ハノーファー謀略に混迷す
☆ ハノーファー軍、ベルリン、ファルケンシュタイン。それぞれの思惑と混乱
フォン・ファルケンシュタイン将軍は1866年6月24日に至るまで、敵であるドイツ連邦軍と直接対決するのではなく威圧しつつ地域を占領して進むことにある意味徹しています。これは相手が戦わず退却行に入っていることに乗じた消極策にも見えました。
その証拠に、逃げるハノーファー軍(以下「Hv軍」)に対しても、将軍は追尾こそ命じはするものの先回りして叩くなどの積極策を命じていません。この「消極的態度」は主に鉄道破壊などの遅延・妨害工作による行軍の遅れ(バイヤー師団のように自ら破壊した後に今度は直すというようなこともありました)も大きな理由として上げられ、確かにHv軍とヘッセン=カッセル軍が破壊して行った鉄道線路を直すのに将軍の麾下後方部隊はおおわらわになっていました。もうこの時代になると鉄道輸送が戦争に重大な影響を及ぼすと誰もが知っていましたから、退却する軍隊は拠点を去る前に追いつかれない様、近隣や道中の鉄道を破壊するのが恒例となって来ました。
ハノーファー軍
この影響もあってファルケンシュタイン将軍の目は次第に東(Hv軍)よりも南(フランクフルトの連邦諸侯軍)に向き始め、この24日、ゲーベンとマントイフェル両師団に対し「カッセルに集合せよ」との命令を下しており、Hv軍追跡任務は独りバイヤー師団だけに与え満足してしまうのです。
ファルケンシュタイン将軍としては、Hv軍はこのまま直線的に南下してバイエルン領に至り同王国軍(連邦第7軍団)に合流しようと行動しているに違いないと考え、徒歩行軍二日分(一日平均15~20キロ)以上離れていて鉄道も利用不可能な場合、起伏のあるチューリンゲン南部の土地柄、捕捉出来ない可能性が高く、ここは無理に追わずHv軍の処置はバイヤー師団(とチューリンゲンの親普諸侯軍)や増援となり到着しつつある後備諸団隊に任せ、主力2個師団はフランクフルト周辺に展開していると思われる「寄せ集め」の連邦第8軍団と対決した方がよい、との考えがありました。
この時点で将軍の考え方は至極真っ当であって何も間違ってはいません。間違っていたのはHv軍の方で、まさか2日間も普領とコーブルク=ゴータとの辺境・ランゲンザルツァ周辺で足踏みしているとはファルケンシュタイン将軍も考えが及ばなかったのでした。
このHv軍の「足踏み」に先に気付いたのはベルリンで、運よくハノーファー王ゲオルグ5世から「道中の安全保障があれば普軍と干戈を交えない」という要望が届き、これに対し参謀本部(モルトケ総長)は否定的で「直ちに攻撃し撃破を」望みましたが、「戦争などさっさと終わりにしたい」ビスマルクは違い、「戦うことなく手強い敵がひとつ消えるのなら」と「1年間の不戦」条件で「バイエルンへの通行手形」を与えようとしたのです。
グスタフ・フォン・アルヴェンスレーベン
Hv軍とベルリン双方が「戦うか否か」の意見で二つに割れる中、25日午前に至って、遂に普王国侍従武官長のグスタフ・フォン・アルヴェンスレーベン中将がゴータに到着、直ちにHv軍本営があるグロス=ベーリンゲンへ白旗と共にやって来ました。
普王国でも名門貴族として認知されるアルヴェンスレーベン家の軍人として、ヴィルヘルム1世国王とも親しく話すことが出来るグスタフ将軍は、3年前のポーランド蜂起事件の際、ロシア帝国との交渉を任されサンクトペテルブルグでその名も「アルヴェンスレーベン条約」(お互いの領土を認めどちらかが隣国の領土へ踏み込んでも中立でいるという主旨)を締結するという外交任務も可能な将軍でした(条約自体はポーランド人の反乱鎮圧後、英仏の圧力で破棄されますが、これをきっかけとしてロシアは普王国へ積極介入することがなくなります)。
アルヴェンスレーベン将軍は早速「1年間の不戦」を誓うよう王に迫りますが、ゲオルグ5世は中々答えることが出来ません。何故なら陣営には反対する者が多数いたからで、「それならば」と将軍は「追って決定あるまで」(独語/bis auf weiteres)の休戦を提案、ゲオルグ5世もこれを承認するのです。
この「追って決定」の期限は翌26日午前10時と決まり、その時を以てゲオルグ5世はベルリンに対し回答を行うことになったのでした。
ゲオルグ5世(1861年)
ファルケンシュタイン将軍はこの交渉のことを全く知らされず、先述の通り連邦第8軍団を「先に片付ける」べくゲーベン、マントイフェル両師団をカッセルに集合させるよう命じ、これは25から26日に掛けて実行されました。
この間、24日午後にカッセル集合を命じられた在ゲッティンゲンのゲーベン将軍は、「ニセ情報」でハイゲリンシュタットへ向かい空しく戻って来る途中のウランゲル少将旅団を待たずに師団主力を(ハノーファーシュ・)ミュンデンへ向けて出立し、同日、同じ命令を受けたマントイフェル将軍はノルトハイムからゲーベン師団と入れ替わる形でゲッティンゲンに入城、帰還したウランゲル旅団と合流しました。
