8月26日・仏第7軍団の「危機」
☆26日午前の仏シャロン軍
独軍が右翼側の右旋回を決定した頃、仏シャロン軍もまた東へ進むため右向きに方向転換を行います。
前日からヴージエ周辺に宿営していた仏第7軍団は、この仏軍旋回の軸となって動かず、マルグリット騎兵師団はオシュ(ヴージエの北東20キロ)に至るまで東進し、仏第5軍団は騎兵と入れ替わるためル・シェーヌ(ヴージエの北北東13.5キロ)へ向かいました。
その西側には、軍の第二線となった仏第1軍団とボヌマン騎兵師団があり、こちらはエーヌ川沿いに第1軍団がセミュイ(ヴージエの北北西10キロ)へ、騎兵師団はアティニー(ヴージエの北西12.5キロ)へと、それぞれ向かいました。
マクマオン大将はナポレオン3世の大本営と共に、今やシャロン軍の中心戦力となった仏第12軍団を引き連れてルテルを発し、トゥルトロン(ルテルの東北東20キロ)を目標に前進しました。
これはマルグリット騎兵師団を中央の先頭として、右翼に第7軍団が、左翼で軍の残りがエーヌ川より北に展開する形で、ヴージエを動かなかった第7軍団が独り右翼側に突出する形となります。別の言い方とすれば、独軍に最も近いと思われる仏第7軍団に、偵察活動の殆どが託される訳でした。
不平不満を抱え、腹を空かせた最低の軍団を率いて苦労していたフェリクス・ドゥエー中将は、それでも最善の策を採ろうと奮闘しました。
F.ドゥエー
この日、仏第7軍団本隊はヴージエの宿営を発してその東側、ビュザンシーへ向かう街道とグランプレへ向かう街道とが分岐する地点(ヴージエの東5.5キロ。ヴォングヴェ付近)に前進、陣を構えます。ここから軍団第3師団(ジョセフ・ウジェーヌ・デュモン少将)の第1旅団(アントワーヌ・エマニュエル・エルネスト・ボルダ准将)と、同師団砲兵隊から砲兵1個中隊が抽出されると、ドゥエー将軍はボルダ准将に対し「ビュザンシーとグランプレにそれぞれ前哨を送り独軍を警戒せよ」と命じたのでした。
多大な負担が掛かった仏第7軍団は、更に軍団騎兵師団(男爵アルフレッド・フレデリック・フィリップ・オーギュスト・ナポレオン・アメル少将)の第1旅団(カンブリエ准将)より槍騎兵第8連隊(モーリス・ヘンリー・ド・ヴァル・コンテ・デ・ダンピエール大佐)をサント=ムヌー方面警戒のためオリジー=プリマ(ヴージエの南東8キロ)からモントワ(ヴージエの南9.5キロ)に掛けて展開させ、昨日はグランプレに前進していた驃騎兵第4連隊(コリー・デ・ラ・ヴィジュリ大佐)をヴァレンヌ(=アン=アルゴンヌ。グランプレの南東17キロ)~ビュザンシーへ至る街道上に展開させました。旅団残りの槍騎兵第4連隊は本隊の前衛としてラ・クロワ=オー=ボア(本隊の展開するヴォングヴェの北北東1.5キロ)に進みました。
☆26日の独マース軍と第三軍
昨夜遅く(午後11時)に発せられた普大本営命令は、事前にモルトケから情報や参謀本部の意図を予告された上でマース軍の本営に達せられました。
独軍右翼(北)側において仏軍の動向を探る情報収集と、軍が「右旋回」を開始する際の「号令」は、ザクセン王国の王太子に委ねられたのです。
この戦局を一変させる可能性を前にして、モルトケは日付が変わった直後(26日午前1時過ぎ)「懐刀」をバール=ル=デュクの大本営よりフルーリー(=シュル=エール)在のマース軍本営に送り込みます。
普参謀本部の若き作戦参謀(参謀本部第2課長)、ユリウス・フォン・ファルディ・デュ・フェノイス中佐は、アルベルト王子とシュロトハイム参謀長始めマース軍首脳を前にして、モルトケの意図とその作戦を詳細に説明した後、次のように述べました。
