消し命令を受け取った時には目標付近に迫っており、無情にもその場から北西方向へ転向(ほぼ逆戻り)させることとなってしまったのです。
ヴルトの戦いにおけるズアーブ第1連隊
これによって、シャロン軍は以下の通りの位置に達しました。
○仏第1軍団 「後衛」(逆戻りしたので「先」の方が後となります)はヴァンディー(ヴージエの北4キロ)、本隊はヴォンク(ヴージエの北北西8.5キロ)。
○仏第12軍団 「後衛」はシャティオン、本隊はル・シェーヌ。
○シャロン軍本営 ル・シェーヌ。
○第7軍団 ヴージエ付近(第3師団が早朝に戻り、本隊は前日のまま)
○ボヌメン騎兵師団 アティニー付近から動かず。
○マルグリット騎兵師団 ボーモン(=アン=アルゴンヌ。ビュザンシーの北東14.5キロ。ムーズ川西岸)。
ところが、取り消し・反転命令が達した時には既にビュザンシー郊外に進んでいた仏第5軍団は、その前衛が部落へ入って間もなく、独軍騎兵と戦闘状態に陥ってしまったのです。
☆独マース軍
アルベルト・ザクセン王太子は、マース軍がムーズを渡河してダンヴィエへ進むに当たって、その左翼と後方を警戒するため、26日深夜に以下の主旨の軍命令を発します。
「騎兵第6師団は明日(27日)ヴージエに進み、騎兵第5師団はグランプレ及びビュザンシーへ進み、それぞれ敵の東進を遅延させよ。マース軍各軍団の前進を援護するため、近衛騎兵師団はソムランス(グランプレの東8.5キロ)へ、ザクセン(第12)騎兵師団はランドル=エ=サン=ジョルジュ(グランプレの東10キロ)及びレモンヴィル(ランドルの北東4.5キロ)へ前進せよ。この騎兵4個師団が作る騎幕の後方において第12軍団はデュン(=シュル=ムーズ)付近でムーズ川を渡河し、同地及び北方のストゥネ付近の橋梁を西に対して守備確保せよ。近衛軍団はモンフォコン=ダルゴンヌ(デュンの南南西13キロ)へ、第4軍団はベルダン要塞の西へ進み、軍の計画(ムーズを渡河して東岸で決戦)を実施すべく努めるため、この行軍に必要となるムーズ川の架橋工事を27日中に施せ」
王子と本営は前線部隊との距離を縮めるため27日早朝移動を開始し、マランクール(クレルモン=アン=アルゴンヌの北東17キロ)に移転しました。
○第12「ザクセン王国」騎兵師団
この命令を受け、最初に動いたのはザクセン騎兵師団で、騎兵第23旅団は27日の午前早くにランドルに進み出ました。騎兵第24旅団から先行した槍騎兵第18連隊は、ビュザンシーからストゥネに至る街道を偵察するため北上し、ライター騎兵第3連隊は騎砲兵中隊と共にレモンヴィル付近に進み、前衛(騎兵3個小隊)をビュザンシーへ偵察に出すのでした。
すると、この騎兵前衛が午前11時にレモンヴィルへ戻り、「ビュザンシー郊外に敵騎兵1個連隊あり、また部落内にも敵あり」と告げたのです。
この仏軍は仏第5軍団の前衛で、この時(27日午前遅く)、軍団本隊はビュザンシーへの街道の途中を横切る小河川バール河畔(ビュザンシーの西5キロ付近)にありました。
軍団長のファイー中将は、騎兵師団長のブラオー少将に命じてビュザンシーへ先行させ、ブラオー将軍は本隊を部落西郊外に止めると猟騎兵第12連隊(ルイ・アドリアン・ドゥ・テュセ大佐)の半分(2個中隊)を部落南郊外に進めて警戒させ、他の部落出入り口は下馬した残り2個中隊の猟騎兵で固めるのでした。
この頃、北方街道を偵察したザクセンの槍騎兵第18連隊がレモンヴィルへ帰着します。騎兵第24旅団長フリードリヒ・モーリッツ・アドルフ・ゼンフ・フォン・ピルサッハ少将は、直前に得たライター騎兵の報告によって、集合した旅団全体でバイオンヴィル(レモンヴィルの西北西2.5キロ)に進み、様子を見てビュザンシーへ向かうことに決します。