既に23日にアイゼナハ進撃を命じられていたバイヤー将軍師団の主力縦隊は、この日ヴェラ河畔のアレンドルフ(現バート・ゾーテン=アレンドルフの東市街。カッセルの東33キロ)に至り同市街とその周辺で宿野営し、先行したゼルヒョー大佐の支隊(第30「ライン第4」連隊に騎兵1個と砲兵1個中隊)が夜半までにファルケンシュタイン将軍の命令にあったエートマンスハウゼン(アレンドルフの南14.5キロ)に至ります。
ここで(23日夕)ベルリンの参謀本部からファルケンシュタイン将軍に対し電信命令が届きました。
「バイヤー師団の進軍を急がれたし。ハノーファー軍はアイゼナハに向かう」
この命令は直ちにバイヤー将軍に伝えられ24日早朝、ベルリン(この場合はモルトケ)の「強い」意向を察したバイヤー将軍は、ゼルヒョー大佐の下へ駆け付け、支隊を直率すると行軍路二本で急ぎ東進し夕刻までにクロイツブルク(アイゼナハの北北西10キロ)とヘルレスハウゼン(アイゼナハの西11.5キロ)まで進み、夜半汽車と列車を一編成徴発し先遣隊をヘルレスハウゼンの停車場からアイゼナハへ送り出したのでした。
しかし、続くバイヤー師団本隊は24日正午になってからアレンドルフを出立し南下を始めます。これはこの数日の激しい機動で部下が過労気味と感じたバイヤー将軍が事前に休息を命じていたためでした。
同24日の朝早く。再びベルリンの参謀本部から普「西」軍本営に着信があり、これはファルケンシュタイン将軍個人に宛てたモルトケ参謀総長直々の説諭で、「貴官は今以上にHv軍の動向を注視すべきであり、直ちに動かせる兵力をゴータ方面に送り守備を固めるように」と一段と強く促したのでした。
参謀本部には何かと「異論」のあったファルケンシュタイン将軍ですが、いくら「委任命令」とヴィルヘルム国王からの信頼があるからと言って、ここまではっきり言われるとさすがに従わざるをえず、将軍はフランクフルトに直行させようとしていたゲーベン、マントイフェル両師団もHv軍に差し向けなくてはならなくなりました。
こうなるとファルケンシュタイン将軍麾下がゴータとアイゼナハを完全に掌握するのが早いか、Hv軍が思い切って南下し普軍の「網」をすり抜けるのが早いのかの競争となります。
しかしこの裏ではビスマルクとモルトケによる「主導権争い」もあったのです。
ビスマルクはゲオルグ5世がベルリンと話し合う気持ちがあると聞き及ぶと、「ならば不戦の条件を1年で。そうすれば本戦争中にHv軍を気にすることはなくなる」として、ホンブルク=ゴータ公エルンスト2世を介してHv軍本営に電信を送ったのでした。
それに同調するかのようにファルケンシュタイン将軍もHv軍を積極的に追うのを止め、戦い易そうな連邦第8軍団の相手をしようとフランクフルトに向かおうとしていたのです。
このことを知ったモルトケは苛立ちました。ビスマルク首相がこの戦争で少しは得点を上げようと思ったのか、はたまた、ハノーファー王家に繋がるイギリス王家に恩でも売りたかったのか、そこは奇々怪々・謀略も辞さないビスマルクら政治の世界の有様で、モルトケの与り知らぬことでしたが、こと軍事となればそこはモルトケの「土俵」です。初動こそ逃げ足が速かったHv軍でしたが、ゲッティンゲンに集合してからというもの、チューリンゲンに至るまで5日を費やし、報告によればHv軍本営は「踊って」こそいないものの1815年のウィーン並みに何一つ決定出来ない会議を繰り返しているとのことで、ファルケンシュタイン将軍がその気になりさえすれば数日以内に捕捉出来たはずなのです。
そのファルケンシュタイン将軍はモルトケの焦燥にも他人事で、ほぼ毎日送られて来る「可能な限り急いで行軍せよ」とのモルトケからの督促電信にも半分無視を決め込み、命令に反して麾下に1日休養を取らせようとし、鉄道の修理にも手間取って全般に徒歩行軍中心となっていたため、尻を叩くモルトケの願いに反して不満が募る行軍速度となっていました。
時はHv軍も普軍も一緒で刻々と過ぎて行きます。ここで急げば手強い敵も比較的容易に倒せるはずなのに、これを避けて後回しで構わない戦う準備も意思決定もがバラバラの集団を叩きに行こうとしている。1年戦わないとしてもその軍はそっくり残っているわけで、どうせ戦わなくてはならないのなら、優位に立っている時に戦うのが筋であり、それは今である。
モルトケ参謀総長はビスマルクの企てを阻止すべく国王に上奏すると同時に、ファルケンシュタイン将軍に有無を言わせぬ電信命令を送ったのでした。
ファルケンシュタイン将軍はビスマルクと足並みを揃えたわけではなかったのでしょうが、デンマークでの一件で因縁がある新興勢力の参謀本部とモルトケが国王の名を借りて命令して来るのには抵抗がありました。