「軍の右旋回は、敵が北方ヴージエ方面におり東進している、との偵察情報を得るまでその実施を待ち、本26日正午までに北方へ放った斥候騎兵から何の報告もない場合においては、右旋回を断行せよ、とモルトケ総長は仰っております。但し、その時点におけるアルベルト殿下のご判断において、この右旋回は今次妥当な作戦とは言えない、と断じられる場合は、昨25日午前11時に総長が命じました北西方向への前進を実行するようお願い申し上げます」
ファルディ・デュ・フェノイス中佐
(1870年大本営でのスケッチ)
普参謀本部が誇る秀才参謀が伝えたモルトケの「全て託す」に等しい訓令に、4年前は普軍と干戈を交えたアルベルト王子はどんな気持を抱いたのでしょうか。
王子は、一体いつ寝ているのか心配になるファルディ中佐を見送ると、26日早朝(午前5時)麾下部隊に対し、以下の命令を発しました。
「第12軍団はヴァレンヌ(=アン=アルゴンヌ)へ向かい前進せよ。騎兵第12師団はバントゥヴィル(ヴァレンヌの北14.5キロ)へ、騎兵第5師団はグランプレへ、それぞれ前進し、その地を基点にデュン(=シュル=ムーズ)~ビュザンシー、更にはヴージエに至るまで敵を求め捜索せよ。騎兵第6師団はソムピー=タウール(ヴージエの南西19.5キロ)目指して北西方向へ前進し、右翼側(東方のモントワ周辺)で騎兵第5師団と連絡しつつランス(西)方面を監視・警戒せよ」
しかしアルベルト王子は、騎兵部隊が既に前日午前11時の命令、主旨としては「敵を北西~北に求める」に従ってそれぞれの行軍目標に進み出ており、これでは「敵を北~北東側に求める」という新たな任務を達成するには(モルトケや王子自身の考えるタイムリミットより)時間が掛かり過ぎる、と判断します。そこで、「先行する第12軍団だけでなくマース軍全体を直ちに転向し北進させる」ことを決心するのです。
とは言え、マース軍残りの2個(近衛と第4)軍団を現在の展開位置から同時に北進させると、両軍団とも大体において同じ街道筋を行軍するため、行軍列の渋滞と混乱を招く恐れがありました。そこでマース軍本営は、深夜モルトケの意図を後輩参謀から聞かされ理解した「切れ者」シュロトハイム参謀長を中心に、驚くべき短時間で「行軍に支障を招かない」行軍予定表を作成するのです。
これによると、近衛軍団は26日午前11時にトリオークール=アン=アルゴンヌ付近の野営を出発、その際行軍速度を上げる(つまりは後方から進む第4軍団に追い付かれぬ)ため戦闘に直接関係のない荷物や私物を運ぶ大行李縦列を出立地に残置し、行軍列を縦二重にして速歩でドンバル=アン=アルゴンヌ(トリオークールの北北東20キロ)を目指します。
その後方、ラエエークール周辺に宿営していた第4軍団は、午後2時に宿営地を発ち、マース軍本営のあったフルーリーを越えた辺りまで前進するように設定されるのです。
25日は久方振りに所属軍団近くで野営していた近衛騎兵師団は、軍団と行動を共にすべく命令されました。
アルベルト王子はこの行軍命令を午前8時に発令した後、本営を引き連れてフルーリーを発って北上し、クレルモン(=アン=アルゴンヌ。フルーリーの北北西14キロ)に到着すると、ここで騎兵たちの報告を待つのでした。
仏シャロン軍がパリ(西)ではなく本当にメッス(東)へ前進していると独軍側に知れたのは、この26日昼前後のことでした。
○騎兵第12師団
ザクセン騎兵師団は、当初(25日午前発令)の命令通り未明に本隊がクレルモン(=アン=アルゴンヌ)、前衛がヴァレンヌ(=アン=アルゴンヌ)を発ち、オートリー(サント=ムヌーの北20キロ)を目標に北西方向へ進軍し始めましたが、午前6時、南方から追って来たマース軍本営からの伝令によってバントゥヴィルへ向かうよう変更命令が伝えられ、直ちに転進するのでした。