ピルサッハ少将は旅団の前衛に赴くと騎上から「これから敵の猟騎兵を襲撃するために前進する」と声高々と命じ、開戦以来偵察斥候任務が続き、華々しい「マルス=ラ=トゥールの騎兵」話を聞いて焦燥感に襲われていたザクセン騎兵たちは頼もしい雄叫びを上げるのでした。
この前衛3個小隊は、ライター騎兵第3連隊の第1中隊から1個小隊と第3中隊(独公式戦史では第5となっていますが、第3の誤りかと思われます)から2個小隊が臨機に集合したものでした。彼らは第3中隊長フォン・ハルリング大尉が率い、直ちにビュザンシー近郊まで襲歩で進むと部落の南側にいた数倍する敵、仏軍の騎兵数個中隊を奇襲し、仏騎兵は直ちに部落内へ引き上げました。
ハルリング大尉はそのまま部落の入り口を襲い、下馬した仏猟騎兵の銃撃をものともせず、100騎ほどのザクセン軽騎兵は密集隊形のまま部落へ突入、たちまち市街にいた仏猟騎兵と格闘戦に陥ったのです。
しかし、ザクセン騎兵の5倍は多い仏猟騎兵の反撃は凄まじく、たちまちにしてザクセン騎兵は敗れ退却に移り、仏騎兵はこれを猛然と追い掛けました。
ザクセン・ライター騎兵を討ち取る仏猟騎兵の軍曹
ビュザンシーの郊外には、レモンヴィルから前衛を追って既にザクセン・ライター騎兵第3連隊の第1中隊残り3個小隊が駆け付けており、中隊長フォン・ヴォルフェルスドルフ大尉は、前衛を追う敵騎兵を見つけるや直ちにその左翼側を襲撃し、味方の登場に勇気を得て反転した前衛の3個小隊と共にビュザンシーへ撃退するのでした。
ところが、部落の仏騎兵はシャスポー騎銃を猛然と乱射し、追って来たザクセン騎兵を撥ねつけるのです。これでザクセン・ライター騎兵の6個小隊も反転し、部落の南200m余りで遮蔽を得て、その後は部落を監視するだけに落ち着きました。
ピルサッハ将軍は騎兵旅団本隊をシヴリー・レ・ビュザンシー(ビュザンシーの南南東3キロ)に留めると、ここで騎砲兵中隊を高地に展開させ、6門のクルップ4ポンド騎砲は直ちにビュザンシー部落内の仏軍騎兵に対し砲撃を始めます。
しかし、仏軍は既に退却を始めており、ザクセン騎砲兵も僅か数発を放っただけで目標を失ったのでした。
シヴリーからは、長距離偵察行から帰ったばかりでも元気一杯な槍騎兵第18連隊から第3中隊が追撃行に出発しましたが、これも遂に追い付くことは出来ませんでした。
ビュザンシーの戦いのザクセン・ライター騎兵第3連隊
ファイー将軍はこの戦いを知らされる前、マクマオン将軍の「取り消し命令」を受けると軍団を西へ転向し、この日は直前まで仏第12軍団がいたシャティオンと、その東北東2キロのブリユ=シュル=バールに至って宿営に入るのでした。
「ビュザンシーの騎兵戦」は午後1時に終了し、ザクセン側は両(ライター騎兵第3連隊第1と第3)中隊長が負傷した他、下士官兵32名・馬匹27頭が死傷、10名が捕虜となりましました。
仏猟騎兵第12連隊も12名が死傷し、連隊附士官のドゥ・ラ・ポルト中佐が銃創を負ってザクセン騎兵の捕虜となり、他に下士官兵12名も捕らわれの身となったのでした。
前日26日、同じザクセン・ライター騎兵第3連隊から出発し、北方のボーモン地方を偵察したフォン・エンデ少尉の斥候隊は、27日黎明時に仏軍騎兵巡視隊と遭遇しビュザンシーの南まで追撃を受けますが、かろうじてこれを振り切り帰還しました。
エンデ少尉によれば、第12軍団がこの日の目標の最北部としているストゥネの6キロ余り西には仏軍がいることが確実であり、第12軍団長ゲオルグ・ザクセン親王は、この報告をクレルモン在の普大本営へ送付すると同時に部下に対し、「速やかにストゥネ周辺部を偵察せよ」と命じたのです。