その一件・第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争でヴランゲル元帥の参謀長として「旧弊」との烙印を押されモルトケと交代させられ、戦後は歩兵大将に昇進したものの地方の州知事でほぼライン職からは引退させられてしまいます。
これで二度と野戦軍を指揮することはなく不満を抱えて老後を送るのか、と悲観していたところ、一軍を任されるという機会に恵まれ喜んでいた将軍でしたが、ここで再び中央から批判を受けてしまうと今度こそ体よく引退生活に追いやられ、ほら見たことかと参謀達から嘲笑されてしまうかも知れません。
ファルケンシュタイン将軍もここは素直にモルトケの考え通りに事を進めるしかなかったのです。
24日午前、ファルケンシュタイン将軍はマントイフェル将軍に命じ、本日(24日)中に将軍麾下混成師団の前衛となっているフォン・フリース少将がこの時点で率いていた歩兵5個大隊・騎兵1個中隊を直ちに近場の停車場から列車に乗せ(ゲッティンゲンから南の鉄道線は破壊され、かつHv軍がいたので)マグデブルクとハレを経由してゴータに至るよう、またゲーベン将軍に命じて大至急出来る限り多くの将兵をアイゼナハに送るよう、それぞれ命じたのでした。
ゲーベン将軍の第13師団は24日正午に行軍を開始してカッセルに進み、師団長はここでフォン・クンマー少将に歩兵6個大隊(2個連隊クラス)、騎兵2個中隊・砲兵3個中隊と半個(21門)を預けると、夕方から夜間に掛けて次々に徴発した列車に将兵を詰め込み、アイゼナハに向けて出立させるのでした。
25日にバイヤー師団本隊はゼルヒョー大佐を追って二縦列でアイゼナハに向け行軍を開始しますが、途中で伝令が「Hv軍が休戦を求めている」との情報を届けたため、この日はトレフフルト(エッシュヴェーゲの南東13.5キロ)とクロイツブルク(トレフフルトからは南へ9キロ)とに分かれて宿営に入りました。
ゲーベン師団で別動するウランゲル少将旅団はこの日カッセルに到達し親師団留守部隊と合流しています。
※25日夕刻における普西軍(ファルケンシュタイン軍)の位置
〇ゴータ
*ザクセン=コーブルク=ゴータ公国軍/歩兵3個大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊
*フリース少将支隊/歩兵5個大隊・騎兵1個中隊 夕方から夜にかけて到着
*シュレスヴィヒ州からの増援/擲弾兵第11「シュレジエン第2」連隊・2個大隊
*後備第20「ブランデンブルク第3」連隊・第2、第3大隊と驃騎兵第10「マグデブルク」連隊・補充中隊(以上二つの部隊はこの日中に到着。フリース将軍の指揮下に入ります)
〇アイゼナハ
*近衛歩兵第4連隊/歩兵3個大隊
*ゼルヒョー大佐支隊(バイヤー師団)/歩兵3個大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊
*クンマー少将麾下(ゲーベン将軍の普第13師団本隊)/歩兵6個大隊・騎兵2個中隊・砲兵3個中隊と半個
〇クロイツブルク
*グリューマー少将麾下(バイヤー師団)/歩兵8個大隊・騎兵2個中隊・砲兵1個中隊
〇トレフフルト
*シャハトマイヤー少将麾下(バイヤー師団)/歩兵7個大隊・騎兵2個中隊・砲兵1個中隊
〇カッセル
*ゲーベン師団残余(ウランゲル旅団含む)/歩兵6個大隊・騎兵7個中隊・砲兵2個中隊と半個
〇ゲッティンゲン
*マントイフェル師団一部/歩兵2個大隊・騎兵2個中隊・砲兵1個中隊
〇ミュンデン
*マントイフェル師団一部/歩兵4個大隊・騎兵6個中隊・砲兵2個中隊
ハン・ミュンデン
ベルリンから尻を叩かれた形のファルケンシュタイン将軍は本営幕僚共々この日午後2時、汽車でアイゼナハに到着しました。
Hv軍はこの一週間ほど、万事が軍議軍議で優柔不断、何一つすんなり決まらない状況で、英断があれば悠々フランクフルト・アム・マインやバイエルン領に到達出来るところ、自らその機会を逸する体たらくでしたが、普軍側もほめられた状況ではなく、決定は全てが中途半端で、Hv軍を追うのかフランクフルトへ急行するのかベルリンと現場(ファルケンシュタイン将軍)の意見が一致せず、そこに政治(=ビスマルク)が介入したため現場の困惑度はさらに高まりました。特にバイヤー将軍麾下の右往左往は惨いもので、文字通り「無駄足」となり将兵の疲労が高まっただけに終わった行軍が何日も続いたのです。
この25日にアイゼナハやゴータに迫ったHv軍の前方(南)に立ちはだかっていたのは、バイヤー師団の一部とファベック大佐麾下のザクセン=ホンブルク=ゴータ公国軍、そしてマントイフェル、ゲーベン両師団の一部で、ファルケンシュタイン将軍麾下の本隊は、Hv軍の後方(北)数日の行軍行程にありました。