師団本隊が途中シャルパントリー(ヴァレンヌの北3.5キロ)付近に達した頃、最左翼でヴァレンヌ~グランプレに至る街道上を行軍中の槍騎兵第18連隊左翼端斥候隊がフレヴィル(ヴァレンヌの北北西10キロ)付近で仏軍騎兵1個中隊と鉢合わせをし、短時間の戦闘後「多勢に無勢」とばかり退却するという「事件」が発生します。
師団本隊に駆け付けた斥候の報告を聞いた師団長伯爵フランツ・ウント・エドラー・ヘル・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルト少将は、直ちに近衛ライター騎兵連隊の第1中隊長、ヴィルヘルム・フォン・クレンク大尉に対し「中隊を率いてフレヴィルへ向かい、そこからグランプレ付近を偵察後、グランプレを目指して行軍中の騎兵第5師団を見つけて連絡・通報せよ」と命じました。
師団本隊は午後2時、バントゥヴィルに到着し野営すると共に、ライター騎兵第3連隊から選抜された士官の長距離単身斥候をボーモン=アン=アルゴンヌ(バントゥヴィルの北20.5キロ)へ送り出します。
また、エンクルヴィル(バントゥヴィルの東北東2.5キロ)へ槍騎兵第18連隊を進ませ、同連隊の第1中隊はここから更にムーズ河畔のデュン(=シュル=ミューズ)まで進むと、夕刻までに「デュン部落に敵を見ず」と報告したのでした。
同じくオットー・エドラー・フォン・デア・プラニッツ大尉率いる同連隊第3中隊は長駆ビュザンシーを目指して出発し、午後4時にボア=ドゥ=ラ=フォリ(現シヴリー・レ・ビュザンシーの東側。ビュザンシーの南東3.5キロ)の森林地帯北側で、仏軍の戦列歩兵2個大隊が正に西へ向かって出発する場面に遭遇するのです。
プラニッツ大尉は直ちに踵を返し、中隊はザクセン騎兵本隊の位置を探知されぬよう、わざと東へ疾駆しますが、仏軍は騎兵数個中隊を追撃に回し、仏軍騎兵はバリクール(ビュザンシーの東7キロ)を経てヴィレ=ドゥヴァン=デュン(バントゥヴィルの北北東5キロ)までしつこく追撃した後、ようやく西へと去ったのでした。
リッペ将軍からグランプレに差配された近衛ライター騎兵連隊第1中隊は午後4時、サン=ジュヴァン(グランプレの東5キロ)よりバントゥヴィルの師団本営に伝令を送り、「グランプレ及びシュヴィエール(グランプレの東南東2キロ)には敵がおり、敵は今やグランプレより北へ向かって退却する様子を見せている。敵は歩兵と騎兵で構成され、馬車も多いが車輌が大砲かどうかは識別出来ない」との報告をしました(午後7時にバントゥヴィルにて報告)。
フォン・クレンク大尉は午後9時に中隊を率いてバントゥヴィルに帰還し、「グランプレ付近から退却した敵はおよそ歩兵5個大隊を主力とする諸兵科混成部隊で、中隊はビュザンシーまで斥候を送るものの午後7時において部落には敵を見ず、現地の住民を尋問すると本日、敵1個連隊と騎兵及び砲兵若干が同地よりヴージエへ向かって出発したとのこと」と報告したのです。
○騎兵第5師団
この師団は26日朝、サント=ムヌーからヴージエに向かい出立しますが、直後にグランプレへ向かうよう命令が変更されました。師団はまずモンシュタン(サント=ムヌーの北23キロ)へ転進し、前衛の竜騎兵第19連隊はエーヌ河畔のスニュックへ先行します。
この地からグランプレ方向に数個の斥候隊が出発しますが、複数の斥候はエーヌ川東岸において仏軍より銃撃を受け、また、グランプレ付近に歩兵ばかりでなく騎兵や砲兵を含むまとまった数の仏軍がいることを発見しました。
このため師団はグランプレへ進むのを見合わせ、午後5時に至ってオートリーとモンシュタン間に野営し、前衛から竜騎兵1個中隊が抽出されてスニュックに残留し、ビュザンシー方向を偵察することは危険が大き過ぎるとして中止されました。
これらの報告は午後にマース軍本営(在クレルモン)へ発送され午後7時、普大本営に達しています。