この命令を受けた騎兵第12師団はヌアール(ビュザンシーの東7キロ)を目標に進みますが、途中「ビュザンシー騎兵戦」により仏軍が後退した後、普騎兵第5師団所属の騎兵第13旅団がビュザンシー周辺に来着したので、混乱を避けるためにザクセン騎兵は一時行軍を止めました。午後5時再び行軍を開始した師団は、日没後にザクセン槍騎兵2個連隊はヌアール及びタイリー(ヌアールの東南東2.5キロ)へ、ライター騎兵2個連隊はバリクール(ヌアールの南1.5キロ)及びヴィレ=ドゥヴァン=デュン(デュン=シュル=ムーズの西北西5.5キロ)へ達するのでした。
ビュザンシーの騎兵戦
○近衛騎兵師団
北方へ進んだザクセン騎兵に代わっては近衛騎兵師団が前進し、午後に入って本隊はバントゥヴィルに、槍騎兵旅団はバイオンヴィルへ達します。
○騎兵第5師団
この師団は早朝、「敵はグランプレを後にした」との情報に接し、前衛からは、「黎明にヴージエへ向け発した斥候は、敵の若干部隊が今も北西方向へ進んでいるのを観察し、ヴージエ市街の南側から多数の民間人(護国軍?)により銃撃を受けた」との報告を受けるのです。
師団長フォン・ラインバーベン将軍は直ちに騎兵第11旅団に命じてグランプレに進ませ、その中より槍騎兵第13連隊が退却中の仏軍をボールペール(グランプレの西4.5キロ)からオリジー=プリマ(グランプレの西7キロ)まで追撃するのでした。
この槍騎兵の一部は斥候としてヴォングヴェ(ヴージエの東6キロ)周辺の森林地帯に進み、ここで仏第7軍団の本隊が構える野営を発見するのでした。
また、右翼(東)側に進んだ胸甲騎兵第4連隊半個(2個中隊)の前哨小隊はベフュ=エ=ル=モルトム(グランプレの北東3.5キロ)に進むと、その北西側の森の中で同じ仏軍の大集団を発見し、急ぎ師団本営へ報告を送ったのでした。
師団残りの2個旅団も午後になってグランプレを通過すると北東方向に進み、騎兵第13旅団は前述通りビュザンシーに到達し、騎兵第12旅団はシャンピニュ(グランプレの東北東4キロ)で宿営するのでした。
○騎兵第6師団
この日はヴージエに向けて出発する前、先述したランスより帰還した斥候士官の報告を受け、それによれば「ランスに正規軍と思える部隊がいる」ことと、「尋問した周辺住民の言によれば、強大な軍勢が3日前(24日)ルテルに向けて出発した、とのこと」でした。この報告は午前中普大本営に通達されます。
師団に先行した槍騎兵第15連隊の先鋒中隊はサヴィニー(=シュル=エーヌ。ヴージエの南南東4.5キロ)近郊で仏軍がヴージエ周辺に集合しているのを目撃し、「敵は数個師団」と報告しました。この連隊は北方を警戒しつつ、ヴージエ~サント=ムヌー街道を挟んでサヴィニーとサン=モレル(ヴージエの南6.5キロ)に野営しました。
槍騎兵第3連隊の1個中隊は15連隊より先にサヴィニーを占領した後、15連隊が進出するとこの地を立って、シュニー(ヴージエの南西5.5キロ)からスミード(ヴージエの西南西10.5キロ)郊外に達し、アティニー~シュイップ街道を監視します。
師団の主力はモントワに進んで、周辺に野営するのでした。
この日の午後、師団は本営に対し2回報告を送り、最初は「敵の1個軍団はヴージエ付近にあり。その南方、ラ=シャンブル=オー=ルー(ヴージエの南西2キロ)とファレーズ(ヴージエ南東3キロ)には各歩兵1個旅団と砲兵数個中隊あり」(午後10時大本営受領)、2回目は師団長メクレンブルク=シュヴェリーン大公国の親王フリードリヒ・ニコラウス・ヴィルヘルム・ツー・メクレンブルク公自らの観察として「敵は1個軍団強の兵力をヴージエ周辺に集合させている」ことと、「前哨が捕らえた数名の捕虜は、ドゥエー軍団の第52連隊と第82連隊の所属歩兵」と報告しています(28日午前9時大本営受領)。
○第12軍団