とはいうものの、Hv軍の「足踏み」のお陰で、この25日には普軍側で一日以内にHv軍と接触可能な距離にあったのは、指揮権こそ様々だったもののその数歩兵33個大隊・騎兵9個中隊・砲兵9個中隊と半個、対するHv軍の歩兵20個大隊・騎兵24個中隊・砲兵8個中隊を十分圧倒可能な数になっていたのです。
この時点で普軍はHv軍の規模をほぼ正確に掌握しており、ファルケンシュタイン将軍とその麾下指揮官たちも勝利を確信し始めていたため、この辺りから休戦交渉を拒絶する態度を示しました。ゲオルグ5世もアイゼナハに普軍が集合している状況は想像出来、25日早朝、交渉を打ち切り普軍の包囲網を突破する決心をするのでした。
25日昼。ハノーファー王ゲオルグ5世は昨日アルヴェンスレーベン将軍と合意した期限前に「1年間の不戦は受け入れられない」との回答をベルリンに通達するため、再び参謀ルドルフ中佐をアイゼナハに送ります。
ところが、到着したばかりのファルケンシュタイン将軍は白旗の軍使として街の入り口に現れたルドルフ中佐を待たせた挙句、書状受け取りや会見を拒否し街に入ることすら禁止するのです。ルドルフ中佐は「これはファルケンシュタインが未だにアルヴェンスレーベン将軍と交わした休戦の通達を受けていないからだ」と」悟り、在グロス=ベーリンゲン(アイゼナハからは東北東へ直線距離14キロ。道中は15キロほどで急げば騎行4,50分ほどです)のHv軍本営へ帰るとこの件を王を始めとする首脳陣に伝えます。
Hv軍首脳陣はこれを聞くと動揺し、「ビューロー大佐の部隊がアイゼナハ目前にいるのは危険」(偶発的に戦闘が始まりせっかくの休戦がうやむやになる)と断じ「ビューロー旅団はこの夜、グロス=ベーリンゲンまで退却すべきである」と主張する者まで現れます。総司令官アレンツシルト将軍はしばし黙考すると、「ベルリンから正規の休戦命令がない限り、いくら我らが弁を尽くしても敵はこれを信じてはくれないだろう」と語り、「敵は満を持して進撃を開始するであろうから、我が軍はこのグロス=ベーリンゲンとオスト=ベーリンゲンで敵を迎え撃つ準備をすべきだ」と断じました。
Hv軍はクネゼベック旅団を除き、この命令により26日払暁までにベーリンゲンの双子部落周辺に集合し、クネゼベック旅団は従前の配置のままヘニングスレーベンの陣地帯に布陣し、自軍が退却する場合の援護に備えるのでした。
ハノーファー国王と王太子(1860年頃)
☆ ハノーファー軍のランゲンザルツァ集合
Hv軍がベーリンゲンに集合すると間もなく(26日午前5時)、普軍より白旗の軍使が到着し「ファルケンシュタイン将軍が先ほどベルリンから休戦成立の知らせを得たので、その協定に従う」と告げます。アレンツシルト将軍はこの機会にもっと戦い易いランゲンザルツァに下がり布陣するよう全軍に命じ、クネゼベック旅団と予備騎兵隊は26日正午までに指定された地区に展開しましたが、ド・ヴォ―旅団はクネゼベック旅団の去ったヘニングスレーベンの近郊に至った時、既に普軍の前哨が視認可能な近隣の土地まで進出しているのを発見し、また、ボートマー旅団の縦隊もその行軍途上普軍騎兵に付きまとわれ何度も襲撃隊形を採られたため縦列が解けて部隊同士が離れてしまいます。これを見たド・ヴォー大佐は自分の旅団をヘニングスレーベンの陣地帯に留め、周辺の街道筋に一旦停止して本隊から離れ孤立してしまっていたボートマー旅団の諸隊も呼び寄せて本営からの更なる命令を待ったのです。
この時、ゲオルグ5世やアレンツシルト将軍以下Hv軍本営の首脳陣は、アルヴェンスレーベン将軍と約束した休戦の期限は「追って決定のあるまで」であり、ハノーファー王国が普王国(つまりはビスマルク)の提案拒否回答をするまでは休戦状態は続く、との考えでいました。
しかし、ベルリン当局とファルケンシュタイン将軍始め普軍の指揮官たちは、休戦はゲオルグ5世が1年間の休戦を「吞むか否かの決定を下す」26日午前10時まで、と考えており、この時間にゲオルグ5世による是非の回答があろうがなかろうが休戦は終了する、と信じていたと言うのです。
しかし、25日午後に「期限より早く」ゲオルグ5世の交渉決裂の判断を奉持してアイゼナハの「門」を叩いたルドルフ参謀を街にすら入れなかったフェルケンシュタイン将軍の態度は「答えを言わせない(聞かない)で時間を稼いでいる」と疑われても仕方がない態度であり、またこの26日にルドルフ中佐は同じく回答を今度はゴータから直接ベルリンへ乗り込んでビスマルクに伝えようとしますが、この地に集合した公国軍を含む普軍全体の指揮を執ることになったフォン・フリース少将が「ゴータ以外に進むことはまかりならない」と中佐の鉄道乗車を許さなかったのでした。
フリース将軍はルドルフ中佐に「貴軍との休戦は既に午前10時に終了しており、本官は貴軍に対する攻撃命令を受けている。本官が今許されることは貴軍に対し2時間に限り進撃開始を猶予する事だけである」と伝え、中佐に諦め帰還するよう促したのでした。