また、グランプレへの転進命令が届いた午前中、竜騎兵第13連隊の第1中隊は別動隊としてセショー(サント=ムヌーの北北西22キロ)~モントワ~ヴージエを順次偵察するよう命じられています。
この竜騎兵中隊は、多数の下士官斥候隊を組織すると街道沿いに北上させましたが、その内の一つ、ブローマン軍曹の隊は夕刻ヴージエの南2キロまで接近し、急ぎ師団本営に帰着すると「敵の大兵団がヴージエの東方にあり」と報告するのでした。この報告はかなり遅れて27日午後4時、普大本営に達しました。
○騎兵第6師団
前日にマルヌ県の護国軍第4大隊を壊滅したこの師団は、早朝、ル・ヴィエイユ=ダンピエールから行軍を再開し、午前中の早い時間にサント=ムヌー~シャロン街道上のオーヴ(サント=ムヌーの西南西16キロ)に達しますが、ここでソムピー=タウールを新たな目標として行軍せよとの命令が到着します。師団は午後早く同地に到着して野営すると、ここからヴージエとランス、そしてシャロンへ士官斥候を派出するのでした。
ヴージエに向かったのは驃騎兵第16連隊のフォン・ヴェルテルン中尉でした。中尉はヴージエの南で竜騎兵第13連隊のブローマン軍曹率いる斥候隊と邂逅し、午後5時30分頃、サヴィニー(=シュル=エーヌ。ヴージエの南南東4.5キロ)北方の高地上でヴージエ周辺の仏軍陣地を遠距離からじっくりと観察し、急ぎ師団本営へと引き返すのでした。
この日の午後7時、騎兵第6師団はソムピー=タウールよりクレルモン(=アン=アルゴンヌ)のマース軍本営に対し、次の報告を送付しています。
「諸兵科連合の敵集団はヴージエの東方シュストル(ヴージエの北東2キロ)~ファレーズ(ヴージエの南東3キロ)間の丘陵上にあり。ビュザンシーへ向かう街道に沿って歩兵が2個連隊野営し、その東方に砲兵1個中隊と猟兵1個大隊がいる。シュストル付近に行軍中の数個縦列があり、これは東方の森林を出て正に野営を開始しようとしている様子である。このシュストル方面には槍騎兵1個中隊も見える。ヴージエの市街地に歩兵はいないが、住民によるとこの周辺におよそ14万の仏軍がおり、マクマオンは既に北西方のアティニーに到着し、二日以内にヴージエへ来着するとのことである」
「シャロン及びランスに向かった斥候は些かも敵に遭遇せず。住民を尋問したところによれば、シャロンにいた仏軍は全て北方に向かったという」
この報告は翌朝(27日早朝)5時15分、クレルモン在の普大本営が受領しています。
ランス市街に向かった士官斥候は中々帰還せず、師団本営をやきもきさせましたが、翌朝戻って報告するには、「ランス周辺の部落には敵を見ず。但し、ランス市内には4~5,000の守備兵あり」とのことでした。
この士官斥候が見た「ランスの守備兵」とは、地元の護国軍ではなく一応は正規軍でした。これはパリにて新設されたジョセフ・ヴィノア将軍麾下の「第13軍団」前衛で、25日午後、鉄道によってランスへ輸送されたばかりだったのです。
☆26日午後の仏シャロン軍
仏軍は午後になって独軍の騎兵が方々に出没したことで大混乱となります。
ボルダ准将率いる仏第7軍団第1師団第1旅団は夕刻近く、グランプレ付近で普騎兵第5師団の騎兵たちに接触され、慌てて道なき森林(ボア・ドゥ・ブルゴーニュ。グランプレの北に広がる森林山地)に分け入り、ボルダ将軍は「優勢なる敵に遭遇しビュザンシーに向かって後退する」との至急報をヴージエのドゥエー将軍へ送ったのでした。
ところが、ほぼ同じ頃にザクセン騎兵(プラニッツ大尉の槍騎兵中隊)がビュザンシー周辺に現れ、同地にいた仏軍前哨部隊はヴージエに向かって後退してしまったのです。
ボルダ
ザクセン槍騎兵に接触された後に退却したビュザンシーの部隊長は「優勢な敵に対し激戦を交えて」後退した旨を熱弁し、偶然にも同じ時にヴージエ南のモントワ周辺で警戒していた仏槍騎兵第8連隊もまた「優勢な独軍の槍騎兵部隊が現れた」(この「優勢な敵」の正体は前述通り普竜騎兵第13連隊第1中隊で、優勢どころか仏軍の四分の一の戦力です)ことを報告したのです。