この日、ザクセン軍団は目標としたデュンとミリ(=シュル=ブラドン。デュンの北東2キロ)へ達し、ミリ近郊(北北西2キロ)ムーズ西岸のサセ(=シュル=ムーズ)でムーズ川に架かる橋を落としました。
軍団の前衛となったシュルツ少将の支隊(第48旅団・ライター騎兵第2連隊・軽砲第3中隊)は更に川沿いを下ってストゥネ近郊に達しました。
この辺りはムーズ川の水深が浅く、架橋しなくても渡河が可能で、ビュザンシー方面からの本街道もあって軍隊の渡河点としては非常に適した場所でした。
地形は東岸のストゥネ部落の方が西岸より低く、ストゥネ対岸のラヌヴィル(=シュル=ムーズ)部落の直ぐ西は深い森に覆われた急な斜面となっており、西からストゥネに向かう軍隊にとっては川があっても攻撃し易い場所と言えました。逆に言えばシュルツ少将の部隊は敵を迎えるにしては困難な場所に進むこととなったのですが、軍団命令では「ストゥネの渡河橋梁を西に対して守備確保せよ」となっていました。シュルツ将軍は敬愛する殿下の命令とあれば、不利であっても文字通りに守って遂行しようとします。
支隊は、ストゥネの市街地を占領すると防御拠点を設け、各橋梁にはバリケードを築き、横道にあった2、3の小橋梁はこれを破壊し川へ叩き落としたのでした。
その前衛は川を渡ってラヌヴィル部落周辺に散兵線を敷き野営しましたが、支隊が前衛に対して出ていた命令「ボーモン(=アン=アルゴンヌ。ストゥネの北西11キロ)方面を偵察せよ」との部分を「ボーフォール(=アン=アルゴンヌ。ストゥネの西南西6キロ)」と勘違いし、斥候隊は街道を西のボーフォールまで進んでしまい、ボーモン方面の偵察はなされないままとなるのです。
この頃、ストゥネでは一人のベルギー人がシュルツ将軍の本部を表敬しています。「一介の旅行者」と身分を示した男は「西から来た」と言い、「モンメディ(ストゥネの東13キロ。その東7キロで国境)を経て国へ帰る」とのことで、将軍たちの問いに対し、「騎兵将軍のマルグリットが3、4千人を率いてボーモン付近におり、ル・シェーヌとビュザンシーの間には8万ないし10万の仏軍がいる」と答えた後、「フィール・グリュック!(がんばれ)」と去って行ったのです。
この「謎の」ベルギー人は、正確な観察眼と中立国人とはいえ戦闘地帯を「旅行」するという姿から多分、潜入偵察に出たベルギーの軍人か身分を隠した従軍記者だったのではないか、と想像します。また、脅された訳でもなく独軍に仏軍の状況を知らせた訳ですから、独軍に「勝って欲しい」筋の人間だったのでしょう。
この日、シュルツ支隊からモンメディの偵察とショヴァンシー(=サン=テュベール。ストゥネの東北東9キロ)付近の停車場を破壊するために派出した斥候隊は、モンメディからやって来たと思われる仏軍部隊により停車場が守られていることを発見し報告しています。(これは2日前の25日にショヴァンシーの西北西4.5キロのラムイイ付近で、普騎兵第5師団の驃騎兵が鉄道橋を燃やしていることで警戒が厳重となった結果でしょう)
○近衛軍団並びに第4軍団
両軍団はムーズ川架橋の任務を受け、近衛軍団はモンフォコン=ダルゴンヌへ進んだ後に、ダンヌヴー(ベルダンの北北西19.5キロ)の東、シヴリー(=シュル=ムーズ)対岸に架橋し、第4軍団はジェルモンヴィル(ベルダンの西北西7.5キロ)とフロメレヴィル(=レ=ヴァロン。ベルダンの西7キロ)へ進み、シャルニー(=シュル=ムーズ。ベルダンの北北西5.5キロ)とヴァシュローヴィル(シャルニーの北1.5キロ)にそれぞれ架橋しました。これで両軍団はコンサンヴォワ(シヴリーの南4キロ)にあった常設橋と併せ4本の橋を持つこととなり、全軍速やかにムーズを渡河することが可能となったのでした。