フリーデンシュタイン城(ゴータ・20世紀初頭の姿)
ルドルフ中佐は急ぎランゲンザルツァに帰り、事の顛末をHv軍首脳陣に伝えます。アレンツシルト将軍は既に時間切れが迫ったことでもあり、ここは覚悟を決めて敵襲来を受けて立つため、次の命令を麾下に達するのでした。
「総司令官より全軍に達する。今や普軍は我らに向かって進軍中である。これに対するため、各旅団は戦いつつゾンダースハウゼン(ランゲンザルツァの北北東33キロ。当時は親普のシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン公国首都)に向けて後退せよ。
ド・ヴォー旅団はランゲンザルツァに集合せよ。ビューロー旅団はシェーンシュテット(ランゲンザルツァの西5キロ)周辺に集合せよ。予備砲兵隊はビューロー旅団に隷属せよ。ボートマー旅団は出来得る限りド・ヴォー旅団を助けゲレフェントナ(現・トナ。同東南東6キロ)に布陣せよ。クネゼベック旅団は予備騎兵隊と共にズントハウゼン(同北東7キロ)からタムスブリュック(同北3.5キロ)間に展開布陣しゾンダースハウゼンへの街道(現国道84号線)を守り本軍の後退行軍を援護せよ(前線の延長5.5キロ)。
後退行軍は以下の経路を指定する。
ド・ヴォー旅団はランゲンザルツァからマーックレーベン(ランゲンザルツァの北東2.5キロ)を経由し、
ボートマー旅団はネーゲルシュテット(同東4.5キロ)からクレットシュテット(同北東7.5キロ)を経由し、
ビューロー旅団はシェーンシュテットからタムスブリュックを経由し、
それぞれゾンダースハウゼン方面へ行軍せよ。
ボートマー旅団の「メルテンス」騎砲兵中隊は旅団を離れ出来得る限り速やかに(クネゼベック旅団と共にある)予備騎兵隊に合流せよ。
後方縦列各団隊は輸送車輌をキルヒハイリンゲン(同北北東9キロ)方面へ送り出し、集積後敵に追い付かれたなど止むを得ない場合は敵に渡し人員は撤退せよ。
軍司令官中将 フォン・アレンツシルト (筆者意訳)」
この命令は直ちに(26日午後早く)実行に移され、夕刻までに諸団隊は指定の配置に就いたのでした。
ところが。
この日(26日)、またもや普軍はHv軍の前に姿を現しませんでした。
フリース将軍が語った2時間の猶予、即ち正午にゴータ方面から普軍が北上しても道中16キロ未満、午後5時頃にはランゲンザルツァ郊外に現れるはずで、日没前の午後7時、アレンツシルト将軍は自軍の配置を変更することにし、それは全軍ランゲンザルツァ市街北を流れるウンシュトルト川を渡ってゾンダースハウゼン街道を挟み布陣するという作戦でした。
普軍が有無を言わせず攻撃を匂わせたのに進撃しなかったのは、Hv軍を撃破・壊滅するためではなくゲオルグ5世に揺さ振りを掛け1年間の不戦の「次」にビスマルクが提案した条件に同意させようとの魂胆だった、と墺側の記録に残されています。
実はこの26日の午前、ランゲンザルツァのHv軍本営に白旗を掲げた一人の普軍大佐が現れ、大佐は普軍参謀本部のヴィルヘルム・フォン・デューリング*と名乗り、ゲオルグ5世との面会を望み、「陛下に宛てたビスマルク首相からの親書をお持ちしました」と告げたのです。
この親書でビスマルクはゲオルグ5世に対し「15日付提案(Hv軍の対普軍一年間不戦)の主旨から発展させ普王国とハノーファー王国との間に同盟条約を結べないか」と俄かには信じ難い提案をするのでした。
親書を読んだゲオルグ5世(注・ゲオルグ5世は失明していたためこの手の文書は傍付副官が読み上げ聞かせていたと思われます)は「朕はこのような提案に賛意を示すことはない」と拒絶しました。するとデューリング大佐は「本官はこの流血を防ぐ提案が陛下に受け入れられるとは思いませんでしたが、例え交渉成立の可能性が僅かであっても、この提案を受け入れるよう陛下を説得する義務はあるだろうと考えここに来ておりました」と語ります。ゲオルグ5世は暫らく黙ると、「これは誰の命令ですか?」と尋ねます。デューリング大佐は「国王陛下です」と即答しますが、ゲオルグ5世は鋭く「陛下自身から、ですか?」と重ねて大佐に質しました。するとデューリング大佐は降参とばかりに「ビスマルク閣下です」と答えるのです。ゲオルグ5世は「彼は何を企んでいるのやら」とつぶやくと「何より貴官がビスマルクからの要請を持参していることをヴィルヘルム国王陛下は知っていらっしゃるのだろうか」と言い、最後に「まあ、我々はみな人間であるから」(誤りもあり全ではない、または、欺き嘘を重ねるもの、とでも言いたかったのでしょうか)と言って「命令者に貴官の任務の成果を伝えなさい」と申し添えました。
するとここでデューリングは沈痛な表情を浮かべ白状してしまったと言います。
「陛下。例え陛下がビスマルク閣下の提案を受諾したとしても、既に貴国に何の益をもたらすものではありません。何故なら、我が軍には既に進撃命令が下っておりますから」