立て続けに「優勢な」敵との接触を報告されたドゥエー将軍は、「敵の一大軍集団が接近して来た」と判断し、「グランプレは既に敵の手に落ちた」と信じてしまったのでした。
ドゥエー仏第7軍団長はこれにより独軍の攻撃を、エーヌ川を背後に(正に背水の陣で、士気の低い軍を逃げ場の無いようにして戦いに向かわせる手法です)ヴージエの東郊外で迎撃することに決し、軍団第1と第2師団及び軍団砲兵をシュストル(ヴージエの北東2キロ)~ファレーズ(ヴージエの南東3キロ)間の高地に布陣させ、ここに大至急散兵線を築かせたのです。
ドゥエー将軍はまた、第3師団長のデュモン将軍に命じてグランプレ及びビュザンシー方面から退却中のボルダ将軍を救援、ヴージエまで後退させるために師団第2旅団(ビタルト・デ・ポルト准将)を東へ進ませました。また、軍団の輜重や弾薬縦列をルテルへの街道を使って西へ退却させ、市街地保安のため槍騎兵第8連隊がヴージエに残るのでした。
デュモン
一方、ボルダ准将は後退中、後衛から「グランプレ前面に出現した敵は斥候騎兵に過ぎず」との連絡を受けます。早まって後退してしまったと悟った准将は直ちに踵を返し、旅団主力は全く抵抗を受けることなくグランプレ部落に再入城するのでした。
運の悪いことに、この仏軍が戻って来た時を同じくして、普驃騎兵第11連隊の斥候隊がグランプレに現れました。この斥候はヴァレンヌまで偵察任務で進出した後、同地にザクセン騎兵が進出していることを確認、更に所属の騎兵第5師団がグランプレを目指し前進中(行軍途中で目的地が変更しました)との情報を得て、「それならば師団は間もなくグランプレに到達するはず」と思い、グランプレに向かったものでした。
普驃騎兵が市街に入ると、突然四方から銃撃を受け、大部分は捕虜となるか負傷してしまいます。ただ数騎のみがヴァレンヌに脱出し、グランプレが未だ敵の支配下にあることを知らせるのでした。
ボルダ旅団の救出を命じられたデュモン師団長は、東行途中ボールペール(グランプレの西4キロ)にてグランプレが再びボルダ准将の手に復帰したとの情報を得ましたが、ドゥエー将軍は第3師団が敵中に突出し孤立することを恐れ、「直ちに全軍ヴージエまで引き返す」ことを命じていました。デュモン将軍はボルダ旅団と合同すると、ヴージエまで引き返そうとしますが、既に夜となったためグランプレで留まり夜を明かすこととするのでした。
デュモン(第3)師団は翌27日朝、ヴージエへ退却しています。その際、捕虜となっていた普軍驃騎兵たちはグランプレに残され、27日中に連隊へ無事帰投する事が出来ました。
ヴージエの東に集合していたドゥエー(第7)軍団は、折から再び降り出した大雨の中、まんじりともせずに森林高地の散兵壕で一夜を明かしました。この夜、ボルダ並びにデュモン将軍からは何の連絡も入らず、これをもってドゥエー将軍は「グランプレは確実に独軍によって占領されている」と断じ、マクマオン将軍へ報告を送るのでした。いつ敵が面前に現れてもおかしくはない、と緊張していたドゥエーの本営は報告書末尾に、「敵の攻撃は刻一刻と迫っている」と付記するのです。
これをマクマオン将軍が受け取ったのは日付が変わろうかという深夜でした。ヴージエから北北西におよそ16キロ離れたトゥルトロンにナポレオン3世と共に宿営していたマクマオン大将は、遂に独軍の「壁」に突き当たったと信じて腹を括り、ヴァイセンブルクで孤軍奮闘し戦死した弟(アベル・ドゥエー将軍)の悲劇を繰り返すまいと、「シャロン全軍により27日、ヴージエ及びビュザンシーへ前進しドゥエー軍団を救う」と決心したのでした。