この両軍団を偵察するため、ベルダン要塞から仏騎兵の小部隊がモンゼヴィル(フロメレヴィルの北西6キロ)まで前進して来ましたが、これは第4軍団の猟兵第4大隊と驃騎兵第12連隊が協力して撃退するのでした。
☆独第三軍
○ B軍
バイエルンの両軍団は、昨夜の到着の遅れから午後になって野営地を発し、この日も深夜半となってからニキエヴィル=ブレルクール(B第1軍団)及びドンバル=アン=アルゴンヌ(B第2軍団)へ到着しました。
ベルダン要塞に近いB第1軍団は、到着が夜間となったため警戒して要塞方面に前哨線を敷き、B第2軍団は1個旅団を大本営のいるクレルモン周辺に派出し野営させたのです。
トゥール要塞を攻撃していたフォン・ティールエック少将麾下のB第7旅団の3個大隊は、この日ドンバルで所属部隊に復帰します。所属替えもあり、B第8旅団所属のB猟兵第10大隊は、トゥールに割かれて員数の少なかった同第7旅団に派遣されていましたが、そのまま戻らずB第7旅団所属となりました。因みにトゥールに居残ったフォン・ヘーグ大佐の支隊(B第9連隊主幹)は、8月28日になってようやくヒッペル大佐の後備兵と交代し、北上を始めるのでした。
B槍騎兵旅団はシュイップからソムピー=タウール(シュイップの北13.5キロ)へと北上し、前衛をスミードまで進ませ、ここで前述の騎兵第6師団の騎兵と連絡しています。
この旅団はこの日夕刻、所属のB第2軍団に合流せよ、との命令を受けてそのまま夜間行軍に移り、東へ進んでルヴロワ=リポン(ソムピーの東13キロ)とセルネ=アン=ドルモワ(リポンの東2.5キロ)に至りました。
○第5軍団
・前衛 サント=ムヌー市街
・本隊 エリーズ=ドクール(サント=ムヌーの南南西5キロ)とシヴリー=アント(サント=ムヌーの南10キロ)
○第11軍団
・第22師団と軍団砲兵 ラ・ヌーヴィロー=ボワ(サント=ムヌーの南13.5キロ)とジヴリ=アルゴンヌ(ヌーヴィロの南2キロ)
・第21師団 本隊の西、エポンス(ヌーヴィロの西4キロ)とドマルタン=ヴァリモン(ヌーヴィロの西8キロ)
○W師団
・本隊 ル・ヴィエイユ=ダンピエール(ヌーヴィロの北1.5キロ)
・W騎兵旅団 ソンム=トゥルブ(サント=ムヌーの西16.5キロ)とティヨワ=エ=ベレ(ソンム=トゥルブの南南西10.5キロ)
○第6軍団 シャルモン(バール=ル=デュクの北西24キロ)付近
○騎兵第2師団 クール(ヴィトリーの西14キロ)
○騎兵第4師団 スアン(=ベルト=レ=ユリュ。シュイップの北6キロ)
第三軍本営は、ルヴィニー=シュル=オルネンに留まりました。
☆普大本営
昨日(26日)夕刻以来次々に集まる情報によって、クレルモン=アン=アルゴンヌ在の普大本営には仏シャロン軍の所在が明らかとなりました。
要すれば、騎兵第6師団の報告により「敵はランスよりルテルに向かった」ことを知って「敵の大集団がヴージエ付近にある」ことも知り、最も北方で仏軍に肉薄したザクセン騎兵によって「敵はグランプレを撤退した後、ビュザンシー及びボーモン付近に確認された」こと、騎兵第5師団により「敵はヴージエ周辺にある」ことを確認しました。
各騎兵師団の報告は総じて「ヴージエとビュザンシーの北に敵の大部隊がいる」ことを知らせていたのです。
この日大本営が最も関心を示した報告は、第23師団所属のライター騎兵第1連隊本部附でザクセン名門貴族家の子弟、フォン・カルロヴィッツ少尉が発したもので、「前(26)日、仏ボルダ旅団と仏驃騎兵第4連隊はグランプレで夜を明かし、早朝ヴージエ方面へ撤退した。その後、同驃騎兵連隊はビュザンシー方向へ出発した」との正確な部隊名まで入った報告でした。
普大本営はこれらの情報を総括し、「仏シャロン軍は一部がビュザンシー、また一部がボーモンを経て東へ進む予定だったものが、本27日、何らかの理由によって停滞し、未だムーズ川に到達出来ずにいる」との結論を得るのです。