デューリング
このゲオルグ5世とデューリング大佐のやりとりは双方の記録や証言が微妙に食い違っており、先に記したのはデューリングが後日報告した内容とハノーファー側の記録を折衷したもので、実際何が語られたのかは闇の中と言えます。果たしてデューリング大佐が誰からこの命令を授けられたのか、大佐の上司モルトケ参謀総長はこれを知っていたのか、または本当に「交渉受諾に益はない」などと吐露したのか否か、これは永遠の謎なのでしょう。
しかし、ハノーファー側にすれば今更連邦や墺を裏切って普と結ぶなど、王国の歴史に泥を塗るようなものであり、到底受け入れられる訳がないことはビスマルクのような男には明らかだったはずで、つまりはデューリング大佐の任務とはHv軍とゲオルグ5世に更なる混迷を与える謀略と断言出来、だからチュートン騎士団からの伝統を代々受け継ぐ誇り高い普軍のエリートを自負していたはずのデューリング大佐が「汚い任務に耐えられず真実を吐露した」、というのは現実味があるのでした。
いずれにせよ、これでゲオルグ5世やアレンツシルト将軍にもHv軍が南方に脱出行を続ける機会は潰えた、とはっきり分かったのです。
ランゲンザルツァ戦場図(1866年6月)
☆ 連邦第7、第8軍団によるハノーファー軍団の救援作戦と普軍の対応
Hv軍がビスマルクの策略や自身の優柔不断によって南方脱出に失敗したころ。
アレンツシルト将軍たちが苦悩するランゲンザルツァ地方からそう遠くない場所・100キロから180キロ南方に十数万の「友軍」がいました。
この連邦第7「バイエルン」軍団と連邦第8「西・南諸侯」軍団が時を掛けずに北上すれば、普ファルケンシュタイン将軍麾下およそ5万の兵もおよそ10万に及ぶ連邦2個軍団とハノーファー軍に挟まれる形となり、攻守逆転の可能性がありました。
この6月中旬、戦争端緒では未だ墺軍と独西・南諸侯軍との連携は無きに等しく、逆にHv軍とは連絡を取り合いその作戦も連邦両軍団本営は知悉していたのです。
従ってHv軍は連邦両軍団の救援を求めることが自然で、連邦両軍団側も何とか北上しようと努めていたのでした。
ハノーファー王ゲオルグ5世は6月19日から21日に掛け連邦第8軍団(以下「諸侯軍」)長のヘッセン=カッセル公子アレクサンダー親王と連邦第7軍団(以下「バイエルン軍」)長のバイエルン王子カール親王の両名にHv軍の窮状を訴え、普軍による追撃と包囲を少しでも緩ませるための進撃を求め、両軍団の存在は当然ながら敵方ファルケンシュタイン将軍も気になるところで、先に諸侯軍やバイエルン軍を叩こうと考える遠因にもなっていました。
確かにアレクサンダー親王もカール親王もHv軍の窮状を救おうと作戦を立てていましたが、その実施については最後まで消極的に推移します。
アレクサンダー親王は22日に至って歩兵1個大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個小隊(2門)の「先遣隊」を用意し、これをギーセン(アイゼナハからは西南西へ123キロ)に送り込みました。バイエルンのカール親王も23日、シュヴァインフルト(フランクフルト・アム・マインからは東へ111キロ)在の師団をフルダに向けて北上行軍を開始させ、更に25日から26日に掛けてフルダに向かった師団を含めたバイエルン軍4個歩兵師団の全てをノイシュタット(・アン・デア・ザーレ。フルダの南東45キロ)、ケーニヒスホーフェン(フルダの南東63キロ)、シュタットラウリンゲン(ケーニヒスホーフェンの南南西14.5キロ)、ミュンナーシュタット(同西南西20キロ)の各地へ進めました。27日にはバイエルン騎兵第1旅団がマイニンゲン(アイゼナハの南46キロ)に入城します。
この24から25日に掛けては、ファルケンシュタイン将軍の本営に「バイエルン軍はフルダを経て北上の模様」との情報が複数到着し、中には「バイエルン軍の前衛は既にヴェラ河畔のヴァッハ(アイゼナハの南西26.5キロ)近郊までに至れり」との報告を挙げる者もいました。しかし、これらは全て誤報だったのです。
しかし、ファルケンシュタイン将軍はこれら連邦軍北上との情報を受けて一刻も無駄には出来ないと決心し、25日午後、遂に「ゴータ、アイゼナハ、クロイツブルク、トレフフルトに在る諸団隊で行軍可能な者は全員、明日26日午前4時を期してHv軍が布陣するランゲンザルツァ方面へ進め。但しカッスル及びゲッティンゲンに在る諸団体は暫らくその地に留まること」との主旨の命令を発するのでした。
ところが、またしてもこの命令が実行されることはありませんでした。これは先述通りアルヴェンスレーベン将軍とゲオルグ5世との間で「26日午前10時まで」休戦の取り決めが成立した、とのベルリンからの急報によって全ての行軍が中断されたからですが、ファルケンシュタイン将軍の下に25日の夜更けになってヴィルヘルム1世の名で参謀本部から情報が届き、これは「Hv軍は本日正午よりミュールハウゼンに向かって北進した」とのことで、ファルケンシュタイン将軍は「アイゼナハにバイエルン軍の動きを偵察・監視するに十分な兵力を置き、残り全軍は直ちにHv軍の後を追うように」命じるのでした。
このため、ファルケンシュタイン将軍は休戦期限の26日午前10時を待たず、26日早朝にゴータ在のフォン・フリース少将に対し重ねてHv軍を追撃するよう厳命し、フォン・シャハトマイヤー少将には現在率いている兵力によってヴェラ川を川下に向かいヴァンフリート方面へ進撃しHv軍を捜索するよう命じます。同時にマントイフェル中将に対しては、ウランゲル少将の部隊をカッセルよりゲッティンゲンへ招致して、別途鉄道を使用してゲッティンゲンに向かう近衛歩兵2個大隊を師団に編入するよう命じました。また、ゲーベン中将に対してはアイゼナハに留まる部隊を指揮して北上しているというバイエルン軍の現在地を探知するよう命じ、バイヤー少将にもバイエルン軍に対抗するためグリューマー少将とゼルヒョー大佐の部隊をヴェラ川上流に向けて進め、26日中にベルカ(現・ヴェラ=ズール=タール。アイゼナハの西南西18キロ)とゲルシュトゥンゲン(ベルカの北3キロ。ヴェラ川対岸)に進むよう命じたのでした。
フリース将軍はこの日命令を受けるや直ちにゴータの麾下緒隊をランゲンザルツァに向けて行軍させ、先行した先鋒はHv軍の行軍列(ド・ヴォー旅団)と遭遇し、先鋒隊はゴータに向けて伝令を送ると距離を取ってにらみ合うのでした。
この報告を受けたフリース将軍は先にHv軍の軍使ルドルフ中佐に「進撃を2時間猶予する」と言った手前、これに対する攻撃命令を出せず、その内にファルケンシュタイン将軍の本営より「Hv軍ミュールハウゼンに向けて北進は誤報」との至急報が届いたため、麾下の進撃をホーホハイム(ゴータの北8.5キロ)までに留めたのでした。
この頃、ファルケンシュタイン将軍もHv軍がランゲンザルツァに留まっているとの報告を受けると、今度はベルリンより聞かされていたデューリング大佐の「工作」の結果を待つとして、命令に大きな変更を加えず、ただフリース将軍には「一時進撃を中止し、前哨のみ敵の様子を確認可能な地点に置くよう」命じます。フリース将軍はこれを受けて夕刻、本隊を後退させこの日はヴァルツァ(ゴータの北5.5キロ)周辺で野営に入りました。
フリース
26日の夜、ファルケンシュタイン将軍はデューリング大佐が「工作」に失敗したとの報告を受け、同時にHv軍が行動を起こし南下する可能性がある、との諜報報告も入りました。これらは先の情勢報告や命令と同じく直接ベルリンから優先電信で送られたもので、この6月下旬、ファルケンシュタイン将軍の本営とベルリンの二つの送信先(参謀本部とビスマルク)との間は数時間でやり取りが可能でした。しかしベルリンの「焦り」からか先述のように誤報が多くファルケンシュタイン将軍たちが右往左往する原因の一つでもあったのです。
この夜も先の情報に続き参謀本部より「情報の出所不明な」命令が届き、「Hv軍はランゲンザルツァから東方へテンシュテット(ランゲンザルツァの東北東14キロ)からゼンマーダー(テンシュテットの東19.5キロ)方面へ逃走しようとしてランゲンザルツァを発したという。貴軍は集中してこれを追撃せよ」とのことでした。
この命令はマントイフェル将軍にも直接伝えられており、将軍の師団(フリース将軍麾下除く)は27日にハイリゲンシュタット(ゲッティンゲンの南東22キロ)、28日にミュールハウゼン(ハイリゲンシュタットの南東29キロ)に進んでHv軍の北方突破・ノルトハウゼンからハルツ山地へ逃走するのを防ごうとしたのです。
この26日夜、フリース少将麾下はゴータ周辺で留まり、ゲーベン将軍はバイエルン軍対策でヴェラ川上流に向かったバイヤー将軍麾下のグリューマー、ゼルヒョー両支隊を一旦指揮下に置いてアイゼナハまで戻るよう命じます。しかしこの状態ではファルケンシュタイン軍は未だ四方に散った状態で、一致してHv軍に攻勢を掛ける状況にありませんでした。
Hv軍もこの夜、先述通りランゲンザルツァ市街を出て北方ウンシュトルト河畔にあり、本営も市街を出てマーックレーベンに置かれ、ゲオルグ5世はタムスブリュックに寝所を置きます。この夜の軍議で翌日のゴータ出撃案も出ますが、ここ数日の緊張で将兵の疲弊が見られたため計画は実施されませんでした。
タムスブリュック(19世紀絵葉書)
明けて27日。Hv軍は緊張を解かず普軍が払暁には現れると信じ待ちますが、普軍は斥候騎兵だけがランゲンザルツァ遥か南に見え隠れするだけで現れません。逆にバイエルン軍がヴァッハまで進んだとの情報(普軍と同じ出所で誤報です)が届き、幕僚たちは「普軍はきっとこのために来襲できないのだろう」と考え、本営ではほっとした空気が漂いました。