また、デュンとストゥネの両ムーズ川有力渡河地点は既にザクセン軍団が占領し、マース軍並びに第三軍他軍団の現在地を考慮すれば、「ムーズ西岸に優勢な兵力を展開可能となり、仏軍を迎撃する公算が高まった」とするのでした。
モルトケはここで当初の「対シャロン軍ダンヴィエ(ムーズ東岸)迎撃案」を破棄し、また、「カール王子の軍(メッス攻囲軍)より派出する2個軍団の応援も要らなくなった」としたのです。
普参謀本部は、このモルトケの意向に従って大至急、現況に合致した「対シャロン軍ムーズ西岸迎撃案」を作成し、27日午後7時、以下の主旨の命令を発送するのでした。
「マース軍並びに第三軍諸軍団は明28日以降、ヴージエ~ビュザンシー~ボーモンの線を目標とし前進する。第三軍の第5、第6、第11の各軍団とW師団は、その各前衛を以て明28日はラヴァル(=シュル=トゥルブ。シュイップの東11キロ)~マルミー(サント=ムヌーの北北西11キロ。ラヴァルより北東へ11キロ)の線上に進み、29日にはソムピー=タウール~セショー(サント=ムヌーの北北西22キロ。ソムピーから東へ13キロ)線上へ進め。各軍団は極力集合し密集して行動せよ。騎兵第5と同第6師団は以降マース軍の指揮下を離れ、後命あるまで第三軍司令フリードリヒ皇太子の隷下としてその命令に服せよ」
この命令の発送と同時に、既に仏軍まで行軍1~2日に迫ったB軍とマース軍に対し、以下の行軍予定が配送されました。
○B第2軍団
28日/ドンバル=アン=アルゴンヌからクレルモンを経由してヴィエンヌ=ル=シャトー(サント=ムヌーの北11キロ)へ。
29日/グランプレ付近
○B第1軍団
28日/ニキエヴィル=ブレルクールから同じくヴィエンヌ=ル=シャトー方面へ進み、その南方まで。
29日/グランプレ付近(B第2軍団と合流)
○近衛軍団
28日/モンフォコン=ダルゴンヌからバントゥヴィル(グランプレの東16キロ)まで。
29日/ビュザンシー付近
○第4軍団
28日/ジェルモンヴィル並びにフロメレヴィルからモンフォコン=ダルゴンヌまで。
29日/バントゥヴィル付近(つまり、近衛軍団の後を1日遅れで追う)
○第12軍団
28日/そのままデュン及びストゥネに駐留。
29日/ムーズ川を再渡河してヌアール(ビュザンシーの東7キロ)へ西進。
これらの行軍予定を見ると、モルトケが「第三軍の3個半(第5,6,11,W師)軍団によって仏シャロン軍の左翼後方を抑え(脅かし)、同時にパリ方面からの連絡を絶ち、近衛軍団と第12軍団でムーズ川方面を塞ぎ、その自軍左翼後方にB2個軍団を置いて南方を固め、更に南で第4軍団を予備兵力とする」つもりだったことが分かります。
このままムーズの西岸アルゴンヌの地で決戦(第三軍とマース軍による正に分進合撃)するも吉、マクマオンが西へも東へも進めずに北上してベルギー国境アルデンヌの森へ追い詰められるも吉、モルトケの作戦は冴え渡っていました。
この日、メッス攻囲軍のカール王子に対し、普大本営は専用軍用電信により「前命令による2個軍団の分派は必要となくなったのでこれを取り消す」との主旨の命令を発信しますが、既にこの日、普第3軍団はエテン(ベルダンの東北東19キロ)に、カール王子の独断により第9軍団に代わって任を引き受けた普第2軍団はブリエ(メッス北西22キロ)に、それぞれ進んだ後でした。
27日深夜、各騎兵師団と第12軍団から大本営に届いたこの日の斥候報告をまとめた普参謀本部は、「夕刻の命令を発した事由に誤りはなく、敵の状況は正確に掌握されている」と断じたのでした。
モルトケの北進案(8/27)
仏戦列歩兵第36連隊の軍旗(仏第1軍団)