ところがこれは大きな間違いで、彼らの危機はもう直ぐそこにあったのです。
27日午前10時。Hv軍陣営では昼餐の用意が始まっていましたが、ここに斥候から「敵ゴータから出撃こちらに向かう」との急報がアレンツシルト将軍に届きました。
既に何度も「オオカミが来た」を聞かされていたHv軍本営でしたが、将軍は迷いなく全軍に戦闘準備を命じたのです。
ゴータからの出撃は今度こそ嘘報や誤認ではありませんでした。
前夜ファルケンシュタイン将軍の本営に届いたベルリンからの「Hv軍東方へ逃走。これを追撃せよ」との命令は直接ゴータにも届いており、ゴータで指揮を執るフリース少将は「休戦や交渉は既に終わった」として翌早朝の出撃を麾下に命じたのです。
この27日朝。ゲーベン将軍はバイエルン軍がヴェラ沿岸を下って来るとの情報からアイゼナハに麾下を集合させて「東に向かって去りつつある」Hv軍の方向とは逆の南向きに布陣し「幻の」バイエルン軍来襲に備えており、マントイフェル将軍はランゲンザルツァ方向に進み始めたとはいえ未だゲッティンゲンからさほど離れていないハノーファー領内にあり、両将軍とも、この日フリース将軍の「ゴータ兵団」を援助出来る状態ではありませんでした。
後日。ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世は回想録の66年ランゲンザルツァの項にこう残します。
「ファルケンシュタインとフリースはこの夜(26日夜)ベルリンの参謀本部から、南方より接近するという連邦軍を顧みることなく至急Hv軍を攻撃し降伏させよ、と命じられたことは明白だった。私(エルンスト2世)は同夜(26日夜)自らアイゼナハに赴きフリースのために援軍を送って貰えまいか、とファルケンシュタインに請うたが、彼は、それは不可能です、と答え援軍を出すことを断った。ファルケンシュタインは翌朝アイゼナハを発ち軍の事務処理のためと称して(本営を構える)カッセルに帰ってしまった」(筆者意訳)
軍服姿のエルンスト2世
エルンスト2世は名目上とは言え、対デンマーク戦でも前線近くで指揮を執っている軍人でもありました。エルンスト公は自国軍がフリース将軍の指揮下で出撃すると聞き「敵より少数と思える兵力での出撃」を心配してファルケンシュタイン将軍の下に駆け付けたのでしょう。しかしファルケンシュタインは「心配には及ばない」とばかりに要請を断るのです。
こうして、援軍を望めない状態で後備兵や他国兵も混在する「寄せ集めの普軍」が、ほぼ1.5倍の兵力を持つ一国の正規軍に向けて進撃することになったのでした。
こぼれ話
カール・グスタフ・アルフレッド・ヴィルヘルム・フォン・デューリング大佐
この普墺戦争当時は46歳と若い大佐で、将来を嘱望されていたエリート士官です。
彼はナポレオン戦争で活躍したハインリヒ・ヴィルヘルム将軍の長男として生まれ、11歳でポツダムの陸軍幼年学校に入学すると14歳で士官候補生学校に進学、17歳で近衛擲弾兵第1連隊の少尉として軍歴をスタートしました。その後砲兵旅団勤務を経て27歳で陸軍大学に入学、ところが直後に48年革命が発生しベルリンで市街戦に参加しました。また、この間に始まった第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争でデューリングはドイツ系住民の軍隊「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン軍」に乞われて中隊長として48年ミススンデの戦いやフレデレシア包囲戦に参加、戦後中尉に昇進しました。その直後陸軍大学に戻って卒業すると軍団本営副官として近衛、第2、第4軍団と転任し41歳で少佐になるとポツダムの戦技学校(クリーグスシューレ。直訳すれば戦争学校)の校長に任命されました。
44歳で中佐に昇進後、64年の戦争・デュッペル堡塁の戦いで活躍、その後参謀本部に引き抜かれロシアに駐在武官として滞在した後に早くも大佐昇進、普墺の関係が悪化すると3月に本部へ戻され、情報担当としてバイエルン王国やハノーファー王国など反普の諸侯対策に奮闘しました。
余談となり、またかなり先走ったことを記します。
彼は普仏戦争時、少将として野戦軍(ライン職)に戻り第9旅団(彼の父もかつてこの旅団長でした)を率いるとスピシュランの戦いで活躍し、続くマルス・ラ・トゥールの戦い緒戦、ヴィオンヴィルを目指すゴルズ高地の戦闘中、最前線で指揮を執っていたデューリング将軍は腹部に銃弾を受け戦死を遂げてしまいます。この戦争で普軍二人目の将官戦死(一人目はフランソワ将軍)となり、上官のスチュルプナーゲル将軍は戦争後半・第二次オルレアンの戦いにおける困難で悲惨な戦闘中、「今、あのデューリングがいたのなら」と彼の不在を嘆いた、と伝わっています。
ヴィルヘルム・フォン・デューリング(1870)




